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2017年4月16日 (日)

神のみこころに聞き従う

Ⅰペテロ 4章2・7節
 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。


 キリスト教においては福音を信じる、つまり「救われ」てクリスチャンになることが先ずもって大切なことです。その次、クリスチャンの信仰生活において、もっとも大切なことは「(神の)みこころを行う」ことです。このことは聖書でイエス様ご自身や、12弟子筆頭のペテロやヨハネらが口をそろえて語っています。このみこころを行おうとすれば、それは結果として神に「聞き従う」ことと同じことになるのではないでしょうか。
 
<参考聖書箇所>
主イエス・・・マタイ 6:10/7:21/12:50  パウロ・・・エペソ 5:17   ペテロ・・・1ペテロ 4:2  ヨハネ・・・1ヨハネ 5:14
 
 では、神のみこころとは何でしょうか。そのことも聖書には明確に説かれています。「(先ず教会内から)互いに心から愛し合う」ことです。ただ注意しなければならないことに、私たち人間にはそのような愛がないことです。人間はすべからく罪人で、自己中心な存在なのです。ですが、各自に聖霊に注がれ、神のあわれみとその力に依って内なる世的な肉を滅ぼすなら、可能になります。こうして聖霊を通しての神の愛が各自に満たされ、溢れて行くなら、互いに親切にし合い、仕え合うことができます。自分の今のありさまや、力を見ては不可能ですが、神にあっては不可能はありません。神の栄光はふさわしくなく、愛の力のない者を通して、神の愛が現されるのです。
 
 もう一つ、神のみこころは私たちが「堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かう」ことです。悪霊というものに対して、今は罪赦されて神のものではあっても、私たちの力では弱い存在です。しかし神は、悪霊に対し、私たちが怖じ逃げ惑うのではなく、「立ち向かえ」と仰っているのです。私たちの力は弱いけれども、神をバックにした堅い信仰に立つならば、圧倒的な勝利者となるのです。クリスチャンは神のしもべであって、しもべは主人の威光を帯びているからです。悪霊に対して逃げてはなりません。戦いの場では、その人が本当に神を信じているのか、神からの聖霊の力が注がれ、みこころによって立っているのかが試されます。失敗を恐れる必要はありません。イエス様の時代において、口をきけなくさせ、ひきつけさせる悪霊の追い出しに失敗した弟子たちにしても、多くのことを学ぶことができたからです。
 
 こうして見ればクリスチャン生活とは、聞き従いを通して、己に見られる内面の不従順さ、世的な欲望と戦い、また外から来る悪霊との戦いをし続けることだと言えるようです。天の故郷に帰るまで続くこの戦い、感謝と賛美はこの中で上がる、信仰による勝利の旗だと言えるでしょう

2017年4月 9日 (日)

クリスチャンの成長

イザヤ6章8節
私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」


 長年教会生活を送られ、奉仕しているのに、一向に自分の問題や困難が解決されず、また信仰の成長や恵みがないと思ってる方がおられれば。本日はそのような方にメッセージを取り次がせていただきます。
 もちろん恵みが感じられにないからと言って、教会生活を中断したりすればUpupどころかDowndownになるわけです。牧師に相談すると、自分のことばかりに目を向けないで、目を外に向け、もっと大変な人々を助けるべきだと諭されるかも知れません。しかし自分の車のガソリンが尽きかけているのに、他の人に分けあてなさいと言っているようなもので、それは無理です。まず自分自身の必要が満たされなければ、どうして他の人にそれを分けられるでしょうか。
 
 さて本題ですが、イザヤは神殿の上に立っている聖なるセラフィムを見て、己の罪深さがわかりました。イザヤは王族の一員で、人の目には正しい人でした。しかし神の圧倒的な聖の前には、滅ばなければならないただの罪人でした。神のあわれみによって、燃えさかる炭が口に触れたので、赦され救われたのです。その与えられた命のゆえ、彼は進んで、「ここに私がおります」と神の召しに応えようとしました。罪を知る、赦しがわかる、献身する、これがポイントです。イザヤだけでなく、人は自分の罪深さをいかにして知るのでしょう。神の聖の前に出ない限りは、罪は分からないようです。
 
 クリスチャンの成長とは、言い方を変えれば、己の罪深さを知って行く過程であるともいえるでしょう。聖である神を知れば知るほど、つまり罪がわかればわかるほど、神のあわれみ深さ、十字架の愛がどれほどかがわかり、自己がかすんで行きます。ついには神の愛をまったく信頼し、自分を捧げたくなって仕方なくなります。神の召しにいのちをかけて応えて行こうとする決心が湧いてきます。こうした神との交わりを通し、経験を通し、自分の思いをはるかに超えた導きの正しさがわかり、自分の考えよりも神のみ心が最善であって、聞き従うことを何よりも求めるようになるのです。
 
 クリスチャンの成長とは御心を求め、聞き従うことにあります。神の言葉である聖書と聖霊との交わりという、聖なる神との交わりなくして成長はありえません。神は生きておられます。交わりのない信仰生活は、徒労感が蓄積するだけです。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」神を、飢え乾きをもって求めましょう。そうすれば必ず神はご自身を現してくださいますし、「ここに私がおります」と応えているご自身と、その成長を見ることになるでしょう。

2017年4月 2日 (日)

原罪から恵みへ

創世記 3章6節
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 このアダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追放されるという原罪の記事は、人間のどうしようもない罪を明らかにするだけのものでしょうか。そうではなく、キリストとその十字架による赦しと解放へのドアです。また最終的にはエデンの園にあった永遠の命である「いのちの木」をも与えようとする祝福のプロローグなのですから。
 
 では園に神はなぜ禁断の木の実を置かれたのでしょうか。疑いようもなく、神への「愛」と「従順=戒めを守る」というシンボルでした。キリスト教信仰とは、一言で言えば関係の宗教だと言われます。人格的な関係というものは何よりも信頼が土台です。ですから国旗のように、園の中央に置かれていたのです。
 
 エバの行動で推察されることは、「それに触れてもいけない」と言われていた所に単独での近づいたことです。蛇とのやりとりを通して、そばにアダムが居たような記述がありません。禁じられている恐い所、そこにだけ蛇が居たようですし、そんな所にわざわざ一人で近寄って行くでしょうか。エバに単なる興味や好奇心以上の、神の戒めを疑い、自分の目で本当かどうかを確かめてみたかったという意図を感じます。
 
 エバの罪は蛇の言葉を神よりも信じたことです。サタンの本質は偽りとだましです。また恐怖で人間を支配しようとします。木に近づくという神の言葉への疑いを元に、かつてサタン自身も犯して転落した罪である「神のように賢くなりたい」に、エバをだまして成功しました。神の計画を見事に挫いたようにも見えます。しかしサタンのたくらみのすべてが、キリストの十字架によって完全に打ち砕かれるストーリーが聖書です。
 
 エバのことから学べる、神との信頼関係を損なってしまう、気をつけなければならない三つの原則があることに気づきます。
 第一に神を愛することです。神を愛すれば、その心を行いたいと願うようになります。木に近づいたりするような、誘惑されに行くような危険を冒す気にはなりません。
 第二に、エバが誤ったように見た目や自分の欲や判断を優先させる高ぶりに、特に注しなければなりません。私たちは有限な誤りやすい者で、神に従ってこそ正常なのです。
 第三に聖書と祈りです。「あなたは決して死にません」と言う嘘は、それを体験してからでは取り返しがつかないものでした。見分けるために何を信じ、誰に導いていただくのか、その答えは聖書と祈りしかありません。

2017年3月26日 (日)

キリストと共に死ぬ恵み

ガラテヤ 2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 
 この火曜日のブログで私は母との思い出を書きました。書いていて思い出したことは、「人は自分が誰かに必要とされ、それで生きていける」ということでした。その間の詳しい事情をすべて省きますが、五十歳にして家族を失い、やむなく母のアルツハイマー症の介護を兼ねて実家に帰った私の心はボロボロでした。しかしそれも数年経つと、病の進行で母は施設に入ることになりました。
 
 すると、誰も居なくなった実家に、自分一人がポツンと居ることになりまして・・・そのような経験がお有りでしょうか? あればご理解いただけるでしょう。誰も私を必要としない、されていない状況に置かれ、虚しさ、淋しさに私は本当におかしくなってしまったのです。仕事はありましたが、私が居なくてもすぐに代替者が来ます。しかし家族の代替者は居ません。家族を失い世話をしていた肉親まで・・・私の喪失感は極まったのです。
 
 私はクリスチャンですので自殺できず、自棄(やけ)になって自分をダメにしたい衝動に駆られるようになりました。そんな人生の最大の危機的な時、どん底の闇の中の私に、神のあわれみが注がれ、光が射す時が来たのです。
「私はあなたをずっと愛していた・・・」神の語りかけは突然でした。そしてその言葉は、私を瞬間的にいっさいがっさい、完全に変えたのです。誰からも必要とされなかったのでは無かったのです。神がこのウジ虫のような罪人の私を愛し、私のために十字架に架かってくださった・・・こんな愛ってあるでしょうか。この愛は、たとえこの世で命を失おうとも、失われることがない永遠の愛です。恐れ多いことですが、天地万物を造られた神から、私は必要とされ愛されていたのです。
 
 このことはへブル2:14でキリストが十字架で死の力、死の恐怖、サタンの縄目から私たちを解放してくださったと書かれてあるように、本当でした。それまで三十年もクリスチャンでしたが、それを自分のこととして受け取れていませんでした。
 
 それ故真に神を信じる私たちは告白しましょう
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにいきておられるのです」と。
 
 こうして私は新しく生きる者となり、虚しさとサタンから解放され、真に生きる喜びを覚える者とされました。みなさん、これがほんとうに生きていると言うことです。誰も、死をもこれを奪うことができません。永遠の愛です。苦しめられた者は幸いです。神の愛を知るからです。神のあわれみに感謝しましょう。

2017年3月19日 (日)

霊とともにあるように

Ⅰコリント 13章13節
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 人の話において、大切なことは一番最後に語られることが多い。パウロの書簡で最近気がついたことに、パウロの特長として、一番最後はBenediction(ベネディクション:祝祷,感謝の祈り)で終わることがほとんどです。それにも多少の違いがありますが、だいたい「主イエス・キリストの恵みが、あなたの霊とともにありますように」の言葉で締めくくられています。これはつまり、パウロは<聖霊との霊的な交わりが、すべての恵みの土台なのですよ>と常に忘れず私たちに念を押していると言えます。
 
 先週のメッセージでは、終末では「背教者が出る」と語りましたが、背教とは「神との関係を断つ」ことです。では逆に信仰とは何か? それは「神さまとの霊的な交わり」ということではないでしょうか。
 信仰は「感謝する」「喜ぶ」「聞き従う」「受けたと信じる」「踏み出す」などいろいろな言葉で語られます。確かにその通りですが、「私はあなたに従う力がありません。主よ、私を助け、み心を行わせてください」(み声に聞き従うp90)」とあるように、信仰を行う力は畢竟、上より来るのであって、ポイントは聖書と祈り、祈りにおける霊的な神との交わりです。二人のパウロが言っていることは一致しています。
 
 さてここからワンポイント、本日の中心です。神との関係、祈りと交わりにおいて主導権というか、決定権というか、それが人と神とのどちらにあるでしょうか? もちろん、それは神にあります。私は皆さんに、個人的にですが、聖霊のバプテスマについて、明確な体験を受けるようお奨めしています。もちろん神さまの方でも、その願いはみ心ですから100%叶えてくださると信じます。しかし、です。祈り求めても、長く聖霊のバプテスマが注がれない場合もあることでしょう。その人は他の人と比べたりして理不尽に思ったり、苛立ったり、諦めたりするかも知れません。ここが重要だと思うのですが、聖霊はよく風に例えられるように、人の思惑を凌駕します。なぜなら人は、その原因が自分にあることがわからないし、どうすればよいか自分ではわからない上、最善のタイミング、時というものもわからないのです。イライラしたりしてはいけません。それは自分の計画が神より優先しています。救いが神から来るように、ただ神だけが最善をご存知なのです。
 
 「貧しき者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」です。真に自分の心の貧しさを知る者となった時、聖霊の親しき交わりも近いことでしょう。熱心に祈り求めることとは、ただ静まって神の時を待つ聞き従う忍耐と共にあります。

2017年3月12日 (日)

主の日、後の時代

Ⅰテモテ 4章1節
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
Ⅱテサロニケ 2章3節
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
 
先週の月曜日がⅡテサロニケ2章、昨日の土曜日はⅠテモテ4章であり、この両方とも終末に触れている箇所です。偶然はないと感じました。Ⅱテサ2章での「主の日」とは、キリストが地上再臨される時であり、Ⅰテモテ4章「後の時代」はその前に来る大患難とリバイバルの時代のことを指すからです。
 
 一昨年からこの群れでは「リバイバルが始まりました」と語られています。ただそれが本格的に「今日来るか、さては明日か」と待っている方がいらっしゃるとしたら、ちょっと気をつけましょう。聖書に立って時を調べてみれば、次のように述べてあるからです。
 
 まず第一に『背教』(Ⅱテサ2:3)が起こらなければなりません。背教とは聖霊の賜物を受け、不思議なわざを行っていたような器が神に背くことです。教会の指導的な立場の人たちが、神に背く存在となります。サタンが全天使の1/3を惑わして悪霊に堕としてしまったようなことが、終末の時代に起こる可能性があります。わざや奇蹟に目を奪われ、神からのものが見分けられない多くの信者が惑わされるのでしょう。
 
 次に世界の比類のないリーダーとして、反キリストが登場しなければなりません。彼は不法の人ですが、死んだように見えても生き返り、誰もが為し得なかった中東和平を成立させます。その結果神殿の丘に、全イスラエルの悲願であった第三神殿が再建されます。このことをⅡテサ2:4で「神の宮の中に座を設け」と予告しており、サタンがサタンとなったゆえんの、反キリストが自分を神とし、己への礼拝を強要する最大の罪を犯す事態が来なければなりません。人々は熱狂してこれを歓迎し、反キリストへの礼拝を拒むことは命懸けになるでしょう。
 
 第三にマタイ24章でも語られているような、月が血の色に変わるような天変地異、飢饉、パンデミックな疫病、戦争の噂などが起こって来るでしょう。これらの事柄が起こらなければ、後の時代も、主の日も来ないのです。また見せかけでも、熱心そうに断食したり、苦行を説く者にもだまされないようにしましょう。
 
 私たちは「すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。誰にも、どのようにも、だまされないように(Ⅱテサ2:2)」いたしましょう。何が神から来たものかどうかが判断できるように、普段からしっかりと主と交わっておくことが大切です。まさに油を切らしてはいけないのです。ポイントは聖書と祈りです。聖書を読み込み、聖書が知識と信仰の土台となっていること、日々主の、み心を行いたいと祈り、感謝し、喜んでいるならば、どんな時が来ようと万全だと言えるでのす。

2017年3月 5日 (日)

私があなたを遣わすのではないか

士師記 6章12・14節
12節 の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。があなたといっしょにおられる。」
14節 すると、は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
 
 ギデオンはイスラエルのカナン定着の初期、士師の時代においてサムソンと並んで最も有名な指導者です。しかしナジル人で生まれつき選ばれていたサムソンと対照的に、召命を受けた時の彼は属する部族も、その立場も弱いものでした。ですから士師になるには「最もふさわしくなかった」人物とも言えます。今日はこの「ふさわしくない」が一つのテーマです。
 
ギデオンの名には「強い勇士」という意味があります。しかし神に会うまでのギデオンはミデヤン人を恐れて脱穀の麦を酒舟の中で打っていたという名前負け状態でした。脱穀の麦を打つためには、風通しの良い戸外でする作業ですが、そんなことをすればミデヤン人に見つけられて、麦を奪われるばかりか、隠していたとばかり痛めつけられる恐れがありました。
 
ミデヤン人とはアカバ湾の両側であるアラビヤやシナイ半島南部に住んでいた遊牧民です。アブラハムの二番目の妻ケトラとの間に生まれた民で、モーセの妻になったチッポラもその民の一人でした。イスラエルの地から見れば最も遠縁で遠方の民族、ミデヤン人がヨルダン川を渡って東から略奪に来ていました。
 
この時イスラエルは弱く、略奪に堪えかねて救いを待ち望んでいました。その叫びに神は、もっともふさわしくないギデオンを選ばれました。ギデオンがミデヤン人と戦うために角笛を吹いて、3万5千人集めましたが、神はこれ1万人に減らし、さらにハロデの泉でたった3百人に落とされました。これはイスラエルが自分の力で勝ったと言わせないためでした。こうして神の御業が現れる舞台は仕立て上げられました。このことからもわかるように、神のみ心は、民がどうにかして心から神を信じて欲しい、そう願っておられるのです。
 
今日、当初のギデオンのように、名前負けをし、現状に希望を失ない、人生に立ち向かうのに無力感を感じておられる方がおられるかも知れません。しかし大事なのは現状ではありません。ギデオンのように、ただ「神がその人とともにいらっしゃるか」どうかです。
人生の主な問題は、「主があなたと共におられるか否か」です。それは逆説的ですが、自分の計画や夢、希望を一切棄てて、代わりに神の計画の実現にそれらを置き換えることです。ただ神を信じるだけでなく、神を主とし、己を僕(しもべ)として神に聞き従う道でもあります。クリスチャンでも、このように願っている人はごく一部の人だけという現実があります。
 
ただここに大きな問題があります。神に用いられて行くと、サタンがそうであったように、高慢に陥る可能性がたかいのです。これは何としても避けなければなりません。ですから、誇れないように、ふさわしくなかったギデオンを召し、絶対自分たちの力で勝ったと言えないよう、3百人で13万5千人を打ち滅ばされました。
 
 このように「自分はふさわしくない」と思っておられる方、あなたこそ神に栄光に帰すことができ、神に用いられる器として最も適した状態であるとも言えるのす。ただ神を信頼し、神に期待して目を上げましょう。お一人お一人に神の最善の計画があります。どうか神があなたの人生に、ともに歩んでおられますように。

2017年2月26日 (日)

創造の目的

コロサイ人への手紙 1章18節
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
少し前のことです。いつもの歯科医院でブラッシングの指導を受けていると、「ここ、いつも磨いていませんね」と言われた所がありました。「そんなはずはない」と思いつつ教えてもらいますと、なんと私に親知らずの歯がありました。もう少しで私に、親知らずの歯が在ったことを知らずに終わるところでした。知っていなければ、それは存在していないのと同じです。ケアされないで無視された歯は、早晩虫歯か歯槽膿漏になったでしょう。
 
人が全知全能の神を認めないのもこれに似ています。世のほとんどの人は、私の親知らずの歯のように認識せず、したがってぞんざいにして、神の恵みを無にしてしまうのです。
さて、霊的な存在には神・天使(堕天使を含む)・人があります。その中でも人は物質を伴ったハイブリッドですので、端的に言えば人のために、天地万物のあらゆるものが用意されたと言っていいでしょう。この宇宙と人を含めた天地万物は、誰が造ったのでしょうか。またそれは、何のためでしょうか。
 
ちょうど本日の聖書通読箇所であるコロサイ書の1ー2章にその答えがありました。「万物は御子によって造られ、御子のために造られた(コロ1:16)」とあるのです。ピリピ書2:10-11でも「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるため」とあります。実にすべてのものがイエス・キリストにあって造られ、またイエス・キリストのために存在するのです。ではそれは、いったいなぜなのでしょうか。
 
ピリピ2:6-8には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず・・・・」とあり、キリストは神であるにもかかわらず、卑しい人の形をとってこの世に来られ、十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださいました。
キリストは人として歩まれていた間は、小さい者、弱い者、病ある者を助け、癒やし、力を与え続けました。その最後は全き罪無き方であるのに、十字架にかかって全人類の贖いの小羊となってくださったのです。神との和解を間に立って執りなしてくださった仲介者なのです。神の全性質がキリストにあるのですから、神はこのような愛そのもののお方だということが分かります。
 
神を信じるなら、神は私たちを罪から解放してくださり、ご自身の子としてくださり、永遠のいのちを与えてくださいます。今もなおキリストは天で、神の右の座で、私たちのために執りなしていてくださっています。これをなんと言いましょうか。何と計りがたい神の知恵、その奥義。我らの救い主、主を崇め賛美しましょう。私たちはその恵みの証人です。

2017年2月19日 (日)

もう一人の助け主

 ヨハネ 14章16節
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
 
 聖霊について、実はよく分からないという方が結構クリスチャンに居られます。聖書に聖霊の内住だと分かる箇所があります。16節「そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになり・・・・その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられる」ところです。助け主とは聖霊なる神です。この方を私たちに送られるためにキリストはこの世に来られ、十字架にかかってまで私たちを愛してくださいました。ですからイエス・キリストを主と信じるならば、聖霊さまは私たちの内に住んでくださるのです。しかし多くの場合頭だけであって、実際には分からないようです。
聖霊なる神はこの章の26節以降ですが、三つの現れがあります。一に教え、思い起こさせてくださる。二に、平安を与えてくださる。三に孤児にはせず、助けてくださる、と。
この意味です。神は皆さんの人生の始まりから私たちを子として特別に養護し、育てていてくださっているのです。時が来た時にですが、子ども時代の写真アルバムをめくるように、御手の内にあった数々の出来事を神は思い起こさせてくださいます。実際私も、神さまを知るまでのこと、信仰告白をしても、神に従おうとしなかった放蕩息子の時代のことなど、本当にくまなく見せて教えてくださりました。いかに神さまが忍耐強いか。どんなに私の心が神さまに向くのを待っていてくださったかが分かりました。神は私たちを愛しておられ、私たちの心が神に向くことをお望みなのです。

次に神は平安そのものであることです。確かに時に注意を受けたりしますが、それは「叱られる・叱責」というより、「よくぞ叱ってくださった」と「注意されて愛を感じる」性質のものです。ましてそこに恐れを感じることは決してありません。

 もしそれがホンの少しでもあれば、断言しますが、それは神ではありえません。平安の反対は、巧妙なだまし屋サタンの手口です。Beach699435_960_720_2すぐさま問答無用に遮断し、追い出してください。神はこのような、私たちがどんなに惨めで罪深い者だとしても、決して見捨てず、呼べば助けてくださるお方です。

     この神さまと私たちとの関係は有名な、「砂の上の足跡」からもよく分かります。
本日はこれを紹介して終わりにいたします。
 

2017年2月12日 (日)

信仰

ガラテヤ 5章16節
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

今から数十年前のことになりますが、私たちの群れが中国に聖書を持ち込んだ際、二十年以上の獄中生活を送られた方々に会いました。その人たちに、さぞ辛かったでしょうと獄中生活をねぎらうと、「Never!」と答えが返ったそうです。「イエス様の十字架を負うと、イエス様の愛がよく分かった」とも。獄中生活は、それはそれは神さまと一緒の素晴らしい時であったのでした。迫害のような恐れる事柄に対し、この事は多くの示唆を与えます。神に従う者に聖霊の力が注がれることを忘れてはなりません。聖霊の力とは聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしを受けてのものです。
 
 クリスチャンは各自、はっきりと聖霊のバプテスマをImages_2 受けた体験を持つ必要があります。聞き従いは、神を知り、その確信に立っています。ですからはっきりと分かる聖霊のバプテスマを祈り求めてください。聖霊を知らずしてどうして「神に聞き従う」ことができるでしょうか。明確な聖霊のバプテスマを受けることが全ての始まりです。
 少しオーバーに言えば、このように聖霊様を求め得られなければ、クリスチャンとしてこのまま地上で生きていてもしょうがない、とまでの飢え渇きが湧くのが自然です。自分が中心である肉のクリスチャンには、このような祈りや渇きはありません。
 
 聖霊のバプテスマを受けると何が起こるでしょうか。神さまが分かるのです。神さまとはどのような方なのか、それこそ「御霊の実」そのものであることが分かります。その絶大な価値の故に、それまでの自分自身がまったく無であることに気づかされるのです。そして神に、自分を完全に捧げたいと心から願うようになります。神を愛し、聞き従いたいと願うようにもなります。また聖書がよく分かるようになります。聖書は聖霊によって書かれたものだからです。さらに聖霊は九つある聖霊の賜物を通して、私たちを証しの器としてお用いくださいます。このように聖霊のバプテスマはその人自身をまったく変えます。霊・魂が神との正しい立ち位置に戻ったので、肉体と心のあらゆる病がいやされていきます。
 
 ですからお奨めいたします。あれこれ日常のことを祈り求めるのも大切なことでしょう。しかし、まずもって聖霊のバプテスマと満たしを求め、期待し祈っていただきたいと思います。そうすれば日常のすべては、添えて与えられます

2017年2月 5日 (日)

あなたは何処へ行く

ローマ 1章16節
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

 全国の高齢者の皆さん、私もこの度お仲間に入れていただいた若輩者ですが、年金とか、各種公共料金など、いろいろお得になったことがわかりました。しかし振り返ってみれば、喜んでばかりはいられない年代でもあると思います。
 なぜなら私と妻には普通の倍の八人の親がおりましたが、誰一人この世にはおりません。気がついてみれば、順当にいけばですが、次は私たちの番なのです。人生の折り返し点をとうに曲がりきった私たち高齢者は、命というものを真剣に受け止めなければならない世代です。人は死ねばお終いで、一切は無だと思っておられる方は少ないでしょう。形ある物は必ず朽ちていきますが、見えないもの、形ないものは朽ちず滅ばず、永遠です。人間の霊・魂というものも同様です。たとえ体を失っても永遠に残ります。
 
 問題は血肉のこの体を失った後、霊、魂が何処へ行くのかということです。仏教では、仏を信じる者は皆、極楽浄土に行くんだと聞かされました。しかし私は皆ということ、それが気になりました。なぜなら、罪が消えておらず、それならこの世とあまり変わらない所のように思えたからです。この世とあまり変わらないのであれば、行きたい所ではありません。はっと気がついてみると、赤い炎がちらちらしており、すごい臭いのする所では後の祭りです。死後の選択とは生きている間だけの、たった一回だけの選択です。永遠を時間をそこで過ごすとあれば、これに失敗するわけにはいきません。
 キリスト教では、唯一にして三位一体の神だけが神です。イエス・キリストは神の子であるのに、卑しい肉の形をとって処女からお生まれになり、十字架によって全人類の罪を背負ってくださいました。身代わりになってくださった十字架を信じる者は、完全に罪が赦され、聖霊が住まわれて新生し、罪なき世界、天国に行けます。
 
 そこで皆さんによくよく考えていただきのです。先ずキリスト教は世界最大の宗教です。22億人以上、つまりこれは人類の三人の内一人はクリスチャンです。次に世界最古、何と四千年の歴史を持っていることです。最後にキリスト教は国籍、民族を問わない世界宗教であることです。例えばヒンズー教はインド、道教や儒教は中国や朝鮮半島だけという特定の民族と地域のものです。ところがキリスト教はアジア大陸の西端から発して、全ヨーロッパ、アフリカ南部、海を越えて南北アメリカ大陸、オーストラリア、最後にアジアのフィリピン、韓国へと五大陸をカバーしています。日本を除く世界の先進国が皆、キリスト教の国なのです。

 皆さんイエス・キリストを信じて、また天国でお会いしましょう。短いこの血肉の命に比べ、永遠の命の世界を、どうか選び取ってください。

2017年1月29日 (日)

御霊によって歩む

ガラテヤ 5章16節
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
イエス・キリストは「聖霊を受けなさい(ヨハネ20:22)」と言われました。にも関わらず、クリスチャンでも、右の絵のような「聖霊の実」が現れていない方がおられます。つまりクリスチャンになっても「愛」も「喜び」も「平安」もなく、未信者時代とそれほど変わらない生活を送っておられるわけです。S
 血肉の体は御国を受け継ぐことができません(1コリ15:50)。同じように肉の心では聖霊の満たしを受けることができず、天に宝を積むことができません。聖霊なる神を通して、聞き従うことができないからです。永遠の天に比べれば、血肉のこの世はホンの一瞬です。このままでは取り返しのつかない、本当に痛恨の極みとなります。
 それで聖霊を求め祈るのですが、神は聖にして義なるお方です。肉の心(自分)が中心となっている限り、その人に主として入ることがおできになれません。人間は罪深く、信じても容易に自分を明け渡しません。愛する者に神は試練をお許しになります(へブ12:7)。ですから私たちは試練、困難を心から感謝するのです。
 私たちがどんなに罪深いか、一つだけ例をあげましょう。すごく自己否定的な方が居られたとします。一見謙遜にも見えます。しかしその自己否定が、実際の自分よりもはるかに高い自分を想定しているため、それに達し得ない自分を否定し受け入れられないのであれば、それは逆に高慢になりかねません。
 
 どうしたら具体的に聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしを受けることができるのでしょうか。ペテロは使徒2:38で「悔い改める」ことと「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」ことだと言っています。チョー・ヨンギ牧師はクリスチャンに内在する「憎しみ」「恐れ」「劣等感」「咎め」を悔い改めることだと言っています。私自身の体験から申しあげるなら、それを受けるには
(1)絶対注がれるまでは諦めない熱心と、
(2)神が導かれた「深い悔い改め」の中で、神の時に注がれるとしか言い様がありません。
 
「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちにどうして聖霊をくださらないことがありましょうか」(ルカ11:13)

2017年1月22日 (日)

人は心で(霊)で生きる

箴言 3章11~12節
11節 わが子よ。の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。
12節 父がかわいがる子をしかるように、は愛する者をしかる。

 人はこころで生きています。肉体にたとえ命があったとしても、心が常に心配や不安、憎しみ、恐れに支配されていたとしたら、その人は十分に生きているとはいえません。またその霊的な状態は、必ず体にも反映されていきます。
 
 素人の経験からですが、心の病の人はその病名がどうであれ、また本人が意識しているかどうかに関わりなく、セルフイメージ(自己像)に大きなずれがあるように見受けられます。例えば自己否定の態度のように見えても、それは高過ぎるレベルの自分を自分だと思っていたためだったりします。自分の思った通りの、描いた通りの自分にならない・・・・現状の弱く低次の自分を許せないからこそ激しい心の戦いがあるようです。
 孫子の兵法に「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」という言葉がありますが、この正しくありのままの自分を知る,受け入れるということが最も困難なことです。人はどうしたらそれができるようになるのでしょうか。
 
 昔、イスラエルにダビデという王様がいました。ベツレヘムという田舎に生まれ、羊飼いという貧しい家の少年でした。ダビデはやがて神の油注ぎを受け、勇者として名をはせます。やがて王として全イスラエルを統一し、都をエルサレムに定め、イスラエルを比類なき大きな国にすることができました。その功成り絶頂期にダビデは次のように言っています。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので・・・・(このように私を絶大に引き上げてくださるのでしょうか)・・・・私は取るに足りない者でした」と。ダビデのこの謙遜さこそ、代々のイスラエルの王家の血筋となり、イエス・キリストの家系ともなりました。自分の本当の姿、正しい姿に立ってこそ、神との正しい関係を築き、祝福を受ける土台です。
 
 このことを逆に言えば、クリスチャンが正しいセルフイメージを持って神の前に出れば、神から祝福を受けられる可能性が高いことを意味します。むろん神さまもそのことをお望みですから、試練というものを許され、試練で自己を砕かれることで、正しいセルフイメージを持てるよう導いてくださっているわけです。クリスチャンへの試練は神の愛であり、我が子として取り扱ってくださっているのです。ですから主の懲らしめをないがしろにするのではなく、感謝し正しい自己認識をして、み心に聞き従ってください。そうするなら、その試練は止むことでしょう。
 
 神は私たちを愛してくださっています。試練は人それぞれですが、神の愛は決して変わらず、死も命もどのような敵もこれを奪うことができず、永遠へと続きます。神が導かれた真の自分の姿をもって、神さまとの関係をさらに引き上げていただきましょう。

2017年1月15日 (日)

私はあきらめない

ローマ10章11節
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 困難と試練とは異なります。神を信じていない時のものが困難で、クリスチャンになってからは試練と分けています。私たちは本来傲慢なので、困難があるからこそ神に救いを求めるようになるのです。クリスチャンになってからの試練には、神の計画があり、信仰を引き上げ、使命を果たせるようにする訓練プログラムの一環という面があります。試練によって謙遜を得、聞き従うこと、感謝する願いを起こさせていただくことができるようになるのです。
 
 試練は一度来るだけではありません。Gif_4 何度も繰り返すようでいて、そこに成長と深化があって、スパイラルに、段階的に私たちは引き上げられていきます。それには神の教育法とでもいうべきものがあって、三つの過程をスパイラルに繰り返されて引き上げられていくと思っています。これを「きよめ」とか「聖化」と言い、ある段階まで来ると主の器として用いられていきます。
 
 神のプログラムの中で特に試練は、私たちの願いとは、別に残念ながら肉体がこの世にある限り終わることはないようです。なぜなら、肉体は滅ぶべきものであって、地に属するものです。同じく滅ぶサタンからの攻撃を受ける引っかけ口みたいなものでしょう。だから私たちは脱肉体というか、天を待ち望むのです。もともとクリスチャンは天に属しており、天はクリスチャンの故郷ですし、誘惑や試練はないからです。
 
 世においての私たちに対する神様の目的は、祝福です。ただし、この世で得られると思ってはなりません。信仰の父アブラハムも、マクペラの洞窟以外は世においての所有物はありませんでした。この世では、神様の御栄光が褒め称えられることが唯一の目標であって、私たちにとっては、天国においてのご褒美こそ祝福です。
 世においては神に聞き従って神の器となり、すべての栄光を神に帰しましょう。天の御国において祝福されることになります。そのために、熱心に自分を捧げられるよう祈りましょう。試練はその答えであり、 はじめの第一歩です。hallelujah!

2017年1月 8日 (日)

あなたの信じたとおりになる

マタイ 8章13節
それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
                           
  人間は肉体という物質と物質でない霊との共存体(ハイブリッド)です。物質は見えますが、霊は物質でなく永遠に存続しますから、見えません。見えないものが、制限のある見えるものをコントロールしています。ですから次のことが言えます。霊的に健康な人は肉体的にも健康であり、その逆もまた真です。そのため私たちの群れにあって癒やしは、霊的な面の取り扱い(救い・信仰)が前提視されるわけです。
 
 この見えない霊には三つあり、神と神に属する天使たちがあり、サタンとサタンに属する悪霊どもがあります。三つ目に人の霊があります。その力は1に神、2にサタン、3に人間と強さが異なります。つまり、人間は神に拠らない限りサタンに勝てないという点が重要です。要するにクリスチャンは、神なしには何もできません。そこで今あなたは、どちらの霊に支配されておられるでしょうか?自分で吟味をなさってください。
 
 さてここまでは準備運動です。私たち神を信じる者の霊には四つのPhoto_2霊的要素があります。
  一つめは「考え」です。現状を肉の目で見るのか、それとも霊的な目で見るのか、と言う認識です。どちら側の立場に立って見るのか、ということでまったく異なった展開になります。昔、エリシャがドタンでアラムの軍勢に包囲された時、エリシャはしもべと全く異なった認識をしました。エリシャにはアラムの軍を逆に包囲している主の軍が見えていたからです。クリスチャンに関して悲観的・否定的な見方はサタン的です。しかし聖霊とその信仰に拠って見れば、神の力による前向きな結果、栄光を産みます。
 
 次に「神には不可能なことはない」という信仰の言葉と土台に立つことが重要になります。これには聖句を用いたり、これまでの経験を用いるべきです。
 三番目に、実際にそのことが成就することをイメージし、リアルに夢を描くことです。それを毎朝、鏡の前で自信が得られるまで告白したりすれば大きな力になります。
 
 最後にそのような肯定的・積極的・前向きな言葉を告白しましょう。口から出る言葉には裁き(審判の意味ではなく)が伴います。信仰の言葉を紡ぎ、告白しましょう。該当する聖句でも良いでしょう。み心に反するのでない限り、主の時にそれは必ず成就します。まさに「あなたの信じたとおりになる」のです。

2017年1月 1日 (日)

神の住所

エペソ 3章16~17節
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

 日本人は今朝の元日、日頃は心にもかけず、信じてはいずとも、慣習か、またはわずかに残っている宗教心のためなのか、神社に詣でるようです。私たちのキリスト教の神さまは天地万物を創造された神です。偶像などに置き換えて拝まれることをたいへんお嫌いです。
 ではいったいクリスチャンどこを指し、どこを向いて、神を拝めば良いのでしょうか。よく「天にまします父よ」と祈りますので、天の方を向いたら良いのでしょうか。しかし日本とブラジルとでは、天の方角がまったく違うではありませんか。神はどこに居られるのでしょうか。イエス様が帰られた所、エルサレムのオリーブ山の上の方なのでしょうか。いえ、実はこのような特定の住所探しは愚かです。三位一体の神は時空を超えて遍在されており、どんなところにも居られるのです。
 それでもあえて「神の住所はどこ?」に答えるなら、神は神を信じる者の心の中に住んで居られます。今日の聖書箇所にあるように、聖霊なる神がクリスチャンお一人お一人の内に住まわれるので、私たち自身に聖霊の宮があるのです。ですから内なる神は、私たちのどんなつぶやきや、知られたくない心の秘密など、すべてご存知であります。どんな隠し事も、神さまには一切通じません。
 
 そう言われましても多くの信徒の方から「神さまの声など聞いたことがありません」「内に住んでおられる実感がありません」などと言われそうです。このような疑問に対して、まず第一に聖書がそう言っている確かなことであること。十字架は罪を赦し、聖霊さまをお一人お一人に内住させるためであったこと。最後に、以下に述べる四つの罪が内に住まわれている聖霊様との交わりを遮断しているからではないか、と申し上げましょう。
 
一つめ、未だ人を許していない「憎しみの罪」(マタイ6:14)があるため。
二つめ、恐れの罪。恐れはサタンを通す管です。恐れに支配されていては、1タラントを埋めてしまったしもべと同じ結果(マタイ25章)になります。
三つめは劣等感の罪、四つめは咎めの罪です。
これらはいずれも肉の思いが聖霊さまとの交わりを遮断してしまい、神の聖さもその臨在の恵みにもあずかれなくしているのです。ですから内住される神がわからないのです。
 
 どうか祈ってください。四つの罪に気づかされ、切なる祈りによって変えられ、肉において死ねるように。内住される聖霊と親しく交わることができ、信頼し、徹底して聞き従がい、主の御心の道を歩まれますように。神の恵みに与れますように

2016年12月25日 (日)

受肉された神

ルカの福音書 1章37節 
神にとって不可能なことは一つもありません
  私たちの神とはどのようなお方なのでしょうか?また、どのようにして私たちは神さまと交われるのしょうか?

 キリスト教など一神教には、偶像がありません。神のすべては、この聖書に不足なく明らかにされています。ですからクリスチャンで神さまのことを知りたい方は、まず神さまのどこを知りたいかを心を尽くし、祈りをもって聖書を読んでいただきたいと思います。求める者に神は必ず答えてくださいます。または、あなたの教会の牧師に聞きましょう。使徒8:31でカンダケに神がピリポを遣わされたような助けが、あなたにもたらされるかも知れません。
 付け加えますと、このことにちゃんと神は備えてくださいました。それは人となられた神、イエス・キリストです。今から二千年前、人となってくださった神を見ればよいのです。
 
 今日は12月25日。諸人こぞりてキリストの生誕をお祝いする日です。イエス・キリストは処女マリヤからお生まれになりました。天使ガブリエルからこのことを聞いて、あり得ないと思ったマリヤに対して天使ガブリエルが言った言葉が「神に不可能はない」と言うことばでした。全能の神にとって、聖霊によって処女マリヤから生まれることなど、簡単なことでしょう。しかし神は霊でした。その霊なる方が次元の低い不自由な肉の体をお持ちになった、このことに示された神の愛と計画が、処女云々より人間の理解を超えた、恵みの真の大奇跡でした。
 
 イエス・キリストという人となり、また為されたことがらについて、四つもの福音書で詳しく述べられています。嵐を静め、湖の水の上を歩き、五千人と六千人の給食を二匹の魚と五つのパンから為された。あらゆる病や精神の病をいやされ、罪人を赦し、弟子たちを訓練し、万人を愛された。これらの他にどのようなお方であったかを知るには、山上の垂訓と呼ばれるマタイ五章が参考になります。弱い者、貧しい者、悲しい者に寄り添い、あわれみ深いお方でした。また18:2にあるように、当時は無価値な者とされていた子どもを愛された。このように同7:11にある、神の御心というものを私たちに見せ、伝えてくださったのです。
 
 イエス様ご本人に関して言えば、ガラテヤ5:22-23「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」にある聖霊の実そのものを実際に現してくださったのもイエス様です。その上、十字架によって死に、復活されたすべてが、人間を愛してやまない神の御性質を現しておられるのです。信じるあなたのただ中に、イエス様の霊、三位一体の神である聖霊さまがお住みになっておられます。己の内に住みたまう神さまを確信し、心から祈れば、神はその祈りに答え、必ずご自身を示して答えてくださることでしょう。

2016年12月18日 (日)

復活

使徒の働き 17章31節
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。
古今東西の宗教で、教祖があまりにも残酷な公開処刑である十字架で死に、しかも三日目によみがえった・・・なんてものはありません。またキリスト教を特徴づけるものに奇蹟があります。湖の上を歩き、嵐を沈め、あらゆる病を癒やし、死人を何人も生き返らせるなどです。旧約時代にも奇蹟はありましたが、新約のイエスとその弟子たちほど、わずかな時間、広範囲にたくさんの奇蹟を現されたことはありません。
 
 少し前のクリスチャン映画三部作では、「復活(原題Risen)」がありました。日本語では「復活」ですが、英語ではRisen=よみがえったとResurrection=(教義的なキリストの)復活の違いを使い分けています。映画ではローマ百人隊長クラヴィアスが、部下の不始末を受け、遺体となっているはずのキリストを徹底捜索の結果、生きているキリストに出会うことになります。この段階では彼はよみがえったことの証人ですので、原題がRisenであるわけです。しかしこのrisenは生き返っただけで、いつかは死にます。Resurrectionとなると永遠に不死であり、さらに新しい肉体をも伴っているのです。
 
 よみがえりから復活へと。実はこれが異邦人には最も信じがたいところです。聖書のこの箇所では知性を代表するアテネ人は、復活の話になると使徒17:32「あざ笑い」、また「またいつか聞くことに」と相手にしなくなったとあります。これは今の日本人にも全く当てはまることで、十字架ならまだしも、復活を聞くと心の中では「あざ笑う」者が続出することでしょう。
しかし常識有る人々が到底信じられない復活なかりせば、キリスト教信仰は空しいのです。十字架の罪の赦しは、復活のためです。死後、霊魂の不滅、天国と地獄を説く宗教はあまたあっても、その体がさらに良いものによみがえり、天の国において永遠に生き続けるなどと説く宗教は世界で唯一、キリスト教だけです。到底信じられないことを全く信じる、これがキリスト教であり、信仰と申します。ペテロの信仰告白を受けられたイエス様が、十字架と復活のことを教え始められたのは当然のことです。付け加えてですが、このことは代々の聖徒の信仰告白「使徒信条」にはっきりと述べられています。
 クリスチャンであっても、復活の信仰が単に知識として留まっており、確信がないというか現実感のない方が多いと思われます。そういう方は非常に大切なことですから是非、熱心に祈り求めていただきたいと思います。
 
復活信仰のポイント
①(霊的面)死の恐れから解放してくださり、永遠のいのちを与えられた実証であり、死の恐れを打ち滅ぼしてくださった。天国(天の都エルサレム)に住まう確信を得ること。
②(肉体面)その体は、キリストの復活と同様、御霊の体と呼ばれる、今の血肉の体の制約を超えた別次元の永遠の体である。キリストはこの約束の成就と見本となられた。

2016年12月11日 (日)

リバイバル

使徒の働き 4章29-30節
29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
30 御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。
 
弟子たちのしるしとわざはすべて、聖霊に満たされて行われました。少々の聖霊ではありません。満杯です。いささかの他の霊、人間的な思いは混じる余地はありませんでした。つまり神が指示され、弟子たちを通して行われたのです。
 
ペンテコステでの三千人の救い・・・教会の発足に次ぐ神の計画とは次なようなものでした。四十過ぎの下半身の障害で立つことができない男が、美しの門に座らせられていました。宮詣での人々から施しを受けるためです。この時代、障害というものに理解も、サポートもない時代でした。まして多くの人からは障害が罪の結果と見られていたのですから、この男のこれまでの人生は苦しみと屈辱の人生であったかも知れません。しかし彼がこの状態からの救いを求めていたのは明白です。
美しの門と言うのは、エルサレム神殿の中の中、異邦人の庭を分けて、神殿を囲む聖域があり、その唯一の入り口です。ここに置いてもらえたと言うことは、神殿に詣でるユダヤ人全員がこの男を知っていたはずだということになります。神は誰もが認めざるを得ない、揺るがぬ証人としてこの人物を選ばれたのです。これはヨハネ9:3「神のわざがこの人に現れるため」のイエスの言葉の実証でもあります。
 
ではその展開を見て行きましょう。使徒3:4からです。少し要約して申します。
ペテロたちが「私たちを見なさい」と言ったので、何かもらえると思って、足が悪いこの男はペテロたちを見上げました。この男はつい最近、都で起こったこと・・・イエスという癒やしと奇蹟の人が十字架上で死んだこと、復活したこと、聖霊降臨があって、三千人という多くの人々がイエスを信じたこと・・・などをかなり知っていたはずです。ですから、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言われた時、彼らが自分の右手を取って立たせよあとしても抵抗するどころか、彼の人生にあり得ない不可能なこと、その手にすがって立とうとしたのです。つまり、信仰を働かせました。
 
私もかつて、車いすに座るようになった母を立たせようとしたことがあります。肉親の情で、元気だった頃の母に戻れるよう、癒しの祈りをしてからのことでした。母もつい、立ってみようとしたのですが、神の言葉があったわけではなかったので、私は重い母の体重を支えながら、全力でいすに戻すしかありませんでした。
 
しかしこのペテロたちの場合は実に明瞭に奇蹟が起こりました。差し出された手に従って立とうとしたこの男は、「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり」とあります。つまり、信じ聞き従った結果、奇蹟が現れたのです。足とくるぶしが強くなったから立てたのではありません。ここが大切です。聞き従った結果、起こったのです。
8節に彼は「おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った」とあります。いくら何でも、これまで立ったことがない者がすぐに躍り上がり、跳ねたりできるでしょうか? あり得ません。これは本当に想像を超えた奇蹟なのです。
 
マタイ21:21やマルコ11:23に「山をも動かす信仰」ということがあります。私はリバイバルの炎が本当に燃えさかる時には、多くのしるしや奇蹟が起こされると信じています。そしてそれはイエス様と使徒の時代の比ではないと思われます。奇蹟を目の当たりにして、多くの日本人は手品だと思ってトリックを懸命に探すことでしょう。何とか合理的に説明できないかと・・・。しかしその努力も空しかった時、この世界では物理や科学では説明できない、自分の考えの範囲を遙かに超えた世界があり、それは霊的な神の、信仰の世界があるということを認めざるを得ない事態に陥るということなのです。
 
ここにおられる神を信じる皆さん、皆さんにはお一人お一人に神の計画があり、神のその時には証人として用いられます。ただし、くれぐれもご注意ください。内住ではなく、聖霊に満たされた上で、神に聞き従うのです。ペテロたちも、そして私たちも、です。
皆さん、聖霊とその満たしを求めましょう。

2016年12月 4日 (日)

神のわざ

 ヨハネ 9章3節
 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざが現れるためです。」
 
教師という職業柄、障害児と関わる機会が多くありました。家庭訪問である程度信頼していただきますと、たいていのお母さんはわが子の障害について「私が悪かったのでしょうか」と胸の内を明かしてくださいます。社会の偏見や差別を100%身に負われて、苦しんでいらっしゃるのでした。未だに「税金の無駄遣い」と揶揄する人がいるようですが、もしそれが自分の子だったら、と相手の身になって考えられないようです。これはお金の問題ではありません。
 親として障害の原因をお医者さんに聞いても、発生率などをあげられて、「たまたまあなた方が引き受けられました」と説明されても、日々の現実にそれで納得できるようなものではないでしょう。世界の宗教の中で私の調べた範囲では、障害に対峙して教えているのはただ一つ、キリスト教だけです。そしてそれが本日の聖書箇所です。
 
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」  ヨハネの福音書 9章3節
 
 これは障害や病を通しての、神の計画と働きがあるのであって、神の栄光が現されるということなのです。実際9章では生まれつきの盲人が癒やされましたが、それは当時の宗教的権力者であったパリサイ人たちに対して、大いなる証しのために用いられました。彼を知る近所の人や両親までも、恐れて黙する中、何と大胆に元盲人は証しをしたことでしょう。しつこくパリサイ人に尋問されても、

「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのかご存じないと言う。しかし、あの方はわたしの目をおあけになったのです。神は罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、誰でも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられのでなかったとしたら、何もできないはずです。」  ヨハネ9章30~33節

と答えたのでした。これは非常に重要な証しの見本だと思います。私たちが伝道する時、あれこれ教えを伝えるのでなく、信じた結果、どれほど自分が変えられてきたか、そのことだけをこの元盲人が語ったように語れば良いのです。何も考えておく必要はありません。飾らずに、ただ事実だけを淡々と語ればよいのです。
元盲人はこう語ったので都から追放されましたが、これは彼の信仰を守るためには、腐った信仰であふれている都よりも良い導きであったと思われます。障害者、精神の病を持つ人、世的には能力が無い者を通して、神の計画があり、進んでいきます。すべての栄光を神に帰すことができるからです。ですから皆さん、弱さは私たちの心を神に向け、神の栄誉をうばわない私たちの宝物なのです。 ハレルヤ!

2016年11月27日 (日)

奇蹟をもたらすレーマ

ローマ 10章17節
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
  ロゴスとは誰もが共有できる知識や理解を指します。ではレーマとは何でしょう。「聖霊が、聖書のある所定の聖句を用いて、有る特定の個人に適用し、それを生きたものとする」ことだと定義されています。
 
本日の聖書にある、「信仰は聞くことから」の「聞く」と言う言葉は、ただ意味がわかった、理解したというロゴスのレベルではありません。「信仰は聞くこと」とは、誰から、何を聞くのでしょうか。御言葉を読み、祈り、あるいは預言などで、普段の理解を超えて、神がみ言葉を通して語られ、開かれたことからその方に信仰が興されたことを指すのだと思われます。これがレーマです。私たち主の十字架は、信仰の書である聖書からのレーマを求めて祈っているという面が非常にあるのです。
 
多くの人は、「神の声を聞いた」と思い違いをしたことが何度もあるのではないでしょうか。信仰はレーマを聞くことから始まります。神の言葉、レーマを受けるには、サタンはもちろん、自分の肉の声から離れていなければなりません。ですから強い願いがあったとしてもそれはさて置き、感謝してすべてを神に委ね、神のみ心に従えるように心を白紙というか、中立にしておくことがその土台です。そして決定的なのは「時」です。明日まで、とか「今すぐ」のような、神の計画に制限をかけるようなことをしてはなりません。神の時が待てる忍耐も信仰の土台です。
 
レーマが無ければ私たちの霊は飢え乾きます。常にレーマを求め、交わっていることによって、神のみ心がわかり、父の声がよくわかるようになります。そしてその声を知っているので間違うことも少なくなります。
 
神は終わりの日、迫害で多くの殉教者を出したこの国を見捨てて通り過ごされることはありません。どんな時も秩序を守ろうとし、理性的に考えようとするこの民は、現在は世界で最も不信仰の民でもあります。しかし日本に対して神は、常識や理性を超えた奇蹟をもってリバイバルを起こしてくださることを私は確信しています。それは神の声に聞き従う者を通して起こされます。あり得ないことである山をも動かす信仰や奇蹟は、レーマを通して起こされるのです。
みなさん、神を求め、リバイバルの器としていただきましょう。

2016年11月20日 (日)

神がまず私たちを

 1ヨハネ4章19節
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
今年の年間主題は、要は「信仰を用いる、働かせる」でした。その土台として①教会生活をしっかりと送る、②聖書を常に読み、学ぶ、③祈ること、でした。これらの上に感謝と賛美、聞き従いという信仰の行いがあります。
 
なんだ、それなら従来とおなじ じやないかと思われることでしょう。ただそれを「具体的に働かせ、用いる実践しましょう」に力点が置かれているのです。
この実践には一つの明確な目標があります。それは「受けたと信じる信仰(マルコ11:24)」の段階に進むことです。
 
ところでこれらの信仰の土台、およびその実践において、忘れてはならないのが「愛」です。この愛はあらゆるものの、土台の中の土台です。愛はどこから来るのでしょうか? それは自分の内に、およそ愛などが全く無いと自覚した時です。その時初めて、こんな惨めな私のために十字架にまで架かってくださった、神の愛がわかるのです。
 
試練は、実はこのためにあります。逆に言えば、罪を深く認識し悔い改め、神に己を捧げることができたなら、内なる試練はその目的を達成し止むのです。
最後に皆さんにぜひ、お願いがあります。内住される聖霊様をはっきりと認識してください。サタンはよくわかりますよね。疑わせ、うらやましくなり妬む心、すぐのぼせ上がって高慢になる、それらの心です。しかしそんな方でも、聖霊というもう一つの人格が、自分の内におられることには無頓着な方が多いようです。目と耳がまだ開かれてないと言うべきなのでしょうか。
 
これは聞き従いとか、信仰の実践においては極めて問題です。なぜなら見分け、吟味が弱いということになるからです。ですから今後は、声なき声、か細いお声を求めて祈り続けてください。これには長い時間がかかるかも知れません。でもその祈りのすべては天において聞かれています。忍耐を持って祈り続けるなら、必ず答えられ、神を知ることができます。

2016年11月13日 (日)

2017年間聖句 講解

ヤコブ2章17節
それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
この御言葉の意味するところですが、英語ではworkとあるように、信仰とはそれを働かせ、用いなければそれ自体、意味のないものです。どう働くのでしょうか? 「受けたと信じる」信仰のことです。
Even so faith, if it hath not works, is dead, being alone. (James2:17)
しかし信仰を働かせるには車で言えばガソリン、燃料がなければなりません。ガソリンも無いのに、信仰を働かせることはできないのです。ではどうやってガソリンを得るのでしょうか。それは先ず教会にちゃんと出席し、教会の恵みにあずかることです。入院するとどうしても教会に行けませんが、「病院でだって礼拝できる」と一人がんばっても、教会の恵みはないのです。ですからどんな理由があろうとも教会です。教会に行かなくては神とその霊の力は、必ず衰えるのです。
 
 次に日々聖書を読むこと、御言葉を信頼し、神の言葉の力に立つことです。聖書は私たちの唯一の信仰の規範です。聖書だけが全ての吟味の土台です。三つ目は祈りです。祈りを通して私たちは「受けたと信じる」確信に至り、信仰に立つことができるのですから、特別に重要です。祈り、答えられる、「受けたと信じる」。これこそクリスチャン生活の特権であり、醍醐味です。これが有る無しではまったく異なったクリスチャン人生になります。
 
 補足しますが、この三つのガソリンを得る土台に、属している教会の信仰も大きく影響します。例えば癒しを信じていない教会では、癒しは起こりません。信仰がないからです。神は祈りに必ず答えてくださるという信仰がなければ、それは多くの場合、答えられないのです。「感謝」や「聞き従い」という信仰の用い方にも、教会の信仰がなければ、なかなか得ることができないものです。ですから自分の教会がどのような信仰を持っているのか、それがまずもって重要です。
 
 最後に信仰書を読まれることをオススメします。祈りについてはジョージ・ミューラーのもの、信仰そのものについては田中まさお師やチョー・ヨンギ師などの書物をお勧めします。信仰を奮い立たせる証に満ちたこれらの信仰書によって、信仰も大きく変えられて行くのです。

2016年11月 6日 (日)

2017ガリラヤ湖 新年礼拝

ヤコブ 2章17節           (東京アンテオケ教会 パウロ秋元牧師)
  
「それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」
 
  この箇所が示されたということは、主が「信仰を実際に行いなさい、使いなさい」と強く語られたのです。信仰は使わなければ、死んだも同然です。リバイバルが始まり、世間一般の未信者に対し、神の動き、その業が現される段階に入ったということでしょう。
 
  実際、信仰を用い働かせなければ、何事も起きません。信仰を働かせなければ、神様の方も動けません。私たちが信仰を用い働かせるということは、神の計画と業を現し、その計画を大いに進めていくことになります。さてそのためには、その土台となる原則が三つあります。
第一に、祈ること。
第二に、感謝すること。
第三に、悔い改めること。
 
  祈りについてですが、何を求めてなのか、具体的にはっきりと求めましょう。祈りは、はじめは聞かれず、あたかも霧の中にいるですが、信じ祈り続けるなら、神がいかに素晴らしいことをしてくださっていることかがわかるようになります。祈りで人生が変わります。ただしそれは、1ヨハネ5:14-15にあるように、御心の祈り求めであるのが前提です。
  感謝には、表面的にでもとにかく感謝する段階から、神を崇めて心から感謝する段階があり、ついに信仰の告白をする段階があります。
  悔い改めについては、いうまでもなくこれは信仰を用いる土台であって、主はこれを喜んでくださいます。またこれは砕かれ、より聞き従うことに発展していきます。
 
  信仰の歩みは、不可能と思っても示されたことを、むやみやたらではなく、御心を確認し、聞き従った時から始まります。信仰の行いを踏み出したならば、最後まで行い続けるなら、印と不思議、リバイバルの大いなる業が現され、神の栄光となっていくのです。      Capha

2016年10月30日 (日)

私に何をしてほしいのか

マルコ10:51
  そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
 神は聖にして義、全知全能の存在です。その神は信じる人々に内住されるお方でもあります。その場合、悪霊とまったく異なって、決して自分の意思を私たちに押しつけられる方ではありません。できるだけ私たちの意思を尊重されるのです。この点を多くのクリスチャンが誤解して、多くの恵みを逃しています。
 例えば家族に「帰りにパンを買ってきて」と頼まれたとします。お店に入った途端、困ることでしょう。パン屋には食パン、菓子パンといろいろあります。菓子パンだってあんパン、メロンパンと具体的にわかっていなければ買えません。もし違うものを買って帰れば、「違う」とブーイングを浴びることになるのです。
 
 神様も同じです。今や世界一の大教会、韓国はヨイド教会のチョー・ヨンギ牧師が朝鮮戦争後、貧しい人々に天幕伝道し、自身も赤貧の中で牧会生活をしていた頃のことです。牧会に必要な机やイス、伝道して回るための自転車の必要を覚え、祈りの中で
無いものを有るもののようにお呼びになる力の御前で、そうなのです」 (ローマ4:17)
の御言葉に目が開かれ、たとえ今はなくとも、フィリピン産のマホガニーの立派な机、日本製の回転イスでコロの付いた重役椅子、頑丈なアメリカ製の自転車と、事細かく有るもののように神様に注文し、すでに与えてくださったと確信しました。
 
ところがこれをメッセージで語ってしまったので、一時ですが、虚言牧師の風評にさらされました。しかし驚くべきことに、当時としては奇蹟ですが、願った物がすべて与えられたのです。この経験がチョー牧師の信仰をさらに一変させ、描いた幻の成就として今日に至っているのです。
 
 みなさん、私たちは誰の子ですか?天地万物をお造りになった創造主の嗣子ではありませんか。神に不可能はありません。具体的に求めて祈るということはとりもなおさず、父を信頼し、神の力と愛を信じていることであって、狂人ではなく、むしろ神に喜ばれる信仰です。心から求めて祈るなら、御心ですから、それは最善のかたちで与えられます。ある場合には、自分の願った通りではないかも知れません。しかしそれは当初願った以上の最善でした。神を信じ熱く祈りましょう。但し、時だけは限定しないように注意してください。

2016年10月23日 (日)

永久に死を滅ぼされる

 イザヤ書25章8節
永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。が語られたのだ。

 今大河ドラマ「真田丸」は大阪冬の陣に向けて佳境に入っていますが、真田の六文銭は三途の川の渡し舟賃だとされています。一文がおよそ20円ぐらいとすると、120円です。
三途の川には地獄道、畜生道、餓鬼道の川洲があり、それに上がると大変な苦しい目に遭うそうです。六文銭があれば、船頭がちゃんと冥土まで届けてくれるので、真田の武士は死んでも大丈夫だという意味でしょう。
ところが冥土というのは暗黒の黄泉の国でして、全然良いところではありません。日本人は長寿にこだわります。生にこだわり、できるだけ死を考えないようにしていますが、死んだら冥土ですから、こらを恐れるのは当然なことです。
 
 これは聖書的にも大変正しい理解です。ただイエス・キリストの十字架の道しか、救いはないのですから。この哀れな同胞のために、私たちはリバイバルを熱心に祈らなければなりません。しかし、先に救われた私たちクリスチャンが死を恐れていたのでは、証にも話にもならないではありませんか。
 
 クリスチャンには二つの段階があります。第一の段階として、神を信じ十字架によって救われてはいますが、自分の問題や困難のために神を必要としている段階の人達です。
次に第二の段階があります。試練や困難を通され、自分の醜さに注がれた神の愛を真に知った人たちです。この人たちは、もはや自分が中心ではありません。取るに足りない我がことより、神の愛に応え、その御心を行うことが大切なのです。この段階は献身者の段階であり、血肉の体でありながら、天の御国を仰ぎ、御霊の体になることを待ち望んでいる人たちです。「死は勝利にのまれてしまった」が成就しているとも言えます。
 
この第二の段階には自分の力でなれるものではありません。試練や訓練によって知った神の愛に、押し出された人たちなのです。第一の段階だと思っている人についてですが、祈り求めていくなら、耐えられる試練の後、神はその方をちょうど良い時に引き上げてくださるでしょう。神を信じてください。神はそれがおできになる方です。 アーメンでしょうか?

2016年10月16日 (日)

確かな者は、動かない

 伝道の書 3章14節
 私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。
昔活躍していた人をTVで久しぶりに観ると、改めて年月を感じます。季節があり、一年や二年ではなく、自然や建物も、待ちの景色も時代と共に変わって行きます。先週ポストカプセルと言うものが来て、30年前に書いた手紙が届きました。貼られた切手も50円でして、時代を感じます。30年と言えば一世代分です。ドルカスにとって、船橋で牧会活動をしているとは、まったく想像すらできなかったことです。
 
「諸行無常」とか「有為転変」という言葉があります。仏教ではこうしてすべてが流転していくので、執着を離れて何ごとにも達観とか諦観の境地になることが素晴らしいと言っています。しかしそれではその人になぜ命が与えられ、生きたことに何の価値があったのか、さっぱり分からないではありませんか。虚無に価値を置くことはできません。
 
では変わらないものとは何でしょうか。それは神の存在です。聖書は何千年も前から変わらない真理を明らかにしてくださっています。この書によれば、人はすべて神が意図しての被造物であり、価値があり、神の作品なのです。陶器師が自分の作品を世に出すのに、作りかけや失敗作を出しませんよね。私たちは神がその独り子さえ惜しまずに愛してくださった、神の作品なのです。人それぞれに神の計画があり、それを果たす使命があります。今私たちの霊は滅ぶ体を着ていますが、この世から天の故郷に帰った時、天で新しい体を与えられ、永遠の報いが与えられます。移り変わり、滅んでいくこの世に目を留め置くのではなく、永遠の神を仰ぎ、見続けて行きましょう。
 
何年か前、パトモス派遣でトルコからパトモスへ小船で渡ったことがあります。ギリシャはアテネ近くのピレウス港から渡る時は、かなりの距離がありますが、大きなフェリーに乗りますから揺れはありません。パトモス島というのは、ほとんどトルコのそばにあるのですが、短い距離でもエーゲ海の波は高く、トルコの港を出るとすぐに小さな船はひどく揺れました。2,30度の振幅があったでしょうか、それが左右に揺れるのでとても立ってはいられません。見る見る間に酔う人目を回しはじめ、船底にバタンキューでした。で、私もその危険を感じまして、これではいけない、とドルカスと一緒に甲板に上がりました。甲板に出ると確かに目の前の船は揺れていますが、遠くの島々や太陽、水平線は揺れません。揺れないそれを見ていると、何と私たちは酔うことがなかったのです。
 
世の中がどんなに移り変わっても、神を信じる私たちは、ただ神を仰ぎ見続けましょう。そうすれば空しい世に流され、神を見失うことはありません。そして共に栄光と永遠の神の国で再会しましょう。

2016年10月 9日 (日)

神を愛する理由

マルコ10章38節
 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
 この箇所はこの世の地位のように、ゼベダイの子であるヤコブとヨハネが、神の国での最高の地位をイエス様に求めたところです。「一人をイエスの右に、もう一人を左に」。これを聞いて他の弟子たちが憤慨しないはずがありません。とは言ってもこの兄弟、告白通り兄は殉教し、弟は流刑という生涯を送りました。本日私が着目したいのは、兄弟の願いに対し、イエス様が「あなた方は自分が何を求めているのか、わかっていないのです」と言われことです。
 
 これには二つの意味があると思われます。一つはイエスの座の隣にという、その高さに見合う地上での過酷な試練を覚悟してのことか?ということ。兄弟の決心は確かに合格点でしたが、「御心に従うことが最善」の段階には至っていなかったのです。
もう一つには、地上の価値観で、つまり「上座が偉い」と天を推し量った誤りです。天ではこの世と反対に、仕えられる者より仕える者の方が高い地位を有するのだと主は諭されています。私たちの願いは目先のものであり、御心と異なるものなのです。
 
 祈りについて考えますと、幼児のような初期段階として、何でも求める段階があり、成長すると、神を知り、愛し、信頼するという段階に至ります。さらに御心を行いたいと祈り求める主に召されての献身者の段階があります。主の同労者として迫害や困難にも聞き従って、栄光の主を証しします。
どの段階においても祈りが決定的に重要ですが、皆様にお伝えしたいことは、ヤコブとヨハネのように、私たちも神に祈り求めますが、「何を求めているのか、わかっていない」祈りの状況にとどまっている可能性が高いことです。私たちが願っているあらゆることは、すでに主はご存知なのです。
 
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(マタイ6:26)
このように、世のことで思い煩っているのが私たちであるとしたら、ではいったい私たちは何を神に求めて祈るべきなのでしょうか?主は明確に示されます。
 
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
(マタイ12:30)
 私たちは、父なる神を「全力を尽くして愛せるように」祈れるなら、それは御心です。子が親に反抗し、忘恩の言葉をいかに吐いたとしても、親の愛は微動だにしません。そのことに気がついた子が為すべきことは、悔い改め、親孝行、つまり親に仕えることです。この世での、私たちの祈りで最も大切なことは、心を尽くし、思いを尽くし、知性と力を尽くして神を愛せるよう祈ることです。

2016年10月 2日 (日)

感謝

ローマ 8章28節
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
   感謝する、これは旧約から新約に至るまで、実に頻出する言葉であり、信仰の具体的な現れそのものです。神を信じていながら、どんなことにも例外なく、悪いこと、悲しいことでも、感謝することができないのであれば、その方は今日のみ言葉「すべてを益に変える」神への全幅の信頼を神に置いていないのであって、信仰が非常に弱いのです。肉的なクリスチャンに留まっているのでしょう。
 
例えば皆さんの中に「神様の声が聞きたい」と熱望される方がいらっしゃるかも知れませんが、その方に申し上げます、今聞けないことを心から感謝しておられるでしょうう?もし感謝しておられないなら、それこそまだ、なのです。なぜでしょうか?
ではもし神の声があった、聞けたといたしましょう。その方は先ずもって「聞き従い」が求められます。神からと確認の上ですが、「家を出よ、彼の地へ行け」でしたら出て行かなければなりません。ヨナのように、たとえその地が、自分が忌避してきた地であったとしても、です。また多くの預言者は、時の権力者に殺されました。たとえ死が待っていたとしても、聞き従い、預けられた言葉は語らなければなりません。もちろん今聞く者がすべて死ぬわけではありませんが、少なくとも自分に死ななければならないのは、神の声を聞く者の現実です。
あなたは今その覚悟と献身ができていて、それで神の声を聞きたいと願っておられるのでしょうか。ただ羨ましくて願っているのでしょうか。ですから何にせよ今、聞けないということは、その準備の段階にあるのであって、感謝して神の訓練、信仰を増し加えられるよう祈って参りましょう。神は全知であり、私たちひとりひとりの心の中をすべてご存知なのです。
ですから、今も、これからも、神が最善を為してくださることを心から感謝しようではありませんか。
 
感謝することは神さまから私たちへの命令です。それはエペソ5:20、コロサイ3:15-16、42などにあります。同時に祈りにも感謝が土台であることがわかります。今日この感謝を調べていて、ピリピ4章6節に
 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい
とのみ言葉が非常に私の心に入って来ました。祈りは「あらゆる場合に、感謝を持ってささげる」ものなのです。まず感謝して、それから祈る、みなさん、祈りにおける感謝を心からできるよう徹底いたしましょう。感謝を通して神は私たちの願い事、その強さ、思いを、とくと知ってくださるのですから。

2016年9月25日 (日)

罪におおわれた人は幸いです

 詩篇32篇1節
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
 
 聖書の中には様々な人物が描かれていますが、どんな偉大な人物であっても、例外なく、みな失敗をし、それを余すところなく描いています。中でも最も偉大な人物が、実は最も罪を犯し失敗した人物だと言うのは、これは普通の事ではありません。ダビデがそうです。

 少年ダビデは羊飼いでしたので、この絵は自分の羊のためImg_jpg にはライオンすら恐れず、打ち殺していた絵です。ペリシテ軍の巨人戦士ゴリアテも、ダビデによってたった一発の石投げで倒されました。その時ダビデは  「この戦いは【主】の戦いだ。」(Ⅰサム17:47)と言っていますので、ダビデは子どもの時から、油注ぎによる神の特別な力があったことがわかります。

 またダビデは長い間、サウル王から逃げ回り、最後には外国にまで逃げました。その苦労も、サウル王が宿敵ペリシテ人によって殺されてから解放されました。時にダビデが四十歳の時でした。その後七年間のユダの王を経て、三十三年間、全イスラエルの王でした。
 このダビデ王の時代に、イスラエルは史上の最大の領地や勢力範囲を持ちます。その広さはユーフラテス川からエジプト川に当たる広大な地域であって、アブラハムに神が約束された大イスラエルそのものでした。ただダビデだけがこれを実現した人物だったのです。その恵みの家系はイエス・キリストまで続き、真に祝福された王の中の王というべきでしょう。
 
 しかしダビデは十戒という律法の中の律法の内、一つでも重罪ですが、五つも犯した人物です。隣人の妻を盗み、姦淫をし、忠実な部下たちを殺しました。本来ならば神に裁かれ、打たれてもおかしくない状況でしたが、刈り取りはあったものの、基本的には赦されて、祝福は揺らぐことがありませんでした。なぜでしょうか?そうです、ダビデが即座に悔い改めて、神に赦しを請うたからです。悔い改めて、すぐにごめんなさいを言う。これに勝る祝福は絶大なものがあるのです。
この世では王という何でもまかり通る地位についても、ダビデは神の前では高慢にならず、子どものごとく謝り、赦しを請うからでした。このことは、私たちがどのような失敗や間違いをしたとしても、心から悔い改めるなら、神は必ず赦してくださり、祝福が失われることがないことをあらわしています。
 
ですので、恐れることなく、いつまでも謙遜に、子どものごとく神に赦しを求める者であり続けましょう。天の御国に帰るその時まで。

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