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神の国はあなたのただ中にある

ルカ 17章20-21節   【新改訳2017】
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

 この「神の国はあなた方のただ中にある」と言う言葉は私がごく若い時から大好きなところでした。ただ頭では理解できていても、実際には意味不明な難解なところでもありました。皆さんでも、<ただ中>ってどこだと思われますか?
 水のバプテスマを受けると、聖霊が内住されることはわかります。しかしながら「神の国は、この中のどこのにあるんだ?」と自問自答が残るんですね。頭の中?いやハート??の中?とか。何となく漠然とした理解、把握のままではないでしょうか。

 ところで今回、そんな風に具体的なところばかりを考えているうちは、絶対にわからない(笑)ことが示されたのです。というか、それで納得したのです。神の国とは聖霊様の居られるところです。私の此所(ここ)、とか、あそこに、ではないのです。では、聖霊様は内住していらっしゃるはずですが、私のどこにいらっしゃるのでしょうか?

 たいせつなことは、聖霊さまはわたしのもの、所有しているものではありません。この罪深い者が罪に気づき、悔い改め、この私を十字架で愛してくださり、罪を赦してくださって聖別された上で、聖霊さまが私の中に入って来て下さります。そしてその方に私は私自身を献げ、私の首座にすわっていただく時はじめて、神の国が私のただ中に現出します。

 つまり私は神の国は、私たちが祈りを通し、神を求める心の中に、その応答として聖霊様との交わるうちにできている、と理解できます。それで神の国を私たちが求めても、なかなか得られないのは、おそらく「本気で求めていない」ためです。

 神さまは神さまの御人格をお持ちです。わたしたちがたとえどんなに幼かろうと、真剣に神を求め、心から呼ばわるなら、神は必ず答えてくださります。しかしその逆に、祈ったとしても、それはただ「自分の望んでいること」だけの答えしか期待していないような祈りとか、ただ習慣と惰性で祈っているならば、それは答えられないのです。心の王座を明け渡していなければ、そのような結果になります

 ですから神の国はどこにあるのか? それは信じる者の心の中にあるのではなく、正しくは現れるものです。自分のもののように理解してはいけません。ですから問題は私たち側にあります。試練や困難を通し、私たちが心からの自分を明け渡し、献げるように導いておられるのは、この恵みの場に招きたいがためなのです。そして私達が心の奥底から求めるなら、神の国は私たちのただ中に、確かに見出されていくでしょう。

2019年11月17日 (日)

永遠のいのち

ヨハネ 12章24-25節  【新改訳2017】
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

これはある老人施設での利用者たちの会話だそうです。「いろんなことが不自由になった。家では家族に迷惑をかける厄介者だ」「早く死んでしまいたいのに、自殺も出来ないし」。
かつては社会の一線でバリバリ働いておられた方たちでしょうが、この会話が実情です。

私たち人間が、血肉の体だけでなく、霊的な存在でもあること、目に見える結肉の存在が実は霊的な、つまり永遠の世界の前段階に過ぎないことを、もしこの方たちがご存知でしたら、こんな会話には決してならなかったはずです。

実際、世での希望を失いますと、人は普通、光を失い、生けるしかばね状態になります。私も五十代のはじめにそれを体験しました。家族を失い、出世を諦め、介護していた母まで施設に入ってしまうと、「壊れていく」自分がありました。人間は心で生きている、人と人との支え、関わりで生きている、それは失ってみないとわからないものでした。次に来るのは虚しさ、自己破壊の願望です。

しかしほむべきかな、私たちクリスチャンには永遠のいのちへの希望があります。たとえ世での希望や伴侶や親族を失っても、ますます希望が強まり、光り輝くのです。ダニエル書(ダニ12:1-2)を見てみましょう。人はよみがえって、永遠に天国かゲヘナのどちらかの国に行くことを、旧約の人であるダニエルははっきり知っていたのです。

本題に入りましょう。イエス様に、ある富める若人が「先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことが…」と質問したのは当然です。義になる行いだけでは、隣人愛を行う力が無いからです。十字架による愛がなければ、人は自分を救うことも、他者を愛する力も得られないからです。

さて、永遠のいのちはどのようにして得られるのでしょうか?もちろん、主イエス様の十字架を信じることです。しかしそれと同時に、本当に信じていなければなりません。髪の毛の数さえ数えられている神を、人がごまかすことは全く不可能です。本当に信じることとは、代価を払って買い取ってくださった神の愛に、自分の全てを差し出すことです。「一粒の麦、もし死なずば多くの身を結ぶべし」とはこのことです。死ななければ、本当に信じたことにはならないのではないでしょうか?

皆さん、それも自分の力ではできないことです。ですからクリスチャンとは絶えず、そのことを神に祈り求め続ける存在なのです。つまり祈る人、それが私たちの永遠のいのちそのものだと言っても過言ではないはずです。

2019年11月10日 (日)

新年度年間聖句

    ✝Ⅱ歴代誌 20章15・17節  【第3版】
彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。【主】はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる【主】の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。【主】はあなたがたとともにいる。』」

 今年度も縦糸と横糸を織るようにして、私たちの教会なりの年間聖句講解を試みたいと思います。まず縦糸の歴史ですが、二つに分裂した王国の内、北イスラエルは初代王からずっとバアルの神々に翻弄されました。しかし南のユダは神によって何とかダビデのケ血筋と信仰が曲がりなりにも守られて行きます。

 本日の聖書箇所ユダのヨシャファテ王はレハブアム-アビヤ-アサと続く四代目です。古代からの交通の要衝であったこの地は、周辺国やエジプトなどから絶えず侵略される運命にあった地でした。信仰深かった父アサ王の時代にもクシュの百万の大軍が攻めて来たのですが、この時神の力に依ってアサ王は圧倒的な勝利を得ました。ヨシャファテはそれを目の当たりにしていたはずです。ヨシャファテの代になって、イスラエルのアハブ王がアラムとの戦いを始めようとした時、預言者ミカの真の預言が成就するのも体験しています。その後ユダをとり囲んでいた図の周辺三ヵ国が、結託してユダに大軍で攻め来たという、国家存亡の大ピンチが今回です。しかしこれらの国はイスラエルとはアブラハムの甥ロトの末裔であったり、ヤコブの兄の子孫ですから、カナン占領の折には戦いを避けた、いわば身内の国々だったのです(2歴20:10)。

 聖句の中心は王が「心に決めて【主】の助けを求め、ユダの全土に断食を呼びかけた」こと、そして王の求めに応じ「ユダのすべて町から人々が来て、【主】を求めた」ことにあります。問題を人間的な力で力や交渉で解決しようとするのではなく、ただ信仰に求めたこと、その国家単位での信仰が義とされたという点が非常に大切な点です。

 次に第二点として今日私が特に示されているのは、この三カ国がユダを攻めること自体、欲に目がくらんで同族の恩を仇で返すような、神の道に背くことであることであって、これをもってヨシャファテ王が「彼らをさばいてくださらないのですか」(20:12)という祈りとなったのは当然でした。義なる神はこれに答えられ、ヤハジエルを通して「これは主の戦いである」「主の救いを見よ」とされたのは、裏切ったとはいえ親族争いに直接手を出させないようユダを守られ、義を持って裁かれたのが見落とせない第二の点です。

 第三の点として吟味があります。父アサ王時代クシュとの戦い、ミカが預言したアラムとの戦い…これらを通し、ヨシャファテ王は瞬間的にハジエルの言葉が神からだとわかったのです。もし吟味を間違って現実的な選択をしたら…それはまったくお話にならない悲惨な結果になっていたでしょう。神を信じていても、実際に神と交わっていないなら、このような吟味は出来ません。この三つが今年度年間主題理解のポイントです。

2019年11月 3日 (日)

召命

使徒26:16-18   【新改訳2017】
16 起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。
18 それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』

本日の聖書箇所はパウロが神からの召命を受けた箇所です。召命とは使徒26章17節に神から「わたしは、なたをこの民と異邦人のなかから救い出し、彼等の所に遣わす」とあるように、神がダマスコ途上でパウロを救い出し(deliver=解放し)たのは、迫害の先頭に立っていた者こそ、もっともその誤りを是正でき、頑な民に対する適任者として、パウロを遣わす (send=送り出す)というためでした。

このような例はたくさんります。かつて学生運動の先頭に立っていたリーダーの学生が、なんと政治的には真反対の新聞社に入社したことがありました。私は三十年近く、聖書中心主義を標榜しながら、聖霊の働きと奇蹟を否定する、いわゆる福音派の教会のただ中にいました。世的な方法の術を用いながら、どうして教会がこれほど力が無く、信仰が無いのか、いつも憂い続けていたのす。しかし周到な神の計画によって、私は忌避していたカリスマの教会の牧師になりました。それはちょどパウロがどのような迫害を受けようと、ユダヤ人の救いを心から願い続けたように、私もまた福音派の問題をことさら指摘するのは、彼等が真の神と出会えるよう心から願っているためなのです。

さて召命とは使徒9章17節にもありますように、「聖霊に満たされる」ことが土台になります。第一、パウロのような大きな出来事でも無い限り、神の声は聖霊のバプテスマなど聖霊様との交わりが開通していなければ聞こえないことでしょう。また、神は用いられる人個人についても、用意周到に準備されます。モーセはパロの家で育てられました。パウロは当代随一のラビ、ガマリエル門下で律法の専門家となっていました。それとどうようなことが召される人、お一人お一人にあるはずです。ですから召命を受けたその瞬間に、その通らされた道から、自分の人生はこのための人生であったことが大方、悟るはずなのです。
また聖霊の賜物についても、私には次のように示されています。神は、召命に伴って必要な力、預言者には預言の賜物を、伝道者には奇蹟の賜物をなど、それぞれに必要な神の賜物を与えてくださるのです。したがって聖霊の賜物は各人がほしいと思うようなものを願って与えられるものでなく、神の計画、使命を遂行していくために与えられる性質のものなのです。勘違いをしてはいけないと思うのです。

最後に「神の賜物と召命は、取り消されることがない(ローマ11:29)」のですから、与えられた確実な使命は、この世での命が尽きるまで、離さず全うできるようにしましょう。

2019年10月27日 (日)

神を愛する人Ⅱ

  ✝ローマ 8章28節   【新改訳2017】
ロマ 8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

前回は神を愛した人として、モーセを例にとって述べました。けれども後で気がついたのです。モーセもですが、新約でもすごい人がいました。それを忘れてはいけないでしょう。それはパウロです。今日キリスト教はパウロ無しには存在しません。ちょうど荒野で神がイスラエルの民の頑なさを悔い、モーセから新たな民を起こそうとされたように、十二使徒からではなく、神はパリサイ派の将来を担うはずの若き逸材にして最大の迫害者サウルを召し出されました。律法を完成させ、そのくびきから解き放つためには最も律法に精通し、迫害の中心人物を召し出されるとは、何という驚くべき神の知恵でしょうか。

 

パウロがどれほど神を愛したかということですが、パウロの通らされた道は、常人では到底耐えられないほどの迫害に次ぐ迫害の道でした。そのことは2コリント11:22ー28にある通り、39のむち打ちが五度、ローマ式のむち打ちが三度。彼の背中はどんな背中になっていたのでしょうか。他にも数多くの難があり、死んだと思われるまで石で打たれたことさえあります。これらはほとんどが彼が愛する同胞ユダヤ人からのもので、まさにダマスコでアナニヤに語られた「彼が私の名のためにどんなに苦しまなければならないか」そのままの道でした。

そのパウロが本日の聖書箇所で何と言っているでしょうか。「神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、(神を愛する人たち=)私たちは知っています」と証しているのです。
さらにこの章の最後(ロマ8:39)でパウロは「(世の力による、どれほどの困難があろうと・・・・の意味で)私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と宣言しています。信じられないほどの迫害と困難さの中にあって苦しめられていても、パウロは神の愛の中に生きていました。そしてパウロは神をこころから愛し、愛によってすべてをささげ尽くし、生涯を全うしました。神の愛を知り、その愛の中で育った者は例外なく神を愛し、その愛の力は想像を絶するものであったことがわかります。
先ず神が私たちを十字架で愛してくださり、その愛を真に受けた者だけが神を愛するのです。この逆はありません。自分の罪がわかり、神のあわれみがわかること、これがスタートです。

2019年10月20日 (日)

神を愛する人

ローマ 8篇28節

「神を愛する人」     2019

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。


 ◎「神を愛する人」とは、すなわち「神に召された人」だと言っています。他には「聞き従う人」だとも言われていますが、聞き従う人の中には神を愛するだけでなく、恐れて従っている可能性もあるので完全イコールではないでしょう。では神を愛し、神の計画にしたがって召される人とは、どういう人なのでしょうか。このことがわかりやすい人物、モーセの生涯から理解してみましょう。

◎モーセはレビの正しい祭司の家系で、弾圧されてナイルに流されたことが、逆に王女によって子とされ、当時の世界の最高の教養を身につけることになりました。そのモーセが四十歳になった時、同胞を顧みる心が与えられ、自分の手によってエジプト人から同胞を救おうとしたのですが、受け入れられることなく、ミディアンの地に逃亡しました。チッポラとの出会いからモーセはミディアンの地で雇われ羊飼いとして四十年間生きましたが、羊飼いとはエジプト人からはさげすまれた職業であり、その雇われ羊飼いとなるともっとみじめな立場です。神はモーセを世界最高の王子の身分から、最低に近い身分に落とされました。そのモーセがある意味でみじめなまま、八十歳という人生の終わりが近い歳になった上で召されたのです。

 この時、エジプトの王子として成人した過去が用いられました。王と渡り合い、民を脱出させる困難なミッション成功には、モーセ以外では不可能でした。脱出しても荒野を知らないイスラエルの民を護り導く指導者としても、羊飼いで得た知識や土地勘も大いに役立ったことでしょう。まさに神が約束の成就のため、生まれる前から召していた逸材です。しかし何よりも神がされたのはモーセを自分の力の愚かさを知らせ、徹底して神に聞き従う人物に変えられたことです。モーセにとっての最高の恵みとは最悪な経験でした。これが無ければ、モーセは通りよき管として生まれ変わることは無かったことでしょう。神は人というものを、よくよくご存知なのです。

○○神を愛する人とは、神によって最悪な経験を与えられる人のことです。それによって自分の弱さと愚かしさ、罪深さを徹底的に知らされ、肉的な人生jへの希望を失って、ただ神にのみ依り頼む人へと新生させられる人のことです。このような人は自殺するか、さもなくば神に生きるしか希望が無くなります。そのため、「自分の十字架を負って」とか「自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになり」(ピリピ3:7)とは、このような神を愛する人の言葉になるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神を愛する人とは、神によって最悪な経験を与えられる人のことです。それによって自分の弱さと愚かしさ、罪深さを徹底的に知らされ、肉的な人生jへの希望を失って、ただ神にのみ依り頼む人へと新生させられる人のことです。このような人は自殺するか、さもなくば神に生きるしか希望が無くなります。そのため、「自分の十字架を負って」とか「自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになり」(ピリピ3:7)とは、このような神を愛する人の言葉になるのです。

2019年10月13日 (日)

天のエルサレム

詩篇 40篇8節  【新改訳2017】

わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。

 「救い」「永遠のいのち」「天のエルサレム」この三つは少しずつ意味が異なります。
「救い」は自分の罪がわかって悔い改め、イエス・キリストを受け入れたことを意味します。「救われた」結果、「永遠のいのち」に至るのですが、十字架による完全な贖いと、その人の内に働く聖霊の働きが見られるのが「永遠のいのち」の特徴です。証し人として永遠のいのちを保ち続け、地上での使命を終えた人が天のエルサレムに行きます。御霊のからだに変えられてから行く、最終形が「天のエルサレム」です。Photo_20191023120801

「天のエルサレム」を確信し、待ち望んでいる人がいます。反対に行けるかどうかの不安や期待が入り交じっている人もいます。この違いは神との交わりの深さによるのです。待ち望んでいる人は、たとえ世に生きてはいても、限られた時間であって、世と天とを両てんびんにかけたりしません。生きながら世に死んでいるのです。大切なことは、助け手である聖霊様と日々交わり、祈ることが大切です。あらゆることでみこころを求める事です。

 神との交わりの中で、神を愛することほどポイントになることはありません。神は愛です。愛には愛を、です。神を慕い求める者を、神は決して裏切られません。人間に感情があるように、人間とは違うレベルのものでしょうが、神もまた、愛という感情があると私は信じています。ところが神の愛を妨げるものが二つあります。一つは偽り、もう一つは高慢です。この二つの土台は「罪」です。罪は罪であることがわからない性質のもので、別な言葉で言えば自己愛です。ただし自己愛に苦しむなら、救いはすぐ側に立っています。

 サタンも神のようになろうと高慢の罪を犯しました。またサタンの特性は嘘、偽りの天才であることはよく知られています。破滅に導くこの罪の恐ろしさに気づき、それへの自分の無力さに苦しみ、解放され救われることから信仰がスタートします。水のバプテスマと聖霊のバプテスマはこの重要な段階であり、ゴールが天のエルサレムです。

 さあ、私たちが使命を終え、この世の体を脱いで新しい体を与えられ、天のエルサレムに入る時のことを想像してください。どんなに歓迎されることか、また都の素晴らしさに息がつまるほど喜びに満たされることか、想像できるでしょうか。

2019年10月 6日 (日)

エルサレムの平和のため祈る

詩篇 122篇6節   【新改訳2017】
エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

 前半5節までの歌は都上り(都詣で)の歌で、イスラエルの男子は年に三度主の前に出るためエルサレムに上り(出エ23:17など)ましたが、これはその旅の中で歌いつがれてきたものです。それぞれ過越、五旬節、仮庵の祭りと呼ばれていました。Photo_20191015004601

しかしどうみてもこれはダビデの作ではありません。第一神殿の分裂王国の時代、 北イスラエルは国の南北に神殿を築いてエルサレムに行かせないようにしていましたから、都上り自体がイエスさまの時代を含め捕囚から帰還した第二神殿時代のものです。

 さて本題の「エルサレムの平和のために祈れ」ですが、注意しなければならないことがあります。1948年四月に建国されたイスラエルは、百年にわたるシオニズム運動の成果であり、ホロコーストという迫害もあって、奇蹟的に再興されたユダヤ人の国、ダヤ教の国であることです。神の計画の進展、聖書預言の成就という点は肯定できますが、イエスがキリストであることを否定する、未だ救われていないユダヤ教の国なのです。

 イスラエルはまず第三神殿を作ると預言されています(マタイ24:15、二テサ2:3-4)。神殿の周囲と警備はすでにイスラエルのものとなり、実行されるのは時間の問題だと思われます。その後、反キリストが世界の指導者となり、大患難時代の後、キリストの再臨の直前に、世界宣教、福音の総仕上げとして、ユダヤ人に大リバイバルが起こる(黙示1:7、ローマ11:25-26)と聖書からは読み取れます。私たちクリスチャンは、エルサレムの平和を祈る時、このユダヤ人が主イエスこそメシア、キリストであることを信じ救われることを祈るのです。つまり、イスラエル人の霊的救い、その祝福のために祈りましょう。

 次の第二に、エルサレムのオリーブ山に再臨される主イエスが世界を統治されて行きますが、こうしてもたらされる真の平和が、二度と覆されることのない神の主権、平和が実現することを祈ります。
 最後にこれは、そのように霊的にも実際的にも、イスラエルを祝福する祈りです。そのことを最後に祈って終わりにしたいと思います。

2019年9月29日 (日)

伝道

 

ヨハネ 15章22節   新改訳2017

もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。

 二十歳でバプテスマを受けた後、当初それがうれしくて、すぐ周囲の友達に福音を伝え回った。ところがテニス部の仲間は、ひとり以外は誰も信じてはくれなかった。その上、そのひとりもしばらくすると統一原理に走って、家族が上京するなど大変なことになった。その後、福音をきちんと伝えようにも、公務員の立場上できなかったため、異端に入られてしまったケースすらある。
 逆に親族の集まりで、最後の機会だとやむにやまれぬ思いで福音を語ったことがあった。関心を持たれた方もいたようだが、特に強硬に反対する人も現れ、結果としてその場はとげとげしいものになった。

 こうしたことから、求めて来られる人は別にして、伝道する場合は、ある程度関係ができ、フォローできる人に対して行うようにしている。聖書(ヨハ15:22)にあるように、福音を聞いてもその人が受け入れなかったなら、ある意味、聞いてしまったが故の審きの道に入らせてしまうことになりかねない。

 これらのことを踏まえるなら、伝道しようとする場合、現在では祈りの上に、神に示されたタイミングでの実践を心がけている。伝道とは自分の人間的な思いや力ですることではなく、神のみこころを行うことである。親子や兄弟であって、どんなに人間的に愛していても、神のみこころならば信じ、みこころならば信じない。救いは神のものであって、人の及ぶ所ではない。しかし神は私たちの祈りを聞いて下さる方でもある。たとえそれが人間的なものであっても、救いを願う祈りは神もまた同様なのだ。恐れずに神に願い求めるべきだ。その上で神に示された伝道は、たとえどのような反応や拒否に会おうとも、決してあきらめてはいけない。

 Photo_20191006024301(ジョージ・ミュラー)

問題は神に示されることである。ジョージ・ミューラーという人は、絶えず神のみこころのみを求め続けた人だが、他の人と異なったのは、神の答えを得るまでは祈り続けた人だった。ところが私たちはほとんどの場合、神の祝福を受けるまで祈り続けないため、未成就の祈りをやたら増やしているのではないだろうか。神に明確にみこころが示されるまで、祈り続けることを決してあきらめない、それを私たちの群れでは「祈りきる」と言う。

2019年9月22日 (日)

驚くべき逆説

ヨハネ 12章23~25節   【新改訳2017】 

すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

「驚くべき逆説」
戦後大きく成長した教会は、先の大戦で軍部に抵抗し、牧師級の殉教者を出した教団の流れです。韓国ではもっと犠牲を払っていますから、この言葉は証明されているのです。種は発芽という死によって、一粒の種が何十倍、何百倍と実を結びます。自然のこの驚くべき法則は、信仰にも同じことが確かに言えるのです。

「自分を憎む」とは?      Holyspirit
信仰を持たれたのは、みなさん、ご自分のために良かれと思ってお信じになったはずです。それなのに「憎むなら、永遠のいのちに至る」とはどういうことでしょうか。いったい、自分が一番大切なはずなのに、このことばは一見して理解が困難です。自分の命を失ったら元の木阿弥で、何が得られるというのでしょうか。

○憎むと言う言葉は基本的に使いたくない言葉だと思われますが、聖書では全く違う使い方をしています。それは自分自身の心の内側、その世的な志向、絶えず攻撃し惑わしてくる肉なる思い、それらをまとめるなら自己愛と言うことになるでしょうか。「憎む」とはこのような自分に対して、神の霊によって戦うことを意味するのです。自己愛の死、それはつまり神がその人の主となることであり、みこころの人となることを意味します。(※参照「自分を捨て、自分の十字架を負って」・・・マタイ16:24、マルコ8:34など)

この自分に死ぬことは、決して一度きりで終わるものではなく、血肉のからだがある限り続く、執拗な戦いとなります。常に神に祈り、聖霊の力に依り頼むしかありません。ですから懲りない相手に対し、「憎む」という強い意志をでの表現になっているのです。このように、繰り返されていく戦いの段階に入っていない方にとって、「憎む」意味が理解できないのは当然です。どのようなクリスチャンでも、神の時が来た時にはわかることでもあります。

2019年9月15日 (日)

聖霊のバプテスマ

使徒の働き 19章6節    新改訳2017
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。

 バプテスマには水のバプテスマと聖霊のバプテスマがある。初代教会では、ペンテコステ以降、聖霊のバプテスマを受けていることは当然視されていた。今日に至って二つの異邦人の例(※使徒8:5-17,18:24-19:6)のように、水のバプテスマしか知られていないのは、それだけ現代が不信仰な時代であることを物語っている。

  聖霊のバプテスマは価値観が180度変わるものであるから、どんな人にとっても二つのバプテスマは人生最大の出来事である。そのように自身が変わっていなければ、それは聖霊のバプテスマとは言えない。疑い深い者から確信を抱く者へ、神に属する者へと。それは愛と光の中、魂が揺さぶられる感動と、神は生きておられた歓喜に満たされる時である。

 聖霊のバプテスマを受けた人には、異言や預言、癒やしなどの聖霊の賜物が現れるが、それらは神の栄光の現れであって、決して本人のものではない。もし、聖霊のバプテスマを求めている人の中に、自分がそれによって引き上げらる期待が混じっていたならば、どんなに祈り求めたとしても、引き続き訓練を受けざるを得ないだろう。その人の信仰は、信じてピリポに従っていたサマリヤの魔術師シモンと、それほど変わらないからだ。

 次に聖霊のバプテスマはあくまで神の主権で注がれるもので、権威ある指導者や高名な牧師に期待して的外れに近い。受けたとしても、執り成しは否定できないが、基本たまたま神の時であっただけであろう。神からのものを「あなたは受けています」と人が言えるはずもない。

  ではどうしたら受けられ、注がれるのか? そんなことが人間の私に答えられるはずがない。ただ、その証によって知見するのみだ。ある方は信仰書を読んでいて、ある方は自分の罪に打ちひしがれ、生きる希望を失ったその時に、と様々である。共通しているように見えるのは、自分に望みを失い空しくなったり、己の罪がわかって心から悔い改めていた時だろうか。その人の中で、神が主とされるべき時と言うべきだろうか。

 聖霊のバプテスマは私はエデンの回復だと思わされている。またこれを受けないと、真の献身は困難である。罪以前の神との日々の親しき交わりがその中身なのだ。実の子のように、「アパ父よ」と呼びかける自分にも驚くようになるだろう。三位一体についても理解が増す。バプテスマのヨハネが言った通り、神と交わり、神から来るのでなければ、私たちは何も出来ないのである。

✝ヨハネ3章27節 新改訳©2017
ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません」 

2019年9月 8日 (日)

みこころの祈り2

Ⅰヨハネ 5章14節    新改訳2017 
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 昨日の土曜日「なつぞら」では、ちょうど主人公が「大草原の小さな家」に取りかかろうとするシーンでした。放送の次の番組がなんと実写版の「大草原の小さな家」だったのでびっくりしました。しかもそのタイトルが<ローラの祈り>だったのです。「祈り」のメッセージを続けていましたので、みこころを感じました。
 さて<ローラの祈り>とはこんなストーリーでした。パパっ子のローラは、三人姉妹にはじめての誕生した男の子である弟に、父があまりにも喜んで夢中なのを見て、心が穏やかでありません。そして生まれたばかりの弟が原因不明の病気になると、そのための癒やしの祈りができませんでした。その弟が死んだ時、ローラは自分の罪を感じたのでした。<ローラの祈り>とは、父の喜ぶ弟が生きかえること、そのためには自分のいのちを差し出すという願いでした。

 このドラマを観ていて「これは、かなり事実に近い体験があって、それを元にして作られた作品ではなだろうか」という印象を持ちました。これは「罪の赦しを求め、身を犠牲にしてでも神に答えていただこうとする祈り」です。そしてローラは、これをかなえてもらえるために、神に近いと思われた高い山に登り、神に答えられるのをまさに身を賭して祈ったのです。

 しかし基本的にみこころの祈りでなければ、その願いは届きません。神に心から祈り求めて、その答えがなかなか来ないとすれば、それはその人の願っていることが自分の目に良かれとしている肉的なものだからです。
 またローラの弟が召されたように、人間的には理不尽に見えたとしても、神にはそれを越える深い計画があるのです。神は最善のことしかお出来になりません。ですから悪いと思えることでさえも私たちは感謝します。これは信仰であり、この事を通して、神の最善の計画が始まることを信じるからです。

 自分の祈った通りになることが、みこころの祈りではありません。神のみこころ、神の計画が最善であり、それが実現して行くよう祈る事がみこころの祈りです。自身の思いや願いではありません。あるとすればせいぜい、人間的な自分の思いであることをわきまえながら、それを神に知っていただく事でしょう。しかし神はすでにご存知なはずです。繰り返しますが、神は最善しかおできになりません。その通りになることだけを喜びましょう。

2019年9月 1日 (日)

みこころの祈り

 Ⅰヨハネ 5章14節   新改訳2017 
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 私が聞いた話です。山陰で日の出が遅い家に住んでいた少年が、ある時教会学校で、心に信じて疑わずに祈ったら、その通りになるという御言葉(マルコ11:23)を学びました。少年は家に帰ると裏山に向かって「立ち上がって、海に入れ」と心から信じて祈り、翌朝を楽しみにして寝ました。さて次の日、少年が目が覚めてみると、いつものように山はあり、少年はすごくがっかりしたという話でした。

この話には、祈りについて重要な点があることを教えてくれました。確かにどんなことでも祈って良いのですが、ただ神のみこころを祈ったものだけがかなうのです。ドラえもんのポケットのような意識で、自己本位な祈りをどんなに数多くしても、聞かれない祈りにかえって信仰が萎えて行くだけなのではないでしょうか。みこころでなければ、最善の神の計画をさまたげるだけです。

では人は如何にして人は「みこころ」を知り、みこころの祈りができるのでしょうか。本日のテーマはその問いに答えようとするものです。
イエス・キリストさまが世に居られた時から約束してくださったもの、それが聖霊です。ある意味、福音と聖霊の時代を開くために、十字架の主は来られたのです。このことはペンテコステで成就しました。これ以降、すべてのクリスチャンに聖霊の内住がそそがれたのです。聖霊は私たち一人ひとりを導く神の霊であり、助け主、慰め主、癒やし主です。私たちがみこころを求める時、この聖霊なる神と交わり、祈り、聞き従うのです。

しかし単に神を信じているだけのクリスチャンにとって、みこころを聞くことはほとんど不可能です。みこころを聞いても、それに従うことが出来なければかえって災いになります。神の声に似せたサタンの惑わしをも見分け、受け入れてはいけません。

一言で言えば、聖霊のバプテスマを受け、新生することがみこころを聞く土台です。このようなクリスチャンはすべてを神にささげますし、死を恐れなくなります。その人は天の御国のものだからです。
聖霊のバプテスマは、超有名な伝道者や牧師を頼り、祈って授けてもらえる性質のものではありません。またどんなに熱意を持って祈り求めても、みこころですが、すぐさまリクエストに答え、受けられる性質のものではありません。聖霊のバプテスマは、ただ唯一神からのものであり、神の時に受けられる性質のものです。ですから神は喜んで与えようとしておられるのですが、その前に罪のない状態、聖潔化が前提です。これは自分にまったく希望を失うほどの悔い改めが土台です。自身の罪深さ、真の姿を知っての献身であり、神の時までの、その人の忍耐も試されるのです。これがみこころの祈りの土台です。

2019年8月25日 (日)

祈り

マルコ 11章24節  【新改訳2017】
 ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

クリスチャンの祈りは個人的な経験上から大きく三つに分けることができると思います。
<1>聞かれると思っていない祈り
水曜夜に祈祷会を持っていても、ほとんどの時間は聖書の講解。祈っても、形だけの祈りに終始する事が多い。祈りが答えられることを知らないので、期待もしない死んだような祈りが多くの教会の現状である。祈りに、長い時間かけて祈ることができないのが特徴。

<2>祈りは答えられ、たとえその通りにならなくても最善になることを知っている祈り。
これは真のクリスチャンたちの祈りである。霊的にもある程度開かれた人たちの祈りであるが、ただし「御霊によって祈る」ことが未だ完全になってはいない段階の祈りである。

<3>達人の祈り
ジョージ・ミューラーのような人を指す。彼は孤児院を設立し、生涯にわたって1万人以上の孤児を寄付によってのみ救った人物であるが、その祈りの答えは世的に言えば奇跡の連続であって、疑う余地もないほど祈りが答えられた人である。

私たちの群れは<2>の段階にあるかも知れない。それでジョージ・ミューラーのような祈りを目指しているのは勿論である。彼はその著作「祈りの秘訣」で次の事を教えている。

祈りの土台としての信仰
主イエスのいさおと取りなしを全面的に信頼していること。 自分が知るすべての罪から、自分を分離していること。聖書の言葉を堅く信じていること。部分的にせよ、信じない聖書箇所があることは神を偽り者とすることである。 自分の肉によって祈る事なく、みこころが成ることだけを求めていること。 神に嘆願して祈れていること。

祈りの秘訣(主な点)
このような新工場の土台の上に、さらにミューラーは、第一に自分の心が全く個人的な意志を持たないような状態で祈っていることを重要視する。人は弱く、誰しも自分の意を汲んで受け容れられることを願っている。しかしこれが神のみこころを受け取る祈りの最大の障壁である。自分の人間的な願いや求めこそが最大の敵である。

次に祈り示された事柄が聖書の御言葉によって裏付けられること。それも意図的に人間的な要素が入らないようにしての聖書の裏付けがあることが重要である。

2019年8月18日 (日)

罪と癒やしと祈り

詩篇 41篇4節   【新改訳2017】
私は申し上げます。「主よあわれんでください。私のたましいを癒やしてください。私はあなたの前に罪ある者ですから。」

 癒やしについて、その聖書的な見方を振り返ってみることは大切でしょう。旧約の時代、富は神の祝福だと考えられていたように、病とか障害は、罪の結果だと考えられていました。イエス様の前に吊り降ろされた中風の人に対し、「あなたの罪は赦された」と先ず宣言されたことは、当時の感覚からすれば、非常に順当なことだったはずです。ただ一つ、罪を赦す権威は神にあると当時も見なされていたので、その事が問われることにはなりました。

 このほかユダのアサ王の例でいえば、晩年彼が重い足の病気になった時、王はすぐに医者を呼び求め、主に求めなかったことが罪とされました。これは高度な医療が発達した現代でもまったく当てはまることです。どんなに医学が発達しても、人間の自然治癒力という土台は外せません。病の発症は、遺伝とか環境の因子は挙げられても、まだ早期発見ぐらいしか予防できません。クリスチャンにとってはこれは、神のみこころなのです。老化を防ぐことや幾分か延命できたとしても、死はその先に必ず来るのですから。
 (自己実現などと言われる)自分の生きたいように生きることは空しく、神によって造られたように、その使命を果たして生きることが最高にいのちを充実させることなのです。

 そのためには、十字架を信じてクリスチャンになること。罪を悔い改め、神との交わりを回復をさせられること。その上で聖霊の神と交わり、神に聞き従うことが、どうしても通らなければならない通過点となります。これを「神に触れられる」とか「神性・献身」、あるいは「聖霊のバプテスマ」と言います。

 未信者に試練や困難、あるいは病が許されるとしたら、それは神を見出し、永遠のいのちへと導かれる大きなチャンスでしょう。健康に長生きし、ある日突然死ぬよりも比べものにならない大きな恵みです。またクリスチャンにそれらが許されたとしたら、神はさらにその人の信仰を引き上げようとされているのです。いずれにせよ、神は病に代表されるこれらをつくりはしませんが、許すことはされます。

 ですからアサ王のように医術にだけ頼るのではなく、悔い改め、神に聞き、すべてを感謝してこの先にある神の祝福を受け取ることが最善になります。もちろん、これと同時に医師の手を通しても神は働かれるので、身体の良き管理者としてその治療に従って行きましょう。イエスは分け隔てなく、すべての罪と病を癒やされました。癒やしてくださるのが神のみこころなのです。これが体の癒やしにまさる真の癒やし、永遠に至るものです。

2019年8月11日 (日)

誰が救われるのか

マルコ 10章26節   新改訳2017
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 

 常に人だかりがあったイエス様の周囲で、ある日突然、誰もが知る立派な服を着た一人の人が皆から跳び出し、イエス様に駆け寄って来たのです。思いあまっての行動に違いありません。誰もが知っていた有名人物、非常に富んだ人、品行方正で評判の良い若き指導者でした。その地方の貴族とか議員のような人だったかも知れません。押さえて置きたいことは、当時のユダヤで豊かさは神から祝福を受けていると思われていたことです。

 その彼がなんとイエス様の前に出て膝まづき、思いあまったように質問をしました。「良い先生、永遠のいのちを得るためには何をしたら良いのでしょうか」と。この青年には真実を見分ける目があり、良質で正しい問題で悩んでいたのです。
 イエス様はこの青年に対し、十戒の第五から第九までを守るように言われました。青年はそれらを皆守っていますと答え、それでも自分には永遠のいのちが得られる感覚がないことを言わずもがな語っているのでした。

 この青年に対し、慈しみながらもイエスは「あなたに欠けたものが一つある」、それは十戒の十番目、隣人愛ですとズバリ指摘されました。そして具体的な解決法、「全財産を貧しい人に施し、その上でわたしに従ってきなさい」とイエスは言われたのです。

 ところが若者は多くの財産があったため、この勧めに従うことができませんでした。青年は世の富を捨ててまで、永遠のいのちを得ようとは思わなかったのです。悲しみながら去っていく青年に対し、イエス様は嘆息して「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通る方が易しい」と言われたのです。

 栄枯盛衰、世でのどんな富も時間とともに必ず消え失せます。富は死後の世界にまで持って行けないことは皆知っています。また愛する家族が、財産の相続を巡ってどれほど骨肉の争いを繰り返してきたことでしょうか。世の富、財産は、神の国を目指す者にとっては躓きの元となり、足かせとなり、自身を滅びに至らせる呪縛ですらあります。

「らくだが針の穴を通るより・・・」しかしその絶望に対し、「神にはどんなことでもできる」と神は手を差し伸べられています。神の恵みとあわれみは不可能を可能に、奇跡を起こすのです。

 世と富みに依存する心も、悔い改め、神のあわれみにより聖霊のバプテスマを受けるならば、全く価値観が変わってしまいます。それは畑で宝物を見つけた人のように、自分の全財産を売り払ってでも、その畑を手に入れようとすることに似ています。これは神がされる心、たましい、霊の奇跡であって、人には不可能なできごとなのですから。

2019年8月 4日 (日)

安息日論争

マルコ 2章27~28節   
そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
ですから、人の子は安息日にも主です。  【新改訳2017】

 最高の律法である十戒の第4条は安息日の戒めですが、守り方の具体的な事柄について聖書は何も述べていません。そこでパリサイ人たちはこれを事細かな1500余りの決まり事に定め(口伝律法)、その決まり事を守ることで安息を守ったこととしていました。

 今も変わらない安息日の規定を見て行きましょう。医学的な配慮は、生命が危険にさらされている時にだけ受けることができました。たとえば出産中の婦人は安息日に助けてもらえました。しかし、骨折や捻挫は生命に関わらないので治療は受けられません。指の切り傷は手当をしないで、ただ包帯を巻いて現状維持だけがゆるされたのです。

 さて舞台はカペナウムの会堂です。ここにサンヒドリンなどから遣わされた律法学者たちがあたかも裁判官のように上座に陣取っていたことでしょう。実際に行かれた方はご存知でしょうが、ペテロの家のすぐ近くにあります。問題はおそらくは周到に用意された人・・・・片手が萎えている人が居たことです。彼らの律法の規定によれば、命に別状無く、安息日に癒やされなければならない性質のものではありません。ですから彼を癒やすと、明確な安息日違反となり、死に当たる罪となります。これは実に見事な罠でした。

 イエス様はそのすべてをあらかじめご存知でありながら、堂々とこの会堂に入られ、きっぱりと対処をされました。彼を会堂の真ん中に立たせ、「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことか、それとも悪を行うことですか」と問われたのです。命に代えても、律法の決まりを守ることで天国に行けると思っている律法学者は、この問いに答えることができません。守ることだけがすべてで、神の御心なんて考えたことすらなかったのです。

 続いて「いのちを救うことですか、それとも殺すことですか」という言葉が続いてます。律法の規定では安息日に、いのちの危険があった場合にだけ、救うことが許容されていました。しかし彼らは片手の萎えた人への愛は全くなく、ただ安息日違反だけを確かめに来たのです。安息日を設けられた神の御心など、想像することができなかったのでした。

 主イエスはこの対応を見、最後に怒って彼らを見回し、その心のかたくななさを嘆き悲しみながら癒やしを行われた。神を信じ、礼拝する者は人の作った規則や規律にとらわれない。その心は「かみのあわれみによって受けた愛とゆるしと奉仕」である。そのことを「小さい者たちの一人に一杯の冷たい水を飲ませる人(マタ10;42)」とたとえて主は語られているのです。片手の萎えた人をイエスを試す自分たちの道具に用いるパリサイ人たちこそ、弾劾され、裁かれなければならない人たちだったのです

2019年7月28日 (日)

愛に応える

申命記6章5節   

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。   新改訳2017 

私たちの愛と神の愛とは同じではない。神の愛を知ることは、価値観と生き方を180度変えるものだ。

  ヘレン・ケラーとサリバン先生の感動的な話の1シーンに、ヘレンがwater(水)がわかった時の話があります。どんなに単語を単に覚えても、その言葉の意味を把握していなければ生きた使える言葉になりません。
 こんな例があります。有名なヘレン・ケラーとサリバン先生の1シーンです。ヘレンに水を教えるのに、サリバン先生はいろいろな水に触らせました。私の想像ですが、体を洗う湯、広大な湖、冬はひとかけら氷だったかも知れませんが、ヘレンに触れさせたのです。そのたびに「water」、これも「water」と教えました。1:1なら分かり易いのですが、水:いろいろな水となると、混乱を招きます。しかし本当に水を知り理解するために、サリバンはあきらめませんでした。ついにヘレンは、ある時「water」すべてに共通する特性に気づき、waterがわかったのでした。

  神様の私たちへの言葉と愛も、これに似たところがあります。神は私たちを御手で守りながらも、私たちの真実な姿、それは当初は受け入れること、直視することができない姿ですが、いろいろな問題や試練を通して教えてくださるのです。ただ、それを受け入れるには時があります。時が熟さないとかえって反発して「豚に真珠」となりかねません。放蕩息子のたとえのように、時が来ての悔い改めは、自分の姿を正しく知って、その事実の上に立った時にできることなのです。

 逆のケースを考えましょう。「神は愛なり」という言葉はクリスチャンならどなたでも知っている言葉です。しかし本当の愛は、最善を願う心です。クリスチャンの中でも、かなり自己目的実現の為に信じる、祈るという方が多く、自分を無にして、神の御心だけを願う祈りをする人は少ないのです。自分の願ったことが実現しないと、神は居るのだろうか?と問い続ける有様です。この状態でのクリスチャンに悔い改めは不可能です。

 神は私たちをあわれんでくださいますが、最善の神の計画で愛して下さっているのです。また最善の結果になるように、神は私たちが自分の計画を捨てることを、忍耐強く待っていてくださっています。真に私たちがへりくだって、主を主とし、自分はそのしもべであることに気づくためには、試練の道を通るしか方法はありません。ですから試練は神の愛です。自己中心を悔い改めて、神の御心一番に生きること、それは肉の命にまさる真のいのちを得させようとされる神の愛に答えることであって、人生最大の宝そのものです。

2019年7月21日 (日)

二つの宗教

マタイ15章8-9節    新改訳2017

『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』 

 ユダヤ教的な背景を見なければ分からないことが多くあります。これはその一例です。辺境の地ガリラヤでのイエスの驚くべき奇跡と癒やし、その宣教活動に対し、国中の律法学者、パリサイ人がイエスの元に集まって、メシアかどうかの吟味をしていました。中風患者の罪の赦しと癒やしは、まさにその時、彼らの目の前で行われたことでした。

 次の段階としてパリサイ人らによる審問の段階があり、その代表例が手を洗わない理由でした。「パン(食事)を食べる前に手を洗わない」ことは、現代の私たちにとって衛生上の習慣に過ぎませんが、当時のパリサイ人にとっては、信仰者であるか否かの問題でした。
 どうしてでしょうか。旧約聖書には「食前に手を洗う」明確な規定はないのですが、体液の漏出などを「汚れ」(レビ13章)とする概念があり、それは「伝染」するとされていました。また食べ物に関しても規定があり、常に祭司によって「清められる」ことが必要でした。そのため聖書にはなくても、事細かに「汚れ」を防ぐための規定集、口伝律法が作られてきました。そして実際的には聖書よりもそれを具体化した口伝律法の方を守ることが優先されるようになり、義とされ、天国への保証と化していました。つまり外面的な形式を守ることが信仰そのものでした。「手洗い」はその最たるものだったのです。

 この質問に対し、イエス様はその偽善の核心を突いた返答をされたました。それが十戒の「父と母を敬え」をないがしろにする彼らの口伝律法でした。この重要な戒めを、パリサイ人たちは、一度神に献げると誓ったものは、親の扶養のために渡さなくてもよいという抜け道を作っただけでなく、後に子が悔い改めて親に報いようとしても、律法(民30:2)を盾にこれを許さなかったのでした。これは巧妙な十戒違反だったのです。

 7節の「偽善者たちよ」とのイエスの言葉には、こうした背景があったのです。パリサイ人たちは「父と母を敬え」の神の御心を無にし、単に「汚れ」とそれに伴っての形式的な宗教に堕落し、自分たちに利のあるように律法を利変えて作り変えていました。これに対しイエス様は手を洗うかどうかの問題ではなく(20節)、神の御心を行うことが義とされることだ断じられたのです。

 この外面的、形式的な宗教観と、内面的な霊性を重視する宗教観とでは、根本的な違いと対立があって、全く相容れない存在です。私たちの中にも、外面的な宗教は日本の新党のお祓いなどと同一のもので、パリサイ人のパン種として、現代の私たち自身にも混じっていないか注意する必要があります。「十字架のネックレスをつけないと落ち着かない」とか、どうしてもゆるせない人が居るとか…etc。常に聖霊に祈り聞き従い、御霊によって歩み続けることだけが、主に喜ばれる道です。

2019年7月14日 (日)

どちらが易しいか

マタイ9章5節   
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。   【新改訳2017】 

イエスは天井から吊降ろされた中風の病人に「あなたの罪は赦された」と言われました。この時、ペテロの家にはイスラエル中の律法学者が詰めかけてすし詰め状態でした。

 このような国中の律法学者が集まった中で、教え癒やすのは、前職が教師でしたので、これは授業参観よりもはるかにきつい、多くの同業の教師の前でする研究授業に似ています。違ったとすれば彼らからすれば、イエス様を当時の高弟ヒレル門下でも何でもないただの田舎出なのに、おどろくべき不思議を行って大衆の人気を取っている、もしかしてメシアかも知れないが胡散臭い人物・・・・そんな警戒心やある意味、「この目で真贋を確かめてやろう」的な興味があったことでしょう。

 その中でイエス様は堂々と教え、聖霊によって病いを癒やしておられました。そんな時、突然天井に穴があき、光が射し込み、中風の患者が降ろされたのですから、きっと律法学者たちはみなびっくりしたはずです。今風に言えば「ここまでするかぁ。で、イエスとやらはどうするんだ」という感じでしょうか。
 
 さてそこで、誰もが次のシーンとして想像するのは<癒やし>ではないでしょうか。ところがそうではなく、「あなたの罪は赦された」というイエス様の宣言でした。律法的には「罪を赦す」ことは神にしかできないことであって、当然その場に居合わせた律法学者たちは、「冒涜」と感じたことでしょう。これは律法的には正しい判断です。ただし、イエスが神かさもなくば、本物のメシアであれば別です。このような状況を考えれば、イエス様は、「自分がメシアであり、神であることを明らかに宣言する」意図的な対応だったと言えます。

 寝たきりで吊り下ろされた人に、イエス様はなぜ癒やすのではなく、「罪の赦し」を宣言されたのでしょうか。それは罪の赦しが根源的なものであり、癒やしに優るものだったからです。どんなに癒されても、もし罪が赦されていなかったらゲヘナに落ちるのです。
 また罪が赦されれば、必ず中風にも肉体上の癒やしが現されて行くことでしょう。しかしそれはある意味、二次的なことです。ですがパリサイ人律法学者たちに(彼らの目を醒ますために)、イエス様の神性を証明する即効の癒やしをされたのです。

 これがこの記事の概要です。以後、当然ながら国の宗教的指導者たちは、イエス様を殺そうと対決姿勢を強めることになり、イエス様も後に残す弟子たちの訓練を本格的にされることになります。

2019年7月 7日 (日)

悔い改めなさい

マタイ 3章2節 
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。   【新改訳2017】

「愛の警告」という興味深いイラストを以前に見つけました。なぜ絵の右の人たちはFalse=間違った受け取りなのでしょう?悔い改めを拒んだから・・・その通りですが、その訳を考えますと、一つの見方として、自己中心な信仰だったと言えます。Photo_20190713231901だからヨハネの愛の警告=悔い改めができなかったのでしょう。
-「主よ」の意味 -
 神は御子の命をもって私たちを買い取ってくださり、信じる者すべての罪を赦してくださいました。ですから、信じた者は購われており、その命も神が所有される存在となりました。ですから私たちはすでに神のしもべ、奴隷ですので、主人に対して「主よ」と言うのです。
 ところが右の絵の人々は、神が自分の主であることを拒否するので、False(間違っている、あるいは偽り)のクリスチャンだとされているのです。
- 恐れるクリスチャン -
 一方で、どうしても不安や恐れに囚われやすいクリスチャンがいます。M・キャロザース師は「恐れと信仰とはまったくの正反対のもの」で、聖書で365回も「恐れるな」と書いてあるとその著「恐れからの解放」(p9ー10)で述べています。恐れるから信仰が無いなどとは言っていません。ではどうしたらよいのでしょうか。これが本日の主題です。
 - 赦され感 -
 十字架を信じた時点で、私たちの罪はすべては赦されていますが、それなのに、恐れの悪霊に立ち向かえない、あるいは受け入れてしまうには原因があります。この原因の一つに、赦されているのにその実感の乏しさ・・・・言わば「赦され感」が薄い所に原因があるのではないかと思います。自分はまだ罪があると感じる所に悪霊がつけ込んで来ると・・・・

「赦され感」の無さの原因をたどっていくと、罪を告白し信じたはずの自分が、実は本当の自分ではなかったとしたらどうでしょうか。それは自我を正しく認識できていない場合に、無意識の内に生じます。異なる自分の罪が赦されても、ピンと来ない、赦された実感がしないのは当然だからです。
 神は全知全能の神です。真実の自分の姿はどんなに罪あるものであっても、神はすべてをご存じであったのです。神の愛を信じましょう。恐れ、隠す必要は全く無いばかりか、隠している方が神を悲しませているのです。本当のあなただけが、恐れを追放します。

2019年6月30日 (日)

聖書と信仰

Ⅱペテロ 1章20~21節
ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。                       預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。
   【新改訳2017】
私たちの群れは、キャンプやネットを介し、横の連携は非常に進んでいます。ただ縦糸に横糸が織られて布ができるように、縦糸も大切です。私たちの歴史は1984年4月前後からよく語られていますが、さかのぼって私たちの教会が使徒の時代から今に至る、聖書に最も忠実な教会であることを確認しましょう。

キリスト教会の歴史は使徒の時代以降、大きく四つの時代に分かれます。どの時代でも霊的な教会から始まり、聖霊を失ってすたれ、また聖霊の新たな流れが起きる繰り返しです。

まず、初代教会は私たちとまったく同じような聖霊のバプテスマや異言などの聖霊の賜物を用いる教会でした(使徒8:14-17,19:1-7)。ところがローマ帝国の公認となり、国教となって<1>カトリックと正教という千年にわたる東西教会時代、ひどく形骸化が進みました。そのため、聖書の姿に帰ろうと16世紀に<2>プロテスタントが誕生したのです。そのプロテスタントも当初の聖書中心から逸脱し、次第に進化論を受容し聖書を人間的な理解で解釈する教会が増えてきました。そこで「聖書は神の霊感によって書かれ、誤りのない神のことばである」とする<3>福音派が分かれ出て、原典に忠実な新改訳聖書までできました。私たちのP牧師はこの福音派で信仰を持たれたのです。

しかしこの福音派も聖霊の働きに関しては不十分でした。聖霊の賜物などは「すたれた」と主張しますが、その根拠とする1コリント13:8以降の「すたれ」は、「完全なもの」「顔と顔を合わせて見る」とあるキリストの再臨のことを指しているからです。つまり聖霊のバプテスマや、聖霊の賜物は今もあるとしているカリスマ派の教会が初代教会に最も近いのです。
この流れは1906年、ロスのウィリアム・J・シーモア牧師によってはじまったリバイバル運動が起源であり、K・クールマンへ、さらに日本の新井牧師に、最終的にはその副牧師であったP牧師の1984年へとつながって今日があるのです。

教会の歴史を見ますと、教会が成長し、成熟すると聖霊が失われて形骸化し、それがまた新しくされるというサイクルがありました。今私たちはその最終ランナーとして召されています。この重大な責務を今自覚しなければなりません。また神は必ず私たちを通してみ心のリバイバルを起こされることでしょう。ですから私たちはいっそう聞き従いを強め、用いられるよう祈って行かなければならないと示されるのです。

2019年6月23日 (日)

恐れとゆるしについて

ガラテヤ 2章19~20節  

私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。   【新改訳2017】

<十字架なかりせば、私は絶対にゲヘナ行き>と確信を持っておられる方、いませんか?自分は絶対に地獄のゲヘナ行きだった、と知っている方は、それゆえに、神の愛とあわれみの大きさを骨身に沁みて知っていると言えます。自分の真の罪深さが分かっているかどうか、これが分岐点です。ですから「つぶれてはらわたが出たゴキブリ」と語られるP牧師を、野つぼの中のウジ虫と思っている者として、親近感と尊敬の念を持っています。

「もはやわたしが生きているのではない」この聖書箇所は本日の中心です。クリスチャンにもし、恐れるということがあるなら、それは神の戦士、証人としてはふさわしくないでしょう。注意深くしたりの小さな恐れではありません。恐れるなら退かされてしまいます。麻薬のように私たちができないことの言い訳と正当化に恐れを理由にします。ですから聖書では多くの箇所で、私たちに「恐れるな」と警告しています。
ただし、恐れたからと言って神が私たちを見捨てたりすることはありませんが、御心ではありません。では恐れる原因は何でしょうか。

このすべての原因に私は、罪の赦しを無力化させるサタンの策略があるとみています。十字架は全てを赦しているのです。それを感じさせず、まだ罪が残っているかのような誤魔化しにあって、罪の恐れに取り残されているのではないかと思うようになりました。

運転している時、パトカーを見つけたとします。違反していない時は全然平気ですよね。「ああ、ご苦労様」って。しかしたまたま違反状態にある時には、見つからないかと恐れがどーっと湧き、ビクビクします。それと同じように、実際は赦され罪から解放されているのに、まるでそうでないかのように感じているからこそ、恐れが湧き、恐れに支配されて行くのです。当然ですが、恐れは神から来ていません。

それではどうしたらよいのでしょうか。自分の真の罪がわかっていなければ、当然ですが、赦しも的外れで力の無いものです。罪の告白も形式的な、中身のないものです。十字架はこの私の罪のためであったと真の告白がポイントです。心から「あーっ、自分はゆるされたぁ。解放された!十字架は私のためでした。神さまぁ、ありがとうございます。本来地獄行きの者ですが、どうぞこれをあなたに献げさせてください。私は死んでこれからは、あなたのくださったいのちに生きます」と告白できます。ですからお勧めします。本当の自分の姿を神さまによって知らされ、悔い改められますよう祈ってください。試練はおそらく、このためにあります。感謝しましょう。

2019年6月16日 (日)

御座のまわり

黙示録 4章3節   新改訳2017

その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。

 私たちクリスチャンの行き先について、黙示録ほど述べている聖書箇所はありません。しかしそれでも解釈に混乱があり、おどろおどろしい話、おとぎ話、黙示文学として見られて来ました。黙示録の正しい理解には時が必要で、今、その扉が開かれて来ました。

ヒロシマ・ナガサキへの原爆、1948年イスラエルの復興、EUの国家的な成長形成、最近ではロシアとイランの歴史的な関係進展など、現在は黙示録が現実化し、具体的に読み取れるようになりました。この書はまさに現代に生きる私たちのための啓示の書なのです。

さて黙示録では神の国の全体的な様子は21章の後半に記されており、この4章ではその中心部、主に御座のまわりのことが述べられています。御座は都の中心にあり、御座からの光で世界は光で覆われ闇がありません。都自体が神殿と化しているのでしょう。4章で描かれた情景で私が感じるのは、光の世界であり、中でも御座の周りがエメラルド色の虹で光り、御座の神ご自身も変化する光の中におられることです。全体がガラスのようなこの御座と都では、御座と横にキリストの座があり、聖霊なる神が七つのともしびとして輝いています。そのような光景を目の当たりにして、畏れと同時に感激し、狂喜しないクリスチャンがいるでしょうか。私は卒倒するほどになると思います。

この聖所に24人の長老と、四つの生き物とが登場します。12はイスラエルの全部族んも数ですが、今のイスラエルには北の十部族がいません。ですからこれにはいろんな解釈が可能ですが、12使徒の信仰に基づく新しい契約の全クリスチャンを指すと思われます。
四つの生き物に関してはもう少し明確です。エゼキエルにも現れたこの動物は神の全知をあらわす存在で、地の四方、つまりすべてを知り伝える大天使でしょう。現在はグーグルで地球の隅々まで見ることができます。がしかしこの四つの生き物はそんなレベルをはるかに超えた驚くべき天的な御使いであって、地球上の数十億の人々の髪の毛の数から心の隅々までを知り、その情報を神に伝え、異なる顔が示すように互いに完する情報のセンターではないかと思わされます。この推測ももちろん確証はありません。一切は実際に天に行ってわかることでしょう。それが私の楽しみでもあります。

私たちは血肉の死を怖れません。なぜなら血肉のからだがなく、御霊のからだで天の御国がわかるからです。その天において神と見え、本当の使命と喜びが始まります。その必要最低限なことを、この黙示録4章が教えてくれています。神に期待し、神に感謝します。

2019年6月 9日 (日)

ありのままに見る

Ⅰヨハネ 3章2節    

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。  【新改訳2017】

<怖れと安心> この聖書箇所で「キリストの現れた時」とは再臨、あるいは携挙の時です。つまり御霊のからだになってからでないと、キリストをありのままに見ることはできないのです。血肉の体を着た今のわたしたちは、ありのまま見えなくても、全知の神は私たちの良いも悪いもすべてを知っておられる(ありのままに見ておられる)、その上で私たちを子とし、愛してくださっている、これが難解な同3:10-20の「20たとい、自分の心が責めても、19神の御前に心が安らかにされる」意味でもあります。すべてを知っておられるが故に怖れて神の前に出られない者と、すべてを知っておられるが故に、それでも揺るぎなく子としてくださる神を信頼し、父の許で心が安らぐ直ぐな者、この違いは非常に大きな者です。畏れはあっても、真のクリスチャンに怖れはありません。さて、あなたはどちらの側のクリスチャンでしょうか。

<ありのまま・・・考> 私たちが賛美している歌集の中に「ありのままのあなたでいい」と言う歌詞があります。この「ありのまま」ということをばを、ただ単に「開き直った感じで、現状通り今のままでいい」と受け取られては、それは違うと私は思います。
そうではなく正しく自分の姿を知ること、気づかされることが前提だと思います。実は多くの人が感じていることは、一番自分のことを自分がわかっていると思っているのに、自分自身の真の姿が実際ははわからないことです。胃が痛いと思っても、実際は膵臓や脾臓、胆嚢だったりします。自分の性格は○○だと思っていても、それは思い込みの間違いだったり、○○ありたい、○○あらねばならないと願っていたもので、実際とはかなり違うことの方が多いのです。その他、自分を守ろうとして欠点を正当化したり、心の病や障害にも影響されるのです。ある意味、自分のことが世界で一番わかっていないのが自分だと言えなくもありません。

<ありのまま> 私たちが神を知ることができるのは、神と似た形になった時ですが、神の方は私たちの真の姿を知っておられます。その上で愛してくださっています。私たちが試練や困難に出会い、何一つ弁解できない自分の罪深さを知った時、その時、確かに自分には絶望しますが、神に希望を見出すことができる大チャンスです。実に罪深い自分の姿を見たその時、自分に死に、自分を神に献げてしもべとなり、神のものとされることができます。悔い改めのどん底の中で、次のような声が響きます。「ありのままでよい」と。ですからこれは人間が言う言葉ではなく、神が私たちに語ってくださる言葉なのです。「ありのままに見た」自分に絶望したので、神があわれんでくださり、神と交わる者、聖としてくださったのです。

ですからみなさん、実際どうにもならない自分自身から解放され、神のものとされることによって、罪深い自分自身から解放されていただきたいと思います。神の内にあれば、そこは真に自由があるのですから。

2019年6月 2日 (日)

聖霊のバプテスマ

使徒1章8節    「聖霊のバプテスマ」

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。     【新改訳2017】
 
聖霊のバプテスマを三つに分けて語らせていただきます。一つ目は「どういうものなのか」ということ、二つ目は聖書的な根拠を、三つ目は私の個人的な聖霊のバプテスマ観です。
まず聖霊のバプテスマとは、生きて働かれる神、聖霊様のリアルな体験です。ネットのはやり言葉、「リア充(リアジュウ)」だと言って言い過ぎではないでしょう。また人生を一変させる体験であって、自分の価値観にコペルニクス的転回が生じます。聖霊のバプテスマ、それは神のものであって、個人の心をすべて知られているあわれみ深い神の最善のタイミングで起こります。それまで知的な理解でしかなかった神を体験し、まさに「知った」瞬間ですから、祈ってもらって「自分が聖霊のバプテスマを受けたかどうか、よくわからない」なんてことはあり得ない種類のものだと私は思っています。  

ですから願われ続けること、祈ってもらうことは大切ですが、基本それは神のものであって、自分の時間や都合で得られるものではありません。どんなに祈ってもらっても、聖なる神との間に、気づかない障りが自分にある場合もあるからです。忍耐し、神に願い続け、愛なる神が取り扱いを持って必ず与えてくださることを信じましょう。

さて聖霊のバプテスマの最大の誤解は、聖霊の内住と同一視することです。教会の誕生日でもあるペンテコステの日には、すでにイエス・キリストを信じていた人々に聖霊のバプテスマが注がれました。この後ピリポのサマリア宣教において、多くのサマリヤ人が救われましたが、エルサレム教会はペテロとヨハネを送って、12人のサマリヤ人に聖霊のバプテスマを受けさせています(使徒8:14)。エペソに着いたパウロは、アポロの宣教で信じた人々がヨハネのバプテスマであることを知り、聖霊のバプテスマを受けさせました(使徒19:1-2)。このように、信じバプテスマを受けての聖霊の内住と、聖霊のバプテスマとは、通常は時間差があります。信仰において、初代から水のバプテスマだけでは不十分だと認識されていたのですが、それは今に至るまで全く変わっておりません。

「カリスマ宣言」では聖霊のバプテスマ、証人としての力を(1)信仰が堅くし、(2)メッセージや証しを通して主の力が現れ、(3)しるしと不思議のわざという神の道具が用いられると紹介しています。また(3)の九つの聖霊の賜物に関しては、教会の管理と吟味の中で運用されるべきものであると明確に規定されている通りです。

さて個人的な証しですが、この重要な聖霊のバプテスマは、言わば<神さまとの開通式>です。トンネルでも何でも、開通式は盛大にお祝いします。そんな祝福に満ちたものが聖霊のバプテスマだと言えるでしょう。お祝いなのにひっそり、当の本人がよくわからないなんてことはあり得ないと私は思います。私の場合も光に溢れ、空中に引き上げられたような、次第に減衰して行きましたが、三日間の素晴らしい体験でした。もちろん人に過ぎない存在が、この機会だけで神が全部わかる、なんてことはおこがましいことです。ホンの一部だけでしょう。それでも神を体験し、自分の人生における神がこれまで導かれ、忍耐されていた御手の軌跡を見、自分の価値など消し飛んでしむような圧倒的な神の偉大さ、聖、愛を知るのです。聖霊のバプテスマを受けた方は、即座に自分を投げ出してささげ、何とかしてみ心に用いてもらいたいと願うようになるはずです。

忘れてはならないことですが、自分の場合、神が触れてくださったのは、徹底的に自分の罪深さ、その醜さを知らされ、これまでにない悔い改めをしていた時でした。さすがにその時は、気づかされた罪深さに、初めて礼拝にさえも出るのに困難を覚えたほどでした。自分の真の姿を知って絶望した、まさにその時、神が触れてくださったのです。ですからその瞬間、私の生きる希望は神になりました。聖霊のバプテスマは、私の場合、このまず神が突然触れてくださり、語りかけてくださる開通式の体験の後に受けたのでした。

2019年5月26日 (日)

信仰の真価が試されるわけ

エペソ 6章12節   

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。   【新改訳2017】

 私たちの体は、神による万物の創造の最後に、ご自分の似姿に人を造り、すべての被造物の上に立つものとして置いてくださったものです。人は被造物という「物質」であり、それに「命」を与えられたものですが、さらに唯一「霊」をも併せ持つ究極のハイブリッドの存在です。霊的な被造物では他に天使がいます。しかし天使は物質と命を持たず、従って人間に及ばず、第1に神、次に人間に仕える存在なのです。
 そんな人間が本来の神のみ心通りに救われるために、神は独り子イエス様を受肉させ、十字架と復活の救いの道を開いてくださいました。愛の極まりを人間は受けています。

 人が神の子の十字架と復活を信じるとはどういうことでしょうか。このままでは必ずゲヘナに行くしかない自分の罪を認めるということ。つまり第1の死である肉体の滅びの後、残された永遠の霊の行く先がわかって、十字架の愛と救いに自分を信じ委ねる・・クリスチャンになることです。これは霊魂の不滅という真理に気づいていることがすべて前提のことです。そうでなく、教会の中には、まるで何かの保険のように、あるいは御利益的な自己目的のために表面的に信じた人たちもいます。その人たちもそこから脱皮して、真の信仰を持つことも多いのですが、その真価は第1の死で黒か白か、実質が現れることになります。霊魂の不滅と深刻な自分の罪の覚醒、これが信仰の土台です。

 繰り返しますが人に必ず訪れる第1の死、その時こそ信仰の真価が試される時となります。死を恐れる人は、自分の第2の死を予感するからではないでしょうか。信仰があれば真逆です。「これで自分はこの肉の縄目を脱ぐことができて、天の父の御許にいける」という解放の喜び、天への凱旋で喜びが湧くのです。ですからクリスチャンの葬儀は、一時的な別れで悲しむことはあっても、本来、天国とやがてそこで再会する喜びがあります。「聖者の行進」は埋葬を終えて帰る時の曲ですが、悲しい曲だとは誰も思わないでしょう?
 クリスチャンの死、これは信仰の真価が試される時です。どんなに篤信の信徒、教会での奉仕者、長老であろうと、その臨終に当たって死を恐れるか、または喜んで行くかは、命をかけたこれほど明確な証しはありません。私たちの戦いは血肉に対するものです。

 ここで一つお勧めをします。初代では当たり前であった聖霊のバプテスマを、クリスチャン全員が受けてほしいと私は願っています。もちろんこれはみ心しだいであり、そのためのHow-Toなどあるわけがありません。しかしこころから願い、求め続けてください。神はすべてこころをご存じです。信仰の真価に対し、明確なアドバンテージが聖霊のバプテスマにはあります。このことを次回さらにお証しできたらと思います。

2019年5月19日 (日)

聞き従いのわけは

詩篇 40篇8節   新改訳2017

わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。
 
 クリスチャンにとって、神に聞き従うことは最も大切です。ですが聞き従いにも、恐れから従う人と、神を愛して従う人とがいます。恐れて従うのであれば、その場その場のものですが、愛して従う人は神に近づこうとし、従うことそのものが喜びなのです。

 P牧師が良く述懐しておられますが、教会の誰よりも熱心に教会に出席し、奉仕しても、そんな自分よりもなぜか神に愛され、祝福される人が居ると。聖書ではダビデが該当するタイプではないでしょうか。ダビデは歴史上、イスラエルを最大版図にした英雄であり、イスラエルの国旗にもなっている人物ですが、逆に彼ほど問題を起こした人物は少ないのです。姦淫し殺人までしたバテ・シェバの一件、息子アブサロムに反逆され、妻たちを残して都落ちを余儀なくされたこともあります。

 しかし彼には神を愛する真摯な心がありました。神をなんとかして喜ばせようとしたのです。ですからどんな失敗があっても、神は彼を忘れず、祝福し続けたのです。どうしてでしょうか。神もまたダビデを愛されたからです。愛には、愛を、の原則があるからです。

 私は小学校の担任を長く経験しましたが、児童たちに二つの傾向が見られました。それは恐れて従う子どもと、恐れずに進んで教師に近寄って来る子どもです。恐れて従う子どもたちは確かに従いはしますが、それは教室という私の管理下にある時だけのことでした。しかしもう一方の恐れない子どもは、休憩時間になると教師のところに来て、あれこれ言いたいことを言います。「先生、あれは難しかった」とかの評価をずけずけ言ったりもします。時に山積みになっている教師の机上のノートを整理を手伝ってくれたりもします。この子どもたちは先生を恐れてはいません。教師に興味があり、親しみを感じ、近づいて会話を楽しむのです。すると互いの心がわかり、育まれるものが生じます。信頼と愛の中で育まれる最も理想的な関係、聞き従いではないでしょうか。

 このように、同じ聞き従いでも、神との距離が大きなポイントになります。神は同じように私たちを愛したいと思っていらっしゃいますが、前述のどちらがより多くの恵みを受け取っているか、お分かりでしょう。神を愛したダビデは、契約の箱を都に迎える時には、王の威厳も何もなく、妻に軽蔑されようと、ただ子どものように喜んで裸で踊りました。全知の神は私たちの稚拙より、私たちの心を実に喜んでくださる神なのです。

 私たちも、恐れからではなく、私たちを多く愛してくださった神を愛し返しましょう。

2019年5月12日 (日)

教会~召された人々

Ⅰコリント 1章2節     新改訳2017

キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

 昨日の聖書箇所、へブル2章12節で「会衆」とありますが、別訳で「教会」でした。英語ではアッセンブリーと言い、集まり、集会のことです。一般的なChurchはギリシャ語の エクレシアecclesiaが語源ですが、エクとは~からという意味、レシアとは=呼ぶと言う意味で、アッセンブリーと同様、「(神)から呼び集められた人たち」という意味です。旧約聖書の時代から、教会とは「人々の集まり」という意味だったのです。

 ところが私がキリスト教に接し始めた十代の頃から、私にとって教会とは建物である会堂のことでした。屋根を消失した荘厳なノートル・ダム大聖堂から、森の中の小屋のような教会に至るまで、十字架が掲げてある所、そこが教会だと思っていました。日本では神社仏閣の境内・建物等が信仰の対象になるので、これは日本人の自然な感覚でしょう。しかしこれは拭い取らなければならない認識です。それだけでなく、この教会堂があることによって、実は大きな問題があることをクリスチャン自身ですら気づいていないのです。

 日本では宗教法人法という法律があります。会堂など税金が免除される代わりに、責任を負う3名以上の役員と、財産管理と教会員数などの報告する内部規定が必要です(3章18,25条)。その意味もあって、教会では洗礼証明書とか転会状とかを必要としているのです。特に問題なのが3名以上の教会の根幹とも言える役員会です。私は立派な会堂を持つ大きな教会で役員を二十年しましたが、役員会はまさにこの世そのものであって、信仰とか霊性についての話は皆無でした。仕事の押し付け合い、様々な対立、これが教会だろうかと目を疑う連続でした。

 先週学んだように、教会はイエス様が「(ペテロの告白した)岩の上に」建てると言われたものです。その後、約束通り、十字架の死と復活によって死の力を滅ぼされ、教会はペンテコステの聖霊の注ぎによってスタートしました。聖書的には教会の頭はキリストであり、教会はそのみからだです。教会には設立の当初からキリストの霊が満ちているものなのです。その教会が、聖霊と告白する信仰を失っている例がなんと多いことでしょうか。
 ですから会堂はある意味、わなです。宗教法人法から、あるいは見える教会という物質化から守られています。会堂を持たない私たちは聖書の使徒時代の教会と同じです。本来の信仰オンリーの存在として、純粋で真実な教会です。私たちは恵まれているのです。
 
 何年か前の殉教聖会で「この中で、殉教をも厭わない人、前に出てきてください」との呼びかけに対し、その場の何百人という参加者のほとんどが立ち上がり、前に進み出ました。死を恐れない私たちの信仰こそ、真の教会であるしるしが現されているのです。

2019年5月 5日 (日)

この岩の上に

マタイ 16章15-18節    【新改訳2017】

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

<1>教会は、ペテロが代表して「あなたこそ神の子キリストです」の自発的な信仰告白が土台です。
<2>教会が具体的にスタートしたのはペンテコステでの聖霊の注ぎと働きからですが、教会の頭(かしら)はキリストです。このキリストが言われて居ように、三位一体の助け主、聖霊の働きによって最初は三千人の教会からスタートしました。聖霊の臨在とその働きがなければ、教会はそのいのちを失ったも同然になります。
<3>クリスチャンの使命とはキリストの十字架と復活の全世界での証人です。教会は証人としての働きの土台ですが、キリストの御体そのものであり、世界宣教への母体です。ですからクリスチャンは自分の体である教会を離れては存在出来ず、その肢体の一つとなって恵みを受けて生きることができるのです。
教会には福音宣教を広める以外に、教え育てる、聖礼典を執行するなどがあります。
私たちクリスチャンは御体の一部としての働きを全うしていきましょう。

私はバプテスマを受けた二十歳の時から、教会を中心に生活してきました。日曜日には一家そろって教会へ、そんな私でしたが、教会の恵みを心から思い知らされたのは、皮肉にも自分の教会を失った時でした。
それは前の妻が拒食症を発症したためです。普通の福音派の教会でしたので、医師からは絶望的な宣告をされました。癒やしだけが最後の希望でした。しかし教会には癒やしがありませんでした。初期の時代の溢れるほど載っている癒やしは、聖書が完成した今、もう終わったと言うのです。しかしこれは聖書のどこにも記述がないのです。神の癒やしにしかすがろうとした者にとって、これはいきなり家を追い出され、路頭に迷ったようなものでした。

こうして癒やしと教会を探す十年にわたる放浪が始まりました。本当に辛かったですね。信仰もどんどんレベルダウンしていきました。家族がバラバラになり、生きる目標も失ってもう終わりだという時、神は私の自分の真の姿を教え、悔い改めさせ、ご自分をハッキリとわたしの前に現されました。その日一日中私は神のリアルな存在に圧倒されつつ、「主よ、癒やしを否定し、死んだような教会では無く、どうか私のいける生きたからだ、私の教会を与えてください」と祈りました。

不思議なことにその夜、主はインターネットで、それまで全く知らなかったTELA (旧主の十字架クリスチャンセンター)を教えてくださり、なんと翌日には聖会までセットされている素晴らしいタイミングで導いてくださいました。翌日、私は不安と期待で聖会の会場に着きました。すでに始まっていたらしい会場のそのドアの隙間から漏れる光、わたしはそれだけで自分の教会が「ここだ」という、ついに見つけた喜びに包まれたことを忘れることができません。教会がなかった苦しみを通し、真実の信仰がある教会こそ、本当の教会であることを、皆さんと分かち合って喜びたいと思います。

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