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2017年7月 9日 (日)

忍耐による勝利

へブル 10章35-39節
あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
 
私たちの教会は日本のリバイバルに召された教会です。首都の日の昇る方、東から立って行く使命を負っています。このことははっきりと神から示されています。ところが多少出入りはありましたが、相変わらず何年も現状に変化がありません。
先週、この現状に関して、御言葉を求め御言葉に立つように気づかされましたので、早速祈り求めました。本日は与えられました御言葉をみなさんと共に受け取って行きたいと思います。
 
聖書箇所はへブル10:35-39、中心が36節で、そこには「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」とあります。神のみこころとはリバイバルの召しと使命です。その約束は「忍耐」によって手に入れられる、つまり、成就すると示されました。Endure
「忍耐」という言葉に、日本人はあまり良いイメージがありません。「石の上にも三年」とか「むぅぅーうっ」と我慢するサウナ風呂のイメージですよね。だるまさんてみなさん知っておられるでしょうが、座禅を9年も組んだため、両手足が壊死して無くなったからなんだそうです。
 
しかし聖書で言う忍耐とはそのような意味ではありません。聖書的な意味では日本語的な意味でのただ耐えるという意味ではないのです。絵を見てください。教会とクリスチャンにとっては困難がつきものですが、これにはこの先に明確な神の勝利の計画があるのです。ですから、ただ我慢し耐えるという現状維持が忍耐の意味ではなく、忍耐すること自体が、定められた神の時に向かって一歩一歩、成就へ、勝利へと近づき前進していることなのです。ですから私たちの忍耐とは、神の時が成就するための神の戦いなのです。
 
この点から前後の御言葉・・・・「確信を投げ捨ててはなりません(35節)」 「おそくなることはない(ハバクク2:4からの引用)」「恐れ退いて滅びるな(38-39)」と私たちを励ましています。私たちの今の忍耐は勝利へと向かう信仰の戦いととらえた時、現状から諦めたり、与えられた神の約束を疑って途中下車したり、退いてはならないのです。この御言葉に立って、教会は忍耐によって神の約束の成就、リバイバルを見るのです。

2017年7月 2日 (日)

心を刺し貫く剣

ルカ 2章34-35節
また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
 
 マリヤは親類のエリサベツの家で「マリヤ賛歌」(ルカ1:51-54)と呼ばれる預言を残しています。これは「受難のキリスト」の予告とも受け取れます。そしてイエスを捧げに宮に詣でた時に、シメオンが受難のキリストである確認を語り告げました(ルカ2:34-35)。
 
我が子がメシヤと語られることに驚いた母マリヤですが、おそらく「剣があなたの心さえも刺し貫く」と語られた言葉が一番心に残ったことでしょう。後には成就しましたが、多くの人々の心を明らかにするための神のみこころはこの時点では理解困難でした。
「反対を受ける」という言葉ですが、KJVでは「spoken against」であり、「語られた宣教に逆らわれて」という意味です。本日はこの神のみこころに焦点を当てます。
 
人が福音を聞いたならば、二者択一しかありません。受け入れるか、さもなくば受け入れないで拒むか、です。その分かれ目のポイントは「世に希望があるか」「正しい自己像で自分を見ているか」です。
 
福音を拒む人とは、この世に希望があるからではないでしょうか。地位や権力のある人。能力があって成功した人。名家の生まれや財産のある人。こうした世に宝のある人たちにとっては、容易にこの宝を捨てる事ができません。またもう一つ、「救われねばならない罪」を認識している必要があります。これは暗く否定的なことのようですが、十字架によって一転し、罪からの解放と祝福を得る基となります。聖書はすべての人が罪を犯しており、義人は一人もいないと言っています。ですから罪が無いと思っている人は自己像が正しくないのです。問題は救いと世の富とが相反することです。富める若人のように、どんなに救いを求めていても、世を選ぶなら救われないのです。
 
逆に貧しい人、権力の無い人。能力の無い人、虐げられている人・・・・こうした人たちは福音を受け入れる人たちです。この世にたいした希望がないからです。「心の貧しい者は幸いです。天国は彼らのものです」と言われているわけです。しかしどんなに神の国に近くても、自分の内にある罪が分からなければ救われません。
反対を受けるしるし、とは世を選ぶ人、罪を認めない人たちから福音を語れば迫害されることです。我が子の処刑に立ち会ったマリヤは心を刺し通されますが、三日後、復活の我が子を見ました。同じように私たちは福音を信じ、救われて世と肉の命に勝る永遠のいのちを与えられました。このことを喜びましょう。迫害されても私たちからこれを奪うことはできないのです。

2017年6月25日 (日)

信仰Ⅱ

マルコ10章27節
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
 
 イエス様は、この世で富んでいる人が神の国に入ることは、「ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい(マルコ10:25)」ことだと慨嘆されました。持てる者は世の富を誇ったり頼ったりします。しかし持たざる者は神に頼るしかない、そのことがかえって益にされ、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから(マタイ5:3)」と語られたのです。 
 
 しかし富んでいようと貧しかろうと、ただそれだけで神に国に入れるわけではありません。たとえ全財産を捧げても、それと引き換えに天国に行ける保証はありません。人には罪が有り、不可能なことであっても、「神にはできる」と可能にしてくださったのがイエス様の十字架でした。自分が神の国にふさわしくない罪人であること、自分の身代わりとなり、罪を贖ってくださったのが十字架のイエス様であることとを信じ、告白しなければなりません。これは行い拠るのではなく、いのちを捧げてくださった神の愛への応答として、自分の霊・たましいなど一切を捧げることを意味します。
 
旧約時代においては律法を守るという行い中心でしたが、十字架以降の新約時代には広範な質的変換が神との関係においてなされました。神を自分より愛する者は、自分の存在そのもの、いのちをも世にまさって優先し捧げるからです。殉教とはこの具体的な結果であり、それゆえ神から称賛を受け、千年王国では王となるのPhoto_2です。
 
 信仰とは、まず自分が神の国に行けない罪深い者であることを知った人でなければならず、その絶望の底から十字架を信じて希望を見、 その希望が確信へと変わって、絶えず喜ぶ者へと変えられたことでした。これは人間を180度転回させます。
神を信じる者に十字架と救いの疑いはありません。なぜなら信仰は「神に不可能はない」ことを知らせ、祈りの体験によって、まだ見ぬことに信頼を置くからです。なぜそれができるのでしょう。罪が十字架によって赦された者には、聖霊を通して神と交わった確かな体験をしているからです。
千のことばよりも確かな確信が、信じる者にはあるのです。神にはどんなことでもできるのです。

2017年6月18日 (日)

信仰

マルコ 4章40節 
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
                                                               
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうし 嵐のこの記事に、以前から二点ほど疑問に思っていました。第一に嵐で大揺れの小舟の中、水浸しで今にも沈みそうな状況で、どうしてイエス様は眠り続けていることができたのでしょうか?私はあり得ないと思っていました。しかしイスラエルで何度か行ったノフ・ギノサールにあるイエス様時代の舟の博物館で、去年その展示横にある小さな模型を見て疑問はとけました。模型では艫(とも)と舳先(へさき)に広めの板が張ってあり、イエス様は艫で寝ておられたのです。通常舳先を風先に向けますから、逆に艫は最も安定した所になります。しかもここなら濡れません。
 
 次に、イエス様はどうして弟子たちを叱られたのでしょう。ガリラヤ湖の漁師であったペテロ達が危険を覚える状況でした。寝ておられた師に助けをShip求めて起こしたからと言って、それがどうして叱られなければならないのでしょうか? ちょっと納得ができません。
 しかしこれも当然のことでした。なぜならイエス様は弟子達の信仰を責められたのです。これまで弟子達はイエス様に付き従って、大いなるわざを見てきました。イエス様がただの人間ではないことを一番よく知っていたはずです。ですから何とかしてもらおうとイエス様を起こしたのですが、しかしその前にもっと大切な<信仰の目で起きている現実を見る>ということに気づくべきでした。
 
 似たような話が2列王6章にあります。ある朝エリシャのしもべが起きて外へ出た際、自分たちをアラムの軍が取り囲んでいるのを発見します。あわててエリシャを呼ぶと、エリシャは逆にしもべの目が開くよう神に祈って、神の軍勢がエリシャ達を取り巻いて山に満ちているのを見せました。目に見える事象だけで判断すると誤るのです。神を信じる者は、まず信仰の目で見なければならないのです。私たちの感謝も同じ道理です。
 
 みなさんお一人お一人が、今現在許されているどうにもならない現実や病、困難を信仰の目で見て立っておられるでしょうか? そうするかしないかが、天に宝を積む聞き従いと感謝に、大きな違いを生むのです。二つの疑問の解き証しを通し、いかに聖書が信じるに足りる正確で正しいものか、また私たちが信仰に立つことの重要さを語らせていただきました。

2017年6月11日 (日)

前兆

マタイ 24章3節
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
 
 使徒時代から「すぐに来る」と言われた世の終わりは、すでに1900年以上経ってもまだ来ていません。しかし非常に近づいているとも感じさせられてもいます。聖書から終末を正しく学んで、いつ来ても良いように準備しましょう。
 
 聖書のどこを読めば良いのでしょうか。主として旧約のエゼキエル書、特にダニエル書です。新約ではマタイ24章と黙示録です。これらは互いに結びついて、全体としては一つの終末像が明らかにされています。
 まず、抑えておかなければならないことに、こと聖書の時間に関しては文字通りではありません。1日が1年(民数13:34)とされるなど、ちゃんと数字の計算は合っているのですが、時間設定に注意が要ります。
 
 さてダニエル書7章の夢は登場する四つの獣が、それぞれ以下のように対応されます。獅子=バビロン、くま=ペルシャ、ヒョウ=ギリシャ、鉄のきばと十本の角を持った恐ろしい獣=ローマ帝国です。ここで重要なことは最後のローマ帝国です。このローマが未完の表現になっていることが要注意です。この間、イスラエルという国が最後の獣ローマによってAD70年に滅亡し、つい最近1948年に奇跡的な再建がなるまでの空白が反映されていると想像されます。つまりエゼキエルの預言通り、国の再興(イスラエル建国1948年)が成って、再びローマによって預言成就の針が回り始めるわけです。鉄のきばと十本の角を持った古代ローマの後釜が、終末の時代に登場するとすれば、それはほぼ同じ場所に現れたEUが該当します。
 
 こうして見てくると終末はダニエル7章から、現在27ヵ国のEUにおいて、うち十ヵ国がイニシアティブを取るようになり、その中から反キリスト(ダニエル9章)が登場すると読み取れます。この反キリストは自分の国だけでなく、他の三カ国まで取り込み、アメリカがどうがんばってもできなかった中東和平条約も締結させます。その結果、イスラエルはエレミヤ49章にある平和を享受することになりますが、これが世界の終わり、患難時代の幕開けとなります。
 こうしてみると、中東和平条約やエルサレムの神殿の丘に第3神殿ができる(黙示11:2)までは、患難時代は始まらないことになります。それまでは「戦争や戦争のうわさ」「国々の敵対」「方々にききんと地震が起こった」(マタイ24章)としても、あわてては行けません。それらは産みの苦しみなのです。
 
  私たちはこの聖書の預言に従って時を見分けるのです。しかし信仰の基本は不変です。聖霊のバプテスマを受け、神との深い交わりの中からみこころを求め、忠実に聞き従うこと。常に祈り、霊的な満たしをもってその時に備えることは、使徒時代から何一つ変わることはないのです。その上でたとえ患難時代に入ったとしても、「主よ、来たりませ」の希望とすべてのことへの感謝をもって時を待って行きたいと思います。

2017年6月 4日 (日)

天に届く祈り

マルコ 14章36節
またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

 祈りの基本は、だいたい次のようだと思われます。Photo_2
○虚心坦懐、心を無にする。主を称え賛美する。
○主人に仕えるしもべのように、静まって待ち、聞こうとする。「しもべはここにおります。どうぞお語りください」と。
○語られ、示されたことは、正確に聞き取る。曖昧な点があれば、繰り返して確認する(※人と違って主は面倒がられないどころか、むしろ喜ばれる)
○心を知られる主が「願いを言いなさい」と言われるなら(※主はすでにご存知であることを忘れずに)申し上げる。知る必要のないこと以外、主は 答えてくださり、教えてくださる。
○この結果、たとえ注意されようとも、愛を感じ、平安であるならば、主と交わっていた
   のである。
 
 祈りの模範はイエス・キリストの祈りです。周囲に人が居ない寂しい所で、イエス様は一人祈られた(マタ14:23,マル1:35)ので、私たちもそのようにしましょう。教会の祈祷会も大切ですが、各個人の祈りを土台としています。
 映画「祈りの力」では、主戦場は狭いクローゼットの中でした。ですから一人になれる押し入れ、お風呂など、どこででも。私は早朝、外にあるベランダが好きです。ひざまづいて祈るタイプの私は、そういう姿勢がとれる場所がベストです。
 
 いやしにはいろいろなパターンがあります。ビギナーズラックのようないやしもあるでしょうし、信仰を引き上げるいやしもあります。けれどもその基本は、主と親しく交わる祈りを通してでしょう。
 いやしを認めていない教会とその信仰では、いやしは起こりません。私たちの船橋教会もそうですが、いやしがある教会は一般的に聖霊派、カリスマ派と呼ばれる教会です。いやしを信じ、いやしを求めて祈った結果、実際にいやされるということが普通に起きていやしですが、いやしは第一に教会の信仰を母体としています。います。
 
 次に実際のいやしの例をマタイ伝15章のカナン人の女から学んで行きましょう。この女性には一見、不幸が許されましたが、それはいやしを通し、イエス・キリストからその信仰を称賛され、栄光を現すためであったことが分かります。ですから私たちは病や不幸と思えること、そのことに対してシドン人の女のようにしつこく「あわれみ」を求め、信仰を持って立つ時に、すべてが益に変えられるです。神のみこころと栄光が現されるのです。

2017年5月28日 (日)

信仰のスイッチ

ローマ 8章28節
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

神は私たちに一つのことしか言われておりません。それは「神を愛するように、隣人を愛しなさい」ですが、しかし私も皆さんも、「はい、それは十分にできております」とはほど遠いのではないでしょうか。あきらめるわけではないのですが、私に愛がなく、行う力がないのです。しかしだからと言って絶望するのは早過ぎます。なぜならイエス様ご自身から再々語られている「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」という御言葉があるからです。愛に乏しい私たちを、神があわれんでくださり、恵んで助けてくださるのです。
 
ですから皆さん、信仰のスイッチを入れて、己ではなく、神さまの視点に立って見ましょう。隣人を愛するどころか、自分すら愛せないみじめな自分を認め、それを神に訴え、あわれみを求め続けるならば、それが神さまの御心であって、神の絶大な恵みを得るという逆転になります。みなさん、これは神の法則なのです。
 
一例を挙げましょう。イエスさまがツロとシドンの地方に行かれた時のことです。一人のカナン人の女が声を大きく上げながら、しつこくイエス様の一行につきまといました。娘が悪霊に取りつかれているので、いやしを願っていたのでした。この女は異邦人でありながら、「主よ、ダビデの子よ」と言っていますので信仰がある人でした。この日本でもそうですが、異教社会でクリスチャンになる、有り続けることは、本物の信仰でなければ大変です。
イエス様はこの女の願いに対して意図的に冷たく無視されました。それで女はさらに叫び声をあげ、弟子たちを困らせました。しかたなく女を帰すために、女はイエス様の前に出ることができました。イエス様は女に言い放たれます。第一に「自分はイスラエルの民以外には遣わされておらず、お門違い」というわけです。普通の人ならこう言われると、落胆するかまたは怒りというか、頭に来ますよね。
 
しかし女はひるむどころか、ひれ伏してまでして「主よ、お助けください」とさらに願い続けます。イエス様はここでまた決定的な追い打ちをかけれます。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」と。つまり、本来ユダヤ人への恵みを異邦人、しかも小犬・・・・これは日本人が抱くイメージよりも非常にさげすんだ表現です・・・・とまで大切な我が娘のことを言われたのです。もう、ほんとーにアッタマ来ますよね。ところがびっくり、この女はなりふり構わずイエス様に取りすがります。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
 
みなさん、イエス様が「あなたの信仰は立派です」とほめたたえたのは、たった二人しかいません。しかも両方とも異邦人でした。なんと言うことでしょう。今日のことが予表されているかのようです。このシドン人の女は、イエス様が取った冷たい態度や突き放したことばがあったればこそ、こうしてほめたたえられる恵みに与ったのです。益とされたのです。してみると私たちの試練や困難は、恵みに与り、天でほめられるためにある・・・天の宝なのです。
自分の愛の無さ、肉欲の強さ、救われがたい自己愛・・・ぜーんぶ神さまに持って行き、進み出ましょう。神に訴え、その解決を神に求めるなら、解決されます。それがみこころなのですから。これを信仰のスイッチと申します。神に希望があり、解決があるというスイッチです。

2017年5月21日 (日)

悔い改めの恵み

マタイ 1章3・6節
ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ
 
 マタイ伝のしょっぱなイエス・キリストの系図、ルカにはない「○○によって」と女性の名前が四人ある。その中でも特に、人の罪深さ、その悔い改めることの恵みが実に簡潔に記されている箇所が二つある。
 
「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」~聖書の中でも、わずかなことばの中に驚くべき神の計画が込められている箇所である。タマルはユダの妻ではなく、嫁である。常識的に考えれば、これはとんでもない乱れであるのだが…。
 ユダはイスラエル十二部族の長、現イスラエルの中心となる部族の祖である。ユダは心が広く正しい男であったが、兄弟から離れ、みこころではないカナン人の妻をめとったことから神の取り扱いがはじまった。長男と次男の嫁であったタマルに、三男のシェラが成人してもタマルを嫁にしなかったユダは、端的に言えば原因を読み誤っていたのである。息子たちが死んだのはタマルに原因があるのではなく、息子たちに原因があった。ユダのこの過ちは、ユダ自身に手痛い「赤っ恥」という形で神は正された。(詳細は創世記38章)
 
 タマルは実家に帰されていたが、妻を喪った義父ユダが盟友ヒラと一緒に用事で出かける知らせをある人から聞いた。かなりの時間、義父と絶縁状態にあったにも関わらず、その動静を「知らせる人」がいた?遊女の格好で道に出て立っていて、そこを友と通りがかったユダに声をかけられる可能性は?そしてただ一度で双子を与えられる可能性は?しかもちょうど金を持ち合わせていないため、支払いに印形とひも、杖を質代わりに得る可能性は?しかも、大勢の前で、タマルの宿している子をユダがわが子と認めない可能性は?…など、これは次のことを容易に推察することができる。神がユダへの祝福を、初めのカナン人の女を通してでなく、嫁であったタマルの祈りと聞き従う信仰の上に置こうと意図されたことなのである。                  (タマルとは知らないで、道端の女を買うユダ)
 
「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」Photo
 イスラエルの最大の誇りであるダビデ王だが、ユダの比ではない罪人である。ユダは三男の息子を失いたくないばかりに、律法破りをしたが、ダビデは部下の妻を肉欲で寝取り、妊娠すると、その夫で忠実な武将ウリヤを激戦地に送って殺してしまった。(詳細は2サム11章)
 たとえ王といえども神に召されたしもべに、姦淫と殺人は許されない。神は預言者ナタンを送って万死に当たる罪であることを宣告された。するとダビデは即座にただ神の前に悔い改め、伏して許しを請うた。(ダビデ王に神の言葉を伝えるナタン)
 
 結局ユダやダビデはどうなったか? 神が求められるのは、裁くことでなく、己が罪を真摯に悔い改める心である。恥と罪を指摘された二人は心から悔い改め、神に赦された。聖書に恥ずかしい自分の罪が明記されるのは、悔い改めて罪を告白している証拠である。こうして子孫は祝福された。タマルの子は今日に至る栄えあるユダ族の祖先となり、バテ・シェバの子ソロモンはイスラエル全盛期の王となった。お咎めどころか、かえって祝福されたのだ。
 
 聖書は系図でこう語っている。民族の英雄でさえも罪を犯すが、悔い改めるならかえって祝福されること。神は愛であることを現している。決して変わらぬこの神の愛の前に私たちは悔い改め、その恵みを受けよう。

2017年5月14日 (日)

信仰の核心 神のみこころ

1ヨハネ 5章14節
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

 クリスチャンには、二種類あります。以前の私のような聖霊も何もわからないクリスチャンと、神に触れられ、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンとです。十字架を信じている両者ともに、永遠のいのちを与えられているのは同じですが、その心に大きな違いがあります。神のみこころを知って、それを行いたいと願うかどうかです。
 
 その分岐点は聖霊の臨在の違いにあります。聖書には「神のみ心は聖霊以外に知り得ない(1コリ2:11)」とありますので、神のみこころをいくら知りたくても、聖霊さまとの親しい交わり、つまり聖霊のバプテスマと聖霊の満たし以外には、人間には他にみこころを知る手立て、方法がないのです。そして三位一体の神さまである聖霊さまを通して、私たちは神さまというものと知ることができ、その愛に触れて、愛に生きる者、つまり何よりも、自分自身の計画やあらゆる願いよりも、神のみこころを行いたいと願う者へと変えられていくのです。これは神を知れば、必然的な変容なのです。
 
 聖書では「主よ、主よと言うものが皆天に入るのではなく、神(父)のみこころを行う者が天に入る(マタイ7:21)」という御言葉があります。つまりクリスチャンにとって<神のみこころを行う、行えるか>ということが決定的に重要なことです。そして、みこころを行う者に対して、キリストは「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです(マタイ12:50)」とまで言ってくださっているのです。
 
 これらの交わりは昔、エデンの園で人間と日々交わられていたように、何一つ変わることのない神の原則であり、人類の創造の目的の一つであろうと推察されるのです。神の本質は愛であり、私たちはこの神と交わり、神を知ることによって、神の愛に満たされ、溢れて愛を行う者へと、実際変えられて行きます。また多く許された者が多く愛するように、神に愛された者は、神を愛します。それがみこころを行うということなのです。
 
 神との交わりがどれほど素晴らしいものかは、究極の姿を描いている黙示録においてこのように描かれています。
「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く(黙14:4)」「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる(黙21:3-4)

2017年5月 7日 (日)

感謝がすべてを変える

1テサロニケ 5章18節
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 神のみ心は私たちがすべてを感謝することです。感謝によっていつも喜び、絶えず神に心を向けて祈ることです。聖書は非常にはっきりと「神があなたがたに臨んでおれること」、つまりこれが神のみ心であると明記しています。聖書でこのように明確に命じられていることを求め行いましょう。「すべてを感謝」ということは良いことだけでなく、どんな悪いことでも・・・・たとえそれが心の深い傷であっても、それが「すべて」の意味なのですから、心から「感謝」いたしましょう。「それはできない」と思うその心が神に背いています。いっさい、すべてを心から感謝できるよう祈っておられるでしょうか。
 
「感謝がなければ、患難時代を乗り越えることは難しいでしょう」と私たちの群れの責任者が語っています。また大きな困難にある牧師が「現状を感謝します。次回は家族そろってここに来ます」と証しされていました。確かに感謝は、これから来る時代を乗り越える力なのです。そのことは個人的な体験からも明らかです。
 
 私は若い頃から聖書が大好きなクリスチャンでした。が、神のみ心や感謝ということを知りませんでした。ですから聞き従うことではなく、逆に神はただ自分を幸せにしてくれるだけの存在だと思っていましたし、悪いことや困難を感謝するなんていう信仰はまったくお思いも及ばぬことでした。
 
 しかし今は違います。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)ことを体験し知っているからです。五十代になって、信仰も教会もほとんど失った人生最悪とも言える状況下、その時見たワカサギ漁のまぼろしで私は、あやうくサタンに釣られそうになりました。このリアリティある仮想体験で初めて自分の深い罪性に気づくことができました。打ちひしがれた私に、神はご自分から姿を現し、どれほど愛してくださっていることを知らせてくださったのです。神の愛にふれ、取るに足りない自分を喜んで神に捧げることが唯一の願いになった瞬間でした。この体験は神を信頼し感謝する者に私を変えました。
 
 最悪はこうして最善の祝福に変えられました。キリストの十字架はサタンの勝利から、一転して神の勝利になったのです。サタンですら決定的に敗北してしまう神の知恵は、その愛される人々に対しても、信仰の感謝を通して超越し圧倒的な勝利を与えるのです。
 
 先ず神に信頼し、肉的な己の目で判断しないで、神を愛し、信頼し、すべてを感謝いたしましょう。実際、人間の思いなど取るに足りないことであって、すべてを感謝する、そのことによって神が重荷を負ってくださり、逆転の解決をしてくださるのです。

2017年4月30日 (日)

父のみこころ

ヨハネ 6章38~40節
38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。
39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。


 数日前に黙示録の2ー3章を読みました。七つの教会は、すべての時代に存在した教会の信仰の型だと言うのが私たちの見方です。今回この箇所を読んでいて、これまで気がつかなかったあることを見つけました。みなさん、どうしてスミルナとフィラデルフィア教会が良く言われているか、ご存知でしょうか。それはこの二つの教会だけが「悔い改め=罪・過ち」を指摘されていないのです。
 
 さてそれはさて置き、残りの五つの教会をさらに詳しく見ていきますと、P牧師も指摘されている通り、たとえフィラデルフィア教会でも携挙が全員ではなく、五つの教会であっても、悔い改めるならば「いのちの木の実」、「新しい名」などと天の都、新しいエルサレムが約束されています。これはバプテスマのヨハネからヨハネによる黙示録に至るまで、「悔い改め」が天への鍵であること、これが聖書が語る一貫したテーマです。
 
 ですから「悔い改め」を否定的に受け止め、抵抗を感じ、忌避している人は、取り返しのつかない大間違いをしているのです。イブが善悪を知る木の実を食べて以来、全人類は罪の中に居ます。では神は私たちを、地獄の滅びに落とすために造られたのでしょうか。違います。神のみ心が聖書に、はっきりと次のように書かれてあるからです。
マタイ18章12-13節
だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。このようにこの小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなた方の父のみこころではありません
ヨハネ6章40節
事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです
 天の父なる神は、罪から私たちを救うために、尊い独り子イエス・キリスト様を遣わし、人間の罪の身代わりとして十字架で死ぬことをお命じになりました。ここに神の愛があり、信じる者に完全な赦しが与えられます。赦された者は滅びから免れ、御霊の体という滅ばない新しい体と、永遠のいのちを持って神の国の一員となります。
 
 ただし、罪が分からねば悔い改めることができません。罪がわかることは打ちのめされる一面がありますが、十字架によって悔い改める者は赦され、神に祝福される者となっての大逆転の結果になります。悔い改めることは何と素晴らしいことでありましょう。天国へのパスポートです。ハレルヤ! 感謝します。

2017年4月23日 (日)

神の愛

Ⅰヨハネ 4章19節
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
 
 主イエスやペテロやヨハネは皆、同じことを言っています。神は愛であること、そして信じる者は神を愛することです。なぜ神を愛するのでしょうか。神がまず愛してくださったからです。その絶大な愛に、信頼し、悔い改めて応答する者となるからです。
 
 もう一つ、詳しく神を愛することを見るなら、それは≪本来地獄行きの己の罪が(十字架の贖いによって)赦され、その負債を免除され(救われ)たどころか、子として永遠の命を与えられた≫からです。
 
 この赦されることについて、私はどうしてもルカ7章後半にある、罪深い女の話を思い出します。この女は通常であれば、イエス様に近づくことすらできなかった存在でした。しかしイエス様を招きながら、試そうとしたために見逃されました。女はイエス様の背後から近づき、その足を自分の涙で濡らし(どれほど多くの涙が出たことでしょう!)、自分の髪で汚れを拭き、御足に接吻した上で、おそらくは自分が一番大切にしていた最大の財産、御足を香油で塗りました。
 
辺りで知らぬ者のいない罪深い女。もう十分に辱められ、見下された罪深い女。しかし当時の社会では、女が働いて生きる仕事は他になかったのです。この世で自分の命にも等しいような香油を捧げた女は、イエス様の神性が分からなかった宗教の専門家パリサイ人に対し、それをはるかに理解していただけでなく、卑しめられたこの世ではなく、赦されて神の国への希望と信仰が圧倒的にあったのです。
 
 女のなすがままにされていることをいぶかしんでいるシモンに、ついにイエス様は言われます。金貸しから借金を全部許してもらった(そんなことはあり得ないことですが)二人のうち、一人は現代で言えば50万円、もう一人は500万円相当でしたが、「どちらが多く金貸しを愛するようになるか」と。
 
深刻な罪意識を持つことは、十字架の主イエスのところに行くことによって、多く赦され、多く愛するようになる恵みの道でした。神を愛する者は、多く赦されなければならない者でしたし、神の子とされた今となっては、かつて罪深い自分であったことが宝となりました。神を愛することは、すべての罪をおおうだけでなく、何があって奪われることのない天の宝です。
 このことは「愛のない者に、神はわかりません(1ヨハ4:8)」とあるとおりで、神を愛する者は兄弟をも愛するのです。

2017年4月16日 (日)

神のみこころに聞き従う

Ⅰペテロ 4章2・7節
 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。


 キリスト教においては福音を信じる、つまり「救われ」てクリスチャンになることが先ずもって大切なことです。その次、クリスチャンの信仰生活において、もっとも大切なことは「(神の)みこころを行う」ことです。このことは聖書でイエス様ご自身や、12弟子筆頭のペテロやヨハネらが口をそろえて語っています。このみこころを行おうとすれば、それは結果として神に「聞き従う」ことと同じことになるのではないでしょうか。
 
<参考聖書箇所>
主イエス・・・マタイ 6:10/7:21/12:50  パウロ・・・エペソ 5:17   ペテロ・・・1ペテロ 4:2  ヨハネ・・・1ヨハネ 5:14
 
 では、神のみこころとは何でしょうか。そのことも聖書には明確に説かれています。「(先ず教会内から)互いに心から愛し合う」ことです。ただ注意しなければならないことに、私たち人間にはそのような愛がないことです。人間はすべからく罪人で、自己中心な存在なのです。ですが、各自に聖霊に注がれ、神のあわれみとその力に依って内なる世的な肉を滅ぼすなら、可能になります。こうして聖霊を通しての神の愛が各自に満たされ、溢れて行くなら、互いに親切にし合い、仕え合うことができます。自分の今のありさまや、力を見ては不可能ですが、神にあっては不可能はありません。神の栄光はふさわしくなく、愛の力のない者を通して、神の愛が現されるのです。
 
 もう一つ、神のみこころは私たちが「堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かう」ことです。悪霊というものに対して、今は罪赦されて神のものではあっても、私たちの力では弱い存在です。しかし神は、悪霊に対し、私たちが怖じ逃げ惑うのではなく、「立ち向かえ」と仰っているのです。私たちの力は弱いけれども、神をバックにした堅い信仰に立つならば、圧倒的な勝利者となるのです。クリスチャンは神のしもべであって、しもべは主人の威光を帯びているからです。悪霊に対して逃げてはなりません。戦いの場では、その人が本当に神を信じているのか、神からの聖霊の力が注がれ、みこころによって立っているのかが試されます。失敗を恐れる必要はありません。イエス様の時代において、口をきけなくさせ、ひきつけさせる悪霊の追い出しに失敗した弟子たちにしても、多くのことを学ぶことができたからです。
 
 こうして見ればクリスチャン生活とは、聞き従いを通して、己に見られる内面の不従順さ、世的な欲望と戦い、また外から来る悪霊との戦いをし続けることだと言えるようです。天の故郷に帰るまで続くこの戦い、感謝と賛美はこの中で上がる、信仰による勝利の旗だと言えるでしょう

2017年4月 9日 (日)

クリスチャンの成長

イザヤ6章8節
私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」


 長年教会生活を送られ、奉仕しているのに、一向に自分の問題や困難が解決されず、また信仰の成長や恵みがないと思ってる方がおられれば。本日はそのような方にメッセージを取り次がせていただきます。
 もちろん恵みが感じられにないからと言って、教会生活を中断したりすればUpupどころかDowndownになるわけです。牧師に相談すると、自分のことばかりに目を向けないで、目を外に向け、もっと大変な人々を助けるべきだと諭されるかも知れません。しかし自分の車のガソリンが尽きかけているのに、他の人に分けあてなさいと言っているようなもので、それは無理です。まず自分自身の必要が満たされなければ、どうして他の人にそれを分けられるでしょうか。
 
 さて本題ですが、イザヤは神殿の上に立っている聖なるセラフィムを見て、己の罪深さがわかりました。イザヤは王族の一員で、人の目には正しい人でした。しかし神の圧倒的な聖の前には、滅ばなければならないただの罪人でした。神のあわれみによって、燃えさかる炭が口に触れたので、赦され救われたのです。その与えられた命のゆえ、彼は進んで、「ここに私がおります」と神の召しに応えようとしました。罪を知る、赦しがわかる、献身する、これがポイントです。イザヤだけでなく、人は自分の罪深さをいかにして知るのでしょう。神の聖の前に出ない限りは、罪は分からないようです。
 
 クリスチャンの成長とは、言い方を変えれば、己の罪深さを知って行く過程であるともいえるでしょう。聖である神を知れば知るほど、つまり罪がわかればわかるほど、神のあわれみ深さ、十字架の愛がどれほどかがわかり、自己がかすんで行きます。ついには神の愛をまったく信頼し、自分を捧げたくなって仕方なくなります。神の召しにいのちをかけて応えて行こうとする決心が湧いてきます。こうした神との交わりを通し、経験を通し、自分の思いをはるかに超えた導きの正しさがわかり、自分の考えよりも神のみ心が最善であって、聞き従うことを何よりも求めるようになるのです。
 
 クリスチャンの成長とは御心を求め、聞き従うことにあります。神の言葉である聖書と聖霊との交わりという、聖なる神との交わりなくして成長はありえません。神は生きておられます。交わりのない信仰生活は、徒労感が蓄積するだけです。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」神を、飢え乾きをもって求めましょう。そうすれば必ず神はご自身を現してくださいますし、「ここに私がおります」と応えているご自身と、その成長を見ることになるでしょう。

2017年4月 2日 (日)

原罪から恵みへ

創世記 3章6節
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 このアダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追放されるという原罪の記事は、人間のどうしようもない罪を明らかにするだけのものでしょうか。そうではなく、キリストとその十字架による赦しと解放へのドアです。また最終的にはエデンの園にあった永遠の命である「いのちの木」をも与えようとする祝福のプロローグなのですから。
 
 では園に神はなぜ禁断の木の実を置かれたのでしょうか。疑いようもなく、神への「愛」と「従順=戒めを守る」というシンボルでした。キリスト教信仰とは、一言で言えば関係の宗教だと言われます。人格的な関係というものは何よりも信頼が土台です。ですから国旗のように、園の中央に置かれていたのです。
 
 エバの行動で推察されることは、「それに触れてもいけない」と言われていた所に単独での近づいたことです。蛇とのやりとりを通して、そばにアダムが居たような記述がありません。禁じられている恐い所、そこにだけ蛇が居たようですし、そんな所にわざわざ一人で近寄って行くでしょうか。エバに単なる興味や好奇心以上の、神の戒めを疑い、自分の目で本当かどうかを確かめてみたかったという意図を感じます。
 
 エバの罪は蛇の言葉を神よりも信じたことです。サタンの本質は偽りとだましです。また恐怖で人間を支配しようとします。木に近づくという神の言葉への疑いを元に、かつてサタン自身も犯して転落した罪である「神のように賢くなりたい」に、エバをだまして成功しました。神の計画を見事に挫いたようにも見えます。しかしサタンのたくらみのすべてが、キリストの十字架によって完全に打ち砕かれるストーリーが聖書です。
 
 エバのことから学べる、神との信頼関係を損なってしまう、気をつけなければならない三つの原則があることに気づきます。
 第一に神を愛することです。神を愛すれば、その心を行いたいと願うようになります。木に近づいたりするような、誘惑されに行くような危険を冒す気にはなりません。
 第二に、エバが誤ったように見た目や自分の欲や判断を優先させる高ぶりに、特に注しなければなりません。私たちは有限な誤りやすい者で、神に従ってこそ正常なのです。
 第三に聖書と祈りです。「あなたは決して死にません」と言う嘘は、それを体験してからでは取り返しがつかないものでした。見分けるために何を信じ、誰に導いていただくのか、その答えは聖書と祈りしかありません。

2017年3月26日 (日)

キリストと共に死ぬ恵み

ガラテヤ 2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 
 この火曜日のブログで私は母との思い出を書きました。書いていて思い出したことは、「人は自分が誰かに必要とされ、それで生きていける」ということでした。その間の詳しい事情をすべて省きますが、五十歳にして家族を失い、やむなく母のアルツハイマー症の介護を兼ねて実家に帰った私の心はボロボロでした。しかしそれも数年経つと、病の進行で母は施設に入ることになりました。
 
 すると、誰も居なくなった実家に、自分一人がポツンと居ることになりまして・・・そのような経験がお有りでしょうか? あればご理解いただけるでしょう。誰も私を必要としない、されていない状況に置かれ、虚しさ、淋しさに私は本当におかしくなってしまったのです。仕事はありましたが、私が居なくてもすぐに代替者が来ます。しかし家族の代替者は居ません。家族を失い世話をしていた肉親まで・・・私の喪失感は極まったのです。
 
 私はクリスチャンですので自殺できず、自棄(やけ)になって自分をダメにしたい衝動に駆られるようになりました。そんな人生の最大の危機的な時、どん底の闇の中の私に、神のあわれみが注がれ、光が射す時が来たのです。
「私はあなたをずっと愛していた・・・」神の語りかけは突然でした。そしてその言葉は、私を瞬間的にいっさいがっさい、完全に変えたのです。誰からも必要とされなかったのでは無かったのです。神がこのウジ虫のような罪人の私を愛し、私のために十字架に架かってくださった・・・こんな愛ってあるでしょうか。この愛は、たとえこの世で命を失おうとも、失われることがない永遠の愛です。恐れ多いことですが、天地万物を造られた神から、私は必要とされ愛されていたのです。
 
 このことはへブル2:14でキリストが十字架で死の力、死の恐怖、サタンの縄目から私たちを解放してくださったと書かれてあるように、本当でした。それまで三十年もクリスチャンでしたが、それを自分のこととして受け取れていませんでした。
 
 それ故真に神を信じる私たちは告白しましょう
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにいきておられるのです」と。
 
 こうして私は新しく生きる者となり、虚しさとサタンから解放され、真に生きる喜びを覚える者とされました。みなさん、これがほんとうに生きていると言うことです。誰も、死をもこれを奪うことができません。永遠の愛です。苦しめられた者は幸いです。神の愛を知るからです。神のあわれみに感謝しましょう。

2017年3月19日 (日)

霊とともにあるように

Ⅰコリント 13章13節
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 人の話において、大切なことは一番最後に語られることが多い。パウロの書簡で最近気がついたことに、パウロの特長として、一番最後はBenediction(ベネディクション:祝祷,感謝の祈り)で終わることがほとんどです。それにも多少の違いがありますが、だいたい「主イエス・キリストの恵みが、あなたの霊とともにありますように」の言葉で締めくくられています。これはつまり、パウロは<聖霊との霊的な交わりが、すべての恵みの土台なのですよ>と常に忘れず私たちに念を押していると言えます。
 
 先週のメッセージでは、終末では「背教者が出る」と語りましたが、背教とは「神との関係を断つ」ことです。では逆に信仰とは何か? それは「神さまとの霊的な交わり」ということではないでしょうか。
 信仰は「感謝する」「喜ぶ」「聞き従う」「受けたと信じる」「踏み出す」などいろいろな言葉で語られます。確かにその通りですが、「私はあなたに従う力がありません。主よ、私を助け、み心を行わせてください」(み声に聞き従うp90)」とあるように、信仰を行う力は畢竟、上より来るのであって、ポイントは聖書と祈り、祈りにおける霊的な神との交わりです。二人のパウロが言っていることは一致しています。
 
 さてここからワンポイント、本日の中心です。神との関係、祈りと交わりにおいて主導権というか、決定権というか、それが人と神とのどちらにあるでしょうか? もちろん、それは神にあります。私は皆さんに、個人的にですが、聖霊のバプテスマについて、明確な体験を受けるようお奨めしています。もちろん神さまの方でも、その願いはみ心ですから100%叶えてくださると信じます。しかし、です。祈り求めても、長く聖霊のバプテスマが注がれない場合もあることでしょう。その人は他の人と比べたりして理不尽に思ったり、苛立ったり、諦めたりするかも知れません。ここが重要だと思うのですが、聖霊はよく風に例えられるように、人の思惑を凌駕します。なぜなら人は、その原因が自分にあることがわからないし、どうすればよいか自分ではわからない上、最善のタイミング、時というものもわからないのです。イライラしたりしてはいけません。それは自分の計画が神より優先しています。救いが神から来るように、ただ神だけが最善をご存知なのです。
 
 「貧しき者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」です。真に自分の心の貧しさを知る者となった時、聖霊の親しき交わりも近いことでしょう。熱心に祈り求めることとは、ただ静まって神の時を待つ聞き従う忍耐と共にあります。

2017年3月12日 (日)

主の日、後の時代

Ⅰテモテ 4章1節
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
Ⅱテサロニケ 2章3節
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
 
先週の月曜日がⅡテサロニケ2章、昨日の土曜日はⅠテモテ4章であり、この両方とも終末に触れている箇所です。偶然はないと感じました。Ⅱテサ2章での「主の日」とは、キリストが地上再臨される時であり、Ⅰテモテ4章「後の時代」はその前に来る大患難とリバイバルの時代のことを指すからです。
 
 一昨年からこの群れでは「リバイバルが始まりました」と語られています。ただそれが本格的に「今日来るか、さては明日か」と待っている方がいらっしゃるとしたら、ちょっと気をつけましょう。聖書に立って時を調べてみれば、次のように述べてあるからです。
 
 まず第一に『背教』(Ⅱテサ2:3)が起こらなければなりません。背教とは聖霊の賜物を受け、不思議なわざを行っていたような器が神に背くことです。教会の指導的な立場の人たちが、神に背く存在となります。サタンが全天使の1/3を惑わして悪霊に堕としてしまったようなことが、終末の時代に起こる可能性があります。わざや奇蹟に目を奪われ、神からのものが見分けられない多くの信者が惑わされるのでしょう。
 
 次に世界の比類のないリーダーとして、反キリストが登場しなければなりません。彼は不法の人ですが、死んだように見えても生き返り、誰もが為し得なかった中東和平を成立させます。その結果神殿の丘に、全イスラエルの悲願であった第三神殿が再建されます。このことをⅡテサ2:4で「神の宮の中に座を設け」と予告しており、サタンがサタンとなったゆえんの、反キリストが自分を神とし、己への礼拝を強要する最大の罪を犯す事態が来なければなりません。人々は熱狂してこれを歓迎し、反キリストへの礼拝を拒むことは命懸けになるでしょう。
 
 第三にマタイ24章でも語られているような、月が血の色に変わるような天変地異、飢饉、パンデミックな疫病、戦争の噂などが起こって来るでしょう。これらの事柄が起こらなければ、後の時代も、主の日も来ないのです。また見せかけでも、熱心そうに断食したり、苦行を説く者にもだまされないようにしましょう。
 
 私たちは「すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。誰にも、どのようにも、だまされないように(Ⅱテサ2:2)」いたしましょう。何が神から来たものかどうかが判断できるように、普段からしっかりと主と交わっておくことが大切です。まさに油を切らしてはいけないのです。ポイントは聖書と祈りです。聖書を読み込み、聖書が知識と信仰の土台となっていること、日々主の、み心を行いたいと祈り、感謝し、喜んでいるならば、どんな時が来ようと万全だと言えるでのす。

2017年3月 5日 (日)

私があなたを遣わすのではないか

士師記 6章12・14節
12節 の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。があなたといっしょにおられる。」
14節 すると、は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
 
 ギデオンはイスラエルのカナン定着の初期、士師の時代においてサムソンと並んで最も有名な指導者です。しかしナジル人で生まれつき選ばれていたサムソンと対照的に、召命を受けた時の彼は属する部族も、その立場も弱いものでした。ですから士師になるには「最もふさわしくなかった」人物とも言えます。今日はこの「ふさわしくない」が一つのテーマです。
 
ギデオンの名には「強い勇士」という意味があります。しかし神に会うまでのギデオンはミデヤン人を恐れて脱穀の麦を酒舟の中で打っていたという名前負け状態でした。脱穀の麦を打つためには、風通しの良い戸外でする作業ですが、そんなことをすればミデヤン人に見つけられて、麦を奪われるばかりか、隠していたとばかり痛めつけられる恐れがありました。
 
ミデヤン人とはアカバ湾の両側であるアラビヤやシナイ半島南部に住んでいた遊牧民です。アブラハムの二番目の妻ケトラとの間に生まれた民で、モーセの妻になったチッポラもその民の一人でした。イスラエルの地から見れば最も遠縁で遠方の民族、ミデヤン人がヨルダン川を渡って東から略奪に来ていました。
 
この時イスラエルは弱く、略奪に堪えかねて救いを待ち望んでいました。その叫びに神は、もっともふさわしくないギデオンを選ばれました。ギデオンがミデヤン人と戦うために角笛を吹いて、3万5千人集めましたが、神はこれ1万人に減らし、さらにハロデの泉でたった3百人に落とされました。これはイスラエルが自分の力で勝ったと言わせないためでした。こうして神の御業が現れる舞台は仕立て上げられました。このことからもわかるように、神のみ心は、民がどうにかして心から神を信じて欲しい、そう願っておられるのです。
 
今日、当初のギデオンのように、名前負けをし、現状に希望を失ない、人生に立ち向かうのに無力感を感じておられる方がおられるかも知れません。しかし大事なのは現状ではありません。ギデオンのように、ただ「神がその人とともにいらっしゃるか」どうかです。
人生の主な問題は、「主があなたと共におられるか否か」です。それは逆説的ですが、自分の計画や夢、希望を一切棄てて、代わりに神の計画の実現にそれらを置き換えることです。ただ神を信じるだけでなく、神を主とし、己を僕(しもべ)として神に聞き従う道でもあります。クリスチャンでも、このように願っている人はごく一部の人だけという現実があります。
 
ただここに大きな問題があります。神に用いられて行くと、サタンがそうであったように、高慢に陥る可能性がたかいのです。これは何としても避けなければなりません。ですから、誇れないように、ふさわしくなかったギデオンを召し、絶対自分たちの力で勝ったと言えないよう、3百人で13万5千人を打ち滅ばされました。
 
 このように「自分はふさわしくない」と思っておられる方、あなたこそ神に栄光に帰すことができ、神に用いられる器として最も適した状態であるとも言えるのす。ただ神を信頼し、神に期待して目を上げましょう。お一人お一人に神の最善の計画があります。どうか神があなたの人生に、ともに歩んでおられますように。

2017年2月26日 (日)

創造の目的

コロサイ人への手紙 1章18節
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
少し前のことです。いつもの歯科医院でブラッシングの指導を受けていると、「ここ、いつも磨いていませんね」と言われた所がありました。「そんなはずはない」と思いつつ教えてもらいますと、なんと私に親知らずの歯がありました。もう少しで私に、親知らずの歯が在ったことを知らずに終わるところでした。知っていなければ、それは存在していないのと同じです。ケアされないで無視された歯は、早晩虫歯か歯槽膿漏になったでしょう。
 
人が全知全能の神を認めないのもこれに似ています。世のほとんどの人は、私の親知らずの歯のように認識せず、したがってぞんざいにして、神の恵みを無にしてしまうのです。
さて、霊的な存在には神・天使(堕天使を含む)・人があります。その中でも人は物質を伴ったハイブリッドですので、端的に言えば人のために、天地万物のあらゆるものが用意されたと言っていいでしょう。この宇宙と人を含めた天地万物は、誰が造ったのでしょうか。またそれは、何のためでしょうか。
 
ちょうど本日の聖書通読箇所であるコロサイ書の1ー2章にその答えがありました。「万物は御子によって造られ、御子のために造られた(コロ1:16)」とあるのです。ピリピ書2:10-11でも「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるため」とあります。実にすべてのものがイエス・キリストにあって造られ、またイエス・キリストのために存在するのです。ではそれは、いったいなぜなのでしょうか。
 
ピリピ2:6-8には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず・・・・」とあり、キリストは神であるにもかかわらず、卑しい人の形をとってこの世に来られ、十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださいました。
キリストは人として歩まれていた間は、小さい者、弱い者、病ある者を助け、癒やし、力を与え続けました。その最後は全き罪無き方であるのに、十字架にかかって全人類の贖いの小羊となってくださったのです。神との和解を間に立って執りなしてくださった仲介者なのです。神の全性質がキリストにあるのですから、神はこのような愛そのもののお方だということが分かります。
 
神を信じるなら、神は私たちを罪から解放してくださり、ご自身の子としてくださり、永遠のいのちを与えてくださいます。今もなおキリストは天で、神の右の座で、私たちのために執りなしていてくださっています。これをなんと言いましょうか。何と計りがたい神の知恵、その奥義。我らの救い主、主を崇め賛美しましょう。私たちはその恵みの証人です。

2017年2月19日 (日)

もう一人の助け主

 ヨハネ 14章16節
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
 
 聖霊について、実はよく分からないという方が結構クリスチャンに居られます。聖書に聖霊の内住だと分かる箇所があります。16節「そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになり・・・・その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられる」ところです。助け主とは聖霊なる神です。この方を私たちに送られるためにキリストはこの世に来られ、十字架にかかってまで私たちを愛してくださいました。ですからイエス・キリストを主と信じるならば、聖霊さまは私たちの内に住んでくださるのです。しかし多くの場合頭だけであって、実際には分からないようです。
聖霊なる神はこの章の26節以降ですが、三つの現れがあります。一に教え、思い起こさせてくださる。二に、平安を与えてくださる。三に孤児にはせず、助けてくださる、と。
この意味です。神は皆さんの人生の始まりから私たちを子として特別に養護し、育てていてくださっているのです。時が来た時にですが、子ども時代の写真アルバムをめくるように、御手の内にあった数々の出来事を神は思い起こさせてくださいます。実際私も、神さまを知るまでのこと、信仰告白をしても、神に従おうとしなかった放蕩息子の時代のことなど、本当にくまなく見せて教えてくださりました。いかに神さまが忍耐強いか。どんなに私の心が神さまに向くのを待っていてくださったかが分かりました。神は私たちを愛しておられ、私たちの心が神に向くことをお望みなのです。

次に神は平安そのものであることです。確かに時に注意を受けたりしますが、それは「叱られる・叱責」というより、「よくぞ叱ってくださった」と「注意されて愛を感じる」性質のものです。ましてそこに恐れを感じることは決してありません。

 もしそれがホンの少しでもあれば、断言しますが、それは神ではありえません。平安の反対は、巧妙なだまし屋サタンの手口です。Beach699435_960_720_2すぐさま問答無用に遮断し、追い出してください。神はこのような、私たちがどんなに惨めで罪深い者だとしても、決して見捨てず、呼べば助けてくださるお方です。

     この神さまと私たちとの関係は有名な、「砂の上の足跡」からもよく分かります。
本日はこれを紹介して終わりにいたします。
 

2017年2月12日 (日)

信仰

ガラテヤ 5章16節
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

今から数十年前のことになりますが、私たちの群れが中国に聖書を持ち込んだ際、二十年以上の獄中生活を送られた方々に会いました。その人たちに、さぞ辛かったでしょうと獄中生活をねぎらうと、「Never!」と答えが返ったそうです。「イエス様の十字架を負うと、イエス様の愛がよく分かった」とも。獄中生活は、それはそれは神さまと一緒の素晴らしい時であったのでした。迫害のような恐れる事柄に対し、この事は多くの示唆を与えます。神に従う者に聖霊の力が注がれることを忘れてはなりません。聖霊の力とは聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしを受けてのものです。
 
 クリスチャンは各自、はっきりと聖霊のバプテスマをImages_2 受けた体験を持つ必要があります。聞き従いは、神を知り、その確信に立っています。ですからはっきりと分かる聖霊のバプテスマを祈り求めてください。聖霊を知らずしてどうして「神に聞き従う」ことができるでしょうか。明確な聖霊のバプテスマを受けることが全ての始まりです。
 少しオーバーに言えば、このように聖霊様を求め得られなければ、クリスチャンとしてこのまま地上で生きていてもしょうがない、とまでの飢え渇きが湧くのが自然です。自分が中心である肉のクリスチャンには、このような祈りや渇きはありません。
 
 聖霊のバプテスマを受けると何が起こるでしょうか。神さまが分かるのです。神さまとはどのような方なのか、それこそ「御霊の実」そのものであることが分かります。その絶大な価値の故に、それまでの自分自身がまったく無であることに気づかされるのです。そして神に、自分を完全に捧げたいと心から願うようになります。神を愛し、聞き従いたいと願うようにもなります。また聖書がよく分かるようになります。聖書は聖霊によって書かれたものだからです。さらに聖霊は九つある聖霊の賜物を通して、私たちを証しの器としてお用いくださいます。このように聖霊のバプテスマはその人自身をまったく変えます。霊・魂が神との正しい立ち位置に戻ったので、肉体と心のあらゆる病がいやされていきます。
 
 ですからお奨めいたします。あれこれ日常のことを祈り求めるのも大切なことでしょう。しかし、まずもって聖霊のバプテスマと満たしを求め、期待し祈っていただきたいと思います。そうすれば日常のすべては、添えて与えられます

2017年2月 5日 (日)

あなたは何処へ行く

ローマ 1章16節
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

 全国の高齢者の皆さん、私もこの度お仲間に入れていただいた若輩者ですが、年金とか、各種公共料金など、いろいろお得になったことがわかりました。しかし振り返ってみれば、喜んでばかりはいられない年代でもあると思います。
 なぜなら私と妻には普通の倍の八人の親がおりましたが、誰一人この世にはおりません。気がついてみれば、順当にいけばですが、次は私たちの番なのです。人生の折り返し点をとうに曲がりきった私たち高齢者は、命というものを真剣に受け止めなければならない世代です。人は死ねばお終いで、一切は無だと思っておられる方は少ないでしょう。形ある物は必ず朽ちていきますが、見えないもの、形ないものは朽ちず滅ばず、永遠です。人間の霊・魂というものも同様です。たとえ体を失っても永遠に残ります。
 
 問題は血肉のこの体を失った後、霊、魂が何処へ行くのかということです。仏教では、仏を信じる者は皆、極楽浄土に行くんだと聞かされました。しかし私は皆ということ、それが気になりました。なぜなら、罪が消えておらず、それならこの世とあまり変わらない所のように思えたからです。この世とあまり変わらないのであれば、行きたい所ではありません。はっと気がついてみると、赤い炎がちらちらしており、すごい臭いのする所では後の祭りです。死後の選択とは生きている間だけの、たった一回だけの選択です。永遠を時間をそこで過ごすとあれば、これに失敗するわけにはいきません。
 キリスト教では、唯一にして三位一体の神だけが神です。イエス・キリストは神の子であるのに、卑しい肉の形をとって処女からお生まれになり、十字架によって全人類の罪を背負ってくださいました。身代わりになってくださった十字架を信じる者は、完全に罪が赦され、聖霊が住まわれて新生し、罪なき世界、天国に行けます。
 
 そこで皆さんによくよく考えていただきのです。先ずキリスト教は世界最大の宗教です。22億人以上、つまりこれは人類の三人の内一人はクリスチャンです。次に世界最古、何と四千年の歴史を持っていることです。最後にキリスト教は国籍、民族を問わない世界宗教であることです。例えばヒンズー教はインド、道教や儒教は中国や朝鮮半島だけという特定の民族と地域のものです。ところがキリスト教はアジア大陸の西端から発して、全ヨーロッパ、アフリカ南部、海を越えて南北アメリカ大陸、オーストラリア、最後にアジアのフィリピン、韓国へと五大陸をカバーしています。日本を除く世界の先進国が皆、キリスト教の国なのです。

 皆さんイエス・キリストを信じて、また天国でお会いしましょう。短いこの血肉の命に比べ、永遠の命の世界を、どうか選び取ってください。

2017年1月29日 (日)

御霊によって歩む

ガラテヤ 5章16節
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
イエス・キリストは「聖霊を受けなさい(ヨハネ20:22)」と言われました。にも関わらず、クリスチャンでも、右の絵のような「聖霊の実」が現れていない方がおられます。つまりクリスチャンになっても「愛」も「喜び」も「平安」もなく、未信者時代とそれほど変わらない生活を送っておられるわけです。S
 血肉の体は御国を受け継ぐことができません(1コリ15:50)。同じように肉の心では聖霊の満たしを受けることができず、天に宝を積むことができません。聖霊なる神を通して、聞き従うことができないからです。永遠の天に比べれば、血肉のこの世はホンの一瞬です。このままでは取り返しのつかない、本当に痛恨の極みとなります。
 それで聖霊を求め祈るのですが、神は聖にして義なるお方です。肉の心(自分)が中心となっている限り、その人に主として入ることがおできになれません。人間は罪深く、信じても容易に自分を明け渡しません。愛する者に神は試練をお許しになります(へブ12:7)。ですから私たちは試練、困難を心から感謝するのです。
 私たちがどんなに罪深いか、一つだけ例をあげましょう。すごく自己否定的な方が居られたとします。一見謙遜にも見えます。しかしその自己否定が、実際の自分よりもはるかに高い自分を想定しているため、それに達し得ない自分を否定し受け入れられないのであれば、それは逆に高慢になりかねません。
 
 どうしたら具体的に聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしを受けることができるのでしょうか。ペテロは使徒2:38で「悔い改める」ことと「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」ことだと言っています。チョー・ヨンギ牧師はクリスチャンに内在する「憎しみ」「恐れ」「劣等感」「咎め」を悔い改めることだと言っています。私自身の体験から申しあげるなら、それを受けるには
(1)絶対注がれるまでは諦めない熱心と、
(2)神が導かれた「深い悔い改め」の中で、神の時に注がれるとしか言い様がありません。
 
「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちにどうして聖霊をくださらないことがありましょうか」(ルカ11:13)

2017年1月22日 (日)

人は心で(霊)で生きる

箴言 3章11~12節
11節 わが子よ。の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。
12節 父がかわいがる子をしかるように、は愛する者をしかる。

 人はこころで生きています。肉体にたとえ命があったとしても、心が常に心配や不安、憎しみ、恐れに支配されていたとしたら、その人は十分に生きているとはいえません。またその霊的な状態は、必ず体にも反映されていきます。
 
 素人の経験からですが、心の病の人はその病名がどうであれ、また本人が意識しているかどうかに関わりなく、セルフイメージ(自己像)に大きなずれがあるように見受けられます。例えば自己否定の態度のように見えても、それは高過ぎるレベルの自分を自分だと思っていたためだったりします。自分の思った通りの、描いた通りの自分にならない・・・・現状の弱く低次の自分を許せないからこそ激しい心の戦いがあるようです。
 孫子の兵法に「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」という言葉がありますが、この正しくありのままの自分を知る,受け入れるということが最も困難なことです。人はどうしたらそれができるようになるのでしょうか。
 
 昔、イスラエルにダビデという王様がいました。ベツレヘムという田舎に生まれ、羊飼いという貧しい家の少年でした。ダビデはやがて神の油注ぎを受け、勇者として名をはせます。やがて王として全イスラエルを統一し、都をエルサレムに定め、イスラエルを比類なき大きな国にすることができました。その功成り絶頂期にダビデは次のように言っています。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので・・・・(このように私を絶大に引き上げてくださるのでしょうか)・・・・私は取るに足りない者でした」と。ダビデのこの謙遜さこそ、代々のイスラエルの王家の血筋となり、イエス・キリストの家系ともなりました。自分の本当の姿、正しい姿に立ってこそ、神との正しい関係を築き、祝福を受ける土台です。
 
 このことを逆に言えば、クリスチャンが正しいセルフイメージを持って神の前に出れば、神から祝福を受けられる可能性が高いことを意味します。むろん神さまもそのことをお望みですから、試練というものを許され、試練で自己を砕かれることで、正しいセルフイメージを持てるよう導いてくださっているわけです。クリスチャンへの試練は神の愛であり、我が子として取り扱ってくださっているのです。ですから主の懲らしめをないがしろにするのではなく、感謝し正しい自己認識をして、み心に聞き従ってください。そうするなら、その試練は止むことでしょう。
 
 神は私たちを愛してくださっています。試練は人それぞれですが、神の愛は決して変わらず、死も命もどのような敵もこれを奪うことができず、永遠へと続きます。神が導かれた真の自分の姿をもって、神さまとの関係をさらに引き上げていただきましょう。

2017年1月15日 (日)

私はあきらめない

ローマ10章11節
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 困難と試練とは異なります。神を信じていない時のものが困難で、クリスチャンになってからは試練と分けています。私たちは本来傲慢なので、困難があるからこそ神に救いを求めるようになるのです。クリスチャンになってからの試練には、神の計画があり、信仰を引き上げ、使命を果たせるようにする訓練プログラムの一環という面があります。試練によって謙遜を得、聞き従うこと、感謝する願いを起こさせていただくことができるようになるのです。
 
 試練は一度来るだけではありません。Gif_4 何度も繰り返すようでいて、そこに成長と深化があって、スパイラルに、段階的に私たちは引き上げられていきます。それには神の教育法とでもいうべきものがあって、三つの過程をスパイラルに繰り返されて引き上げられていくと思っています。これを「きよめ」とか「聖化」と言い、ある段階まで来ると主の器として用いられていきます。
 
 神のプログラムの中で特に試練は、私たちの願いとは、別に残念ながら肉体がこの世にある限り終わることはないようです。なぜなら、肉体は滅ぶべきものであって、地に属するものです。同じく滅ぶサタンからの攻撃を受ける引っかけ口みたいなものでしょう。だから私たちは脱肉体というか、天を待ち望むのです。もともとクリスチャンは天に属しており、天はクリスチャンの故郷ですし、誘惑や試練はないからです。
 
 世においての私たちに対する神様の目的は、祝福です。ただし、この世で得られると思ってはなりません。信仰の父アブラハムも、マクペラの洞窟以外は世においての所有物はありませんでした。この世では、神様の御栄光が褒め称えられることが唯一の目標であって、私たちにとっては、天国においてのご褒美こそ祝福です。
 世においては神に聞き従って神の器となり、すべての栄光を神に帰しましょう。天の御国において祝福されることになります。そのために、熱心に自分を捧げられるよう祈りましょう。試練はその答えであり、 はじめの第一歩です。hallelujah!

2017年1月 8日 (日)

あなたの信じたとおりになる

マタイ 8章13節
それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
                           
  人間は肉体という物質と物質でない霊との共存体(ハイブリッド)です。物質は見えますが、霊は物質でなく永遠に存続しますから、見えません。見えないものが、制限のある見えるものをコントロールしています。ですから次のことが言えます。霊的に健康な人は肉体的にも健康であり、その逆もまた真です。そのため私たちの群れにあって癒やしは、霊的な面の取り扱い(救い・信仰)が前提視されるわけです。
 
 この見えない霊には三つあり、神と神に属する天使たちがあり、サタンとサタンに属する悪霊どもがあります。三つ目に人の霊があります。その力は1に神、2にサタン、3に人間と強さが異なります。つまり、人間は神に拠らない限りサタンに勝てないという点が重要です。要するにクリスチャンは、神なしには何もできません。そこで今あなたは、どちらの霊に支配されておられるでしょうか?自分で吟味をなさってください。
 
 さてここまでは準備運動です。私たち神を信じる者の霊には四つのPhoto_2霊的要素があります。
  一つめは「考え」です。現状を肉の目で見るのか、それとも霊的な目で見るのか、と言う認識です。どちら側の立場に立って見るのか、ということでまったく異なった展開になります。昔、エリシャがドタンでアラムの軍勢に包囲された時、エリシャはしもべと全く異なった認識をしました。エリシャにはアラムの軍を逆に包囲している主の軍が見えていたからです。クリスチャンに関して悲観的・否定的な見方はサタン的です。しかし聖霊とその信仰に拠って見れば、神の力による前向きな結果、栄光を産みます。
 
 次に「神には不可能なことはない」という信仰の言葉と土台に立つことが重要になります。これには聖句を用いたり、これまでの経験を用いるべきです。
 三番目に、実際にそのことが成就することをイメージし、リアルに夢を描くことです。それを毎朝、鏡の前で自信が得られるまで告白したりすれば大きな力になります。
 
 最後にそのような肯定的・積極的・前向きな言葉を告白しましょう。口から出る言葉には裁き(審判の意味ではなく)が伴います。信仰の言葉を紡ぎ、告白しましょう。該当する聖句でも良いでしょう。み心に反するのでない限り、主の時にそれは必ず成就します。まさに「あなたの信じたとおりになる」のです。

2017年1月 1日 (日)

神の住所

エペソ 3章16~17節
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

 日本人は今朝の元日、日頃は心にもかけず、信じてはいずとも、慣習か、またはわずかに残っている宗教心のためなのか、神社に詣でるようです。私たちのキリスト教の神さまは天地万物を創造された神です。偶像などに置き換えて拝まれることをたいへんお嫌いです。
 ではいったいクリスチャンどこを指し、どこを向いて、神を拝めば良いのでしょうか。よく「天にまします父よ」と祈りますので、天の方を向いたら良いのでしょうか。しかし日本とブラジルとでは、天の方角がまったく違うではありませんか。神はどこに居られるのでしょうか。イエス様が帰られた所、エルサレムのオリーブ山の上の方なのでしょうか。いえ、実はこのような特定の住所探しは愚かです。三位一体の神は時空を超えて遍在されており、どんなところにも居られるのです。
 それでもあえて「神の住所はどこ?」に答えるなら、神は神を信じる者の心の中に住んで居られます。今日の聖書箇所にあるように、聖霊なる神がクリスチャンお一人お一人の内に住まわれるので、私たち自身に聖霊の宮があるのです。ですから内なる神は、私たちのどんなつぶやきや、知られたくない心の秘密など、すべてご存知であります。どんな隠し事も、神さまには一切通じません。
 
 そう言われましても多くの信徒の方から「神さまの声など聞いたことがありません」「内に住んでおられる実感がありません」などと言われそうです。このような疑問に対して、まず第一に聖書がそう言っている確かなことであること。十字架は罪を赦し、聖霊さまをお一人お一人に内住させるためであったこと。最後に、以下に述べる四つの罪が内に住まわれている聖霊様との交わりを遮断しているからではないか、と申し上げましょう。
 
一つめ、未だ人を許していない「憎しみの罪」(マタイ6:14)があるため。
二つめ、恐れの罪。恐れはサタンを通す管です。恐れに支配されていては、1タラントを埋めてしまったしもべと同じ結果(マタイ25章)になります。
三つめは劣等感の罪、四つめは咎めの罪です。
これらはいずれも肉の思いが聖霊さまとの交わりを遮断してしまい、神の聖さもその臨在の恵みにもあずかれなくしているのです。ですから内住される神がわからないのです。
 
 どうか祈ってください。四つの罪に気づかされ、切なる祈りによって変えられ、肉において死ねるように。内住される聖霊と親しく交わることができ、信頼し、徹底して聞き従がい、主の御心の道を歩まれますように。神の恵みに与れますように

2016年12月25日 (日)

受肉された神

ルカの福音書 1章37節 
神にとって不可能なことは一つもありません
  私たちの神とはどのようなお方なのでしょうか?また、どのようにして私たちは神さまと交われるのしょうか?

 キリスト教など一神教には、偶像がありません。神のすべては、この聖書に不足なく明らかにされています。ですからクリスチャンで神さまのことを知りたい方は、まず神さまのどこを知りたいかを心を尽くし、祈りをもって聖書を読んでいただきたいと思います。求める者に神は必ず答えてくださいます。または、あなたの教会の牧師に聞きましょう。使徒8:31でカンダケに神がピリポを遣わされたような助けが、あなたにもたらされるかも知れません。
 付け加えますと、このことにちゃんと神は備えてくださいました。それは人となられた神、イエス・キリストです。今から二千年前、人となってくださった神を見ればよいのです。
 
 今日は12月25日。諸人こぞりてキリストの生誕をお祝いする日です。イエス・キリストは処女マリヤからお生まれになりました。天使ガブリエルからこのことを聞いて、あり得ないと思ったマリヤに対して天使ガブリエルが言った言葉が「神に不可能はない」と言うことばでした。全能の神にとって、聖霊によって処女マリヤから生まれることなど、簡単なことでしょう。しかし神は霊でした。その霊なる方が次元の低い不自由な肉の体をお持ちになった、このことに示された神の愛と計画が、処女云々より人間の理解を超えた、恵みの真の大奇跡でした。
 
 イエス・キリストという人となり、また為されたことがらについて、四つもの福音書で詳しく述べられています。嵐を静め、湖の水の上を歩き、五千人と六千人の給食を二匹の魚と五つのパンから為された。あらゆる病や精神の病をいやされ、罪人を赦し、弟子たちを訓練し、万人を愛された。これらの他にどのようなお方であったかを知るには、山上の垂訓と呼ばれるマタイ五章が参考になります。弱い者、貧しい者、悲しい者に寄り添い、あわれみ深いお方でした。また18:2にあるように、当時は無価値な者とされていた子どもを愛された。このように同7:11にある、神の御心というものを私たちに見せ、伝えてくださったのです。
 
 イエス様ご本人に関して言えば、ガラテヤ5:22-23「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」にある聖霊の実そのものを実際に現してくださったのもイエス様です。その上、十字架によって死に、復活されたすべてが、人間を愛してやまない神の御性質を現しておられるのです。信じるあなたのただ中に、イエス様の霊、三位一体の神である聖霊さまがお住みになっておられます。己の内に住みたまう神さまを確信し、心から祈れば、神はその祈りに答え、必ずご自身を示して答えてくださることでしょう。

2016年12月18日 (日)

復活

使徒の働き 17章31節
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。
古今東西の宗教で、教祖があまりにも残酷な公開処刑である十字架で死に、しかも三日目によみがえった・・・なんてものはありません。またキリスト教を特徴づけるものに奇蹟があります。湖の上を歩き、嵐を沈め、あらゆる病を癒やし、死人を何人も生き返らせるなどです。旧約時代にも奇蹟はありましたが、新約のイエスとその弟子たちほど、わずかな時間、広範囲にたくさんの奇蹟を現されたことはありません。
 
 少し前のクリスチャン映画三部作では、「復活(原題Risen)」がありました。日本語では「復活」ですが、英語ではRisen=よみがえったとResurrection=(教義的なキリストの)復活の違いを使い分けています。映画ではローマ百人隊長クラヴィアスが、部下の不始末を受け、遺体となっているはずのキリストを徹底捜索の結果、生きているキリストに出会うことになります。この段階では彼はよみがえったことの証人ですので、原題がRisenであるわけです。しかしこのrisenは生き返っただけで、いつかは死にます。Resurrectionとなると永遠に不死であり、さらに新しい肉体をも伴っているのです。
 
 よみがえりから復活へと。実はこれが異邦人には最も信じがたいところです。聖書のこの箇所では知性を代表するアテネ人は、復活の話になると使徒17:32「あざ笑い」、また「またいつか聞くことに」と相手にしなくなったとあります。これは今の日本人にも全く当てはまることで、十字架ならまだしも、復活を聞くと心の中では「あざ笑う」者が続出することでしょう。
しかし常識有る人々が到底信じられない復活なかりせば、キリスト教信仰は空しいのです。十字架の罪の赦しは、復活のためです。死後、霊魂の不滅、天国と地獄を説く宗教はあまたあっても、その体がさらに良いものによみがえり、天の国において永遠に生き続けるなどと説く宗教は世界で唯一、キリスト教だけです。到底信じられないことを全く信じる、これがキリスト教であり、信仰と申します。ペテロの信仰告白を受けられたイエス様が、十字架と復活のことを教え始められたのは当然のことです。付け加えてですが、このことは代々の聖徒の信仰告白「使徒信条」にはっきりと述べられています。
 クリスチャンであっても、復活の信仰が単に知識として留まっており、確信がないというか現実感のない方が多いと思われます。そういう方は非常に大切なことですから是非、熱心に祈り求めていただきたいと思います。
 
復活信仰のポイント
①(霊的面)死の恐れから解放してくださり、永遠のいのちを与えられた実証であり、死の恐れを打ち滅ぼしてくださった。天国(天の都エルサレム)に住まう確信を得ること。
②(肉体面)その体は、キリストの復活と同様、御霊の体と呼ばれる、今の血肉の体の制約を超えた別次元の永遠の体である。キリストはこの約束の成就と見本となられた。

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