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2018年1月14日 (日)

神の働きと恵みを見る時代

ヨハネ 5章4節
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
 三日前の木曜日のケパドルブログ、「僕の体は洋服のようなものだから」でお伝えしましたが、八歳の子どもでも自分の体は一時のもので、この体を脱ぎ捨てて着る新しい永遠の体があることを知っています。そして今聖書の通読箇所が黙示録の6章、ちょうど患難時代の幕開け、イエス・キリストによって1から6までの封印が開かれた所です。
使徒で真っ先に殉教した兄のヤコブに対し、イエス様に愛された弟のヨハネは使徒最後の殉教者になりました。ヨハネは小アジアの監督であるとともに、未来を描く黙示録の著者になりました。
「この後、必ず起こることをあなたに示そう」と言われて書いたこの黙示録、二千年の時を超えて、いよいよその時代が現実のものとして迫ってきたようです。イスラエルの復興がなり、何のことか分からなかったローマの復興が形を整えてきました。ロシアも中東に進出しています。これまで難解過ぎ、単なる形而上的なもの、暗喩的なものとされて来た黙示録が、これほど明らかに見えてきた時代はないのです。
 
 黙示録にある患難時代というものは、「定められた絶滅が荒らす者の上にふりかかる(ダニエル9:27)」という、サタンに属するものへの審きの時です。天変地異、戦争や飢饉が全世界を覆い、75億いる人類が前半の3、5年だけで1/4(残75%)と1/3(残50%)=半分も死ぬことになるという、超すさまじい時代となります。しかし空中再臨までの前半の時代は、患難とともに世界中での大リバイバルの時代となり、逆に神の力と誉れ、栄光が豊かに現され、霊とたましいの大収穫の素晴らしい時代となります。人は苦しみにあわないと神を求めないのは、変わらない真実です。この時、私たちクリスチャンは最高に用いられ、証しする機会となります。
 
また、空中携挙は「地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る(黙示録3:10)」とあるように、次に来るサタンが支配する後半の大患難時代から私たちが守られる意味もあります。ですから患難時代というものは、世の人々にとっては最悪、しかし私たちクリスチャンにとっては、代々のクリスチャンが待ち続けた<すばらしい時代>です。また怖れることはありません。「地上Photo_3に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る(黙示録3:10)」とあるように、私たちは来るサタンの後半時代から守られますし、「あなたがたを、耐えられないほどの試練にあわせることはなさいません(1コリ10:13)」と約束してくださっています。神の言葉を信じましょう。
 
本日は聖書に即して書かれた「せかいのおわり」の巻末にある、三枚の図表を元にこの時代に起こることを学ンで参ります。   
・・・・・・以下は図表の講解・・・・・・
 ポイントを申し上げましょう、まず神を愛し、天国に期待しましょう。神がまず私たちを愛してくださったからです。次に携挙の三条件ができるようしっかりと祈って求めて行きましょう。これはみ心ですから、祈れば必ず与えられるのです。

2018年1月 7日 (日)

世に打ち勝つ信仰

ヨハネの手紙 5章3~5節
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

 この三小節で何度も使われている言葉に、「世」と「(打ち)勝つ」という言葉があります。世とは現世とか世間など、肉的な世界のことを指します。それに対してovercomeという言葉を日本語聖書では「勝つ」と訳されていますが、winとかgain victoryではなく、原意は克服するという意味が強いのです。私の世代ではジョーン・バエズの歌で「We shall overcomes」をどうしても思い出す言葉です。
 
 以上から、世への戦いは困難ではあっても、私たちはこれを克服し、勝利するという意味になります。今からちょうど十年前、この群れの年間聖句にこの聖句が用いられました。その時にはあまり意味を考えることなしに、「そうだ、世が何だ!信仰こそ勝利」と喜んでいました。しかしこの度の聖書通読において、このみ言葉は文脈から理解すると、ここでの「世」とはある特定のことを指していたことが分かりました。何のことでしょうか?それは「この世」とかの外に対してのものではなく、なんと私たち自身の内側、兄弟を愛せない心そのものを突き刺していた言葉であることを。
 
「隣人を自分のように愛しなさい」「敵を愛しなさい」はイエス様が口を酸っぱくして命令されました。弟子たちであるペテロもヨハネも教会員に向かって「互いに愛し合いなさい」と同様に命令しています。この1ヨハ5章の「世」とは前章の終わりにある、「神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています(1ヨハ4:21)」の命令は、同じ親からの子で兄弟であるのに、互いに愛せないはずがない、愛せない世の習わしに打ち勝って勝利すると信仰の名にかけて言っているのです。
 繰り返すと教会の兄弟を愛せず、憎むという神の命令を拒む者は、信仰を偽っている偽兄弟である(4:20)と断言しています。つまりこれは愛せない人を排斥するのではなく、なかなか兄弟を愛せない困難な自分の心に対し、信仰によって己自身の肉に戦いを挑むならば、必ず遂には克服し勝利し、心から愛せるようになる!と言う信仰の勝利を謳っていると理解するのが正しい受け取りになります。
 
 これを三段論法で要約すると、世の心では教会の兄弟姉妹と言ってもなかなか愛せない。しかし自分自身も神に愛され、子とされた者である。そして愛せない相手でもその同じ子とされた者である。と言うことは同じ愛する父を持つ兄弟そのものだ。兄弟ならたとえ兄弟けんかはあったとしても、最終的には同じ父を持つかけがえのない存在であって、愛し合えることは間違いない、ということになります。神を愛する者は、「愛し合いなさい」という神の命令を守る者となるのです。これを世に打ち勝つ信仰と言うのです。

2018年1月 1日 (月)

私たちの行き先

マタイ 11章12節  (1月1日特別礼拝)
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
私たちの年度はすでに三ヶ月目に入っていますが、暦の上では今日からです。そこでもう一度振り返って、前進をし続けたいと思います。

 アンテオケ教会の動画「クリスチャンのキーポイント」での最近作、「天国と地獄」がありました。これは過去から将来のへ私たちの行き先を表した、非常に重要なものでした。

当然ながら、これはすべて聖書を根拠とした、ほぼ確実なものです。 ところが他の教団、教派では不思議なことにこれまで多く触れられていません。その理由については長い間その中にいた者として、見当がつきます。これは実に残念であり、気の毒であるとすら思います。そしてこの群れに導かれた恵みを実感します。Photo_3
さて本題に戻りますと、図での「アブラハムのふところ」から新しいエルサレムに引き上げられる所に、少しだけ時間差があるように見えます。その理由に当たるのが本日の聖書箇所です。今から二千年前、イエス・キリストが来られて、いよいよ天国(新しいエルサレム)が近づいて来ました。これを待ち望んでいた人々は先を争ってこの天国に入ろうしました。このことを「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と刺激的な表現で述べているのです。

天国が攻められ、奪われそうになって危うい」という解釈は笑い話ですが、確かに飼い主たるイエス様が来られたことで、囲われていた羊の群れが朝焼けの門の出口に殺到し、朝一の草を先を争ってせめぎ合っているとの情景描写は、素晴らしい表現であったと思います。イエス様が十字架に架かり、復活された瞬間、新しいエルサレム、つまり天国が完成しました。少し時間差がある理由は、イエス様が黄泉に下られ、復活されるまでの三日間のことでしょう。お間違えのないように、天国は今はまだ見えないかも知れませんが、今の血肉ではなく、御霊のからだ、実際の体がある所なのです。
さて、十字架によって贖いが成し遂げられて以降、クリスチャンには天国へ三回のチャンスがあります。一つは患難時代の真ん中に起こる空中携挙です。まず最初に先に死んだ人たちが、次に生きながら私たちが御霊のからだに変えられて行きます。これは第七のラッパが鳴った瞬間に起こります。次に携挙に取り残されたクリスチャンは、引き続いて起こる後半の大患難時代にほとんど人が殉教します。七年にわたる患難時代は再臨のキリストで終わりになります。オリーブ山に再臨されたキリストが、エルサレムを取り囲んだすべての敵の軍を討ち滅ぼし、黄金門を通ってエルサレムに入城されることを地上再臨と言います。その時、最後に収穫という形でクリスチャンが二度目の天国入りをします。

私たちが直接関係するのは、キリストの地上再臨までですので、以後の千年王国や最後の審判、いのちの書の内容はメッセージではしましたが、この要約では割愛します。
いずれにしても、大切なのは天国への渇望であり、その信仰です。「激しく攻める者たちがそれを奪い取って」とは、まさに信仰の現れです。私たちの群れでは携挙の三条件とも言いますが、畢竟それは「表裏ない忠実」さとか「聞き従い」という信仰が土台です。皆さん、天国へご一緒に参りましょう。私たちは地上では寄留者であり旅人です。最終的な目的地、天への道を共に励まし合い、支え合って参りましょう。

2017年12月24日 (日)

熱心に祈る

ヤコブ 5章16~17節
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。


個人的に私には今、二つの大きな祈りの課題があります。その一つはこの会堂に関してです。この会堂は私が求めて回った限り、教会として借りられる唯一の物件でした。また職場を求めるM姉妹の祈りがこの会堂で鮮やかに答えられたのです。
私たちはさらに大きな会堂へと出て行きはしても、現状ではみ心の場所だと信じています。しかし借り続ける資金が少ないという容赦ない現実が迫ってきているのも確かです。
それで祈っておりますと、「問題や困難は心騒がせず、主に委ねて平安でいるように。人間的に心配し続けていては不信仰である」という思いが来て、私は努めてこの問題にこころを奪われないようにしていました。ところが、金曜日の夜の「こころゴスペル」でTrueVineの演奏の合間に、素子さんがこんなことを語ったのです。
幼稚園に息子のシオンの忘れ物を届けに行って、こんなシーンに遭遇したのです。小児麻痺で右脚に一生装具をつけなければいけないシオンに、サッカーをしようとした友だちが「脚が悪いお前はサッカーに入れない」と言い、長男はそれに何にも言えないで、あきらめて引き下がっていったのでした。四歳ぐらいの子が、あんな表情をする、それが忘れられなく、その夜「あきらめているんじゃなくて、願ったらいいよ」と言うと、「もしダメだったら?」「ダメだったらもう一回願えばいいよ。願いが積み上がって天にまで届くぐらい高くなって行くよ」「本当?」と息子の目がキラキラ輝いて来た、という証しでした。この結果はみなさんご存知の通り、医師にも信じられない奇蹟が起こりました。
 
その夜私は祈りました。「主よ、どちらが正しいのでしょうか?」と。すると翌朝、まだ意識が醒めぬ間に語りかけがありました。「あなたは思い間違いをしている。委ねて安んじていることと、祈らないこととは全く違うことなのだ」と。「祈りを徹底するなら、祈りの中で神からの確信というものが与えられて行く。この祈りから来る確信の上で安んじるのであって、祈りもせず委ねる事とは似て非なるものだ」とも。
目が覚めて、この示しを思い出した瞬間、これはみ心で確かだと思いました。私は思い間違いをしていたのです。ですから私は熱心に祈ります。たとえ結果が私たちの願った通りにならなかったとしても、最善の結果を私たちは見るのです。
 
エリヤの祈りによって、神は三年半イスラエルに雨を降らせませんでした。天の父は私たちが何にせよ祈ることを望んでおられます。私たちを愛し、愛する者と共に重荷を負ってくださるだけでなく、必ず最善を用意していてくださるのです。

2017年12月17日 (日)

私をみた者は天の父を見たのです

✝️ヨハネ 14章9節
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
先週のメッセージで私は神様のご人格と言うか人柄というか、それを「理解が難しい」ことと述べました。しかし難しいからと言って、この大切なことをそのままにしていいことではありません。それで今回もう少し詳しく語らせていただくことにしました。
 
今日の聖書箇所 「わたしを見た者は、天の父を見たのである」 とはイエス様がおっしゃった言葉です。三位一体を信じる私たちにとって、神様を理解するのに、人となられた神、イエス様を知る事が最も理解しやすいことだと思われます。そして私がその観点から選んだのはルカ13章から15章にかけてのイエス様の言行録です。ここは他の福音書にはない、ルカ独自の記事が多いのです。
 
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打った者。わたしはめんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めよう
したことか。それなのにあなた方は、それを好まなかった。(ルカ13:34)」

めんどりがひなをかばうように、と言われたのは、本当に神様のお人柄、お気持ちがよく出ていると私は思います。時々それでもひながトコトコ、親鳥のそばから離れて行ってしまうのですが、そんな時の神様の気持ちはこれです。この後、神は独り子を十字架に架けて殺したイスラエルとエルサレムはついに滅ぼされてしまうのですが、どれほどつらいお気持ちになられたか、想像ができません。
 
ルカ15章に1匹のいなくなってしまい、羊飼いが残りの99匹を野原に残して、1匹の羊を見つけるまで捜しに出かける話があります。羊飼いたるもの、こんな愚かなことは決してしないことでしょう。1対99、どちらが大切でしょうか。
捜しに出かけるにしても、残りの羊をまさか野原にそのまま置いたりはいたしません。必ず野宿用の石囲いの中に残りを入れ、それから捜しに出かけることでしょう。安全でない野原にそのまま置き去りにしておくなんて、正気の沙汰ではないはずです。そして1匹の迷える羊が見つかると、怒り注意するどころか大変喜ぶのです。
どうも神の国は、この世の常識とはかけ離れているようです。イエスは次のように説明されました。「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にある」と言うのです。ここで言う「悔い改めの必要のない人」とは、自分を正しいとする人たちのことです。そのような人たちは、他者を裁いているからこそ、己を正しいとするのです。逆に罪人とは、迷った1匹の羊のように、不服従の結果の恐ろしい結末を迎えようとしている今、心から悔い改め、その助けを求めている人だと言えるでしょう。
 
今はひと昔前、教師をしていた時、いつも子ども達に尋ねていたことがありました。「自分はいい子だと思っていますか、それとも悪い子だと思っていますか」の問いに、ほぼ全員の子が悪い子の方に手をあげます。しかし高学年などになると、少しずつその割合が減っていくのです。自分の心の中ではなく、人と比べて自分が是か非か相対視するようになるからでしょう。
神は人の心の中を見られる神なのです。神の関心はまさにその人の心にあり、他者と比べてや社会的な位置などは関係ありません。幼い子をイエス様が言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」とは、まさにこのことです。
 
私たちの本当の敵は私たちの内にある、エゴ、自我です。自分を義とするために人をさばき、その刃で結局自分自身をも傷つけて苦しむのです。それはサタンに取り憑かれている自分でもあります。
さあ今、昔の幼かった子どもに戻って、自分の罪性を認め、救われなければならない者として神の前に悔い改め、白旗を掲げて神の子としていただきましょう。

2017年12月10日 (日)

哀れみを受け恵みをいただいて

ヘブル 4章16節 
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

私たちの神は全知全能の神です。人類何十億の1に過ぎない私の、どんなこともご存知です。そんなビッグデータって信じられないとか、あり得ないと言う前に、人間の理解をはるかに超える、命と万物の創始者が神であるという信仰によってこれを知るのです。
 今となっては素晴らしい恵みですが、これは私が体験したことです。聖霊を受け新生した後、過去に犯したあらゆる罪を思い出しては悔い改める機会が、幾晩も続いたことがあったのです。私がすでに忘れていたこと、その一つ一つを思い出せられては、その度に私が悔い改めるのです。実は少々辛かったのですが、それが終わった時、ことごとく罪から解放されたような、一点の雲も無い青空のような喜びが全身に湧きました。
  この事はそれまでの霊的な状況を一変させました。それ以後私は悪霊に対し、霊的に怯えたり恐れることがなくなったのです。敵が私に取り付く取っかりが一切無くなったかのようでした。つまり霊的に完全に解放されたのです。
 さて私たちの神は全てを知っておられるのです。ですから二つの対応しかできません。逃げるか、それとも降参して神の前に進み出るかです。逃れようとするならば神を悲しませ、己の罪を増し加えるだけであるのは言うまでもありませんです。ですから観念して神の前に進み出、あらいざらい自分の罪を告白し、あわれみにすがるのが上策です。
 
 私たちの神さまとはどのような方でしょうか。私たちの告白に怒り、ひどいお仕置きをされる方でしょうか。まったく違います。神はその独り子を十字架に架けるほど私たちを愛してくださっているお方です。私たちが罪を告白し、悔い改めれば改めるほど喜び、愛を深めてくださる方です。これは理解が難しいことかもしれませんが、調子に乗って「もっとひどい己の罪を、主よ、さらに思い出させてください」と祈るほどでもあるのです。
 
 神は私たちの罪の告白に対し、ペテロが「何度まで赦すべきでしょうか?」主に聞いた時、「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで」と答えられた方が、どうして赦さないなどと答えられることがあるのでしょうか。

 神は愛です。慈愛とあわれみに満ちた方です。罪深い私をも造られたのが神であるならば、この正直さにあらわれる神への信頼を必ず、酬てくださる神であることを知りましょう。神は私を子として愛してくださるのです。
 さあ、神のあわれみの中に飛び込んで参りましょう。その計り知れない愛の中へ。

2017年12月 3日 (日)

十字架~その愛Ⅱ

ヨハネ  14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
十字架は人間を愛してくださった、神の愛そのものです。しかし今日、多くのクリスチャンが単に罪の赦しだけに留まって、十字架の真の目的に達していないのは明らかです。
十字架の真の目的とはエデンの回復です。エデンとは神との親しい交わりが行われた所であり、一人の人の罪が全人類に及んだように、次には神の子一人によて罪から全人類を解放したのです。またそれは罪の無い状態にして、人に聖い聖霊さまを送るためでもありました。聖霊さまを通し、エデンの園が回復されるためでした。 永遠の命、新生、聖霊のバプテスマは回復の現れです。
 
聖霊降臨日以降、教会はすぐに大きな問題に直面 しました。十字架によって罪の赦しを受けても、園(交わり)が回復されない状態が生じたのです。聖霊の賜物を受けない
人々です。最初の例はピリポが散らされた先、サマリヤで起こり、次にアポロがエペソで教えた時にも起こりました(使徒8:14-17・19:1-7)。注意していただきたいことは、このことを使徒たちは重大な事とし、すぐに使徒を派遣しました。十字架の真の目的を損ねかねないからでした。Photo_3
しかし今日のキリスト世界では、残念ながらサマリヤやエペソで起きたことが全体に広がり、圧倒的多数派を形成しています。御言葉や祈り、預言などによって神が語られることを受け入れなければ、そこに交わりは存在できません。
 
私の体験
聖霊のバプテスマを何年も求め続けていましたが、いきなり受けたのではありません。初めに深い悔い改めがありました。私がワカサギ漁の話とか、野壺の話をしたことを覚えておられるでしょう。悔い改めの底で、神のあわれみが注がれたのです。聖日の朝のことで、神はご自身を現されたのでした。
 
 最初に異変に気づいたのは、礼拝へと車を走らせているとフロントグラスに、解読不可能な配列をした文字らしきものがぴょんぴょん跳ねていたのです。私の注意を惹きつけ終わると、その文字は並び替えてメッセージを伝えてきました。その時私はひどい自己卑下の状態でしたから、「わたしはあなたを愛している」「どれほどあなたを待っていたことでしょう」という内容に、最初は意味がわかりませんでした。思いもかけない一つの内容に、これが神からだと気づくのにも時間はかかりませんでした。体が震え、嗚咽が出ました。
 神が語られる、どんなに待ち望んだことであっても、実際にそれがある、神は現実に生きておられ、関わりを持とうとしてくださっている・・・・この時まだ聖霊のバプテスマを受けてはいませんでしたが、この瞬間から私の信仰は劇的に変わったのです。そして、神が生きているか、実際に存在されているのかどうかわからないような、これまでの信仰の教会にはもう二度と戻れないと言うこともわかったのでした。そうでないことを私は体験し、知ってしまったのです。
 
「神は愛」、それは十字架によって現され、聖霊に依って受け取る真実です。聖書は確かに神の言葉であり、誰でも受け取ることが出来るものですが、聖霊によって受ける時、御言葉は自分に適用できる生きた言葉、力ある言葉になります。そして聖書が説いているとおり、祈りと聖霊の賜物によって、私たちは神と深い交わりの中、自分を神に捧げ、聞き従って世での人生を歩むこと、つまり十字架の真の目的が達成できるのです。
 
皆さんは十字架の恵みを受け、祝福されました。この群れは聖霊の賜物を用いる素晴らしい教会です。教会の恵み、十字架の恵みをさらに受け取るために、受けている人も居ない人もさらに聖霊を祈り求めましょう。聞き従いを強めましょう。これは御心ですから、時が来たら神は必ず成就して下さることを信じましょう。

2017年11月26日 (日)

十字架~その愛Ⅰ

ヨハネ 14章6節 
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
    
今日のみ言葉の「わたし」とはイエス・キリストのことです。父のみもと、つまり天国に行くには「イエスを神の子とし、その十字架を信じなければ行くことができない」、他にどんな道もあり得ないと聖書は明確に言っています。
 
 使徒信条を見てみましょう。この簡潔な信仰告白での中心は、イエスは神であるという告白です。「聖霊によって処女マリヤから生まれた」ことは大奇跡であって罪の無い存在であることをあらわし、「三日目に復活し、昇天した」ことや「神の右に座し」「最後の審判で、すべての人類を審く」ことは、イエスが神であることにほかなりません。
 
 さて私たちの群れでは「父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は神であり、唯一である」が三位一体の定義です。三位一体を氷・水・水蒸気とかにたとえようとしても、的確ではありません。それでこの言葉通りに私たちは三位一体覚えるので、三位一体を理解するには、逆説的ですが、三位一体を否定する非キリスト教の教えを見た方がわかりやすいと言われています。
 
 使徒が存在しなくなった3世紀ごろから、すでにキリストの神性をめぐっての三位一体が争点になっていました。4世紀のニカイヤ公会議で三位一体に決着しましたが、今日に至っても姿や形を変えて、キリスト教会は攻撃されています。
 モナルキア主義……神の唯一性を主張するあまり、イエス・キリストも聖霊も、一人三役のようなもので同じであると唱えました。逆にイエスは最高度の人間(キリストの神性を否定)であって、父なる神だけが唯一の神であると主張する偽グループが目立ちます。これは4世紀のアリウス派から連綿と続いています。もしイエスが神で無かったとしたら、十字架は空しく、私たちは今もなお罪の中に留まり続けていることになりますし、私たちは全員地獄行きです。
 
 このように他ならぬ創造者である神ご自身が私たちの罪を一身に引き受け、自ら贖いの小羊となってくださった、ここに神の愛があります。神ご自身以外に人類の罪の身代わりにふさわしい方はいません。イエスが神でなければ、私たちは未だに罪の中におり、絶望の底に居るのです。三位一体こそ、キリスト教の土台であり、真理であり、生命線なのです。

2017年11月19日 (日)

信ずべき書である理由

マルコ  11章22節
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

信仰とは「御言葉を信じる」ことであり、聖書を神の言葉として信じ受け入れることです。神からの預言も、聖書によって吟味されなければなりませんので、聖書が神の言葉の中心です。クリスチャンの中に、聖書がよくわからない、あまり親しみを感じないという方がおられますが、それは祈り求めてくださって、ぜひ御言葉を心の支え、生活における日々の羅針盤として大好きになっていただきたいと思います。
 
 一つだけあえて言えば、聖書は神の言葉です。ですからただの書物ではありません。自分の理解力に頼らず、神に対し「聞く」という態度で接し、祈りと聖霊の手ほどきを求めて読んでいただければと思います。

 ルカ16章に金持ちと貧しかったラザロの話があります。そこでは「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:31)とあるように、たとえどのような奇蹟やわざを見せられても、聖書を信じずして神を信じることはできないのです。信仰の前に、まず「聖書ありき」なのです。
 私が大学を卒業し、燃えるクリスチャンとして広島に帰った時の話です。広島という地域の大きな教会でしたが、その信仰はどうみても退廃していると思える教会がありました。私は不遜にも、教会内リバイバルを興そうとそこに飛び込んだ経験があります。しかし私はいくつかの難題を突きつけられることになりました。その最大のものは、聖書に対する人間中心で理解する態度でした。彼らは非常に論理的な命題を突きつけ、聖書の問題点、誤りとしか思えない所を指摘してきました。人間に過ぎない者が、神の言葉と思えるものを選び取捨選択していたのです。
 
 当時の記憶が定かでないので、今となってはそれがどこだったのか思い出せませんが、本日はそのように見える三箇所を挙げたいと思います。
 まず第一に「数字が間違っている」所です。ステパノが殉教することになった議会での証言として、出エジプトでの人数が「75人」とあります。しかし創世記46章ではこれが66、70人と出てきます。聖書は間違っているのでしょうか?もちろん神の言葉である聖書は間違ってはいないのですが、その説明をいたしましょう。(文量の都合上、この後と、第二、第三の例は割愛する) こういうわけで私たちは思慮の足りない自分の知恵や理解力だけで、神の言葉である聖書を判断しないようにしましょう。
「聖書は誤りなき神の言葉」です。

2017年11月12日 (日)

受けたと信じる信仰とは

マルコ  11章22~24節
 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
 
 学生時代、私には全然違うタイプの二人の友人がいました。一人は秋田の出身、もう一人は私の隣県の出身で社交的で明るく、街で通りがかりの女性にも気軽に声をかけるような、私には真似のできない人付き合いの良さというか、とにかく気がいい友でした。
 それぞれいいところがあったのですが、こと、言葉の信用という面ではかなり違いがありました。一例ですが、駅で会う待ち合わせの時間を決めても、秋田の友は余裕をもって来てくれるのですが、もう一人の方はアバウトだったのです。「やあやあ、すまんすまん」と言いいながら現れることが多くありました。一事が万事そういう感じだったので、自然、言ったこと約束したことでも、一人は言葉通りにそのまま100%受け取り、もう一人の方はどこか話半分に聞いてしまう風になってしまいました。
 
 このように、信じるということは相手によります。神様に対してもまったく同じことが言えるのではないでしょうか。神様は全能なるお方ですから時々、現実とまったく異なったこと、人間の思いをはるかに超えたこと・・・・ご自分の計画を語られます。それは本来常識を越えたことですから、まったく疑わずに信じ切ることはかなり困難です。しかし、神様が語られたことばは「(必ずその通りになると)受けたと信じる」のは、神様と交わっていて知っているからなのです。この方は十字架をもって私を愛し、決して私を裏切らない、実に真実なお方であるかをよく知っているからです。つまり交わりが決め手なのです。
 
 神様を知り、交わる入り口は、基本聖書です。聖書はすべて神の言葉で記述されているAll in Oneの完璧な書であり、何よりもまず、信ずべき書です。
 イエス様のたとえ話の中で、実話だと思えるラザロと金持ちの話があります。金持ちが死んで、炎熱地獄の中でラザロと会い、アブラハムに「ラザロを自分の家族のところに送ってください、そうすれば家族は自分と同じところに来なくてすむでしょう」と懇願します。しかしアブラハムは「いや、たとえ蘇ったラザロを送ろうとも、聖書を信じない者には無駄だ」と言います。聖書を信じず、疑う者はどんな奇跡も信じないと言っています。
 
 神を信じ、正しく交わるには、聖書が唯一のドアです。神がイエス・キリストの十字架によって私たちの罪を赦し、罪なき者とされた私たちに聖霊を与えてくださること、その聖霊なる神との個人的な交わりを通し、私たちは神様に自分を明け渡し、心から聞き従いたいという願いや絶対的な信頼、つまり受けたと信じる信仰が与えられ育つのです。

2017年11月 5日 (日)

2018年ガリラヤ湖畔 新年礼拝

マルコ  11章22~24節     (東京アンテオケ教会 パウロ秋元牧師)
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

 2018年度の御言葉は、マルコ11:22~24節です。この解説を私なりに致します。
 22 節でイエス様が言われた「神を信じなさい」ですが、信じること、つまり信仰とは、疑わないで信じよう・・・とすることではありません。それができると思うなら、その人は普通人ではありません。つまり普通はできないことなのです。
 
 ではどういう事になるかと言うと、その次の平行箇所である「受けたと信じる」ことなのです。これにはポイントがあります。つまり、どうしてまだ見ても得てもいない事を、すでに受けた、得ていると信じられるのか、です。これはこの世の人々で理性ある人、常識のある人々にとっては、一線を越えた「愚かなこと」です。
 
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 しかし、聖書によれば、信仰とは神の言葉である聖書を信じることです。見えていないものを信じるのは、これは聖書の神の言葉を信じ、信頼しているからなのです。見えるものは滅び、見えないものは永遠です。一例ですがローマ8:28において、神を信じる者には「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」のですから、現状がどう見えようとも、悪いこともすべて感謝し賛美して喜ぶ、ということになります。なぜなら神を信じているからです。そしてその現れとして「感謝」と「賛美」を香とし、24時間焚き続ける連続祈祷をしようということになります。
 
23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
「信じて疑わない」とは人間である限り不可能です。そうではなく、一言で言えば、御言葉を信じ、「受けたと信じる信仰」です。これを実際にやりましょう。どんなに自分に疑いが生じたとしても、それに拠らず、最善をして下さる神さまの言葉を信じ、その祝福を逃さず、感謝をささげるわけです。結果、その信じた通りになります。
 
 年間主題と[感謝と賛美の連続祈祷]はリンクしており、今あるどんな問題でも感謝し、苦しんでいるゆえにあえて感謝し賛美をする。今の自分の目で現状を判断するのではなく、信仰の目で見るからこそできる感謝と賛美を、です。

2017年10月29日 (日)

信じる信仰

ガリラヤ 2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 福音と信仰。この両者の関わりが今回開かれました。今日も重く暗い雨雲の下、長雨が降り続いていますが、ちょうど明日の朝、飛行機に乗って雲の上に出た時のようです。
 ズバリそれは右図です。十字架に集約されるように、神がいかに人を愛して下さったかを知らせるのが福音です。逆にその福音の恵みを受けた人が、神を心から愛することを信仰と言うのです。                   Photo_2
 神の愛、福音は普遍であって真理であり、それは変わることのないものです。しかし信仰は人によって濃い薄いがあるのは当然です。信仰の代表はパウロの本日の御言葉(ガラテヤ2:20)です「私はキリストとともに十字架につけられた」と言うのは、福音の絶大な恵みのことを指します。驚くべき神の知恵、どんなに周到な救いの計画であったことか、迫害者であったパウロは神の力と威光だけでなく、その徹底的な愛に圧倒されたことと思います。
 
 それで「もはや私が生きているのではなく」と、それまで持っていた自分自身の計画や価値観が崩壊し、まだ見てはいないが、自分への神の計画に乗り換えることに同意し(信仰)たのです。その土台は十字架の神の愛でした。そしてこの確かな証印は自分の直感とか確信ではなく、聖霊なる神の臨在そのものなのです。
 
 このように信仰とは理論でも推理でも思考でもない。滅ぶべき自分が確認され、救いを得させる十字架の福音を信じたことへの応答なのです。上述のように、信じるその意味がわかり、降参して神を自分の主として受け入れることです。つまりキリストを信じるとは、ただの受け入れではない。自分のいのちと全存在を神に渡すのですから、その変容は誰の目にも明らかなものとなるのです。
 
 別な言い方をすれば、信仰とはイエス・キリストの救いをただただ信じることです。それは理屈ではありません。理屈ではない、と言っても十字架に関する知識を否定しているわけではありません。ただ自分の理解を超えたこと、信じがたいことではあっても、「それでも信じる」と決断することを信仰だと言っています。

2017年10月22日 (日)

迷った一匹の羊

マタイ 18章12~14節
12:あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
13:そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
14このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
学校の教室では毎日7時間くらい、教師は子どもたちと過ごします。教師から見て、子どもたちのグループがどうしても三つできてしまいます。一つは先生の机にいつも集まり、親しく交わってくれる子どもたち。次に授業に参加し一見忠実ですが、それは授業中だけ。上手に教師との関係を保っていく多くのグループ。最後に教師に反抗するごく少数の子どもです。
卒業式が終わった直後、担任と別れを惜しんで挨拶に来てくれる子どもは、いつも交わってくれていた子どもたちです。が、教師に反抗してくれた子どもも来てくれます。しかし大多数のつかず離れずのお利口さんたちは、蜘蛛の子を散らしたように校門から去って行くだけです。これは何を物語っているのでしょうか。プラスであれ、マイナスであれ、真剣に関わった関係が互いに残るということです。
 
私たちと神さまの関係も似たようなところがあります。私たちはこの血肉のある地上での財産や受けた栄誉、地位などは何一つ、天の神の国には持って行けません。ですからそれらは空しいのです。しかし「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛(1コリ13:13)」だと聖書は言っています。愛とは別な言葉で言い換えれば、<真剣に関わり合った関係から生み出されるもの>だと思っています。表面的には従っていても、距離を置いた関係、つかず離れずの関係からは愛は育ちません。
 
本日の聖書箇所でイエス様は、九十九匹を山に残してでも、迷った一匹を捜しに行くと言われました。これは人間的に判断するなら、非常に愚かです。ご存知のように、囲いも石塀もない山に多くの羊を置いて行くならば、迷った羊以上にたくさんの羊を失う可能性が高い。しかも迷った一匹というのは、自業自得で不注意というか、聞き従いのない身勝手な羊かも知れません。にも関わらず、計算を度外視して捜すのが神様の愛だと言われているのです。この迷った一匹の羊を、私は教師に反抗する子どもによく重ね合わせます。捜し当てられた羊は、この体験を通して羊飼いの愛がよくよくわかり、まったく別人、いや別羊に変わったことと思います。魂を得る神の愛、これが最も重要な点です。
 
皆さん、神様との関係に距離をおいてはいけません。「アバ父よ」と幼子のようにすり寄るもよし、反抗して「どうしてこんな試練が許されるんだ」と叫ぶもよし。とにかく生きて働かれる神様と真剣に関わっていく! これがこの血肉の世で一番大切な神から愛される道なのです。天への宝、神への愛はその中で育まれ、醸成されて大きく育つのです。

2017年10月15日 (日)

復活・御霊のからだ

Ⅱコリント  3章18節
だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。

「わたしたちはみな」「栄光から栄光へと」「主と同じかたちに姿を変えられ」とこの節はありますが、これを他の言葉で言い換えると「御霊のからだ」「復活のイエス様と同じからだ」ということになります。聖書は私たちの血肉の体が終わったり、または生きながらでも、再臨のキリストとお会いする時にこのようなからだになっていると繰り返し語っています(参照⇒Ⅰコリ15;l20、1コリ15:23、1コリ15:44)。「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされる」のです。
 
つまり私たち自身の中に聖霊なる神の宮があるだけでなく、それは朽ちぬ御霊のからだとなって神の国に永遠に住むと聖書は言っているのです。私たちは実際に神が生きて働いておられることを現実に祈りや神のわざ……・いやし、しるし、奇蹟などを通して体験しています。ですからこの神の約束は、間違いない事実であることを知っているのです。
ところでプロテスタントの諸教会には、私たちのような聖霊さまへの態度と異なって、いやしも奇蹟もまったく信じない教会があります。三位一体の神を信じるという点は同じなのですが、残念ながら聖霊の働きがわかりません。わからないゆえに、私たちを「熱狂的」とか「おかしな教会」だと聖書ではなく自分の目で批判しているのです。私自身が二十年以上、そのような教会に居たのでこれは間違いありません。その私がこのような信仰へと導かれたということに、神の計画と大きな使命を感じさせられています。
 
私たちは血肉の体がある間に、何をしなければならないのか知っております。主に聞き従って、み心を行うことです。私たちが再臨の主にお会いした時、タラントのたとえ話が再現されることでしょう。タラントの額はそれぞれ異なっても、<聞き従って与えられた賜物を用いる>ことで主から同じお褒めにあずかるのです。ですから聞き従う教会である私たちの群れに導かれたということ、これは特別な恵みであると私は考えます。
 
どうかみなさん、御霊のからだで住む天のエルサレムを一緒に祈り求めましょう。天のエルサレムで一緒に神様の元で永遠に暮らしていきましょう。黙示録21-22章で天の御国の素晴らしさが描かれています。この教会にはその恵みにあずかる祝福があるのです。

2017年10月 8日 (日)

よりすぐれた賜物

Ⅰコリント 12章31節
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
「あなたがたはよりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」というこの御言葉がメッセージなどで語られた時、みなさんは次のように受け取られる方が多いのではないでしょうか。すなわち、各自それぞれに示されている賜物、預言なら預言、いやしならいやしの賜物を「さらに本格的に与えられますように求めましょう」と。
 
ところが聖書をよく読んでみますと、パウロの意図はそうではないようです。ではどういう意味でしょうか。結論から申せば、よりすぐれた賜物とは「愛」です。預言、奇蹟、いやし、異言、異言の解き明かしと聖霊の賜物を列挙していますが、それらと共に「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と言っているようです。ですから「よりすぐれたもの」が伴わないなら13章1節以降で「もし愛がないなら・・・やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」「・・・何の値うちもありません」「・・・何の役にも立ちません」と繰り返し強調しているのです。
このことをさらにすぐ後の13節で「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」と念を押しています。
 
キリストの再臨以降、私達クリスチャンは眠りから覚めて御霊のからだを与えられ、直接神さまのもとに居ることになります。その時には預言は必要でしょうか。異言も福音が全世界に伝えられており、外国語で話す必要はなくなっているだけでなく、おそらくは私たちは唯一の言語である神の言葉を用いるのです。もちろん御霊のからだは完全ですからいやしは必要ないのです。こうしてみると、神の国まで持って行けるもの、つまり永遠に残るものは「信仰・希望・愛」だということが分かります。その中でも聖書は特に「愛」だと言っています。それはなぜでしょう? 愛とは神さまとの関係性を表しているからです。

こうしてみていきますと、3章12-13節にあるキリストの土台の上に各人が建てる「金、銀、宝石、木、草、わら」の家を思い起こさせられます。聖霊の賜物は神からのプレゼントであって、神の計画されている伝道やリバイバルの為に私たちに預けられているものです。
誤解しないでいただきたいのは、この後14章1節にあるように、聖霊の賜物が重要であり、熱心に求めなければならないのです。なぜならこれから神の御心であるリバイバルをさらに推し進めて行くために、神は聖霊の賜物を用いられるからです。を求める私たちに注ぎ、が絶対にこれはみ心の働きと私たちの同胞への「祈り」と「愛」のものです。では、「愛」とはどのように理解し、受け止めたら良いのでしょうか。

私自身を見て思うのは、私には愛がない、あったとしてもほんとに乏しい者だということです。愛には神のアガペー、人間同士の友愛フィレオー、男女のエロスなどがありますが、聖書ではアガペーの愛を言っております。キリストに神の愛そのものを私たちは見ます。神の聖いひとり子イエスを、被造物で罪深い私たち人間の為に惜しまれず、そのいのちを差し出してくださった愛です。この愛は神から出ているのです(1ヨハネ4:8)。
また愛の諸性質については13:4-6に「寛容」「親切」「人をねたみません」「自慢せず、高慢になりません」などと列記してあります。ここで特に注意したいのは「ねたみ」です。
ねたみとは他人の優れた点に引け目を感じたり、うらやましく思ったりすることです。望んで得られないと分かれば憎んだりもします。同様に人の良い所を見るとひどく落ち込む人がいますが、これもねたみです。みなさん、神の愛は私たちの罪深さをすべて知っておられて、なおかつ愛してくださった無私の愛なのです。Img_8422

私は思います。神の愛のおすそ分けをいただくために必要なものは、「この己のどうしようもない罪深さがわかる」と言うことだと思います。どれほど赦されたかがわかれば、過去自分に対して起こされた心の傷、恨み、怒りなどというものが、逆に自分自身をどれだけ傷つけていたかがわかります。神の愛の大きさがわかり、そのあわれみを請う心が湧き上がります。こうして許しが進展します。神の絶大なご計画に心から賛同し、その一翼を担いたいと心から願うようになり、やがて神の愛を反射できるようになるのです。

神を愛する心が生じなかったら、賜物でいかに大きな働きをしても天への宝を積むことはできないでしょう。ここでパウロはよりすぐれた賜物として何を言いたかったのか、それはわかりますね。そうです、愛です。

2017年10月 1日 (日)

エルサレムの平和を祈る

詩篇 122篇6節
エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。」
本日10月の第1日曜日は「エルサレムの平和を祈る日」と定められており、世界各地のクリスチャンがこの趣旨に賛同し、各個人でまた教会で心を併せて祈っています。もともとこの趣旨はロバート・スターンズ牧師とジャック・ヘイフォード牧師が呼びかけて始まったもので、イスラエルの大贖罪日(ヨム・キップール)の日に合わせてこの日が設定されました。
 
Photo_310月の第1週に、聖書が命じている詩篇122篇6節の「エルサレムの平和のために」祈ることは、まず第1に神さまのご命令です。付け加えるなら、エルとは神または偉大なという意味、サレムとは平和を表し、名前からして平和の街なのです。
第二に世界の大部分を占める一神教の神の聖地であるエルサレムと言うのは超特別な場所であり、この地が平和であることがそのまま世界全体の平和と密接に結びついているという現実があります。第三に聖書の黙示録などによって、今のエルサレムの真上に天のエルサレムが着地するまで、エルサレムに関わっての動きがこれからの世界史の中心であるからです。
 
いろいろな出来事がこれから起こります。しかしどんなことがあっても神の言葉は変わることがありません。究極のところ真の平和の到来とは、ユダヤ人が悔い改め、イエス・キリストがメシアであることを認める時、つまりみ心が成る時成就しますので、神の計画が成就するよう私達が執り成しの祈りを続けることが非常に大切なのです。祈りは神を動かし、計画を成就させる力があるのです。

2017年9月24日 (日)

心の一新によって

ローマ 12章2節
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 この12章の1節、「そういうわけで」とあるのは、前章にある、福音の恵みを本来受けるべきイスラエルの民がかたくなにされ、野生種のような異邦人が接ぎ木されて、すべての人々が十字架の恵みにあずかっていくことを指します。パウロはこの神の計り知れない知恵と計画のことを「神のあわれみのゆえに」と言い、続けて「あなたがたにお願いします」と懇願しています。懇願したように言いながら、最後は命令形で語られていますので、これは並の懇願ではなく、本当に心からの懇願であることが分かります。
 
 パウロの懇願とは何でしょう。この手紙の前半では教理的な信仰義認を述べましたが、後半のここでは信仰そのものを伝えたかったのです。ここで「心の一新」とか「(自分を)生きた供え物としてささげなさい」という言葉があります。大変あらましですが、これは要するに聖霊のバプテスマを受け、御霊に従って歩みなさいと言っているのです。
 
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」【ロマ12:1】の言葉によって、「よし、それではやってやるぞ」と頑張ってもみても、自己愛にたけた私たちの力では実行不可能です。同様に「心の一新によって自分を変えなさい」【ロマ12:2も実際には困難です。これらは神の計画によって自我が砕かれ、罪を心から悔い改めた神の時に実現するものです。ですから聖霊のバプテスマを受けたからと言って、誰も誇ることができません。もし誇ることが許されるなら、それはどんなに自分が神に逆らって罪深い者であったか、それにも関わらず神がどんなにあわれんで愛してくださったかを誇ることになるでしょう。
 
 被造物の最大の罪は<高ぶり>です。最上位の大天使であったサタンがサタンになったのはこのためでした。人間もエデンの園で罪を犯したのは、聞き従わず、自分の肉の判断を優先した高ぶりのためでした。この12章であえて無きが等しい私達を神が選ばれたのは、「誇らせない」ためであり、これが最大の祝福、私たちが天への祝福となりました。
 皆さんもどうぞ振り返っていただきたいと思います。なぜあなたは神を信じようと思ったのでしょう。あなたの優れた知恵と力とで、神が神であることを突き止め、信じたのでしょうか。かえって神が与えてくださった弱さ、力の無さ、その謙遜こそ、私たちにとって神を信じ従うという最大の恵みになったのではないでしょうか。
聖書でパウロは言います。「誇るなら主を誇れ」。 アーメンでしょうか。

2017年9月17日 (日)

感謝の心を持つ人に

コロサイ人への手紙 3章15節
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい

「少女パレアナ」~この文庫本はTV「愛少女ポリアンナ物語」の原作です。作者はエレナ・ポーター、訳者はなんと村岡花子です。精神病で過度の楽天主義、現実逃避の病をポリアンナ症候群と言うのだそうです。これは神を信じず、従って真の感謝をしらない人が、無理に「良いこと見つけ」をしようとしたためなのでしょう。
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なぜパレアナは感謝するのでしょうか、それは父からのプレゼントだったのです。妻を失い、今また父である自分が召されて行こうとした時、牧師の父が娘に託た最大のプレゼント、それが1テサ5:18「すべてのことについて感謝しなさい」であり、このコロサイ3:15の「感謝の心を持つ人になりなさい」だったのです。ですからこれは、この世での最大最上の、とっても大切なものなのです。
 
みなさんは先ほど、何曲も賛美を歌いましたが、私達がよく知っているマーリンさんは感謝と賛美の器でした。賛美は感謝から生まれてくる実の一つです。感謝のない賛美はある意味、生きていて人の心に響くものとはならないでしょう。また本当に感謝を神にするならば、それを隠すことができません。賛美がそうであるように、口から溢れてくるものがあります。神への感謝と喜び、囚われていた自分からの解放、絶大な恵みの数々が、自分の心から湧き上がって来るのです。賛美となってそれが口から溢れてくるのに時間はかかりません。もはや何も秘密はなく、蓋をしておくことができないのです。
 
そこで一つ押し奨めがあります。それはお一人おひとりが、自分の人生におけるこれまでの、悪かったこと、奥底にしまい込んで忘れていた過去、特に幼かった頃のつらい経験、理不尽だと思えたこと、傷ついたこと、許せなかったこと、恨んだこと・・・・そのすべてをありありと思い出し、許すこと、感謝することです。勿論これは、単に功利的な心でするのではなく、祈り、心から神に願った上で導かれたやっていただきたいのです。これは、お気づきにならなかったでしょうが、皆さんがいつまでもサタンの鉤に引っかけられてしまう原因なのです。放っておけば獅子身中の虫、自分自身をダメにするものなのです。どうか自分自身を神に取り扱っていただきたいと思います。

2017年9月10日 (日)

感謝!

1テサニケ 5章18節
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
 感謝するということは、マーリンさんのこの群れでよく語られることです。よく地方で秋元牧師の移動にあたって、なぜかスピード違反で牧師が捕まりますが、この災いにも「か、かか、感謝しまーす」と告白するわけです。私達は悪い時にも感謝するように教えられています。
 直近の例で、私は横浜にかけての湾岸高速のスピード違反で捕まりました。これまででしたら苦虫を噛みつぶしたような感謝で終わるのですが、なぜか瞬間的に心からの「感謝」が湧きました。捕まって当然だと思いましたし、「ああ、これで事故を起こさなくて済んだ」と心から感謝してパトカーに乗り込みますと、おまわりさんが切符を切りながら「制限速度100kmでの20km違反にします」と言うではありませんか。「あれぇ」と思いました。なぜならパトカーから見える標識は80kmの標識でしたから。計測された所が境目だったかとも思いましたが、20キロ違反か40キロ違反かでは、裁判所行き赤切符になるかならならないかの天地の違いがあります。悔い改め、心からの感謝したので、それがおまわりさんたちの心証を良くし、微妙な判定にあたって実際的にも益にされたのだと私は思いました。感謝の思わぬ恵みです。
 
 今回のスロバキア・ウクライナ派遣で非常に語られたことは、この感謝です。感謝は感謝でも、悪いことを苦い胆汁を出しながら「感謝します」ではなく、本当に心から喜び感謝する感謝です。感謝の実質が問われている意味もあります。
 今回の派遣は新天新地に行きますので、霊の戦いがメインになると思いましたが、実際には集会奉仕と路上賛美という宣教がメインでした。キリスト教国ということもあってか、霊の戦いは一度たりとも行われなかったのです。これには神さまの素晴らしい計画があると感謝しました。
 
 さて短期宣教では各々に与えられた任務を全うするのが重要になります。私は聖会配信とブログ係、用心棒という三つの任務が与えられましたが、自主聖会がなくなり、配信は不要になりました。しかし実際に現地ではもう一つの重要な任務、秋元牧師の鞄持ちと椅子係が必要だったことです。参加メンバーが決まった時からこのことを覚悟していましたが、やるからには秀吉が信長の草履取りをしたように、徹底して感謝して仕えようと思いました。それでまさに移動に際しては、秋元牧師の手放せないリュックのように、いつも私が身近に控えている六日間になりました。
 
 実はこのことが非常に恵みになりました。もし私が荷物持ちを卑下して、俺はリュックじゃないぞ、と呟きながらしていたら、真逆の結果になっていたと思いました。実は派遣の当初はサブリーダーの体が「大丈夫だろうか?」と心配されましたが、使命を果たして行くに連れ、神さまから健康と力を与えられて行っているように見受けられました。
 またウクライナとの国境にあたっては、祈りが聞かれて、極めて短時間に通過することができました。訪れた先々の教会では、相手方の警戒がドアのように次々と開かれ解かれ、場所と時間が100%私たちに提供されていく、数々の主の手を見たのです。
 これらはごく身近に居たことで、単なる一部始終の目撃で終わらず、私の荷物の持ち主が自分の体のことを考えず、どんなに神さまに忠実で、かつ謙遜な人であるかが肌で分かる恵みに与ったのでした。みなさん、心からの感謝は素晴らしい恵みがその先にあるのです。

2017年9月 3日 (日)

目からうろこが落ちる

使徒 22章10節
私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる』と言われました。
本日の聖書箇所は使徒の22章ですが、ここでパウロはエルサレムの人々に最後の語りかけをしています。
改めてここを見てみますと、いくつか気づくことがあります。全体としてはこの「目から鱗が落ちる」とはアナニヤが手を置いて神からの言葉を祈った通り、聖霊に満たされること、それは真実を隠していたものが取り去られ、正しく見えるようになるということを「鱗が落ちる」と言い表しているのです。
そうです、世の霊に囚われいる間は、正しく見えているようでいて実は見えていないのです。それはあたかも、目に鱗がある状態なのです。それが聖霊のバプテスマという、神の霊に満たされるなら、それまでの自分が目に鱗状態だったことを思い知るようになるのです。
また同時にアナニヤが「あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる」とあるように、自分のいのちがどういう目的で生まれたのか、何の為にこのような人生を歩まされたのか、理解するだけでなく、はっきりと今後の目的意識を持つことになります。神にはすべてのことに目的があり、狂いなくそれは進むのです。
 
ですからみなさん、聖霊のバプテスマは信仰生活の基礎基本です。人は自分で自分を生んだのではありませんし、たとえ親であっても、どのような子にしようと、計画して造れるわけではありません。ただ子が与えられたのです。まして、神によって神を信じ、神の子とされた私達には、私達が容易には知り得ない神の計画があり、目的と使命があるのです。それを知り得るのはただ神だけであり、神に聞くしか方法はありません。聖霊と交わり、聖霊さまを通してでなければどうして人は自分への計画や使命を知り得ましょうか。
 
みなさん、生きている間に鱗、つまり自分が見ていること、自分が人生の決定権を持つ鱗を取り除かれ、正しい神の目で見る必要があります。パウロも神を熱心に信じる者でしたが鱗が取れるまでは、イエスの名に強硬に反対すべきだと(自分で)考え、実行し、外国に聞こえるほどクリスチャン迫害し殺害に加担しました。そればかりか捕らえた者に、神を汚すことまで言わせようとしたのです(使徒26:6~)。自我という鱗が取れるまでは、人は自分が良い、正しいと思うことをしますが、それはえてして恐ろしい間違いをすることが多いのです。一度しかない人生をそのように使ったとしたら、取り返しがつきません。
私はクリスチャンの試練困難は、パウロほど劇的ではないかも知れませんが、これは「目から鱗が取れる」過程だと思います。つらく、二度と嫌だと思われたとしても、これはその人が神に愛されているしるしなのであり、祝福なのです。またですからどんな試練困難であろうとも、徹底して感謝いたしましょう。神は次のように私達に求めておられます。
      
テサ5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

2017年8月27日 (日)

神に不可能は無い

マタイ 19章16節
すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

 マタイ19、マルコ10、ルカ18の各章で扱われています。この富める役人でもある若者は、イエス様が来られるのを走り寄って「尊い先生、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたら良いでしょうか?」と尋ねています。今の私たちには、行いによって永遠のいのちを得ようとすること自体が方向違いであることを知っていますが、パリサイ派中心の当時では、これは当然の発想でした。しかし彼は律法を単に守るだけでは「永遠のいのち」を得られない、そんな感覚を持っていたと思われます。当時の律法中心の時代にあって、イエス様の権威がわかる数少ない正しい人でもありました。
 
 この人はマルコによればイエス様から「慈しまれ」た人物であり、ルカによれば律法を忠実に守っている風であっても、行いに疑問符のつく人として描かれています。この両福音書ともあなたには「まだ一つだけ欠けたこと」があると、ズバッと指摘されていますが、マタイでは「完全になりたいのなら」と道を諭すようにして答えられています。
 
 イエス様は彼がこの世の富に心を奪われていることを知っておられたので、すべての財産を売り払って貧しい人に施し、それから自分に従って来なさい」と言われました。人は神と世の両方に仕えることができません。彼にはこの問題があることがイエス様にはお見通しだったのです。ですから「律法をすべて守っています」と言いながら、財産を施して「隣人を自分のように愛せよ」の戒めは十分に守れていなかったのです。
 
 この人は結局富を捨てる事ができないので、悲しみながら去って行きました。人は完全にはなれず、罪が残るのです。ですから罪ある者が永遠のいのちを得ることは、「ラクダが針の穴を通る」ほど困難でした。この不可能を、イエス様が十字架によって解決されたのです。人にはできないことでしたが、神が可能にしてくださったのです。
 
 私たち罪人は十字架を信じることで、全くこれまで一度も罪を犯したことがないかのごとく一切赦され、それで聖霊さまが住まうことが可能となりました。この聖霊なる神の力よって、私たちは不可能だった神に聞き従う人生が可能となったのです。これは奇蹟中の奇蹟、なんという恵みでありましょうか。
 「自分の十字架を負い、わたしについて来なさい」とは恵みの道です。人間の力では不可能だった「神に従う」道が、行いではなく神の力、十字架によって開かれたのです。自分の力では到底得ることのできなかった「永遠のいのち」を私達は得ることができるようになったのです。

2017年8月20日 (日)

父の愛

ルカ 15章24節
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
(死んでいたのに生き返り~放蕩息子の話)
 放蕩した弟息子の方が、兄よりはまだ見どころがある人間だったと私は思います。弟を「あなたの息子」と突き放して言い、「遊女に溺れて」と放蕩を具体的に指摘したのは、本当は自分も人一倍したかったことに違いない人間であったことを思わせます。兄には弟のように真の自分に気づき、悔い改めて立ち返る機会が遠いことでしょう。
 
父は自分の身代を食い潰すことがわかっていも、何も言わずに弟息子の要求通りに生前贈与を呑みました。さぞ苦いものだったと思いますが、そうすることしかできなかったのです。真の愛は束縛したり、まして支配するものではありません。それはサタンのすることです。父は悲しみながら離れ、去って行くことを受け入れました。私たち人間社会に起こる様々な問題、争いとか戦争、不幸はすべてこの視点から見ていく必要があると私は思われるのです。
 
弟息子は結局、相続をすべてお金に換え、遠くの異国の地で、おそらくは短期間に財産を使い果たします。遊女へはもちろんですが、この人なら恩義を感じてくれるだろうという人からも、忌み嫌われる「豚の世話人」をあてがわれるような薄情さでした。そして飢えに苦しんで豚の餌をも食べたいと思うほどの苦しみの最中、「我にかえった」のです。それはいかなる我でしょうか?大勢のしもべを従えた財産家の子息としてプライドがあったはずの弟息子でしたが、父の雇い人の一人になることを願って帰ることの決断でした。英語のKJVでは雇い人を「hired servant」とあります。これは日雇い奴隷のことです。家の奴隷は家族の内であり、食いっぱぐれることはありません。しかし日雇いはその保障はなく、最も惨めな最下層の労働者です。かつて主人であった弟息子が、それを覚悟して帰郷するということは、恥も外聞も捨て、一切のプライドを捨てて帰ると言うことです。最下層の奴隷の一人として、過去の栄光をうち捨てて、父のあわれみにすがるためでした。一言で言うと、「あわれまれるべき自分」でした。神の元に帰る私たちとは、あわれまれなければならない、惨めな我を知ることに尽きます。世的な自我が死んで、私たちは初めて自分の真の姿に気づくのです。
 
この弟息子を父は毎日毎日地境まででかけては、「まだかまだか」と案じつつ帰還を待っておりました。そして帰ってくることを信じて、指輪や良い服、履き物まで用意させておきました。そして誰よりも真っ先に見つけ、駆け寄り、ユダヤ人にとって最も忌むべき豚の臭いふんぷんの乞食姿の息子を抱き寄せ、接吻しました。それはまさに、狂ったように喜んだのです。弟息子が悔い改めの言葉を聞くか聞かないかの内に、父は指輪をはめさせて息子としての権利を与え、服を着させ、自由人としての履き物をはかせました。これが父の愛、私たちの天のお父様の真の姿です。なぜなら死んでいた息子が生き返ったのだから。
 
それで今、この世では生きていますが、神に愛されているのにその愛を受け入れていないという、死んでいるみなさん、この天の父の元に帰ろうではありませんか。神は愛です。この父の愛を受け入れ、立ち返りましょう。

2017年8月13日 (日)

永遠のいのちと御霊のからだ

ヨハネ 3章15-16節
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
「永遠のいのち」は「御霊のからだ」とセットです。この御霊のからだは神が与えてくださる最良の体です。幽霊のようなものではなく、実体をともなったからだです。イエス様が疑うトマスに自らの傷穴に指を入れてみなさいとか、弟子たちと一緒に食事をされたことから、実のあるからだであることは明らかです。私は永遠に年を取らず、行動が自由なこの御霊のからだになることを心待ちにしています。
 
 さて、私たち人間を愛される神はこの永遠のいのちを与えるために、イエス・キリストを世に送られました。本日の聖書のみ言葉通り、十字架において贖いのわざは完了し、成就しました。今は信じる者すべてに永遠のいのちが与えられる恵みの時代です。
 ただ、注意しなければならないものがあります。それはイエス様も常に注意されていた律法的な対応です。つまり、世では当たり前の「得るために自分の力で頑張ること」です。これでは自分の力で得たものになり、どんなに信仰的な言葉や行いをしたとしても、神とは関わりない、永遠のいのちとはほど遠いものです。ただし世的なやり方にどっぷりと漬かっている本人には、なかなかそれに気づくことが難しいのです。キーワードは「自分に死んでいるか」です。
 
 一例を富める若人に見てみましょう。イエスさまのところに訪ねて来たある若く富める役人がいました。この若人の問いは「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして得る」ことができるかでした。彼はそのために律法を忠実に守って来たのですが、形骸化している律法では、それが難しいと直感していたようです。
 
 イエス様は彼に対しては「完全になりたいなら」世の富を捨て、イエスに従う道を教えられました。若人は悲しみながら、イエスの前を去って行きました。彼は永遠のいのちより、世の富の方を選んだのです。当時裕福な者は神に祝福されている者として見られていた上、律法をきちんと守っていた人が行けないなんて・・・・それでは誰が神の国へ行けるののだろうか・・と皆思いました。
 
 するとイエス様は、「ラクダが針の穴を通る」ほど、人間の力では絶対的に不可能なことであっても「神にはできる」と語られたのです。それは十字架によって開かれた神の力に依り頼む道でした。十字架によって罪を赦すという、神の愛の力と恵みを受けることでした。その前には、律法的な個人はすでに死んでいるのです。自分に死んで十字架の神の愛と恵みによって新たに生きる、これが永遠のいのちなのです。
 

2017年8月 6日 (日)

父なる神の愛

ルカ 15章21節
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

人によっては、神は高い所から見下ろし、罪人の私たちを裁かれる恐い存在と思っている方もいますが、神の本質は愛です。意外にも神さまを理解するポイントは「支配」だと私は思います。
 
サタンの狙いは神が愛されている人間を一人でも多く支配し、自分が行かなければならないゲヘナ(永遠の地獄)へ道連れにすることです。彼らは神の計画を妨害する存在ですので、特にクリスチャンをゲットすることは大戦果です。ですから特に注意が必要です。
 
右図を参考にしてください。S
サタンは神のもの、つまり信じる者を奪おうとしますが、それに対し神は穏やかで慎み深く、私たちにズカズカと入られたりはしません。サタンは恐れや不安で人に侵入し、支配しようとします。ただ神がそれを許されるのは、私たちが真に悔い改めて、心から父のものになりたいと自由意志で願うことです。真に私たちを得たいと忍耐して待っておられるのです。
 
ルカ伝15章の放蕩息子の話は、この神の愛がよくわかるよう書いてあります。生前贈与など良からぬ意図を持って願う弟息子に、通常はあり得ないことですが、天の父は許されます。結局、放蕩の限りを尽くし、ユダヤ人にとって死にも値する豚の世話をし、その餌さえも食おうとするまで堕ちた息子が、ハッと我に返ったのです。「もう父の子でなくていい(それほど自分は父を裏切った)。これほどの恥辱は無いが、それでもただの使用人としてでも父の所に帰ろう」。この瞬間、父は愛する息子を真に得ることができたのです。人は自分のみじめさを知らなければ、真に悔い改めることができないと私は思います。すべてはそのために、あえて放蕩を父は許されるのです。
 
しかしまた父は、「早く帰ってこい」と地境をいつも見回ていたほど心を痛め、待ち続けていた存在でもありました。それだけで無く、息子が帰ってくることを固く信じ、指輪、長服などすべて用意していました。神は全能であり全知ですが、私たち子を、人間をはるかに超える愛で愛してくださっているのです。このお方を私たちは愛するのです。また同時にサタンをはるかに超える力ある神にあっては、たとえ放蕩を許されても、神の許しなしにサタンは私たちに手出しができません。絶対的な護りが、私たち子にあることを覚えておきましょう。

2017年7月30日 (日)

永遠のいのち

ヨハネ 6章39~40節
 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。


 十字架の神を信じるとは、永遠のいのちが与えられることです。と言うことは<天国人>であり、寄留者としてこの世を生きる選択をしたことになります。それは当然この世から理解できない、異質な者として排斥や迫害を甘んじて受けることでもあります。
 神を信じる者には、血肉の体が世にある限り、戦いが許されます。「風邪なのに便秘の薬を飲んでも治らない」ように、霊的な病には霊的な対応をしなければ治るはずがありません。体や精神の病に対して、その原因が霊的なものであれば、霊的な対応をしなければ治らないのです。もちろんその場合でもあくまで医師や医学の治療にも従い続けておく必要があるのですが。
 
 さて、神のみ心は神がすでに勝利を取っておられるように、私たちも勝利を取ることです。ではその勝利を得るためにはどうすれば良いのでしょうか。もちろんそれは自分の力で推し進めてはなりません。まず第一にサタンの惑わしを見破り、天国人として対応しましょう。彼らサタンはこの世、見える世界、つまり物質世界がすべてのように見せようとしますが、実はその背後に見えない霊的な世界、永遠の広大な世界があるのです(右図)。この見える世界は人のために神が造られた世界であって、目的を達成すれば不要になる滅びの世界です。私たちは天国人として、この見える世界、それも神の許しなしには何もできないサタンの支配を見破って行く必要があります。
 
 次に信仰の大楯の上にイエスさまですら〔四十日四十夜の後の試練の後〕サタンに対してすべてみ言葉で戦われたように、人が神の言葉という剣を用いなければ勝てるはずがありません。あらかじめ神の言葉をいくつか用意し、すぐさま取り出せるよう訓練しておかなければなりません。
 
 最後に私たちには必ずと言っていいほど試練・困難があります。試練・困難はヨブに見るように、すべて神の許しなしにはあり得ません。と言うことは、試練・困難のように見えて、実は次のような目的があるからです。私たちを立て上げて、神の証しの器、み心を行う忠実なしもべになるため、天での祝福を受けさせるためです。ですから試練・困難が来たなら次の御言葉に立ちましょう。第一に私たちが耐えられないような試練は無い(1コリ10:13)のです。次に試練・困難をこの上ない恵みとして喜ぶ(ヤコブ1:2、1ペテ4:12-14)信仰に立つことを神は期待しておられます。最後にフィラデルフィア教会のように、与えられた神の言葉を守る者には、携挙を含め地上においては神の守りがあり、寄留者として、天国人としての自覚を持って歩むようにしましょう。

2017年7月23日 (日)

三位一体の神

Ⅰヨハネ 14章16節
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
キリスト教の神は三位一体の神です。私たちの群れでは「父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は唯一であり神である」と定義しますが、 それぞれ名称を持ち独立した存在である神が、唯一の存在であるとは、それ自体が一見して矛盾に満ちた定義に見えPhotoます。けれどもこれは、だれも自分の持っている小さなコップに太平洋の海を入れられるとは思わないようなもので、人に過ぎない存在が神を全部は理解できるはずもない。
 
 とは言っても、神ご自身が聖書で三位一体についてかなりの説明をしてくださっている。旧約聖書では創世3:23で「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして」とあるように、何カ所かで神自身のことを複数形で語られています。さらに新約ではイエス自身がヨハネ14章で以下のように述べておられます。
ヨハネ14:9「わたしを見た者は、父を見たのです。」 ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
これらの御言葉やイエスの洗礼時の様子や、諸手紙におけるベネディクションからも、三位一体の教理は真理であることがわかる。
 
 ところでなぜ神が三位一体という、人間にとって難解な存在なのだろうか?これに当然推測の域を出ないが、本日の聖書「神は愛である」点から、愛と交わりのためだと見ることができる。ヨハネ3:16によれば、神は永遠のいのちを信じる者のために与えようとイエス・キリストを十字架にお架けになった。それは十字架によって信じる者の罪を赦し罪なき者とされ、かつてエデンの園の時のように、聖であるご自分との交わりを回復させられた。仕上げは聖霊である。神は聖霊を人の中に住まわせることによって、かつてエデンで途絶えた交わりを完全に回復させられたと言えるのではないだろうか。イエス・キリスト以降は、聖霊の宮が信じる者の中にあり、神の国が成就している恵みの年である。
 
 三位一体の神は、人への愛とその愛を具現化する交わりの神であることを心から感謝しよう。この交わりのうちに私たち人も、知れば知るほど神を愛し、なんとしても神のみ心を行いたいと心から願い、献身する者へと変えられていく。神を愛さない献身はあり得ないのです。

2017年7月16日 (日)

サタンに勝つ

Ⅱコリント 10章 3-4節
  私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

 神が造られたこの世界には霊的な存在が三つある(右図)。神は天使以上に人間を愛された。そこで美の極み、知恵に満ちた存在であったサタンPhoto (エゼキ28章)が、人間に嫉妬して堕落したと言う説がある。確かなことはサタンが神の座に着こうとして(イザヤ14章)天から追放されたのである。従ってサタンは多くの堕天使を率い、何としてでも神を妨害する存在でもある。
 
 神の計画はご自分を信じ、従う人を通して為されて行くので、戦いは特にクリスチャンをめぐって激しいものとなる。ただしこの戦いは最初から勝敗が定まっている。神の勝利である。だからいわゆる<歩留まり>をめぐる戦いでもある。
 
 さて神>サタン>人という力の順があるので、人はサタンに対抗しても勝てない。それゆえ人が勝つためには神の力に依拠するしかない。信じる信仰が勝敗を分ける。対して巧妙に自分を隠し存在を偽るのがサタンの得意技なので、なんと神を信じるクリスチャンですらサタンの存在は認めない人が多い。戦う相手が分からなくては勝てないのが自明だ。
 
 多くの人はこの世の見方を自分に当てはめ、劣等感を抱かされている。精神を病んでいる人に多いのは、修正できないほど自己像がズレていることが多い。これは世を支配し偽らせるサタンにだまされているわけで、神に造られたありのままの自己像に立ち返ることで癒やされるだろう。神はすべての人を愛し、傑作として世に送り出してくださっている。偽りの自己像から解放されるためには、神を信じ、その愛に自分を捧げ、サタンから手出しができない断固とした神の領分に自分を置かなければならない。
 
 精神の病の人だけではない。クリスチャンは常にサタンとの戦いの最前線に置かれている。神の器であればあるほどそうだ。したがって精神の病の人にはみ心があって、サタンとの激しいぶんどり合戦の最中にあると言える。神の言葉と祈りによって神に己を捧げ依り頼むならば、その信仰によって必ず勝利する。この血肉の命が世にある限り私たちは戦いの最前線におり、安息できるのは天の故郷に帰った時ではないだろうか。

2017年7月 9日 (日)

忍耐による勝利

へブル 10章35-39節
あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
 
私たちの教会は日本のリバイバルに召された教会です。首都の日の昇る方、東から立って行く使命を負っています。このことははっきりと神から示されています。ところが多少出入りはありましたが、相変わらず何年も現状に変化がありません。
先週、この現状に関して、御言葉を求め御言葉に立つように気づかされましたので、早速祈り求めました。本日は与えられました御言葉をみなさんと共に受け取って行きたいと思います。
 
聖書箇所はへブル10:35-39、中心が36節で、そこには「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」とあります。神のみこころとはリバイバルの召しと使命です。その約束は「忍耐」によって手に入れられる、つまり、成就すると示されました。Endure
「忍耐」という言葉に、日本人はあまり良いイメージがありません。「石の上にも三年」とか「むぅぅーうっ」と我慢するサウナ風呂のイメージですよね。だるまさんてみなさん知っておられるでしょうが、座禅を9年も組んだため、両手足が壊死して無くなったからなんだそうです。
 
しかし聖書で言う忍耐とはそのような意味ではありません。聖書的な意味では日本語的な意味でのただ耐えるという意味ではないのです。絵を見てください。教会とクリスチャンにとっては困難がつきものですが、これにはこの先に明確な神の勝利の計画があるのです。ですから、ただ我慢し耐えるという現状維持が忍耐の意味ではなく、忍耐すること自体が、定められた神の時に向かって一歩一歩、成就へ、勝利へと近づき前進していることなのです。ですから私たちの忍耐とは、神の時が成就するための神の戦いなのです。
 
この点から前後の御言葉・・・・「確信を投げ捨ててはなりません(35節)」 「おそくなることはない(ハバクク2:4からの引用)」「恐れ退いて滅びるな(38-39)」と私たちを励ましています。私たちの今の忍耐は勝利へと向かう信仰の戦いととらえた時、現状から諦めたり、与えられた神の約束を疑って途中下車したり、退いてはならないのです。この御言葉に立って、教会は忍耐によって神の約束の成就、リバイバルを見るのです。

2017年7月 2日 (日)

心を刺し貫く剣

ルカ 2章34-35節
また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
 
 マリヤは親類のエリサベツの家で「マリヤ賛歌」(ルカ1:51-54)と呼ばれる預言を残しています。これは「受難のキリスト」の予告とも受け取れます。そしてイエスを捧げに宮に詣でた時に、シメオンが受難のキリストである確認を語り告げました(ルカ2:34-35)。
 
我が子がメシヤと語られることに驚いた母マリヤですが、おそらく「剣があなたの心さえも刺し貫く」と語られた言葉が一番心に残ったことでしょう。後には成就しましたが、多くの人々の心を明らかにするための神のみこころはこの時点では理解困難でした。
「反対を受ける」という言葉ですが、KJVでは「spoken against」であり、「語られた宣教に逆らわれて」という意味です。本日はこの神のみこころに焦点を当てます。
 
人が福音を聞いたならば、二者択一しかありません。受け入れるか、さもなくば受け入れないで拒むか、です。その分かれ目のポイントは「世に希望があるか」「正しい自己像で自分を見ているか」です。
 
福音を拒む人とは、この世に希望があるからではないでしょうか。地位や権力のある人。能力があって成功した人。名家の生まれや財産のある人。こうした世に宝のある人たちにとっては、容易にこの宝を捨てる事ができません。またもう一つ、「救われねばならない罪」を認識している必要があります。これは暗く否定的なことのようですが、十字架によって一転し、罪からの解放と祝福を得る基となります。聖書はすべての人が罪を犯しており、義人は一人もいないと言っています。ですから罪が無いと思っている人は自己像が正しくないのです。問題は救いと世の富とが相反することです。富める若人のように、どんなに救いを求めていても、世を選ぶなら救われないのです。
 
逆に貧しい人、権力の無い人。能力の無い人、虐げられている人・・・・こうした人たちは福音を受け入れる人たちです。この世にたいした希望がないからです。「心の貧しい者は幸いです。天国は彼らのものです」と言われているわけです。しかしどんなに神の国に近くても、自分の内にある罪が分からなければ救われません。
反対を受けるしるし、とは世を選ぶ人、罪を認めない人たちから福音を語れば迫害されることです。我が子の処刑に立ち会ったマリヤは心を刺し通されますが、三日後、復活の我が子を見ました。同じように私たちは福音を信じ、救われて世と肉の命に勝る永遠のいのちを与えられました。このことを喜びましょう。迫害されても私たちからこれを奪うことはできないのです。

2017年6月25日 (日)

信仰Ⅱ

マルコ10章27節
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
 
 イエス様は、この世で富んでいる人が神の国に入ることは、「ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい(マルコ10:25)」ことだと慨嘆されました。持てる者は世の富を誇ったり頼ったりします。しかし持たざる者は神に頼るしかない、そのことがかえって益にされ、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから(マタイ5:3)」と語られたのです。 
 
 しかし富んでいようと貧しかろうと、ただそれだけで神に国に入れるわけではありません。たとえ全財産を捧げても、それと引き換えに天国に行ける保証はありません。人には罪が有り、不可能なことであっても、「神にはできる」と可能にしてくださったのがイエス様の十字架でした。自分が神の国にふさわしくない罪人であること、自分の身代わりとなり、罪を贖ってくださったのが十字架のイエス様であることとを信じ、告白しなければなりません。これは行い拠るのではなく、いのちを捧げてくださった神の愛への応答として、自分の霊・たましいなど一切を捧げることを意味します。
 
旧約時代においては律法を守るという行い中心でしたが、十字架以降の新約時代には広範な質的変換が神との関係においてなされました。神を自分より愛する者は、自分の存在そのもの、いのちをも世にまさって優先し捧げるからです。殉教とはこの具体的な結果であり、それゆえ神から称賛を受け、千年王国では王となるのPhoto_2です。
 
 信仰とは、まず自分が神の国に行けない罪深い者であることを知った人でなければならず、その絶望の底から十字架を信じて希望を見、 その希望が確信へと変わって、絶えず喜ぶ者へと変えられたことでした。これは人間を180度転回させます。
神を信じる者に十字架と救いの疑いはありません。なぜなら信仰は「神に不可能はない」ことを知らせ、祈りの体験によって、まだ見ぬことに信頼を置くからです。なぜそれができるのでしょう。罪が十字架によって赦された者には、聖霊を通して神と交わった確かな体験をしているからです。
千のことばよりも確かな確信が、信じる者にはあるのです。神にはどんなことでもできるのです。

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