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2017年10月 8日 (日)

よりすぐれた賜物

Ⅰコリント 12章31節
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
「あなたがたはよりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」というこの御言葉がメッセージなどで語られた時、みなさんは次のように受け取られる方が多いのではないでしょうか。すなわち、各自それぞれに示されている賜物、預言なら預言、いやしならいやしの賜物を「さらに本格的に与えられますように求めましょう」と。
 
ところが聖書をよく読んでみますと、パウロの意図はそうではないようです。ではどういう意味でしょうか。結論から申せば、よりすぐれた賜物とは「愛」です。預言、奇蹟、いやし、異言、異言の解き明かしと聖霊の賜物を列挙していますが、それらと共に「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と言っているようです。ですから「よりすぐれたもの」が伴わないなら13章1節以降で「もし愛がないなら・・・やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」「・・・何の値うちもありません」「・・・何の役にも立ちません」と繰り返し強調しているのです。
このことをさらにすぐ後の13節で「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」と念を押しています。
 
キリストの再臨以降、私達クリスチャンは眠りから覚めて御霊のからだを与えられ、直接神さまのもとに居ることになります。その時には預言は必要でしょうか。異言も福音が全世界に伝えられており、外国語で話す必要はなくなっているだけでなく、おそらくは私たちは唯一の言語である神の言葉を用いるのです。もちろん御霊のからだは完全ですからいやしは必要ないのです。こうしてみると、神の国まで持って行けるもの、つまり永遠に残るものは「信仰・希望・愛」だということが分かります。その中でも聖書は特に「愛」だと言っています。それはなぜでしょう? 愛とは神さまとの関係性を表しているからです。

こうしてみていきますと、3章12-13節にあるキリストの土台の上に各人が建てる「金、銀、宝石、木、草、わら」の家を思い起こさせられます。聖霊の賜物は神からのプレゼントであって、神の計画されている伝道やリバイバルの為に私たちに預けられているものです。
誤解しないでいただきたいのは、この後14章1節にあるように、聖霊の賜物が重要であり、熱心に求めなければならないのです。なぜならこれから神の御心であるリバイバルをさらに推し進めて行くために、神は聖霊の賜物を用いられるからです。を求める私たちに注ぎ、が絶対にこれはみ心の働きと私たちの同胞への「祈り」と「愛」のものです。では、「愛」とはどのように理解し、受け止めたら良いのでしょうか。

私自身を見て思うのは、私には愛がない、あったとしてもほんとに乏しい者だということです。愛には神のアガペー、人間同士の友愛フィレオー、男女のエロスなどがありますが、聖書ではアガペーの愛を言っております。キリストに神の愛そのものを私たちは見ます。神の聖いひとり子イエスを、被造物で罪深い私たち人間の為に惜しまれず、そのいのちを差し出してくださった愛です。この愛は神から出ているのです(1ヨハネ4:8)。
また愛の諸性質については13:4-6に「寛容」「親切」「人をねたみません」「自慢せず、高慢になりません」などと列記してあります。ここで特に注意したいのは「ねたみ」です。
ねたみとは他人の優れた点に引け目を感じたり、うらやましく思ったりすることです。望んで得られないと分かれば憎んだりもします。同様に人の良い所を見るとひどく落ち込む人がいますが、これもねたみです。みなさん、神の愛は私たちの罪深さをすべて知っておられて、なおかつ愛してくださった無私の愛なのです。Img_8422

私は思います。神の愛のおすそ分けをいただくために必要なものは、「この己のどうしようもない罪深さがわかる」と言うことだと思います。どれほど赦されたかがわかれば、過去自分に対して起こされた心の傷、恨み、怒りなどというものが、逆に自分自身をどれだけ傷つけていたかがわかります。神の愛の大きさがわかり、そのあわれみを請う心が湧き上がります。こうして許しが進展します。神の絶大なご計画に心から賛同し、その一翼を担いたいと心から願うようになり、やがて神の愛を反射できるようになるのです。

神を愛する心が生じなかったら、賜物でいかに大きな働きをしても天への宝を積むことはできないでしょう。ここでパウロはよりすぐれた賜物として何を言いたかったのか、それはわかりますね。そうです、愛です。

2017年10月 1日 (日)

エルサレムの平和を祈る

詩篇 122篇6節
エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。」
本日10月の第1日曜日は「エルサレムの平和を祈る日」と定められており、世界各地のクリスチャンがこの趣旨に賛同し、各個人でまた教会で心を併せて祈っています。もともとこの趣旨はロバート・スターンズ牧師とジャック・ヘイフォード牧師が呼びかけて始まったもので、イスラエルの大贖罪日(ヨム・キップール)の日に合わせてこの日が設定されました。
 
Photo_310月の第1週に、聖書が命じている詩篇122篇6節の「エルサレムの平和のために」祈ることは、まず第1に神さまのご命令です。付け加えるなら、エルとは神または偉大なという意味、サレムとは平和を表し、名前からして平和の街なのです。
第二に世界の大部分を占める一神教の神の聖地であるエルサレムと言うのは超特別な場所であり、この地が平和であることがそのまま世界全体の平和と密接に結びついているという現実があります。第三に聖書の黙示録などによって、今のエルサレムの真上に天のエルサレムが着地するまで、エルサレムに関わっての動きがこれからの世界史の中心であるからです。
 
いろいろな出来事がこれから起こります。しかしどんなことがあっても神の言葉は変わることがありません。究極のところ真の平和の到来とは、ユダヤ人が悔い改め、イエス・キリストがメシアであることを認める時、つまりみ心が成る時成就しますので、神の計画が成就するよう私達が執り成しの祈りを続けることが非常に大切なのです。祈りは神を動かし、計画を成就させる力があるのです。

2017年9月24日 (日)

心の一新によって

ローマ 12章2節
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 この12章の1節、「そういうわけで」とあるのは、前章にある、福音の恵みを本来受けるべきイスラエルの民がかたくなにされ、野生種のような異邦人が接ぎ木されて、すべての人々が十字架の恵みにあずかっていくことを指します。パウロはこの神の計り知れない知恵と計画のことを「神のあわれみのゆえに」と言い、続けて「あなたがたにお願いします」と懇願しています。懇願したように言いながら、最後は命令形で語られていますので、これは並の懇願ではなく、本当に心からの懇願であることが分かります。
 
 パウロの懇願とは何でしょう。この手紙の前半では教理的な信仰義認を述べましたが、後半のここでは信仰そのものを伝えたかったのです。ここで「心の一新」とか「(自分を)生きた供え物としてささげなさい」という言葉があります。大変あらましですが、これは要するに聖霊のバプテスマを受け、御霊に従って歩みなさいと言っているのです。
 
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」【ロマ12:1】の言葉によって、「よし、それではやってやるぞ」と頑張ってもみても、自己愛にたけた私たちの力では実行不可能です。同様に「心の一新によって自分を変えなさい」【ロマ12:2も実際には困難です。これらは神の計画によって自我が砕かれ、罪を心から悔い改めた神の時に実現するものです。ですから聖霊のバプテスマを受けたからと言って、誰も誇ることができません。もし誇ることが許されるなら、それはどんなに自分が神に逆らって罪深い者であったか、それにも関わらず神がどんなにあわれんで愛してくださったかを誇ることになるでしょう。
 
 被造物の最大の罪は<高ぶり>です。最上位の大天使であったサタンがサタンになったのはこのためでした。人間もエデンの園で罪を犯したのは、聞き従わず、自分の肉の判断を優先した高ぶりのためでした。この12章であえて無きが等しい私達を神が選ばれたのは、「誇らせない」ためであり、これが最大の祝福、私たちが天への祝福となりました。
 皆さんもどうぞ振り返っていただきたいと思います。なぜあなたは神を信じようと思ったのでしょう。あなたの優れた知恵と力とで、神が神であることを突き止め、信じたのでしょうか。かえって神が与えてくださった弱さ、力の無さ、その謙遜こそ、私たちにとって神を信じ従うという最大の恵みになったのではないでしょうか。
聖書でパウロは言います。「誇るなら主を誇れ」。 アーメンでしょうか。

2017年9月17日 (日)

感謝の心を持つ人に

コロサイ人への手紙 3章15節
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい

「少女パレアナ」~この文庫本はTV「愛少女ポリアンナ物語」の原作です。作者はエレナ・ポーター、訳者はなんと村岡花子です。精神病で過度の楽天主義、現実逃避の病をポリアンナ症候群と言うのだそうです。これは神を信じず、従って真の感謝をしらない人が、無理に「良いこと見つけ」をしようとしたためなのでしょう。
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なぜパレアナは感謝するのでしょうか、それは父からのプレゼントだったのです。妻を失い、今また父である自分が召されて行こうとした時、牧師の父が娘に託た最大のプレゼント、それが1テサ5:18「すべてのことについて感謝しなさい」であり、このコロサイ3:15の「感謝の心を持つ人になりなさい」だったのです。ですからこれは、この世での最大最上の、とっても大切なものなのです。
 
みなさんは先ほど、何曲も賛美を歌いましたが、私達がよく知っているマーリンさんは感謝と賛美の器でした。賛美は感謝から生まれてくる実の一つです。感謝のない賛美はある意味、生きていて人の心に響くものとはならないでしょう。また本当に感謝を神にするならば、それを隠すことができません。賛美がそうであるように、口から溢れてくるものがあります。神への感謝と喜び、囚われていた自分からの解放、絶大な恵みの数々が、自分の心から湧き上がって来るのです。賛美となってそれが口から溢れてくるのに時間はかかりません。もはや何も秘密はなく、蓋をしておくことができないのです。
 
そこで一つ押し奨めがあります。それはお一人おひとりが、自分の人生におけるこれまでの、悪かったこと、奥底にしまい込んで忘れていた過去、特に幼かった頃のつらい経験、理不尽だと思えたこと、傷ついたこと、許せなかったこと、恨んだこと・・・・そのすべてをありありと思い出し、許すこと、感謝することです。勿論これは、単に功利的な心でするのではなく、祈り、心から神に願った上で導かれたやっていただきたいのです。これは、お気づきにならなかったでしょうが、皆さんがいつまでもサタンの鉤に引っかけられてしまう原因なのです。放っておけば獅子身中の虫、自分自身をダメにするものなのです。どうか自分自身を神に取り扱っていただきたいと思います。

2017年9月10日 (日)

感謝!

1テサニケ 5章18節
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
 感謝するということは、マーリンさんのこの群れでよく語られることです。よく地方で秋元牧師の移動にあたって、なぜかスピード違反で牧師が捕まりますが、この災いにも「か、かか、感謝しまーす」と告白するわけです。私達は悪い時にも感謝するように教えられています。
 直近の例で、私は横浜にかけての湾岸高速のスピード違反で捕まりました。これまででしたら苦虫を噛みつぶしたような感謝で終わるのですが、なぜか瞬間的に心からの「感謝」が湧きました。捕まって当然だと思いましたし、「ああ、これで事故を起こさなくて済んだ」と心から感謝してパトカーに乗り込みますと、おまわりさんが切符を切りながら「制限速度100kmでの20km違反にします」と言うではありませんか。「あれぇ」と思いました。なぜならパトカーから見える標識は80kmの標識でしたから。計測された所が境目だったかとも思いましたが、20キロ違反か40キロ違反かでは、裁判所行き赤切符になるかならならないかの天地の違いがあります。悔い改め、心からの感謝したので、それがおまわりさんたちの心証を良くし、微妙な判定にあたって実際的にも益にされたのだと私は思いました。感謝の思わぬ恵みです。
 
 今回のスロバキア・ウクライナ派遣で非常に語られたことは、この感謝です。感謝は感謝でも、悪いことを苦い胆汁を出しながら「感謝します」ではなく、本当に心から喜び感謝する感謝です。感謝の実質が問われている意味もあります。
 今回の派遣は新天新地に行きますので、霊の戦いがメインになると思いましたが、実際には集会奉仕と路上賛美という宣教がメインでした。キリスト教国ということもあってか、霊の戦いは一度たりとも行われなかったのです。これには神さまの素晴らしい計画があると感謝しました。
 
 さて短期宣教では各々に与えられた任務を全うするのが重要になります。私は聖会配信とブログ係、用心棒という三つの任務が与えられましたが、自主聖会がなくなり、配信は不要になりました。しかし実際に現地ではもう一つの重要な任務、秋元牧師の鞄持ちと椅子係が必要だったことです。参加メンバーが決まった時からこのことを覚悟していましたが、やるからには秀吉が信長の草履取りをしたように、徹底して感謝して仕えようと思いました。それでまさに移動に際しては、秋元牧師の手放せないリュックのように、いつも私が身近に控えている六日間になりました。
 
 実はこのことが非常に恵みになりました。もし私が荷物持ちを卑下して、俺はリュックじゃないぞ、と呟きながらしていたら、真逆の結果になっていたと思いました。実は派遣の当初はサブリーダーの体が「大丈夫だろうか?」と心配されましたが、使命を果たして行くに連れ、神さまから健康と力を与えられて行っているように見受けられました。
 またウクライナとの国境にあたっては、祈りが聞かれて、極めて短時間に通過することができました。訪れた先々の教会では、相手方の警戒がドアのように次々と開かれ解かれ、場所と時間が100%私たちに提供されていく、数々の主の手を見たのです。
 これらはごく身近に居たことで、単なる一部始終の目撃で終わらず、私の荷物の持ち主が自分の体のことを考えず、どんなに神さまに忠実で、かつ謙遜な人であるかが肌で分かる恵みに与ったのでした。みなさん、心からの感謝は素晴らしい恵みがその先にあるのです。

2017年9月 3日 (日)

目からうろこが落ちる

使徒 22章10節
私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる』と言われました。
本日の聖書箇所は使徒の22章ですが、ここでパウロはエルサレムの人々に最後の語りかけをしています。
改めてここを見てみますと、いくつか気づくことがあります。全体としてはこの「目から鱗が落ちる」とはアナニヤが手を置いて神からの言葉を祈った通り、聖霊に満たされること、それは真実を隠していたものが取り去られ、正しく見えるようになるということを「鱗が落ちる」と言い表しているのです。
そうです、世の霊に囚われいる間は、正しく見えているようでいて実は見えていないのです。それはあたかも、目に鱗がある状態なのです。それが聖霊のバプテスマという、神の霊に満たされるなら、それまでの自分が目に鱗状態だったことを思い知るようになるのです。
また同時にアナニヤが「あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる」とあるように、自分のいのちがどういう目的で生まれたのか、何の為にこのような人生を歩まされたのか、理解するだけでなく、はっきりと今後の目的意識を持つことになります。神にはすべてのことに目的があり、狂いなくそれは進むのです。
 
ですからみなさん、聖霊のバプテスマは信仰生活の基礎基本です。人は自分で自分を生んだのではありませんし、たとえ親であっても、どのような子にしようと、計画して造れるわけではありません。ただ子が与えられたのです。まして、神によって神を信じ、神の子とされた私達には、私達が容易には知り得ない神の計画があり、目的と使命があるのです。それを知り得るのはただ神だけであり、神に聞くしか方法はありません。聖霊と交わり、聖霊さまを通してでなければどうして人は自分への計画や使命を知り得ましょうか。
 
みなさん、生きている間に鱗、つまり自分が見ていること、自分が人生の決定権を持つ鱗を取り除かれ、正しい神の目で見る必要があります。パウロも神を熱心に信じる者でしたが鱗が取れるまでは、イエスの名に強硬に反対すべきだと(自分で)考え、実行し、外国に聞こえるほどクリスチャン迫害し殺害に加担しました。そればかりか捕らえた者に、神を汚すことまで言わせようとしたのです(使徒26:6~)。自我という鱗が取れるまでは、人は自分が良い、正しいと思うことをしますが、それはえてして恐ろしい間違いをすることが多いのです。一度しかない人生をそのように使ったとしたら、取り返しがつきません。
私はクリスチャンの試練困難は、パウロほど劇的ではないかも知れませんが、これは「目から鱗が取れる」過程だと思います。つらく、二度と嫌だと思われたとしても、これはその人が神に愛されているしるしなのであり、祝福なのです。またですからどんな試練困難であろうとも、徹底して感謝いたしましょう。神は次のように私達に求めておられます。
      
テサ5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

2017年8月27日 (日)

神に不可能は無い

マタイ 19章16節
すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

 マタイ19、マルコ10、ルカ18の各章で扱われています。この富める役人でもある若者は、イエス様が来られるのを走り寄って「尊い先生、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたら良いでしょうか?」と尋ねています。今の私たちには、行いによって永遠のいのちを得ようとすること自体が方向違いであることを知っていますが、パリサイ派中心の当時では、これは当然の発想でした。しかし彼は律法を単に守るだけでは「永遠のいのち」を得られない、そんな感覚を持っていたと思われます。当時の律法中心の時代にあって、イエス様の権威がわかる数少ない正しい人でもありました。
 
 この人はマルコによればイエス様から「慈しまれ」た人物であり、ルカによれば律法を忠実に守っている風であっても、行いに疑問符のつく人として描かれています。この両福音書ともあなたには「まだ一つだけ欠けたこと」があると、ズバッと指摘されていますが、マタイでは「完全になりたいのなら」と道を諭すようにして答えられています。
 
 イエス様は彼がこの世の富に心を奪われていることを知っておられたので、すべての財産を売り払って貧しい人に施し、それから自分に従って来なさい」と言われました。人は神と世の両方に仕えることができません。彼にはこの問題があることがイエス様にはお見通しだったのです。ですから「律法をすべて守っています」と言いながら、財産を施して「隣人を自分のように愛せよ」の戒めは十分に守れていなかったのです。
 
 この人は結局富を捨てる事ができないので、悲しみながら去って行きました。人は完全にはなれず、罪が残るのです。ですから罪ある者が永遠のいのちを得ることは、「ラクダが針の穴を通る」ほど困難でした。この不可能を、イエス様が十字架によって解決されたのです。人にはできないことでしたが、神が可能にしてくださったのです。
 
 私たち罪人は十字架を信じることで、全くこれまで一度も罪を犯したことがないかのごとく一切赦され、それで聖霊さまが住まうことが可能となりました。この聖霊なる神の力よって、私たちは不可能だった神に聞き従う人生が可能となったのです。これは奇蹟中の奇蹟、なんという恵みでありましょうか。
 「自分の十字架を負い、わたしについて来なさい」とは恵みの道です。人間の力では不可能だった「神に従う」道が、行いではなく神の力、十字架によって開かれたのです。自分の力では到底得ることのできなかった「永遠のいのち」を私達は得ることができるようになったのです。

2017年8月20日 (日)

父の愛

ルカ 15章24節
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
(死んでいたのに生き返り~放蕩息子の話)
 放蕩した弟息子の方が、兄よりはまだ見どころがある人間だったと私は思います。弟を「あなたの息子」と突き放して言い、「遊女に溺れて」と放蕩を具体的に指摘したのは、本当は自分も人一倍したかったことに違いない人間であったことを思わせます。兄には弟のように真の自分に気づき、悔い改めて立ち返る機会が遠いことでしょう。
 
父は自分の身代を食い潰すことがわかっていも、何も言わずに弟息子の要求通りに生前贈与を呑みました。さぞ苦いものだったと思いますが、そうすることしかできなかったのです。真の愛は束縛したり、まして支配するものではありません。それはサタンのすることです。父は悲しみながら離れ、去って行くことを受け入れました。私たち人間社会に起こる様々な問題、争いとか戦争、不幸はすべてこの視点から見ていく必要があると私は思われるのです。
 
弟息子は結局、相続をすべてお金に換え、遠くの異国の地で、おそらくは短期間に財産を使い果たします。遊女へはもちろんですが、この人なら恩義を感じてくれるだろうという人からも、忌み嫌われる「豚の世話人」をあてがわれるような薄情さでした。そして飢えに苦しんで豚の餌をも食べたいと思うほどの苦しみの最中、「我にかえった」のです。それはいかなる我でしょうか?大勢のしもべを従えた財産家の子息としてプライドがあったはずの弟息子でしたが、父の雇い人の一人になることを願って帰ることの決断でした。英語のKJVでは雇い人を「hired servant」とあります。これは日雇い奴隷のことです。家の奴隷は家族の内であり、食いっぱぐれることはありません。しかし日雇いはその保障はなく、最も惨めな最下層の労働者です。かつて主人であった弟息子が、それを覚悟して帰郷するということは、恥も外聞も捨て、一切のプライドを捨てて帰ると言うことです。最下層の奴隷の一人として、過去の栄光をうち捨てて、父のあわれみにすがるためでした。一言で言うと、「あわれまれるべき自分」でした。神の元に帰る私たちとは、あわれまれなければならない、惨めな我を知ることに尽きます。世的な自我が死んで、私たちは初めて自分の真の姿に気づくのです。
 
この弟息子を父は毎日毎日地境まででかけては、「まだかまだか」と案じつつ帰還を待っておりました。そして帰ってくることを信じて、指輪や良い服、履き物まで用意させておきました。そして誰よりも真っ先に見つけ、駆け寄り、ユダヤ人にとって最も忌むべき豚の臭いふんぷんの乞食姿の息子を抱き寄せ、接吻しました。それはまさに、狂ったように喜んだのです。弟息子が悔い改めの言葉を聞くか聞かないかの内に、父は指輪をはめさせて息子としての権利を与え、服を着させ、自由人としての履き物をはかせました。これが父の愛、私たちの天のお父様の真の姿です。なぜなら死んでいた息子が生き返ったのだから。
 
それで今、この世では生きていますが、神に愛されているのにその愛を受け入れていないという、死んでいるみなさん、この天の父の元に帰ろうではありませんか。神は愛です。この父の愛を受け入れ、立ち返りましょう。

2017年8月13日 (日)

永遠のいのちと御霊のからだ

ヨハネ 3章15-16節
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
「永遠のいのち」は「御霊のからだ」とセットです。この御霊のからだは神が与えてくださる最良の体です。幽霊のようなものではなく、実体をともなったからだです。イエス様が疑うトマスに自らの傷穴に指を入れてみなさいとか、弟子たちと一緒に食事をされたことから、実のあるからだであることは明らかです。私は永遠に年を取らず、行動が自由なこの御霊のからだになることを心待ちにしています。
 
 さて、私たち人間を愛される神はこの永遠のいのちを与えるために、イエス・キリストを世に送られました。本日の聖書のみ言葉通り、十字架において贖いのわざは完了し、成就しました。今は信じる者すべてに永遠のいのちが与えられる恵みの時代です。
 ただ、注意しなければならないものがあります。それはイエス様も常に注意されていた律法的な対応です。つまり、世では当たり前の「得るために自分の力で頑張ること」です。これでは自分の力で得たものになり、どんなに信仰的な言葉や行いをしたとしても、神とは関わりない、永遠のいのちとはほど遠いものです。ただし世的なやり方にどっぷりと漬かっている本人には、なかなかそれに気づくことが難しいのです。キーワードは「自分に死んでいるか」です。
 
 一例を富める若人に見てみましょう。イエスさまのところに訪ねて来たある若く富める役人がいました。この若人の問いは「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして得る」ことができるかでした。彼はそのために律法を忠実に守って来たのですが、形骸化している律法では、それが難しいと直感していたようです。
 
 イエス様は彼に対しては「完全になりたいなら」世の富を捨て、イエスに従う道を教えられました。若人は悲しみながら、イエスの前を去って行きました。彼は永遠のいのちより、世の富の方を選んだのです。当時裕福な者は神に祝福されている者として見られていた上、律法をきちんと守っていた人が行けないなんて・・・・それでは誰が神の国へ行けるののだろうか・・と皆思いました。
 
 するとイエス様は、「ラクダが針の穴を通る」ほど、人間の力では絶対的に不可能なことであっても「神にはできる」と語られたのです。それは十字架によって開かれた神の力に依り頼む道でした。十字架によって罪を赦すという、神の愛の力と恵みを受けることでした。その前には、律法的な個人はすでに死んでいるのです。自分に死んで十字架の神の愛と恵みによって新たに生きる、これが永遠のいのちなのです。
 

2017年8月 6日 (日)

父なる神の愛

ルカ 15章21節
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

人によっては、神は高い所から見下ろし、罪人の私たちを裁かれる恐い存在と思っている方もいますが、神の本質は愛です。意外にも神さまを理解するポイントは「支配」だと私は思います。
 
サタンの狙いは神が愛されている人間を一人でも多く支配し、自分が行かなければならないゲヘナ(永遠の地獄)へ道連れにすることです。彼らは神の計画を妨害する存在ですので、特にクリスチャンをゲットすることは大戦果です。ですから特に注意が必要です。
 
右図を参考にしてください。S
サタンは神のもの、つまり信じる者を奪おうとしますが、それに対し神は穏やかで慎み深く、私たちにズカズカと入られたりはしません。サタンは恐れや不安で人に侵入し、支配しようとします。ただ神がそれを許されるのは、私たちが真に悔い改めて、心から父のものになりたいと自由意志で願うことです。真に私たちを得たいと忍耐して待っておられるのです。
 
ルカ伝15章の放蕩息子の話は、この神の愛がよくわかるよう書いてあります。生前贈与など良からぬ意図を持って願う弟息子に、通常はあり得ないことですが、天の父は許されます。結局、放蕩の限りを尽くし、ユダヤ人にとって死にも値する豚の世話をし、その餌さえも食おうとするまで堕ちた息子が、ハッと我に返ったのです。「もう父の子でなくていい(それほど自分は父を裏切った)。これほどの恥辱は無いが、それでもただの使用人としてでも父の所に帰ろう」。この瞬間、父は愛する息子を真に得ることができたのです。人は自分のみじめさを知らなければ、真に悔い改めることができないと私は思います。すべてはそのために、あえて放蕩を父は許されるのです。
 
しかしまた父は、「早く帰ってこい」と地境をいつも見回ていたほど心を痛め、待ち続けていた存在でもありました。それだけで無く、息子が帰ってくることを固く信じ、指輪、長服などすべて用意していました。神は全能であり全知ですが、私たち子を、人間をはるかに超える愛で愛してくださっているのです。このお方を私たちは愛するのです。また同時にサタンをはるかに超える力ある神にあっては、たとえ放蕩を許されても、神の許しなしにサタンは私たちに手出しができません。絶対的な護りが、私たち子にあることを覚えておきましょう。

2017年7月30日 (日)

永遠のいのち

ヨハネ 6章39~40節
 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。


 十字架の神を信じるとは、永遠のいのちが与えられることです。と言うことは<天国人>であり、寄留者としてこの世を生きる選択をしたことになります。それは当然この世から理解できない、異質な者として排斥や迫害を甘んじて受けることでもあります。
 神を信じる者には、血肉の体が世にある限り、戦いが許されます。「風邪なのに便秘の薬を飲んでも治らない」ように、霊的な病には霊的な対応をしなければ治るはずがありません。体や精神の病に対して、その原因が霊的なものであれば、霊的な対応をしなければ治らないのです。もちろんその場合でもあくまで医師や医学の治療にも従い続けておく必要があるのですが。
 
 さて、神のみ心は神がすでに勝利を取っておられるように、私たちも勝利を取ることです。ではその勝利を得るためにはどうすれば良いのでしょうか。もちろんそれは自分の力で推し進めてはなりません。まず第一にサタンの惑わしを見破り、天国人として対応しましょう。彼らサタンはこの世、見える世界、つまり物質世界がすべてのように見せようとしますが、実はその背後に見えない霊的な世界、永遠の広大な世界があるのです(右図)。この見える世界は人のために神が造られた世界であって、目的を達成すれば不要になる滅びの世界です。私たちは天国人として、この見える世界、それも神の許しなしには何もできないサタンの支配を見破って行く必要があります。
 
 次に信仰の大楯の上にイエスさまですら〔四十日四十夜の後の試練の後〕サタンに対してすべてみ言葉で戦われたように、人が神の言葉という剣を用いなければ勝てるはずがありません。あらかじめ神の言葉をいくつか用意し、すぐさま取り出せるよう訓練しておかなければなりません。
 
 最後に私たちには必ずと言っていいほど試練・困難があります。試練・困難はヨブに見るように、すべて神の許しなしにはあり得ません。と言うことは、試練・困難のように見えて、実は次のような目的があるからです。私たちを立て上げて、神の証しの器、み心を行う忠実なしもべになるため、天での祝福を受けさせるためです。ですから試練・困難が来たなら次の御言葉に立ちましょう。第一に私たちが耐えられないような試練は無い(1コリ10:13)のです。次に試練・困難をこの上ない恵みとして喜ぶ(ヤコブ1:2、1ペテ4:12-14)信仰に立つことを神は期待しておられます。最後にフィラデルフィア教会のように、与えられた神の言葉を守る者には、携挙を含め地上においては神の守りがあり、寄留者として、天国人としての自覚を持って歩むようにしましょう。

2017年7月23日 (日)

三位一体の神

Ⅰヨハネ 14章16節
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
キリスト教の神は三位一体の神です。私たちの群れでは「父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は唯一であり神である」と定義しますが、 それぞれ名称を持ち独立した存在である神が、唯一の存在であるとは、それ自体が一見して矛盾に満ちた定義に見えPhotoます。けれどもこれは、だれも自分の持っている小さなコップに太平洋の海を入れられるとは思わないようなもので、人に過ぎない存在が神を全部は理解できるはずもない。
 
 とは言っても、神ご自身が聖書で三位一体についてかなりの説明をしてくださっている。旧約聖書では創世3:23で「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして」とあるように、何カ所かで神自身のことを複数形で語られています。さらに新約ではイエス自身がヨハネ14章で以下のように述べておられます。
ヨハネ14:9「わたしを見た者は、父を見たのです。」 ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
これらの御言葉やイエスの洗礼時の様子や、諸手紙におけるベネディクションからも、三位一体の教理は真理であることがわかる。
 
 ところでなぜ神が三位一体という、人間にとって難解な存在なのだろうか?これに当然推測の域を出ないが、本日の聖書「神は愛である」点から、愛と交わりのためだと見ることができる。ヨハネ3:16によれば、神は永遠のいのちを信じる者のために与えようとイエス・キリストを十字架にお架けになった。それは十字架によって信じる者の罪を赦し罪なき者とされ、かつてエデンの園の時のように、聖であるご自分との交わりを回復させられた。仕上げは聖霊である。神は聖霊を人の中に住まわせることによって、かつてエデンで途絶えた交わりを完全に回復させられたと言えるのではないだろうか。イエス・キリスト以降は、聖霊の宮が信じる者の中にあり、神の国が成就している恵みの年である。
 
 三位一体の神は、人への愛とその愛を具現化する交わりの神であることを心から感謝しよう。この交わりのうちに私たち人も、知れば知るほど神を愛し、なんとしても神のみ心を行いたいと心から願い、献身する者へと変えられていく。神を愛さない献身はあり得ないのです。

2017年7月16日 (日)

サタンに勝つ

Ⅱコリント 10章 3-4節
  私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

 神が造られたこの世界には霊的な存在が三つある(右図)。神は天使以上に人間を愛された。そこで美の極み、知恵に満ちた存在であったサタンPhoto (エゼキ28章)が、人間に嫉妬して堕落したと言う説がある。確かなことはサタンが神の座に着こうとして(イザヤ14章)天から追放されたのである。従ってサタンは多くの堕天使を率い、何としてでも神を妨害する存在でもある。
 
 神の計画はご自分を信じ、従う人を通して為されて行くので、戦いは特にクリスチャンをめぐって激しいものとなる。ただしこの戦いは最初から勝敗が定まっている。神の勝利である。だからいわゆる<歩留まり>をめぐる戦いでもある。
 
 さて神>サタン>人という力の順があるので、人はサタンに対抗しても勝てない。それゆえ人が勝つためには神の力に依拠するしかない。信じる信仰が勝敗を分ける。対して巧妙に自分を隠し存在を偽るのがサタンの得意技なので、なんと神を信じるクリスチャンですらサタンの存在は認めない人が多い。戦う相手が分からなくては勝てないのが自明だ。
 
 多くの人はこの世の見方を自分に当てはめ、劣等感を抱かされている。精神を病んでいる人に多いのは、修正できないほど自己像がズレていることが多い。これは世を支配し偽らせるサタンにだまされているわけで、神に造られたありのままの自己像に立ち返ることで癒やされるだろう。神はすべての人を愛し、傑作として世に送り出してくださっている。偽りの自己像から解放されるためには、神を信じ、その愛に自分を捧げ、サタンから手出しができない断固とした神の領分に自分を置かなければならない。
 
 精神の病の人だけではない。クリスチャンは常にサタンとの戦いの最前線に置かれている。神の器であればあるほどそうだ。したがって精神の病の人にはみ心があって、サタンとの激しいぶんどり合戦の最中にあると言える。神の言葉と祈りによって神に己を捧げ依り頼むならば、その信仰によって必ず勝利する。この血肉の命が世にある限り私たちは戦いの最前線におり、安息できるのは天の故郷に帰った時ではないだろうか。

2017年7月 9日 (日)

忍耐による勝利

へブル 10章35-39節
あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
 
私たちの教会は日本のリバイバルに召された教会です。首都の日の昇る方、東から立って行く使命を負っています。このことははっきりと神から示されています。ところが多少出入りはありましたが、相変わらず何年も現状に変化がありません。
先週、この現状に関して、御言葉を求め御言葉に立つように気づかされましたので、早速祈り求めました。本日は与えられました御言葉をみなさんと共に受け取って行きたいと思います。
 
聖書箇所はへブル10:35-39、中心が36節で、そこには「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」とあります。神のみこころとはリバイバルの召しと使命です。その約束は「忍耐」によって手に入れられる、つまり、成就すると示されました。Endure
「忍耐」という言葉に、日本人はあまり良いイメージがありません。「石の上にも三年」とか「むぅぅーうっ」と我慢するサウナ風呂のイメージですよね。だるまさんてみなさん知っておられるでしょうが、座禅を9年も組んだため、両手足が壊死して無くなったからなんだそうです。
 
しかし聖書で言う忍耐とはそのような意味ではありません。聖書的な意味では日本語的な意味でのただ耐えるという意味ではないのです。絵を見てください。教会とクリスチャンにとっては困難がつきものですが、これにはこの先に明確な神の勝利の計画があるのです。ですから、ただ我慢し耐えるという現状維持が忍耐の意味ではなく、忍耐すること自体が、定められた神の時に向かって一歩一歩、成就へ、勝利へと近づき前進していることなのです。ですから私たちの忍耐とは、神の時が成就するための神の戦いなのです。
 
この点から前後の御言葉・・・・「確信を投げ捨ててはなりません(35節)」 「おそくなることはない(ハバクク2:4からの引用)」「恐れ退いて滅びるな(38-39)」と私たちを励ましています。私たちの今の忍耐は勝利へと向かう信仰の戦いととらえた時、現状から諦めたり、与えられた神の約束を疑って途中下車したり、退いてはならないのです。この御言葉に立って、教会は忍耐によって神の約束の成就、リバイバルを見るのです。

2017年7月 2日 (日)

心を刺し貫く剣

ルカ 2章34-35節
また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
 
 マリヤは親類のエリサベツの家で「マリヤ賛歌」(ルカ1:51-54)と呼ばれる預言を残しています。これは「受難のキリスト」の予告とも受け取れます。そしてイエスを捧げに宮に詣でた時に、シメオンが受難のキリストである確認を語り告げました(ルカ2:34-35)。
 
我が子がメシヤと語られることに驚いた母マリヤですが、おそらく「剣があなたの心さえも刺し貫く」と語られた言葉が一番心に残ったことでしょう。後には成就しましたが、多くの人々の心を明らかにするための神のみこころはこの時点では理解困難でした。
「反対を受ける」という言葉ですが、KJVでは「spoken against」であり、「語られた宣教に逆らわれて」という意味です。本日はこの神のみこころに焦点を当てます。
 
人が福音を聞いたならば、二者択一しかありません。受け入れるか、さもなくば受け入れないで拒むか、です。その分かれ目のポイントは「世に希望があるか」「正しい自己像で自分を見ているか」です。
 
福音を拒む人とは、この世に希望があるからではないでしょうか。地位や権力のある人。能力があって成功した人。名家の生まれや財産のある人。こうした世に宝のある人たちにとっては、容易にこの宝を捨てる事ができません。またもう一つ、「救われねばならない罪」を認識している必要があります。これは暗く否定的なことのようですが、十字架によって一転し、罪からの解放と祝福を得る基となります。聖書はすべての人が罪を犯しており、義人は一人もいないと言っています。ですから罪が無いと思っている人は自己像が正しくないのです。問題は救いと世の富とが相反することです。富める若人のように、どんなに救いを求めていても、世を選ぶなら救われないのです。
 
逆に貧しい人、権力の無い人。能力の無い人、虐げられている人・・・・こうした人たちは福音を受け入れる人たちです。この世にたいした希望がないからです。「心の貧しい者は幸いです。天国は彼らのものです」と言われているわけです。しかしどんなに神の国に近くても、自分の内にある罪が分からなければ救われません。
反対を受けるしるし、とは世を選ぶ人、罪を認めない人たちから福音を語れば迫害されることです。我が子の処刑に立ち会ったマリヤは心を刺し通されますが、三日後、復活の我が子を見ました。同じように私たちは福音を信じ、救われて世と肉の命に勝る永遠のいのちを与えられました。このことを喜びましょう。迫害されても私たちからこれを奪うことはできないのです。

2017年6月25日 (日)

信仰Ⅱ

マルコ10章27節
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
 
 イエス様は、この世で富んでいる人が神の国に入ることは、「ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい(マルコ10:25)」ことだと慨嘆されました。持てる者は世の富を誇ったり頼ったりします。しかし持たざる者は神に頼るしかない、そのことがかえって益にされ、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから(マタイ5:3)」と語られたのです。 
 
 しかし富んでいようと貧しかろうと、ただそれだけで神に国に入れるわけではありません。たとえ全財産を捧げても、それと引き換えに天国に行ける保証はありません。人には罪が有り、不可能なことであっても、「神にはできる」と可能にしてくださったのがイエス様の十字架でした。自分が神の国にふさわしくない罪人であること、自分の身代わりとなり、罪を贖ってくださったのが十字架のイエス様であることとを信じ、告白しなければなりません。これは行い拠るのではなく、いのちを捧げてくださった神の愛への応答として、自分の霊・たましいなど一切を捧げることを意味します。
 
旧約時代においては律法を守るという行い中心でしたが、十字架以降の新約時代には広範な質的変換が神との関係においてなされました。神を自分より愛する者は、自分の存在そのもの、いのちをも世にまさって優先し捧げるからです。殉教とはこの具体的な結果であり、それゆえ神から称賛を受け、千年王国では王となるのPhoto_2です。
 
 信仰とは、まず自分が神の国に行けない罪深い者であることを知った人でなければならず、その絶望の底から十字架を信じて希望を見、 その希望が確信へと変わって、絶えず喜ぶ者へと変えられたことでした。これは人間を180度転回させます。
神を信じる者に十字架と救いの疑いはありません。なぜなら信仰は「神に不可能はない」ことを知らせ、祈りの体験によって、まだ見ぬことに信頼を置くからです。なぜそれができるのでしょう。罪が十字架によって赦された者には、聖霊を通して神と交わった確かな体験をしているからです。
千のことばよりも確かな確信が、信じる者にはあるのです。神にはどんなことでもできるのです。

2017年6月18日 (日)

信仰

マルコ 4章40節 
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
                                                               
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうし 嵐のこの記事に、以前から二点ほど疑問に思っていました。第一に嵐で大揺れの小舟の中、水浸しで今にも沈みそうな状況で、どうしてイエス様は眠り続けていることができたのでしょうか?私はあり得ないと思っていました。しかしイスラエルで何度か行ったノフ・ギノサールにあるイエス様時代の舟の博物館で、去年その展示横にある小さな模型を見て疑問はとけました。模型では艫(とも)と舳先(へさき)に広めの板が張ってあり、イエス様は艫で寝ておられたのです。通常舳先を風先に向けますから、逆に艫は最も安定した所になります。しかもここなら濡れません。
 
 次に、イエス様はどうして弟子たちを叱られたのでしょう。ガリラヤ湖の漁師であったペテロ達が危険を覚える状況でした。寝ておられた師に助けをShip求めて起こしたからと言って、それがどうして叱られなければならないのでしょうか? ちょっと納得ができません。
 しかしこれも当然のことでした。なぜならイエス様は弟子達の信仰を責められたのです。これまで弟子達はイエス様に付き従って、大いなるわざを見てきました。イエス様がただの人間ではないことを一番よく知っていたはずです。ですから何とかしてもらおうとイエス様を起こしたのですが、しかしその前にもっと大切な<信仰の目で起きている現実を見る>ということに気づくべきでした。
 
 似たような話が2列王6章にあります。ある朝エリシャのしもべが起きて外へ出た際、自分たちをアラムの軍が取り囲んでいるのを発見します。あわててエリシャを呼ぶと、エリシャは逆にしもべの目が開くよう神に祈って、神の軍勢がエリシャ達を取り巻いて山に満ちているのを見せました。目に見える事象だけで判断すると誤るのです。神を信じる者は、まず信仰の目で見なければならないのです。私たちの感謝も同じ道理です。
 
 みなさんお一人お一人が、今現在許されているどうにもならない現実や病、困難を信仰の目で見て立っておられるでしょうか? そうするかしないかが、天に宝を積む聞き従いと感謝に、大きな違いを生むのです。二つの疑問の解き証しを通し、いかに聖書が信じるに足りる正確で正しいものか、また私たちが信仰に立つことの重要さを語らせていただきました。

2017年6月11日 (日)

前兆

マタイ 24章3節
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
 
 使徒時代から「すぐに来る」と言われた世の終わりは、すでに1900年以上経ってもまだ来ていません。しかし非常に近づいているとも感じさせられてもいます。聖書から終末を正しく学んで、いつ来ても良いように準備しましょう。
 
 聖書のどこを読めば良いのでしょうか。主として旧約のエゼキエル書、特にダニエル書です。新約ではマタイ24章と黙示録です。これらは互いに結びついて、全体としては一つの終末像が明らかにされています。
 まず、抑えておかなければならないことに、こと聖書の時間に関しては文字通りではありません。1日が1年(民数13:34)とされるなど、ちゃんと数字の計算は合っているのですが、時間設定に注意が要ります。
 
 さてダニエル書7章の夢は登場する四つの獣が、それぞれ以下のように対応されます。獅子=バビロン、くま=ペルシャ、ヒョウ=ギリシャ、鉄のきばと十本の角を持った恐ろしい獣=ローマ帝国です。ここで重要なことは最後のローマ帝国です。このローマが未完の表現になっていることが要注意です。この間、イスラエルという国が最後の獣ローマによってAD70年に滅亡し、つい最近1948年に奇跡的な再建がなるまでの空白が反映されていると想像されます。つまりエゼキエルの預言通り、国の再興(イスラエル建国1948年)が成って、再びローマによって預言成就の針が回り始めるわけです。鉄のきばと十本の角を持った古代ローマの後釜が、終末の時代に登場するとすれば、それはほぼ同じ場所に現れたEUが該当します。
 
 こうして見てくると終末はダニエル7章から、現在27ヵ国のEUにおいて、うち十ヵ国がイニシアティブを取るようになり、その中から反キリスト(ダニエル9章)が登場すると読み取れます。この反キリストは自分の国だけでなく、他の三カ国まで取り込み、アメリカがどうがんばってもできなかった中東和平条約も締結させます。その結果、イスラエルはエレミヤ49章にある平和を享受することになりますが、これが世界の終わり、患難時代の幕開けとなります。
 こうしてみると、中東和平条約やエルサレムの神殿の丘に第3神殿ができる(黙示11:2)までは、患難時代は始まらないことになります。それまでは「戦争や戦争のうわさ」「国々の敵対」「方々にききんと地震が起こった」(マタイ24章)としても、あわてては行けません。それらは産みの苦しみなのです。
 
  私たちはこの聖書の預言に従って時を見分けるのです。しかし信仰の基本は不変です。聖霊のバプテスマを受け、神との深い交わりの中からみこころを求め、忠実に聞き従うこと。常に祈り、霊的な満たしをもってその時に備えることは、使徒時代から何一つ変わることはないのです。その上でたとえ患難時代に入ったとしても、「主よ、来たりませ」の希望とすべてのことへの感謝をもって時を待って行きたいと思います。

2017年6月 4日 (日)

天に届く祈り

マルコ 14章36節
またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

 祈りの基本は、だいたい次のようだと思われます。Photo_2
○虚心坦懐、心を無にする。主を称え賛美する。
○主人に仕えるしもべのように、静まって待ち、聞こうとする。「しもべはここにおります。どうぞお語りください」と。
○語られ、示されたことは、正確に聞き取る。曖昧な点があれば、繰り返して確認する(※人と違って主は面倒がられないどころか、むしろ喜ばれる)
○心を知られる主が「願いを言いなさい」と言われるなら(※主はすでにご存知であることを忘れずに)申し上げる。知る必要のないこと以外、主は 答えてくださり、教えてくださる。
○この結果、たとえ注意されようとも、愛を感じ、平安であるならば、主と交わっていた
   のである。
 
 祈りの模範はイエス・キリストの祈りです。周囲に人が居ない寂しい所で、イエス様は一人祈られた(マタ14:23,マル1:35)ので、私たちもそのようにしましょう。教会の祈祷会も大切ですが、各個人の祈りを土台としています。
 映画「祈りの力」では、主戦場は狭いクローゼットの中でした。ですから一人になれる押し入れ、お風呂など、どこででも。私は早朝、外にあるベランダが好きです。ひざまづいて祈るタイプの私は、そういう姿勢がとれる場所がベストです。
 
 いやしにはいろいろなパターンがあります。ビギナーズラックのようないやしもあるでしょうし、信仰を引き上げるいやしもあります。けれどもその基本は、主と親しく交わる祈りを通してでしょう。
 いやしを認めていない教会とその信仰では、いやしは起こりません。私たちの船橋教会もそうですが、いやしがある教会は一般的に聖霊派、カリスマ派と呼ばれる教会です。いやしを信じ、いやしを求めて祈った結果、実際にいやされるということが普通に起きていやしですが、いやしは第一に教会の信仰を母体としています。います。
 
 次に実際のいやしの例をマタイ伝15章のカナン人の女から学んで行きましょう。この女性には一見、不幸が許されましたが、それはいやしを通し、イエス・キリストからその信仰を称賛され、栄光を現すためであったことが分かります。ですから私たちは病や不幸と思えること、そのことに対してシドン人の女のようにしつこく「あわれみ」を求め、信仰を持って立つ時に、すべてが益に変えられるです。神のみこころと栄光が現されるのです。

2017年5月28日 (日)

信仰のスイッチ

ローマ 8章28節
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

神は私たちに一つのことしか言われておりません。それは「神を愛するように、隣人を愛しなさい」ですが、しかし私も皆さんも、「はい、それは十分にできております」とはほど遠いのではないでしょうか。あきらめるわけではないのですが、私に愛がなく、行う力がないのです。しかしだからと言って絶望するのは早過ぎます。なぜならイエス様ご自身から再々語られている「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」という御言葉があるからです。愛に乏しい私たちを、神があわれんでくださり、恵んで助けてくださるのです。
 
ですから皆さん、信仰のスイッチを入れて、己ではなく、神さまの視点に立って見ましょう。隣人を愛するどころか、自分すら愛せないみじめな自分を認め、それを神に訴え、あわれみを求め続けるならば、それが神さまの御心であって、神の絶大な恵みを得るという逆転になります。みなさん、これは神の法則なのです。
 
一例を挙げましょう。イエスさまがツロとシドンの地方に行かれた時のことです。一人のカナン人の女が声を大きく上げながら、しつこくイエス様の一行につきまといました。娘が悪霊に取りつかれているので、いやしを願っていたのでした。この女は異邦人でありながら、「主よ、ダビデの子よ」と言っていますので信仰がある人でした。この日本でもそうですが、異教社会でクリスチャンになる、有り続けることは、本物の信仰でなければ大変です。
イエス様はこの女の願いに対して意図的に冷たく無視されました。それで女はさらに叫び声をあげ、弟子たちを困らせました。しかたなく女を帰すために、女はイエス様の前に出ることができました。イエス様は女に言い放たれます。第一に「自分はイスラエルの民以外には遣わされておらず、お門違い」というわけです。普通の人ならこう言われると、落胆するかまたは怒りというか、頭に来ますよね。
 
しかし女はひるむどころか、ひれ伏してまでして「主よ、お助けください」とさらに願い続けます。イエス様はここでまた決定的な追い打ちをかけれます。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」と。つまり、本来ユダヤ人への恵みを異邦人、しかも小犬・・・・これは日本人が抱くイメージよりも非常にさげすんだ表現です・・・・とまで大切な我が娘のことを言われたのです。もう、ほんとーにアッタマ来ますよね。ところがびっくり、この女はなりふり構わずイエス様に取りすがります。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
 
みなさん、イエス様が「あなたの信仰は立派です」とほめたたえたのは、たった二人しかいません。しかも両方とも異邦人でした。なんと言うことでしょう。今日のことが予表されているかのようです。このシドン人の女は、イエス様が取った冷たい態度や突き放したことばがあったればこそ、こうしてほめたたえられる恵みに与ったのです。益とされたのです。してみると私たちの試練や困難は、恵みに与り、天でほめられるためにある・・・天の宝なのです。
自分の愛の無さ、肉欲の強さ、救われがたい自己愛・・・ぜーんぶ神さまに持って行き、進み出ましょう。神に訴え、その解決を神に求めるなら、解決されます。それがみこころなのですから。これを信仰のスイッチと申します。神に希望があり、解決があるというスイッチです。

2017年5月21日 (日)

悔い改めの恵み

マタイ 1章3・6節
ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ
 
 マタイ伝のしょっぱなイエス・キリストの系図、ルカにはない「○○によって」と女性の名前が四人ある。その中でも特に、人の罪深さ、その悔い改めることの恵みが実に簡潔に記されている箇所が二つある。
 
「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」~聖書の中でも、わずかなことばの中に驚くべき神の計画が込められている箇所である。タマルはユダの妻ではなく、嫁である。常識的に考えれば、これはとんでもない乱れであるのだが…。
 ユダはイスラエル十二部族の長、現イスラエルの中心となる部族の祖である。ユダは心が広く正しい男であったが、兄弟から離れ、みこころではないカナン人の妻をめとったことから神の取り扱いがはじまった。長男と次男の嫁であったタマルに、三男のシェラが成人してもタマルを嫁にしなかったユダは、端的に言えば原因を読み誤っていたのである。息子たちが死んだのはタマルに原因があるのではなく、息子たちに原因があった。ユダのこの過ちは、ユダ自身に手痛い「赤っ恥」という形で神は正された。(詳細は創世記38章)
 
 タマルは実家に帰されていたが、妻を喪った義父ユダが盟友ヒラと一緒に用事で出かける知らせをある人から聞いた。かなりの時間、義父と絶縁状態にあったにも関わらず、その動静を「知らせる人」がいた?遊女の格好で道に出て立っていて、そこを友と通りがかったユダに声をかけられる可能性は?そしてただ一度で双子を与えられる可能性は?しかもちょうど金を持ち合わせていないため、支払いに印形とひも、杖を質代わりに得る可能性は?しかも、大勢の前で、タマルの宿している子をユダがわが子と認めない可能性は?…など、これは次のことを容易に推察することができる。神がユダへの祝福を、初めのカナン人の女を通してでなく、嫁であったタマルの祈りと聞き従う信仰の上に置こうと意図されたことなのである。                  (タマルとは知らないで、道端の女を買うユダ)
 
「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」Photo
 イスラエルの最大の誇りであるダビデ王だが、ユダの比ではない罪人である。ユダは三男の息子を失いたくないばかりに、律法破りをしたが、ダビデは部下の妻を肉欲で寝取り、妊娠すると、その夫で忠実な武将ウリヤを激戦地に送って殺してしまった。(詳細は2サム11章)
 たとえ王といえども神に召されたしもべに、姦淫と殺人は許されない。神は預言者ナタンを送って万死に当たる罪であることを宣告された。するとダビデは即座にただ神の前に悔い改め、伏して許しを請うた。(ダビデ王に神の言葉を伝えるナタン)
 
 結局ユダやダビデはどうなったか? 神が求められるのは、裁くことでなく、己が罪を真摯に悔い改める心である。恥と罪を指摘された二人は心から悔い改め、神に赦された。聖書に恥ずかしい自分の罪が明記されるのは、悔い改めて罪を告白している証拠である。こうして子孫は祝福された。タマルの子は今日に至る栄えあるユダ族の祖先となり、バテ・シェバの子ソロモンはイスラエル全盛期の王となった。お咎めどころか、かえって祝福されたのだ。
 
 聖書は系図でこう語っている。民族の英雄でさえも罪を犯すが、悔い改めるならかえって祝福されること。神は愛であることを現している。決して変わらぬこの神の愛の前に私たちは悔い改め、その恵みを受けよう。

2017年5月14日 (日)

信仰の核心 神のみこころ

Ⅰヨハネ 5章14節
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

 クリスチャンには、二種類あります。以前の私のような聖霊も何もわからないクリスチャンと、神に触れられ、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンとです。十字架を信じている両者ともに、永遠のいのちを与えられているのは同じですが、その心に大きな違いがあります。神のみこころを知って、それを行いたいと願うかどうかです。
 
 その分岐点は聖霊の臨在の違いにあります。聖書には「神のみ心は聖霊以外に知り得ない(1コリ2:11)」とありますので、神のみこころをいくら知りたくても、聖霊さまとの親しい交わり、つまり聖霊のバプテスマと聖霊の満たし以外には、人間には他にみこころを知る手立て、方法がないのです。そして三位一体の神さまである聖霊さまを通して、私たちは神さまというものと知ることができ、その愛に触れて、愛に生きる者、つまり何よりも、自分自身の計画やあらゆる願いよりも、神のみこころを行いたいと願う者へと変えられていくのです。これは神を知れば、必然的な変容なのです。
 
 聖書では「主よ、主よと言うものが皆天に入るのではなく、神(父)のみこころを行う者が天に入る(マタイ7:21)」という御言葉があります。つまりクリスチャンにとって<神のみこころを行う、行えるか>ということが決定的に重要なことです。そして、みこころを行う者に対して、キリストは「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです(マタイ12:50)」とまで言ってくださっているのです。
 
 これらの交わりは昔、エデンの園で人間と日々交わられていたように、何一つ変わることのない神の原則であり、人類の創造の目的の一つであろうと推察されるのです。神の本質は愛であり、私たちはこの神と交わり、神を知ることによって、神の愛に満たされ、溢れて愛を行う者へと、実際変えられて行きます。また多く許された者が多く愛するように、神に愛された者は、神を愛します。それがみこころを行うということなのです。
 
 神との交わりがどれほど素晴らしいものかは、究極の姿を描いている黙示録においてこのように描かれています。
「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く(黙14:4)」「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる(黙21:3-4)

2017年5月 7日 (日)

感謝がすべてを変える

Ⅰテサロニケ 5章18節
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 神のみ心は私たちがすべてを感謝することです。感謝によっていつも喜び、絶えず神に心を向けて祈ることです。聖書は非常にはっきりと「神があなたがたに臨んでおれること」、つまりこれが神のみ心であると明記しています。聖書でこのように明確に命じられていることを求め行いましょう。「すべてを感謝」ということは良いことだけでなく、どんな悪いことでも・・・・たとえそれが心の深い傷であっても、それが「すべて」の意味なのですから、心から「感謝」いたしましょう。「それはできない」と思うその心が神に背いています。いっさい、すべてを心から感謝できるよう祈っておられるでしょうか。
 
「感謝がなければ、患難時代を乗り越えることは難しいでしょう」と私たちの群れの責任者が語っています。また大きな困難にある牧師が「現状を感謝します。次回は家族そろってここに来ます」と証しされていました。確かに感謝は、これから来る時代を乗り越える力なのです。そのことは個人的な体験からも明らかです。
 
 私は若い頃から聖書が大好きなクリスチャンでした。が、神のみ心や感謝ということを知りませんでした。ですから聞き従うことではなく、逆に神はただ自分を幸せにしてくれるだけの存在だと思っていましたし、悪いことや困難を感謝するなんていう信仰はまったくお思いも及ばぬことでした。
 
 しかし今は違います。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)ことを体験し知っているからです。五十代になって、信仰も教会もほとんど失った人生最悪とも言える状況下、その時見たワカサギ漁のまぼろしで私は、あやうくサタンに釣られそうになりました。このリアリティある仮想体験で初めて自分の深い罪性に気づくことができました。打ちひしがれた私に、神はご自分から姿を現し、どれほど愛してくださっていることを知らせてくださったのです。神の愛にふれ、取るに足りない自分を喜んで神に捧げることが唯一の願いになった瞬間でした。この体験は神を信頼し感謝する者に私を変えました。
 
 最悪はこうして最善の祝福に変えられました。キリストの十字架はサタンの勝利から、一転して神の勝利になったのです。サタンですら決定的に敗北してしまう神の知恵は、その愛される人々に対しても、信仰の感謝を通して超越し圧倒的な勝利を与えるのです。
 
 先ず神に信頼し、肉的な己の目で判断しないで、神を愛し、信頼し、すべてを感謝いたしましょう。実際、人間の思いなど取るに足りないことであって、すべてを感謝する、そのことによって神が重荷を負ってくださり、逆転の解決をしてくださるのです。

2017年4月30日 (日)

父のみこころ

ヨハネ 6章38~40節
38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。
39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。


 数日前に黙示録の2ー3章を読みました。七つの教会は、すべての時代に存在した教会の信仰の型だと言うのが私たちの見方です。今回この箇所を読んでいて、これまで気がつかなかったあることを見つけました。みなさん、どうしてスミルナとフィラデルフィア教会が良く言われているか、ご存知でしょうか。それはこの二つの教会だけが「悔い改め=罪・過ち」を指摘されていないのです。
 
 さてそれはさて置き、残りの五つの教会をさらに詳しく見ていきますと、P牧師も指摘されている通り、たとえフィラデルフィア教会でも携挙が全員ではなく、五つの教会であっても、悔い改めるならば「いのちの木の実」、「新しい名」などと天の都、新しいエルサレムが約束されています。これはバプテスマのヨハネからヨハネによる黙示録に至るまで、「悔い改め」が天への鍵であること、これが聖書が語る一貫したテーマです。
 
 ですから「悔い改め」を否定的に受け止め、抵抗を感じ、忌避している人は、取り返しのつかない大間違いをしているのです。イブが善悪を知る木の実を食べて以来、全人類は罪の中に居ます。では神は私たちを、地獄の滅びに落とすために造られたのでしょうか。違います。神のみ心が聖書に、はっきりと次のように書かれてあるからです。
マタイ18章12-13節
だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。このようにこの小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなた方の父のみこころではありません
ヨハネ6章40節
事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです
 天の父なる神は、罪から私たちを救うために、尊い独り子イエス・キリスト様を遣わし、人間の罪の身代わりとして十字架で死ぬことをお命じになりました。ここに神の愛があり、信じる者に完全な赦しが与えられます。赦された者は滅びから免れ、御霊の体という滅ばない新しい体と、永遠のいのちを持って神の国の一員となります。
 
 ただし、罪が分からねば悔い改めることができません。罪がわかることは打ちのめされる一面がありますが、十字架によって悔い改める者は赦され、神に祝福される者となっての大逆転の結果になります。悔い改めることは何と素晴らしいことでありましょう。天国へのパスポートです。ハレルヤ! 感謝します。

2017年4月23日 (日)

神の愛

Ⅰヨハネ 4章19節
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
 
 主イエスやペテロやヨハネは皆、同じことを言っています。神は愛であること、そして信じる者は神を愛することです。なぜ神を愛するのでしょうか。神がまず愛してくださったからです。その絶大な愛に、信頼し、悔い改めて応答する者となるからです。
 
 もう一つ、詳しく神を愛することを見るなら、それは≪本来地獄行きの己の罪が(十字架の贖いによって)赦され、その負債を免除され(救われ)たどころか、子として永遠の命を与えられた≫からです。
 
 この赦されることについて、私はどうしてもルカ7章後半にある、罪深い女の話を思い出します。この女は通常であれば、イエス様に近づくことすらできなかった存在でした。しかしイエス様を招きながら、試そうとしたために見逃されました。女はイエス様の背後から近づき、その足を自分の涙で濡らし(どれほど多くの涙が出たことでしょう!)、自分の髪で汚れを拭き、御足に接吻した上で、おそらくは自分が一番大切にしていた最大の財産、御足を香油で塗りました。
 
辺りで知らぬ者のいない罪深い女。もう十分に辱められ、見下された罪深い女。しかし当時の社会では、女が働いて生きる仕事は他になかったのです。この世で自分の命にも等しいような香油を捧げた女は、イエス様の神性が分からなかった宗教の専門家パリサイ人に対し、それをはるかに理解していただけでなく、卑しめられたこの世ではなく、赦されて神の国への希望と信仰が圧倒的にあったのです。
 
 女のなすがままにされていることをいぶかしんでいるシモンに、ついにイエス様は言われます。金貸しから借金を全部許してもらった(そんなことはあり得ないことですが)二人のうち、一人は現代で言えば50万円、もう一人は500万円相当でしたが、「どちらが多く金貸しを愛するようになるか」と。
 
深刻な罪意識を持つことは、十字架の主イエスのところに行くことによって、多く赦され、多く愛するようになる恵みの道でした。神を愛する者は、多く赦されなければならない者でしたし、神の子とされた今となっては、かつて罪深い自分であったことが宝となりました。神を愛することは、すべての罪をおおうだけでなく、何があって奪われることのない天の宝です。
 このことは「愛のない者に、神はわかりません(1ヨハ4:8)」とあるとおりで、神を愛する者は兄弟をも愛するのです。

2017年4月16日 (日)

神のみこころに聞き従う

Ⅰペテロ 4章2・7節
 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。


 キリスト教においては福音を信じる、つまり「救われ」てクリスチャンになることが先ずもって大切なことです。その次、クリスチャンの信仰生活において、もっとも大切なことは「(神の)みこころを行う」ことです。このことは聖書でイエス様ご自身や、12弟子筆頭のペテロやヨハネらが口をそろえて語っています。このみこころを行おうとすれば、それは結果として神に「聞き従う」ことと同じことになるのではないでしょうか。
 
<参考聖書箇所>
主イエス・・・マタイ 6:10/7:21/12:50  パウロ・・・エペソ 5:17   ペテロ・・・1ペテロ 4:2  ヨハネ・・・1ヨハネ 5:14
 
 では、神のみこころとは何でしょうか。そのことも聖書には明確に説かれています。「(先ず教会内から)互いに心から愛し合う」ことです。ただ注意しなければならないことに、私たち人間にはそのような愛がないことです。人間はすべからく罪人で、自己中心な存在なのです。ですが、各自に聖霊に注がれ、神のあわれみとその力に依って内なる世的な肉を滅ぼすなら、可能になります。こうして聖霊を通しての神の愛が各自に満たされ、溢れて行くなら、互いに親切にし合い、仕え合うことができます。自分の今のありさまや、力を見ては不可能ですが、神にあっては不可能はありません。神の栄光はふさわしくなく、愛の力のない者を通して、神の愛が現されるのです。
 
 もう一つ、神のみこころは私たちが「堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かう」ことです。悪霊というものに対して、今は罪赦されて神のものではあっても、私たちの力では弱い存在です。しかし神は、悪霊に対し、私たちが怖じ逃げ惑うのではなく、「立ち向かえ」と仰っているのです。私たちの力は弱いけれども、神をバックにした堅い信仰に立つならば、圧倒的な勝利者となるのです。クリスチャンは神のしもべであって、しもべは主人の威光を帯びているからです。悪霊に対して逃げてはなりません。戦いの場では、その人が本当に神を信じているのか、神からの聖霊の力が注がれ、みこころによって立っているのかが試されます。失敗を恐れる必要はありません。イエス様の時代において、口をきけなくさせ、ひきつけさせる悪霊の追い出しに失敗した弟子たちにしても、多くのことを学ぶことができたからです。
 
 こうして見ればクリスチャン生活とは、聞き従いを通して、己に見られる内面の不従順さ、世的な欲望と戦い、また外から来る悪霊との戦いをし続けることだと言えるようです。天の故郷に帰るまで続くこの戦い、感謝と賛美はこの中で上がる、信仰による勝利の旗だと言えるでしょう

2017年4月 9日 (日)

クリスチャンの成長

イザヤ6章8節
私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」


 長年教会生活を送られ、奉仕しているのに、一向に自分の問題や困難が解決されず、また信仰の成長や恵みがないと思ってる方がおられれば。本日はそのような方にメッセージを取り次がせていただきます。
 もちろん恵みが感じられにないからと言って、教会生活を中断したりすればUpupどころかDowndownになるわけです。牧師に相談すると、自分のことばかりに目を向けないで、目を外に向け、もっと大変な人々を助けるべきだと諭されるかも知れません。しかし自分の車のガソリンが尽きかけているのに、他の人に分けあてなさいと言っているようなもので、それは無理です。まず自分自身の必要が満たされなければ、どうして他の人にそれを分けられるでしょうか。
 
 さて本題ですが、イザヤは神殿の上に立っている聖なるセラフィムを見て、己の罪深さがわかりました。イザヤは王族の一員で、人の目には正しい人でした。しかし神の圧倒的な聖の前には、滅ばなければならないただの罪人でした。神のあわれみによって、燃えさかる炭が口に触れたので、赦され救われたのです。その与えられた命のゆえ、彼は進んで、「ここに私がおります」と神の召しに応えようとしました。罪を知る、赦しがわかる、献身する、これがポイントです。イザヤだけでなく、人は自分の罪深さをいかにして知るのでしょう。神の聖の前に出ない限りは、罪は分からないようです。
 
 クリスチャンの成長とは、言い方を変えれば、己の罪深さを知って行く過程であるともいえるでしょう。聖である神を知れば知るほど、つまり罪がわかればわかるほど、神のあわれみ深さ、十字架の愛がどれほどかがわかり、自己がかすんで行きます。ついには神の愛をまったく信頼し、自分を捧げたくなって仕方なくなります。神の召しにいのちをかけて応えて行こうとする決心が湧いてきます。こうした神との交わりを通し、経験を通し、自分の思いをはるかに超えた導きの正しさがわかり、自分の考えよりも神のみ心が最善であって、聞き従うことを何よりも求めるようになるのです。
 
 クリスチャンの成長とは御心を求め、聞き従うことにあります。神の言葉である聖書と聖霊との交わりという、聖なる神との交わりなくして成長はありえません。神は生きておられます。交わりのない信仰生活は、徒労感が蓄積するだけです。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」神を、飢え乾きをもって求めましょう。そうすれば必ず神はご自身を現してくださいますし、「ここに私がおります」と応えているご自身と、その成長を見ることになるでしょう。

2017年4月 2日 (日)

原罪から恵みへ

創世記 3章6節
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 このアダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追放されるという原罪の記事は、人間のどうしようもない罪を明らかにするだけのものでしょうか。そうではなく、キリストとその十字架による赦しと解放へのドアです。また最終的にはエデンの園にあった永遠の命である「いのちの木」をも与えようとする祝福のプロローグなのですから。
 
 では園に神はなぜ禁断の木の実を置かれたのでしょうか。疑いようもなく、神への「愛」と「従順=戒めを守る」というシンボルでした。キリスト教信仰とは、一言で言えば関係の宗教だと言われます。人格的な関係というものは何よりも信頼が土台です。ですから国旗のように、園の中央に置かれていたのです。
 
 エバの行動で推察されることは、「それに触れてもいけない」と言われていた所に単独での近づいたことです。蛇とのやりとりを通して、そばにアダムが居たような記述がありません。禁じられている恐い所、そこにだけ蛇が居たようですし、そんな所にわざわざ一人で近寄って行くでしょうか。エバに単なる興味や好奇心以上の、神の戒めを疑い、自分の目で本当かどうかを確かめてみたかったという意図を感じます。
 
 エバの罪は蛇の言葉を神よりも信じたことです。サタンの本質は偽りとだましです。また恐怖で人間を支配しようとします。木に近づくという神の言葉への疑いを元に、かつてサタン自身も犯して転落した罪である「神のように賢くなりたい」に、エバをだまして成功しました。神の計画を見事に挫いたようにも見えます。しかしサタンのたくらみのすべてが、キリストの十字架によって完全に打ち砕かれるストーリーが聖書です。
 
 エバのことから学べる、神との信頼関係を損なってしまう、気をつけなければならない三つの原則があることに気づきます。
 第一に神を愛することです。神を愛すれば、その心を行いたいと願うようになります。木に近づいたりするような、誘惑されに行くような危険を冒す気にはなりません。
 第二に、エバが誤ったように見た目や自分の欲や判断を優先させる高ぶりに、特に注しなければなりません。私たちは有限な誤りやすい者で、神に従ってこそ正常なのです。
 第三に聖書と祈りです。「あなたは決して死にません」と言う嘘は、それを体験してからでは取り返しがつかないものでした。見分けるために何を信じ、誰に導いていただくのか、その答えは聖書と祈りしかありません。

2017年3月26日 (日)

キリストと共に死ぬ恵み

ガラテヤ 2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 
 この火曜日のブログで私は母との思い出を書きました。書いていて思い出したことは、「人は自分が誰かに必要とされ、それで生きていける」ということでした。その間の詳しい事情をすべて省きますが、五十歳にして家族を失い、やむなく母のアルツハイマー症の介護を兼ねて実家に帰った私の心はボロボロでした。しかしそれも数年経つと、病の進行で母は施設に入ることになりました。
 
 すると、誰も居なくなった実家に、自分一人がポツンと居ることになりまして・・・そのような経験がお有りでしょうか? あればご理解いただけるでしょう。誰も私を必要としない、されていない状況に置かれ、虚しさ、淋しさに私は本当におかしくなってしまったのです。仕事はありましたが、私が居なくてもすぐに代替者が来ます。しかし家族の代替者は居ません。家族を失い世話をしていた肉親まで・・・私の喪失感は極まったのです。
 
 私はクリスチャンですので自殺できず、自棄(やけ)になって自分をダメにしたい衝動に駆られるようになりました。そんな人生の最大の危機的な時、どん底の闇の中の私に、神のあわれみが注がれ、光が射す時が来たのです。
「私はあなたをずっと愛していた・・・」神の語りかけは突然でした。そしてその言葉は、私を瞬間的にいっさいがっさい、完全に変えたのです。誰からも必要とされなかったのでは無かったのです。神がこのウジ虫のような罪人の私を愛し、私のために十字架に架かってくださった・・・こんな愛ってあるでしょうか。この愛は、たとえこの世で命を失おうとも、失われることがない永遠の愛です。恐れ多いことですが、天地万物を造られた神から、私は必要とされ愛されていたのです。
 
 このことはへブル2:14でキリストが十字架で死の力、死の恐怖、サタンの縄目から私たちを解放してくださったと書かれてあるように、本当でした。それまで三十年もクリスチャンでしたが、それを自分のこととして受け取れていませんでした。
 
 それ故真に神を信じる私たちは告白しましょう
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにいきておられるのです」と。
 
 こうして私は新しく生きる者となり、虚しさとサタンから解放され、真に生きる喜びを覚える者とされました。みなさん、これがほんとうに生きていると言うことです。誰も、死をもこれを奪うことができません。永遠の愛です。苦しめられた者は幸いです。神の愛を知るからです。神のあわれみに感謝しましょう。

2017年3月19日 (日)

霊とともにあるように

Ⅰコリント 13章13節
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 人の話において、大切なことは一番最後に語られることが多い。パウロの書簡で最近気がついたことに、パウロの特長として、一番最後はBenediction(ベネディクション:祝祷,感謝の祈り)で終わることがほとんどです。それにも多少の違いがありますが、だいたい「主イエス・キリストの恵みが、あなたの霊とともにありますように」の言葉で締めくくられています。これはつまり、パウロは<聖霊との霊的な交わりが、すべての恵みの土台なのですよ>と常に忘れず私たちに念を押していると言えます。
 
 先週のメッセージでは、終末では「背教者が出る」と語りましたが、背教とは「神との関係を断つ」ことです。では逆に信仰とは何か? それは「神さまとの霊的な交わり」ということではないでしょうか。
 信仰は「感謝する」「喜ぶ」「聞き従う」「受けたと信じる」「踏み出す」などいろいろな言葉で語られます。確かにその通りですが、「私はあなたに従う力がありません。主よ、私を助け、み心を行わせてください」(み声に聞き従うp90)」とあるように、信仰を行う力は畢竟、上より来るのであって、ポイントは聖書と祈り、祈りにおける霊的な神との交わりです。二人のパウロが言っていることは一致しています。
 
 さてここからワンポイント、本日の中心です。神との関係、祈りと交わりにおいて主導権というか、決定権というか、それが人と神とのどちらにあるでしょうか? もちろん、それは神にあります。私は皆さんに、個人的にですが、聖霊のバプテスマについて、明確な体験を受けるようお奨めしています。もちろん神さまの方でも、その願いはみ心ですから100%叶えてくださると信じます。しかし、です。祈り求めても、長く聖霊のバプテスマが注がれない場合もあることでしょう。その人は他の人と比べたりして理不尽に思ったり、苛立ったり、諦めたりするかも知れません。ここが重要だと思うのですが、聖霊はよく風に例えられるように、人の思惑を凌駕します。なぜなら人は、その原因が自分にあることがわからないし、どうすればよいか自分ではわからない上、最善のタイミング、時というものもわからないのです。イライラしたりしてはいけません。それは自分の計画が神より優先しています。救いが神から来るように、ただ神だけが最善をご存知なのです。
 
 「貧しき者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」です。真に自分の心の貧しさを知る者となった時、聖霊の親しき交わりも近いことでしょう。熱心に祈り求めることとは、ただ静まって神の時を待つ聞き従う忍耐と共にあります。

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