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神のみこころを行う

Ⅰペテロ 4章2節   新改約2017

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。

 クリスチャン生活にとって、「み心を行う」ことは究極の目標です。ただ多くの人に通って、「聞き従い」と同義語に受け取られている面があります。間違いではないのですが、もう一歩進んだ受け取りを私は考えたいと思います。
 聖書には少しショッキングなみことばがありますl。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタ7:21) 「主よ」と言い、御名によって預言し悪霊を追い出したりしていますので、これは一応クリスチャンと見られますが、その全員が天国に入れるわけではない、「父のみこころを行う者」だけが入ると読めます。ですから今日のテーマは非常に重要です。

 さて、「聞き従い」には神からの命令を受け、受けたことだけを行うような意味合いを感じます。しかし「父のみこころを行う」という言葉には、私には良い意味での「忖度」(そんたく)することが感じられるのです。忖度とは、「他人の心情を推し量ること、また、推し量って相手に配慮すること」です。神様から命令されたり、指示を出され、そこで受け身的に行うような上下の場でなく、自由で開かれた場、その中で進んで積極的に行おうとする雰囲気が「みこころを行う」には感じられるのです。たとえ全能の神の御前であったとしても恐れることのない、屈託のない、笑いさえ交えるような、そんな中で、進んで手を上げ、「私のにさせてください」というニュアンスの感じがします。神のご性質は愛であり、御国は決して階層的な窮屈な国ではなく、自由でのびのびとした所のはずです。

 「一度生まれた者は二度死ぬ、二度生まれた者は一度だけ死ぬ」という高名な心理学者の言葉があります。これは新生を言っています。新生すれば聖霊は内住の段階から一歩進んで、その方の主となってくださいます。イエス様を通し、私たちの主となってくださった聖霊様だけが、神のみこころをすべてご存知なのです。聖霊様抜きに「神のみこころを行う」ことは不可能です。私たちが神のみこころを知り、交わり、忖度する必須条件は新生です。みこころを行う、その結果は聖霊の証印(2コリ1:22、エペソ1:13・4:30)を受けるわけです。たとえ今、そうでなくても求め続けましょう。それはみこころなのですから、時が来た時、必ず求める者に与えてくださります。ただ人はその時を知りません。ここに忍耐があります。あわれみ深い神様、どうかその時を早めてください。感謝します。

2020年9月 6日 (日)

神の救い

エペソ 1章3-5節   新改約2017

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 クリスチャンになり、永遠のいのちを得ることを「救われる」と称します。神学的な意味での救いの取り扱いを救拯(きゅうじょう・すくい)論と言います。その中心にはカルヴァンに代表される予定説がありますが、これに対してアルミニウス主義というものがあります。両者を誤解を恐れずに言えば、人間はひどく堕落してしまったので、もはやがんばっても救われることはできない、救いはただ神の恵みとあわれみという、無条件の選びによる、というのが予定説です。これに対し、人間側の努力や義の行いも神は考慮してくださるだろうというのがアルミニウス主義の見方です。 

ところがこの両者の対立も、自由主義神学というリベラルな神学が台頭して来たため、結束して立ち向かう必要に迫られて、現在ではかなりうやむやになっているのが現状です。リベラルとは聖書がすべて神の言葉であることを否定し、人間の合理的な知性を解釈に生かすもので、エキュメニカルなグループに多く見られる神学です。救拯を論じるどころではない、聖書への伝統的な信仰が否定される事態になったわけです。

 なお、予定説などは秘蹟を中心とするカトリックや正教では受け入れられていないことは勿論ですが、正統的なキリスト教会にあって、内容面でまったく異なるわけではありません。(信仰によって救われることを説いたルター夫妻)

 さて救いについて聖書を見るなら、エペソ1:5などで「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」とあり、2:5にも「あなたがたが救われたのは恵みによる」とあリます。また預言者エレミヤもエレミヤ1:5で 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた」とあるように、神は私たちが形造られる前の霊の創造の段階ですでに選ばれ、み心の計画と召しを与えられていたと思わなければなりません。

 しかしそれは私たちがロボットのように、意のままに動かされる操り人形としてではなく、アダムのようにいつでも背く自由をも与えられていたことを忘れてはならないでしょう。人間の自主的な聞き従い、そこに人間の意思があり、神の愛が伴って働くのです。ですから救拯論の論争も、神の絶対的恩寵を強調するか、あるいは人間側の意思をも尊重される神の愛を強調するかの違いであって、リベラルな考え方の前に、これは大同小異であったというのが落としどころでは無いでしょうか。
 救いは罪の自覚から来ます。罪が自覚できなければ、あるいはわからなければ、救いは無意味です。神の恵みも存在しません。これがある意味、選びの基礎です。アダムは自由意志を創造者のためではなく、自分のために用いてしまいましたが、これを罪といいます。仮に「より自分を引き上げたい」というつもりで神を信じたのであれば、深刻な悔い改めなくして真に救われることはできません。信仰告白をし洗礼を受けて「天国へ行ける」切符をゲットしたつもりでも、それは偽りの所作になります。その後もまったく世的、肉的な変わらない暮らしを続けているのであれば、それは神をあざむくことになります。なぜなら、十字架においてキリストは私たちを代価を払って買い取ってくださったのであり、キリストを信じた者はもはやキリストのしもべなのです。もはや自分は主人でなく、主人は神です。その神に聞き従っていないとすれば、逃亡奴隷か、偽りの告白をしたことになるのです。

 こんなたとえ話があります。「自分の船の甲板上で、乗組員に殴打されて意識を失った船長が、気付け薬のおかげで生き返り、自分を助けにやって来た他の船の船長の、船の指揮を取ろうという申し出を受け入れる場合、受け入れる船長には何の功績も無い」という話です。これは十字架を信じた私たち一人ひとりのことを適切に表現していると私は思いました。私たちの神の国は、入れるからといって何の功績も私たちにはないのです。ただ神の申し出を受け入れて、打ち負かされていた自分の現状から、真の平和を得ただけなのです。
ハレルヤ!私たちは救いのすべてを神の恵み、栄光としてほめたたえましょう。

2020年8月30日 (日)

ゲッセマネのように

✝ 詩篇34篇18節   新改約2017

【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる

  日本の多くの教会は2030年問題と言って、今や死を待つホスピス状態のようです。十年後には教会員がこれまでの1/3に減少、会堂も朽ち、多くが消滅します。伝道はおろか、我が子ですらそっぽを向かれ、ただただ高齢化して来た教会の現実です。
 私は何十年も福音派の教会におりましたので、このことが分かります。神を信じ、聖書も大体は神の言葉として受け入れ、しっかり学んでいるのですが、何が足りないかと言えば聖霊の力です。三位一体の聖霊がごっぽり抜け落ちているのです。教会は聖霊の降臨(ペンテコステ)によって発足し、聖霊の力強い働きによって、今日のキリスト教となったのです。この聖霊抜きに、教会と福音の力はなく、教会は生ける屍なのです。

 聖霊なる神について、すでに四週以上にわたって語っていますので、今回は省きますが、聖霊の油注ぎ、満たし、バプテスマほどないがしろにされてきたことはありません。あれほど聖書にはっきりと書かれていることを、必要ないと否定した当然の報いです。自分たちの信仰にどうして「力」がないのか分からず、ただ万策尽きているのが現状です。逆に聖霊派、カリスマ派である私たちの恵みを痛感します。

 ゲッセマネはイエス様が最後の時間、神への祈りの時を過ごされた所で、今もオリーブ園があります。ヘブル語では「オリーブプレス」、つまり収獲したオリープの実をすりつぶし袋に入れて圧搾する、オリープの油絞り機があったゲッセマネです。すりつぶし、大きな圧をかけてオリーブオイルがにする…受難を目前にされたイエス様が、最後の場所として過ごされた所として何とふさわしい所でしょうか。全く罪の無い聖なる神ご自身が苦しみの果てに、十字架によって全人類への愛と赦しの油を見事に現された姿を場所でした。

 私たちはキリストに自分のすべてを捧げて従い、キリストに倣(なら)う者です。キリストが耐え忍ばれたような苦難を受けるのは、従う者に当然なことです。ヤベツの祈りはすでに苦難を受けた者の祈りだと思います。私たちの教会では、既婚者は全員が伴侶との死別を経験しています。実際これは神により頼むための恵みでした。キリストに倣う者としてふさわしいことだったのです。

 ヨセフもダビデも、パウロもそうでしたが、苦しむことなく、神に用いられることはありません。とすればゲッセマネの苦しみなしには開かれることのない、勝利の、恵みの世界が在るのです。私たちはそれを体験しており、知っています。聖霊様が私たちと共におられ、私たちの人生を通して、神は生きて働かれていることを、私たちは証します。

2020年8月23日 (日)

キリストのために生きる

Ⅱコリ 5章15節   新改約2017

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

 1863年、南北戦争の最大の激戦地ゲティスバーグで、信仰者でもあったリンカーンはこの戦いが、平等の理念を問うた尊い犠牲であったことを強調し、有名な「人民の、人民による、人民のための政治」を演説しました。この思想は現日本国憲法にも生かされています。そして今私は示されて、「キリストの、キリストによる、キリストのためのいのちと教会」を目指す教会の目標として掲げたいと思います。すべての人のために死んでくださったキリスト、キリストの十字架によって与えられた新しいいのち、それは神の栄光とそのみ体である教会のためにのみ用いられるべきものであると信じるからです。

 イエス・キリストを信じた者は、自分の体がすでに自分のものではなく、神のものとなっています。なぜなら聖書1コリ3:16や2コリ6:16で明らかなように、私たちの体は十字架によって贖われ、買い取られているからです。しかし私たちの霊・たましい・心はそうではありません。これは私たち自身のものです。そうでなければ神を主と告白する信仰に何の意味があり、審きがどうしてあるのでしょうか。

 霊・たましいが自分のものであれば、私たちはどうすれば良いのでしょうか。与えられたその意思を持って、神に自分を捧げること、み心を行いたいと願い祈ることですが、最も大切なことはそれらが神を愛する心から発していることです。主イエスは言われました。
「第一の戒めは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(マルコ12:30)でしたし、「兄弟たち、あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。・・・中略・・・愛を持って互いに仕え合いなさい」(ガラ5:13)

 そこで私たちは最初に述べた「キリストの、キリストによる、キリストのためのいのちと教会」を具体化するために、より一層神を愛して、そのすべてが神によって推し進められるよう祈って参りましょう。神に不可能はないのです。

2020年8月16日 (日)

信仰・希望・愛

Ⅰコリント 6章17節   【新改訳2017】

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

 十字架は贖われた罪、その赦しです。私たちの群れでは「十字架」と言う言葉を入れて証をすることが大切なのですが、言葉だけを入れておけば良いというものではありません。何のためにイエス様は十字架に架かってくださったのでしょうか。人は罪のゆえに、裁かれ、滅びに至るからです。しかしイスラエルの民で明らかになったように、律法を全うして人は救われることができない、ただ一方的な神の愛とその十字架を信じて滅びを免れるのです。但し、もし滅びから免れる、そのためにだけに十字架を信じたのであれば、実に神のみ心を損なっていると言えるのです。

 確認しましょう。本当に罪がわかり、神の子自身が自分の罪のために身代わりとなってくださった。その十字架を信じたならば、すべての罪が赦されます。もっと大切なことは、それは神である聖霊様が内住されるためであったと言うことです。これが十字架と復活の目的でした。これに優る恵は、この人類に存在しないと確信しています。

 しかし聖霊の内住だけでは不十分でした。ペンテコステという聖霊降臨の際には、弟子たちはすでに、神と神の子キリストも信じていたこと、つまり現代で言うクリスチャン状態であったことを踏まえてください。教会はこの聖霊のバプテスマによって誕生したのです。

 聖霊のバプテスマを受けることなしに、神を信じ聖霊が内住されても、多くの方はその存在を自覚できません。存在を感じられないものを「主」と崇め、聞き従うことはできませんから、神を「ないがしろにする」結果になります。しかし聖書はそうでないことを警告しています。自分の内に「神、聖霊の宮」(1コリ3:16-17、同6:19)があること、自分の体がすでに神の所有に移管していることなどです。

 聖霊なる神にしか神の御心を知ることができません。神が聖霊を私たちに送って下さったのは、私たちが聖霊様を通し、神の御心を知り、そのみ心を行うようになるためでなくて何でしょう(ローマ8:27,1コリ2:10)。但しこの御心を行うとは、まだ聖霊のバプテスマを受けていない状態の時のように、命じられて嫌々聞き従うのではなく、神と交わり、神の愛を知り、その絶大な価値のゆえに新生し、神を愛して、自ら進んで行うことなのです。神はそれを最も喜んでくださいます。神を愛する、これが最も大切な教えです。イエスご自身もこのように御言葉でもって教えてくださいました。

『あなたは心を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』と。

2020年8月 9日 (日)

主と交わる

Ⅰコリント 6章17節   【新改訳2017】

 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。

 むかし、クリスチャンの集まりで「聖霊様が・・・」と、つい私が夢中になって話題にすると、大抵が困った顔をされるか、いぶかしんだ表情をされるのがおちでした。私自身も信仰を持って二十年以上そうだったので気持ちはよくわかるのですが、それでも触れないわけにはいきません。なぜなら聖書が教える神に喜ばれること、義はみ心を行うことはひとり、聖霊様に拠っているからです。

 イエス様は聖霊様を私たち一人ひとりに送るために十字架に架かられました(ヨハネ16:7)。十字架以外に人間の罪の赦しは不可能です。また聖霊だけが、神のみ心を知っておられ、私たちに真理を解き明かしてくださるのです。真理とは罪について、義について、さばきについて(ヨハネ16:8-11)です。み心を行うには、聖霊様に聞くしかないのです。
 また聖霊様が来られることによって教会が誕生し(使徒2章)、教会はこれを送ってくださったキリストの霊で満ちている所(エペ1:23)です。聖霊なる神はもう終わったという奇妙な説は誤っています。三位一体の神は不変であり永遠です(へブル13:8)。

 ですから私たちクリスチャンは、聖霊様と共に歩むのでなければ、ただの力のない存在であって(使徒1:8)、み心を行って義とされ、神の栄光を現すことはできません。ではどうやって? 答えは簡単です。聖霊なる神と交わり、一つになる(1コリ6:17)のです。その土台は自分を無とされる徹底した罪の告白と悔い改めにあります。自分の義が少しでも残っていたならば、聖霊に満たされることは不可能です。しかし人は、自分が神に捧げきれていない所には自分で気づけません。内住される聖霊様だけがすべてをご存知ですから、神の愛を信じ、心から願い続け、必ず報いてくださることを信じるのです。

 なかなか聖霊の満たしやバプテスマが与えられないことを「聖霊は風、だれもその気ままさはわからない」と言う方がいます。これは神の御意思を尊重したようであっても、とんでもない思い違いをしています。第一に神は私たちを愛しておられます。第二に最善は私たち人間には分からず、神は最善しかおできになりません。第三に神は私たちの自由意志すら尊重してくださる全能のお方なのです。

 主と交わり、神のすばらしさを知って私たちは完全に変えられます。神のみ心を何が何でも行ないたいと願うようになるからです。祈りが自分の願い事から、神のみ心を行えるようにと強く変えられます。キリストがそうであったように、私たち人に過ぎない存在が、父の思いを知って、子として自ら進んで行おうとする者に変えられて行くのです。

2020年8月 2日 (日)

聖霊と教会

イザヤ55章8- 9節   新改訳2017

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

 本日のメッセージは、これまで二回にわたって聖霊なる神の学びを振り返りかつ、欠けていた教会との在り方追加するのが目的です。

(1)聖霊は三位一体の神であること。従って神を知り、神に聞き従おうとするなら、自分の内に住まう聖霊に頼るということが一番になります。〈✝1コリ2:11〉
(2)聖霊様はたぐい稀な人格をお持ちであること。知恵・意思・感情をお持ちの助け主、癒やし主。聖霊様は、神の愛の体現者です。〈✝ヨハ14:16〉〈✝エペ4:30など〉
(3)聖霊は真理のみ霊であって、罪について、義について、さばきについて明らかにされる。〈✝ヨハ16:8-1〉
(4)本日の中心~教会が聖霊降臨によって誕生したように、教会の頭はキリストであり、そのキリストが十字架に架かられたのは聖霊を私たちに送られるためであったことが最大のポイントになります。従って聖霊の働きがない教会は、どんなに聖書信仰を標榜していたとしても、力のない働きしか出来ません。
 そのような教会は水のバプテスマと聖霊のバプテスマを同一視しています。教会誕生のペンテコステでは、その場にいた全員が神とイエス・キリストをすでに信じていた人々で、水のバプテスマを既に受けていた人たちと言えます。またピリポによるサマリヤ伝道〈✝使徒8:16〉、雄弁なアポロによるエペソ伝道 〈✝使徒19:2〉からも、教会の発足当初からすでに、聖霊のバプテスマが水のバプテスマとは別物であったという認識を示しています。

 聖霊の賜物は教会の徳を高めるために用いられるものです。特に預言は旧約の時代から神のものか人からのものかが問われるのですが、新約時代は聖書と聖霊の内住という強力な吟味の土台があるので、預言は受け取る方が必ず吟味の上、用いられます。また礼拝時や教会に関わる預言の吟味は、教会の霊的責任者である牧師に委ねられるべきです。要は一つの神が言葉をくださるのですから、そこに混乱や分裂があるはずがなく、一致したものであることが見分けのポイントになるでしょう。

 最後に申し上げておきたいことは、聖霊の賜物は与えられたとしても自分の所有物ではないことです。み心に従って用いるよう、一時的に神から預けられているもの、管に過ぎないと言うことです。謙虚にし、これを忘れてはなりません。

 

2020年7月26日 (日)

聖霊とは

 ✝ ヨハネ 16章7- 8節   【新改訳2017】

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

 イエス・キリスト様の公生涯を通じて、弟子たちはイエス様が共にいてくだされば絶対的な安心を得ていました。嵐が来ようと、どんな病人や障害がある人が来ようと、何千人の人が食する必要があろうと、さらに権威や権力に頼る人々が悪知恵やたくらみをしかけて来ようと、これらのすべての結果は、驚嘆と神への賛辞に終わったのでした。しかし三度目の過ぎ越しを迎え、そのイエス様が自ら居なくなると予告されはじめられ、従っていた弟子たちに不安が生じるのは当然でした。

 しかし主は「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になる(ヨハ16:7)」と約束されたのです。その当座は理解できませんでしたが、実際そうだったのです。主はパラクレイトス(パラ=ご自分と同等の/クレイトス=助け主、慰め主)と呼ばれるもう一人の神、聖霊様を私たちに送って下さるために世に来られたのです。この神は三位一体の神ですが、私たちの内に住まわれることがおできになるのです。しかし神は」聖ですから、罪ある人には入れません。そこで神ご自身による購い、十字架の罪の赦しが必須だったのです。
 ここでハッキリしなければいけないことですが、罪とは何でしょう。人は本来善なる者として創造されましたが、一人の人、アダムによって、全人類が罪人となりました。皆さんは誰一人例外なく罪人であって、滅びの子なのです。しかしひとりの人の十字架を信じることによって、罪が赦され、聖霊様が住まわれる道が開かれたのです。つまり罪とはイエス・キリストを信じないこと、これが罪なのです。

 この聖霊なる神様とはどんなお方なのでしょうか。心しなければならないことは(神格と書けば誤解されますので)人格をお持ちであると言うことです。私たちが助けを求めて聖霊様に祈ったり、交わろうとするのも、もし人格をお持ちでなかったら機械や物に向かってすることになり、それこそ笑い話です。逆に人格をお持ちになるからこそ、人格の特徴である次の三つのこと…1聖霊の賜物を誰に賦与するかを決める(使徒15:28・16:6-7※しかしあくまでオーナーは聖霊様です)、2聖霊様は神のみ心を完全に知っておられる(1コリ2:10-11)ので、み心を教えてくださる、3さらに感情をもお持ちなので、私たち一人ひとりに悲しんでくださったり痛んだりしてくださる…・を忘れてはならないと思います。
 聖霊なる神は私たち一人ひとりの霊・たましいに親しく交わってくださり、決して見放されず、愛し尽くしてくださる驚くべき神です。何という恵みでしょうか。私たちはこの方と共に世に在って生きるのです。

2020年7月19日 (日)

聖霊

  民数記 11章29節   【新改訳2017】

モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。【主】の民がみな、預言者となり、【主】が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

 モーセが民を導いた荒野の四十年は過酷な道でした。出エジプトの栄光はどこにあったのかと思われるほど、イスラエルの民は主なものだけでも十数度、数え切れないほど神とモーセに不平不満と反逆を繰り返しました。モーセは塗炭の苦しみを味わったのです。遂にモ-セは「主の民がみな預言者となり、主がかれらの上にご自分の霊を与えられると良いのに」と言いました。この時分け与えられたのは民の長老七十人でしたが、千五百年後に、このモーセの言葉は現実になりました。神の子イエス・キリストを信じる者は、そのすべての罪が十字架によって赦されたからです。
 大事なことは、十字架で罪が赦されたのは、聖霊を受けるためであったと言う事です。聖霊は罪ある中に住むことは不可能です。義にして聖なる存在だからです。信じる者に内住される聖霊は神であり、真理の御霊であり、パラクレイトスと呼ばれる助け主、慰め主です。真理の御霊は罪について、義について、さばきについて私たちに解き明かしてくださるのです。

 さて、御霊の満たしと聖霊のバプテスマとは混同される面がありますが、聖書では聖霊のバプテスマを受けているはずのパウロが、「聖霊に満たされ」て魔術師バルイエスをにらみつけ、しばらく盲目になるわざを行っています。これらから聖霊のバプテスマと言う明確な個人的な体験後にも、聖霊による満たしは適宜起っているのです。私たちの群れでは「聖霊のバプテスマとは聖霊の満たしの最初の現れ」と定義しています。聖霊の満たしによって起こることは、もちろん神の働きであり、顕著な神の栄光と実りをもたらすものです。神に不可能はないからです。逆に聖霊に満たされた働きでありながら、何だか訳の分からないものになったということはあり得ません。それは神からのものではありません。

 さて聖霊は真理の御霊、光ですから、隠れた人の罪を明らかにします。その結果、自分の真の姿=罪そのものの自分が明らかになり、己ではなく神に全ての希望を見出すようになります。つまり自分を捨て、神に自分を委ね、神に聞き従うための献身という強い動機をもたらします。聖霊のバプテスマや満たしを受けたと言いながら、この真理の御霊の働きが実として現れないことはなく、その場合は今一度、強く求め続けるスタートラインに戻る必要があるでしょう。聖霊の満たしは、それほど熱心に強く求める値打ちのあるものです。

2020年7月12日 (日)

とげの付いた棒

使徒 26章14節   【新改訳2017】

私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』

 パウロが語られたように、牛などの家畜に使う、とげの付いた棒を人が蹴れば痛いのは当然です。それに類したことを、私たちクリスチャンが祈りや願いの中でしていないでしょうか。それは痛い結果となります。

 実は今朝、私は癒しを求めて祈っておりました。七十近い高齢者になったせいでしょうか、思ってもみなかった故障というか、次々と課題が体に出てきました。例えば目の乾燥や緑内障、昔からですが鼻づまりや原因不明の鼻アレルギー、崩壊寸前の歯並び。耳鳴りも時々登場するなど、頭部は課題のオンパレードです。そこで、それらが癒やされるよう洩れなく祈り続けていましたら、最後に何か大切な所を忘れていたような気がしたのです。「そうだ、頭の中味、脳のことを祈っていなかった」と気づきました。おまけのように「主よ、私の霊、魂があなたに忠実なものとなりますように。どうか御心第一にして歩めるよう霊を増し加え、罪を癒やし、回復をを与えてください」と祈りました。するとすぐに<一番最後が頭の中味、霊ですか?>と示しがありました。「順番が逆でしょう」と言う叱責であると分かりました。そうです、順番、何を第一とするのか、神さまに対しては順番(プライオリティ)が大切なのです。後は添えて与えられる(✝マタイ6:33)からです。

 癒やしの祈りは否定しません。しかしそれが単に「目を、鼻を、耳を」と願うことは、自分のために神を使っているのではないでしょうか。自分本位の肉的な祈りになっているのだとしたら、それは聞かれないという痛い目に遭うことになります。
 そもそもクリスチャンの病は、それを神が許されているということを忘れてはならないでしょう。それなのに「神よ、どうしてこの病なんだ、神なら癒してくれることが御心のはずだ。早く直してくれ」とばかりに祈っています。これは不遜な、神に聞かれるはずのない祈りです。

 その前に、先ず神に自分の全てを神に捧げ委ね、全てを感謝し、状態を省みましょう。また御心を求め祈った後ならば、それがたとえ死に至るものであっても、感謝し、最善として受け入れます。私たちはすでに主のものとして渡されているのですし、血肉の体は必ず滅ぶものだからです。
 こうして今許されている病、症状は神が許されていること。それゆえに順序を間違えて祈ってはならないことに気づかされたのです。トゲのある棒を蹴るのではなく、至高の神の招きに応じ、どんな状況も徹底的に感謝することがポイントです。人の目には益に見えなくても、計り知れない神の祝福の計画があります。神を信頼します。

2020年7月 5日 (日)

愛の苦しみ

詩篇 105篇17~19節   【新改訳2017】

主は一人の人を彼らに先駆けて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。
ヨセフの足は苦しみのかせをはめられその首は鉄のかせに入れられた。
彼のことばがそのとおりになるときまで【主】のことばは彼を錬った。

 先週お伝えした神との直接の出会い、それは自分が根本から変えられるもの・・・・つまり、聖霊の満たし、聖霊のバプテスマですが、そのことをあたかも結婚前の男女に見られるような「おのぼせ」に例えたりしました。しかしそれでは真実を伝えていない部分があり・・・・今回は、その後の少し熱が冷めて実際的な生活に入った部分をお伝えしなければならないと示されました。それで「愛の苦しみ」という題にしました。
  先週のケンピスの言葉に「キリストとともに生きたい人は、先ず自分の自分自身に死ぬことが必要である」(p126)がありました。そのすぐ続きに「おお、いつ神のみが私のすべてとなり、私のすべてが神と一つになれる日が来るのだろうか」と嘆いています。ケンピスですら難しいことなのです。実際、神と一つになるまでは、この世において私たちは完全な幸せにはなれないことも分かっています。

 ではどうすれば良いのでしょうか。それはキリストに従うこと、自分を棄てることに力を尽くすことしかりません。自分の肉が死ぬことには、痛みが伴います。それはちょうど結婚式を終え、落ち着きを取り戻した男女が直面していく、様々な問題にも似ています。決してバラ色ではありません。まさに神を愛するが故の苦しみが営まれて日々でもあります。残されている己の肉との絶え間ない戦い、葛藤がつきまとうのです。肉を完全に絶つことは困難ですが、だからといって妥協し、あきらめる道はあり得ません。
 例をあげてみましょう・・・・〇兄弟や世の人にも、その良くない点や過ちに耐え、悲しみ、より愛せるように祈る、〇隣人の良い模範や美徳を、我がことのように喜ぶ、〇食卓で、自分よりも他の人によりよいものを取り分ける、〇自分の好き嫌いを放棄する・・・・等。

 キリストを愛し、従うことはキリストがされたように、キリストがされるであろうように生きることです。私たちはキリストを愛するが故に、この血肉のいのちがある間中、戦い耐え続けて全うしていくのです。聖霊なる神が唯一の助け手です。
 「受けるより与える方が幸いである」(使徒20:34)とパウロが語ったように、パウロもまた、キリストを愛する苦しみ、その生涯実践しました。ヨセフは13年牢屋に入れられ、手枷足枷の中で忍耐し、最後にはエジプトの宰相になり、自分の家族への夢を実現させました。一方パウロは牢獄の中で処刑されて死にました。しかしパウロによってユダヤ教から新宗教キリスト教が誕生し、真の世界宗教へと脱皮させた、最大の功労者になりました。
 キリストに従った結果、世での栄誉を受けるか、刑場の露と消えるかは問題ではありません。ただキリストを愛し、神と一つになるれる希望をもって、そのためにどれだけ苦しんだか、そしてなお祈りかつ喜んだかが、天に生きる者のすべてなのです。

2020年6月28日 (日)

キリストに生きる

  ✝ピリピ 1章20~21節  【新改訳2017】

私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

 誰にでもある「死ぬことへの恐れ」、サタンはこれを最大限に利用します。約80年前の太平洋戦争がこの代表で、ABCD包囲網に対し、「このまま座して死するよりは」と真珠湾に奇襲攻撃をかけました。殺人すらアメリカでは正当防衛なら無罪になるのです。
 人を支配する専門家であるサタンは、死への恐れを存分に用います。精神の病に苦しむ多くの方が、傍目には理解できない自己生存の危機を抱えています。クリスチャンにおいてすら、死への恐れが払拭できないのであれば、残念ながらサタンに支配されてしまうリスクがあり、永遠の滅びに引き釣り込まれる可能性があります。サタンの巧妙なこの策略に対し、クリスチャンは抵抗し、戦わなければなりません(2コリ2:11、エペ6:12)

  「キリストに生きる」と言う今日のテーマは、そのHow to、<どうやってサタンと戦ったらよいのか>です。悪霊と「戦え、戦え」と勇ましく進軍ラッパを聞いても、そのHow toがなければ、どうやって戦えるのでしょうか。昨夜、昨夜トマス・ア・ケンピスの「涙の谷における薔薇の園」を読んでおりますと、以下の言葉がその答えとして私に響いて来たのです。「人は、神を熱心に愛すれば愛するほど、死への恐れが少なくなり、そのためむしろこの世を去って、キリストとともに幸せに生き、天使たちとともに永遠に喜びたいと熱望するようになる」(上掲p51)
 みなさん、神さまに夢中になっておられますか? 朝ドラ「エール」は文通で結婚した夫婦ですが、私の場合、今の時代のようなSNSがあったわけではなく、90年前のエールとまったく同じ文通がその方面の青春のツールでした。ところが実際会ってみると、なんとなくイメージが違ってたみたいな、突然トーンが下がってしまった経験があります。ところが神さまは違います。実際に神さまと実際に触れられる、また体験をしますと、本当に夢中になってしまうのです。ケンピスの「熱心に愛すれば愛するほど」は、これをよく言い当てた表現だと思います。知ることで価値観が180度変わり、夢中になり、神さまが自分のすべてになります。そしてこれは覚めることのない永遠なのです。

 妙な結論ですが、人間の努力とか力で神を心から愛すること、骨の髄まで愛することはできないことであると思います。心から求めていても、自分があっては叶いません。ちょうど良い時に神に触れていただき、全てが始まります。そうすることで神を知り、自分よりも神を愛するようになれます。その時、自分の肉体の死への恐れは、失われているのです。こんなクリスチャンに対し、サタンはもう、どうすることも出来ません。
「生きることはキリスト、死ぬことは益」とピリピ11:21でパウロが述べている通りです。

2020年6月21日 (日)

偽り

 Ⅰペテロ 5章5節   【新改訳2017】
 同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

 私たちは神を信じています。しかし神の弟子となり、従う者となっている人は極少数ではないでしょうか。主イエスの「自分を捨て、自分の十字架を負って」のことば通りに、自分は常に自分を捨てていると言い切れる方がどれほど居るのかと同じだからです。

 キリストの弟子は無私でなければなりません。自身が神への捧げものであり、神のものになっているはずです。世の霊と力に対抗し、戦い、肉体の死に至るまで神を信頼し、その勝利を証することがクリスチャンの生き方であり、どこまでも神に栄光を帰し、謙遜であるはずです。しかし現実には全く不十分なクリスチャンがほとんどであり、天国行きの切符をゲットしたとして安心しきって、世人と変わらない生活を送っているだけなのです。クリスチャンだと言いながら、嫉妬や肉欲に支配されているならば、その方は真のクリスチャンではありません。物欲、出世欲、気づきにくい所属欲などに心を奪われていては、神の目から見るなら、悪霊の実を実らせているのです。

 私もそうでしたが皆さんも、初めからこれらに勝つことは出来ないと諦めているおられるのではないでしょうか。神の愛も力も知らないので、そう思われるのです。どうして神の力がその人に現れないのでしょうか。聖霊さまがおられないか、またはあまりにも小さな存在なので、聞けないのです。神をそのように扱う救い難い自己中心の霊というか、高慢さが内実なのです。それに目をつむって、自分の現状を正当化しているのです。聖霊なる神をいつまで侮り、聞かず、悲しませ続けるのでしょうか。

 自分より他の人がすべて優っているといつも思いましょう。逆に自分が人より優っていると思うなら、大いに害があるのです。自分が蔑まれ、落とされるなら主の受難を偲び、与れたことを喜びましょう。どうして怒りの、妬みの感情が湧くのでしょうか。自分をよく知る者は、自分の無価値さを知っています。真の平安は、へりくだりの中にあります。

 残念ながら謙遜には自分の力でなれません。神の助けが必要であり、それなしには不可能です。ですから私たちが謙遜し、へりくだるなら、ますます神に栄光を帰し、へりくだる者となるのです。神の平安と愛の中、自分のことなど本当に小さい、わずかなことと知るのです。そこで初めて自分から解放された平安の恵みが訪れているのです。

「神は高ぶるもには敵対し、へりくだる者には恵みを与えられる」(1ペテロ5:5)です。

2020年6月14日 (日)

一つになりたい-may be one-

ヨハネ 17章22-23節        【新改訳2017】

またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

  先ほど特別讃美曲「通り良き管として」で「あなたと一つになりたい」という歌詞がありました。英語ではmay be oneです。ちょっと驚きました。直訳調で言えば「一つになるため」ではなく「一つになれるかも知れない」って、期待的なんですね。
 この章はイエス様がこれから十字架に架かり、その先の復活もペンテコステも未だという段階です。世を去るにあたって、イエス様が最も心しておられたことは「弟子たちが一つになる」ことでした。何と一つになることでしょうか。それは弟子たちが団結して一つになることではなく、聖霊の神の支配によって、一つの御霊のものとなることだったはずです。なぜならそのためにこそ、これから十字架の御業を成し遂げ、復活とペンテコステによって最終的に「一つになる」ことが完成するからです。

 見逃せない点は、ペンテコステが信じた者における聖霊のバプテスマであったことです。つまり聖霊のバプテスマを受けていなければ、どんなに神を信じていようと、一つにはなれないのです。今日の教会のほとんどの問題が、この一点にあると言って良いでしょう。かつてキャサリン・クールマンはそのミッションスタッフについて、聖霊のバプテスマを受けていないスタッフとは、共に仕事をすることは出来ないと明言しました。それは当然なことであり、今も同じです。

 ですから私たちは主イエスが祈ってくださったように、聖霊の内住に留まらず、聖霊のバプテスマを求めましょう。問題は聖霊のバプテスマの認定です。明確な体験があることが目安になります。自分が受けたかどうか分からないような聖霊のバプテスマがあるでしょうか? また神さまとの体験をされた方で、はっきりしない方、その方は祈り求めてください。may beですが、必ず与えられるはずです。

 聖霊のバプテスマは、九つある聖霊の賜物以前に新生を伴い、その聖霊の実を実らせます。私は賜物よりも実の方を重く見ます。祈りましょう。受けた人はますます注がれ続けられるように、受けていない人は荒野でマナを求めるように、あきらめず熱心に祈り求めましょう。神はあわれみ深い方なのですから。

2020年6月 7日 (日)

生き返ったラザロ

ヨハネ 11章43節   【新改訳2017】
 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」

 なぜすぐにイエス様は行かれなかったのでしょうか?まず押さえておきたいことは、ベタニアはエルサレム滞在時にはここを本拠としておられたほどのエルサレムから数kmの距離であって、イエス様にとって今や危険な所です。そのためかイエス様たちはヨルダン川の向こう、ペレアに滞在しておられました。その事情を知っていたか、あるいは慎みのためなのか、イエス様に送った使いでも、マルタたちは、危険な病状にも関わらず「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者(ラザロ)が病気です」とだけしか知らせませんでした。しかしそんな気遣いもイエス様はこの事態について逐一承知しておられ、神の栄光の計画に織り込み済みのことだったのです。
  聖書にはイエス様の三つを含め全部で七つの死人が生き返った記事があります。そのほとんどが死んだ直後のケースでしたが、このラザロの生き返りだけはまったく異なります。ラザロは死んで四日経ち、すでに腐臭ただよう状態だったからです。腐乱死体を再び生きた元通りにするとは、世界の歴史始まって以来、空前絶後の出来事です。マリアの処女の受胎と同様、どのような説明も不可能です。人は信じるか、信じないかのいずれかです。

 この生き返りは最大の祭りである過越の祭に集まって来た大勢の人々が見ることとなり(ヨハネ12:9)、イエス様の都への入場の際にはなつめ椰子の枝を手に手にもって「ホサナ」と叫ぶ、大群衆へと成長したのです。この事態は時の権力者たち祭司長やパリサイ人にとって、自分たちの権力基盤が崩壊するかどうかの瀬戸際に追い込むことになりました。

 それゆえ、どんな手を使ってでも、祭司長やパリサイ人はイエス様の存在を抹殺する緊急事態に追い込まれ、何があってもそうする決心に追い込まれたのでした。つまりラザロの生き返りはイエス様が神であることと、そのイエス様を殺そうとする決心を固めさせた二重の結果を伴ったという事になります。ラザロの生き返りは、神の時が満ちたことを現す出来事でした。生と命を完全にコントロールされているこの神を、私たちは信じているのです。私たちを愛して、永遠のいのちを十字架によって与えてくださった神を崇め、心から讃美しましょう。

2020年5月31日 (日)

渇く人

ヨハネ 7章37-38節   【新改訳2017】

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 本日はペンテコステです。さて聖霊降臨日である本日のテーマですが、聖霊という霊的な満たしに飢え渇いている人は、本人にはそうは思えていないでしょうが、実は幸せになれる可能性が大きい人なのです。逆に渇いていない、そこそこ今の生活に満足しているクリスチャンライフを送っておられる方に、永遠につながる平安や喜びは遠いのです。

 自分自身に罪深さを認め、その癒やしと満たしを求める渇きがある方、神はそのままにせず、通される道はあるでしょうが、やがて必ず答えてくださる、あわれみ深い方であることを私は知っています。探し求めたその先には、やがて神の真の祝福を見出されることでしょう。しかし渇きのない人には、それがありません。馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないのです。

  さて今一度、聖書での「渇く」この意味を探ってみましょう。イスラエルのパレスチナ地方は空から見ますと、東に広大なアラビア砂漠があり、乾期になるとそこからの熱風に見舞われる地域です。この期間は雨が降らず、ほとんど半砂漠地帯となります。この乾燥の厳しさは、私たち日本人には想像が難しいほどです。
 このパレスチナではヨルダン川以外はオアシスか井戸しかなく、大半はワディと呼ばれる涸れ川となり、半年以上も強烈な乾期が続きます。大地は干からびていますから、11月からの雨期に雨が降ると、大地を潤すことなく、たちまち洪水のようになります。ですから一年中流れの尽きない川とは、貴重な命の源であり、たとえようもない価値を持ちます。

 この文脈でヨハネ7:38「生ける水の川」とイエス様が言われたことは、次のような意味があるようです。一つは罪が無かった時代のエデンの園の回復であり、またそれは黙示録22:1でいう「いのちの水の川」という、天の国の実現成就を現したことであること。神イエスの十字架なしに私たち人間の罪は贖われず、助け主聖霊様も人が罪あるままでは内住が困難である。この地では水はいのちそのものであった。こうしてみると、イエスの十字架がすべての土台であったことがわかる。神の愛が十字架を通して現されたのだ。また水は一度で良いというものではなく、飲み続けなければならないものだ。それはふだんの神との交わりの大切さ、祈りの恵みと言うものを指している。それゆえに、私たちは常に渇くのだ。

 十字架によって私たちが神の愛を知るなら、常に祈りを通して、いのちの水の川から霊的な祝福、涸れない恵みを受けて行こう。受ければ受けるほどますます神の偉大さを讃美し、自身を謙遜にしてくださる恵みである。

2020年5月24日 (日)

信じる者は永遠のいのちを持つ

ヨハネ 6章47節   新改訳2017

まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。

 先ほど使徒信条を交読しましたが、私たちの東京アンテオケ教会ほか、カトリック教会まで含めて、ほとんどのキリスト教会は使徒信条を自分たちの教会の信仰告白にしています。また〇〇教団とか単立〇〇教会と、それぞれ特徴を持った教会がたくさんありますが、実際には教会は一つしかなく、このことを普遍的キリスト教会と言ったりします。

使徒信条(しとしんじょう)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン

 ですから使徒信条は聖書ではありませんし、聖書以上のものではありえませんが、本当の教会であるかどうかのバロメーターになるものです。どうしてでしょうか。それは三位一体を明確に現しているからです。つまり、極めて初期の段階から三位一体を否定する異端は、イエス・キリストを最高度の人物のように扱いながら、どうしても人間としてしか見ようとしなかったことをあらわしています。実際、現代でも「エホバの証人」「モルモン」などは、イエスが神であることを認めません。これは二千年間も続いているサタンの攻撃なのです。

 しかし、イエス・キリストが神であることを信じることが、使徒の時代から受け継がれてきた普遍的な教会の信仰であり、それは、イエスが聖霊による処女降誕であること、十字架で死んで復活し、今もなお神の右に座しての審き主であることを信じることでした。

  1世紀、140年頃のローマ信条に使徒信条は由来があり、数百年かけて現在の形になりました。つまり使徒の信仰をもっとも表していると言う意味で使徒信条と名づけられているのです。またこれはおそらく使徒の時代直後からずっとバプテスマの前に、査問会のような信仰を問う場において投げかけられる問いでもあったとされています。

 ですからみなさん、謙遜に謙虚になりなさい、賜物の働きは、注がれば注がれるほど人を畏れさせ、謙虚にさせる。リバイバルの大いなる注ぎの前に、神のものを自分のものにしないように、心からの徹底した謙虚さが前提です。高慢さというものは最大の敵です。私たちは自分の霊、魂の状態に目を醒ましていなければなりません。

2020年5月17日 (日)

ふさわしくない者

マタイ 10章38節   【新改訳2017】

 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 人はどのようにして神にふさわしくなれるのでしょうか。もし、自分の力でそれが可能だと思っていたとしたら、私の見方ではある意味、自分が分かっていない迂闊な人か、あるいは思い上がっている人なのと思ってしまいます。けれども多くの方にとっては、聖を前にして我が身の至らなさ、醜さに苦しんでおられるのが実状ではないでしょうか。しかし神が聖としてくださることはみ心ですから、あきらめない限り、時が来た時に成就し、喜びに変わるのです。<1テサ5:23,1テモ4:5,ヘブル10:10>

 では自分が御国にふさわしくないと思っているままで良いのでしょうか。断じて違います。ここが大切分かれ目になります。私たちは必ず、神を愛し、天への希望が本物なのか、忍耐が試されるのです。早々にあきらめる人は、もともと良い地ではなかったのです。これを思う時、わたしは「富める若人」の話を思い出します<マタイ19:16>。 この青年は富と家柄に恵まれていただけでなく、「永遠のいのち」に深く関心を持つ超まじめ青年でした。その彼でも「自分が永遠のいのちを受けるにふさわしくない」ことを知っており、苦しんでいたのです。そしてこれが最大の問題ですが、彼はこれまで以上に「どんな良いことをすればよいのでしょうか」と、なおかつ自分の行う力に希望を持っていたのでした。

 イエス様は彼の模範的で真摯な生活を認め、慈しんで言われました。「あなたの全財産を貧しい人に施して天に宝を積み、その上で、わたしに従って来なさい<マタ19:21>」と。これを聞いた青年は、それが出来ないので悲しく立ち去ってしまいます。これは行いでは不可能であることを示しています。
 これを聞いていた弟子たちが「それでは誰が救われるのでしょう」と疑問を持つのです。イエス様が厳かに語られたのは「人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます<マタ19:26>」。これが信仰だと私は思います。つまり信仰とは自分に対する行いへの希望ではなく、与えられることへの信頼であり、確信なのです。

 このように私たちは、自分の力で実を結ぶことは出来ないのですから、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のたとえの通り、ますます神に対して謙虚になるしかありません。しかし一方で、まるで自分で得たもののように誇る人たちも出てくることでしょう。それぞれの実が見分けのポイントになります。それは神に全ての栄光を帰す謙虚さです。

 このような視点で,自分の罪に気づき、己がふさわしくないと悔い改めを歌ったアメージング・グレイスに私は感動します。日本語では聖歌「驚くばかりの」を共に讃美しましょう。この曲には天国への道が開かれています。

2020年5月10日 (日)

新しい皮袋

ルカ 5章37節  新改訳2017

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。

「新しい皮袋」聖書由来のことわざには「目から鱗」「豚に真珠」と本日のこの「新しい酒は新しい皮袋に」とあります。但し聖書から正しく理解するならば、かなり意味が異なって来ます。
 まずこのたとえは断食についてのパリサイ人の質問から始まりました。パリサイ人たちはイエス様の前に陣取り、カペナウムでの中風の人の癒やし以来つきまとい、このような質問をして様子をうかがっていました。ですからこのたとえの、古い葡萄酒と古い皮袋とは何を指すかがポイントになります。

 パリサイ人らにとって、断食は<施し><祈り>に並ぶ重要な宗教的な行いでした。断食をしないイエス様について、バプテスマのヨハネの弟子たちですら疑問に思っていたのです。これは花婿として来られたイエスのメシア性を理解せず、古い律法の枠内でしか理解できなかった彼らの限界を示しているのです。イエスは十字架の血による新しい葡萄酒であり、律法の縄目を解き開き、天への道を開く預言の成就、花婿たるメシアでした。新しい皮袋、新しい律法としてイエス様の説く福音を受けなければならないのです。

 しかしパリサイ人たちは神のことばをタルムード(口伝律法とその解説)などの人間的な理解に置き換え、これを金科玉条とし、ただ形式的に守ろうとするだけであって、イエスの神性、預言の成就をないがしろにしました。ですから古い酒と古い皮袋とは彼等のことであり、キリストの福音を受け入れられずに滅ぶたとえなのです。

 イエスの到来はメシアの時代の到来、喜びの婚宴の始まりでした。悟れなかったパリサイ人は、この場で何か衝突は起こすことはありませんでした。しかし、一言で言えばこれはイエス様の宣戦布告です。国の権力者たちと、民衆しか後ろ盾がない田舎出の一人のラビとその弟子たちの戦い、その後、すべては神のロードマップ通りに進んで行くのでした。

 新しい葡萄酒は発酵し続けます。今日的な課題として、私たちがいつまでも新しい葡萄酒を受け続け、その入れ物となるためには何が必要でしょうか。神はいつの時代でも不変であり、永遠です。それならば私たちに必要なことは「新生」です。私たちは罪深く、自己中心であって、自分の力で神に自分を捧げたり、聖化にあずかることは出来ません。己の真実を知って悔い改め、また神の絶大な偉大さ、その愛とあわれみを知った時、飢え渇きを持って新生を待ち望むことができます。神によって与えられる新しい霊と、その聖霊が自分の主として従い、愛し、進んで神の御心だけを行う者として、新しい人生を歩む者とされましょう。まだの方は共に節に祈り求めましょう。新しき皮袋へと。

2020年5月 3日 (日)

9人はどこにいるのか

ルカ 17章11~19節   【新改訳2017】

11 さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。
12 ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、
13 声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
14 イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
15 そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
17 すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
18 この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
19 それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

 本日の聖書箇所は、イエス様が十人のツァラト(重い皮膚病、以前は癩病と訳す)で苦しんでいた人を全員癒やされた記事です。しかし大喜びで神をほめたたえ、感謝しに戻って来たのは、神を知るイスラエル人ではなく、異邦のサマリヤ人でした。イエス様の「(残りの)九人はどこにいるのか」と嘆きが心に響きます。

 この九人はこれまで社会から隔離され、差別され続けた人生でした。十人にとって癒やしは、どんなに喜びであったことでしょうか。しかし九人にとってはそれが信仰に結びつきませんでした。いわば神への忘恩の徒になったのです。どんなに癒やされても、罪が赦され、救われなければ、必ず来る滅びからは免れません。

 私たちの群れの大きな特徴は、1テサ5:18<すべてのことにおいて感謝しなさい>にある通り、どんな悪いことでも感謝する信仰です。ですから交通違反で切符を切られても「か、か、感謝しま~す」、仕事で失敗し上司から注意されても「か、感謝します」と告白します。しかし多くの場合、感謝の喜びではなく、引きつった顔で、ただ口先だけで言っているのではないでしょうか。もちろん、呪いの言葉や腹いせの言葉を吐くよりははるかによいでしょう。しかし神は心を見られます。その神の御前に立ち、失敗であれば先ずそれを悔い改め、その次に「このことが赦されたこと」に対し、その御心を心から感謝する者として、神への信頼と信仰を告白する者でありたいと思います。

 では感謝とはどういうものか、今一度振り返ってみましょう。故マーリンさんの著書「獄中からの賛美」に「サタンは、神の許可を受けなければ、わたしたち(クリスチャン)に対して、指一本触れることができない」(p120)という下りがあります。ただしこれは、神に自分を完全に献げていること、つまり神のものとされている信仰が前提になります。マーリンさんのことばは、聖書のヨブ記やローマ8:28からも正しいのです。つまり世的な基準や、自分の人間的な判断では、どうみても悪いこととしか思えないことであっても、それは神が「良き計画」として許されたことです。それ故にそれを受ける私たちは、どんなに悪いこととであっても、心から感謝できるはずですし、実際、喜び感謝するのです。

 神は人の思いを超えた、はるかに素晴らしい最善しか、おできになれない方です。実際私の体験でも神が許され、なさったことは、何もかもが素晴らしいことでした。ですからどんなことにでも心から感謝し、喜び、また迫害する者のために祈り、その祈りの力を求め、まず自分を無にし差し出すならば、神は最善に変えてくださるのです。

2020年4月26日 (日)

自分を捨て自分の十字架を負って

マルコ 8章34-27節   【新改訳2017】

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。

 聖書では「悪は、みな内側から出て来て、汚すのです(マルコ7:23)」とあるように、人とは罪深い存在です。その罪深さを認識するかしないかが、各人の生き方に決定的な違いをもたらします。さらに言えば、イエス・キリストの十字架の愛を知らずして、この望み無く救われ難い己の罪深さに向き合えません。

 昨日の土曜日の仕事中でのことでした。スタッフの雑談でこんな話を聞きました。子どもたちに命の大切さを教えようと、「命っていくつあると思う?」と尋ねた時、なんと「二つある」と答える子がいてびっくりしたと言う話でした。心の中でですが、「その子は間違ってなんかない」と私は思いました。

 私たちの信仰は、イエス・キリストの十字架の死と復活の二つのいのちにあります。はじめの血肉の命は、もう一つのいのちのためにあります。もう一つのいのち、それは霊体ではなく、最終的には血肉にまさる御霊の体となります。この滅びない御霊の体を持って、天のエルサレムで神と共に生きることこそ、私たちの目的です。ですからこの二つ目のいのちをめざし、「自分を捨て、自分の十字架を負って」この世を歩んで参ります。

 ただし、この「自分を捨て」が容易ではありません。それどころか自己中心という罪深い己の罪性に、自分の力でできることに絶望しています。それでただ、神のあわれみと愛に依り頼み、期待するしかない自分があります。そのことを「自分の十字架を負って」と理解しています。どんなに祈り願っても、神に自分を捧げ尽くすことができない自分。その罪深い自分を偽らず、ありのままに赦され、十字架として負い続ける意味であります。

 今回、38節の「恥じる」意味に示しがありました。「拒む」と同義語ですが、どうして「恥じる」のでしょうか? 「恥じる」とは、迫害の時代にあって信仰を問われた際、クリスチャンと告白できなかった人が、後になって良心を責められ、悔い、恥じるという「恥じる」の意味だと。その人は血肉の命よりも霊のいのちを優先できなかったのです。しかし主はそれに対して明確に答えておられます、「私も恥じる」と。
 迫害では、取り調べで役人たちが「なあに、そんなに深刻に考えなくてもいいんだよ。ただ踏み絵を一度踏むだけで助かるんだ。信仰はお前の心の中で守り続ければいいじゃないか」と囁くことでしょう。しかしイエス様は明確にそのことを「ノー」と言っておられるのです。主を辱める事のないよう、第二のいのちを得るよう、目を覚まして祈り備え、全てをご存知の神の力に期待し続けましょう。

2020年4月19日 (日)

疫病の時代

Ⅱ歴代誌 20章9節   【新改訳2017】

『もし、さばきの剣、疫病、飢饉などのわざわいが私たちを襲うなら、私たちはこの宮の前、あなたの御前に立ちます。あなたの御名がこの宮にあるからです。そして、私たちは苦難の中からあなたに叫びます。あなたは聞いて、お救いくださいます。』

 今年になって、疫病の新型コロナウィルスが世界的な大流行(パンデミック)となりました。3月1日にも触れましたが、今回、さらに対応と言う面で語ることを示されました。

 その時にも触れましたが、人類が経験したのは今回が初めてのことではありません。14世紀、雲南省から全ヨーロッパに猛威をふるった黒死病(ペスト)は、致死率60%の恐るべきものでした。イタリアのジェノバでは人口6万が2万4千人になりました。40度の熱が発症したかと思うと直ちに呼吸困難になり、数日で死んだと言われます。
 それ以後、15世紀の天然痘、百年前のスペイン風邪、32年前の香港風邪や、最近数カ国内で抑え込みに成功したSARSなど、その多くは中国発でしたが、世界は疫病に見舞われ続けて来たのです。

 一羽の雀でさえも神の許しなしに地に落ちることはないのですから、通常このような疫病は神の許しなしには起こり得ません。ではクリスチャンはどのように対応したら良いのでしょうか。
 勿論多くのクリスチャンは自分が罹患しないように祈られることと思います。しかし今回、私が示されていることは、この病は信じる者信じない者の区別なく罹患するだろうと言うことです。「え~っ、それじゃあ、信仰の意味がない」と思わないでください。要するに御利益信仰では効果は無いと言う意味です。しかし神の力は罹患した後、はっきりと現れるのです。神の力と栄光をクリスチャンは感染して現すのです。神は愛する者を訓練し、苦難と困難の中で守られ、触れてくださり、栄光を現されるのです。

 私たち神を信じる者に常に問われるのは、神は自分のための魔除けや御利益をもたらすために信じているのかと言うことです。ある意味、困難にあって「自分は神から見捨てられた」、とか「沈黙して答えて下さらない」と思うのは、自分が神となり、神を自分の思う通りに従わせようとしているからです。それを高ぶりと申します。そうではなく、私たちは自分に死に、死んで初めて神の証人となるのです。

 これからイギリスの北アイルランドで、今回のコロナウィルスに罹患した、ある牧師のFaceBookビデオを観ていただこうと思います。重要なことは、この牧師が体験された言葉だからこそ、百や千の言葉に優って私たちの心を捉えると言うことです。罹患したからこそ、生きた神の証し人、証人となったのです。

2020年4月12日 (日)

イエスの復活

Ⅰコリント 15章3-6節   【新改訳2017】

 キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。
 かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。
 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。
そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

 約二千年前、主イエス様がよみがえられたことを祝う日が来ました。教会暦で唯一の移動祝祭日です。よみがえりに関して、聖書には七つの生き返ったという記事があります。しかしイエス様の甦りはこれらの七つとは、全く別物であって、空前絶後の出来事でした。このよみがえりを、今朝はリアリティを持って信じることを考えてみたいと思います。

 まずイエス様のよみがえりは、人の手に依らなかったものです。次によみがえった体は、まったく異なった、不死にして超自然的な御霊の体でした。御霊の体・・・それがどれほど人の理解を超えたものであったか、その姿を見た弟子たちがいかに狼狽し、なかなか信じられなかったかを見ていきましょう。

 弟子たちはよみがえりをあらかじめ、幾度も聞いていました(マタイ16:21、17:9・23、20:19、26章:2)。それがいざ現実にとなると、なかなか信じることが困難だったのです。
 女たちが日曜日の朝、最初に行きましたが、よみがえりを期待してではなく、正式な葬りの準備をするためでした。マグダラのマリヤは空の墓を見ても、誰かが遺体を移動したとしか思えませんでした。マリヤの報告を聞いても、弟子たちは信じることができませんでした。ただヨハネだけが、空の墓を見て即座に信じたのです。

 あまりにも弟子たちが信じようとはしないので、その夜主は、弟子たちの前に現れて、信じようとはしなかった頑なさをお責めになりました。しかしそれでも弟子たちは、幽霊だと思ってしまったようなので、イエス様はご自分の手や足、脇を触ってみなさいと語られ、彼らの目前で食事を摂られました。御霊の体の主を前にしても、弟子たちはこれほど信じることができなかったのです。
 イエス・キリストのよみがえりの仕上げは、五百人の前に現れることでした。これだけ大勢の人が同じ情景を同時に見て、全員が同時に幻や夢を見たと否定することは不可能です。つまり、イエス様のよみがえりは、それが事実であったと信じるしかありません。

 この時、弟子たちはまだ聖霊のバプテスマを、受けてはいませんでした。つまり人間的な判断しかできなかったのです。しかし今私たちは、聖霊によって、命に優るこの大いなる希望を信じ、実際に得ています。イエス様のよみがえりを真に、リアルさを持って信じるなら、どんな困難も、たとえコロナウィルスによって命が脅かされようとも、揺り動かされることはないのです。最も大切なこと、それは私たちはよみがえりの永遠のいのち、その証人であり、世に打ち勝つということです。

2020年4月 5日 (日)

伝道と証し

使徒 1章8節   新改訳2017
   
主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。

 学生運動に挫折し、悔い改めて二十歳でバプテスマを受けた時、その純粋な喜びもありましたが、それと同時に、福音をまだ知らぬ同胞へ伝道する使命をも強く感じたことを覚えています。実際、かなりの長い期間、ついここ数年までそのように思っていました。このことは間違ってはいません。ローマ10:17で「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」とある通りです。

 ただし、「あれっ」と気づかされることがあります。それが本日の聖書箇所使徒1:8です。ここには「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」とあり、伝道ではなく、<証人witnesses>とあるのです。証人ならば第一に信仰の告白者であり、信仰の実を結び実らせていることを証明する存在なのです。つまり証人になるには、実を結ばせる聖霊の力なくしてはできないことで、それが使命だと言っているのです。

 しかし伝道とは、知的な内容より、神から受けた恵みの事実を証人と証しすると言う核心的な内容であることをこの言葉は意味します。つまり、人が単に生活上のあれこれを神の恵みとして見なすことも良いのですが、それだけではなく、ポイントは神が人と交わり、その人に言葉をもって語られ、人が神を愛し、これに聞き従って歩むことの恵みが証となります。それは人知を超えた恵みであり、まさに生ける神の実際の証しをすることになります。自分の罪性、つまり罪深さ、弱さを語り、これに対する神の愛と驚くべき恵みを語るのです。その意味で預言はもう一つの聞き従う典型的な証しになります。

 つまり伝道とは自分のことを証しするのではなく、神のことを証しするのです。聖霊の実は九つあります。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。その際には自分は死んでいなければなりません。そこにいささかでも誇る自分が含まれないように、心から祈りましょう。

 

 

2020年3月29日 (日)

赦しといやしの違い

マタイ 9章5節   【新改訳2017】
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

 多くの方はイエス様のこの問いに、なかなか答えられません。私自身も「う〜ん、難問だ、罪を赦すことと、病を癒すこと、さてどっちが易しいんだろう」と考えて、その落とし穴にはまっていました。その穴の中では、次のように考えていたのです。

 罪を赦すことは100% 神の主権だから困難(カトリックの告解や一部の教派では可能なようですが、聖書から見れば誤り)、それに比べて癒しも基本がすることだから、いくら祈っても癒されるとは限らない。どちらも神のものだが、あえて易しいのがどれかと言えば、可能癒しかな?などと・・・云々。ところがこのような考えは全く的外れであることがわかりました。

 ではどう言うことでしょうか。これは律法学者へ問いでした。当時のユダヤ社会では富は神の祝福、病は罪の結果と考えられていました。この男の重い痛風は、人々は罪の結果だと受け止めていました。痛風の男自身も、そう思っていたかも知れません。しかしたとえそうであっても、周囲の人々には信仰がありました。彼らによって運ばれたこの人に、イエス様は根本的な癒し、「あなたの罪は赦された」と語られたのです。しかし罪の赦しは癒しと異なって、すぐに周囲の人にわかるような外面的な変化はありません。

 変化がなくわからないために律法学者は、イエス様の言葉だけに反応し、冒涜だとみなしました。人に過ぎない者が罪を赦すならば冒涜ですが、神、または神からの権威であれば正当で栄光です。それでイエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」癒しをあえてあらわされたのです。

 この癒された男は、自分の罪が赦されたことが、語られた一瞬でわかったはずです。どれほどの平安と歓喜に包まれていたことでしょうか。これはその赦しを受けた経験者でないとわからないことです。その彼にとって「起きて寝床を担ぎ、家に帰る」などはおまけみたいなことです。しかし人々にとっては、神にしかできない驚くべき大奇跡でした。また「罪を赦す」イエス様の言葉が真実であったことの証明でもありました。律法学者たちちとっては、まさに「グーッの音も出ない」出来事になったのです。

 結局この「どちらが易しいか」との問いは、AかBかの二者択一の問うものではなく、律法学者たちに「神の国が近づいた」ことの福音を、律法学者たちに知らせるための癒しでした。たとえその収穫がわずかであったとしても。

2020年3月22日 (日)

試練

エステル記 4章16節   【新改訳2017】
「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」

 私たちは血肉の命のある間に、誰でも、またどうしても、信仰の真価を試される試練の時があるようです。またそれが許されるのは、その人が御心の人である印です。

 このような信仰の試練とは、相変わらずに己を主・神としているのか、本当に神を信じているのか?という「信じている」中身の実際を問われる事です。ですから教会生活をどんなに長年続けようが、口先でどんなに信仰的なことばを続けようが、その真実が明らかにされることになります。もっと具体的に言えば、血肉の命なのか、それとも命に代えてでも神を選ぶのか?という実際の場面にあう事です。もちろん信仰とは後者のことを指します。

 試練は、キリストが王である千年王国でも、その終わりにはサタンか解き放たれます。神を信じる者は、どんな時代にあっても,どんな境遇にあっても、それがたとえ王妃であろうと試練に遭うのです。確かに実際に直面するかどうかは召命と主の御心次第ですが、人それぞれに、多様な形で必ずあることは確かでしょう。ですから私たちは常にその備えをし、祈り続けて行かなければならないのです。
 ただ、このような事を踏まえながら、私たちはカルトと呼ばれる攻撃にも正しく対処して行きたいのです。一人静まり、突き詰めて自分の信仰を問い、悔い改めるならば、それは一人一人にとって大切な機会となるでしょう。しかしそれを他の人に強要するような事があってはなりません。全体に煽るようなことがあっては、カルトと見なされてもしかたないのです。

 パンデミックな伝染病は別として、一人一人に全て異なる試練が来るように、これはまったく個人の神との関わりの問題です。神から迫られ、神に応答し、神の助けを得ながら、自分のいのちを持って祈り求めて行くなら、大きな価値観の転換が起こり、真の自分からの解放と御霊の実を結ぶ、平安と喜びが与えられて行くのです。神に期待しましょう。 

2020年3月15日 (日)

印と刻印

黙示録 20章4節   【新改訳2017】
 また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた

 印と刻印の違い…似たようなものとも言えますが、印とは基本、印鑑のように証明するものです。それに対し刻印は、所有するしるしが消えないようにするため、彫ったり刻んだりするものです。ですから刻印は所有する道具に刻んだり、家畜に焼き印を押したりします。人の入れ墨も刻印の一つでしょう。特に人への印とか刻印は、二次大戦でナチスがユダヤ人の上着に強制して付けさせたダビデの星や、腕章が思い出されます。

 さて、神は悔い改めた心に聖霊を送られ、その実を結ばせ、心に救いの証印を押されることはありますが、目に見えるような外見的な印はつけられません。人の心の中まですべて見通される方に、外見的なものは無用だからです。ところが被造物に過ぎないサタンとその部下たちは、目に見える印、印や刻印しかわかりません。ですから自分のものにした魂に、やたら刻印を押したがります。これが神とサタンとの大きな違いです。

 サタンは印や刻印は「形式的なものだから、受けて信仰生活を続けなさい」などと言葉巧みに誘うでしょう。しかしクリスチャンは、この目に見える印や刻印を決して受けてはいけません。拝するのはただ神お一人です。四十日四十夜されたイエスさまの断食でも、サタンは最後に全世界を見せながら、「私を拝むなら」と言いました。自分を拝ませようとしたサタンの本質は今現在もまったく変わっていません。
 もしクリスチャンが神以外のものを拝むなら、その瞬間、サタンとともに真っ逆さまにゲヘナ落ちが確定します。黙示録は幾度もこのことを警告しており、これは真実です(黙示14:9−11,16:2,19:20)。

 真のクリスチャンはたとえ殺されても、神以外のものを決して拝んではなりません。ことは短い血肉の時間のことではなく、永遠のことだからです。また、キリストのために死を余儀なくさせられての死は殉教と言い、神に召された特別な恵みです。殉教者は千年王国などではキリストとともに王となり、神の都を住まいとするからです。

 今の時代と逆に、キリストが王となって支配する千年王国時代においてすら、最後にはサタンが解き放たれ、試練が来ます。結局、どんな時代でも、神を信じる者には、たとえ殉教まで行かなくても、血肉の命か、それとも神を選ぶかの選択は必ず迫られるようです。その際、最もポイントになることは、この試練に勝利を得るためには、ふだんから神と交わり、神を知り、神を愛し、信頼を醸成することにあるようです。この試練は自分の努力や力では耐えられるものではなく、聖霊の助けなしには不可能です。

 

2020年3月 8日 (日)

十四万四千人と大勢の群衆

黙示録  7章14節   【新改訳2017】
そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。

 この十四万四千人(7:4,17:1-3)は、今日まで異端の宗教が、自己の目的のために、様々に利用した数字です。またこの続きにある天の大勢の群衆(7:9,19:1)も、私たちは大いを持ちます。そこで今回、この二つのことについて、聖書的なアプローチをして参ります。

 まずイスラエル十二部族名があげられています(7:5-8)が、ここにダン族の名が無いことに注目してください。また長子はルベンのはずですが、ユダになっています。これはイエス・キリストがユダ族から出たからでしょう。また省かれたダン族は、士師記(18:30)や列王上(12:29)ではダン族に偶像礼拝があったことを示しています。

 このように見ていくとこの十二部族は、本来の十二部族の意味ではなく、霊的なイスラエル人であるクリスチャンを指していると言っても過言ではありません。聖書的にも、ロマ書(2:28-29,9:6-7)ガラテヤ(3:29)にあるように、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではない」とあります。

 十四万四千人とは12の自乗に千をかけた数です。ユダヤ的に12は完全数なので、その自乗は完全の完全、つまり極まりで、さらにその千倍という数えきれなさを表しています。これは実際の数字を意味するのではなく、数えきれないほど多くの完全な人々を表した言葉であると理解するべきです。この十四万四千人は、誰にも歌えない新しい歌を歌います。この新しい歌は、先に24人の長老たちが歌い、その長老たちに合わせてバックで歌う天の大聖歌隊のように見えます。(下写真はヨイド教会礼拝風景)

 この十四万四千人は、まるでウィーン少年合唱団のように、全員が汚れを知らない存在であるだけでなく、イエス・キリストと共にどこにでも付いて行く神の陣営でもあるのです。これらを考えて解釈するなら、十四万四千人は礼拝時における神の大聖歌隊であるし、天の大群衆はその会衆たちであると思えます。つまりこれらは全部合わせて、七章は天の御座の前の大礼拝風景として理解することが妥当であると思えます。

2020年3月 1日 (日)

信仰と疫病(パンデミック)

Ⅱサムエル 24章13節   【新改訳2017】
 ガドはダビデのもとに行き、彼に告げた。「七年間の飢饉が、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたが敵の前を逃げ、敵があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に何と答えたらよいかを決めなさい。」

 新型コロナウイルスは、世界中でパニックを起こしつつあるようです。昨日(2月29日)、WHOが事実上のパンデミック(世界流行)宣言をしたので、もはや事態は決定的となりました。日本でも各地で患者発生が確認され、隣の市川市や本市でも発生しました。
3月からは全国の学校も閉鎖されました。日本への中韓二カ国の旅行者は、関空と成田の二箇所だけで入国することになり、二週間の待機を要請されることになります。

これをもって一部のキリスト教会では世界の終わり=終末が近いと強調される所が多いでしょうし、実際ある意味、部分的にはその通りでしょう。しかしこれは聖書によって神があらかじめ語っておられたことであり、しかも本当の終末の大患難時代はまだ来ていないのですから、その予行練習として受け止めるべきです。

今回に限ったことではなく、紐解いてみれば人類は、このような疫病との戦いの連続でした。14世紀のペストは、全ヨーロッパの総人口の1/3 2500から3000万人が死んだと言われています。驚くべき致死率であって、ほぼ村や町が全滅した所もありました。16世紀には天然痘がありました。スペイン人によってもたらされた天然痘によって南北アメリカの先住民の人口が1/10になったと言われ、アステカやインカ帝国はこのために弱体化し、滅ぶ原因にもなりました。

現代は、船や馬車で移動していた時代と全く異なる環境にあり、そのことがウィルスが瞬く間に世界中に広がった原因です。幸いなことにこの新型コロナウイルスは致死率が低く、過度に恐れる必要はないと思われます。いろいろな人との濃厚接触やそのような場に行かないようにすること、手洗いなどをきちんと気をつけていれば、後は神様に祈ることが最大の果たすべきことになるでしょう。クリスチャンに限って言えば、困難とか病は神が許されたことです。許されたからには、必ずその御心があり、良きことに変えられます。
しかし人間的に恐れて行動すること、例えばトイレットペーパーの買いだめに走ったりすることは慎みましょう。恐れに支配されることは、悪霊に支配されることになるからです。どんなに悪いと思えることも感謝することは、私たちの特権です。ですから人々がどのような行動に走ろうとも、私たちは神を信じ、その具体的な行動、信頼し委ねて歩みましょう。それが今回の予行練習です。

2020年2月23日 (日)

人を愛し尊重してくださる神

アモス 3章7節   【新改訳2017】
まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。

 聖書の学び(His Story)でアブラハムに対し、神が「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と考えられたのですが、今でもまったく同じことを神はされ続けています。たとえば私ですが、人生の重大な事に関して選ばされたり、この後の人生についてもだいたいの展開は聞いているからです。ですからこのアモス書にある「ご自分の計画をそのしもべにである預言者たちに示さずには、何事もなさらない」に私はアーメンと全き同意をいたします。

 なぜ神はこのように人に過ぎない存在に、あらかじめ語られるのでしょうか。それは、たとえ結果は同じになるにしても、後で聞くのと先に聞くのとでは大きな違いがあるからです。事の起こる前に聞いているならば、心の動揺はなく、神の偉大さ、信仰を堅くするだけではありません、「私は尊重され神に愛されている」心が湧くのであって、あいしてくださる神はそのことをご存じだからなのです。

 ぼくしである私にとって、教会形成の上で譲れないものがあるとしたらこの点です。全てとは行かないでしょうが、教会にとって大切な案件において、私は可能な限り教会員に諮って合意を得てからにしたいのです。なぜなら上位下達は権力の支配を現し、天的ではないのです。神は人を友とし子として尊重してくださる神であって、愛がその本質です。権力をもって人を支配する存在とは真逆の方です。私たちの教会には神の愛が満ちているだけでなく、牧師が主イエスへの愛を持って「わたしの小羊を飼いなさい」の戒めを受けているからです。

 最後に、神はなぜここまで人を愛され尊重してくださるのか、それを少し学びたいと思います。ご承知のように、人は血肉の体を持つ有限なる存在ですが、神は天使たちに、人に仕えるよう命じられました。ただし天使が仕える人とは、イエス・キリストを真に信じた人々です。その人達には聖霊が内住しています。一方、天使は霊的な存在なので、物質的な体を持っていません。ですから聞き従うだけの存在です。しかし人は血肉の戦いに、十字架によって勝利を取り、サタンの縄目から解放された存在なのです。それ故、時が来たら超物質的な体の上に霊を持つ、御霊の体をもって神に最も近い存在として下さいます。

 以上の事から神の形に似せて造られた人とは、神に近い存在であり、命令に従うだけの存在ではなく、多様な個性と進んでみこころを行おうとする意欲に満ちた、神と交われる存在として創造されたことがわかります。従うだけの存在ではなく、神から愛され、交わる存在として創造されたのが、私たち人なのです。

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