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2018年7月 8日 (日)

要塞を打ち倒す力

Ⅱコリント10章4節     【新改訳2017】
私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです

 要塞とは前線基地でして、いったん作られてしまうと、なかなか打ち破れない強固な陣地のことです。通常要塞は敵との境や敵のただ中に築かれ、精強な軍が派遣されています。領地をパトロールして守り、時に攻めるために要塞から出撃し、危うくなれば要塞に逃げ帰って軍を立て直します。聖書のこの箇所でいう要塞とは、サタンが私たちの中に築いている要塞であり、なかなか打ち壊せないもの・・・・・罪深い性質、ねたむ心、物欲や肉欲、なかなか直せない弱い性質や消えない古傷などが該当するのではないでしょうか。

 そこで二日前のⅡコリ7章10節に「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます」とあります。私たちが要塞と戦う時、自分の力の弱さを知ります。そこで戦う力の無いことがわかってはじめて、悔い改めて神様に自分を完全に明け渡し、自分の代わりに神様に戦ってもらうようになります。これが「救いに至る悔い改め」です。この戦いは、神の勝利となります。なぜならサタンは神に勝てないからです。これは兄妹げんかで、体格で負けそうな妹が父親に助けを呼ぶようなものだと言えばよいでしょうか。

 神の側に立ったクリスチャンに対し、サタンは奪い返そうと激しく攻撃します。ですから神に逆らう闇の力、サタンとの戦いは、世にある限り、クリスチャンにとって常に続くことを覚悟しなければなりません。この霊的な戦いを自分の力で肉的に行うなら、常に深手を負うことでしょう。しかし悔い改めて、常に神に自分を委ね、捧げて、代わりに神様に戦っていただくなら、私たちは必ず勝利を得るのです。このことを「要塞を打ち倒す力」と言っているのです。

私たちに希望はなくとも、心の希望が神にあることを特に学びました。

2018年7月 1日 (日)

私たちの天のかたち

Ⅰコリント15章49節

私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。

 私たち一般的なクリスチャンに、天国への希望、そこに行ける喜びという現実感が、あまりにも希薄な人が多過ぎる、そういう思いがしてなりません。

 たとえ現状がどうあろうとも、本来私たちはすべての罪許され、天国人として希望に溢れてスマイルの存在なのです。私自身も辛かった試練の中で、呻き苦しみ、希望の無い暗い表情をしていた者だったからこそ申し上げます。それでは、いけません。証人としての使命が果たせていません。

 しかし現実には、「天国人なんてこと言ってるの、現実が見えてないお気楽な人たち」とか「地に足が着いてないから言えている」と批判するクリスチャンたちの声が聞こえるようです。また福音派の教会の祈祷会では、ドラえもんのポケットばりに、神様への願い事や要求を呟くように唱えるばかりです。生ける神の臨在の中、感謝や心からの悔い改め、賛美という、祈りの土台がすっぽり抜け落ちているのです。祈りが聞かれる、そんな希望も信仰も無いようです。

 それがハッキリわかるのは、告別式、召天式という教会のお葬式において、まるで永遠の別れのように、式においてひどく嘆く悲しんで悼んでいる光景を目にする時です。出棺では泣き叫ぶ人すら出る始末です。今の世は永遠の世界に比べれば、ホンの一瞬のようなものです。この世での使命を終え、天国に凱旋して行った兄弟とは、私たちはすぐに再会します。ですから一時の別れは惜しんでも、あまりに悲しむのは、世の人と変わらず、復活を実際には信じていないというようにも見受けられます。

昨日、同じ群れの若い兄弟のブログに、次のような文面がありました。
日本で新しい人に出会うといつも、名前のせいで、外国人だと間違えられる。でも、くそまじめに、外国人だと、答えたい自分がいる。天国から来ましたと、天国のことを話すと多くのクリスチャンがしらけるし、笑う。天国の話をできないクリスチャンが多すぎる。けっこう悲しい現実。でも、イエス様はいつも天の御国は、と言って天の国の話をした。この世で成功するお話でもなく この世の政治の話でもなく、イエスさまはいつも御国の話をした。天国人として天の国のサムライとして、天の国の文化の中で生きて行きたいなぁと心から思う。

全くの同感ですし、今日私が皆さんにお伝えしようしたテーマは、完全に読み取られていました。付け加えますが、私たちにはすばらしい「御霊の体」が与えられます。鳥や魚の肉には、同じ肉でもそれぞれ違うように、天国には朽ちも老いもしない御霊の体が与えられます。その御霊の体をもって、罪も苦しみも無いすばらしい天国で私たちは永遠に暮らすのです。天国ではアダムとイブが堕落する前の、実にすばらしい世界が復活すると私は思っています。

どうか皆さん、この世のことを心配する世の霊に支配されないように、心がけていきましょう。不安や心配事が先ず頭に浮かぶ人が居ますが、それは悪霊です。肯定的、積極的な人間になれるよう祈り求めましょう。

 み心の使命が果たせるよう、神に祈り求めて行きましょう。自分の使命を知らずして、それを果たすことはできません。ですからまだわかっていない人は、ぜひそれを得られるよう、熱心に祈り求めてください。これはみ心ですから、必ず答えられます。天の国の文化をこの地上で明らかにできるよう、祈り求めましょう。そして神様に感謝して捧げられた人生、証人としてのスマイル、笑顔、喜んで人生を神様に捧げて参りましょう。

2018年6月24日 (日)

よりすぐれた賜物

1コリント 12章31節
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

 本日の聖書箇所には、“よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい”とありますが、これは九つある聖霊の賜物のどれかを指しているのではありません。この“熱心に求めなさい”と同じ言葉が次の14章1節にも使われており、そこでは「愛」「預言」とが同格で“熱心に求めなさい”となっています。「愛」は「預言」と同格ですが、「愛」という土台が先ずあって、その次に聖霊の賜物の代表であり、神の愛を伝える「預言」があるのです。

 Ⅰコリント13:4-7 には次のように「愛」を語っています“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。”

 私が若い頃は信仰が引き上げられたら、こんなすばらしい愛のある者にしていただけると思っていたのですが、今は違います。ますます自分の罪深さを知り、ほど遠い姿を見るのです。自分という人間には、これは到底到達不可能、そこでわかりました。これは、本当の愛というものを神様が教えてくださっているのだということをです。ですから、これは人には無理なのです。
 たとえばどんなに願っても子どもが与えられなかった人が、できた人を羨ましいと思うな・・・それは無理なことです。程度問題が重要ですが、それにしても嫉妬がない・・・それは人間を超えている気がします。“人をねたみません”これができるのは神様だけでしょう。間違っても自分ができる、そんな誤解をして自分を責め、苦しまないでいただきたいと思います。この罪深いみじめな私のために、ますます十字架の力が働き、赦されたものとして、赦してくださった神への愛がこんこんと湧いてくるのではないでしょうか。

 神への愛は、十字架の愛で私たちの罪が赦され、エデンの園で断ち切られた関係が回復し、聖霊さまを通し神様を個人的に知ることによって深められて行きます。神様はすばらしい愛なるお方です。Ⅰコリ13:4-7にある通り、神様を知れば知るほど、神様に夢中になり、安心して喜んでこんな自分でもよければ、と自分を捧げるようになります。

 神様を愛するようになれば、当然、愛する方から影響されていくようになります。自分の罪深い性質は本質的に変わりませんが、妬みも以前よりは少し減り、心が何よりも平安になります。しかしそれら良いところがあったとしても、それらはすべて神様の影響であって、自分のものではありませんので、高ぶったり、誇りすることにはなりません。人は神に栄光を帰し、ますます謙虚になります。“さらに勝る道”とは「神の愛」のことであり、このように神様と交わる恵みのことを意味するのです。

2018年6月17日 (日)

神の国は力にある

1コリント 3章16節                                           

 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

 通読している本日の聖書箇所、正しくは「神の国は言葉にではなく、力にあるのです」です。これは高ぶった者が信仰的な言葉を使って試すので、「力」という実質が言われているのです。荒野の誘惑でも分かるように、サタンは自分の偽りの目的のためにみ言葉ですら引用するのです。その場合、言葉の「力」はまったくないのです

 人間は神を信じる人と、信じない人との二種類に分かれます。信じない人にはこの世と自分が主たる関心なので、世を支配する悪霊の影響下にある人々です。この人々は「自己実現」とかの言葉を使いますが、自分の欲望の奴隷であって、神のされることやクリスチャンを理解することができません。彼らの報いは審きであり、永遠の滅びです。
これら世の人に対し、選ばれた人、神を信じる人がいます。神を信じる人には聖霊が住んでおられます。"あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。"(1コリ3:16)とある通りです。

 しかし自分の中に御霊が住んでおられても、まったく意識に上らないクリスチャンが多くおり、相変わらず自分の人生の主人はやっぱり自分であり続けます。神を主としないその人に神の力は現れません。このクリスチャンのことをパウロは「肉に属するクリスチャン」と言っています。

 御霊に属するクリスチャンは自分に死んで、神に捧げ、しもべとして御霊に聞き従っています。私の経験からは、御霊に属するすべての人は、修行とか善行とか努力で、つまり自分の力でなった人はいないはずです。例外なく神から試練を受け、深い罪に気づかせられ、その罪深さゆえに自分に死んだ人々だと思います。自分に死ななければ新生することは不可能です。神の力が試練を乗り越えさせ、新生させてくださったのです。そして御霊に属する者として、すばらしい祝福を得ました。罪を知らずして、聖霊のバプテスマや新生、献身はあり得ませんし、聞き従いもありません。

 こうして十字架の代価を払って買い取られた者に、自己を誇ることはできません。誇るならただ主を誇ります。そこに賛美が生じます。教会内にあっては、互いに兄弟姉妹として心から愛し合うことができるのは、己に死んで妬みや欲望から解放されているからです。
自分はまだ御霊に属するクリスチャンとなっていないと思われる方、神に熱心に、粘い強く祈り求めてください。神は真実な方であり、あわれみ深く、それはみ心ですから、最善な時に必ず実現させてくださいます。

2018年6月10日 (日)

私たちは主のもの

ローマ 14章7-9節

7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。


7節 「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです」8節 「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」 このみ言葉の理解には意外に章末の23節「しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。」が具体的な参考になります。しかしこれはちょと理解できにくい箇所です。なぜならこれまでパウロは何度も、食べ物に関して汚れているものは何一つないと説いています。それなのに、たとえ疑いがあったとしても、律法に縛られないで食べることがどうして罪になるのでしょうか。
 しかし前後をよく読むならば「食べる」「食べない」はそれぞれ信仰からしていることです。しかしユダヤ人にも関わらず信仰のある真似をして、禁忌食物を食べるであれば、それは律法違反であって、ユダヤ人を躓かせる罪になるのだと注意して言っているのです。

 ここで大切なことは、信仰によって自分に死ぬということです。信仰義認に立った、いわば信仰が強い人、つまりどんな食べ物も食べられる人でも、未だに律法を遵守する同じユダヤ人クリスチャン(弱い人)に対しては、自制してその人と同じようなコーシャ料理を(彼らと同じように)摂るということ、これが自分に死ぬ愛であると教えています。 

 つまりすべては信仰が原則であり、基準ですが、そこに愛という土台があるのです。その意味で「信仰が強い人は弱い人を受け入れる」という教会の在り方をパウロがここで奨めているのです。個人にあっては主のみ心に聞き従うということがポイントになりますが、教会という御体では、弱い人を愛し、自分に死ぬことが在り方のポイントになります。
 
  これを実際に私たちの教会に適用してみますと、たとえば聖書をよく知っている福音派の方が来られても、また心の病の方が来られても、私たちは愛を持ってそのような方に自分に死んで、愛を示していくことが前提です。知識のある福音派の方には、控えめながら聖霊様の具体的な証しをしましょう。また病のある方があなただけでなく、いろんな方に同じ質問を投げかけていたとしても、そうせざるを得ないその方を受け入れ、愛しましょう。その方は見分けができず、大勢の人から同じ結論を聞かないと、納得できないのです。 私たちは愛を示しましょう。それも自分の力に依ってではなく、神様に祈り、神の力である聖霊の力によって成して参りましょう。

2018年6月 3日 (日)

信じる者はみな、神から生まれた

1ヨハネ5章20節  
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
 

 「罪がわかる幸せ」~救われることを願って、親しい友人や親族の前で福音を語りますと、聞く人は三者三様です。熱心に聞いてくれたり、詳しく知ろうとする人はごく少ないのですが、励まされます。次に聞き流すか、聞きたくない人。霊、魂など見えないもの、現世に関係ないものには関心がないのでしょう。最後に嫌がる、または露骨に怒り出す人がいます。自分を正しいと思っているので、救われなければならないこと、悔い改めなければならないことに抵抗を感じます。まして死後の裁きについて聞くことは、見逃せない不愉快なことなのです。
この違いは、自分の心の中を正しく見ているかどうか、つまり罪意識があるかないかによるものでしょう。その結果、頑なさに違いが生じているのです。

 逆に今礼拝している皆さんは、神に愛され、神の子とされている非常に恵まれた方で、我が国の人口の2%しかいない、つまり五百人に一人という超祝福を受けておられる方なのです。クリスチャン二世を除いて、皆さんの共通項はただ一点、罪が分かったという点なのです。なぜなら、罪が分からなければ悔い改めることができません。罪がわからなければ、悔い改めて救い主、私の罪の身代わりに十字架を受けてくださったイエス・キリストを信じる必要は感じません。ですから、信じる前はどう自覚しておられたとしても、呪われ恐れていた自分の罪深さが、大逆転してクリスチャンには大きな祝福となりました。

 ではどうして自分は罪が分かったのでありましょうか。だいたいは以下の部類に当てはまることでしょう。病の癒やしを求めて。不幸や不条理の理由を探して。自分の能力の低さに解決を求めて。心の傷の空白を埋めたい人、あるいは死を直前にして命を考えさせられた人もいることでしょう。そして神を見出された誰もが、上述した解決を求めて行く中で、自分が、自分がという愚かしさ、罪に気づき、悔い改める心が生じた時に、惨めな自分をも愛してくださった神を知った方が多いと私は思うのです。

 自分の不幸が神を信じ、永遠のいのちがあたえられる幸福を導いてくれました。またそのように、私たちクリスチャンは、本能的に神が父であることが分かるのです。なぜなら、私たちは神の子どもだからです。実の子なら、自分に父が居ることを知っており、たとえ会ったことがなかったとしても、父が父であることが分かるのです。               

 みなさん、父なる神を一層信じ、愛しましょう。小さな子どもが、素直にすべてを父の前で話すように、いつでもどんな時でもお祈りしましょう。父もそれを望んでおられます。そしてそれに答えてくださる、生きたお方が私たちの父なのです。

2018年5月27日 (日)

イスラエルの望みのために

使徒28章20節

このようなわけで、私は、あなたがたに会ってお話ししようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです                   

 パウロは「私はイスラエルの望みのために、この鎖に」と言っています。苦難の果てにやっとたどり着いたローマ、その三日後、ユダヤ人の主だった人たちを集めて牢獄の中で言ったのが今日の言葉です。相手はユダヤ人であって、クリスチャンたちではありません。ここに至ってもなお、福音はまずユダヤ人に語られなければならないのです。
 「イスラエルの望み」とは何でしょうか? それはメシア預言のことです。これはメシアニックユダヤ人の方のたとえ話です。ある時、車を運転していた人が異常に気づいて車を止めて調べました。するとタイヤが一つありませんでした。そこで乗っていた人たちは、タイヤを前の方に捜しに行ったというのです。

 だれでも分かることですが、この人たちはタイヤを見つけることができません。タイヤは走ってきた元の道のどこかに落ちているのです。「メシアはまだ来ていない、これから来る」と思っている現在のユダヤ人をうまく言い表しているとは思いませんか。メシアはすでに来ているのです。それはイエス・キリストというお方です。パウロはそれを何とかして同国人に伝えようとしていたのです。

 さて、どうしてユダヤ人は前を捜しに行ったのでしょうか。これは実に不思議な話です。それは後ろを決して見たくないからかも知れません。なにしろ、ガリラヤ人にして大工の子、イエスなる人物をあざ笑い、呪われているとし、むごい十字架にかけて殺したのです。ですからユダヤ人なら後ろを捜してはならないわけです。

  ところでユダヤ人はなぜイエス・キリストを冒涜罪で殺したのでしょうか。それは神は自分たちのものであり、律法を遵守 (じゅんしゅ) し天国切符をゲットしているという高慢さのゆえです。神殿で祈っていたパリサイ人と、悔い改めていた取税人のどちらが義とされたか、イエス様のこのたとえ話が分かり易い話です。罪深い人間が「義」とされる、それが自分の力によって、行いによってできるとするところに傲慢があることに気づけるかどうか、が最大のポイントです。

  人は自分の力でできないことが分かった時、本当に悔い改めます。それだけではダメで、その自分の罪のために身代わりとなった神の愛が絶対必須でした。ですから罪人はイエスをメシアとして信じ、救われました。私たち異邦人が自分の罪を告白し、イエス・キリストを信じるということは、何という祝福でしょうか。

2018年5月20日 (日)

パウロの誓願

使徒18章18節
パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向けて出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは一つの誓願を立てていたので、ケンクレヤで髪をそった。

第二回の伝道旅行で1年半という長い期間コリントに居たパウロは、エルサレムの事情が知らされたのでしょうか、急いでエルサレムに行こうとします。コリントから丘を越えたエーゲ海側の町ケンクレア髪を剃りました。私たち日本人的な感覚では、何らかの願い事が生じて髪を剃って=誓願を立てた、とこの箇所からは受けがちです。実は反対です。聖書【民数6:1-5】によると髪を剃るのは、誓願が終わImg_0848_2ったからです。

さて私は以前からパウロがどんな誓願をしていたのか、かなり気になっておりました。今回の聖書通読で、その一端がわかってきたように思います。パウロは異邦人の使徒とされていますが、実際にはパウロは同胞ユダヤ人が救われることを第一にし、そこが閉ざされると異邦人に行ったのです。福音は先ずユダヤ人に宣べ伝えられなければならなかったのです。パウロは新しい目的地に着くと、真っ先に会堂を捜し、安息日にはその会堂でイエス・キリストこそがメシアであると、いつも命懸けで語りました。

今でもそうですが、ユダヤ人は捕囚以後、
世界各地に住まざるを得なくなりました。当時のローマ帝国内各地には、会堂を中心にしてユダヤ人が共同体を営んでいました。パウロたちも知らない土地でのとっかかりとして、同じ神を信じているユダヤ人の方が伝えやすかったということもあったことでしょう。実際、その結果として当時のクリスチャンのほとんどはユダヤ人だったようです。しかしユダヤ人と異邦人との間には、同じクリスチャンでありながら…パウロがマルコに割礼を受けさせなければならなかったように…非常に大きな壁がありました。

エルサレム会議以降、異邦人はユダヤ教への改宗を意味する割礼を受けなくていいことになりました。ところがこれは、ユダヤ人クリスチャンまで律法から解放されることではありません。特例的に容認されただけなのです。つまり教会内に、安息日の過ごし方、律法に規定された食事など、まったく異なる二つのグループが存在するのです。初期エルサレム教会で、ギリシャ語を使うユダヤ人(つまり外国育ちの同じユダヤ人)のやもめたちがなおざりにされて七人の執事が誕生しましたが、さらにユダヤ人と異邦人となれば、もっと大きな問題が生じたことは間違いありません。これはエルサレム教会だけでなく、すべての教会での一大問題でした。そこでパウロが願ったこととは、ユダヤ人も異邦人も分け隔てなく、共に一つの御体となって教会形成することだったのではないでしょうか。
しかし誓願を立て、コリントに長逗留している間、パウロに聞こえて来たのは願いに逆行するエルサレム教会の律法主義化でした。A.D.50年ごろからイスラエルは、反ローマの民族運動がますます高揚し、66年にはついに戦争が始まります。そのような渦中にあるエルサレム教会は、存続をかけてますます律法に熱心になって(使徒21;20)行った・・・・パウロの願いとかけ離れたものになって行きました。

もはやエルサレム教会にとって、ユダヤ人と異邦人の分け隔てなく信仰義認の福音を語るパウロは、律法をおろそかにさせる、非常に困った人物になっていたのでしょう。神の計画は福音をユダヤ教から別離させ、キリスト教として全世界の民を救うことでした。パウロの誓願を超えて神の計画は大きく、パウロはそれを知って「みこころのままに(参考:使徒18:21、22:14)」と誓願を取り下げた、と理解するのは如何でしょうか。事実、急いで行ったエルサレムにおいてパウロは、その現状を確認したようで、もはや挨拶だけをしてアンテオケに帰るしかなかったのでした。

どんなに祈っても、しばしば自分の心からの願いや祈りが聞かれないことがあります。しかしそれには最善の神の計画があるためなのです。ここでは神を信頼し、委ねていくパウロの信仰を見るのです。

2018年5月13日 (日)

試練とみ言葉

使徒10節13節
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

  本日はⅠコリ10章13節の後半の<脱出の道>を示されました。では試練に、どんな脱出の道があるのでしょうか。

試練はたとえ辛くても、天の喜びです。つぎのみ言葉があります 「もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子(実子)ではありません。(へブル12:8)」 つまり、神の子としてくださっていることの証明なのです。

とは言え、確かにその渦中にある時はこんな余裕はない。私自身にも経験から言っても、鞭打たれているその痛みに「う、うれしいですーっ」とは、言えるものではありません。
脱出の道とは「どうしてこの苦しみが自分に許されて、この終わりがいつ来るか」、という理由がわかり、希望があることです。多くの試練はただ一つのことを目的としています。それは「自分の罪がわかって悔い改める」ことです。深刻な自分の罪がわからなければ、人は心から悔い改めることができません。十字架がまさしく自分の罪のためであったと100%受け取れなければ、十字架の神の愛もわからないし、聞き従ってみこころを行おうとは思わないことでしょう。けれども問題が一つ、理由とかいつまでは神様に聞くしかないことです。ですから熱心に主に期待して祈ってください。神は真実な方ですから、必ず答えてくださいます。

さて昨夜三本松牧師のお父様の話が紹介されました。退職後、野菜作りを始められたお父様は、野菜作りを勉強され、理想的な土作りから毎日の水やりまで、それは丹精込めて育てられたそうです。しかし結果は、虫がつきまとい、根腐れを起こし、収獲しても味がイマイチだったそうです。そこで野菜作りの先輩に教えを請うと、甘やかして大事にし過ぎだったと。そこで肥料は最低限にし、水やりは枯れそうな寸前まで控える。すると野菜は「これじゃいかん」と頑張りだし、虫を寄せ付けず、わずかな水をしっかりと取り込み、せめて子孫だけは残そうと、自分の身を捨てても次代に託すように熟成した実をならせるのだそうです。

人間も同様です。神は私たちの限界をご存知ですから、必ず護ってくださいます。枯れることはありません。私たちを通してすばらしい実をつけさせようと鍛えてくださっているのです。神を信頼しましょう。

2018年5月 6日 (日)

聖霊のちから

使徒 1節8節
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

 久しぶりにテニスシューズを洗った時のことです。洗ったバケツの底にたくさんの砂が残っているではありませんか。砂場のようなコートで履いていたので、洗えばたくさんの砂が出るのは当然です。続けて二回、三回と洗いましたが、砂は少なくなっても出続けました。それから何度洗ったことでしょうか、減りはしても、砂は完全になくなりません。とうとう七度目ぐらいであきらめました。あきらめた瞬間、この砂とは私の罪のことである、と示されたのでした。

ローマ6章22節に聖潔(せいけつ:holiness)という言葉が出てきます。これは、聖化とも言い、神を信じる者が罪から離れ、徐々に聖別されていくことを指しています。しかし恵みによってたとえ清くなれたとしても、血肉の体の状態では生涯、罪と関わりを断つことができないという示しでもありました。

世にある限り人は罪から逃れられない、このことは天への希望をさらに抱かせますし、常に罪人として謙遜であるべきことを学ばせてくれます。もし自分がかつての罪から少しでも遠ざかることができていれば、それは100%自分の力ではなく、神のあわれみによって与えられた聖霊の力によるものです。私たちは自分ではなく、聖霊様を証するのです。清められたことを少しでも自分の努力の結果だとしたり、聖くなったと思い上がったりすると、そこにサタンが入ることを忘れてはなりません。第一回伝道旅行でのこと、リステラでゼウスの神々としてバルナバとパウロが崇められようとした時(使徒14章)、パウロたち二人が自分の衣を裂いて群衆の中に飛び込んで、「自分たちも同じ人間です」と言う叫んだのはこのためでした。
美わしの門でペテロたちが足の不自由な人に奇蹟を行いました。これは聖霊が二人に示し、不思議としるしを行わせのです。彼らは一見して「癒やされるのにふさわしい信仰がこの男にある」とはわかりませんでした。ただ神に示され、行ったのです。これは聖書には書いてはありません。しかしそのことが私に示されています。パウロたちもリステラで叫んだように、私たちは「聖霊の働き」の証人に過ぎません。

すべての栄光は神にあります。私たちはその証人として用いられるのです。証人が神の栄光を奪って自分の手柄にしてはいけません。どんな些細なことであってもです。私たちは罪人ではありますが、わずかでも良いこと、すぐれたところがあるならば、それは神からのもの、神の栄光に帰すことに喜びを感じるのです

2018年4月29日 (日)

私を愛するか

ヨハネ 21節17節
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」
  ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛します か」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。 あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼 に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 本日の聖書箇所、ヨハネ21章でのペテロへ「わたしを愛するか?」の投げかけの真意を探ります。三度繰り返された投げかけは、完全数であり、決定的という意味があります。ということは、どういうことでしょう。
 結婚式の誓約「(夫・妻とすることに)誓いますか?」も、一度の「ハイ」で終わりです。三度も繰り返して要求したら、「相当疑っている?」と思われることでしょう。ではイエス様はそうなのでしょうか。主の意図がこの時ペテロはわからず、心を痛めました。「どうして何度も聞かれるのか?」と。

  私は半世紀近くいろいろな教会の経験があります。それから言えることは、私たちカリスマの教会には聖霊の注ぎが大きく、癒やしや奇蹟が頻繁に起こります。ですからサタンからの攻撃も強いのです。カリスマ教会は信徒を守り、秩序を維持するために、次第に権威・秩序を重んじるようになり、その窮屈さからか、普通の教会に見られる、日曜日は教会に、の大勢の中間的な信徒層が少なくなる傾向があります。

 これから日本にも世界にも、終末のリバイバルが注がれていきます。圧倒的な多数の人々が教会に押し寄せて来ますが、その時人間的な牧会をしていては、せいぜい数十人規模しか牧会できないことでしょう。ペテロに対し、三度の完全をもって「Do you love me ?私を愛するか」と問われたのは、「わたしイエスへの愛をもって、羊たちを愛しなさい。それはわたしを愛すること」でした。
 ご存知のようにペテロは三度も主を見捨てて逃げた群れのリーダーです。その彼に三度も問われたということは、二度・・・・は無いということだと、私は思わされています。果たしてこの後、ペテロの殉教の仕方を主が語られているので、符号が合います。・・・・つまり「本当に、命をかけて私を愛するように、羊たちを愛しなさい」が真意であると私は示されています。

 カリスマの教会牧師が、今ペテロと同じく主への愛を一番に置いているなら、その信徒たちもまた、主を愛することを一番にするはずです。つまり主を愛し、主の愛された者を何よりも一番に愛する」ことが、指導者である牧師の姿勢から全員に感染して広がる「奥義」を、このペテロの再召命の箇所から教えられたのです。

2018年4月22日 (日)

主を愛する人

ヨハネ 14節21節
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。

 今日の聖書通読箇所ヨハネ伝の14章は、イエス様の遺言とでも言うべき重要な所です。ですからこの重みあるみ言葉をしっかり受け取りたいと思います。
 1節「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
 今はまだ私たちは世にありますから、どうしてもいろいろと心騒がせることから避けられません。しかし、私たちの心の王座は主のものです。どんな不安や心配があったとしても、神を信頼し平安を奪われないようにしましょう。「明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します(マタイ6:34)」信じればその実質が現されていきます。
 この14章では四人の弟子(ペテロ・トマス・ピリポ・ユダ)が主にイエスに質問しています。私たちは彼らのおかげで、人間的な視点の過ちに気づくことができます。「主よ、何処へ?」と問うトマスやピリポに対して主は、三位一体の奥義、父と子とは一つであることを語られました。
 これに対し、ユダの質問は、どうして敵対するパリサイ人などに対してご自分が神であることを隠されるのかというものでした。前の水曜礼拝後、A姉妹が実に良い質問をされました…ヨハネ10章の33節で、詩篇82を元に「みこころを行う人は皆、神の子である」と、自分が神であることをすり替え、冒涜と詰め寄る彼らをおかわしになった所です。
 イスカリオテのユダとは別なユダですが、彼の背景として主に対しては別なメシア像、ローマの圧政からの解放と救いをもたらすメシアをイエスに期待していたと思われます。その彼に対して主は聖霊の恵みを語られました。一見するとこれは頓珍漢のように思えますが、そうではありません。主はユダの意図に対し、ご自分が受難のキリストであること、その受難とは全人類の罪を赦し、信じる者に聖霊を与えるためであることを説かれたのです。それ故、地に争いでは無く、「平安」を与え、残すと締めくくられたのです。
 そういうわけで最後は聖霊様の話になりました。聖霊様のことがここでは神ご自身によって具体的に描かれています。聖霊はまず私たちの「助け主」という存在です。   
①信じる者には聖霊の内住がわかり、いつまでも住まわれ見捨てられることはないこと。
②聖霊はすべてのことを教え、思い起こさせ、導かれる。
③その結果、主の言葉(互いに愛し合うこと)が聖霊の助けによってできるようになる。
 聖霊様を私たちにくださるために、主は十字架と復活、そしてペンテコステへの道を歩まれたのです。その聖霊様と、臨在を心を熱くして求めないわけがありましょうか。

2018年4月15日 (日)

渇いているなら

ヨハネ 7章37節
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

 水というものは大切です。空気は地球上ならまんべんなくあっても、水の星であっても飲める淡水は片寄っています。人の体の2/3は水です。動物の命の源は植物ですが、植物こそ光と水で生きる存在です。それゆえ水のない砂漠は死の世界です。
ここで語られている水とは、その命の源の水に例えていますが、単なる水ではありません。「生ける水」と呼んでおられるものです。ではその生ける水とは何でしょうか。

生ける水、この水はどんなに素晴らしくても、渇きがない人にはその価値がわかりません。イギリスのことわざに「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」とある通りです。では「渇き」とは何でしょうか。一言で言えば、それは罪意識です。ありのままの正しい良心と言いましょうか、人と我を比べてではない、幼い頃には皆が持っていた、本当の自分自身を正しく見つめる心です。自分を正当化せず、自分の自己中心性、欲深さ、すぐに高ぶる心、これらをまっすぐに見すえる時、自分の本性がどうしようにもならない罪深さがわかります。血肉のこの命の終わる時、その行く先は恐ろしく、動揺し、心から救いを求める飢え渇きであり、「助けてください」という叫びです。

昨日自転車で街を走っておりましたら、最近流行の個人葬の葬儀場がありまして、その看板に「お葬式…それは人生の卒業式」と大書きしてありました。死が卒業式であれば、いよいよ本番の大切な就職はどこにされるのでしょうか?学ぶだけで後は仕事をしないのであれば、何の為の学校なのでしょう。これは死後、恐ろしい地獄で苦しまなければならない人々を、まるで晴れ舞台の卒業式のようにして、明るく送り出そうという偽わりの看板なのです。

世の多くの人は神を信じないので、死後の世界も信じません。生きているだけがすべてなのです。確かにその通りで、血肉の体が滅ぶとしばらく眠りに着くことでしょう。しかし再び目覚めた時、それは最後の審判の時なのです。イエス・キリストを信じた人以外は審判後、滅びない永遠の体を与えられ、永遠に苦しめられる定めが待っているのです。
しかし神を信じ、イエス・キリストの十字架が自分のためだと受け入れた人は、神の恵みとあわれみを受け、すべてが赦され、天の神の国に引き上げられて救われます。それはその人が何か良いことをしたり、価値があったからではありません。多くの他の人のように信じないこともできましたが、それでも信じたからでした。これはただただ、神があなたを愛し、神のあわれみがその人に注がれた恵みなのです。
あわれみ深い神に、心からの感謝を捧げましょう。神がそれを喜んでくださいます。

2018年4月 8日 (日)

私たちは待ち望んでいる

ピリピ 3節20節

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

「私たちは待ち望んでいる」
 創造主が六日間で造られた天地万物は、人までも含め「見よ、それは非常に良かった(創世記1:30)」と言われた世界でした。ライオンや狼など現在の肉食獣もすべて草食でした。あらゆる動物が敵対せず、平和に共に暮らしていたのです。
 ところがアダムたちが罪を犯したために、地はのろわれ(創3:17)、額に汗して働かなければ地は実を結ばず、生き物には弱肉強食の世界になってしまいました。「のろい」という言葉は、日本では「たたり」とか「怨霊」のような意味合いで使いますが、聖書的には「罪の結果、または罪を犯し神の祝福を受けられなくなった」という意味になります。こののろいの世界とは、神の計画では魂を収獲するための暫定的な期間であって、それが今なのです。

 イエス・キリストという最後のアダムが罪というのろいから解放する「生かす御霊」となるため、世に下って来られました(1コリ15:45)。肉は滅びますが、御霊は永遠です。このイエス・キリストの十字架の死と復活によって、御霊が内住し、死は永久に追放されました。この解放は食事に端的に反映されました。当時も今も、ユダヤ教では食べ物に制限がありますが、キリスト教では食べ物のすべてに制限がありません。神がすべて食べて良いと、のろいから解放してくださったのです。

 このように神を信じていても、キリストを信じ受け入れていなければその恵みにあずかれません。三位一体の神を否定する異端は大なり小なり、のろわれた規定を守っています。キリスト以降、最後の審判までは、世は信じる者と信じない者とが混在する世界であり、そののろいが完全になくなるのは、キリストの空中再臨後の神の国であり、完全になくなるのは最後の審判後、地上が神の国になる時からです。

 クリスチャンは神の国を、今か今かと待ち望んでいます。のろわれるものが何もなく(黙22:3)、死も叫びも悲しみもない(黙示21:4)永遠の世界です。神が創造された「非常に良かった」世界の、さらにグレードアップした素晴らしい世界をです。

 この視点から、今私たちがいる罪というのろわれた世界をみたらどうなるでしょうか。確かに血肉の体がある困難な状況ですが、それにも関わらず私たちはのろいから解放される十字架の特別な恵みを受けました。そして罪を犯し続けることもできましたが、その中から神を選んだ故、その選択がなかった天使たちよりも、人である私たちがさらに高い位、神の子とされる特別な恵みを与えられる約束があります。私たちはとんでもない大きな恵みにあずかる約束の中にいると言うことがわかります。これは絶対に、血肉の命に代えても手離してはならないものです。

2018年4月 1日 (日)

神の国は何処に

ルカ 17節21節

『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

 
神の国、天国とも言いますが、それはどこにあるのでしょう。多くの人は天、空の上にあると思っています。現代の空の上には、人工衛星や国際宇宙ステーションが飛び交っているのです。キリストの再臨ではドラえもんの「どこでもドア」のように、エルサレムはオリーブ山の上空の、とある空間がパカッと開いて、そこからイエス様と主の軍が降りて来るのかも知れません。ところが神の国は「ここにある」とイエス様ご自身が明言しておられる所があります。パリサイ人たちが考えもしなかった所、信じる人の心の中にです。これを聖霊の内住と申します。

 クリスチャンなら「聖霊の内住」を誰でも学んでいます。しかし、実際に聖霊のバプテスマの体験や、神の語りかけを受けたことがなければ、内住は単なる知識の一つです。実際、私は福音派に三十年居て、時に神を感じ、霊の躍動を感じはしても、「みこころを行う」「聞き従う」という聖霊の生きて働く信仰など聞き及びもしませんでした。また祈祷会をしても、祈りが答えられるということなど、期待もしないで続けていました。

 イエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る(マタイ7:21)」とハッキリ語っておられます。ではクリスチャンでもみこころがわからない人は天の御国には入れないのか、と言うことですが、ここでの天の御国とは天のエルサレムのことであって、天国に行けないという意味ではない、最低でも諸国の民にはなると私は思っています。ただ天のエルサレムの門の中に入れるよう、祈り続けて行くことだと思います。

 さてクリスチャンは、聖霊様が内住されているのですが、最初はビギナーズラックというか、すごく語ってくださったり、祈りを聞き届けてくださる段階があります。しかしそれが時間と共に薄れて行って、やがて聞こえなくなったと、がっかりする人を見受けます。しかしそれは、神様がその人を立て上げようとしておられるのです。子どもが少し成長し、ある程度聞き分けられるようになったら、自律できる人間となるために、我慢することや、何よりも聞き分け、従うということが大切です。自分の肉の心を見分け、父のみこころを行いたいという心を、神は試練を通して育ててくださるのです。

 ですから許された試練は、すべてが最終的には益となりますので、私たちはすべてを感謝するのです。教会も会堂が開かれるという段階があり、今現在、会堂をたたむという段階にありますが、これら一つ一つが益に変えられて行き、大きく成長する土台になって行くのです。みなさん、感謝です。

2018年3月25日 (日)

招かれた罪人

ルカ 5篇32節
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。


恵みは罪を知ること
良き君主は支配者でありながら民の声を丁寧に聞き、その訴えに耳を傾けます。しかしこれは、大変面倒で負担を強いられる困難なことです。しばしば私たちは、自分の体の暴君となって、自分の体の訴えを面倒くさがったり、丁寧に取り扱おうとはしません。例えば歯が痛いと訴えているのに、歯科医院は当然ですが、痛いからと遠ざけて、ますますひどくするようなものです。しかも一応の処置が済んでしまったら、その原因について反省せず、結局歯を失う人がなんと多いことでしょう。すべては体の声、訴えに耳を貸さないところから始まっているのです。

心の訴えも同じです。心がつらいとか、もう限界とか言っていることを聞こうとせず、無理な到達点を暴君のように強いているのではありませんか。これは己を高くしようとする高慢さのためです。サタンは自分も神のようになろうとして堕落しました。神によって造られたありのままの自分、本当の自分を受け入れないために起こるのが、心の病になることが多いのです。そんなに高望みをしなくても、私たちの永遠のいのちと国籍は天にあって、この世は単に仮住まいで寄留者に過ぎないのです。この世の価値観や欲望から解放されましょう。これは過ぎ去るものです。

本当の自分とは、愚かで実に罪深い存在です。高慢さがそれを受け入れては、向上できないと偽ります。切磋琢磨して己を磨かないと、自堕落で低いままだよと人をそそのかすのです。特に罪を認めてなったクリスチャンが、それでも真の自分を拒否して愛さないのは、そのように造られた天のお父様を拒むことと等しいことです。イエス様ご自身がこのように仰っておられます。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。

神はありのまま、罪深く弱い存在の私たち、病の人、力の無い子どもや女性、能力がなく貧しい人、このままで良いのです。この私たちを神は招いていてくださっているのです。罪がわからなければどうして悔い改めることができるでしょうか。それを十字架の愛で赦してくださる神に希望を見出せる私たちこそ、神に愛されその祝福を受ける存在なのです。自分に敵するのでなく、造ってくださった神に感謝し、かえって自分を愛することができることほど喜びはありません。

2018年3月18日 (日)

しもべは聞いております

Ⅰサムエル 3篇10節

そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。

 主の十字架神学校では、60点が合格点です。神を信じるという意味で、クリスチャンは「永遠のいのち」「天のエルサレムに行ける」という合格60点は皆取っています。が、60点だけで、90点とか100点という、世での人生の祝福を受けている人は多くないのです。しかし私たちは100点満点を目指したいものです。もし私たちがこの世において、主の器として栄光を現すならば、「地上でつなぐなら、それは天においてもつながれる(マタイ18:18)」とあるような、天での恵みにもなるでしょう。

 では人生での最高の祝福を受けるクリスチャンと、60点の人との違いはどこにあるのでしょうか。それは神の言葉に聞き従う人生かどうか、という一点に集約されます。神に従う者を通して、神の栄光がその人を通して現されて行くからです。

 しかしどんなに神に従いたくとも、神の声を聞くことができなければ従えないのです。多くのクリスチャンは神の声を聞こうとせず、自分自身の声、つまり肉の心とその声に従って歩んでいます。禁断の実を食べたアダムと同じように、自分の判断で選び歩もうとしています。聖書とその御心を歩まないならば、残念ながら60点の人生となります。

 では、どうやって人は神の声、御心を知るのでしょうか?秋元牧師は次の3点をあげています。
1 吟味してですが預言を通して神の声を聞く受け取る。
2 (神が答えてくださるまで)徹底して祈る。最低日に1時間から2時間以上の習慣。
3 神からの語りかけである聖書の言葉。自分に適用できるものを受け取る。

 私はさらに自分の土台として、「思いを尽くし、心を尽くし、知力を尽くして神を(自分以上に)愛する」をあげたいと思います。神を恐れて従うのも間違いはないのですが、それよりも愛して従う方がどんなにか優っていることでしょうか。
  少年サムエルは神のことばを聞く人物となりました。彼の心には母ハンナを通して、神への感謝と喜びが注がれていたはずです。長年の祈りの結果である初子サムエルをナジル人として神に捧げる、これは想像を絶した愛の行為だからです。

  神はご自分を愛する者をどんなに愛してくださるか、それは大士師となったサムエルのように、人の想像を超えています。ご自分を現し語ってくださり、日々愛の中でその人を養ってくださいます。これは「間違いない!」のです。

2018年3月11日 (日)

サタンの罠(進化論)を打ち破る

Ⅰコリント 15章45節
聖書に「最初に人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
 
 今はクリスチャンでさえも、軽く「進化」と言う言葉を使います。聖書を自分流に解釈せずに神の言葉として受け取る信仰の人ならば、この言葉は慎重に使わなければなりません。進化論とは<eveolution theory>の訳語で、一言で言えば「生き物のそれぞれの主は、神によって個々に創造されたものでなく、極めて簡単な原始生物から突然変異という偶然と適者生存によって人類にまで進化してきた」と言う考え方です。私が高校生の時ぐらいまでは仮説としての取り扱いでしたが、今は学問上の絶対的な真理として扱われており、教師が進化論は誤りだとして教えないのであれば、公立学校では職を失うようです。
 
 しかしそもそもこの進化論というもの、とうてい学問とはいえない代物ものです。現状の目に見えるもので推測するしかないものですが、主をまたいでいた中間種というものの化石は何一つ発見されていません。北京原人やジャワ原人は猿でしたし、クロマニヨン人は人類でした。生きた化石と呼ばれるシーラカンスは、いまだにシーラカンスのままです。動物の胚は始めはほとんど同じで、次にそれぞれの種として成長していくというヘッケルの進化進化論成長図は、とんでもない作為絵でしたが、どんなに嘘だとわかっても教科書には載り続けるのです。根拠のないことを、頑として間違いないこととして受け取る・・・・これは世界は神が造ったという聖書を、断固拒否し受け入れたくない人々にとって、拠り所とするただ一つの考え、すでに一つの宗教であるというのが正しい見方でしょう。
 
進化論が世にはびこる以前は、聖書の創世記が唯一、世界の始まりといのちの誕生、罪の由来を説明するものでした。ですから進化論はそもそも聖書への反逆として誕生し、神を信じない人たちを正当化する為に増え広がってきたものです。もし進化論の言う通りでしたら、一人の人、アダムを通して入ってきた人間の罪の説明がつきません。さらに最後のアダムとしてのイエス・キリストの贖罪も無意味なものになってします。聖書は神の言葉ですから、人間が恣意的な解釈を施して、進化論にとりいったような解釈をするなら、神の言葉より自分を上に置いたことになります。世界は創世記が語る通り、六日で創造されたのです。進化論者の放射性炭素測定法での数値も、全世界を覆ったノアの大洪水を無視しています。私たちは信じない者ではなく、信じる者になりたいと思います。
 
 さらに聖書のこの点から見るなら、進化論の真の目的がよくわかります。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。【Ⅰコリ 15:22】
アダムから罪が人類に入り、人は死ぬ運命になりました。罪の原因は不従順にあり、進化論者たちは自分たちの不従順を偶然と生物の敵対しあう生存競争に置き換え、正当化しようとしているだけなのです。

2018年3月 4日 (日)

みこころを行う

マルコ 3章35節
神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。

 イエス様が公生涯に入られ、そのうわさがガリラヤ地方で広まるにつれ、心配した母マリヤや兄弟たちが様子を見に来るシーンがあります。そこでイエスは血縁の関係に優って「神のみ心を行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母」と言われました。「みこころを行う」ならば神様の兄弟姉妹なのです。では人は如何にしてみこころを行えるのでしょうか。もちろん神に聞いて、従うことです。しかし聞くことができなければ、どうやってみこころを知って行うことができるのでしょうか。
 イエス様の時代のユダヤ人は、みな神を信じていました。今の私たち日本人とは全く背景が異なります。そのユダヤ人でもみこころを行うことができていなかったようです。今のクリスチャンでも「みこころって、それって何?」とわからない方が多いようです。
さて、聖書では弟子たちがみこころを行おうとイエス様にずっと付き従っていました。現代では神を信じならば聖霊さまが内住されます。しかし内住されてる聖霊に聞こうとしないのであれば、みこころを行えるはずがありません。そこで私は、神が語ってくださると信じ、忍耐してそれを待ち望むことが一つの信仰であると思っています。その結果、聖霊のバプテスマのように神に直接触れられ体験する、すると信仰が揺るぎない事実となり、確信へと変わります。こうした体験による確信は、その人を根本から変え、神に用いられることになります。その一つの例を聖書から見ていきましょう。 
 マルコ伝5章です。イエス様が湖の対岸、ゲラサ人の地に行かれた際、豚二千匹になるほどのたくさんの悪霊を追い出してもらった人が書かれています。この地の人々はそれを見て恐ろしくなり、イエス様を追い出そうとしますが、イエス様は重大な証人をこの異教の地に置かれます。悪霊を追い出してもらった人です。この人がイエス様に「お供をさせてください」と願い出ました。神に触れられ、神の力を体験した人は、このように「みこころを行う」者に大転換するのです。しかしイエス様はそうではなく、次のような大使命を彼に託されました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい」と。
 
 みなさん、神が必ず自分に触れてくださり、自分はみこころを行う者になると信じてください。時が来たなら、神は最善のタイミングでご自分を現してくださり、確信を持って証人となります。信じ、祈り求め、待ち望みましょう。その時は必ず来るのです。

2018年2月25日 (日)

あなたが決めておられるように

詩篇 119篇149節
あなたの恵みによってわたしの声を聞いて下さい。主よ。あなたの決めておられるように、私を生かしてください。
 
「あなたが決めておられる」、このみ言葉は歌集「風のひびき」第三集に載った曲です。作った人に尋ねて、想像したように詩篇119篇のこの「あなたが決めておられる」ということばが曲作りの動機だったことを確認しました。この意味は、「私は自分の思う通りに生きたくありません。そうではなく、神様、あなたの計画に従って私を生かせてください」というもの。これは本当の神様を知らない人にとっては、実に奇異に思えることです。自分の人生を放棄し、他者任せにしたいなどと願う、そんなことはまともな人間のすることではないと思うのが当然です。
 
ここからが本番なのです。人間とは神によって造られた被造物です。造るからにはそれぞれに意図があって造られます。例えば陶器では同じ原料である土から、皿や茶碗、湯飲み、花瓶などに形作られます。みんな同じ一つのものであれば、意味がなくなります。しかし人は「隣の芝生はあおい」と言うように、Gods_plan_3 うらやむものです。それぞれに意図をもって造られた存在なのに、それには満足せず自分の目に良かれと思うものを求めます。しかしお皿がどんなにがんばってもコップのように水を蓄えることはできません。その結果、多くの人は不満の大合唱となっているのです。
 
神を信じた時、それまで出来損ないだと思っていた自分でしたが、そんな自分の為に十字架にまで架かってくださった神の深い愛がわかることで、人を羨み不満に思う心が消えて行きます。「私は神様が最善の意図をもって造ってくださった私」で、それが最善であることがわかったのです。神の愛ではじめて、自分を愛することができるようになるのです。ですから自分が生きたいようにしていたことを悔い改めた上で、自分と和解し、「あなたが決めておられるように、私を生かしてください」と、神に自分を捧げて生きる決心を神に捧げている歌です。と同時にそれが、自分にとって最善の人生であるという信仰の告白を捧げているとも言えるのです。

2018年2月18日 (日)

弱さを誇る

Ⅱコリント 11章30節
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
 
 神様に用いられることは、多くのクリスチャンの願いです。しかしことは神が選んでくださることなのです。私のこれまでの体験から、この群れに集められた人全員が主が用いられる器だと思っています。なぜなら、この群れ、真の信仰の教会ですが、召されたみ心の人以外はなかなか留まり続けることができていないからです。
 
さて、私(たち)は罪を犯し続ける罪人です。このような者がどうやって主に用いられるのでしょうか。はっきりしていることは、主の訓練を経、主が建て上げてくださったのでなければ、かえって呪いを招いてしまうことです。自分自身の高慢という罪、これを除くことは自分の手ではできないのです。これが不十分なまま仮に用いられてしまうと、ほんのわずかでも神の栄光を自分の手柄にし、誇ってしまう恐れがあります。そんなことになる位なら、かえって用いられない方が良いのです。金持ちの門の前に置かれていたラザロの方がずっと良いのです。
 
しかし主をほむべきかな。神は人の心を変えるマジック・・・・・試練をお持ちです。聖書を見るなら、神は用いられるすべての器を例外なく試練を通されるのです。アブラハムは父の中途半端な聞き従いを見、75歳という分別盛りにして徹底して主に聞き従い続ける道を選びました。彼は約束の子、イサクさえ惜しまなかったのです。ヤコブやヨセフ、モーセ、ダビデに至っては、何を申しましょうか。一つだけ言えるとしたら、すべての人が異なった試練の道を通され、結果として祝福されたということです。人の親なら困難から我が子を守り切れなかったりするでしょうが、神にはそれがなく、間違いや失敗がないことです。つまり主の手にあっては神は、最善をなされるのです。
 
この試練がなければ、人は神を知り、その絶大な愛の前に自分を捨て、肉の心を捨て、主を第一にしてすべてを神の栄光に帰することができないのです。第Ⅱコリント12章9節で「私の力は弱さの内に完全に現れる」とあります。試練の中で人は弱くされますが、弱くされたならば人は神に頼ります。神はその時ご自分の力を現されて、その人を覆い、守られるので、かえって人はその時最強とされる(第Ⅱコリ12:9)のです。私たちは弱い時、主を呼び求めますから、逆に強いのです。この群れは聖書の信仰を受け取っていますから、試練を感謝し、喜ぶ信仰が与えられているのです。 
アーメンでしょうか。 

2018年2月11日 (日)

十字架を背負わされた男

マルコ 15章21節
そこへ、アレクサンドルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出てきて通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
 
 皆さんの中には、自分が「もっとお金があったら」「この病がなかったら」などと思っておられる方はいませんか。今現在、大きな試練や困難に遭っている方もいらっしゃることでしょう。今日はそのような受け止め方はクリスチャンとしては間違っていること、そして神の祝福を十分に受けるにはどうしたらよいかを知っていただきたいと思います。
 
 つまりマイナスと思えるすべてには神の祝福の計画があり、それが自分の人間的な願いと異なっているので、結果として祝福を受け取れないことが最大の問題なのです。
 
 北アフリカのクレネから、はるばるエルサレムでの過越の祭を守りに来ていたシモンに、この典型例を見ることが出来ます。祭りの直前、街を歩いていたシモンは、ローマ兵を先頭にした何やら怖そうな一団に出くわしました。何だろうと見物の最前列に出てみると、十字架を担いでいた男が自分の目の前でよろよろと倒れてしまいました。するとローマ兵が自分を指して、代わりに「十字架を担げ」と理不尽にも言うのです。何の関わりもない自分が、どうして血でそまった重い十字架を担がなければならないのでしょうか。しかし逆らうことができない時代です。こうして不運にも十字架を担ぐことになったシモンでしたが、これがシモンへの人生を一変させ、大きな祝福を受けるできごとになりました。
 
 このクレネ人シモンの出来事は、共感福音書すべて載っていますが、マルコの福音書だけが「彼はアレクサンドロとルフォスの父で」と簡単に付け加えています。つまり二人の息子は、わざわざ断る必要がないほど、当時の各教会に知られた人物になっていました。どういうわけで知られたのでしょうか。次のような経緯が容易に推察されるのです。
 
 前夜、ゲッセマネの園で祭司長たちによってイエス様が捕縛された時、弟子たちはみな主を見捨てて逃げ去ってしまいます。処刑の現場では婦人たちは遠くで見守っていましたが、イエス様の息づかいまで聞こえるほどの距離に居て、その最後をつぶさに見届ける証人となったのは、このシモンだけだったと想像されます(ヨハネ伝によれば、「愛する弟子」が居たとされています)。なんと十字架上のイエスの七つの言葉を直接聞いた証人として、このシモンが用いられたと推察されるのです。
 
 二人の息子は、父から聞いたイエスの最後の様子を、全世界への証人として語り継いだのでしょう。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません(ルカ14:27)」というイエスの言葉を、シモンは文字通り行った者となったのです。「理不尽」だと感じた不運には、素晴らしい祝福が用意されていました。

2018年2月 4日 (日)

クリスチャンの裁き

コリント 3章16節
 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
 
 クリスチャンであっても、罪は犯しますので世の人と変わらないのですが、そのことを常に悔い改め、罪赦された罪人である点が大きな違いです。ただし罪を犯し続けることは神のみ心ではありませんから、神の恵みによって結果として罪から遠ざかることになります。大事なことは、イエス・キリストが自分の罪の身代わりに十字架に架かってくださった事、それによって罪が赦され、全く無かった者として天国に入れると聖書にある(ローマ10:11-13)ので、これをしっかりと信じることがポイントになります。
 
  ところがクリスチャンにもあたかも「裁き」があるかのように書かれています(1コリ3:12-16)。ここで「(人の)建てた建物」とあり、これはクリスチャンが天の都へと期待して地上で積んだ「天の宝」を指していると思われます。11節によるとこれは神の土地、畑(土地の所有は神)に、イエス・キリストが土台なので、その人自身は必ず住めるのです。ただし、どんな家に住むのかは地上での宝の積み具合によるようです。
 
 各自が地上で不燃性の金、銀、宝石で宝を積むならば、天に行く時、それは燃えずに持って行けます。しかし人が地上で金、銀、宝石だと思っていても、天国には天国の基準があって、そのチェックが「火の中をくぐる」と言われているのです。ですからこれは例えて言えば、飛行機内への持ち込み荷物検査のようなものだと言えましょう。座れる席は確かに在って乗れるのですが、携行する荷物が判定され(裁かれ)るのです。
 
 ここで問題になるのは、何が燃えて何が燃えないものかということです。私の見方では、それは <御心を行ったかどうか> だと思われます。神のみ心は聖書に余すところなく書かれてあります。
「まず神の国と神の義とを求めなさい」。「隣人を自分のように愛しなさい」。「あなた方は互いに愛し合いなさい」。「自分を捨て、自分の十字を負って神に従いなさい」・・・・などなど。
 
 これが実際には私たちの弱さがあって難しいわけですが、そのためにも十字架で死んでくださったのです。イエスキリストの死と復活の力により、聖霊が私たちに与えられました。私たちは弱く、不可能と思えることでも、神によって私たちは何でも出来るのです。

2018年1月28日 (日)

みそばに居させて下さい

詩篇 46篇1~2節
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。
 
 私たち人間とは、単独ではなく社会的な存在です。また当然、人間関係が大きな作用を及ぼします。しかし人間の関係というものは一時のもので、永久ではありません。失われるものだことです。
 今年のNHK大河ドラマの西郷も、主君斉彬を失うとか、同志のために自らの命を幾度か断とうとした人物です。身近な例を私も知っております。母を癌で失った悲しみのあまり、生ける屍のようになった婦人の話です。この人は、母親を失って、その喪失感から立ち直れませんでした。私は最初、この人には幼く可愛い子ども達と夫がいましたので、しばらくすれば以前のように元気になるだろうと楽観していたのですが。
 
 ところが、葬儀の後も母の部屋に行っては「早く後を追って母の所に行きたい」と願ってばかりいたのです。日に日に痩せ細り、とうとう自分では立ち上がれなくなるほど衰弱し、病院に入退院を繰り返すようになりました。この後十数年してこの方は亡くなりました。この婦人はクリスチャンではあっても、神さまとの関係が問われるケースです。
 
 大切な人を亡くす、人生で築きあげた全財産を失う、まるで希望がなくなってしまった、そんな人生の大きな危機の時にこそ、信仰の真価が試されます。その人と、神様の関係があらわになります。私はお奨めします。こういう時こそ「神様!助けてェー」と祈り求め、叫んでください。サタンはそうはさせじと、「普段は自己中心なくせに、なんだ、困った時の神頼みか!恥ずかしくないのか」と自尊心に訴えたり、「お前のような者を、神が助けてくれるはずがない、無駄だ」と諦めさせようとします。しかしこれはサタンの策略であり偽りです。あなたを滅びに至らせ道連れにしいだけなのです。
 
 ですからそれを振り切って神に祈り、助けを叫ばなければなりません。プライドを捨て神に助けを求めたならば、神は確かに助けてくださり、あなたは救われるからです。どんなあなたでも愛して下さっているのです。これは私の体験でもあり、同じ証しをP牧師からも聞きました。神に助けを呼び求めること、これも信仰の一つなのです。
 
 次に神の助けを受けた後は、悔い改め、次からはそのようなサタンからの誹りを受けないようにしましょう。これすら自分の力でしようとするのではなく、神の力や助けを受け、忠実でみ心の信仰者となれるように祈るので。実はそのようにあなたがなれるよう、神は先ほどの試練を許されたのです。聖書に親しみ、神の「顔と顔をあわせて仰ぎ見れる」ように、「みそばにいさせてください」と心から願うようになる。そうなればサタンは私たちになかなか近づけなくなるのです。

2018年1月21日 (日)

本当に信じる (人にはできないことが神にはできる)

ルカ 18:章27節
イエスは言われた。「人にはできないことが、神には出来るのです。」
 
私の信仰生活は、「信じる」ということにおいて三つの段階があったと思います。
中学1年の時「狭き門」という本に出会って、背教的な小説にも関わらず、キリスト教の唯一の神が自分が求めている神だと分かったのですから不思議です。つまり私は伝道されたり、親類縁者や知人にクリスチャンとか近くに教会があるといった、何らかの福音に触れて信じた者ではありません。神はどのようにしても信じる者を起こすことができる、そういう例になると思います。
 分かってからと言うもの、教会に行きたくて仕方なく、捜し続けて、とうとう中三のクリスマスの機会をとらえて、家族の目を逃れながら、主に水曜日の聖書研究会通うようになりました。数人の七・八十代の老人に混じって、一人の高校生が3年間通い詰め、時々招かれていた牧師から聖書を学びました。その後大学生として上京するという春、牧師から受洗を勧められました。が、しかし、私は親から勘当されることを怖れて受けることができませんでした。
 このように神を求め、また信じてはいるのですが、恐れで告白と公に立てない段階が自分にありました。その恐れとは世に対してのもので、引いているかあるいは隠れクリスチャンとでも言い常置です。ふつうに教会に来ている人でも、自分の都合を優先して礼拝に参加したり、教会の奉仕など御体にはっきりと属せない人のことでもあります。
 
これに対し、信じる二つ目の段階を長く経験することになりました。本日の聖書箇所である「ある裕福な若人」もこの仲間だと思われます。彼はすごい金持ちであるだけでなく、たぶん能力があるからでしょう役人でも有り、品行方正というか、イエス様まで認められたほどの律法を守っているだけでなく、熱心に「永遠のいのち」を求めているという、まさに絵に描いたようなイスラエルの模範的な人でした。金持ちは神に愛され、祝福されている人とイスラエルの人々は思っていますから、差し詰め、神の国に入るならその1番手のような人だと思われていたことでしょう。
 この彼がただ一つ、「全財産を貧しい人に施し、そしてわたしに従って来なさい」というイエスの導きに従えず、悲しみながらイエス様の元から去って行きます。この若人は神を信じて求め、熱心に信仰者として立っているにも関わらず、自分に死ねない者の代表です。
 学生運動に挫折しユートピア幻想から目覚めた二十歳の私は悔い改めて洗礼を受け、いつも献身を考える熱心な信者となりました。クリスチャンホームを作り、真面目な信者としていつも熱心に教会の奉仕をして生活していました。この私が神に祝福されないはずがない、そう思っていましたが、聖書の「富める若人」と同じ、自分をに死ぬことができない信仰のままでした。
 そんな私の家族に大きな試練・・・・この世的には不幸が襲ってきました。妻が拒食症を発症したのです。私の家は絵に描いたように、この世的には不幸の坂道を転がって落ちていきました。職場での昇進を断念、マイホームを手放し、離婚をしなかっただけで家族もバラバラになりました。その上母のアルツハイマーもどんどん進行し、まるであらゆる希望から見放されたようになったのです。そして結局私は、ほとんど信仰も失うほど精神的にも追い込まれて行きました。

 しかし神が許された試練には守りがあります。試練がなければ私は次の第三段階の信仰までは絶対無理なことでした。破綻する寸前に私は神から自分の罪深さを示され、心から悔い改める中、神からの直接の語りかけを受けました。「あなたが私の方にその心を向けるのを、長い間待っていた。わたしはあなたを愛し、守ってきた神である」と。初めて神が生きておられることが分かった瞬間、私の人生は根本から変わりました。カリスマ派の信仰者となったのです。主の十字架はその直後、み体を求めて祈った時、神から導かれた群れでした。Photo
 この時の回心から私の人生の目的は、神のみ心を行うことになりました。もはや恐れや不安に支配されることはなくなりました。それはマタイの13章44節にある「宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います」のような喜びでした。
 
  この信仰は、あの富める若人に対して「人にはできないことが、神にはできる」ように、確かに試練を通して神が与えてくださったもので、決して私の力や努力で得られたものではありません。神が「ラクダが針の穴を通る」よう、穴を巨大に大きくしてくださったか、あるいは私を針の穴のサイズに小さく変えてくださったのです。私は変えられて、新しく生まれました。真に自我から解放されました。ただ神のみをほめ称えます。

2018年1月14日 (日)

神の働きと恵みを見る時代

ヨハネ 5章4節
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
 
 三日前の木曜日のケパドルブログ、「僕の体は洋服のようなものだから」でお伝えしましたが、八歳の子どもでも自分の体は一時のもので、この体を脱ぎ捨てて着る新しい永遠の体があることを知っています。そして今聖書の通読箇所が黙示録の6章、ちょうど患難時代の幕開け、イエス・キリストによって1から6までの封印が開かれた所です。
使徒で真っ先に殉教した兄のヤコブに対し、イエス様に愛された弟のヨハネは使徒最後の殉教者になりました。ヨハネは小アジアの監督であるとともに、未来を描く黙示録の著者になりました。
「この後、必ず起こることをあなたに示そう」と言われて書いたこの黙示録、二千年の時を超えて、いよいよその時代が現実のものとして迫ってきたようです。イスラエルの復興がなり、何のことか分からなかったローマの復興が形を整えてきました。ロシアも中東に進出しています。これまで難解過ぎ、単なる形而上的なもの、暗喩的なものとされて来た黙示録が、これほど明らかに見えてきた時代はないのです。
 
 黙示録にある患難時代というものは、「定められた絶滅が荒らす者の上にふりかかる(ダニエル9:27)」という、サタンに属するものへの審きの時です。天変地異、戦争や飢饉が全世界を覆い、75億いる人類が前半の3、5年だけで1/4(残75%)と1/3(残50%)=半分も死ぬことになるという、超すさまじい時代となります。しかし空中再臨までの前半の時代は、患難とともに世界中での大リバイバルの時代となり、逆に神の力と誉れ、栄光が豊かに現され、霊とたましいの大収穫の素晴らしい時代となります。人は苦しみにあわないと神を求めないのは、変わらない真実です。この時、私たちクリスチャンは最高に用いられ、証しする機会となります。
 
また、空中携挙は「地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る(黙示録3:10)」とあるように、次に来るサタンが支配する後半の大患難時代から私たちが守られる意味もあります。ですから患難時代というものは、世の人々にとっては最悪、しかし私たちクリスチャンにとっては、代々のクリスチャンが待ち続けた<すばらしい時代>です。また怖れることはありません。「地上Photo_3に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る(黙示録3:10)」とあるように、私たちは来るサタンの後半時代から守られますし、「あなたがたを、耐えられないほどの試練にあわせることはなさいません(1コリ10:13)」と約束してくださっています。神の言葉を信じましょう。
 
本日は聖書に即して書かれた「せかいのおわり」の巻末にある、三枚の図表を元にこの時代に起こることを学ンで参ります。   
・・・・・・以下は図表の講解・・・・・・
 ポイントを申し上げましょう、まず神を愛し、天国に期待しましょう。神がまず私たちを愛してくださったからです。次に携挙の三条件ができるようしっかりと祈って求めて行きましょう。これはみ心ですから、祈れば必ず与えられるのです。

2018年1月 7日 (日)

世に打ち勝つ信仰

ヨハネの手紙 5章3~5節
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

 この三小節で何度も使われている言葉に、「世」と「(打ち)勝つ」という言葉があります。世とは現世とか世間など、肉的な世界のことを指します。それに対してovercomeという言葉を日本語聖書では「勝つ」と訳されていますが、winとかgain victoryではなく、原意は克服するという意味が強いのです。私の世代ではジョーン・バエズの歌で「We shall overcomes」をどうしても思い出す言葉です。
 
 以上から、世への戦いは困難ではあっても、私たちはこれを克服し、勝利するという意味になります。今からちょうど十年前、この群れの年間聖句にこの聖句が用いられました。その時にはあまり意味を考えることなしに、「そうだ、世が何だ!信仰こそ勝利」と喜んでいました。しかしこの度の聖書通読において、このみ言葉は文脈から理解すると、ここでの「世」とはある特定のことを指していたことが分かりました。何のことでしょうか?それは「この世」とかの外に対してのものではなく、なんと私たち自身の内側、兄弟を愛せない心そのものを突き刺していた言葉であることを。
 
「隣人を自分のように愛しなさい」「敵を愛しなさい」はイエス様が口を酸っぱくして命令されました。弟子たちであるペテロもヨハネも教会員に向かって「互いに愛し合いなさい」と同様に命令しています。この1ヨハ5章の「世」とは前章の終わりにある、「神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています(1ヨハ4:21)」の命令は、同じ親からの子で兄弟であるのに、互いに愛せないはずがない、愛せない世の習わしに打ち勝って勝利すると信仰の名にかけて言っているのです。
 繰り返すと教会の兄弟を愛せず、憎むという神の命令を拒む者は、信仰を偽っている偽兄弟である(4:20)と断言しています。つまりこれは愛せない人を排斥するのではなく、なかなか兄弟を愛せない困難な自分の心に対し、信仰によって己自身の肉に戦いを挑むならば、必ず遂には克服し勝利し、心から愛せるようになる!と言う信仰の勝利を謳っていると理解するのが正しい受け取りになります。
 
 これを三段論法で要約すると、世の心では教会の兄弟姉妹と言ってもなかなか愛せない。しかし自分自身も神に愛され、子とされた者である。そして愛せない相手でもその同じ子とされた者である。と言うことは同じ愛する父を持つ兄弟そのものだ。兄弟ならたとえ兄弟けんかはあったとしても、最終的には同じ父を持つかけがえのない存在であって、愛し合えることは間違いない、ということになります。神を愛する者は、「愛し合いなさい」という神の命令を守る者となるのです。これを世に打ち勝つ信仰と言うのです。

2018年1月 1日 (月)

私たちの行き先

マタイ 11章12節  (1月1日特別礼拝)
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
私たちの年度はすでに三ヶ月目に入っていますが、暦の上では今日からです。そこでもう一度振り返って、前進をし続けたいと思います。

 アンテオケ教会の動画「クリスチャンのキーポイント」での最近作、「天国と地獄」がありました。これは過去から将来のへ私たちの行き先を表した、非常に重要なものでした。

当然ながら、これはすべて聖書を根拠とした、ほぼ確実なものです。 ところが他の教団、教派では不思議なことにこれまで多く触れられていません。その理由については長い間その中にいた者として、見当がつきます。これは実に残念であり、気の毒であるとすら思います。そしてこの群れに導かれた恵みを実感します。Photo_3
さて本題に戻りますと、図での「アブラハムのふところ」から新しいエルサレムに引き上げられる所に、少しだけ時間差があるように見えます。その理由に当たるのが本日の聖書箇所です。今から二千年前、イエス・キリストが来られて、いよいよ天国(新しいエルサレム)が近づいて来ました。これを待ち望んでいた人々は先を争ってこの天国に入ろうしました。このことを「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と刺激的な表現で述べているのです。

天国が攻められ、奪われそうになって危うい」という解釈は笑い話ですが、確かに飼い主たるイエス様が来られたことで、囲われていた羊の群れが朝焼けの門の出口に殺到し、朝一の草を先を争ってせめぎ合っているとの情景描写は、素晴らしい表現であったと思います。イエス様が十字架に架かり、復活された瞬間、新しいエルサレム、つまり天国が完成しました。少し時間差がある理由は、イエス様が黄泉に下られ、復活されるまでの三日間のことでしょう。お間違えのないように、天国は今はまだ見えないかも知れませんが、今の血肉ではなく、御霊のからだ、実際の体がある所なのです。
さて、十字架によって贖いが成し遂げられて以降、クリスチャンには天国へ三回のチャンスがあります。一つは患難時代の真ん中に起こる空中携挙です。まず最初に先に死んだ人たちが、次に生きながら私たちが御霊のからだに変えられて行きます。これは第七のラッパが鳴った瞬間に起こります。次に携挙に取り残されたクリスチャンは、引き続いて起こる後半の大患難時代にほとんど人が殉教します。七年にわたる患難時代は再臨のキリストで終わりになります。オリーブ山に再臨されたキリストが、エルサレムを取り囲んだすべての敵の軍を討ち滅ぼし、黄金門を通ってエルサレムに入城されることを地上再臨と言います。その時、最後に収穫という形でクリスチャンが二度目の天国入りをします。

私たちが直接関係するのは、キリストの地上再臨までですので、以後の千年王国や最後の審判、いのちの書の内容はメッセージではしましたが、この要約では割愛します。
いずれにしても、大切なのは天国への渇望であり、その信仰です。「激しく攻める者たちがそれを奪い取って」とは、まさに信仰の現れです。私たちの群れでは携挙の三条件とも言いますが、畢竟それは「表裏ない忠実」さとか「聞き従い」という信仰が土台です。皆さん、天国へご一緒に参りましょう。私たちは地上では寄留者であり旅人です。最終的な目的地、天への道を共に励まし合い、支え合って参りましょう。

2017年12月24日 (日)

熱心に祈る

ヤコブ 5章16~17節
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。


個人的に私には今、二つの大きな祈りの課題があります。その一つはこの会堂に関してです。この会堂は私が求めて回った限り、教会として借りられる唯一の物件でした。また職場を求めるM姉妹の祈りがこの会堂で鮮やかに答えられたのです。
私たちはさらに大きな会堂へと出て行きはしても、現状ではみ心の場所だと信じています。しかし借り続ける資金が少ないという容赦ない現実が迫ってきているのも確かです。
それで祈っておりますと、「問題や困難は心騒がせず、主に委ねて平安でいるように。人間的に心配し続けていては不信仰である」という思いが来て、私は努めてこの問題にこころを奪われないようにしていました。ところが、金曜日の夜の「こころゴスペル」でTrueVineの演奏の合間に、素子さんがこんなことを語ったのです。
幼稚園に息子のシオンの忘れ物を届けに行って、こんなシーンに遭遇したのです。小児麻痺で右脚に一生装具をつけなければいけないシオンに、サッカーをしようとした友だちが「脚が悪いお前はサッカーに入れない」と言い、長男はそれに何にも言えないで、あきらめて引き下がっていったのでした。四歳ぐらいの子が、あんな表情をする、それが忘れられなく、その夜「あきらめているんじゃなくて、願ったらいいよ」と言うと、「もしダメだったら?」「ダメだったらもう一回願えばいいよ。願いが積み上がって天にまで届くぐらい高くなって行くよ」「本当?」と息子の目がキラキラ輝いて来た、という証しでした。この結果はみなさんご存知の通り、医師にも信じられない奇蹟が起こりました。
 
その夜私は祈りました。「主よ、どちらが正しいのでしょうか?」と。すると翌朝、まだ意識が醒めぬ間に語りかけがありました。「あなたは思い間違いをしている。委ねて安んじていることと、祈らないこととは全く違うことなのだ」と。「祈りを徹底するなら、祈りの中で神からの確信というものが与えられて行く。この祈りから来る確信の上で安んじるのであって、祈りもせず委ねる事とは似て非なるものだ」とも。
目が覚めて、この示しを思い出した瞬間、これはみ心で確かだと思いました。私は思い間違いをしていたのです。ですから私は熱心に祈ります。たとえ結果が私たちの願った通りにならなかったとしても、最善の結果を私たちは見るのです。
 
エリヤの祈りによって、神は三年半イスラエルに雨を降らせませんでした。天の父は私たちが何にせよ祈ることを望んでおられます。私たちを愛し、愛する者と共に重荷を負ってくださるだけでなく、必ず最善を用意していてくださるのです。

2017年12月17日 (日)

私をみた者は天の父を見たのです

✝️ヨハネ 14章9節
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
先週のメッセージで私は神様のご人格と言うか人柄というか、それを「理解が難しい」ことと述べました。しかし難しいからと言って、この大切なことをそのままにしていいことではありません。それで今回もう少し詳しく語らせていただくことにしました。
 
今日の聖書箇所 「わたしを見た者は、天の父を見たのである」 とはイエス様がおっしゃった言葉です。三位一体を信じる私たちにとって、神様を理解するのに、人となられた神、イエス様を知る事が最も理解しやすいことだと思われます。そして私がその観点から選んだのはルカ13章から15章にかけてのイエス様の言行録です。ここは他の福音書にはない、ルカ独自の記事が多いのです。
 
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打った者。わたしはめんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めよう
したことか。それなのにあなた方は、それを好まなかった。(ルカ13:34)」

めんどりがひなをかばうように、と言われたのは、本当に神様のお人柄、お気持ちがよく出ていると私は思います。時々それでもひながトコトコ、親鳥のそばから離れて行ってしまうのですが、そんな時の神様の気持ちはこれです。この後、神は独り子を十字架に架けて殺したイスラエルとエルサレムはついに滅ぼされてしまうのですが、どれほどつらいお気持ちになられたか、想像ができません。
 
ルカ15章に1匹のいなくなってしまい、羊飼いが残りの99匹を野原に残して、1匹の羊を見つけるまで捜しに出かける話があります。羊飼いたるもの、こんな愚かなことは決してしないことでしょう。1対99、どちらが大切でしょうか。
捜しに出かけるにしても、残りの羊をまさか野原にそのまま置いたりはいたしません。必ず野宿用の石囲いの中に残りを入れ、それから捜しに出かけることでしょう。安全でない野原にそのまま置き去りにしておくなんて、正気の沙汰ではないはずです。そして1匹の迷える羊が見つかると、怒り注意するどころか大変喜ぶのです。
どうも神の国は、この世の常識とはかけ離れているようです。イエスは次のように説明されました。「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にある」と言うのです。ここで言う「悔い改めの必要のない人」とは、自分を正しいとする人たちのことです。そのような人たちは、他者を裁いているからこそ、己を正しいとするのです。逆に罪人とは、迷った1匹の羊のように、不服従の結果の恐ろしい結末を迎えようとしている今、心から悔い改め、その助けを求めている人だと言えるでしょう。
 
今はひと昔前、教師をしていた時、いつも子ども達に尋ねていたことがありました。「自分はいい子だと思っていますか、それとも悪い子だと思っていますか」の問いに、ほぼ全員の子が悪い子の方に手をあげます。しかし高学年などになると、少しずつその割合が減っていくのです。自分の心の中ではなく、人と比べて自分が是か非か相対視するようになるからでしょう。
神は人の心の中を見られる神なのです。神の関心はまさにその人の心にあり、他者と比べてや社会的な位置などは関係ありません。幼い子をイエス様が言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」とは、まさにこのことです。
 
私たちの本当の敵は私たちの内にある、エゴ、自我です。自分を義とするために人をさばき、その刃で結局自分自身をも傷つけて苦しむのです。それはサタンに取り憑かれている自分でもあります。
さあ今、昔の幼かった子どもに戻って、自分の罪性を認め、救われなければならない者として神の前に悔い改め、白旗を掲げて神の子としていただきましょう。

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