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闇はない

Ⅰヨハネ 1章5節   2017新改訳

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです

私はいつも失敗した書類を身近に置いています。交通違反した青い反則キップ、仕事で失敗した始末書など。これらを時々見ると、自分の失敗を思い出します。自虐的な趣味からではなく、高慢になり易い自分を改めて認識し、今後同じ過ちを繰り返さ図に済むよう、神に助けを求めて祈っています。その時いつも私は神さまの愛を覚えるのです。こんな私をも神が愛して下さっていることを。
 ところがクリスチャンであっても聖霊の注ぎを受ける前までは、このようではありませんでした。そんなマイナスな書類は即刻処分し、無かったことのようにして忘れることにしていました。つまりマイナスな自分を受け入れられないわけで、これは前向きな姿勢ではありませんでした。実際、そのつけのように、カメラのフラッシュライトを浴びたように、過去の失敗を時々思い出すのでした。
 それが度重なり、始終来るようになると、本当の自分がわからなくなってしまうようです。いわゆる解離性障害の入り口に立つのです。真の自分に目を背けるなら、その偽りはサタンにつけ入れられる闇となります。最近、仕事の関係で「解離性障害」に関心を持っています。「自分を守る」心の働きが、結局、自分自身を最も傷つけてしまう病です。(参:マタイ12:43−45)

 霊的に見るなら、弱く罪深い自分をありのままに受け入れられない心の機制が、悪霊の虜にされてしまう。このことからの解放は、すべての罪を赦す十字架無しに解決は不可能です。人は弱く、罪深いのですが、それをも赦し、愛してくださる存在があって、人ははじめて自分のありのままを受け入れることができるのです。
 父なる神に罪を悔い改めて告白し、赦され続けている者に、闇はありません。神は一切の闇を明るくする光なのです。実際天のエルサレムが降りてくる時、聖所からの光は神であり、そこには夜がありません。ですから真のクリスチャンは光の子であり、闇がないのです。
 一番大切なことは神の愛を知識として知っているのではなく、個人的な実際の体験として知っているかどうかということです。神の愛は私を私と和解させてくれます。守るべき自分は、取るに足りないこと、完全に溶け去ってなくなてしまうからです。自分よりも、もっと大切なものを見つけたからです。
 神様が触れてくださるカリスマ体験以降、頭でっかちクリスチャンだった私は、自分の失敗や不出来さを隠したり、逃げたりすることが無くなりました。こんな愚かな私まで愛して、十字架に架かってくださったイエス様を心から愛します。ですから違反キップを次の新しいものになるまで(笑い)、宝物とはいきませんが、振り返るためにもずっと持っています。隠す闇はないのです。

2022年9月11日 (日)

神の奴隷

ローマ 6章22節   新改訳2017

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。

 人は自覚しようがしていまいが、生来人は罪の奴隷である(※原罪とも言う)。ただ、キリストを信じ、罪の奴隷から、神の奴隷に替えていただける場合がある。もちろんそれは新主人となる神の意向次第なのだが、最後に買われていく奴隷側にも受諾の意思を確認される機会がある。それが信仰告白なのだ。多くのクリスチャンが勘違いしているかも知れないが、罪の奴隷から解放され、自由となって晴れて好きなように自分が生きていく、そんなことはあり得ない。確かに聖書ガラテヤ5章には「自由を得させるために」とありますが、それは主にある自由であって、「堅く(※信仰に)立って、再び奴隷のくびきを負わされないように」とある通りである。

 ひと昔前の奴隷時代、奴隷はその主人によって人生のすべてが大きく左右されていた。良い主人にであるならば、たとえ奴隷から解放される機会があったとしても、生きていく手段を持たなければ、生涯を奴隷として生きる選択をする者も多かったようだ。家族が居ればなおさらである。罪の奴隷から神とキリストの奴隷へと替わることは、ただ買い取られて持ち主が変わるだけでなく、あり得ない恵み、主人の嗣子(跡取りの養子)にと劇的な変化が伴う。さらに驚くべきことに、この主人キリストは、私を買い取るために自らを差し出し、贖(あがな)いの十字架に架かって苦しみの極みで死んでくださったのだ。キリストにあがなわれて、神のものとなった私たちは、罪の奴隷から解放されて自由になった心で、今度はキリストに自分を感謝し、キリストを愛し、すすんで自分を捧げる決心をし、その御心を行う忠実なしもべ奴隷として新たに生きるようになった存在である。これを新生という。ただ、これには三位一体のもう一つの神、聖霊体験が伴わないと実際的な効力が伴わない。

聖書でパウロはローマ1章1節、テトス1章1節で、またヤコブも1章1節で、bondservant(希doulas)と言う、奴隷という言葉を使っている。この言葉を使うからには、彼らも又、以前は罪の奴隷であったことを意識していたことが分かる。罪奴隷である意識が無いところに福音も悔い改めも届かず、新しい主人を歓迎し、その奴隷にすすんでなる気にはならないだろう。罪の意識は、その人に神があらかじめ<聖>を入れておいてくださるからこそ、自分の闇である<罪>が分かるのだ(ローマ8章30)。その意味で私たちは選ばれた存在であり、神に感謝を捧げ、自分たちを誇ることはできない。すべていのちある者は主を賛美せよ!

2022年9月 4日 (日)

You are A Warrior

ローマ 7章23節   2017新改訳

私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。

 Warriorとは戦士の意味です。日本語の武士とか兵隊より、また軍人の意味に近いSoldierよりも、今回の意図に近い言葉になります。
 なぜWarriorなのでしょうか?それは私たちクリスチャンは絶えず困難な戦いの中に置かれているからです。ローマ人への手紙 7章23節にあるように、肉体という罪の律法が私たちを虜にしているのに対して、聖書と聖霊による義の律法があり、この両者はクリスチャンである私の中で、常に激しい戦いを続けているからです。

 この戦いについて、若い時には、からだが衰える老境に入れば勝負はつくと思っていました。しかしそれは誤りでした。また、歴戦の勇士のように経験が増し加われば、た易く勝利するようになるとも思っていましたが、それも誤りでした。さらに聖霊のバプテスマを受けた直後のように、聖霊に満たされ続けて行けば楽勝だと思っていましたが、その聖霊は完全にではありませんが減衰し、戦いはかえって激しいものとなっているのでした。それは聖が引き上げられると、それまで気がつかなった悪と罪の意識も深まり、その闇もかえって深まるのでした。

 この戦いは主の霊を注がれた戦士がするものです。それ以外のクリスチャンは、聖書によって罪の状態が分かっていても、戦う術を知らず、自分が虜になっていることすら認識できていないことが多いので、本格的な戦いにはなりません。
 真の戦士は自分の弱さを試練によって徹底的に知らされているので、戦う意志はあっても、神により頼んでいます。Majesty(陛下)である神の指図に従って、その勇士、戦士として戦います。実際、これが最善な勝利、主の栄光を結果としてもたらすことを知っているのです。

  このように戦士となるには、聖霊のバプテスマの前後に、神から厳しい試練という訓練を受け、自分に死に、神に生きることを得ていることが前提になります。また戦士は世の賞賛を受けることなく、時に一見惨めに見えるラザロであったり、殉教の血を流しています。しかし戦士は目を天に向け続けており、天の報い、霊的な勝利者となっているのです。この世の目で判断してはいけません。

 この戦いの真の敵は誰でしょうか?それは肉なる自分自身です。自分自身に死に、神の所有とされた戦士には、敗北はあり得ないのです。戦いは既に終わっていると言っても過言ではありません。

2022年8月28日 (日)

世に打ち勝つ信仰

Ⅰヨハネ 5章4~5節   2017新改訳

神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

 「聖書は誤りなき神のことば」だと信じることがどんなに大切か、そのことをリバイバルナイトでの木原ヨハネ副牧師は強く証しされたのです。「聖書のみことばは神のことばである」、これが頭で分かっているのではなく、はっきりと体験できるのは聖霊の働きによるのです。   聖書はすべて神の霊感によるもの(2テモ3:16)と聖書自身が証していることなのですが。執筆者は神であって、人はその忠実な書記に過ぎないのですから、聖霊様の助けなしに<神のことば>が神のことばであることが分かることは不可能です。

 聖書について考えてみれば、私たちの信仰、教会、生活など、そのすべてが聖書に源を発し、聖書を拠り所とし、聖書を究極的な目標としています。聖書以外の教会の伝統とか、神に準じる代理人的な権威というものは一切存在しません。ですから聖書だけが私たちの全基準なので。。

 聖書を基準とする一例としてLGBT+があります。聖書では男色は、はっきりと神の国を相続できないと記されています。最近の遺伝子調査においても、性的指向(LGB)を決定する遺伝子は見つからず、基本的には(胎児期を含めた)環境による影響が大きいとされています。ですからこれは障害ではなく、直ることが可能です。私たちはこのような人々をも愛し、立ち直れるよう祈りを持って神に取り成す、というのが聖書的な正しい方法だと言えるでしょう。

 私たちは聖書によって、聖書自体が神のことばであり、三位一体である主イエスの神性を信じます。主イエスが神でなければ十字架の意味がないのです。又罪の赦しに、主イエス以外のいかなる仲介もあり得ません。免罪符、告解、イエスの生母マリアの無原罪などを否定します。聖書では世の権力や進化論も関わりがありません。

 しかしキリスト教会の歴史を見ると、聖霊は子孫に継承されることは困難です。あくまで神のもの、人のものではないからです。ひとたび聖霊を失うなら、父が神のことばとした聖書も、子は一般の書物と同じように、自分達人間の力と視点で神のことばを判断しようとするのです。そしてそれがキリスト教会で普通になっていくのです。私自身も、木原副牧師のような体験をするまでは、人間的な理解に終始し、みことばは私にとって力のないものでした。こうして聖霊を受けていないクリスチャンと教会、つまり死んだようなキリスト教が今や真のクリスチャンを迫害するのです。

 私たちはこの世の知恵で聖書を見下ろす彼らの不信仰を受け入れてはいけません。そして神のことばである聖書を、聖霊様の助けと説き明かしによって神のみこころを知り、みこころを行う者となるよう祈りましょう。神のことばは神のことばと悟らせる聖霊様の導きによって読むのです。

2022年8月21日 (日)

永遠のいのち -行き着くところは-

✝ ローマ 6章23節   2017新改訳 

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 今のこの国の社会で「自分の命よりも大切なものがあります」と言へば、おそらく人々は驚くだろうし、理解できない変人とか危険視扱いされるのがオチであろう。逆に言えば、ほとんどの人は、自分の命以上の価値を知らないと言っていいかも知れない。

 金曜日の夜遅く、ベランダで一人、本日のテーマを祈り、模索していた時のこと。突然「キキキッ」と大きな蝉の鳴き声がして、すぐ近くで蝉のぶつかる音がした。すぐに静かになったので、気にもしないで祈り続け、終わって部屋に入ろうとドアを開けると、差し込んだ部屋の光で、蝉が私の足元でひっくり返っていた。たぶん死んでいたどろう。

 血肉の命が終わっても人には霊があり、永遠のいのちの世界があることを、どれほど多くの人が真剣に考えているのだろうか?もし、永遠のいのちを知らずに死ぬなら、まことに失礼ながら,この蝉とどこが異なるのだろうかと私は思う。蝉も、人も、果たすべき命の勤めを果たして、やがて共に土に還るのだ。そこに相違はない。
 しかし人はそれだけで終わりではない。滅ぶことのない永遠の人間の霊は、その後、天国(神の国)と地獄(ゲヘナ)のいずれかで生き続けることになる。もし地獄に行けば、永遠の苦しみの中で、滅べないことを嘆き続ける事になる。生前の罪がこの二つの国を隔てている。法律上の罪ではない。ただ十字架によってその罪が赦され、罪なき人だけの天国人となれる。
<ヨハネ5:24~信じる者は、-略-さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています>

十字架の<罪の赦し>が無ければ、すべては裁かれ、滅びに至る。キリストを信じる者だけが永遠のいのちを得る。その上で、神はご自分を信じた私たちを「わたしの兄弟、姉妹」としてくださるのだ。何という恵み、喜びが天の国ではあるのだろう。

<マタイの福音書 12章49~50節~イエスは弟子たちの方に-略-だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです>

 私たちは自分の力や努力でイエス・キリストを信じ、神の子とされ、兄弟だとされたのではなかった。神が、この世で生を受ける前に私たちを愛し、あらかじめ信じる者として下さった。だから決して誇ることなく、ただひたすら神に感謝をしよう。この世では、取るに足りない私を愛して下さった神に。

マタイ12章49~50節 ~イエスは弟子たちの方に-略-だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです

 私たちは自分の力や努力でイエス・キリストを信じ、神の子とされ、兄弟だとされたのではなかった。神が、この世で生を受ける前に私たちを愛し、あらかじめ信じる者として下さった。だから決して誇ることなく、ただひたすら神に感謝をしよう。世ではこの、取るに足りない私を愛して下さった神に。

2022年8月14日 (日)

癒やしとしるしと不思議

✝ 使徒 4章30節  2017新改訳

  また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。

 ペテロとヨハネが留置された夜から教会は二人のことを一晩中祈っていましたので、恐れずに証した報告と祈りを聞くと(31節)「集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」のでした。二回目のペンテコステのような出来事が起こったのです。
 信者が自分の財産一切を差し出して共有したエルサレム教会の有り様は、このような聖霊に満たしによって起こったのです。聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)は、単に異言が出る表面的な現象を指すのではなく、その人の価値観が救いの恵みと喜びに溢れ、現世的な思考が払拭され、新生していなければ不可能です。御心一番、御霊に生きる者に変えられた姿です。

 このように聖霊の満たしによる<癒やしとしるしと不思議>は福音を大きく前進させます。人間的な伝道の努力をはるかに凌駕する神の働きです。これから始まる終末のリバイバルでは、私たちは「後の雨」として再びこの<癒やしとしるしと不思議>が大規模に現れることを知っています。大勢の人々がこれによって、救われて行くことも分かっています。しかしその時には、導火線のような証し人、信仰者が要るのです。私たちの教会はその使命を負っている教会です。ですから私たちはこの<癒やしとしるしと不思議>を祈り求めるのです。

 ところで<癒やしとしるしと不思議>をオールインワンでもたらす決定打があります。それは<死者のよみがえり>です。聖書には七つのよみがえりが記述されていますが、その中でも使徒ペテロを通しての奇蹟、ドルカスのよみがえりについて触れて参ります。

 七つのよみがえりの中でもペテロが「タビタ、起きなさい」と言葉によってよみがえらせたのは特別です。ペテロはヨッファの信徒たちに「よみがえりの奇蹟」を依頼されて、おそらく神に指示されてドルカスの所に来ました。ドルカスをよみがえらせたペテロは使徒の中でもさらに強められ、直後のコルネリウスとの出来事を通して、異邦人伝道を大きく開く最初の突破口となりました。
 実はこの教会にドルカスという洗礼名の婦人がいますが、聖書のドルカス少し似ているところがあります。ドルカスがペテロを通してよみがえりましたが、実はこのドルカスもペテロと結婚することによって、自分らしい自分に、生きかえったようになったのです。この結婚のために、バルナバのように、すべてを捨てることに躊躇しませんでした。そして見知らぬ地に来て、多少の苦労はしていますが、喜んでおり、後悔をしていません。なにしろ本来の自分に戻れて歩んでいるのですから。このドルカスという洗礼名がもたらされたエピソードや確認事項もあるのですが、それは長くなるので省かせていただきます。考えてみれば、実に大きな私的な奇蹟です。

 

 

 

 

 

 

2022年8月 7日 (日)

永遠のいのち

ヨハネ 20章31節   2017新改訳
 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 ヨハネ伝の20章の最後に、神のことば(聖書)が真理であるとし、その真理は信じる人々がキリストを信じて、(永遠の)いのちを得るためだとしてある。※参照ヨハネ17:17また、御名を信じていのちを得た者は、神が守られるのでだれも滅びないともある。

 では、永遠のいのちとは、どういうものだろうか?少しそれを考えてみたい。
 すでに多くのクリスチャンが理解しているように、人はハイブリッドエンジンのように、肉体の命と霊のいのちの二つのいのちを有している。ただその違いは、肉体の命は死によって終わるが、霊的ないのちは滅びないことにある。滅びない霊のいのちであるが、肉体の命がある間、自分の罪にどう対処したかによって、千年王国の終わり、最後の審判で大きく行く先が異なってしまう。罪が残る者はゲヘナに落とされ、死ぬことも許されない永遠の苦しみにあうことになる。これは身の毛のよだつような苦しみの世界なので、心が滅んでしまう意味で、滅びの世界である。
 
 しかしキリストの十字架を真に信じる者は、十字架によって罪が赦されるので、審かれず、罪の無い人々の神の国で、神とともに永遠に生きることになる。そこにはもはや死も苦しみも悲しみもない。神とともに生きる永遠の喜びの世界である。ゲヘナとは正反対の光の場所であるが、ひとえに十字架の恵み世界である。

 ここに一つ問題がある。それは人の罪深さである。おそらく血肉の命がある間は、<私という罪性>が完全に消滅することは、はなはだ困難だ。しかし神からの試練・困難によって、自分がどれほど罪深い存在であって、神のみこころが結果的にいかに正しく、愛に満ち、信頼すべきものかを思い知るのである。それゆえ、人である自分の考えや思いより、神に聞き従うことが最善で、それを選ぶ者に変わることができる。それ故どんなに肉的な惑わしが来たとしても、神を信じる者は悩み苦しむかも知れないが、最終的には神のみこころを選ぶのだ。

 神は愛する者を訓練される。そして耐えた者は神の愛を知る。いやいやながらではなく、神を愛し、心から神のみこころを行おうとするのだ。これを新生といい、罪の勝利者となる。もちろん、神のみこころがわかるためには、試練や困難を通しての聖霊の注ぎかけ、聖霊のバプテスマを受ける事が前提になる。さあ主にある者は、どんな時でも心から神に感謝しよう。  

2022年7月31日 (日)

もう一人の助け主

ヨハネ 14章16節   2017新改訳

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

 ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中でも特別な福音書です。共観福音書と呼ばれる他の福音書と比べ、最もイエス様に愛され、いつも近かった使徒ヨハネの福音書です。内容も濃密で、中でも13章から17章はヨハネだからこそ理解し、書き留められた主の御心のことば集です。私たちイエス様を愛する者がこれを聞いて、激しく心を揺り動かされないではいられません。

 本日は新しい戒めー「愛し合いなさい」という意味、ぶどうに例えられた実をつけ、実らせる意味、最後に「何でも求めなさい」‥‥この三つの事柄が、実はもう一人の助け主=聖霊を送られることによって一つに融合され、意味がわかるものであることを、解き明かそうとするものです。

 結論から言いますと、十字架によって約束のもう一人の助け主、つまり聖霊様が私たちに来られることが可能になりました。罪の難関が突破されたからです。しかし多くのクリスチャンと称される方は、聖霊様を自分のしもべに貶めています。つまり、「何でも祈り求めてよいのです」を盾に、自分の必要を満たす祈りをしているからです。
 確かに乳飲み児の場合は良いでしょう。しかし少し成長するなら、自分の父や主人に、そんな要求をする子やしもべがいるでしょうか。ただし、御心の祈りであれば、すべて叶えられて行くのは当然です。

 神が私たちを愛してくださったので、私たちは神を「愛する」ようになりました。特に聖霊のバプテスマを受ければ、神の御心を知る者となり、神の愛とあわれみの深い恵みのゆえに、もはや自分は死んで新生し、、ひたすら神の御心を行いたい一心になります。何でも祈り求めて良い、にすでに我が身のことは入りません。「互いに愛し合いなさい」の戒めが、自分という肉の力ではできませんでしたが、聖霊様からの力、愛の注ぎによって変えられて行くのでした。

 このことをイエス様は農夫とぶどうの木、それとぶどうの実にたとえて教えてくださいました。もちろん私たちはぶどうの実です。不可能が可能になった時、神の力を知り、決して幹から離れては何もできないこと、神を崇め、一層の謙遜にされるのです。

2022年7月24日 (日)

祈りについての教え

ルカ11章9節   2017新改訳

ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

 白馬本キャンプの二日目の早天聖会で、非常に興味を惹かれる二つのメッセージがありました。一つは問題や困難にあっても、この後に来る神の計画と栄光に比べれば、産みの苦しみであり、現状は取るに足りないことだと神を一層信頼するメッセージでした。
 続いてメッセージは、しつこく神に祈り求めることで願いは叶えられていくと、あくまで自分の願いを求め続けることで叶えられていくとされたのです。
 この二つのメッセージはどちらも聖書的には正しいと言えますが、真逆のことを言っているように思えます。困難に対し、神の大きな計画に委ねて行くものと、反対に真夜中であろうと隣家の友人を叩き起こしてパンを手に入れる。表面的には正反対のメッセージだったからです。

 ルカ伝11章でイエス様は「主の祈り」に続いて三つの教えを語られました。先ほどの非常識な隣家の友人などに続いて、締めくくりになる13節にこう語っておられるのです。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と。つまり天の最善の贈り物とは聖霊なのです。聖霊のバプテスマに優る神からのものはないのです。

 さてそれでは、先の二つのメッセージに戻っていきましょう。実は両者は全く矛盾していません。何でも神に祈り求めても良い、確かにその通りです。しかし非常識な友人も、シドン人の女も、いずれも自分のためではない、執り成しの祈りでした。損得のない、友達や子ども・・・・つまり「隣人愛」によるものですから、神に聞かれるわけです。
 ところが自分に対してはどうでしょうか。これには御心を損なう自己愛という罪のハードルがあります。ヤコブの子ヨセフの試練困難も、自己愛を打ち砕き、星や砂の数ほどの国民をつくる、神の約束の計画の成就にありました。この訓練パターンは、使徒パウロに至るまで、神が用いようとした人物への変わらぬ訓練課程です。
 私たちはしつこく自分のことを祈り求めて良いのです。祈りに導かれるならすべて良し、なのですが、霊的な乳幼児に対してと、愛と訓練が必要な子ども時代、聖霊のバプテスマを受け、新生し、神を知り、交わり、神への愛から御心を行おうとする青年期とでは、それぞれに神の対応が異なっているのは、むしろ当然のことです。
 大切なことは、何があっても幼子のようにひたすら神を慕い求め、愛することです。神は私たちの罪性に必要な訓練を与えられますが、子であればそれが自分にとって必要なことがわかります。ですから私の罪のために身代わりに十字架に架かってくださった父の愛から、この私たちが離れることは決してありません。

2022年7月17日 (日)

私の名を名乗る者

ルカ 21章8節  2017新改訳

イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。

 弟子たちは終末のしるしをイエス様に聞きましたが、兆候は21章で語られた通りです。しかしその時がいつなのか、日時を決めるような決定的なことは天使たちも、主ご自身でさえも知らないと語られているのです。
 さて終末が近づくと戦争や社会不安、飢饉や疫病、天変地異などが起こり、これらに乗じてキリスト教の異端が勢いを増してきます。主が語られたように、偽キリストが現れてくるのです。本日は安倍元総理が暗殺されて一週間余り、この歴史的事件の背景、旧統一原理との関わりが徐々に明らかになってきました。この国では私たちも一括りにキリスト教として同一視されかねません。きちんとした把握と対応をしておく必要を迫られてのメッセージいたします。

 事件の詳しい背景を省きますが、要するに容疑者の母親を狂わせた旧統一原理への恨みが暗殺の原因でした。この教団に関しては四、五十年前から国会でも問題になっており、韓国のこの教団は、特に日本を韓国本部への貢物の国として信者から資金を吸い上げる役割を持たせています。すべてのお金を献金するだけでなく、借金までして、当然自己破産までして献金することが多いのです。そのために山上容疑者の家族は経済が困窮し、教団に恨みを持ち、それを晴らすため、わずかな接点でしかなかった安倍元総理を殺害する意図を持ったのでした。

 このカルト教団は名前を変え、勧誘に際しても正体を隠して行い、現在まで生き残っていたことも驚きですが、私たちにおける「十分の一献金」や「すべてを捧げる」、あるいは霊の戦いなどの「霊的対応」など、聖書もキリスト教も知らない一般の人から見たら、たぶんに「どこが違うの?」と誤解されることでしょう。もちろん全然異なるのですが、そのことを詳しく説明しても、私の体験では納得していただくことは困難です。
 なぜなら信仰は信じることから始まりますので、信じていない人にとって、言えば言うほど自己弁解に聞こえてしまうようです。本物を知らない人が、本物を見分けることは困難なのです。

 ではどうすれば良いのか?それは私たち真の信者が<実>を実らせたキリストの証人としての使命を果たすことです。元々私たちは救われるべき何らかの価値を有し、優れて力があり、見分ける目があったので、クリスチャンになったのではありません。そうではなく「世界の基が据えられる前からー中略ーみこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:4)のですから、私たちの内に住まわれる聖霊様の力と恵が流されるよう無私になって聞き従い、聖霊様の愛と真心、謙遜による実を豊かに証して行くことしか希望はないのです。
どうかそのことを祈り、求めてまいりましょう。これは御心ですから、祈りは必ず成就するのです。

2022年7月10日 (日)

神の国はどこに

ルカ17:20~21  2017新改訳
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。

「神の国はあなたがたのただ中にある」とありますが、そう聖書で語られて、単純に喜んでいるか、何だかよく分からないでキョトンとしている、そんな人たちが多いのではないでしょうか。先週私はルカ11:9での有名な「求めなさい、そうすれば与えられます」を次のようにお話ししました。「(聖霊を)求めなさい」であると。
 神に祈る時、多くの方は七夕の短冊や神社でお賽銭をあげての願掛けの類に近い祈りをしていらっしゃるようです。それはそれまでの経験上、<祈りが神に答えられた>ことはない現実があって、その確信など持ちようがないためではないでしょうか。別に親族や仕事上の祈りをしてはいけない、と申し上げてはいません。ただそれらは、私たちの弱さから来る肉的な祈りです。
 もし私たちが神のみこころを祈るならば、それは必ず成就します。神に不可能はないからです。しかし多くの方は神のみこころではなく、自分の必要、希望、欲求を祈ってしまうのです。それでは、よほどの神のあわれみで聞かれる、稀なケースでしかあり得ないでしょう。
 私たちはどんなことでも感謝します。私たちが祈る肉的なさまざまなことは、神が許されて存在していることです。ですから個々人に問題を許されている、その背後にある神のみこころを知らずに肉的な祈りをすることは、見ようによっては、神の計画に背いていると言えます。

 それでは私たちは如何にして、神のみこころを知ることができるのでしょうか。神のみこころは、同じ神である聖霊を通して意外、私たちは知る術がありません。それ故にルカ11:13で祈りに対してオンリーワンの答え「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と述べてあるわけです。聖霊様を与えてくださること、これこそがみこころを知る唯一の方法であり、みこころを行って私たちが天に宝を積む道です。
 ですから皆さん、聖霊を求めましょう。聖霊の満たし、バプテスマが必須です。新生した心は、もはや自分の願いや求めを祈ることは後回しで、ただただ愛する主のみこころの成就を祈り求めるのです。

2022年7月 3日 (日)

求めなさい。そうすれば与えられる

ルカ 11章9節13節   新改訳2017

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 ルカ11章9節のこのみことばは、「とにかく神に祈って求めれば、叶えられる」と受け取られがちです。しかし祈っても確実に答えられているわけではないようで、失礼ですが人によっては、強迫観念とか願掛けやお百度参りの部類に近いのかもしれません。
 確かに私たちに祈る必要は多く、祈ることは大切です。祈りにいのちを見出し、クリスチャン生活の恵み、醍醐味の一つです。まさに「祈ってナンボ」とすら言えるでしょう。この機会に祈りについて、叶えられる祈りとそうでない祈り、今一度みことばから考えてみましょう。
 
 見落としてはならないのに、この9節の少し後の13節に、このようなことばがあることです。
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。
 ここで神が求める者への与えてくださるもの、それは実際に必要なパンや魚よりも、聖霊だと言われています。聖霊、それは必須で最良のものなのです。それはまるで「(聖霊を)求めなさい。そうすれば与えられます。(聖霊を)探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば(聖霊が)開かれます。(同9−10節)」と言われているようです。

 わたしたちは普段、自他の病いの癒やしや物質的必要、家族や人間関係等での必要に迫られて祈ります。もちろんそれらは必要なことで、わたしたちは神に解決の希望を持ち、期待します。しかし見ようによっては、すべてのことが神に許されて起こる出来事のはずなので、すべて感謝し受け入れているはず‥‥にも関わらず、それでも現状の変更を求めて祈る‥‥明らかに矛盾しています。つまりこのような祈りは肉的な祈りであって、神に聞かれるとか、答えていただけると思ってはなりません。しかし時には神のあわれみによって、時に叶うケースもあるでしょうが。

 聖書ではこのただみこころだけが成ることを次のように言っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。(ヨハネの福音9:31) また次のみことばもあります。何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる(1ヨハネ5章14節)

 どうして祈りが叶えられないのでしょうか。それはみこころを知ることもなく肉的な祈りをし、神を自分の欲求実現のための召使いにしているためです。みこころは、ご聖霊様を通して知る意外に術はありません。それゆえに神は私たちに聖霊様を求めなさい、聖霊を探しなさいと求める者に聖霊様を贈ろうとしておられるのです。聖霊が私の主となるその満たし、バプテスマを受け、みこころを知るならば、自分の願いや欲求など、実に取るに足りないことであることがわかるのです。

2022年6月26日 (日)

恐れることはない

ルカ 5章10節   新改訳2017

シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」

 バプテスマのヨハネの弟子であった弟アンデレを通して、ペテロはかなりイエス様を知っていました。ですがイエス様がなぜ「恐れることはない」と言われたのでしょう。これは、準弟子化していた彼らに対し、<弟子としての改まった召命>であり、人を獲る者としての未知への不安に対して語られたと考える方が適切ではないでしょうか。
 神の圧倒的な奇跡によって、ペテロたち漁師の誇り、世的な職業的自負心が打ち砕かれました。彼の献身への世的な恐れを打ち砕かれての神の招き、「恐れることはない」だったのです。

 今一度、この召命の経緯を見てみましょう。弟のアンデレに比べ、ペテロは弟子たちの中では年長者、カペナウムの家に妻と姑という家族持ちでした。
 群衆への話が終わって、イエス様がペテロに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と命じられた時、ペテロは「そんな無駄で愚かなことを」と思いつつ従ったはずです。しかし驚天動地の結果を見、自身の確かな経験など吹っ飛ぶ世界を知らされたのです。世の心配事は神の前には、実に取るに足りないことだったのです。その上での「今から後、あなたは人間を捕るようになる」と、具体的に召されたのです。ペテロのためらい、恐れは一瞬にして瓦解したのでした。

 ここでペテロのように、恐れや不安について、少し考えて見たいと思います。恐れとか心配の発生源はどこでしょうか。それらはどんな働きと結果をもたらすのでしょうか。
 私が遅めの献身をし、上京して数ヶ月経った時のことでした。一生涯とは思いませんでしたが、可能な限り残りの時間、ただ神様のためだけに時間を使いたいと強く願っていました。けれども数ヶ月経ち、目減りする所持金に不安を覚え、今あるお金をなんとかして維持したいと考えました。
 その時、銀行が勧める<資産運用>に目が向いたのです。新興国への投資など資産の運用を上手くやれば、月々の生活費ぐらいが懐に入って来る上手い話でした。これなら今ある自分のお金を減らすことは少なくなると思ったのです。そこで祈りもせず飛びつきました。長く奉仕者生活ができるようにする、これは摂理だとすら思ったのです。
 この結果はどうなったと思われますか?みなさん?安心確実と思っていた結果はひどいものでした。かなりの損失を被ったのです。これは不安からきたモノで、不労所得を得ようとしたものでした。不安や心配から行動する、それはサタンの餌食になります。神からのものは<愛、喜び、平安‥自制>(ガラ5:22~23)です。なんと異なることでしょうか。みなさん、不安や恐れに支配されてはなりません。それは神から来てはいないのです・・それは必ず痛い結果を伴うことになるのです。不安や恐れに支配されてはなりません。よく祈りましょう。

2022年6月19日 (日)

いのち吹き込まれて

マルコ 10章45節   2017新改訳

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

 「人・・・仕えるために・・・来た」 私はこの御言葉を誤解をしている面があった。もし文字通りに牧師が教会員にしもべのようにして仕えるならば、教会は秩序と権威が混乱することになる。この主の言葉の意味は、主ご自身が父に仕えられたように、私たちが主の御心に「仕える」という意味である

 最近になってなってもっとも感じたことは、イエス様はワンパターンで教えられたのではなく、個々人の日々の問題と必要に対応された、まるで特別支援教育のスペシャリストであった点だ。本日はスカルのサマリアの女との出来事を通し、どんなにイエス様が御心に従われ、スペシャルにそれを対応されたかを読み取って、全能なる神をさらに崇めていきたい。

 このサマリア人の女は5回の離婚歴が有り、現在の男は夫ではなかった。だから女同士が集う朝や夕方には井戸に来れなかったのだ。一見ふしだらに見える彼女は、実はたましいの飢え渇きがあった。神はそれを見逃されていなかったし、彼女を通し異邦人伝道の初穂とされた。主は人の中身を見られる。

《しかし、サマリヤを通っていかなければならなかった ヨハネ4:4の御言葉は重要である。これはイエス様があらかじめサマリアの女を選び、福音を伝えるよう神から示されていたことを表す。だから《行かなければならなかった》のである。
 なぜ彼女が選ばれたのだろうか。自分を正当化し、罪の意識の乏しい人に十字架の福音は届かない。同時にたましいの飢え渇きがなければ、満たされ新生したいのちと喜びの泉は湧かない。
 この女は人とか結婚という世に求めていた。しかしそれらはみな砕かれて崩れ、絶望の底に沈んでいたはずである。惨めで人前に出ることすらも憚られていた。この女は単なるふしだらな女ではないことは明らかである。福音を聞いた時、即座にメシア来臨への望みを告白したからである。

 イエス様はこの女に、ご自分がキリストである決定的なことば・・・唯一この後では、十字架刑の決めてになったカヤパへの言葉  マルコ14:61~62 である「あなたと話しているこのわたしがそれです」を語られた。弟子にも語られたことがなかったメシア宣言・・・これは驚くべきことである。
 聖書を通して見れば、信仰を誉められた者はすべて異邦人である。ダイレクトな福音はまず異邦人のサマリアの女に語られ、自分がキリストであることを証しされた。このことは、今日、ユダヤ人を除いて、異邦人が福音信仰で世界を席巻することが御心であったことを暗示している。神の知恵と計画は果てしなく大きく、人が理解することが不可能だ。ただ神をほめたたえる。

2022年6月12日 (日)

しかし神のことばは永遠に立つ

イザヤ 40章8節   2017新改訳

人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。(40章6節~8節)

 六月の特にこの時期、草は生命力にあふれてたくましく成長し、花は美しく咲き誇っていますが、しばらくするとそれらは、必ずしおれ枯れていきます。
 神は人をたとえて言っておられるのです。すぐにしおれ滅びるものにならないで、わたしによって生かされ、永遠のいのちの恵みに生きなさい、と。
 今私たちの教会には、主の息吹が吹いて病いが許され、弱さを覚えさせられている方が多いのではないかと推察します。私たちを祝福してくださるはず の神が、なぜなのでしょうか。これを問う前に前提にすべきことがあります。それは神は愛そのものであって、それ以外の存在ではありません。信じる者を愛されていることです。その方が許しておられるということです。
 そうならばこの病というもの、苦しい症状や治療という困難とはまったく別な神の目的、計画があり、神の御心というものがあるのです。それはお一人お一人がまったく異なるものでしょうが、あるのです。それに気づき、悔い改め、より一層その成就を願い祈ることこそ真に癒される道ではないでしょうか。 (GardenTomb) 園の墓
 イエス様が為さった癒やしはリアルに神を信じ、救われること、つまり福音が目的でした。実際に癒やしを行われる前に、「あなたの罪は許されました」とのことばこのことを語っています。
「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」とはまさにこのことを指しています。肉体への希望は一時のものであって、それはすぐにしおれ、散るもの、滅ぶものです。しかしそうではなく、神のことばの信仰に立って生きる者は、たとえ肉体が滅んでも永遠なのです。肉体が病で弱くされた時こそ、この神への信仰にますます堅く立ち、神を褒め称える時なのです。

 ですからたとえ死が私たちに迫ろうとも、死よりもはるかに素晴らしい、永遠の天への喜びに躍りましょう。死んでも生きる恵みに、今一度感謝と讃美を捧げましょう。そのことを改めて教えてくれる病、肉体において弱くされても、私たちの心、魂はかえって強くされるのです。

2022年6月 5日 (日)

ペンテコステ

使徒 2章1~4節   2017新改訳
 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。  

 ペンテコステは聖霊降臨祭であり、キリスト教会が誕生した日と言われる。イエスが昇天されてこの日までの十日ほど、使徒たちや主だった信者たち120人は一つ心になって、イエスが召天される前に約束された成就を祈っていたはずです。
 実際、別れる前にイエス様は弟子たちに「私が去って行くことは、<《助け主》・《聖霊》が来るので>あなたがたの益になる」と語られていたからです。

 さてこの時の状況を今一度確認しましょう。信仰の力はまだ乏しく、集まってただひたすらこのことを祈っていたはずです。けれども十字架と復活を見た彼らは、罪からきよめられていました。そこに時が来て、凄まじい風と音を伴って聖霊が現れ、一人ひとりの上にとどまったのです。この「このとどまった」と言う言葉に注意しなければなりません。「とどまっ」たのであって、人一人ひとりの意志に従う所有物になったのではありません。聖霊なる神は自由であり、束縛することはできません。とどまられたのであって、サウル王のようにいつか去って行かれるケースも多いのです。

 いずれにしろペンテコステの日、聖霊の注ぎのフラッシュ現象とでもいうようなことが起こった。旧約の預言者や王という特定の人々へにではなく、多くの人に臨まれる新時代が来るという、ヨエルの預言が十字架と復活のみわざによって成就したのです。

 この聖霊の著しい働き、聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)を受けた人々によって、教会ができました。教会とは単に十字架と復活を信じた会衆ではなく、聖霊の満たしを受けた人々の集まりからスタートした、これは教会とはそもそも何かを考える上で非常に重要なことです。
 さて聖霊のバプテスマを受けた時、最初に異言が現れたのですが、異言は諸国の言語であり、その内容は「神の大きなみわざを語る」(使徒2:11)ものでした。ですから異言とは、ただラーラーと繰り返し呟くようなものではなく、異言語であってそれが理解できなかったとしても、神の意思を伝えるメッセージ性を持っていることに注意し、真に神からのものか聞き分けて行きましょう。
 聖霊のバプテスマを受けた人々には威厳よりもっと確かなしるしがありました。それは根本的な価値観が変わった人々であったということです。彼らは自分の財産を売り払うことに躊躇せず、むしろ喜んでしました。一切のものを共有し、日々教会に集って祈りました。なぜでしょうか?それは現世より天にはるかに大きな価値を見出し彼らにとって、この世はふさわしいところではなかったからです。それはイエス様が弟子になりたいと願った人々に対して、例外なく一切のものを捨てて従って来なさいと語られたことと同じです。この世と神の国と両方とも大切ということはありえません。聖霊のバプテスマを真に受けるなら、新生という実が実っているからです。

2022年5月29日 (日)

平和を望む者

詩篇 120篇6節   2017新改訳

この身は平和を憎む者とともにあって久しい。

 詩篇120は、終わりが「私は平和を--、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ」と結ばれる。それで暗く、まるで希望が無いかのような印象をこの詩篇に抱く。確かにこの曲は風のひびき9集ベストセレクションに入るほど歌いやすく良くできているのに、内容的にイマイチと感じる向きが多いと思う。しかしそれは、単に上っ面だけの理解で判断しているのではないだろうか?この120番は<都上りの歌>の歌であって、苦難の末にようやく異邦の地から宮参りができる、その喜びの歌なのだ。

 ユダヤ人が異邦の地で暮らすとはどういうことか、先ず始めにそれを押さえておきたい。結論から言えば、彼らは排斥される定めだ。どんなにその地に幾世代にわたって住み続けようと、その地の住民と混合し、溶け合って一つの民となることはあり得ない。なぜなら彼らは聖書の民であって、その信仰を護っている限り、彼らは異質な存在で有り続ける。実際世界のどこへ行っても同様な状態となる。彼らは嘘をつかず、誠実で約束を守る。絶対的な規範である聖書があるからだ。しかしそれゆえ異邦の民と道徳観、生活、風習が決して交わることはない。もしあればそれは律法で禁じられた堕落をもたらすものとなるのであり、逆にユダヤ人が異邦の地に何代に渡って住もうと、平和を望もうと、その地では異質な存在で有り続ける。
 もし混合するならば、ユダヤ人がサマリヤ人のようになり、ユダヤ人がユダヤ人でなくなることを意味する。どうしても迫害され、排除され(戦い)続けられる定めがユダヤ人であることが、これが二千年の時を経てイスラエルが建国された大きな理由の一と考えられる。

 しかしそのようなユダヤ人の特性が、ベニスの商人で描かれているように同情の余地のない冷徹さも併せもつことになる。彼らユダヤ人は道徳観が聖書を通して鉄壁である。また流浪の民として、世界にネットワークを持っている。そのような彼らは次第に財を形成していくのだろう。我が国ではユダヤ人を迫害する状況に今はまだないが、ヨーロッパのように国内の一部に長年にわたってユダヤ人が居住し続けたならば、どうしても似たような状況になるのではないだろうか。

 このユダヤ人の受けるその疎外感、迫害の歴史が、離散の二千年後、奇跡の現イスラエルを建国し得たとも言えるかもしれない。ただしこの120編はおそらく捕囚期ー捕囚後(紀元前400年ぐらい)までに書かれたものなので、捕囚または奴隷状態の中、つまり弱い立場に置かれた困難の中、第二神殿の建立され、エルサレム帰参が許された喜びで満ちている。
 以上、この都上りの歌の苦しみ・・・「偽りのくちびる、欺きの舌」から一時的にせよ救い出され、都に上ろうとしている喜び、そして迫害する異邦の者たちへの裁きの予告が私たちの胸に迫ってくるものがある。私たち日本人クリスチャンも、天のエルサレムへ都上りする過程にあるのは、よく似ているからだ。

2022年5月22日 (日)

神の国と神の義を求める

マタイ 6章33節   2017新改訳
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます

 本日の聖書箇所は最近の聖書日課にあっただけでなく、常に礼拝での献金の際、歌っている聞き慣れた聖句でもあります。しかしこれに深い意味があり、非常に重要な信仰の核心部分でもあると改めて今回、思いました。
     
 まずなぜこの聖句なのかということですが、きっかけは次の挿絵にあります。
これは上田のとあるそば店の暖簾で知ったことですが、元は京都竜安寺の石庭にあるつくばいにあって「吾れ唯(ただ)足るを知る」と読むようです。つまり「(さまざまな欲望を排して)私は満ち足りていることを知っている」ということでしょうか。本日の聖書箇所も聖書で同じようなことを言っているところではないでしょうか。しかし似ていても、その意味が全く異なっています。
 竜安寺は禅宗ですから、おそらく座禅とかの修行を行なって<悟り>に達した境地のことを言っていると思われます。しかしイエス様が語られていることはそうではありません。

 では本日の聖書箇所の少し前から、その流れを見ていきましょう。このマタイ6章では、その目は常に天に向いています。

 その20節「天に宝を蓄えなさいー中略ー宝のあるところ、そこにあなたの心もある」、24節「だれも二人の主人に仕えることはできません。一中略ー、あなたがたは神と富とに仕えることはできません」とあります。天とその神を人生の中心にし、仕えるならば<世のことを煩うな、父は必要を知っておられる(25−30節)>と説き、33節「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられ」るとしているのです。
 つまり神を第一とする前提条件をクリアするならば、全ての必要は与えられて<足りる>と言われているのです。これは神をただ信じ、聖霊の力とその助けによって、御心を行おうとする者には、神は必要なその全てを与えて下さるという意味であって、個人的な<悟り>とは全く異なるものです。

2022年5月15日 (日)

ヨセフの子と考えられていた

ルカ 3章23節   2017新改訳

イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、

 メシアの出現を預言する数ある預言の中でも、<ダビデの家系から生まれる>と<処女から生まれる>は確認しやすい預言です。
先ず<ダビデの家系から生まれる>は二つありますが、いずれもバテ・シェバへの罪を指摘した預言者ナタンのものです。神はダビデはバテ・シェバとの一件で罪を犯し、その子を罰せられましたが、メシアの家系はそのバテ・シェバの子が選ばれました。つまりその子ソロモンを王権の家系とし、ソロモンと同じ兄弟のナタンを祭司系の家系とされました。数十代の時を経てナタンの預言は驚くべき形で成就しました。夫ヨセフがソロモン系、妻マリアがナタン系という末裔同士の結婚です。この夫婦の長子がイエス・キリストです。※預言者ナタンとバテ・シェバの子ナタンは別人

 また身重のマリヤが親族である祭司ゼカリヤに身を寄せましたが、もしマリヤに罪があるのでしたら、ゼカリヤは受け入れなかったと推察します。しかしゼカリヤは少し前、子ヨハネの誕生をめぐる神の取り扱いを受けた夫婦でしたので、マリアの処女懐妊を信じたと推察されます。

 次にメシアが処女から生まれるということですが,これは本当に超自然的な奇跡中の奇跡、空前絶後のことです。信仰が弱い方は、聖書に書かれてあるこの事実を受け入れることができません。神のことばである聖書より、人間である自分の判断を上に置けばそうなります。しかしそれでは全人類の罪の身代わりとして死んだイエスの神性を否定し、罪の贖いは無効となります。こういうわけで全キリスト教徒にとって、処女懐妊は信仰上の踏み絵です。

 上述の傍証として、イエスが私生児として生まれたという記事は、聖書に数箇所見られます。通常ならば「ヨセフの子」であるのに、「マリアの子」(マルコ6:3)としたことや「ヨセフの子と考えられていた」(ルカ3:23)などの箇所からです。特に「考えられて」などの表現は、イエスがヨセフの実の子であれば大変失礼な表現です。これはヨセフが、実の子ではなくとも、少なくても表向きには自分の子、長子として遇していたことを表していると見るのが普通でしょう。

 マリアもイエスが自分の腹を痛めた子には間違いないのですが、親族の結婚式で「ぶどう酒がなくなった」時、イエスに向かって「ぶどう酒がありません」(ヨハネ2:3)と言う不可解なことを要望するのでしょうか?これは母自らが、イエスが普通の人間ではないと認識していたからではないでしょうか。
 このようにイエス・キリスト出生には、処女からの出生であることを伺わせる傍証が多く、神を信じる者には、神にはそれができることを確信するのです。

2022年5月 8日 (日)

私の御からだはどこ?

エペソ 5章30節   2017新改訳

私たちはキリストのからだの部分だからです。

 きょうのメッセージは、インターネットラジオ「Ein・Karemのトークルーム」で証しした事がきっかけになりました。それは私が神さまの語りかけを実際に体験した時のできごとです。

 悔いて悔いて曜日の感覚をなくしていたその日の朝、今日が日曜日だということが分かった時、「こんな不浄で罪深い者が、教会などに行ってはいけない」と思いました。クリスチャンになって初めて「教会に行けない」と思った朝でした。しかし心はともかく、長年の習慣だったからでしょうか、思いとは裏腹に体が勝手に私を運転席に座らせ、ハンドルを握らせて車を動かしていたのです。後で考えると、これは神の御手が働いていたのだったとしか思えません。なぜならもしあのまま家で私がくすぶっていたら、この後の人生を一変させた体験はなかったことでしょうから。
 人それぞれに特別な出会いがあるでしょうが、特に神様となると、それは限られた方になると思いますし、それは一層特別であり、また念入りにそれは準備されているようです。半時ばかり運転後、目指す教会が見下ろせる高台まで来た時、とつぜん変なことが起こったのです。運転中の車のダッシュボード上にくるくる回るサイコロのような物がいくつも現れ、やがてその回転が順々に収まって行くと、どうやら一つ一つに文字が読めて来るのです。「ワ・タ・シ・は・あ・な・た・を・ア・イ・シ・テ・イ・ル」と。運転中でもあり、はじめこの奇妙な現象に目を取られて、ナ、ナニ?って感じだったのですが、意味が分かってくると、明らかにこれは自分以外の意思であると分かりました。

 やがて私の心に<どーん>と津波のように襲って来るものがあり、体の震えと涙とで圧倒されて行く自分がいました。ですからやっとのことで車を道路の左端に寄せて停めたのです。自暴自棄になって信仰をほぼ失いそうになり、ほとほと自分自身に愛想が尽きたという状態だったのです。その私にこれは何ということばかけだったのでしょうか。以後省きますが、「この世に神が生きて働かれ、愛を持って語りかけてくださるんだ」と驚きを持って体験しました。まさに人生と価値観を一変させる衝撃的な臨在の出会いでした。

 ちょうどペンテコステの日、弟子たちが変えられたように、私も変えられました。夜、少し落ち着いてみると、一つだけはっきりと分かったことがありました。それは「もう、普通の教会(福音派)には行けない」ということです。普通の教会の信仰・・朝にはそこさえも行けないと思っていたのに、夕には「もうそこにも行けない」という確信でした。私はカリスマになってしまったのです。この信仰では、普通の教会では苦しむだろうし、どこへ行けば良いのか、検討もつきませんでした。

私はその夜、御体を求めて祈り、示された方法、ネットの検索で一回だけ押して見たところ、全く未知のTLCCCが現れ、しかも翌日に広島でその聖会があることがわかりました。その聖会に行くと私が来ることが予告預言されていたのです。全く、神の御手は用意周到です。

2022年5月 1日 (日)

信仰と希望

ローマ 15章13節  2017新改訳

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

 今日私たち目にし、耳にするニュースは戦争であり、疫病「コロナ禍」やあたかも「神の小屋」のようなおぞましい事件です。
しかし、どんなに状況が悪くなっても、いや、それだからこそ、私たちにはかえって希望があふれてくるのです。

 この聖句はちょっと抽象的でわかりにくいところかも知れません。しかし、「希望」という言葉を「天の御国への希望」と置き換えてみますと、かなりわかりやすくなります。私たちクリスチャンにとって、神のみがすべてであり、神の国に行けることがすべての希望です。まさかこの世でのことが、最大の希望だというクリスチャンはいないはずです。

 ということから考えてみますと、どんなに暗いニュースがこの地上がどんなにあふれて行く、それこそ終末が近いというあらわれですし、これから患難時代に向かって加速度的に悪くなっていくとしても、それらは「産みの苦しみ」であって、私たちは決して奪われることのない喜びで満ち足りており、近づくリバイバルの足音を聞きながら、常にHappyなのです。それを明示する二つのことがありす。
①聖書 :✝天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
この御言葉は(マタイ2:35、マルコ13:31、ルカ21:33)すべての共観福音書にあって、イエス・キリスト神ご自身が確かに語られた言葉です。私たちは揺れ動き、やがて消え去っていく天地に目を向けるのではなく、旧約のメシア預言からはじまり、福音書や書簡、終末の預言書で語れられている神の言葉を信じています。
 それによれば、これから起こることはすべてあらかじめ語られていることであり、二度の再臨の後、千年王国時代を終え、天の都エルサレムがずいぶん模様替えしたこの地上に降りてくるまでの序章です。これからの患難時代でのリバイバル、それを私たちは満を持して待ち受けるのです。
②交わり:信仰によって私たちは神の子とされる特権を与えられます。しかしこの信仰は、迫害や患難時代に必ず試しを受けなければなりません。「本当に信じる」なら、血肉の自分の命以上に価値を有しているはずです。道端や岩地の上、また荊の生じる土地に生えたのはないことを証する時が来るのです。耐えて良い地の実を実らせ、栄光の主を証しする恵みに預かるのは、その本当に信じているかどうかがポイントになります。
 この「本当に」と言った時、神との直接的な交わりがあり、子としてリアルに父を知っているかどうかが決定的な力となります。これを別な言葉で言えば、思い込みや思い込まされてではなく、真実、聖霊のバプテスマを受け、絶えず御心を行おうとしていることです。新生していることです。

2022年4月24日 (日)

新たな迫害が始まる

ルカ 21章12~19節     2017新改訳

また、わたしの名のために、すべての人に憎まれます。

 この度のウクライナ戦争で、次第にはっきりしてきたことがあります。それは思わぬ方向からのことです。現在二ヶ月になっているウクライナ戦争は、ヨーロッパの東欧の出来事であって、極東に住んでいる私たちが身近に感じることはないはずです。が、現実はそうではありません。連日TVやYouTube、Facebookなどを通して、我々日本人の関心が非常に高いのです。日本も西欧民主主義諸国と同じ一員であり、強い絆があるようです。ロシアとも国境を接しています。ウクライナもそのように見なし、ゼレンスキー大統領も日本の国会議員に向けて演説さえしました。

 このような中、多くの日本人がウクライナを何とか支援したいと思っており、私たちのような小さな群れでも、ウクライナへの献金を集めると、たちまち160万を上回る金額が集まるほどでした。そしてそのような関心は、咋今ではロシアのプーチン大統領を支える背後に目が行き始めることで、クローズアップされてきたことがあるのです。
 それはプーチン大統領の精神的盟友だとされるロシア正教のキリル総主教の存在です。BS-TBSでは「侵攻と信仰のただならぬ仲」と題して1時間以上の特集番組さえ組みました。彼はウクライナを攻撃するプーチンとその軍を信仰的に正当化し、鼓舞までしているのです。
 一般の人々にとって、キリスト教徒同士が殺し合うことや、それを推奨するキリスト教指導者って、当然人々は疑問を持ち、恐ろしいと思うようになります。それがクリスチャンへの否定的見方となって来ているのでしょう、すでに私の職場やテニス仲間から疑問を呈されたり、職場帰りの伝道師へのしつこい攻撃となって、現実化しています。おそらくロシアの蛮行に日本人が感じる義憤が、たまたま怒りに近い感情となって、このような形で私たちに向かってきたと私は見ています。
 このような近づいてきた終末の時代、私たちはどのように対処していけば良いのでしょうか。「あれは宗派が違う」とか「キリスト教の本質からキリルは逸脱している」と弁明しても、それは非キリスト教国のこの国では通じない話です。そうではなく、私たちクリスチャンもロシアが国際的な制裁を受けるのは当然だと思っていること、ウクライナの人々の願いと痛みを我がこととして感じ、心を一つにして祈っていること、その支援にも実際取り組んでいることなどを語るべきでしょう。

 そして終末の時代、必ずクリスチャンへの迫害が起こってくると聖書にありますので、どのような状況が許されようとしても、私たちの信仰がサタンに奪われたり、迫害(岩地)のために枯れたり、世の誘惑につまづくことのないように祈りを強め、備えて行かなければなりません。次のみ言葉、
わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタ5:44」
と主がお命じなったように、自身の弱さを覚え、神の愛を証する者として祈り求めて行きましょう。

2022年4月17日 (日)

よみがえられたのです-思い出しなさい

ルカ 24章6節   2017新改訳

ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。

 さて復活祭の本日の聖書箇所は「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたこと、主がお話しになったことをお思い出しなさい。」(ルカ24:6)です。マグダラのマリヤをはじめとする女たちが、復活の朝、イエスが葬られた墓の前で天使達から聞いたことばですが、今回特に最後の「思い出しなさい」に心が惹かれました。ですから天使に言われたこの言葉を、現代の私たちも同じように追体験したいと思います。

 ではその前段階として、次の三つの問いを考えてみましょう。
1、「なぜ神が人の体になって来られたのでしょう。これはメシア預言の成就のためであり、人の体でなければ弟子を育て、愛のわざを行い、主   目的の全人類の罪を贖うためであったでしょう。
2、なぜ神が十字架に架かって苦しみ死ななければならなかったのでしょう。これは第一に人の肉体の弱さを思いやり、その死に打ち勝つため。後に続く信者への励ましと赦しのためでしょう。
3、なぜ神は復活されたのでしょうか。血肉の死から御霊のからだで現れ、後のからだと永遠のいのちの勝利を宣言するためでした。

 では本題ですが、彼女たちは「思い出しなさい」と言われて、何を思い出したのでしょうか。おそらく弟子たちも同様だと思いますが、これを次の二つの点ではないかと思われます。
 まず 「わたしは、三日でそれをそれをよみがえさせる」(ヨハネ2:19)と語られた言葉です。これは宮きよめの時に語られたのですが、まさしく三日目に神の住まいである神殿がよみがえったのです。
 次に(五千人の給食の奇跡の後の)「人の子は多くの苦しみを受け・・三日目によみがえられなければならない」(ルカ9:20〜)の言葉でした。実際イエスを信じる者は、迫害やその他多くの苦しみを受け、自分に死に、血肉のいのちを神に明け渡さなければならないのです。

 さて弟子たちは以上のように、生前にイエスが予告されたことばを思い出したはずですが、重ねて一つの重要な面を確認しておきたいと思います。それはイエス様が御霊のからだの初穂として復活されたことです。弟子たちは復活されたイエス様がなかなか分かりませんでした。それは当然です。アポロ宇宙飛行士の体験は彼らだけのものでしたが、弟子達も人類初の体験をし、それは未だもって人間の理解力をはるかに超えるものでした。同時に私たち信じる者の究極の目標が、リアルに実際に明らかにされた日でもあるのです。
 そう言うわけで、これから私たちはイザヤ53章、ここはメシア預言の最たるところですが、これを斉読しながら、イエス様の十字架と復活に心を寄せて終わりにしたいと思います。

2022年4月10日 (日)

信じる段階Ⅱ・・・義を行う

Ⅰヨハネ2章29節   2017新改訳
あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。
Ⅰペテロ2章24節   2017新改訳
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた

 この段階は聖霊の油注ぎを受け、聖霊のバプテスマを受け、新生したクリスチャンの段階です。何が段階Ⅰと違うかといえば、神と交わっていること(1ヨハ1:3)それゆえ御心がわかり、御心を行おうとし、その賜物を得ているクリスチャンの段階であるということです。

 この段階には、人が意志の力で努力しても到達することは無理です。なぜなら人は皆救い難い罪人であり、自分を捨てることは不可能だからです。どうしても自己正当化し、守ってしまいます。そうすると、本当の自分を救うことが不可能になります。以下はその例です。
 悪霊は騙しの専門家です。私たちはカリスマの教会ですから、悪霊に悩まされている人で、多少なりともその存在や問題に気付いた人が居て、その追い出しを本人から依頼されることがあります。引き受ける場合、まず本人が悪霊が自分の中に居ることを認識されており、自分の敵として追い出したいと願っておられることが土台になります。しかしそこまで認識できないで悪霊の追い出しを依頼されるケースです。その場合、心の王座に聖霊なる神をお迎えできないので、悪霊は再び戻って来、前より悪い状態になってしまいます。(参照マタ12:43 ルカ11:224)
 悪霊は自分の正体を隠し、宿主を騙します。いつまでも真の罪人である自分の姿を分からせず、自己弁護と高慢で終始します。またその逆に、ひどい不安と落ち込みで自分が無価値な存在として整理しなければと思わせます。こうして昂揚と転落の繰り返しに疲れ果て、最終的には宿主を重度の統合失調症や自殺に至らせようとします。
 そんな苦しさに教会の門を叩き、十字架の贖いによる赦しと悔い改めに導かれ、救われる方が多いです。但し、真の自分を知って悔い改めていることが前提になります。真でなければまさに死んでいません。心の王座は依然として肉なる自分のため、新生していませんし、実がついていません。)自分に聖霊の実が実っているかどうか、どうか吟味下さい。

 さてサタンは今も働いており、巧妙な実に容易ならざる敵です。ですから霊的なことに対しては、神に拠って立つ他ありませんし、十字架のみが勝利をもたらすのです。これら一連のことに対しては、神に選ばれた子であることがポイントになって行きます。

 信じる第2段階とは、真に自分の罪を知らされる、十字架で悔い改め、聖霊が注がれ、新生することが土台になります。もしそうでなく、肉が残っていたら、神に聞き従えず、不従順はサウル王のように、むしろ怒りを買い、裁かれてしまいます。
 神があらかじめ子にしようと選び定められた人々、その人たちは例外なく、言いようも無い世という困難と試練の中で自分に死に、今ではただ神にのみ希望を抱き、世にある限り御心を行おうとする人々こそ、真のクリスチャンです。殉教する前にすでに世で死んでいます。

2022年4月 3日 (日)

信じるって・・・どういうこと

Ⅰペテロ 2章24節   2017新改訳

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 ここでキリストが十字架に架かってくださったのは<私たちの罪を代わりに負ってくださるため>であり、私たちが<罪を離れ、義のために生きるため>であるとペテロは言っています。つまり私たちが自分の罪がわからなければ悔い改めることはできないし、イエス様の十字架の赦しはありません。罪が赦されず残るなら、どんなに自分はクリスチャンだと言っても滅びます。天国には入れません。口先だけの告白では偽りの告白ということになるわけです。

罪が分かる‥‥私は自分の例を出し、罪が分かって信じるには二つの段階があると思っています。まず<最初>についてですが、20歳の時の私の証です。高校生時代には、私はようやく見つけた伝導所で毎水曜日、聖書研究会に欠かさず通っていたのです。聖書に神のいのちがあると思っていましたし、実際そうでした。高校を卒業しようとした時、牧師から受洗を勧められました。なにしろ熱心に聖書を学ぶ子でしたから、できたら受けたかったのです。すごく心が動いたのですが、結局受けませんでした。
一番の問題は信じたかったけども、それは頭の上だけで実感が持てなかったからです。神が聖書の文字上では存在していても、私の体験としては空をつかむような感じで、神様がリアルに存在している感じがなかったのです。
わたしとは真逆のクリスチャンホームで育ち、自然にクリスチャンになった方からも、最近、同じように30歳になるまで罪が分かっていなかったとお便りがありました。人それぞれですが、学生運動に私が挫折し、自分の愚かさが分かって呆然としていた時、ただ星々の規則正しい動きを見て、自分を含め流転する人というものの浅はかさ、愚かさ に比べ、変わらないもの、規則正しく永遠のように運行するもの、つまり秩序というものがあり、それを造られた神がおられる、そういう風に初めて神の存在が実感でき、信じることができ、その足でクリスチャンになるために教会の門をくぐりました。このようにして、自分の罪を認め、神を信じてクリスチャンになったわけですが、新生していないので肉のクリスチャンであって、世の欲望に支配されて勝つことはできていなかったため、世の人々と変わらぬ心の状態でした。いわゆる福音派の人々も同様だろうと思われます。

次に<第二番目の信じる>についてですが、これはいわゆる聖霊のバプテスマです。聖霊のバプテスマを受け、新生しなければ「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」(ヨハネ12章25節)の意味がわかりません。神から与えられ愛されることを、命以上に大切だと思うのは、聖霊の神による力そのものです。しかし今回はここまでにしておきたいと思います。

2022年3月27日 (日)

目を覚ましていなさい

マルコ 13章37節   2017新改訳

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。

 この度のウクライナへのロシアの侵攻は、次の二つのことを読み取ることができます。一つにはロシアの本質です。終わりの時代になると、エゼキエル書の38章に、イスラエルの北の果て、ゴグが他の国々とともに攻めてくると預言されています。ゴグとはイスラエルの真北にあるロシアのことです。今回そのロシアの残虐さが明らかになったわけですが,一方、国連でロシアへの非難決議の採択があり、世界の圧倒的多数の賛成がありました。しかしこれに反対もしくは棄権した国々、つまりロシアの友好国とでも言える国々が少数でもありました。そしてその国々を見ると、何とロシアからイスラエルまで、陸路で行けるのです。また一歩、預言が成就する背景が整ったのです。
次にこのロシアの暴挙に対して、西側世界が強い団結を示したことです。特に陸続きのEUにそれが顕著で、早晩NATOの一翼を担うEU軍を作ろうとするのではないでしょうか?そうなれば、終わりの時代になって登場するかつてのローマ帝国の再来となり,反キリストが登場する舞台が出来上がって行くことになります。これが第二の重要な事になります。

このように終わりの日が近づいて来ているのを見ると、私は高木仙右衛門のことを思い出すのです。村の有力な中心人物達は、迫害に転ぶことはないと自信を持っていましが、彼は自分の体が病弱なことを知り、転ばないよう主に祈り続けていました。結果的には、仙右衛門だけが転ばずに済んだのです。

私たちは自分の弱さを知り、サタンの策略に揺り動かされないようにしなければなりません。また、神に聞き従う者は,圧倒的な勝利者になることが約束されているのです。
そのためには、終わりの時代の備えとして、神に祈り、交わり続け、神からの守りがあることと、最後まで耐えられる力を受け続けて行かなければなりません。そしてそれは、終わりの時代になってからでは遅いのです。したがって
「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。(ヘブル人への手紙 3章13節)が特に必要なのです。

それが本日の主題
わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。(マルコの福音書 13章37節)の答えとなるでしょう。

2022年3月23日 (水)

目を覚ましていること

・・・3月23日水曜礼拝メッセージ要旨です・・・
マルコ 13章37節   2017新改訳 

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。

 本日のメッセージは「目を覚ましていること」です。終末は遠い先のことだと思っていましたが、今回のことでゴグの動きとその野望が明らかになり、非常に現実化してきました。生きている間には来ないのでは無いかと思われる方が多いと思いますが、どうもそうではないようです。
 そこで本日は終末の時代はイエス様が特に言っておられたこと、「目を覚ます」とはどういうことかをお伝えしたいと思います。まず第一にそれは、<突然来る>ということが特徴であるということです。なにしろそれがいつかは、イエス様だって知らない(マタイ24:36)とおっしゃっているのです。まして私たちのような人間に過ぎない者がわかるわけはありません。ですからそんな日時のことを言っていたり、恐れている人は皆、御心に背く人たちです。

 ではどうしたら良いのでしょうか。普段通りで良いのです。ただし、心配ばかりし、ふわふわ落ち着かないので仕事が手につかない、のではなく、「忠実で賢い管理人(ルカ12:36)」のように、帰って来られた主人にその働きぶりを見ていただくことです。忠実にとは、いつ帰って来られても良いように、主をお迎えできる態勢をとっているということです。
 ではそれは今の私たちに当てはめるなら、「忠実に」とは具体的にどういうことでしょうか。社会での仕事も勿論、きちんと果たすということですが、信仰的には次のような意味になるのではないでしょうか。

 つまり、疫病(今がそうですが)や戦争(ウクライナ)の話を聞いても、また飢饉(資源の問題や気候変動で必ず来ます)や地震などの自然災害に遭って、私たちのこの社会に生活に未曾有の混乱が起こることでしょう。また偽預言者が私たちを惑わそうとし、人々の愛が冷え、クリスチャンが迫害されるようになりますが、どんな時代が来ようと動揺せず、ただ天に向けて祈り、聖書と聖霊に忠実に従い続けることです。聖書の言葉以外を信じてはいけません。聖書に書いていないことであれば、確かな示し、語りかけがあるまであきらめず祈ってください。示しがないのに自分の願うことを肉的に「受け取った」として罪を犯さないようにしましょう。たとえ辛く従いにくいことでも、確かに示されたことには、従いきりましょう。
 そのために一層信仰を求め、信仰に励みましょう。危機にあればこそ、聖霊の主が頼りあることは確かなことです。そのためには皆さんの血肉の命を神に捧げ、全てを神に委ねる者となっておきましょう。終末の最大の備え、それは聖霊の油注ぎを受ける、受け続けることです。



 

2022年3月13日 (日)

主の祈り

✝マタイ 6章9-13節   2017新改訳

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

天にまします我らの父よ・・ これは、祈る対象が父なる神であることをはっきりさせる意味です。これなくして間違えて、悪霊に祈ってしまうかもしれません。養子とは言え相続権を持つ子ですから、遠慮なく「天のお父さん」と呼びかけましょう。子が「お父さん」と一生懸命呼びかけているのに、肉の父が無視していることはあり得ません。天の父も同様です。ですからどんなに祈っても神が沈黙しておられるとしたら、それはその人がまだ子になっていないのです。

願わくは御名をあがめさせたまえ・・ この箇所は「神様、あなたはあまりにも偉大なお方なので、どうか褒め称え、礼拝させてください」という意味になるでしょう。

御国を来たらせたまえ・・ この箇所は、聖徒にとっては再臨を待ち望む意味です。しかし聖霊のバプテスマを受けていない人にとっては「私たちの心の中に、神の支配が確立し、聖霊の宮である神の国が実現しますように」と言う求めにも受け取れます。しかし弟子たちに教えられたという状況を考えれば、「再臨によって神の国の一員として引き上げられることを待ち望んでいます」になるでしょう。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ・・ 神の御心は聖霊のバプテスマを受け、日々神と交わって知っていなければ、御心を地上で行うことは困難です。広義に見れば聖書での神の計画の成就を願うということでしょう。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ ・・省略

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ・・ 【赦し】はキリスト教の最重要なテーマです。英語でbad debtという言葉があって、それは返済不可能な債務という意味です。私たち人間は皆、気付くか気付かないかは別としてbad debtを負っている。神のあわれみに拠る以外、私たちは全員牢獄行きです。それゆえ、全て神に赦された者は、たとえ自分の命を不当に奪おうとする者に対してでさえ、赦します。さもなければ、私たちへ自身への赦しを失って、御国に行けなくなる最大の損失をこうむります。赦さずにはいられません。

我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ・・ ここでの試みとはtemptationの意味であり、試練というより誘惑の意味に近い。イブの時代から人は誘惑に弱い。常に祈るべきです。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり アーメン ・・省略

 

2022年3月 6日 (日)

真の祈り

マルコ 1章35節   2017新改訳

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 私が四十代だったので今から25年前ぐらいになる。そのころ私たち家族は癒やしを切に求めていたので、癒やしで有名な某教会のサポートを受けながら「家の教会」をしていた。その教会の礼拝に在る時出席した後に、広い地下室で牧師に祈ってもらったことがある。薄暗がりの下、聖なる卒倒者が続出する雰囲気の中、その牧師は私の額に手を当てて祈って一言、「あなたは祈りが足りません」とだけ言ってくれた。私は一瞬、「この立派な信仰者に祈ってないなんて、失敬な」とムカッとしたが、同時に「確かにそうだ」とも思った。正直もっと祈りたかった。祈れる者になりたかった。しかしどのように祈ったら良いのか、わからなかったのである。

 今でもあの時の私のような方が多いのではと思う。その頃の私の祈りは、家庭内の大きな問題で自分を被害者にし、神に改善の要求ばかりを突きつけていた。それはまるで、プラカードを掲げて押しかけるデモ隊そのものだった。「クリスチャンホームは祝福されるべきなのに、これでは話が違う」「神よ、妻の病を癒してください、それでも祝福の神なのですか」・・・etc。これではほとんど脅迫だった。その結果はもちろん、遠藤周作の「沈黙」そのものであった。神は黙され、大声を上げて叫ぶ私には、一切何も語られることはなかった。

 神は忍耐され、本人が気づくまで待ち続けられた。それも神の愛でもあった。私がついに自分の真の姿を見、重大な罪に気づいた時、その絶望の中で神は、私にぴったりな語りかけで自らを現してくださった。全知全能の神のタイミングだった。神を知ったその日から祈りも開かれた。私は毎早朝、少なくとも一時間は祈る者に変えられた。なぜできるか?祈れば神の応答があり、意思の交わりがあり、神の御性質が戒めと慰めと励ましに満たされるからである。楽しくて仕方がなかった。このような交わりがなければ、決して長い時間祈ることなどできはしない。

 祈ることは素晴らしい。それは神と交わる時のみ得られる。数人で、あるいは祈祷会とか集団で祈ることがあるが、それは神と一対一で交わる祝福には遠く及ばないものだ。イエス様は多忙な中、祈る時には人々を遠ざけ、妨害されない静かな寂しい環境、たとえば山の上や密室で祈ることを習慣にされていた。神ですらそのように祈る時間を大切にされるのに、まして私たちが祈りにいい加減な態度で、どうして義とされるのだろうか。私たちは血肉の世に生きているが、聖書と祈りに生きること、それが結果として御心を行い、神の国の宝を積む唯一の道である。

2022年2月27日 (日)

私たちの召し

Ⅱテサロニケ 1章11節   2017新改訳    

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

 私たちは母の胎の中にいる時から、神のみ心があり、いのちの使用目的、つまり1人ひとりに使命を与えられ、この世に生まれて来たはずだ。それなのにクリスチャンが自分の使命を知らずして、世での命を終わったのでは如何なものであろうか。やがて再臨された主に天でお会いした時、その人は何と弁明できるのだろうか。これは確実に来る恐るべき事態である。

 それゆえ私たちは、自分の使命を知らなければならない。知らなければ、その使命を果たしようがないではないか。また神から見込まれてその使命を示されても、即座に勇躍、果たそうとしたヨセフやダビデのような者ばかりではない。優柔不断、困ってしまって、神からの励ましや脇役を固めてもらってようやく立ったモーセやギデオンもいる。しかしどうとあれ、神がその人に使命を明確に示す時は、最善の時なのだ。時が良くてもなくても、自分に使命への信仰が不足しているように思えても、単純に信頼し聞き従い、全能の神の敷いたレールを走りきるのみだ。神がすべてを整えて、み心を貫徹してくださる。

 私たちは主からの使命に備え、まず自分を取り扱っていただくことを願い、使命を果たすに足りる者とされることを第一に願い求めるべきではないか。その上で、主は臨在の恵みを持って語ってくださるであろう。またすでに使命を聞き及んでいる者は、常にその使命を果たせるよう、日々神への祈りを欠かすことはできない。頼るべきは自分ではなく、ただ力ある神にのみあるのだから。そうすれば神は御力をもってその栄光を、その人を通して現してくださるにちがいない。

«従うと言うこと