✝ ローマ 1章17節 2017新改訳
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
私たちプロテスタントが、カトリックからどういういきさつで別れ出てきたのか、そのことを知らなかったとしたら、自分の正体が不明という由々しき問題です。本日は宗教改革を取り上げます。
プロテスタントの誕生、いわゆる宗教改革はルターによって、1517年、ヴィッテンベルク城門に95ヶ条の論題を張り出されたことによって始まりました。ルターは親の希望通り、法律家を目指していましたが、ある日雷に打たれて死にそうになり、現世より永遠の世界に目覚めて修道会に入りました。修道士から司祭になっていく中で、救いについて大きな悩みを持つようになりました。裁き主である神の義の前に、人間の罪深さがどこまでキリストによって赦されるのか、と言う疑問です。
ご存じのとおり、カトリックでは礼拝堂の中に告解室があります。信者は司祭を通して神に罪を告白することよって罪がゆるされるとしていますが、すべてを告解しないと罪が残る訳で、救われて天に行きたい人々にとって、これは重要な課題でした。この罪のゆるしについて、ちょうどこの頃、教皇レオ10世によって贖宥状(免罪符)が販売されました。罪のゆるしを金で買う贖宥状の誤りを、城門に張り出したルターが触れていたため、教皇に逆らう宗教改革が始まったのです。しかしながらルターは、贖宥状自体は主題ではなく、具体的な例でのおまけのようなものでした。
実際はルターが悩んでいた神の二面性についての答えを啓示によって見い出し、その観点からカトリック信仰の内部改革を目指したものでした。神には裁き主、義なる神という面と、十字架で愛し、罪をとりなし赦す神イエス・キリストの両面があります。神を愛すると言っても、恐れが含まれていれば、真に神を愛したとは言えません。この問題はカトリックだけでなくプロテスタントの多くのクリスチャンが、神の義と聖による裁きの恐れを排除できていないと私は見ています。
私の見解ではこの時ルターへの啓示とは聖霊の満たし、聖霊のバプテスマを受けて恐れを解決したと思われます。聖霊が己の内に臨在され住まわれる大いなる出来事によって、完全な義が自らの内に存在されたのです。義と聖は自分がつかみ到達するものではなく、神の一方的なプレゼントによって神の内に見い出され実現するのです。そのことを「福音のうちには神の義が啓示されていて‥‥『義人は信仰によって生きる』」(ロマ1:17)とパウロが言ったのです。
こうしてルターは、罪のゆるしの難問を一気に解決し、カトリック信仰の罪を告解や行いでゆるすという反聖書性を暴いたことが贖宥状批判に結びつき、一気に宗教改革が始まったのです。