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奇蹟~御霊の現れ

コリント 12章5~7節   新改訳2017  

奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。
働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです

 キリスト教は奇蹟の宗教です。この信仰の上に、精緻で伝統に包まれた神学と多くの神学大学があります。キリスト教最大の奇蹟はイエス・キリストが処女マリアから生まれ、十字架で死なれた三日後に復活されたことでしょう。神が直接された奇蹟です。一方、神が人間を通してされた奇蹟で最大のものは海を開き、何百万人ものイスラエルの民を、乾いた地を通らせてエジプトから脱出させたことでしょう。これはモーセの栄光ではなく、ただ神を信頼し、神に聞き従って杖を差しのべたモーセを通して起こった神の働きでした。
 最大の預言者エリヤもたくさんの奇跡を行いました。シドン人の女の息子を生き返らせ、天からの火によってバアルの預言者450人を聖絶し、数年にわたる干ばつも予告しました。エリヤは預言者でしたから、これらはただ、神の語られるままに語った結果現された神の栄光でした。
 ですからこと人うぃ通してのいかなる奇蹟も神の力そのものであり、神の栄光でした。人はその通り良き管、器に過ぎません。ただし、神と親しく交わり、謙遜と忠実さ、すべての栄光を神に帰す聞き従いが求められるのです。ほんのわずかでもそれを自分のものにするなら、サウル王のように、かえって大きな裁きを自らに招くのです。

 私たちは奇蹟を求めています。しかしそれは完全に神のみこころに従ってのものでなければなりません。肉親が病で倒れたり、または自分が信仰による迫害を受けていようとも、私たちは神の子、神のものなので、一切神が許されたことです。アブラハムの信仰、ヨセフの試練、モーセの聞き従い、これらに共通しているのは試練を通しての信頼と忍耐です。
 私たちは現状から神に癒やしや救いを求めますが、それ以上に、神は最善しか為されない信仰の土台を揺るがせてはなりません。神のみこころを求め、最後まで神への従いを全うしなければなりません。たとえどんなに奇蹟しか望めない、人間的には絶望的な状態であろうとも、奇蹟を起こされようと起こされまいと、最善であることを疑ってはいけません。失望こそ、神を自分の思い通りにしようとした最大の不信仰になるのです。
 多くの奇蹟、癒やしを行ったラインハルト・ボンケは「奇蹟は福音の真実を確証させる」為のものであると言いました。ですから彼は奇蹟を通して神が生きて働かれる真実な存在であることを実証し、信じられないほど多くの人々を救いに導くことができたのです。彼は奇蹟はすべて神のものであり、神の働きであり、イエス様がされたことを証ししました。私たちはこの奇蹟を日本に待ち望むのです。

2020年11月 8日 (日)

行け、あなたのその力で

士師記6章14節    2017新改訳

すると、【主】は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

 この士師記の聖句は、前年度たびたびギデオンのことが語られていましたので、私がこれになるのでは無いかと予想した所ですが、残念ながらまったく違っていました。また「あなたのその力で」に少し引っかかっていたこともありましたが、しかしよくよく思い直してみますと、これが実にすばらしいみ言葉であることに気づきましたので、このまま教会の年間聖句にしました。

では何がすばらしいかと言いますと、「あなたのその力で」と言うところです。この現状からでなく、少しは努力したり、引き上げられたりしなければ、主のご用に立てないんじゃない?・・・そういう思いがしていたからです。しかし主はギデオンを召すのに、一切そのようなものは無用だとばかり「あなたのその力で」と語られたのです。ギデオンを遣わされた主は、私たちが牧師になったりする際の、神からの召命とまったく同じものです。

 ところが人によっては、神からのはっきりした召命を受けずに、人間的な思いで献身します。その結果、人間的な見方しかできず、神のみこころを行うどころか、逆にそのような忠実な人々に対し、混乱と迫害さえ行う者と化してしまうのです。神からのものでないのに、神からと間違って受け取ったらギデオンもこの召命が本当に神から来たのか、確かめずにはいられませんでした。これは当然なことだったと思います。もしそうでなかったら・・・・それは想像するだけでとんでもないことだからです。
 神は私たちの弱さをよくご存知であり、もしその召命が真に神からのものであれば、そのしるしを見たいという人間の願いに、神は必ず答えてくださるというのが私の確信です。逆に言えば、重大な決心のような際に、しるしを求めても得られなかったら、それは神からのものではないと言うことです。これは私自身の経験からのことであります。
 しるしには二つの目的があります。それは臨在のしるしを求めるものと、神のみこころを問うしるしとです。今回の場合はこの使いが本当に神からのものかどうか、臨在のしるしを求めるものでした。ギデオンは神の使いに対し、子山羊の贈り物を持って供えるので、しるしを見せて欲しいと頼んだのです。ギデオンは子山羊の肉と肉汁、小麦1エパで作った種なしパンを、指示された通りに供えました。すると神の使いが杖をそれに触れただけでそれらはたちまち火が燃え上がり、焼き尽くされてしまいました。これは後のイエス・キリストのひな形でもあります。

 ギデオンはこの臨在に、死すら感じ、恐れおののきました。みなさん、これが神をリアルに体験した瞬間なのです。神の使いは同時に消えてしまいますが、臨在の神を体験したギデオンは、同時に神の言葉が聞こえる存在になったのです。頭の上で神を信じている信仰と、本当に神の実在を体験した信仰とは、その強さはまったく別物です。これは私の経験的にもコペルニクス的な価値観の転換が起こると言えます。
 ですから神は次にギデオンに対し、その信仰をもっての宗教改革を要求しました。何と父の持っている「バアルの祭壇とアシェラ像を切り倒せ」と命じられたのです。父の、となっていますが、それは町の人々も信仰しているものでしたので、これを勝手に破壊することは命掛けでした。献身の証しでもありました。これを恐れながらも忠実に従ったギデオンでしたが、それも臨在のしるしを確かに見たからに違いありません。こうして父ヨアシュが人々の訴えに取り合わなかっただけでなく、属するアビエゼル族全体にも主への信仰に立ち返る機会となったことは想像に難くありません。
 私たちもギデオンのように、それぞれの仕方で神に召されています。神は私たちの弱さを実際をご存知なのですから、足りないものを神ご自身がすべて備えてくださるのです。神から「行け、あなたのその力で」と聞いたなら、ぜひしるしなど確認されてから聞き従っていただきたいと思います。それが神からのものであれば、その願いに答えるなど天地万物の神にとっては朝飯前なのですから。



2020年11月 1日 (日)

9人はどこにいるのか ー癒やしor 救いー

ルカ 17章17節      新改訳2017 

すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。

 この「十人のきよめ」はルカだけの記事です。イエス様が「御顔をエルサレムに向け」てガリラヤからサマリヤ地方を通過しての山道を歩まれていた時、その国境の村での出来事でした。十人の重い皮膚病を患っている人たちの「私たちをあわれんでください」と叫ぶ声に、あわれみの主が答えられました。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と。アラムのナアマン将軍の癒やしがありますが、この十人はナアマンよりも素直に従い、その途中で全員が癒やされました。

 しかしこの十人の中で神を崇めるために戻って来た者は、ユダヤ人にとって外国人であるサマリヤ人一人だけでした。残りの九人は癒やされるために叫んであわれみを求めたのですが、それはただこの状態を脱したいだけの自分のためでした。たとえどんなに超自然的な奇蹟を見たとしても、それが生き方を変える真の神の力であることなどには関係なかったのです。まさに豚に真珠だったのです。

 そもそも奇蹟、奇蹟の癒やしは、近年ラインハルト・ボンケが心がけているように、神が真の神であることの証明として神が起こされるものです。それゆえ奇蹟が奇蹟を起こされた神への信仰に結びつかなければ、まったく無用なものとなります。
 サマリアの魔術師シモンは奇蹟の力を、使徒たちから金で買おうとしました。今日でもベニー・ヒンのように、非常に作為的に奇蹟や奇蹟の癒やしを演出し、人々を虜にしようとした動きがあります。しかし真の奇跡、癒やしを見分けながら、神を誉めたたえなかった九人のようになってはいけません。真の奇蹟は神からのものです。繰り返しますが、それが信仰に結びつかなかったならば、神から嘆かれることになるのです。

 戻って来た一人は、自分が重い皮膚病から癒やされたことに、自分の癒やしよりももっと大切なこと、全能の神が実際におられることに気づいたのです。それは彼にとっては癒やしよりもはるかに大切な気づきでした。肉体の命はいずれ必ず滅ぶものですが、永遠の神がおられ、神を信じ従う者はその永遠のいのちの恵みにあずかります。戻ってきた彼の信仰は詳細には不明ですが、彼は体が癒やされただけでなく、たましいの拠り所が見つかった喜びで満ちていたのです。

 この後しばらくして患難時代が来るでしょうが、癒やしを求めてくる人々に対し、私たちは徹底して癒やしは神のものであること、神に栄光を帰すこと、癒やしの神を信じなければならないこと、つまり「信仰による救い」を伝えましょう。「九人はどこにいるのか」の声を聞くことが無いように。

2020年10月25日 (日)

主に喜ばれるかどうか

Ⅱコリント 5章9節  【新改訳2017】

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

 私たちがこの世で、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れています。やがて天に行き、キリストの前に立った時、地上で行ったことすべてに応じて報いを受けます。この「キリストの前で」とはキリストの地上再臨のことで、その時の報いはすべてのみ使いたちの前で行われるため、私たちめいめいの守護天使が、行いのすべてを読み上げるかもしれません。
 さてその報いとは、1テサ2:19のような栄冠だけでなく、1コリ3:10以下にあるように、世的な富(木、草、藁)はみな焼けて天に持って行けません。ただし最悪な場合でもクリスチャンなら、火の中をくぐるようにして助けられます。それゆえ裁きではなく、報いの時と言われているわけです。

 この天での報いについて、神を信じる者としては無関心ではいられません。タラントの話(マタイ25:15~)でも明らかなのように、評価の基準はこの世での力や人間的な賜物としての能力ではないことが分かります。要は信仰が無ければ出来ないことですが、神への忠実さの問題であることが分かります。聖書に忠実であること、及び何よりも聖霊に聞き従うこと、さらに自ら進んで神のみこころを行おうとすることです。聖書も聖霊による解き明かしがなければ理解できませんし、心に響きません、力にもなりません。まして神に聞き従うことなどは、サムエルのように聞けないと従うことは出来ません。誤解している方がいらっしゃるかも知れませんが、これは人に聞き従うことではないことに注意してください。あくまで神に、対してです。

 さて神に聞き従うためには、聖霊によって神がこの世に実際に生きて働かれるお方であることを個人的に体験していなければ、聞き従うことは出来ません。そのことによって、その人にはコペルニクス的な価値観の転換が起こっているはずです。それがなければ、神の声を聞いたと思っていたとしても、それは単に自分の観念の中、思い込みのものに過ぎず、遅かれ速かれ挫折します。挫折するので、それが肉的なものであったことが分かります。しかし真に聖霊の満たしを体験したのであれば、挫折はあり得ません。

 聖霊によって罪深さを教えられ、自己を明け渡して神のものとされた人は、すべての点において自分の行おうとすることが「主に喜ばれることかどうか」吟味します。主を知っているので、主のみこころ、主が喜ばれることが分かるからです。こうして残りの世での人生を、キリストのために喜んで生きるようになります。自分の為に生きていた時代は不安と肉欲で自分自身が翻弄されていましたが、神に捧げ尽くしてはじめて、思い患いの一切から解放され、平安を得ます。これはキリストが十字架によって勝利をとられたように、パラドックス(逆説)的な解決なのです。

2020年10月18日 (日)

血の契約

✝ ヘブル 9章12節    【新改訳2017】

また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の願いを成し遂げられました。

 本日の題は、これまでの神殿で罪の贖いとしての動物の犠牲ではなく、新たにキリストが「ご自分の血によって(つまり十字架によって)罪の贖いを成し遂げられた」というへブル9章12節からとっている。しかもキリストの罪を贖う犠牲は一度だけで完全であり、永遠のものであることが述べられている。

 世界と人間を造られた聖なる神ご自身が、その造られた被造物に過ぎない肉なる人間のために、神が肉の形となって人間の一切の罪を引き受けられ、清算された、これに何の不足があるだろうか?たとえ人が何億兆人居ようとも、キリストの犠牲からはおつりの山が出ることだろう。神の愛はイエス・キリストを通して完成している。これを信じる者は確実に救われるのだ。

 ところでこの恵みを「信じる」と言うことをみても、言葉は一つであっても本当に信じるまでの信じ方は実に濃淡(グラディエーション)があることに気づく。
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ロマ 10:9)
聖書に「信じるなら救われる」とこのようにあるのだが、どのように心で信じている程度は、外部の人には窺い知れない。あるいは当人自身にすら測り知れない面もあるだろう。ただ神だけがご存知である。

 「縁無き衆生は度し難し」と言う仏教の言葉があるが、自分の罪を自覚できない人は、神の選びからは遠いと言える。救われなければならない自分の罪に気づくことが、十字架の第一歩だ。自分の永遠のいのちを救うために神を信じながら、自分自身に死ななければならない、これが「自分を捨て」とキリストが私たちに説いた神の言葉である。神を真に信じた人には、聖霊によって揺るがされない「確信」が与えられる。信じた喜びが溢れ、主日礼拝を欠かさないだろうし、情緒面も肯定的に積極的になる。
 また良心が咎められて、父のみこころを損なうことに痛みが生じるのも特徴だ。また神の子として天への確信を堅く握っている、これらが本当に信じている「血の契約」の「実」であって、さらに聖霊のバプテスマを受ける土台でもある。

2020年10月11日 (日)

御霊に導かれる

✝ ローマ 8章14節   【新改訳2017】

 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

 本日の聖書箇所は「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです」ですが、これには注意が必要です。これを「クリスチャンはみな神の子ども」と解する人が多いのですが、その前提である「神の御霊に導かれる人は」を無視してしまいがちであることです。つまりバプテスマを受けていても、その人が御霊に導かれ(続け)ていなければ、神の子と言えるかどうかわかりませんよ」という風にも理解できるのです。

 多くのキリスト教会では三位一体の神と子なるキリストは強調しますが、聖霊なる神についてはそうではありません。勿論否定はしませんが、聖霊派やカリスマの教会ほどではありません。しかしこの聖書箇所から見れば、御霊つまり聖霊なる神との親しい交わりを抜きにして、神の子というクリスチャンの特権は怪しいものなのです。

 この前節の13節に「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」とありますが、御霊に生きる人には明確なしるしがあります。それは御霊によって、あるいは依り頼んで肉の行いを殺していることです。そのような人は神の子どもなのです。

 からだの行いって何でしょうか? 妬み、怒り、人を恐れ人を憎んでいる、要するに世の人と何ら変わらぬ人であって、いつも自分を守ることに汲汲としています。そのような自分に疑問を感じませんし、たとえ変えようと思って努力し、牧師に祈ってもらったとしても無理です。普通の人なら自殺するか世捨て人になるしかない罪の深さは、到底受け入れることは困難です。しかし神のあわれみと愛が聖霊様を通して注がれれば別です。自分の罪深さを知れば自分自身に対する希望を捨て、十字架が自分の罪のためであったはっきりわかります。これは聖霊の力であり、選ばれた人であるしるしです。他の人にない、ちょうど主がたどられたように、受難の道を通らされた道の結果でもあります。

 神の子は例外なく、聖霊の油注ぎを受けています。そのような人は、自分が価値があると思っていた一切が、まるで<糞土>のように思える変革が起こした経験を持っています。神の子は、それ以後、聖霊の力に導かれ支えられ、己の肉なる思いに戦いを挑み続けることになります。それまでの自分を騙してきた憎き肉なる思い、世の力、それから生じる行ないに勝利を得ようとし、実際に真の解放と天的な喜び、恵みを体験します。このようなクリスチャンはからだはたとえ世に在っても、天にある父の子の一人として父のみこころの道を歩むのです。
 どうかお一人おひとりがそのように神様に祈り、求めて行っていただきたいと思います。

2020年10月 4日 (日)

アバ、父よ

✝ ローマ 8章14-15節         新改約2017

14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

ガラテヤ4章5-6節   新改約2017

5 私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。
6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

 私が子どもの頃、父の役場という父の職場によく出入りし、庁舎内のどこを行こうがまったく咎められることはありませんでした。長じてこれは「不思議なことだった」と思っておりました。ところが今朝ほど、それはすべて私が父の子であることで、看過されていたんだなということがわかりました。確かに父は長く特別職である収入役でした。それだけでなく、ポイントは職場の全員が父の子としての私を知っていたということです。どうしてそんなことがあったのでしょうか。それは毎年、仕事始めが終わった一月四日の午後、私の家で役場の全職員が集まって新年宴会を開いていたことです。その宴会が興味津々で、一人混じって出ていたのでした。つまり庁舎内をうろつき回るこの怪しげな子は、全員が誰の子か即座にわかっていたのです。

私たちが天のお父様のことを「アバ、父よ」と呼び、その子どもであるということは、つまり天国は自分の家になるわけであって、子である私たちは何の臆する所もなく、すべてを享受できるのです。やがてこの地上に降りてくる栄光に包まれた天のエルサレムが天国です。今この地上では取るに足らない存在の私たちですが、それがどれほど光と栄光に満ちた恵みであることか、いくら想像しても及びつかないことだと思うのです。

 ただし、すべては「子である」という前提の話です。私たちはどのようにして自分が神の子であることを知るのでしょうか。勿論、実の子はイエス様です。わたしたちは養子ですが、しかし子としての特権は世での養子と同じように与えられるのです。養子であるなら、自分が神の子とされた、籍が天に移されたと知れるのは何によってでしょうか。「神の言葉と聖霊によって」です。
 本日の聖書箇所ローマ8:15には「子とする御霊のを受けたのです。この御霊によって私たちは『アバ、父』と叫ぶ」とあります。<※ガラテヤ4:5-6も同様> この、子としての実質はローマ8:23によると御霊の体になってからということがわかります。クリスチャンの葬儀は「ハレルヤ!」である理由でもあります。
 さて神によって世界の基が据えられる前から、私たちは御国を受け継ぐ子とされて<エペソ1:3-5>いたのですが、その保証は聖霊だと続く14節にあります。本日の聖書箇所でもそのように、父なる神は聖霊を私たちに遣わされ、その聖霊によって「アバ、父よ」と私たちが叫ぶとあります。御霊によって子とされた私たちは、地上ではその御霊に導かれ召されてそれぞれの使命を全うして行きます。聖霊に満たされれば満たされるほど、地上でのことは取るに足りないことであって、私たちは天への希望に満ちあふれて行くのです。

2020年9月27日 (日)

祈り

ルカ 6章12節   新改約2017

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

 祈りはクリスチャンライフの生命線である。そのことがわかっていても、いのちの無い形式的な祈りに虚しさを感じている人や、実際どのように祈ったら良いのかわからなくなっている人、そのような人たちに祈りの基本を今一度学んでみたいと思います。
 まず私たちの救い主、イエス・キリストという方は、神そのものなのに常に祈っておられたように見受けられます。まして人間は常に祈りに身をおくべきなのです。

 聖書では祈りに、二つの土台と三つの要素とがあるようです。「絶えず祈り、失望してはならない」(ルカ18:1、ロマ12:12)ことと、「神が聞いて下さることを信じなければならない」(マタ21:22)ことです。この土台の上に、以下の三つの祈りがあるようです。
 「聖霊によって」とは悔い改め、聖霊の臨在の中で祈ることです。これはみこころを祈ることと同義語になります(ユダ1:20、エペソ6:18)。 
「感謝して」とあるように、私たちを造ってくださり、その上十字架の絶大な恵みによって、贖われた者が私たちです。常に謙遜な祈りと感謝が、いつも湧き出る泉のようになっていたいと願って祈りたいと思います。神は高ぶる者を遠ざけられ、へりくだる者を愛してくださるからです(ピリピ4:6)。
「敵を愛せるように」祈り求めましょう。心の傷に封印をし、憎しみを抱いたままで神に祈ることは不可能です。そのような状態の人には、おそらく自覚は無いでしょうが、祈りにおける臨在も感謝もあり得ませんし、神からお答えをいただくことは期待できません。ゆるさなければ、自分もまた赦されないのです。それ故、敵を愛せるように心から祈りましょう。これはみこころですから、心からそのように祈る時、祈りに平安と神の力とが生きて働く実感を経験されるはずです(マタイ5:14、ルカ6:28)。

 最後に注意しなければならないことは、偽善者のように祈ってはならないことです。人の目を意識したり、祈る姿で自分を信仰深く見せようとか、祈りに難しい言葉を用いるような偽善は神が顔を背けられる類いのものです。 自分を立派にしてはいけません。ルカ18:9のような、取税人の祈りのように、罪人として隠れた所で祈りましょう。幼子のように父の前に、ありのままで、安心しきったこころで出ましょう。父は私、私たちを愛していてくださるのです。一日一時間以上、父との交わりを楽しみにし、そのための時間が私たちは必要です。



祈りはクリスチャンライフの生命線である。そのことがわかっていても、いのちの無い形式的な祈りに虚しさを感じている人や、実際どのように祈ったら良いのかわからなくなっている人、そのような人たちに祈りの基本を今一度学んでみたいと思います。
 まず私たちの救い主、イエス・キリストという方は、神そのものなのに常に祈っておられたように見受けられます。まして人間は常に祈りに身をおくべきなのです。

 聖書では祈りに、二つの土台と三つの要素とがあるようです。「絶えず祈り、失望してはならない」(ルカ18:1、ロマ12:12)ことと、「神が聞いて下さることを信じなければならない」(マタ21:22)ことです。この土台の上に、以下の三つの祈りがあるようです。
 「聖霊によって」とは悔い改め、聖霊の臨在の中で祈ることです。これはみこころを祈ることと同義語になります(ユダ1:20、エペソ6:18)。 
「感謝して」とあるように、私たちを造ってくださり、その上十字架の絶大な恵みによって、贖われた者が私たちです。常に謙遜な祈りと感謝が、いつも湧き出る泉のようになっていたいと願って祈りたいと思います。神は高ぶる者を遠ざけられ、へりくだる者を愛してくださるからです(ピリピ4:6)。
「敵を愛せるように」祈り求めましょう。心の傷に封印をし、憎しみを抱いたままで神に祈ることは不可能です。そのような状態の人には、おそらく自覚は無いでしょうが、祈りにおける臨在も感謝もあり得ませんし、神からお答えをいただくことは期待できません。ゆるさなければ、自分もまた赦されないのです。それ故、敵を愛せるように心から祈りましょう。これはみこころですから、心からそのように祈る時、祈りに平安と神の力とが生きて働く実感を経験されるはずです(マタイ5:14、ルカ6:28)。

 最後に注意しなければならないことは、偽善者のように祈ってはならないことです。人の目を意識したり、祈る姿で自分を信仰深く見せようとか、祈りに難しい言葉を用いるような偽善は神が顔を背けられる類いのものです。 自分を立派にしてはいけません。ルカ18:9のような、取税人の祈りのように、罪人として隠れた所で祈りましょう。幼子のように父の前に、ありのままで、安心しきったこころで出ましょう。父は私、私たちを愛していてくださるのです。一日一時間以上、父との交わりを楽しみにし、そのための時間が私たちは必要です。

2020年9月20日 (日)

神のかたち

コロサイ 1章15節   新改約2017

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。

 聖書通読で「御子は見えない神のかたち」という言葉に改めてショックを受けました。旧約の十戒の影響からでしょうか、新しい律法、新しい契約においては<神ご自身が人となられた>ことをもっと重要視すべきだったと気づかされたのです。

 イエス様を見、知れば、私たちは人となった神を知ることができるのです。どのようなご人格、お人柄で、どんなことを為さり、言われたのか。そのお心はどのようなものであったのか、四つの福音書を通してわかるのです。これはすごいことであり、素晴らしいプレゼントではありませんか。他の宗教で教祖がこのように具体的に知らされることは無いでしょう。できるだけ知らせず、神秘的に覆い隠さなければ、罪深い人間の正体がばれてしまうからです。しかし私たちの神はまったく異なるのです。

 イエス様の使命は十字架にありましたが、それまでの三年半の公生涯もそれに劣らず重要だったのです。それは一言で言えば神の愛の姿をリアルに知らせるためでした。人の弱さに対応し、人類への福音そのものだったのです。イエス様は神の愛のかたちそのものだったのです。幼子を抱き、罪を赦し病を癒やし、嵐を静め、飢えた5,6千人をそのままではお帰しになりませんでした。異臭ただよう死人をもよみがえらせられました。大工の息子で教養は受けられませんでしたが、国中の学者たちも太刀打ちができませんでした。

 イエス・キリストが行ったわざに拠ってではなく、その言葉こそ実に驚くべきもの、信じる者の力です。実際、キリストの言葉は神にしか言えないもの、神の叡知と力の証明でした。言葉を聞いて信じる者は、奇跡を見て信じる者より幸いなのです。

 一例を上げましょう。パリサイ人の「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(ルカ20:25 )
これは神の知恵の確かさを示しています。パリサイ人の家での食事において「彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです」(ルカ7:47) 神でなかったら、これらの言葉は到底語れるものではありません。

 私たちはこの神のあわれみによって救われたのです。未信者に対し、仏像とかの偶像がないから説明しづらい思うなら、それは愚かです。神を具体的には語り憎いと思うなら、血肉の形をもって地上に降りてくださった神のみこころを無にすることになります。二千年前であっても、今も私の心の中に居られ、交わっている確かな人物、主イエス・キリストを私たちは個人的に、いきいきと語れば良いのです。

2020年9月13日 (日)

神のみこころを行う

Ⅰペテロ 4章2節   新改約2017

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。

 クリスチャン生活にとって、「み心を行う」ことは究極の目標です。ただ多くの人に通って、「聞き従い」と同義語に受け取られている面があります。間違いではないのですが、もう一歩進んだ受け取りを私は考えたいと思います。
 聖書には少しショッキングなみことばがありますl。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタ7:21) 「主よ」と言い、御名によって預言し悪霊を追い出したりしていますので、これは一応クリスチャンと見られますが、その全員が天国に入れるわけではない、「父のみこころを行う者」だけが入ると読めます。ですから今日のテーマは非常に重要です。

 さて、「聞き従い」には神からの命令を受け、受けたことだけを行うような意味合いを感じます。しかし「父のみこころを行う」という言葉には、私には良い意味での「忖度」(そんたく)することが感じられるのです。忖度とは、「他人の心情を推し量ること、また、推し量って相手に配慮すること」です。神様から命令されたり、指示を出され、そこで受け身的に行うような上下の場でなく、自由で開かれた場、その中で進んで積極的に行おうとする雰囲気が「みこころを行う」には感じられるのです。たとえ全能の神の御前であったとしても恐れることのない、屈託のない、笑いさえ交えるような、そんな中で、進んで手を上げ、「私のにさせてください」というニュアンスの感じがします。神のご性質は愛であり、御国は決して階層的な窮屈な国ではなく、自由でのびのびとした所のはずです。

 「一度生まれた者は二度死ぬ、二度生まれた者は一度だけ死ぬ」という高名な心理学者の言葉があります。これは新生を言っています。新生すれば聖霊は内住の段階から一歩進んで、その方の主となってくださいます。イエス様を通し、私たちの主となってくださった聖霊様だけが、神のみこころをすべてご存知なのです。聖霊様抜きに「神のみこころを行う」ことは不可能です。私たちが神のみこころを知り、交わり、忖度する必須条件は新生です。みこころを行う、その結果は聖霊の証印(2コリ1:22、エペソ1:13・4:30)を受けるわけです。たとえ今、そうでなくても求め続けましょう。それはみこころなのですから、時が来た時、必ず求める者に与えてくださります。ただ人はその時を知りません。ここに忍耐があります。あわれみ深い神様、どうかその時を早めてください。感謝します。

2020年9月 6日 (日)

神の救い

エペソ 1章3-5節   新改約2017

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 クリスチャンになり、永遠のいのちを得ることを「救われる」と称します。神学的な意味での救いの取り扱いを救拯(きゅうじょう・すくい)論と言います。その中心にはカルヴァンに代表される予定説がありますが、これに対してアルミニウス主義というものがあります。両者を誤解を恐れずに言えば、人間はひどく堕落してしまったので、もはやがんばっても救われることはできない、救いはただ神の恵みとあわれみという、無条件の選びによる、というのが予定説です。これに対し、人間側の努力や義の行いも神は考慮してくださるだろうというのがアルミニウス主義の見方です。 

ところがこの両者の対立も、自由主義神学というリベラルな神学が台頭して来たため、結束して立ち向かう必要に迫られて、現在ではかなりうやむやになっているのが現状です。リベラルとは聖書がすべて神の言葉であることを否定し、人間の合理的な知性を解釈に生かすもので、エキュメニカルなグループに多く見られる神学です。救拯を論じるどころではない、聖書への伝統的な信仰が否定される事態になったわけです。

 なお、予定説などは秘蹟を中心とするカトリックや正教では受け入れられていないことは勿論ですが、正統的なキリスト教会にあって、内容面でまったく異なるわけではありません。(信仰によって救われることを説いたルター夫妻)

 さて救いについて聖書を見るなら、エペソ1:5などで「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」とあり、2:5にも「あなたがたが救われたのは恵みによる」とあリます。また預言者エレミヤもエレミヤ1:5で 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた」とあるように、神は私たちが形造られる前の霊の創造の段階ですでに選ばれ、み心の計画と召しを与えられていたと思わなければなりません。

 しかしそれは私たちがロボットのように、意のままに動かされる操り人形としてではなく、アダムのようにいつでも背く自由をも与えられていたことを忘れてはならないでしょう。人間の自主的な聞き従い、そこに人間の意思があり、神の愛が伴って働くのです。ですから救拯論の論争も、神の絶対的恩寵を強調するか、あるいは人間側の意思をも尊重される神の愛を強調するかの違いであって、リベラルな考え方の前に、これは大同小異であったというのが落としどころでは無いでしょうか。
 救いは罪の自覚から来ます。罪が自覚できなければ、あるいはわからなければ、救いは無意味です。神の恵みも存在しません。これがある意味、選びの基礎です。アダムは自由意志を創造者のためではなく、自分のために用いてしまいましたが、これを罪といいます。仮に「より自分を引き上げたい」というつもりで神を信じたのであれば、深刻な悔い改めなくして真に救われることはできません。信仰告白をし洗礼を受けて「天国へ行ける」切符をゲットしたつもりでも、それは偽りの所作になります。その後もまったく世的、肉的な変わらない暮らしを続けているのであれば、それは神をあざむくことになります。なぜなら、十字架においてキリストは私たちを代価を払って買い取ってくださったのであり、キリストを信じた者はもはやキリストのしもべなのです。もはや自分は主人でなく、主人は神です。その神に聞き従っていないとすれば、逃亡奴隷か、偽りの告白をしたことになるのです。

 こんなたとえ話があります。「自分の船の甲板上で、乗組員に殴打されて意識を失った船長が、気付け薬のおかげで生き返り、自分を助けにやって来た他の船の船長の、船の指揮を取ろうという申し出を受け入れる場合、受け入れる船長には何の功績も無い」という話です。これは十字架を信じた私たち一人ひとりのことを適切に表現していると私は思いました。私たちの神の国は、入れるからといって何の功績も私たちにはないのです。ただ神の申し出を受け入れて、打ち負かされていた自分の現状から、真の平和を得ただけなのです。
ハレルヤ!私たちは救いのすべてを神の恵み、栄光としてほめたたえましょう。

2020年8月30日 (日)

ゲッセマネのように

✝ 詩篇34篇18節   新改約2017

【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる

  日本の多くの教会は2030年問題と言って、今や死を待つホスピス状態のようです。十年後には教会員がこれまでの1/3に減少、会堂も朽ち、多くが消滅します。伝道はおろか、我が子ですらそっぽを向かれ、ただただ高齢化して来た教会の現実です。
 私は何十年も福音派の教会におりましたので、このことが分かります。神を信じ、聖書も大体は神の言葉として受け入れ、しっかり学んでいるのですが、何が足りないかと言えば聖霊の力です。三位一体の聖霊がごっぽり抜け落ちているのです。教会は聖霊の降臨(ペンテコステ)によって発足し、聖霊の力強い働きによって、今日のキリスト教となったのです。この聖霊抜きに、教会と福音の力はなく、教会は生ける屍なのです。

 聖霊なる神について、すでに四週以上にわたって語っていますので、今回は省きますが、聖霊の油注ぎ、満たし、バプテスマほどないがしろにされてきたことはありません。あれほど聖書にはっきりと書かれていることを、必要ないと否定した当然の報いです。自分たちの信仰にどうして「力」がないのか分からず、ただ万策尽きているのが現状です。逆に聖霊派、カリスマ派である私たちの恵みを痛感します。

 ゲッセマネはイエス様が最後の時間、神への祈りの時を過ごされた所で、今もオリーブ園があります。ヘブル語では「オリーブプレス」、つまり収獲したオリープの実をすりつぶし袋に入れて圧搾する、オリープの油絞り機があったゲッセマネです。すりつぶし、大きな圧をかけてオリーブオイルがにする…受難を目前にされたイエス様が、最後の場所として過ごされた所として何とふさわしい所でしょうか。全く罪の無い聖なる神ご自身が苦しみの果てに、十字架によって全人類への愛と赦しの油を見事に現された姿を場所でした。

 私たちはキリストに自分のすべてを捧げて従い、キリストに倣(なら)う者です。キリストが耐え忍ばれたような苦難を受けるのは、従う者に当然なことです。ヤベツの祈りはすでに苦難を受けた者の祈りだと思います。私たちの教会では、既婚者は全員が伴侶との死別を経験しています。実際これは神により頼むための恵みでした。キリストに倣う者としてふさわしいことだったのです。

 ヨセフもダビデも、パウロもそうでしたが、苦しむことなく、神に用いられることはありません。とすればゲッセマネの苦しみなしには開かれることのない、勝利の、恵みの世界が在るのです。私たちはそれを体験しており、知っています。聖霊様が私たちと共におられ、私たちの人生を通して、神は生きて働かれていることを、私たちは証します。

2020年8月23日 (日)

キリストのために生きる

Ⅱコリ 5章15節   新改約2017

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

 1863年、南北戦争の最大の激戦地ゲティスバーグで、信仰者でもあったリンカーンはこの戦いが、平等の理念を問うた尊い犠牲であったことを強調し、有名な「人民の、人民による、人民のための政治」を演説しました。この思想は現日本国憲法にも生かされています。そして今私は示されて、「キリストの、キリストによる、キリストのためのいのちと教会」を目指す教会の目標として掲げたいと思います。すべての人のために死んでくださったキリスト、キリストの十字架によって与えられた新しいいのち、それは神の栄光とそのみ体である教会のためにのみ用いられるべきものであると信じるからです。

 イエス・キリストを信じた者は、自分の体がすでに自分のものではなく、神のものとなっています。なぜなら聖書1コリ3:16や2コリ6:16で明らかなように、私たちの体は十字架によって贖われ、買い取られているからです。しかし私たちの霊・たましい・心はそうではありません。これは私たち自身のものです。そうでなければ神を主と告白する信仰に何の意味があり、審きがどうしてあるのでしょうか。

 霊・たましいが自分のものであれば、私たちはどうすれば良いのでしょうか。与えられたその意思を持って、神に自分を捧げること、み心を行いたいと願い祈ることですが、最も大切なことはそれらが神を愛する心から発していることです。主イエスは言われました。
「第一の戒めは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(マルコ12:30)でしたし、「兄弟たち、あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。・・・中略・・・愛を持って互いに仕え合いなさい」(ガラ5:13)

 そこで私たちは最初に述べた「キリストの、キリストによる、キリストのためのいのちと教会」を具体化するために、より一層神を愛して、そのすべてが神によって推し進められるよう祈って参りましょう。神に不可能はないのです。

2020年8月16日 (日)

信仰・希望・愛

Ⅰコリント 6章17節   【新改訳2017】

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

 十字架は贖われた罪、その赦しです。私たちの群れでは「十字架」と言う言葉を入れて証をすることが大切なのですが、言葉だけを入れておけば良いというものではありません。何のためにイエス様は十字架に架かってくださったのでしょうか。人は罪のゆえに、裁かれ、滅びに至るからです。しかしイスラエルの民で明らかになったように、律法を全うして人は救われることができない、ただ一方的な神の愛とその十字架を信じて滅びを免れるのです。但し、もし滅びから免れる、そのためにだけに十字架を信じたのであれば、実に神のみ心を損なっていると言えるのです。

 確認しましょう。本当に罪がわかり、神の子自身が自分の罪のために身代わりとなってくださった。その十字架を信じたならば、すべての罪が赦されます。もっと大切なことは、それは神である聖霊様が内住されるためであったと言うことです。これが十字架と復活の目的でした。これに優る恵は、この人類に存在しないと確信しています。

 しかし聖霊の内住だけでは不十分でした。ペンテコステという聖霊降臨の際には、弟子たちはすでに、神と神の子キリストも信じていたこと、つまり現代で言うクリスチャン状態であったことを踏まえてください。教会はこの聖霊のバプテスマによって誕生したのです。

 聖霊のバプテスマを受けることなしに、神を信じ聖霊が内住されても、多くの方はその存在を自覚できません。存在を感じられないものを「主」と崇め、聞き従うことはできませんから、神を「ないがしろにする」結果になります。しかし聖書はそうでないことを警告しています。自分の内に「神、聖霊の宮」(1コリ3:16-17、同6:19)があること、自分の体がすでに神の所有に移管していることなどです。

 聖霊なる神にしか神の御心を知ることができません。神が聖霊を私たちに送って下さったのは、私たちが聖霊様を通し、神の御心を知り、そのみ心を行うようになるためでなくて何でしょう(ローマ8:27,1コリ2:10)。但しこの御心を行うとは、まだ聖霊のバプテスマを受けていない状態の時のように、命じられて嫌々聞き従うのではなく、神と交わり、神の愛を知り、その絶大な価値のゆえに新生し、神を愛して、自ら進んで行うことなのです。神はそれを最も喜んでくださいます。神を愛する、これが最も大切な教えです。イエスご自身もこのように御言葉でもって教えてくださいました。

『あなたは心を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』と。

2020年8月 9日 (日)

主と交わる

Ⅰコリント 6章17節   【新改訳2017】

 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。

 むかし、クリスチャンの集まりで「聖霊様が・・・」と、つい私が夢中になって話題にすると、大抵が困った顔をされるか、いぶかしんだ表情をされるのがおちでした。私自身も信仰を持って二十年以上そうだったので気持ちはよくわかるのですが、それでも触れないわけにはいきません。なぜなら聖書が教える神に喜ばれること、義はみ心を行うことはひとり、聖霊様に拠っているからです。

 イエス様は聖霊様を私たち一人ひとりに送るために十字架に架かられました(ヨハネ16:7)。十字架以外に人間の罪の赦しは不可能です。また聖霊だけが、神のみ心を知っておられ、私たちに真理を解き明かしてくださるのです。真理とは罪について、義について、さばきについて(ヨハネ16:8-11)です。み心を行うには、聖霊様に聞くしかないのです。
 また聖霊様が来られることによって教会が誕生し(使徒2章)、教会はこれを送ってくださったキリストの霊で満ちている所(エペ1:23)です。聖霊なる神はもう終わったという奇妙な説は誤っています。三位一体の神は不変であり永遠です(へブル13:8)。

 ですから私たちクリスチャンは、聖霊様と共に歩むのでなければ、ただの力のない存在であって(使徒1:8)、み心を行って義とされ、神の栄光を現すことはできません。ではどうやって? 答えは簡単です。聖霊なる神と交わり、一つになる(1コリ6:17)のです。その土台は自分を無とされる徹底した罪の告白と悔い改めにあります。自分の義が少しでも残っていたならば、聖霊に満たされることは不可能です。しかし人は、自分が神に捧げきれていない所には自分で気づけません。内住される聖霊様だけがすべてをご存知ですから、神の愛を信じ、心から願い続け、必ず報いてくださることを信じるのです。

 なかなか聖霊の満たしやバプテスマが与えられないことを「聖霊は風、だれもその気ままさはわからない」と言う方がいます。これは神の御意思を尊重したようであっても、とんでもない思い違いをしています。第一に神は私たちを愛しておられます。第二に最善は私たち人間には分からず、神は最善しかおできになりません。第三に神は私たちの自由意志すら尊重してくださる全能のお方なのです。

 主と交わり、神のすばらしさを知って私たちは完全に変えられます。神のみ心を何が何でも行ないたいと願うようになるからです。祈りが自分の願い事から、神のみ心を行えるようにと強く変えられます。キリストがそうであったように、私たち人に過ぎない存在が、父の思いを知って、子として自ら進んで行おうとする者に変えられて行くのです。

2020年8月 2日 (日)

聖霊と教会

イザヤ55章8- 9節   新改訳2017

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

 本日のメッセージは、これまで二回にわたって聖霊なる神の学びを振り返りかつ、欠けていた教会との在り方追加するのが目的です。

(1)聖霊は三位一体の神であること。従って神を知り、神に聞き従おうとするなら、自分の内に住まう聖霊に頼るということが一番になります。〈✝1コリ2:11〉
(2)聖霊様はたぐい稀な人格をお持ちであること。知恵・意思・感情をお持ちの助け主、癒やし主。聖霊様は、神の愛の体現者です。〈✝ヨハ14:16〉〈✝エペ4:30など〉
(3)聖霊は真理のみ霊であって、罪について、義について、さばきについて明らかにされる。〈✝ヨハ16:8-1〉
(4)本日の中心~教会が聖霊降臨によって誕生したように、教会の頭はキリストであり、そのキリストが十字架に架かられたのは聖霊を私たちに送られるためであったことが最大のポイントになります。従って聖霊の働きがない教会は、どんなに聖書信仰を標榜していたとしても、力のない働きしか出来ません。
 そのような教会は水のバプテスマと聖霊のバプテスマを同一視しています。教会誕生のペンテコステでは、その場にいた全員が神とイエス・キリストをすでに信じていた人々で、水のバプテスマを既に受けていた人たちと言えます。またピリポによるサマリヤ伝道〈✝使徒8:16〉、雄弁なアポロによるエペソ伝道 〈✝使徒19:2〉からも、教会の発足当初からすでに、聖霊のバプテスマが水のバプテスマとは別物であったという認識を示しています。

 聖霊の賜物は教会の徳を高めるために用いられるものです。特に預言は旧約の時代から神のものか人からのものかが問われるのですが、新約時代は聖書と聖霊の内住という強力な吟味の土台があるので、預言は受け取る方が必ず吟味の上、用いられます。また礼拝時や教会に関わる預言の吟味は、教会の霊的責任者である牧師に委ねられるべきです。要は一つの神が言葉をくださるのですから、そこに混乱や分裂があるはずがなく、一致したものであることが見分けのポイントになるでしょう。

 最後に申し上げておきたいことは、聖霊の賜物は与えられたとしても自分の所有物ではないことです。み心に従って用いるよう、一時的に神から預けられているもの、管に過ぎないと言うことです。謙虚にし、これを忘れてはなりません。

 

2020年7月26日 (日)

聖霊とは

 ✝ ヨハネ 16章7- 8節   【新改訳2017】

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

 イエス・キリスト様の公生涯を通じて、弟子たちはイエス様が共にいてくだされば絶対的な安心を得ていました。嵐が来ようと、どんな病人や障害がある人が来ようと、何千人の人が食する必要があろうと、さらに権威や権力に頼る人々が悪知恵やたくらみをしかけて来ようと、これらのすべての結果は、驚嘆と神への賛辞に終わったのでした。しかし三度目の過ぎ越しを迎え、そのイエス様が自ら居なくなると予告されはじめられ、従っていた弟子たちに不安が生じるのは当然でした。

 しかし主は「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になる(ヨハ16:7)」と約束されたのです。その当座は理解できませんでしたが、実際そうだったのです。主はパラクレイトス(パラ=ご自分と同等の/クレイトス=助け主、慰め主)と呼ばれるもう一人の神、聖霊様を私たちに送って下さるために世に来られたのです。この神は三位一体の神ですが、私たちの内に住まわれることがおできになるのです。しかし神は」聖ですから、罪ある人には入れません。そこで神ご自身による購い、十字架の罪の赦しが必須だったのです。
 ここでハッキリしなければいけないことですが、罪とは何でしょう。人は本来善なる者として創造されましたが、一人の人、アダムによって、全人類が罪人となりました。皆さんは誰一人例外なく罪人であって、滅びの子なのです。しかしひとりの人の十字架を信じることによって、罪が赦され、聖霊様が住まわれる道が開かれたのです。つまり罪とはイエス・キリストを信じないこと、これが罪なのです。

 この聖霊なる神様とはどんなお方なのでしょうか。心しなければならないことは(神格と書けば誤解されますので)人格をお持ちであると言うことです。私たちが助けを求めて聖霊様に祈ったり、交わろうとするのも、もし人格をお持ちでなかったら機械や物に向かってすることになり、それこそ笑い話です。逆に人格をお持ちになるからこそ、人格の特徴である次の三つのこと…1聖霊の賜物を誰に賦与するかを決める(使徒15:28・16:6-7※しかしあくまでオーナーは聖霊様です)、2聖霊様は神のみ心を完全に知っておられる(1コリ2:10-11)ので、み心を教えてくださる、3さらに感情をもお持ちなので、私たち一人ひとりに悲しんでくださったり痛んだりしてくださる…・を忘れてはならないと思います。
 聖霊なる神は私たち一人ひとりの霊・たましいに親しく交わってくださり、決して見放されず、愛し尽くしてくださる驚くべき神です。何という恵みでしょうか。私たちはこの方と共に世に在って生きるのです。

2020年7月19日 (日)

聖霊

  民数記 11章29節   【新改訳2017】

モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。【主】の民がみな、預言者となり、【主】が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

 モーセが民を導いた荒野の四十年は過酷な道でした。出エジプトの栄光はどこにあったのかと思われるほど、イスラエルの民は主なものだけでも十数度、数え切れないほど神とモーセに不平不満と反逆を繰り返しました。モーセは塗炭の苦しみを味わったのです。遂にモ-セは「主の民がみな預言者となり、主がかれらの上にご自分の霊を与えられると良いのに」と言いました。この時分け与えられたのは民の長老七十人でしたが、千五百年後に、このモーセの言葉は現実になりました。神の子イエス・キリストを信じる者は、そのすべての罪が十字架によって赦されたからです。
 大事なことは、十字架で罪が赦されたのは、聖霊を受けるためであったと言う事です。聖霊は罪ある中に住むことは不可能です。義にして聖なる存在だからです。信じる者に内住される聖霊は神であり、真理の御霊であり、パラクレイトスと呼ばれる助け主、慰め主です。真理の御霊は罪について、義について、さばきについて私たちに解き明かしてくださるのです。

 さて、御霊の満たしと聖霊のバプテスマとは混同される面がありますが、聖書では聖霊のバプテスマを受けているはずのパウロが、「聖霊に満たされ」て魔術師バルイエスをにらみつけ、しばらく盲目になるわざを行っています。これらから聖霊のバプテスマと言う明確な個人的な体験後にも、聖霊による満たしは適宜起っているのです。私たちの群れでは「聖霊のバプテスマとは聖霊の満たしの最初の現れ」と定義しています。聖霊の満たしによって起こることは、もちろん神の働きであり、顕著な神の栄光と実りをもたらすものです。神に不可能はないからです。逆に聖霊に満たされた働きでありながら、何だか訳の分からないものになったということはあり得ません。それは神からのものではありません。

 さて聖霊は真理の御霊、光ですから、隠れた人の罪を明らかにします。その結果、自分の真の姿=罪そのものの自分が明らかになり、己ではなく神に全ての希望を見出すようになります。つまり自分を捨て、神に自分を委ね、神に聞き従うための献身という強い動機をもたらします。聖霊のバプテスマや満たしを受けたと言いながら、この真理の御霊の働きが実として現れないことはなく、その場合は今一度、強く求め続けるスタートラインに戻る必要があるでしょう。聖霊の満たしは、それほど熱心に強く求める値打ちのあるものです。

2020年7月12日 (日)

とげの付いた棒

使徒 26章14節   【新改訳2017】

私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』

 パウロが語られたように、牛などの家畜に使う、とげの付いた棒を人が蹴れば痛いのは当然です。それに類したことを、私たちクリスチャンが祈りや願いの中でしていないでしょうか。それは痛い結果となります。

 実は今朝、私は癒しを求めて祈っておりました。七十近い高齢者になったせいでしょうか、思ってもみなかった故障というか、次々と課題が体に出てきました。例えば目の乾燥や緑内障、昔からですが鼻づまりや原因不明の鼻アレルギー、崩壊寸前の歯並び。耳鳴りも時々登場するなど、頭部は課題のオンパレードです。そこで、それらが癒やされるよう洩れなく祈り続けていましたら、最後に何か大切な所を忘れていたような気がしたのです。「そうだ、頭の中味、脳のことを祈っていなかった」と気づきました。おまけのように「主よ、私の霊、魂があなたに忠実なものとなりますように。どうか御心第一にして歩めるよう霊を増し加え、罪を癒やし、回復をを与えてください」と祈りました。するとすぐに<一番最後が頭の中味、霊ですか?>と示しがありました。「順番が逆でしょう」と言う叱責であると分かりました。そうです、順番、何を第一とするのか、神さまに対しては順番(プライオリティ)が大切なのです。後は添えて与えられる(✝マタイ6:33)からです。

 癒やしの祈りは否定しません。しかしそれが単に「目を、鼻を、耳を」と願うことは、自分のために神を使っているのではないでしょうか。自分本位の肉的な祈りになっているのだとしたら、それは聞かれないという痛い目に遭うことになります。
 そもそもクリスチャンの病は、それを神が許されているということを忘れてはならないでしょう。それなのに「神よ、どうしてこの病なんだ、神なら癒してくれることが御心のはずだ。早く直してくれ」とばかりに祈っています。これは不遜な、神に聞かれるはずのない祈りです。

 その前に、先ず神に自分の全てを神に捧げ委ね、全てを感謝し、状態を省みましょう。また御心を求め祈った後ならば、それがたとえ死に至るものであっても、感謝し、最善として受け入れます。私たちはすでに主のものとして渡されているのですし、血肉の体は必ず滅ぶものだからです。
 こうして今許されている病、症状は神が許されていること。それゆえに順序を間違えて祈ってはならないことに気づかされたのです。トゲのある棒を蹴るのではなく、至高の神の招きに応じ、どんな状況も徹底的に感謝することがポイントです。人の目には益に見えなくても、計り知れない神の祝福の計画があります。神を信頼します。

2020年7月 5日 (日)

愛の苦しみ

詩篇 105篇17~19節   【新改訳2017】

主は一人の人を彼らに先駆けて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。
ヨセフの足は苦しみのかせをはめられその首は鉄のかせに入れられた。
彼のことばがそのとおりになるときまで【主】のことばは彼を錬った。

 先週お伝えした神との直接の出会い、それは自分が根本から変えられるもの・・・・つまり、聖霊の満たし、聖霊のバプテスマですが、そのことをあたかも結婚前の男女に見られるような「おのぼせ」に例えたりしました。しかしそれでは真実を伝えていない部分があり・・・・今回は、その後の少し熱が冷めて実際的な生活に入った部分をお伝えしなければならないと示されました。それで「愛の苦しみ」という題にしました。
  先週のケンピスの言葉に「キリストとともに生きたい人は、先ず自分の自分自身に死ぬことが必要である」(p126)がありました。そのすぐ続きに「おお、いつ神のみが私のすべてとなり、私のすべてが神と一つになれる日が来るのだろうか」と嘆いています。ケンピスですら難しいことなのです。実際、神と一つになるまでは、この世において私たちは完全な幸せにはなれないことも分かっています。

 ではどうすれば良いのでしょうか。それはキリストに従うこと、自分を棄てることに力を尽くすことしかりません。自分の肉が死ぬことには、痛みが伴います。それはちょうど結婚式を終え、落ち着きを取り戻した男女が直面していく、様々な問題にも似ています。決してバラ色ではありません。まさに神を愛するが故の苦しみが営まれて日々でもあります。残されている己の肉との絶え間ない戦い、葛藤がつきまとうのです。肉を完全に絶つことは困難ですが、だからといって妥協し、あきらめる道はあり得ません。
 例をあげてみましょう・・・・〇兄弟や世の人にも、その良くない点や過ちに耐え、悲しみ、より愛せるように祈る、〇隣人の良い模範や美徳を、我がことのように喜ぶ、〇食卓で、自分よりも他の人によりよいものを取り分ける、〇自分の好き嫌いを放棄する・・・・等。

 キリストを愛し、従うことはキリストがされたように、キリストがされるであろうように生きることです。私たちはキリストを愛するが故に、この血肉のいのちがある間中、戦い耐え続けて全うしていくのです。聖霊なる神が唯一の助け手です。
 「受けるより与える方が幸いである」(使徒20:34)とパウロが語ったように、パウロもまた、キリストを愛する苦しみ、その生涯実践しました。ヨセフは13年牢屋に入れられ、手枷足枷の中で忍耐し、最後にはエジプトの宰相になり、自分の家族への夢を実現させました。一方パウロは牢獄の中で処刑されて死にました。しかしパウロによってユダヤ教から新宗教キリスト教が誕生し、真の世界宗教へと脱皮させた、最大の功労者になりました。
 キリストに従った結果、世での栄誉を受けるか、刑場の露と消えるかは問題ではありません。ただキリストを愛し、神と一つになるれる希望をもって、そのためにどれだけ苦しんだか、そしてなお祈りかつ喜んだかが、天に生きる者のすべてなのです。

2020年6月28日 (日)

キリストに生きる

  ✝ピリピ 1章20~21節  【新改訳2017】

私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

 誰にでもある「死ぬことへの恐れ」、サタンはこれを最大限に利用します。約80年前の太平洋戦争がこの代表で、ABCD包囲網に対し、「このまま座して死するよりは」と真珠湾に奇襲攻撃をかけました。殺人すらアメリカでは正当防衛なら無罪になるのです。
 人を支配する専門家であるサタンは、死への恐れを存分に用います。精神の病に苦しむ多くの方が、傍目には理解できない自己生存の危機を抱えています。クリスチャンにおいてすら、死への恐れが払拭できないのであれば、残念ながらサタンに支配されてしまうリスクがあり、永遠の滅びに引き釣り込まれる可能性があります。サタンの巧妙なこの策略に対し、クリスチャンは抵抗し、戦わなければなりません(2コリ2:11、エペ6:12)

  「キリストに生きる」と言う今日のテーマは、そのHow to、<どうやってサタンと戦ったらよいのか>です。悪霊と「戦え、戦え」と勇ましく進軍ラッパを聞いても、そのHow toがなければ、どうやって戦えるのでしょうか。昨夜、昨夜トマス・ア・ケンピスの「涙の谷における薔薇の園」を読んでおりますと、以下の言葉がその答えとして私に響いて来たのです。「人は、神を熱心に愛すれば愛するほど、死への恐れが少なくなり、そのためむしろこの世を去って、キリストとともに幸せに生き、天使たちとともに永遠に喜びたいと熱望するようになる」(上掲p51)
 みなさん、神さまに夢中になっておられますか? 朝ドラ「エール」は文通で結婚した夫婦ですが、私の場合、今の時代のようなSNSがあったわけではなく、90年前のエールとまったく同じ文通がその方面の青春のツールでした。ところが実際会ってみると、なんとなくイメージが違ってたみたいな、突然トーンが下がってしまった経験があります。ところが神さまは違います。実際に神さまと実際に触れられる、また体験をしますと、本当に夢中になってしまうのです。ケンピスの「熱心に愛すれば愛するほど」は、これをよく言い当てた表現だと思います。知ることで価値観が180度変わり、夢中になり、神さまが自分のすべてになります。そしてこれは覚めることのない永遠なのです。

 妙な結論ですが、人間の努力とか力で神を心から愛すること、骨の髄まで愛することはできないことであると思います。心から求めていても、自分があっては叶いません。ちょうど良い時に神に触れていただき、全てが始まります。そうすることで神を知り、自分よりも神を愛するようになれます。その時、自分の肉体の死への恐れは、失われているのです。こんなクリスチャンに対し、サタンはもう、どうすることも出来ません。
「生きることはキリスト、死ぬことは益」とピリピ11:21でパウロが述べている通りです。

2020年6月21日 (日)

偽り

 Ⅰペテロ 5章5節   【新改訳2017】
 同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

 私たちは神を信じています。しかし神の弟子となり、従う者となっている人は極少数ではないでしょうか。主イエスの「自分を捨て、自分の十字架を負って」のことば通りに、自分は常に自分を捨てていると言い切れる方がどれほど居るのかと同じだからです。

 キリストの弟子は無私でなければなりません。自身が神への捧げものであり、神のものになっているはずです。世の霊と力に対抗し、戦い、肉体の死に至るまで神を信頼し、その勝利を証することがクリスチャンの生き方であり、どこまでも神に栄光を帰し、謙遜であるはずです。しかし現実には全く不十分なクリスチャンがほとんどであり、天国行きの切符をゲットしたとして安心しきって、世人と変わらない生活を送っているだけなのです。クリスチャンだと言いながら、嫉妬や肉欲に支配されているならば、その方は真のクリスチャンではありません。物欲、出世欲、気づきにくい所属欲などに心を奪われていては、神の目から見るなら、悪霊の実を実らせているのです。

 私もそうでしたが皆さんも、初めからこれらに勝つことは出来ないと諦めているおられるのではないでしょうか。神の愛も力も知らないので、そう思われるのです。どうして神の力がその人に現れないのでしょうか。聖霊さまがおられないか、またはあまりにも小さな存在なので、聞けないのです。神をそのように扱う救い難い自己中心の霊というか、高慢さが内実なのです。それに目をつむって、自分の現状を正当化しているのです。聖霊なる神をいつまで侮り、聞かず、悲しませ続けるのでしょうか。

 自分より他の人がすべて優っているといつも思いましょう。逆に自分が人より優っていると思うなら、大いに害があるのです。自分が蔑まれ、落とされるなら主の受難を偲び、与れたことを喜びましょう。どうして怒りの、妬みの感情が湧くのでしょうか。自分をよく知る者は、自分の無価値さを知っています。真の平安は、へりくだりの中にあります。

 残念ながら謙遜には自分の力でなれません。神の助けが必要であり、それなしには不可能です。ですから私たちが謙遜し、へりくだるなら、ますます神に栄光を帰し、へりくだる者となるのです。神の平安と愛の中、自分のことなど本当に小さい、わずかなことと知るのです。そこで初めて自分から解放された平安の恵みが訪れているのです。

「神は高ぶるもには敵対し、へりくだる者には恵みを与えられる」(1ペテロ5:5)です。

2020年6月14日 (日)

一つになりたい-may be one-

ヨハネ 17章22-23節        【新改訳2017】

またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

  先ほど特別讃美曲「通り良き管として」で「あなたと一つになりたい」という歌詞がありました。英語ではmay be oneです。ちょっと驚きました。直訳調で言えば「一つになるため」ではなく「一つになれるかも知れない」って、期待的なんですね。
 この章はイエス様がこれから十字架に架かり、その先の復活もペンテコステも未だという段階です。世を去るにあたって、イエス様が最も心しておられたことは「弟子たちが一つになる」ことでした。何と一つになることでしょうか。それは弟子たちが団結して一つになることではなく、聖霊の神の支配によって、一つの御霊のものとなることだったはずです。なぜならそのためにこそ、これから十字架の御業を成し遂げ、復活とペンテコステによって最終的に「一つになる」ことが完成するからです。

 見逃せない点は、ペンテコステが信じた者における聖霊のバプテスマであったことです。つまり聖霊のバプテスマを受けていなければ、どんなに神を信じていようと、一つにはなれないのです。今日の教会のほとんどの問題が、この一点にあると言って良いでしょう。かつてキャサリン・クールマンはそのミッションスタッフについて、聖霊のバプテスマを受けていないスタッフとは、共に仕事をすることは出来ないと明言しました。それは当然なことであり、今も同じです。

 ですから私たちは主イエスが祈ってくださったように、聖霊の内住に留まらず、聖霊のバプテスマを求めましょう。問題は聖霊のバプテスマの認定です。明確な体験があることが目安になります。自分が受けたかどうか分からないような聖霊のバプテスマがあるでしょうか? また神さまとの体験をされた方で、はっきりしない方、その方は祈り求めてください。may beですが、必ず与えられるはずです。

 聖霊のバプテスマは、九つある聖霊の賜物以前に新生を伴い、その聖霊の実を実らせます。私は賜物よりも実の方を重く見ます。祈りましょう。受けた人はますます注がれ続けられるように、受けていない人は荒野でマナを求めるように、あきらめず熱心に祈り求めましょう。神はあわれみ深い方なのですから。

2020年6月 7日 (日)

生き返ったラザロ

ヨハネ 11章43節   【新改訳2017】
 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」

 なぜすぐにイエス様は行かれなかったのでしょうか?まず押さえておきたいことは、ベタニアはエルサレム滞在時にはここを本拠としておられたほどのエルサレムから数kmの距離であって、イエス様にとって今や危険な所です。そのためかイエス様たちはヨルダン川の向こう、ペレアに滞在しておられました。その事情を知っていたか、あるいは慎みのためなのか、イエス様に送った使いでも、マルタたちは、危険な病状にも関わらず「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者(ラザロ)が病気です」とだけしか知らせませんでした。しかしそんな気遣いもイエス様はこの事態について逐一承知しておられ、神の栄光の計画に織り込み済みのことだったのです。
  聖書にはイエス様の三つを含め全部で七つの死人が生き返った記事があります。そのほとんどが死んだ直後のケースでしたが、このラザロの生き返りだけはまったく異なります。ラザロは死んで四日経ち、すでに腐臭ただよう状態だったからです。腐乱死体を再び生きた元通りにするとは、世界の歴史始まって以来、空前絶後の出来事です。マリアの処女の受胎と同様、どのような説明も不可能です。人は信じるか、信じないかのいずれかです。

 この生き返りは最大の祭りである過越の祭に集まって来た大勢の人々が見ることとなり(ヨハネ12:9)、イエス様の都への入場の際にはなつめ椰子の枝を手に手にもって「ホサナ」と叫ぶ、大群衆へと成長したのです。この事態は時の権力者たち祭司長やパリサイ人にとって、自分たちの権力基盤が崩壊するかどうかの瀬戸際に追い込むことになりました。

 それゆえ、どんな手を使ってでも、祭司長やパリサイ人はイエス様の存在を抹殺する緊急事態に追い込まれ、何があってもそうする決心に追い込まれたのでした。つまりラザロの生き返りはイエス様が神であることと、そのイエス様を殺そうとする決心を固めさせた二重の結果を伴ったという事になります。ラザロの生き返りは、神の時が満ちたことを現す出来事でした。生と命を完全にコントロールされているこの神を、私たちは信じているのです。私たちを愛して、永遠のいのちを十字架によって与えてくださった神を崇め、心から讃美しましょう。

2020年5月31日 (日)

渇く人

ヨハネ 7章37-38節   【新改訳2017】

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 本日はペンテコステです。さて聖霊降臨日である本日のテーマですが、聖霊という霊的な満たしに飢え渇いている人は、本人にはそうは思えていないでしょうが、実は幸せになれる可能性が大きい人なのです。逆に渇いていない、そこそこ今の生活に満足しているクリスチャンライフを送っておられる方に、永遠につながる平安や喜びは遠いのです。

 自分自身に罪深さを認め、その癒やしと満たしを求める渇きがある方、神はそのままにせず、通される道はあるでしょうが、やがて必ず答えてくださる、あわれみ深い方であることを私は知っています。探し求めたその先には、やがて神の真の祝福を見出されることでしょう。しかし渇きのない人には、それがありません。馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないのです。

  さて今一度、聖書での「渇く」この意味を探ってみましょう。イスラエルのパレスチナ地方は空から見ますと、東に広大なアラビア砂漠があり、乾期になるとそこからの熱風に見舞われる地域です。この期間は雨が降らず、ほとんど半砂漠地帯となります。この乾燥の厳しさは、私たち日本人には想像が難しいほどです。
 このパレスチナではヨルダン川以外はオアシスか井戸しかなく、大半はワディと呼ばれる涸れ川となり、半年以上も強烈な乾期が続きます。大地は干からびていますから、11月からの雨期に雨が降ると、大地を潤すことなく、たちまち洪水のようになります。ですから一年中流れの尽きない川とは、貴重な命の源であり、たとえようもない価値を持ちます。

 この文脈でヨハネ7:38「生ける水の川」とイエス様が言われたことは、次のような意味があるようです。一つは罪が無かった時代のエデンの園の回復であり、またそれは黙示録22:1でいう「いのちの水の川」という、天の国の実現成就を現したことであること。神イエスの十字架なしに私たち人間の罪は贖われず、助け主聖霊様も人が罪あるままでは内住が困難である。この地では水はいのちそのものであった。こうしてみると、イエスの十字架がすべての土台であったことがわかる。神の愛が十字架を通して現されたのだ。また水は一度で良いというものではなく、飲み続けなければならないものだ。それはふだんの神との交わりの大切さ、祈りの恵みと言うものを指している。それゆえに、私たちは常に渇くのだ。

 十字架によって私たちが神の愛を知るなら、常に祈りを通して、いのちの水の川から霊的な祝福、涸れない恵みを受けて行こう。受ければ受けるほどますます神の偉大さを讃美し、自身を謙遜にしてくださる恵みである。

2020年5月24日 (日)

信じる者は永遠のいのちを持つ

ヨハネ 6章47節   新改訳2017

まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。

 先ほど使徒信条を交読しましたが、私たちの東京アンテオケ教会ほか、カトリック教会まで含めて、ほとんどのキリスト教会は使徒信条を自分たちの教会の信仰告白にしています。また〇〇教団とか単立〇〇教会と、それぞれ特徴を持った教会がたくさんありますが、実際には教会は一つしかなく、このことを普遍的キリスト教会と言ったりします。

使徒信条(しとしんじょう)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン

 ですから使徒信条は聖書ではありませんし、聖書以上のものではありえませんが、本当の教会であるかどうかのバロメーターになるものです。どうしてでしょうか。それは三位一体を明確に現しているからです。つまり、極めて初期の段階から三位一体を否定する異端は、イエス・キリストを最高度の人物のように扱いながら、どうしても人間としてしか見ようとしなかったことをあらわしています。実際、現代でも「エホバの証人」「モルモン」などは、イエスが神であることを認めません。これは二千年間も続いているサタンの攻撃なのです。

 しかし、イエス・キリストが神であることを信じることが、使徒の時代から受け継がれてきた普遍的な教会の信仰であり、それは、イエスが聖霊による処女降誕であること、十字架で死んで復活し、今もなお神の右に座しての審き主であることを信じることでした。

  1世紀、140年頃のローマ信条に使徒信条は由来があり、数百年かけて現在の形になりました。つまり使徒の信仰をもっとも表していると言う意味で使徒信条と名づけられているのです。またこれはおそらく使徒の時代直後からずっとバプテスマの前に、査問会のような信仰を問う場において投げかけられる問いでもあったとされています。

 ですからみなさん、謙遜に謙虚になりなさい、賜物の働きは、注がれば注がれるほど人を畏れさせ、謙虚にさせる。リバイバルの大いなる注ぎの前に、神のものを自分のものにしないように、心からの徹底した謙虚さが前提です。高慢さというものは最大の敵です。私たちは自分の霊、魂の状態に目を醒ましていなければなりません。

2020年5月17日 (日)

ふさわしくない者

マタイ 10章38節   【新改訳2017】

 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 人はどのようにして神にふさわしくなれるのでしょうか。もし、自分の力でそれが可能だと思っていたとしたら、私の見方ではある意味、自分が分かっていない迂闊な人か、あるいは思い上がっている人なのと思ってしまいます。けれども多くの方にとっては、聖を前にして我が身の至らなさ、醜さに苦しんでおられるのが実状ではないでしょうか。しかし神が聖としてくださることはみ心ですから、あきらめない限り、時が来た時に成就し、喜びに変わるのです。<1テサ5:23,1テモ4:5,ヘブル10:10>

 では自分が御国にふさわしくないと思っているままで良いのでしょうか。断じて違います。ここが大切分かれ目になります。私たちは必ず、神を愛し、天への希望が本物なのか、忍耐が試されるのです。早々にあきらめる人は、もともと良い地ではなかったのです。これを思う時、わたしは「富める若人」の話を思い出します<マタイ19:16>。 この青年は富と家柄に恵まれていただけでなく、「永遠のいのち」に深く関心を持つ超まじめ青年でした。その彼でも「自分が永遠のいのちを受けるにふさわしくない」ことを知っており、苦しんでいたのです。そしてこれが最大の問題ですが、彼はこれまで以上に「どんな良いことをすればよいのでしょうか」と、なおかつ自分の行う力に希望を持っていたのでした。

 イエス様は彼の模範的で真摯な生活を認め、慈しんで言われました。「あなたの全財産を貧しい人に施して天に宝を積み、その上で、わたしに従って来なさい<マタ19:21>」と。これを聞いた青年は、それが出来ないので悲しく立ち去ってしまいます。これは行いでは不可能であることを示しています。
 これを聞いていた弟子たちが「それでは誰が救われるのでしょう」と疑問を持つのです。イエス様が厳かに語られたのは「人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます<マタ19:26>」。これが信仰だと私は思います。つまり信仰とは自分に対する行いへの希望ではなく、与えられることへの信頼であり、確信なのです。

 このように私たちは、自分の力で実を結ぶことは出来ないのですから、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のたとえの通り、ますます神に対して謙虚になるしかありません。しかし一方で、まるで自分で得たもののように誇る人たちも出てくることでしょう。それぞれの実が見分けのポイントになります。それは神に全ての栄光を帰す謙虚さです。

 このような視点で,自分の罪に気づき、己がふさわしくないと悔い改めを歌ったアメージング・グレイスに私は感動します。日本語では聖歌「驚くばかりの」を共に讃美しましょう。この曲には天国への道が開かれています。

2020年5月10日 (日)

新しい皮袋

ルカ 5章37節  新改訳2017

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。

「新しい皮袋」聖書由来のことわざには「目から鱗」「豚に真珠」と本日のこの「新しい酒は新しい皮袋に」とあります。但し聖書から正しく理解するならば、かなり意味が異なって来ます。
 まずこのたとえは断食についてのパリサイ人の質問から始まりました。パリサイ人たちはイエス様の前に陣取り、カペナウムでの中風の人の癒やし以来つきまとい、このような質問をして様子をうかがっていました。ですからこのたとえの、古い葡萄酒と古い皮袋とは何を指すかがポイントになります。

 パリサイ人らにとって、断食は<施し><祈り>に並ぶ重要な宗教的な行いでした。断食をしないイエス様について、バプテスマのヨハネの弟子たちですら疑問に思っていたのです。これは花婿として来られたイエスのメシア性を理解せず、古い律法の枠内でしか理解できなかった彼らの限界を示しているのです。イエスは十字架の血による新しい葡萄酒であり、律法の縄目を解き開き、天への道を開く預言の成就、花婿たるメシアでした。新しい皮袋、新しい律法としてイエス様の説く福音を受けなければならないのです。

 しかしパリサイ人たちは神のことばをタルムード(口伝律法とその解説)などの人間的な理解に置き換え、これを金科玉条とし、ただ形式的に守ろうとするだけであって、イエスの神性、預言の成就をないがしろにしました。ですから古い酒と古い皮袋とは彼等のことであり、キリストの福音を受け入れられずに滅ぶたとえなのです。

 イエスの到来はメシアの時代の到来、喜びの婚宴の始まりでした。悟れなかったパリサイ人は、この場で何か衝突は起こすことはありませんでした。しかし、一言で言えばこれはイエス様の宣戦布告です。国の権力者たちと、民衆しか後ろ盾がない田舎出の一人のラビとその弟子たちの戦い、その後、すべては神のロードマップ通りに進んで行くのでした。

 新しい葡萄酒は発酵し続けます。今日的な課題として、私たちがいつまでも新しい葡萄酒を受け続け、その入れ物となるためには何が必要でしょうか。神はいつの時代でも不変であり、永遠です。それならば私たちに必要なことは「新生」です。私たちは罪深く、自己中心であって、自分の力で神に自分を捧げたり、聖化にあずかることは出来ません。己の真実を知って悔い改め、また神の絶大な偉大さ、その愛とあわれみを知った時、飢え渇きを持って新生を待ち望むことができます。神によって与えられる新しい霊と、その聖霊が自分の主として従い、愛し、進んで神の御心だけを行う者として、新しい人生を歩む者とされましょう。まだの方は共に節に祈り求めましょう。新しき皮袋へと。

2020年5月 3日 (日)

9人はどこにいるのか

ルカ 17章11~19節   【新改訳2017】

11 さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。
12 ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、
13 声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
14 イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
15 そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
17 すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
18 この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
19 それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

 本日の聖書箇所は、イエス様が十人のツァラト(重い皮膚病、以前は癩病と訳す)で苦しんでいた人を全員癒やされた記事です。しかし大喜びで神をほめたたえ、感謝しに戻って来たのは、神を知るイスラエル人ではなく、異邦のサマリヤ人でした。イエス様の「(残りの)九人はどこにいるのか」と嘆きが心に響きます。

 この九人はこれまで社会から隔離され、差別され続けた人生でした。十人にとって癒やしは、どんなに喜びであったことでしょうか。しかし九人にとってはそれが信仰に結びつきませんでした。いわば神への忘恩の徒になったのです。どんなに癒やされても、罪が赦され、救われなければ、必ず来る滅びからは免れません。

 私たちの群れの大きな特徴は、1テサ5:18<すべてのことにおいて感謝しなさい>にある通り、どんな悪いことでも感謝する信仰です。ですから交通違反で切符を切られても「か、か、感謝しま~す」、仕事で失敗し上司から注意されても「か、感謝します」と告白します。しかし多くの場合、感謝の喜びではなく、引きつった顔で、ただ口先だけで言っているのではないでしょうか。もちろん、呪いの言葉や腹いせの言葉を吐くよりははるかによいでしょう。しかし神は心を見られます。その神の御前に立ち、失敗であれば先ずそれを悔い改め、その次に「このことが赦されたこと」に対し、その御心を心から感謝する者として、神への信頼と信仰を告白する者でありたいと思います。

 では感謝とはどういうものか、今一度振り返ってみましょう。故マーリンさんの著書「獄中からの賛美」に「サタンは、神の許可を受けなければ、わたしたち(クリスチャン)に対して、指一本触れることができない」(p120)という下りがあります。ただしこれは、神に自分を完全に献げていること、つまり神のものとされている信仰が前提になります。マーリンさんのことばは、聖書のヨブ記やローマ8:28からも正しいのです。つまり世的な基準や、自分の人間的な判断では、どうみても悪いこととしか思えないことであっても、それは神が「良き計画」として許されたことです。それ故にそれを受ける私たちは、どんなに悪いこととであっても、心から感謝できるはずですし、実際、喜び感謝するのです。

 神は人の思いを超えた、はるかに素晴らしい最善しか、おできになれない方です。実際私の体験でも神が許され、なさったことは、何もかもが素晴らしいことでした。ですからどんなことにでも心から感謝し、喜び、また迫害する者のために祈り、その祈りの力を求め、まず自分を無にし差し出すならば、神は最善に変えてくださるのです。

2020年4月26日 (日)

自分を捨て自分の十字架を負って

マルコ 8章34-27節   【新改訳2017】

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。

 聖書では「悪は、みな内側から出て来て、汚すのです(マルコ7:23)」とあるように、人とは罪深い存在です。その罪深さを認識するかしないかが、各人の生き方に決定的な違いをもたらします。さらに言えば、イエス・キリストの十字架の愛を知らずして、この望み無く救われ難い己の罪深さに向き合えません。

 昨日の土曜日の仕事中でのことでした。スタッフの雑談でこんな話を聞きました。子どもたちに命の大切さを教えようと、「命っていくつあると思う?」と尋ねた時、なんと「二つある」と答える子がいてびっくりしたと言う話でした。心の中でですが、「その子は間違ってなんかない」と私は思いました。

 私たちの信仰は、イエス・キリストの十字架の死と復活の二つのいのちにあります。はじめの血肉の命は、もう一つのいのちのためにあります。もう一つのいのち、それは霊体ではなく、最終的には血肉にまさる御霊の体となります。この滅びない御霊の体を持って、天のエルサレムで神と共に生きることこそ、私たちの目的です。ですからこの二つ目のいのちをめざし、「自分を捨て、自分の十字架を負って」この世を歩んで参ります。

 ただし、この「自分を捨て」が容易ではありません。それどころか自己中心という罪深い己の罪性に、自分の力でできることに絶望しています。それでただ、神のあわれみと愛に依り頼み、期待するしかない自分があります。そのことを「自分の十字架を負って」と理解しています。どんなに祈り願っても、神に自分を捧げ尽くすことができない自分。その罪深い自分を偽らず、ありのままに赦され、十字架として負い続ける意味であります。

 今回、38節の「恥じる」意味に示しがありました。「拒む」と同義語ですが、どうして「恥じる」のでしょうか? 「恥じる」とは、迫害の時代にあって信仰を問われた際、クリスチャンと告白できなかった人が、後になって良心を責められ、悔い、恥じるという「恥じる」の意味だと。その人は血肉の命よりも霊のいのちを優先できなかったのです。しかし主はそれに対して明確に答えておられます、「私も恥じる」と。
 迫害では、取り調べで役人たちが「なあに、そんなに深刻に考えなくてもいいんだよ。ただ踏み絵を一度踏むだけで助かるんだ。信仰はお前の心の中で守り続ければいいじゃないか」と囁くことでしょう。しかしイエス様は明確にそのことを「ノー」と言っておられるのです。主を辱める事のないよう、第二のいのちを得るよう、目を覚まして祈り備え、全てをご存知の神の力に期待し続けましょう。

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