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十字架を負う

✝ルカ 14章28・33節   【新改訳2017】
あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。
そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。

 ルカ14章28-33節は、塔を建てるのにあらかじめ費用を計算しないで基礎だけで終わる愚を説いています。またどんな王でも、国の命がかかっている他の王と戦いの前に、勝敗を決する彼我の兵力を計算せずにはいられません。そのような「計算し見通す」ことを言いながら、引き続いて「そういうわけで」と「自分の財産すべてを捨てなければ(中略)弟子になることはできない」となるのか、理解がすんなりとできるところではありません。

 大事なことは聖書の前後と文脈を捉えることです。するとこの前節(25−27)では、ご自身に付き従っている大勢の群衆への警告がされています。なぜなら、イエスに従っている人々は全く別のメシア像を描き、現世の栄光と利を求めている人々だったからです。彼らの多くが望んでいたのは、驚くべきイエスの神の力をもってローマから自分たちを解放してくれるメシアでした。そのような栄光のメシアでなく、自分は受難のメシアであること、それはこの世のすべてを、命さえも捧げて従う道でした。そこを勘違いしないようにと警告されたのでした。

 つまり、それに引き続くこの箇所は、「キリストの受難と共にする弟子たる決心あり覚悟がありますか?」という問いかけになり、その上で、その決心をするならば、「自分の財産すべてを捨てなさい、そうでなければ無理です」と語られていることになります。

 しかしこれに引き続いての塩の話(34−35)は、当然この延長です。塩をクリスチャンと捉えるのが一般的かもしれませんが、私はクリスチャンの中でも「召し」を受けた人・・・つまり、牧師とかそのような指導的な立場の方のことであると私は理解します。全てのクリスチャンがここで語られているような、弟子的な信仰を持っているわけではありません。しかし神から召しを受けた献身者は別です。そのような献身者がその召しを失ったら、どうなるか、役に立たず、ただ投げ捨てられる存在になるだけなのです。そうならないように、召しは神によって十分に準備され、整えられて与えられることを私は知っています。神の導きは時にかなって最善なのです。人間的な思いを断ち切って、完全に全てを委ねて従い切りましょう。

2020年2月 2日 (日)

信仰

ヘブル 11章1・6節   新改訳2017
さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

「信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」だとここで言っています。しかし信仰の「何を望んで」いるのでしょうか。肉的な自分の望みとか、教会で自分が用いられることを望むことではないでしょう。そうではなく、主イエス様がお手本をになってくださったように、私たちは「父のみこころを行なう」ことを望むのです。

 次に「目に見えないもの」とは何でしょうか。これは約束のものであって、この世で見えるものではありません。16節に「あなたがたが神のみこころを行って約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」とあるように、神のみこころを行なって、最終的に得られるのはずの約束のものとは、天にあるのです。信仰の父と呼ばれたアブラハムは、地上では寄留者であることを告白し、得られたのは約束の子イサクと妻を葬るためのマクペラの洞窟しかありませんでした。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」私たちは心から賛美したい、礼拝したいと祈りました。しかしそれは実現不可能な事だと思われました。しかし祈りは通じ、神が為されることはふしぎです。
 私たちが迷うことのないように、可能性のあるただ一件だけの物件が示されました。不思議のまず第一は、目標額を超える献金が集まりました。後になって過不足ないちょうどの金額だとわかりました。第二に、これも不思議ですが、管理人として住んでくださる一つの家族が手を挙げてくださったのです。それもご本人の意に反し、示されて手が上がったのです。第三に、大家さんが私たちのすべての要望、礼拝と賛美、管理人の住むことなどを受け入れてくださったことです。第四に地域の人との関わりや近くの教会など、御心の示しが夢やかねてからの牧師の使命感を通して与えられていることです。

 6節には「神に近づく者は〜中略〜神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならない」とあります。この度の会堂への移動は、私たちが「望んでいること」への具体的
な神の答えです。このように、私たちは神に対し御心を祈り求めれば、神は必ず答えてくださること、その信仰を個々人においても堅く立てなければなりません。アーメンでしょうか。

2020年1月26日 (日)

みこころを確かめる

民数記 12章6節   【新改訳2017】
 主は言われた。「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、【主】であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。

 私たちの教会は、礼拝する場所に今、窮地に立たされていました。いつも礼拝していた施設が半分ぐらいの割合で使えなくなったのです。その上、借りていた教会事務所の更新も迫っていました。私たちは感謝する中、これには何らかの御心があると促しを感じ、聖会が終わった直後の1月12日、いつもの不動産屋さんに行って相談をしました。御心の礼拝場所、心から賛美できる地を求めて。

「心から神を賛美し、礼拝したい」そんな願いを言うと「そんな場所はあり得ない」と初めは取り合ってもらえなかったのですが、ある担当者が「一軒家で楽器可なら可能かもしれない」と助け船を出し探してくれました。そしてその物件がたった一つだけありました。

 問題は入居するための初期費用が、私たちの予算を大きく超えていた事でした。次に単に楽器可だけでなく、教会として借りる事、管理人として教会員家族が住む事など、こんな条件をOKしてくれるのだろうか、当初とても不可能と思えるばかりでした。

 そんな中、滅多に夢など見ない私が、数日経って不思議な夢を見ました。さらにそんな夢をどうした事か、早天の祈りの中で皆に語ってしまいました。その夢とは【ある薄暗がりの部屋に入ると、白っぽい猫が私のすぐ横にいました。「ええっ、猫がいる」と思ったのですが、さらに奥の方には、私の猫がいることに気づきましまた。それで「お前たち、仲良くしていたんだね」と私は言ったんだ……】そんな夢でした。

 この夢は1月16日(木)のことで、うっかりすぐの早天で話したのです。この話を聞いていた妻が突然「ええっ、白い猫!」と声を出して驚きました。直前のケパドルブログで、白っぽい地域猫の話題を取り上げたと言うのです。夢が解き明かされました。私が見た白い猫とは地域の人々のことで、その人々が私達と交わるようになるという示しだったようです。つまり今度の会堂は、そのように地元住民との交わりのために用いられる、と。

 これ以外にも管理人として住んでくださる教会員、初期費用が信徒全員の献金によって完全に満たされた事、関東予選会の賛美曲、貸し主がこちらの側の要望のすべてを受け入れてくれた事など、沢山の確認事項が与えられました。この度の移転は、私たちの祈りに応え、心から賛美できる礼拝を実現させようとする神の導きなのです。ハレルヤ!

2020年1月19日 (日)

クリスチャンは大抵はクズの集まり

 ルカ 9章23-25節   【新改訳2017】
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。

 YouTuberのイザヤ君の「クリスチャンは大抵くずの集まり」を観ると同感するのですが、自分がくずである自覚がないと、十字架の神の愛とあわれみがわからない、そのように私たちはできています。逆に言えば、能力の高い人や世で良い地歩を占めている人々は、こと救いに関しては遠いです。それでも救われている人は、その心の中に大きな苦しみを抱えていた人でしょう。

 さて、このことを聖書で「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、私のためにいのちを失う者は、それを救うのです」(ルカ9:24)と言っています。この御言葉は、よく知られている割には逆説的な言い回しで難解です。実際の意味がわかるのは聖霊のバプテスマを受け、新生した方でしょう。ですからイザヤ君の「クリスチャンの大抵はクズ」も、これによく似ています。

 私の思い込みですが、クリスチャンで「自分はクリスチャンだから、他の人より清く正しい生活ができている」と思うなら、恐らく御前に出たときに叱られる事になるでしょう。清さ正しさを否定しているわけではありません。それは神のものであって、人のものではないと思わされています。聖霊を自分の主として歩んでいるならば、その聖さの前に、己はその弱さ、罪深さがますます明らかにされるのです。

 自分に一切の価値を認めず(自分に死んで)、ただ真摯な罪の告白の上に、神の愛とあわれみが注がれるのを体験するのです。繰り返しますが、完全に自分を献げ、自分の主は自分から聖霊なる主に移行していなければなりません。併存はありえません。その上であわれみと赦しによって、罪から解放された自由、何にも優る神の力を見るのです。神と交わり、その神から高価で尊いとされる愛の中で、私たちは真に生きる喜びを知るのです。                                        

<勧めの御言葉>

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 ヘブル人への手紙 4章16節 ©2017

 

2020年1月12日 (日)

流されないで確信に立つ

ヘブル 2章3-4節   【新改約訳2017】
私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、
そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。

 最近私たちの群れでYouTuberが募集され、この呼びかけにすぐさまいく人かによって作られました。た中に、「カルトかどうかはてめえが決めろ!」がありました。タイトルこそ刺激的ですが、要はネットなどでの批判や中傷に対し、風評や単なる決めつけではなく、自分の目と耳で「本当にカルトなのかどうか」確かめて判断して欲しいということでした。
 確かに、そうでなければ、ただ無責任に付和雷同しているだけです。このようなネットでの無責任な書き込みが、今や社会問題になっています。しかもこのような事が、真の信仰の道を求める人たちを惑わしたとすれば、その報いは考えるのも恐ろしいほどです。

 私自身、三十年間福音派のクリスチャンでした。その経験から言えることは、彼らが聖霊について無知であるということです。聖霊の助けなしには新生もなく、聖書も核心部分が理解できません。ですから見えない人が見える人を裁いているのが現実なのです。実際、カリスマの私たちの方が聖書に忠実であり、生ける神の聖霊が働く、真の教会なのです。
 私たちには荘厳で立派な会堂はありません。世で成功し、社会的な地位がある人の割合は少ないことでしょう。しかし教会とは建物や人の外見ではなく、信仰こそが全てです。
"教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです"(エペソ人への手紙 1章23)ここで「満たす」とは聖霊なのです。

 ところでルカによる福音書7章18-23節に、洗礼者ヨハネが弟子の二人をイエスのもとに遣わし「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」と問い合わせています。イエス様はその二人の弟子とヨハネに対し、今この瞬間にも起こっている見聞きした事実だけを伝えるよう語られました。
「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」これはメシア預言の成就を確証させるものでした(イザヤ53章他)。その他のメシアであることを証しとしては、ダビデの子孫であること、ミカ書で預言されていたベツレヘムでの生誕とか、聖書全体がそうであることを物語っています。

 私たちは見るもの、聞くものによって押し流されないで、ただキリストの証人として堅く立つのです。その力は神を体験として知っているからです。つまり聖霊の満たし、聖霊のバプテスマです。私たちは世人よりも、神の御心を選び、従う生きた証人なのですから。

2020年1月 5日 (日)

赦され、愛する

ルカ 7章47節   【新改訳2017】
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。

 私たちは癒やしの教会ですが、どんなに体が癒やされても、それが信仰に結びつかなければ何の意味もありません。癒やされてもそれは少し延命だけで、人は遅かれ早かれ必ず死ぬのです。真の癒やしは、永遠の存在である魂の癒やし、霊の回復です。イエス様はそのために地上に来られました。
 さて、多くの病いを癒やすだけでなく、多くの罪をイエス様は赦されました。罪の赦しとは霊・魂の癒やしになります。病いをただ癒やすだけでなく、その根本の霊を癒やす、それがイエス・キリストを信じることです。しかしそれができるのは神だけです。どれほどパリサイ人の反感と憎しみを買おうとも、イエス様は赦しの癒やしを止めることができませんでした。その為に来られたのですから。

 さて、本日の聖書でイエス様は「この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから」と言われました。逆に「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」とはっきり言われました。一方で神を愛する人がおり、また、どうしても愛することがわからない人もいます。愛するならば、例えば映画パッションでのイエスへの鞭打ちのリアルシーンを観て、あの鞭の痛みを我が事のように感じるはずです。

 そういうわけで、罪深い女だけでなく、長血に苦しめられた女、ゲラサ人の地で墓場に住んで、レギオンほどの悪霊に憑かれていた男など、赦され救われたこれらの方々は、イエス様を心から慕い愛する者に変えられたと私は信じます。罪深さはなんと全くの逆転、永遠のいのちと信仰、結果としてそれに見合う癒やしを得る恵みの道だったのです。

 「心の貧しき者は幸いである」とは以上のことを指しています。罪の意識は人を苦しめますが、十字架の赦しの道を見出したならば、祝福され、愛と自由の中、永遠の魂の安息を得ます。赦されなければ愛することができず、これら神の愛の恵みを十分には受け取ることができないからです。繰り返しますが、赦しと愛とは表裏一体なのです。自分を正当化し、赦されることの飢え渇きを感じない人は、不幸です。

 神は最善を私たちに与えようとしておられ、赦されることなしに神を知ることができません。偽りの祝福を与えることはおできになりません。私たちの魂を妬むほどに求めておられるのです。

2019年12月29日 (日)

神のお人柄

ヨハネ14章26節    【新改訳2017】
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 昔、各地のクリスチャンが集まって親しく話をする機会がありました。その時感じたのは、「神を信じる者が十人いたならば、それぞれ十人十色の信仰と神様観があるんだな」という感想でした。確かに神は人間の理解を超えた存在であって、「群盲象を評す」とその時は思ったものです。

 しかし、三位一体なる神は唯一であり、十人各々の異なる神がおられるわけではありません。多くの人の聖霊のバプテスマ体験を聞くなら、多少の相違はあっても、弱さを知り悔い改め、神に自分を明け渡す不思議な特徴があり、たましいの奥底を揺さぶられるその証しからは、間違いなく同じ神であることがわかるのです。

 さて、あるクリスチャンの神様観は「義なる神で、厳しい裁きをされる怖ーいお方である」であったとします。そのクリスチャンは神に聞き従う忠実な者となりましたが、どうしても神の懐に飛び込むことができないのでした。逆にあるクリスチャンは、神はサタンにすでに勝利されているので、サタンなんか恐れるに足りずと侮っていました。ところがその侮りが自分の力を過信したり、神に対しても聞き従いが弱くなる一面があったのです。

 では神様って、どんなお方なのでしょうか? それには人となって来てくださったイエス様を知ることです。私の神様観はルカ七章の「罪深い女」の話に出る、赦しの愛がピッタリします。罪深い女は、その土地の名士であるパリサイ人シモンとは真反対の対応をイエスにしました。当時、迎え入れた客人に対してする、足洗いの水さえ出さなかったシモンに対し、この女は涙でイエスの足を洗い、自分の髪の毛でぬぐい、その足に口づけをして香油を塗った(38節)のです。女の対応にイエスは【多く赦された者が、多く愛する】と言われたのです。多く赦された自分の罪がわかる、これが私の神観のポイントです。

罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました   (ローマ 5章20節)とあります。
神はなぜ、放蕩するとわかっていても弟息子に放蕩を許されたのでしょうか? 自分を知らせ、悔い改めさせ、真の父の愛を知らせるためでした。本当の心は、赦されなければならない心から生じるのです。自分の罪深さを知ることは、神の赦しと愛がわかり、神に喜んで自分を捧げるようになります。
 エデンの園の中央に、わざわざ置かれたのも、放蕩を許されたのも、すべては神が私たちの本当の心を得られようとしている証左です。そこまで神は私たちをお求めなのです。この愛に、私たちは真に生かされるのです。

2019年12月22日 (日)

自由意志

創世記 2章9節   【新改訳2017】
神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

○罪~ 蛇に惑わされたと言っても、別に強制されたわけではありません。人は神の「食べると死ぬ」と言う戒めより、自分の見た目や、何より「神のように賢くなれる」欲を優先したのです。日頃あれほど親しく交わっていた神を信じず、従わず、自分の考えや判断を正しいものとしたのです。サタンと同じ、「神のようになる」という高慢が罪の正体なのです。

○疑問~ 一点だけ気になるのは、神はなぜ、どの木からも取って食べて良いと言われたにも関わらず、わざわざ中央に恐ろしい木を置かれたのでしょうか? 人間の親ならそんな危険なものを置いたりはしません。神は意地悪いお方なのでしょうか?
 そうではなく、放蕩息子のように、愛すればこそ、選択という自由を与えられたのです。さらに神には、イエス・キリストという救いの計画がありました。禁断の木の実は「神を信じ、従う」しるしでした。結局人は罪を犯しましたが、それは罪の只中から、自分たちが救われなければならない存在であることに気づかせるためです。悔い改め、二度と高ぶらせない計画が神にはお有りだったのです。
 十字架によって、アダムの罪は完全に贖われ、聖霊によって、人は真の自由を得て恐れることなく、御前で神と交わる、神との関係はこうして回復されて行くためでした。

○アダム~ このことをパウロは、最初のアダムと最後のアダムとして説明しています。最初のアダムは土で造られ土に帰りましたが、最後のアダムは天からのもので、乙女マリヤから生まれました。つまり最初のアダムは、最後のマダムであるキリストの雛形でした(ロマ5章中ほど)。天からのキリストによって、私たちは永遠の天の相続者となり、信じる者の霊は天に帰り、新たなからだを得るのです。
 キリストによって永遠のいのちを得たのであれば、たとえ何があってもこの恵みを失うわけにはいきません。「最後のアダムはいのちを与える御霊となりました」(1コリ15:45)

○交わり~ 真の交わりとは権威と秩序の下、一つの目的のために、互いの個性と感性から意見を出し合うことを言います。自由意思と個性を持った兄弟姉妹同士でなければ、そんな交わりにはなりません。私たちは神の子どもです。子どもならば恐れずに父のみ前で、自分の考えを言うでしょう。神は妬まれるほどに、そのような霊をお求めなのです。

 

 

2019年12月15日 (日)

信仰義認

ガラテヤ 2章19-20節    【新改訳2017】

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

 ユダヤ人は律法の完成形であるイエスのことが、どうしてもわからない?
すでに割礼を受け、神の民であることを疑わないユダヤ人がメシアニックにはなっても、クリスチャンにはなりきれない最大の理由は、ただ信仰のみにて義とされるパウロの教えが、彼らにとってユダヤ人であることを否定するに等しいからだった。この信仰義認を明らかにしたのは、ラビたちの中でも最優秀であったガマリエル門下で、その最も優れ、実践者でもあったパウロその人だった。ダマスコ途上でイエスと出会い、その後アラビアで神と何年も一人神と向き合ったパウロは、おそらく律法の真の目的などの啓示を直接神から授けられたものと推察されるのです。
 こうしてキリスト教の土台、信仰義認はパウロを通して確立され、ユダヤ人から見れば律法の立役者になるはずの人物が、律法の最大の破壊者に転向したと思えたことでしょう。けれどもパウロにとって最も手強い敵は、教会という内側にいるイエスを信じたユダヤ人でした。何故でしょうか?

 ガラテヤ書を見る限り、パウロが多くの労苦と共にガラテヤの諸教会を建て上げたのに、まるでその跡を追うように、ユダヤ人クリスチャンが諸教会を回って惑わして行ったようです。おそらくアンテオケやエルサレム教会などでパウロの報告聞いた人々だったと思われます。彼らは信仰義認を理解せず、救われるためには割礼を受け、ユダヤ人にならなくては救われないと言うユダヤ主義者たちでした。なぜならユダヤ人にとって、異邦人は汚れており、天国に行ける存在ではなかったからです。彼らにしてみれば、救いを完全にするための親切でしたことでしょうが、とんでもない惑わしをしたことになります。

 このユダヤ人クリスチャンのユダヤ主義はエルサレム会議で解決できたはずでしたが、実に根深く、その後も使徒ペテロなども影響されてしまうほどでした。ユダヤ主義のこの根深い源泉は、教会発祥の母体、神殿のあるエルサレム教会でした。エルサレムに住む限り、信仰義認の教えに同調するなら、たちまち異端として追い出されたことでしょう。

 エルサレム教会は紀元70年にエルサレムと共に滅びましたが、こうしたことからもわかる様に、信仰義認はユダヤ人から異邦人に受け入れられ、全世界に向けて福音宣教がスタートすることになりました。最後に一言、信仰義認とは神の恵み、哀れみに尽きる教理です。ですから信仰義認を信じる者は限りなく、謙遜に置かれます。天国への特権体質とはまったく異なるものです。

2019年12月 8日 (日)

御霊のからだ

Ⅱコリント 5章2節   【新改訳2017】
それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。

体の健康について、私は異常なほどの熱気というか執着を感じた機会がありました。メタボ予備軍になって、市の健康教室に参加した時のことです。その熱気に驚きながら、その時私は「ああ、血肉の体だけが唯一の希望なんだなあ」と悲しく思わさせられました。

 聖書によりますと、人は二つのいのちを持ったハイブリッド的な存在です。血肉の命と霊のいのちの二つです。血肉の体は限りあるものですが、霊は永遠の存在です。血肉の命がある間の選択で、永遠のいのち、霊の行き先が決まります。つまり血肉で生きてるということは、同時にこの選択の時間を歩んでいることになります。

 そもそも人は万物の創造の締めくくりに、神によって「神の形に創造された(創世1:2627)」存在です。エデンの園に住まわせられた時、人に全ての命の支配と、園の中央に一つの戒めを与えられました。これは神に聞き従うかどうかの、自由なる意思決定を委ねられたということです。同じ被造物であっても、天使には血肉の体も、自由意志も基本的には与えられていませんので、人が神を信じるなら、天使よりも高い存在なのです(ルカ4:10.ヘブル2:9-16)。

 地上での血肉の命を終えて天に行けば、「裸の状態でいることは」(2コリ5:3)はありません。ただ、この御言葉には少しの注意が必要です。つまり、携挙の際には、「まず、キリストにある死者がよみがえり」(1テサ4章16節)とありますので、殉教者のような特別に召された人以外には、その時までどのような過ごし方をしているのか不明です。いずれにしても携挙では、全員が御霊のからだを与えられることは確実です。

 ところで問題はそれまでの地上での生き方です。「肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れている」(2コリ5:6)のですから。逆に言えば私たちクリスチャンには主と一つになる希望があり、私たちのために神が用意してくださる天の住まいがあるのです(2コリ5:2)。今地上で困難に呻いていても、一時のことなのです。心からの願いは「 肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っている」のです。

 この滅んでしまう血肉の体にしがみついている多くの日本人へ、あまりにも恵まれている者として、証し人しての使命を痛感します。

 

2019年12月 1日 (日)

愛を追い求めなさい

 ✝1コリ14:1  [新改訳2018]
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい

私たちの群れではこの聖句の後半《預言を熱心にもとめなさい》を土台として、主に関連する聖書箇所(中心はコリント第一)を元に預言を学び、セミナーや実践練習を積み重ねて来た。しかし最近は前半の《愛を追い求めなさい》にも光を当て、単に並列されて書き表されているだけでない、重要な預言の土台というものに再び光を当てている。 

図で表せば「愛」と「預言」の関係は右のようになる。つまり先ず愛が求められ、そのお器とか土台があっての後、預言することを熱心に求めるという順序というか、土台があっての預言ありきではないのかと言う点である。

<愛がなければ、騒がしいどらやうるさいシンバルと同じ><よりすぐれた賜物である愛がと20191201もなっていないのであれば、無に等しく>とあるように、このことは聖書にしっかりと押さえられていることなのではないだろうか。万が一この神の愛を受けずして、聖霊の賜物ばかりを求めるとしたら、サマリアで賜物を使徒たちから買おうとしたシモンの轍を踏むことになりはしないだろうか。

御霊の賜物はどうして与えられるのか、ということを考えるなら、それは「教会を成長させるため」である。それゆえに聖霊の賜物は教会のものであるし、その管理を受ける。教会の使命とは愛そのものの神の御からだであり、その信仰の継承と福音宣教が使命である。ここでも<愛>が中心である。賜物は教会のためにであって、自分のためには一切無いのである。

一般に「通り良き管」「神の器」とかいう言葉があるが、聖化に関しても私の思いでは、それはあったとしても管に付着する錆び、容器に染みつくシミみたいなものであって、それは決して管とか器が変えられてのものとは言い難い種類のものではないか、と。失礼ながら、時に剥がれ落ち、化けの皮が取れるような存在のものではないだとうか。私たちの本性は罪人であって、絶えず神に赦しを請い願い続け、聖霊さまに通っていただかなくては用を果たしているとは言えないはずだ。あえて言うなら管にも太り管と細い管とがあるだろうが、5タラントも2タラントも同じお褒めにあずかったように、それすらも御前で決して誇ることは出来ないものだと私は思える。徹底して悔い改め、謙遜、謙虚にこの血肉のいのちを全うして生きましょう。神の愛の組織である。

2019年11月24日 (日)

神の国はあなたのただ中にある

ルカ 17章20-21節   【新改訳2017】
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

 この「神の国はあなた方のただ中にある」と言う言葉は私がごく若い時から大好きなところでした。ただ頭では理解できていても、実際には意味不明な難解なところでもありました。皆さんでも、<ただ中>ってどこだと思われますか?
 水のバプテスマを受けると、聖霊が内住されることはわかります。しかしながら「神の国は、この中のどこのにあるんだ?」と自問自答が残るんですね。頭の中?いやハート??の中?とか。何となく漠然とした理解、把握のままではないでしょうか。

 ところで今回、そんな風に具体的なところばかりを考えているうちは、絶対にわからない(笑)ことが示されたのです。というか、それで納得したのです。神の国とは聖霊様の居られるところです。私の此所(ここ)、とか、あそこに、ではないのです。では、聖霊様は内住していらっしゃるはずですが、私のどこにいらっしゃるのでしょうか?

 たいせつなことは、聖霊さまはわたしのもの、所有しているものではありません。この罪深い者が罪に気づき、悔い改め、この私を十字架で愛してくださり、罪を赦してくださって聖別された上で、聖霊さまが私の中に入って来て下さります。そしてその方に私は私自身を献げ、私の首座にすわっていただく時はじめて、神の国が私のただ中に現出します。

 つまり私は神の国は、私たちが祈りを通し、神を求める心の中に、その応答として聖霊様との交わるうちにできている、と理解できます。それで神の国を私たちが求めても、なかなか得られないのは、おそらく「本気で求めていない」ためです。

 神さまは神さまの御人格をお持ちです。わたしたちがたとえどんなに幼かろうと、真剣に神を求め、心から呼ばわるなら、神は必ず答えてくださります。しかしその逆に、祈ったとしても、それはただ「自分の望んでいること」だけの答えしか期待していないような祈りとか、ただ習慣と惰性で祈っているならば、それは答えられないのです。心の王座を明け渡していなければ、そのような結果になります

 ですから神の国はどこにあるのか? それは信じる者の心の中にあるのではなく、正しくは現れるものです。自分のもののように理解してはいけません。ですから問題は私たち側にあります。試練や困難を通し、私たちが心からの自分を明け渡し、献げるように導いておられるのは、この恵みの場に招きたいがためなのです。そして私達が心の奥底から求めるなら、神の国は私たちのただ中に、確かに見出されていくでしょう。

2019年11月17日 (日)

永遠のいのち

ヨハネ 12章24-25節  【新改訳2017】
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

これはある老人施設での利用者たちの会話だそうです。「いろんなことが不自由になった。家では家族に迷惑をかける厄介者だ」「早く死んでしまいたいのに、自殺も出来ないし」。
かつては社会の一線でバリバリ働いておられた方たちでしょうが、この会話が実情です。

私たち人間が、血肉の体だけでなく、霊的な存在でもあること、目に見える結肉の存在が実は霊的な、つまり永遠の世界の前段階に過ぎないことを、もしこの方たちがご存知でしたら、こんな会話には決してならなかったはずです。

実際、世での希望を失いますと、人は普通、光を失い、生けるしかばね状態になります。私も五十代のはじめにそれを体験しました。家族を失い、出世を諦め、介護していた母まで施設に入ってしまうと、「壊れていく」自分がありました。人間は心で生きている、人と人との支え、関わりで生きている、それは失ってみないとわからないものでした。次に来るのは虚しさ、自己破壊の願望です。

しかしほむべきかな、私たちクリスチャンには永遠のいのちへの希望があります。たとえ世での希望や伴侶や親族を失っても、ますます希望が強まり、光り輝くのです。ダニエル書(ダニ12:1-2)を見てみましょう。人はよみがえって、永遠に天国かゲヘナのどちらかの国に行くことを、旧約の人であるダニエルははっきり知っていたのです。

本題に入りましょう。イエス様に、ある富める若人が「先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことが…」と質問したのは当然です。義になる行いだけでは、隣人愛を行う力が無いからです。十字架による愛がなければ、人は自分を救うことも、他者を愛する力も得られないからです。

さて、永遠のいのちはどのようにして得られるのでしょうか?もちろん、主イエス様の十字架を信じることです。しかしそれと同時に、本当に信じていなければなりません。髪の毛の数さえ数えられている神を、人がごまかすことは全く不可能です。本当に信じることとは、代価を払って買い取ってくださった神の愛に、自分の全てを差し出すことです。「一粒の麦、もし死なずば多くの身を結ぶべし」とはこのことです。死ななければ、本当に信じたことにはならないのではないでしょうか?

皆さん、それも自分の力ではできないことです。ですからクリスチャンとは絶えず、そのことを神に祈り求め続ける存在なのです。つまり祈る人、それが私たちの永遠のいのちそのものだと言っても過言ではないはずです。

2019年11月10日 (日)

新年度年間聖句

    ✝Ⅱ歴代誌 20章15・17節  【第3版】
彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。【主】はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる【主】の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。【主】はあなたがたとともにいる。』」

 今年度も縦糸と横糸を織るようにして、私たちの教会なりの年間聖句講解を試みたいと思います。まず縦糸の歴史ですが、二つに分裂した王国の内、北イスラエルは初代王からずっとバアルの神々に翻弄されました。しかし南のユダは神によって何とかダビデのケ血筋と信仰が曲がりなりにも守られて行きます。

 本日の聖書箇所ユダのヨシャファテ王はレハブアム-アビヤ-アサと続く四代目です。古代からの交通の要衝であったこの地は、周辺国やエジプトなどから絶えず侵略される運命にあった地でした。信仰深かった父アサ王の時代にもクシュの百万の大軍が攻めて来たのですが、この時神の力に依ってアサ王は圧倒的な勝利を得ました。ヨシャファテはそれを目の当たりにしていたはずです。ヨシャファテの代になって、イスラエルのアハブ王がアラムとの戦いを始めようとした時、預言者ミカの真の預言が成就するのも体験しています。その後ユダをとり囲んでいた図の周辺三ヵ国が、結託してユダに大軍で攻め来たという、国家存亡の大ピンチが今回です。しかしこれらの国はイスラエルとはアブラハムの甥ロトの末裔であったり、ヤコブの兄の子孫ですから、カナン占領の折には戦いを避けた、いわば身内の国々だったのです(2歴20:10)。

 聖句の中心は王が「心に決めて【主】の助けを求め、ユダの全土に断食を呼びかけた」こと、そして王の求めに応じ「ユダのすべて町から人々が来て、【主】を求めた」ことにあります。問題を人間的な力で力や交渉で解決しようとするのではなく、ただ信仰に求めたこと、その国家単位での信仰が義とされたという点が非常に大切な点です。

 次に第二点として今日私が特に示されているのは、この三カ国がユダを攻めること自体、欲に目がくらんで同族の恩を仇で返すような、神の道に背くことであることであって、これをもってヨシャファテ王が「彼らをさばいてくださらないのですか」(20:12)という祈りとなったのは当然でした。義なる神はこれに答えられ、ヤハジエルを通して「これは主の戦いである」「主の救いを見よ」とされたのは、裏切ったとはいえ親族争いに直接手を出させないようユダを守られ、義を持って裁かれたのが見落とせない第二の点です。

 第三の点として吟味があります。父アサ王時代クシュとの戦い、ミカが預言したアラムとの戦い…これらを通し、ヨシャファテ王は瞬間的にハジエルの言葉が神からだとわかったのです。もし吟味を間違って現実的な選択をしたら…それはまったくお話にならない悲惨な結果になっていたでしょう。神を信じていても、実際に神と交わっていないなら、このような吟味は出来ません。この三つが今年度年間主題理解のポイントです。

2019年11月 3日 (日)

召命

使徒26:16-18   【新改訳2017】
16 起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。
18 それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』

本日の聖書箇所はパウロが神からの召命を受けた箇所です。召命とは使徒26章17節に神から「わたしは、なたをこの民と異邦人のなかから救い出し、彼等の所に遣わす」とあるように、神がダマスコ途上でパウロを救い出し(deliver=解放し)たのは、迫害の先頭に立っていた者こそ、もっともその誤りを是正でき、頑な民に対する適任者として、パウロを遣わす (send=送り出す)というためでした。

このような例はたくさんります。かつて学生運動の先頭に立っていたリーダーの学生が、なんと政治的には真反対の新聞社に入社したことがありました。私は三十年近く、聖書中心主義を標榜しながら、聖霊の働きと奇蹟を否定する、いわゆる福音派の教会のただ中にいました。世的な方法の術を用いながら、どうして教会がこれほど力が無く、信仰が無いのか、いつも憂い続けていたのす。しかし周到な神の計画によって、私は忌避していたカリスマの教会の牧師になりました。それはちょどパウロがどのような迫害を受けようと、ユダヤ人の救いを心から願い続けたように、私もまた福音派の問題をことさら指摘するのは、彼等が真の神と出会えるよう心から願っているためなのです。

さて召命とは使徒9章17節にもありますように、「聖霊に満たされる」ことが土台になります。第一、パウロのような大きな出来事でも無い限り、神の声は聖霊のバプテスマなど聖霊様との交わりが開通していなければ聞こえないことでしょう。また、神は用いられる人個人についても、用意周到に準備されます。モーセはパロの家で育てられました。パウロは当代随一のラビ、ガマリエル門下で律法の専門家となっていました。それとどうようなことが召される人、お一人お一人にあるはずです。ですから召命を受けたその瞬間に、その通らされた道から、自分の人生はこのための人生であったことが大方、悟るはずなのです。
また聖霊の賜物についても、私には次のように示されています。神は、召命に伴って必要な力、預言者には預言の賜物を、伝道者には奇蹟の賜物をなど、それぞれに必要な神の賜物を与えてくださるのです。したがって聖霊の賜物は各人がほしいと思うようなものを願って与えられるものでなく、神の計画、使命を遂行していくために与えられる性質のものなのです。勘違いをしてはいけないと思うのです。

最後に「神の賜物と召命は、取り消されることがない(ローマ11:29)」のですから、与えられた確実な使命は、この世での命が尽きるまで、離さず全うできるようにしましょう。

2019年10月27日 (日)

神を愛する人Ⅱ

  ✝ローマ 8章28節   【新改訳2017】
ロマ 8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

前回は神を愛した人として、モーセを例にとって述べました。けれども後で気がついたのです。モーセもですが、新約でもすごい人がいました。それを忘れてはいけないでしょう。それはパウロです。今日キリスト教はパウロ無しには存在しません。ちょうど荒野で神がイスラエルの民の頑なさを悔い、モーセから新たな民を起こそうとされたように、十二使徒からではなく、神はパリサイ派の将来を担うはずの若き逸材にして最大の迫害者サウルを召し出されました。律法を完成させ、そのくびきから解き放つためには最も律法に精通し、迫害の中心人物を召し出されるとは、何という驚くべき神の知恵でしょうか。

 

パウロがどれほど神を愛したかということですが、パウロの通らされた道は、常人では到底耐えられないほどの迫害に次ぐ迫害の道でした。そのことは2コリント11:22ー28にある通り、39のむち打ちが五度、ローマ式のむち打ちが三度。彼の背中はどんな背中になっていたのでしょうか。他にも数多くの難があり、死んだと思われるまで石で打たれたことさえあります。これらはほとんどが彼が愛する同胞ユダヤ人からのもので、まさにダマスコでアナニヤに語られた「彼が私の名のためにどんなに苦しまなければならないか」そのままの道でした。

そのパウロが本日の聖書箇所で何と言っているでしょうか。「神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、(神を愛する人たち=)私たちは知っています」と証しているのです。
さらにこの章の最後(ロマ8:39)でパウロは「(世の力による、どれほどの困難があろうと・・・・の意味で)私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と宣言しています。信じられないほどの迫害と困難さの中にあって苦しめられていても、パウロは神の愛の中に生きていました。そしてパウロは神をこころから愛し、愛によってすべてをささげ尽くし、生涯を全うしました。神の愛を知り、その愛の中で育った者は例外なく神を愛し、その愛の力は想像を絶するものであったことがわかります。
先ず神が私たちを十字架で愛してくださり、その愛を真に受けた者だけが神を愛するのです。この逆はありません。自分の罪がわかり、神のあわれみがわかること、これがスタートです。

2019年10月20日 (日)

神を愛する人

ローマ 8篇28節

「神を愛する人」     2019

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。


 ◎「神を愛する人」とは、すなわち「神に召された人」だと言っています。他には「聞き従う人」だとも言われていますが、聞き従う人の中には神を愛するだけでなく、恐れて従っている可能性もあるので完全イコールではないでしょう。では神を愛し、神の計画にしたがって召される人とは、どういう人なのでしょうか。このことがわかりやすい人物、モーセの生涯から理解してみましょう。

◎モーセはレビの正しい祭司の家系で、弾圧されてナイルに流されたことが、逆に王女によって子とされ、当時の世界の最高の教養を身につけることになりました。そのモーセが四十歳になった時、同胞を顧みる心が与えられ、自分の手によってエジプト人から同胞を救おうとしたのですが、受け入れられることなく、ミディアンの地に逃亡しました。チッポラとの出会いからモーセはミディアンの地で雇われ羊飼いとして四十年間生きましたが、羊飼いとはエジプト人からはさげすまれた職業であり、その雇われ羊飼いとなるともっとみじめな立場です。神はモーセを世界最高の王子の身分から、最低に近い身分に落とされました。そのモーセがある意味でみじめなまま、八十歳という人生の終わりが近い歳になった上で召されたのです。

 この時、エジプトの王子として成人した過去が用いられました。王と渡り合い、民を脱出させる困難なミッション成功には、モーセ以外では不可能でした。脱出しても荒野を知らないイスラエルの民を護り導く指導者としても、羊飼いで得た知識や土地勘も大いに役立ったことでしょう。まさに神が約束の成就のため、生まれる前から召していた逸材です。しかし何よりも神がされたのはモーセを自分の力の愚かさを知らせ、徹底して神に聞き従う人物に変えられたことです。モーセにとっての最高の恵みとは最悪な経験でした。これが無ければ、モーセは通りよき管として生まれ変わることは無かったことでしょう。神は人というものを、よくよくご存知なのです。

○○神を愛する人とは、神によって最悪な経験を与えられる人のことです。それによって自分の弱さと愚かしさ、罪深さを徹底的に知らされ、肉的な人生jへの希望を失って、ただ神にのみ依り頼む人へと新生させられる人のことです。このような人は自殺するか、さもなくば神に生きるしか希望が無くなります。そのため、「自分の十字架を負って」とか「自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになり」(ピリピ3:7)とは、このような神を愛する人の言葉になるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神を愛する人とは、神によって最悪な経験を与えられる人のことです。それによって自分の弱さと愚かしさ、罪深さを徹底的に知らされ、肉的な人生jへの希望を失って、ただ神にのみ依り頼む人へと新生させられる人のことです。このような人は自殺するか、さもなくば神に生きるしか希望が無くなります。そのため、「自分の十字架を負って」とか「自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになり」(ピリピ3:7)とは、このような神を愛する人の言葉になるのです。

2019年10月13日 (日)

天のエルサレム

詩篇 40篇8節  【新改訳2017】

わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。

 「救い」「永遠のいのち」「天のエルサレム」この三つは少しずつ意味が異なります。
「救い」は自分の罪がわかって悔い改め、イエス・キリストを受け入れたことを意味します。「救われた」結果、「永遠のいのち」に至るのですが、十字架による完全な贖いと、その人の内に働く聖霊の働きが見られるのが「永遠のいのち」の特徴です。証し人として永遠のいのちを保ち続け、地上での使命を終えた人が天のエルサレムに行きます。御霊のからだに変えられてから行く、最終形が「天のエルサレム」です。Photo_20191023120801

「天のエルサレム」を確信し、待ち望んでいる人がいます。反対に行けるかどうかの不安や期待が入り交じっている人もいます。この違いは神との交わりの深さによるのです。待ち望んでいる人は、たとえ世に生きてはいても、限られた時間であって、世と天とを両てんびんにかけたりしません。生きながら世に死んでいるのです。大切なことは、助け手である聖霊様と日々交わり、祈ることが大切です。あらゆることでみこころを求める事です。

 神との交わりの中で、神を愛することほどポイントになることはありません。神は愛です。愛には愛を、です。神を慕い求める者を、神は決して裏切られません。人間に感情があるように、人間とは違うレベルのものでしょうが、神もまた、愛という感情があると私は信じています。ところが神の愛を妨げるものが二つあります。一つは偽り、もう一つは高慢です。この二つの土台は「罪」です。罪は罪であることがわからない性質のもので、別な言葉で言えば自己愛です。ただし自己愛に苦しむなら、救いはすぐ側に立っています。

 サタンも神のようになろうと高慢の罪を犯しました。またサタンの特性は嘘、偽りの天才であることはよく知られています。破滅に導くこの罪の恐ろしさに気づき、それへの自分の無力さに苦しみ、解放され救われることから信仰がスタートします。水のバプテスマと聖霊のバプテスマはこの重要な段階であり、ゴールが天のエルサレムです。

 さあ、私たちが使命を終え、この世の体を脱いで新しい体を与えられ、天のエルサレムに入る時のことを想像してください。どんなに歓迎されることか、また都の素晴らしさに息がつまるほど喜びに満たされることか、想像できるでしょうか。

2019年10月 6日 (日)

エルサレムの平和のため祈る

詩篇 122篇6節   【新改訳2017】
エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

 前半5節までの歌は都上り(都詣で)の歌で、イスラエルの男子は年に三度主の前に出るためエルサレムに上り(出エ23:17など)ましたが、これはその旅の中で歌いつがれてきたものです。それぞれ過越、五旬節、仮庵の祭りと呼ばれていました。Photo_20191015004601

しかしどうみてもこれはダビデの作ではありません。第一神殿の分裂王国の時代、 北イスラエルは国の南北に神殿を築いてエルサレムに行かせないようにしていましたから、都上り自体がイエスさまの時代を含め捕囚から帰還した第二神殿時代のものです。

 さて本題の「エルサレムの平和のために祈れ」ですが、注意しなければならないことがあります。1948年四月に建国されたイスラエルは、百年にわたるシオニズム運動の成果であり、ホロコーストという迫害もあって、奇蹟的に再興されたユダヤ人の国、ダヤ教の国であることです。神の計画の進展、聖書預言の成就という点は肯定できますが、イエスがキリストであることを否定する、未だ救われていないユダヤ教の国なのです。

 イスラエルはまず第三神殿を作ると預言されています(マタイ24:15、二テサ2:3-4)。神殿の周囲と警備はすでにイスラエルのものとなり、実行されるのは時間の問題だと思われます。その後、反キリストが世界の指導者となり、大患難時代の後、キリストの再臨の直前に、世界宣教、福音の総仕上げとして、ユダヤ人に大リバイバルが起こる(黙示1:7、ローマ11:25-26)と聖書からは読み取れます。私たちクリスチャンは、エルサレムの平和を祈る時、このユダヤ人が主イエスこそメシア、キリストであることを信じ救われることを祈るのです。つまり、イスラエル人の霊的救い、その祝福のために祈りましょう。

 次の第二に、エルサレムのオリーブ山に再臨される主イエスが世界を統治されて行きますが、こうしてもたらされる真の平和が、二度と覆されることのない神の主権、平和が実現することを祈ります。
 最後にこれは、そのように霊的にも実際的にも、イスラエルを祝福する祈りです。そのことを最後に祈って終わりにしたいと思います。

2019年9月29日 (日)

伝道

 

ヨハネ 15章22節   新改訳2017

もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。

 二十歳でバプテスマを受けた後、当初それがうれしくて、すぐ周囲の友達に福音を伝え回った。ところがテニス部の仲間は、ひとり以外は誰も信じてはくれなかった。その上、そのひとりもしばらくすると統一原理に走って、家族が上京するなど大変なことになった。その後、福音をきちんと伝えようにも、公務員の立場上できなかったため、異端に入られてしまったケースすらある。
 逆に親族の集まりで、最後の機会だとやむにやまれぬ思いで福音を語ったことがあった。関心を持たれた方もいたようだが、特に強硬に反対する人も現れ、結果としてその場はとげとげしいものになった。

 こうしたことから、求めて来られる人は別にして、伝道する場合は、ある程度関係ができ、フォローできる人に対して行うようにしている。聖書(ヨハ15:22)にあるように、福音を聞いてもその人が受け入れなかったなら、ある意味、聞いてしまったが故の審きの道に入らせてしまうことになりかねない。

 これらのことを踏まえるなら、伝道しようとする場合、現在では祈りの上に、神に示されたタイミングでの実践を心がけている。伝道とは自分の人間的な思いや力ですることではなく、神のみこころを行うことである。親子や兄弟であって、どんなに人間的に愛していても、神のみこころならば信じ、みこころならば信じない。救いは神のものであって、人の及ぶ所ではない。しかし神は私たちの祈りを聞いて下さる方でもある。たとえそれが人間的なものであっても、救いを願う祈りは神もまた同様なのだ。恐れずに神に願い求めるべきだ。その上で神に示された伝道は、たとえどのような反応や拒否に会おうとも、決してあきらめてはいけない。

 Photo_20191006024301(ジョージ・ミュラー)

問題は神に示されることである。ジョージ・ミューラーという人は、絶えず神のみこころのみを求め続けた人だが、他の人と異なったのは、神の答えを得るまでは祈り続けた人だった。ところが私たちはほとんどの場合、神の祝福を受けるまで祈り続けないため、未成就の祈りをやたら増やしているのではないだろうか。神に明確にみこころが示されるまで、祈り続けることを決してあきらめない、それを私たちの群れでは「祈りきる」と言う。

2019年9月22日 (日)

驚くべき逆説

ヨハネ 12章23~25節   【新改訳2017】 

すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

「驚くべき逆説」
戦後大きく成長した教会は、先の大戦で軍部に抵抗し、牧師級の殉教者を出した教団の流れです。韓国ではもっと犠牲を払っていますから、この言葉は証明されているのです。種は発芽という死によって、一粒の種が何十倍、何百倍と実を結びます。自然のこの驚くべき法則は、信仰にも同じことが確かに言えるのです。

「自分を憎む」とは?      Holyspirit
信仰を持たれたのは、みなさん、ご自分のために良かれと思ってお信じになったはずです。それなのに「憎むなら、永遠のいのちに至る」とはどういうことでしょうか。いったい、自分が一番大切なはずなのに、このことばは一見して理解が困難です。自分の命を失ったら元の木阿弥で、何が得られるというのでしょうか。

○憎むと言う言葉は基本的に使いたくない言葉だと思われますが、聖書では全く違う使い方をしています。それは自分自身の心の内側、その世的な志向、絶えず攻撃し惑わしてくる肉なる思い、それらをまとめるなら自己愛と言うことになるでしょうか。「憎む」とはこのような自分に対して、神の霊によって戦うことを意味するのです。自己愛の死、それはつまり神がその人の主となることであり、みこころの人となることを意味します。(※参照「自分を捨て、自分の十字架を負って」・・・マタイ16:24、マルコ8:34など)

この自分に死ぬことは、決して一度きりで終わるものではなく、血肉のからだがある限り続く、執拗な戦いとなります。常に神に祈り、聖霊の力に依り頼むしかありません。ですから懲りない相手に対し、「憎む」という強い意志をでの表現になっているのです。このように、繰り返されていく戦いの段階に入っていない方にとって、「憎む」意味が理解できないのは当然です。どのようなクリスチャンでも、神の時が来た時にはわかることでもあります。

2019年9月15日 (日)

聖霊のバプテスマ

使徒の働き 19章6節    新改訳2017
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。

 バプテスマには水のバプテスマと聖霊のバプテスマがある。初代教会では、ペンテコステ以降、聖霊のバプテスマを受けていることは当然視されていた。今日に至って二つの異邦人の例(※使徒8:5-17,18:24-19:6)のように、水のバプテスマしか知られていないのは、それだけ現代が不信仰な時代であることを物語っている。

  聖霊のバプテスマは価値観が180度変わるものであるから、どんな人にとっても二つのバプテスマは人生最大の出来事である。そのように自身が変わっていなければ、それは聖霊のバプテスマとは言えない。疑い深い者から確信を抱く者へ、神に属する者へと。それは愛と光の中、魂が揺さぶられる感動と、神は生きておられた歓喜に満たされる時である。

 聖霊のバプテスマを受けた人には、異言や預言、癒やしなどの聖霊の賜物が現れるが、それらは神の栄光の現れであって、決して本人のものではない。もし、聖霊のバプテスマを求めている人の中に、自分がそれによって引き上げらる期待が混じっていたならば、どんなに祈り求めたとしても、引き続き訓練を受けざるを得ないだろう。その人の信仰は、信じてピリポに従っていたサマリヤの魔術師シモンと、それほど変わらないからだ。

 次に聖霊のバプテスマはあくまで神の主権で注がれるもので、権威ある指導者や高名な牧師に期待して的外れに近い。受けたとしても、執り成しは否定できないが、基本たまたま神の時であっただけであろう。神からのものを「あなたは受けています」と人が言えるはずもない。

  ではどうしたら受けられ、注がれるのか? そんなことが人間の私に答えられるはずがない。ただ、その証によって知見するのみだ。ある方は信仰書を読んでいて、ある方は自分の罪に打ちひしがれ、生きる希望を失ったその時に、と様々である。共通しているように見えるのは、自分に望みを失い空しくなったり、己の罪がわかって心から悔い改めていた時だろうか。その人の中で、神が主とされるべき時と言うべきだろうか。

 聖霊のバプテスマは私はエデンの回復だと思わされている。またこれを受けないと、真の献身は困難である。罪以前の神との日々の親しき交わりがその中身なのだ。実の子のように、「アパ父よ」と呼びかける自分にも驚くようになるだろう。三位一体についても理解が増す。バプテスマのヨハネが言った通り、神と交わり、神から来るのでなければ、私たちは何も出来ないのである。

✝ヨハネ3章27節 新改訳©2017
ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません」 

2019年9月 8日 (日)

みこころの祈り2

Ⅰヨハネ 5章14節    新改訳2017 
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 昨日の土曜日「なつぞら」では、ちょうど主人公が「大草原の小さな家」に取りかかろうとするシーンでした。放送の次の番組がなんと実写版の「大草原の小さな家」だったのでびっくりしました。しかもそのタイトルが<ローラの祈り>だったのです。「祈り」のメッセージを続けていましたので、みこころを感じました。
 さて<ローラの祈り>とはこんなストーリーでした。パパっ子のローラは、三人姉妹にはじめての誕生した男の子である弟に、父があまりにも喜んで夢中なのを見て、心が穏やかでありません。そして生まれたばかりの弟が原因不明の病気になると、そのための癒やしの祈りができませんでした。その弟が死んだ時、ローラは自分の罪を感じたのでした。<ローラの祈り>とは、父の喜ぶ弟が生きかえること、そのためには自分のいのちを差し出すという願いでした。

 このドラマを観ていて「これは、かなり事実に近い体験があって、それを元にして作られた作品ではなだろうか」という印象を持ちました。これは「罪の赦しを求め、身を犠牲にしてでも神に答えていただこうとする祈り」です。そしてローラは、これをかなえてもらえるために、神に近いと思われた高い山に登り、神に答えられるのをまさに身を賭して祈ったのです。

 しかし基本的にみこころの祈りでなければ、その願いは届きません。神に心から祈り求めて、その答えがなかなか来ないとすれば、それはその人の願っていることが自分の目に良かれとしている肉的なものだからです。
 またローラの弟が召されたように、人間的には理不尽に見えたとしても、神にはそれを越える深い計画があるのです。神は最善のことしかお出来になりません。ですから悪いと思えることでさえも私たちは感謝します。これは信仰であり、この事を通して、神の最善の計画が始まることを信じるからです。

 自分の祈った通りになることが、みこころの祈りではありません。神のみこころ、神の計画が最善であり、それが実現して行くよう祈る事がみこころの祈りです。自身の思いや願いではありません。あるとすればせいぜい、人間的な自分の思いであることをわきまえながら、それを神に知っていただく事でしょう。しかし神はすでにご存知なはずです。繰り返しますが、神は最善しかおできになりません。その通りになることだけを喜びましょう。

2019年9月 1日 (日)

みこころの祈り

 Ⅰヨハネ 5章14節   新改訳2017 
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 私が聞いた話です。山陰で日の出が遅い家に住んでいた少年が、ある時教会学校で、心に信じて疑わずに祈ったら、その通りになるという御言葉(マルコ11:23)を学びました。少年は家に帰ると裏山に向かって「立ち上がって、海に入れ」と心から信じて祈り、翌朝を楽しみにして寝ました。さて次の日、少年が目が覚めてみると、いつものように山はあり、少年はすごくがっかりしたという話でした。

この話には、祈りについて重要な点があることを教えてくれました。確かにどんなことでも祈って良いのですが、ただ神のみこころを祈ったものだけがかなうのです。ドラえもんのポケットのような意識で、自己本位な祈りをどんなに数多くしても、聞かれない祈りにかえって信仰が萎えて行くだけなのではないでしょうか。みこころでなければ、最善の神の計画をさまたげるだけです。

では人は如何にして人は「みこころ」を知り、みこころの祈りができるのでしょうか。本日のテーマはその問いに答えようとするものです。
イエス・キリストさまが世に居られた時から約束してくださったもの、それが聖霊です。ある意味、福音と聖霊の時代を開くために、十字架の主は来られたのです。このことはペンテコステで成就しました。これ以降、すべてのクリスチャンに聖霊の内住がそそがれたのです。聖霊は私たち一人ひとりを導く神の霊であり、助け主、慰め主、癒やし主です。私たちがみこころを求める時、この聖霊なる神と交わり、祈り、聞き従うのです。

しかし単に神を信じているだけのクリスチャンにとって、みこころを聞くことはほとんど不可能です。みこころを聞いても、それに従うことが出来なければかえって災いになります。神の声に似せたサタンの惑わしをも見分け、受け入れてはいけません。

一言で言えば、聖霊のバプテスマを受け、新生することがみこころを聞く土台です。このようなクリスチャンはすべてを神にささげますし、死を恐れなくなります。その人は天の御国のものだからです。
聖霊のバプテスマは、超有名な伝道者や牧師を頼り、祈って授けてもらえる性質のものではありません。またどんなに熱意を持って祈り求めても、みこころですが、すぐさまリクエストに答え、受けられる性質のものではありません。聖霊のバプテスマは、ただ唯一神からのものであり、神の時に受けられる性質のものです。ですから神は喜んで与えようとしておられるのですが、その前に罪のない状態、聖潔化が前提です。これは自分にまったく希望を失うほどの悔い改めが土台です。自身の罪深さ、真の姿を知っての献身であり、神の時までの、その人の忍耐も試されるのです。これがみこころの祈りの土台です。

2019年8月25日 (日)

祈り

マルコ 11章24節  【新改訳2017】
 ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

クリスチャンの祈りは個人的な経験上から大きく三つに分けることができると思います。
<1>聞かれると思っていない祈り
水曜夜に祈祷会を持っていても、ほとんどの時間は聖書の講解。祈っても、形だけの祈りに終始する事が多い。祈りが答えられることを知らないので、期待もしない死んだような祈りが多くの教会の現状である。祈りに、長い時間かけて祈ることができないのが特徴。

<2>祈りは答えられ、たとえその通りにならなくても最善になることを知っている祈り。
これは真のクリスチャンたちの祈りである。霊的にもある程度開かれた人たちの祈りであるが、ただし「御霊によって祈る」ことが未だ完全になってはいない段階の祈りである。

<3>達人の祈り
ジョージ・ミューラーのような人を指す。彼は孤児院を設立し、生涯にわたって1万人以上の孤児を寄付によってのみ救った人物であるが、その祈りの答えは世的に言えば奇跡の連続であって、疑う余地もないほど祈りが答えられた人である。

私たちの群れは<2>の段階にあるかも知れない。それでジョージ・ミューラーのような祈りを目指しているのは勿論である。彼はその著作「祈りの秘訣」で次の事を教えている。

祈りの土台としての信仰
主イエスのいさおと取りなしを全面的に信頼していること。 自分が知るすべての罪から、自分を分離していること。聖書の言葉を堅く信じていること。部分的にせよ、信じない聖書箇所があることは神を偽り者とすることである。 自分の肉によって祈る事なく、みこころが成ることだけを求めていること。 神に嘆願して祈れていること。

祈りの秘訣(主な点)
このような新工場の土台の上に、さらにミューラーは、第一に自分の心が全く個人的な意志を持たないような状態で祈っていることを重要視する。人は弱く、誰しも自分の意を汲んで受け容れられることを願っている。しかしこれが神のみこころを受け取る祈りの最大の障壁である。自分の人間的な願いや求めこそが最大の敵である。

次に祈り示された事柄が聖書の御言葉によって裏付けられること。それも意図的に人間的な要素が入らないようにしての聖書の裏付けがあることが重要である。

2019年8月18日 (日)

罪と癒やしと祈り

詩篇 41篇4節   【新改訳2017】
私は申し上げます。「主よあわれんでください。私のたましいを癒やしてください。私はあなたの前に罪ある者ですから。」

 癒やしについて、その聖書的な見方を振り返ってみることは大切でしょう。旧約の時代、富は神の祝福だと考えられていたように、病とか障害は、罪の結果だと考えられていました。イエス様の前に吊り降ろされた中風の人に対し、「あなたの罪は赦された」と先ず宣言されたことは、当時の感覚からすれば、非常に順当なことだったはずです。ただ一つ、罪を赦す権威は神にあると当時も見なされていたので、その事が問われることにはなりました。

 このほかユダのアサ王の例でいえば、晩年彼が重い足の病気になった時、王はすぐに医者を呼び求め、主に求めなかったことが罪とされました。これは高度な医療が発達した現代でもまったく当てはまることです。どんなに医学が発達しても、人間の自然治癒力という土台は外せません。病の発症は、遺伝とか環境の因子は挙げられても、まだ早期発見ぐらいしか予防できません。クリスチャンにとってはこれは、神のみこころなのです。老化を防ぐことや幾分か延命できたとしても、死はその先に必ず来るのですから。
 (自己実現などと言われる)自分の生きたいように生きることは空しく、神によって造られたように、その使命を果たして生きることが最高にいのちを充実させることなのです。

 そのためには、十字架を信じてクリスチャンになること。罪を悔い改め、神との交わりを回復をさせられること。その上で聖霊の神と交わり、神に聞き従うことが、どうしても通らなければならない通過点となります。これを「神に触れられる」とか「神性・献身」、あるいは「聖霊のバプテスマ」と言います。

 未信者に試練や困難、あるいは病が許されるとしたら、それは神を見出し、永遠のいのちへと導かれる大きなチャンスでしょう。健康に長生きし、ある日突然死ぬよりも比べものにならない大きな恵みです。またクリスチャンにそれらが許されたとしたら、神はさらにその人の信仰を引き上げようとされているのです。いずれにせよ、神は病に代表されるこれらをつくりはしませんが、許すことはされます。

 ですからアサ王のように医術にだけ頼るのではなく、悔い改め、神に聞き、すべてを感謝してこの先にある神の祝福を受け取ることが最善になります。もちろん、これと同時に医師の手を通しても神は働かれるので、身体の良き管理者としてその治療に従って行きましょう。イエスは分け隔てなく、すべての罪と病を癒やされました。癒やしてくださるのが神のみこころなのです。これが体の癒やしにまさる真の癒やし、永遠に至るものです。

2019年8月11日 (日)

誰が救われるのか

マルコ 10章26節   新改訳2017
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 

 常に人だかりがあったイエス様の周囲で、ある日突然、誰もが知る立派な服を着た一人の人が皆から跳び出し、イエス様に駆け寄って来たのです。思いあまっての行動に違いありません。誰もが知っていた有名人物、非常に富んだ人、品行方正で評判の良い若き指導者でした。その地方の貴族とか議員のような人だったかも知れません。押さえて置きたいことは、当時のユダヤで豊かさは神から祝福を受けていると思われていたことです。

 その彼がなんとイエス様の前に出て膝まづき、思いあまったように質問をしました。「良い先生、永遠のいのちを得るためには何をしたら良いのでしょうか」と。この青年には真実を見分ける目があり、良質で正しい問題で悩んでいたのです。
 イエス様はこの青年に対し、十戒の第五から第九までを守るように言われました。青年はそれらを皆守っていますと答え、それでも自分には永遠のいのちが得られる感覚がないことを言わずもがな語っているのでした。

 この青年に対し、慈しみながらもイエスは「あなたに欠けたものが一つある」、それは十戒の十番目、隣人愛ですとズバリ指摘されました。そして具体的な解決法、「全財産を貧しい人に施し、その上でわたしに従ってきなさい」とイエスは言われたのです。

 ところが若者は多くの財産があったため、この勧めに従うことができませんでした。青年は世の富を捨ててまで、永遠のいのちを得ようとは思わなかったのです。悲しみながら去っていく青年に対し、イエス様は嘆息して「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通る方が易しい」と言われたのです。

 栄枯盛衰、世でのどんな富も時間とともに必ず消え失せます。富は死後の世界にまで持って行けないことは皆知っています。また愛する家族が、財産の相続を巡ってどれほど骨肉の争いを繰り返してきたことでしょうか。世の富、財産は、神の国を目指す者にとっては躓きの元となり、足かせとなり、自身を滅びに至らせる呪縛ですらあります。

「らくだが針の穴を通るより・・・」しかしその絶望に対し、「神にはどんなことでもできる」と神は手を差し伸べられています。神の恵みとあわれみは不可能を可能に、奇跡を起こすのです。

 世と富みに依存する心も、悔い改め、神のあわれみにより聖霊のバプテスマを受けるならば、全く価値観が変わってしまいます。それは畑で宝物を見つけた人のように、自分の全財産を売り払ってでも、その畑を手に入れようとすることに似ています。これは神がされる心、たましい、霊の奇跡であって、人には不可能なできごとなのですから。

2019年8月 4日 (日)

安息日論争

マルコ 2章27~28節   
そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
ですから、人の子は安息日にも主です。  【新改訳2017】

 最高の律法である十戒の第4条は安息日の戒めですが、守り方の具体的な事柄について聖書は何も述べていません。そこでパリサイ人たちはこれを事細かな1500余りの決まり事に定め(口伝律法)、その決まり事を守ることで安息を守ったこととしていました。

 今も変わらない安息日の規定を見て行きましょう。医学的な配慮は、生命が危険にさらされている時にだけ受けることができました。たとえば出産中の婦人は安息日に助けてもらえました。しかし、骨折や捻挫は生命に関わらないので治療は受けられません。指の切り傷は手当をしないで、ただ包帯を巻いて現状維持だけがゆるされたのです。

 さて舞台はカペナウムの会堂です。ここにサンヒドリンなどから遣わされた律法学者たちがあたかも裁判官のように上座に陣取っていたことでしょう。実際に行かれた方はご存知でしょうが、ペテロの家のすぐ近くにあります。問題はおそらくは周到に用意された人・・・・片手が萎えている人が居たことです。彼らの律法の規定によれば、命に別状無く、安息日に癒やされなければならない性質のものではありません。ですから彼を癒やすと、明確な安息日違反となり、死に当たる罪となります。これは実に見事な罠でした。

 イエス様はそのすべてをあらかじめご存知でありながら、堂々とこの会堂に入られ、きっぱりと対処をされました。彼を会堂の真ん中に立たせ、「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことか、それとも悪を行うことですか」と問われたのです。命に代えても、律法の決まりを守ることで天国に行けると思っている律法学者は、この問いに答えることができません。守ることだけがすべてで、神の御心なんて考えたことすらなかったのです。

 続いて「いのちを救うことですか、それとも殺すことですか」という言葉が続いてます。律法の規定では安息日に、いのちの危険があった場合にだけ、救うことが許容されていました。しかし彼らは片手の萎えた人への愛は全くなく、ただ安息日違反だけを確かめに来たのです。安息日を設けられた神の御心など、想像することができなかったのでした。

 主イエスはこの対応を見、最後に怒って彼らを見回し、その心のかたくななさを嘆き悲しみながら癒やしを行われた。神を信じ、礼拝する者は人の作った規則や規律にとらわれない。その心は「かみのあわれみによって受けた愛とゆるしと奉仕」である。そのことを「小さい者たちの一人に一杯の冷たい水を飲ませる人(マタ10;42)」とたとえて主は語られているのです。片手の萎えた人をイエスを試す自分たちの道具に用いるパリサイ人たちこそ、弾劾され、裁かれなければならない人たちだったのです

2019年7月28日 (日)

愛に応える

申命記6章5節   

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。   新改訳2017 

私たちの愛と神の愛とは同じではない。神の愛を知ることは、価値観と生き方を180度変えるものだ。

  ヘレン・ケラーとサリバン先生の感動的な話の1シーンに、ヘレンがwater(水)がわかった時の話があります。どんなに単語を単に覚えても、その言葉の意味を把握していなければ生きた使える言葉になりません。
 こんな例があります。有名なヘレン・ケラーとサリバン先生の1シーンです。ヘレンに水を教えるのに、サリバン先生はいろいろな水に触らせました。私の想像ですが、体を洗う湯、広大な湖、冬はひとかけら氷だったかも知れませんが、ヘレンに触れさせたのです。そのたびに「water」、これも「water」と教えました。1:1なら分かり易いのですが、水:いろいろな水となると、混乱を招きます。しかし本当に水を知り理解するために、サリバンはあきらめませんでした。ついにヘレンは、ある時「water」すべてに共通する特性に気づき、waterがわかったのでした。

  神様の私たちへの言葉と愛も、これに似たところがあります。神は私たちを御手で守りながらも、私たちの真実な姿、それは当初は受け入れること、直視することができない姿ですが、いろいろな問題や試練を通して教えてくださるのです。ただ、それを受け入れるには時があります。時が熟さないとかえって反発して「豚に真珠」となりかねません。放蕩息子のたとえのように、時が来ての悔い改めは、自分の姿を正しく知って、その事実の上に立った時にできることなのです。

 逆のケースを考えましょう。「神は愛なり」という言葉はクリスチャンならどなたでも知っている言葉です。しかし本当の愛は、最善を願う心です。クリスチャンの中でも、かなり自己目的実現の為に信じる、祈るという方が多く、自分を無にして、神の御心だけを願う祈りをする人は少ないのです。自分の願ったことが実現しないと、神は居るのだろうか?と問い続ける有様です。この状態でのクリスチャンに悔い改めは不可能です。

 神は私たちをあわれんでくださいますが、最善の神の計画で愛して下さっているのです。また最善の結果になるように、神は私たちが自分の計画を捨てることを、忍耐強く待っていてくださっています。真に私たちがへりくだって、主を主とし、自分はそのしもべであることに気づくためには、試練の道を通るしか方法はありません。ですから試練は神の愛です。自己中心を悔い改めて、神の御心一番に生きること、それは肉の命にまさる真のいのちを得させようとされる神の愛に答えることであって、人生最大の宝そのものです。

2019年7月21日 (日)

二つの宗教

マタイ15章8-9節    新改訳2017

『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』 

 ユダヤ教的な背景を見なければ分からないことが多くあります。これはその一例です。辺境の地ガリラヤでのイエスの驚くべき奇跡と癒やし、その宣教活動に対し、国中の律法学者、パリサイ人がイエスの元に集まって、メシアかどうかの吟味をしていました。中風患者の罪の赦しと癒やしは、まさにその時、彼らの目の前で行われたことでした。

 次の段階としてパリサイ人らによる審問の段階があり、その代表例が手を洗わない理由でした。「パン(食事)を食べる前に手を洗わない」ことは、現代の私たちにとって衛生上の習慣に過ぎませんが、当時のパリサイ人にとっては、信仰者であるか否かの問題でした。
 どうしてでしょうか。旧約聖書には「食前に手を洗う」明確な規定はないのですが、体液の漏出などを「汚れ」(レビ13章)とする概念があり、それは「伝染」するとされていました。また食べ物に関しても規定があり、常に祭司によって「清められる」ことが必要でした。そのため聖書にはなくても、事細かに「汚れ」を防ぐための規定集、口伝律法が作られてきました。そして実際的には聖書よりもそれを具体化した口伝律法の方を守ることが優先されるようになり、義とされ、天国への保証と化していました。つまり外面的な形式を守ることが信仰そのものでした。「手洗い」はその最たるものだったのです。

 この質問に対し、イエス様はその偽善の核心を突いた返答をされたました。それが十戒の「父と母を敬え」をないがしろにする彼らの口伝律法でした。この重要な戒めを、パリサイ人たちは、一度神に献げると誓ったものは、親の扶養のために渡さなくてもよいという抜け道を作っただけでなく、後に子が悔い改めて親に報いようとしても、律法(民30:2)を盾にこれを許さなかったのでした。これは巧妙な十戒違反だったのです。

 7節の「偽善者たちよ」とのイエスの言葉には、こうした背景があったのです。パリサイ人たちは「父と母を敬え」の神の御心を無にし、単に「汚れ」とそれに伴っての形式的な宗教に堕落し、自分たちに利のあるように律法を利変えて作り変えていました。これに対しイエス様は手を洗うかどうかの問題ではなく(20節)、神の御心を行うことが義とされることだ断じられたのです。

 この外面的、形式的な宗教観と、内面的な霊性を重視する宗教観とでは、根本的な違いと対立があって、全く相容れない存在です。私たちの中にも、外面的な宗教は日本の新党のお祓いなどと同一のもので、パリサイ人のパン種として、現代の私たち自身にも混じっていないか注意する必要があります。「十字架のネックレスをつけないと落ち着かない」とか、どうしてもゆるせない人が居るとか…etc。常に聖霊に祈り聞き従い、御霊によって歩み続けることだけが、主に喜ばれる道です。

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