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さばくな

マタイ7章1節   2017新改訳

さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。

 月曜日ごろ聖書を何気なく読んでいるとマタイの7章の「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」の御言葉が目に刺さるように飛び込んできた。瞬間的にこれは天からの警告、注意であることも理解していた。それは日頃から、ある特定の方の言動を不正義に感じ、<許せない>思いを感じていたからに違いない。最近はむしろ怒りに近い感情さえ持つようになっていた、そのタイミングでこの御言葉が来たからだ落ち着いて考えるならば、このような怒りは冷静さを失ない、相手の事情も構わず、自分を絶対的な義の存在としてさばくからだ。そしてそれは神の主権を奪うことにもなっている。これは自分が裁判官になってしまい、「さばきは神のもの」(申命1:17)への明白な違反であった。この<自分が一番正しい>とするのは、エバから始まった罪、神をないがしらにして聞き従おうとしない罪そのものだ。

 人は自分が正しいと信じることを信じて生きようとするものだが、実はそのほとんどが間違っているのだ。誰が間違った人生を歩もうとす流だろうか。私はこれまで、短いとはもはや言えない人生で、唯一神を選んで信じた以外、自分が正しい決断や選択ができたと言う経験はほとんどない。唯一と言ったが、この唯一というのは神の哀れみと愛の導きの結果であって、真実は可能な限り私は抵抗して抵抗して、追い込まれて仕方なく<信じた>というのが真相なのだ。この群れではほとんど耳タコのように「神に聞き従う」ことが熱心に説かれるが、自分を捨て、神に聞き従うことは<人間中村>を磔にし、自分のことなど木偶の坊のようにしなければ不可能なことなのだ。

 クリスチャンの皆さんにお聞きしますが、別な言葉で「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」とイエス様が語られていますが、そのように死んでいらっしゃいますか。しかし憐れみ深い神は私たちを哀れみ、苦難の道を通されました。この中で、誰か伴侶を失っていない人がいますか?いません。この中で、財産が富んだものにされてますます豊かにされた人がいますか?いません。この中で、家庭が最高に祝福されてみんな元気で問題など何一つない、そんな方が来ていらっしゃいますか?いません。私たちは苦難の道を通してでないと、世が儚いこと、頼ることができなことを知ることができません。苦難を通して神を知ったので、今ここに、会堂も何の飾りもない、牧師も無名なのですが、この臨在ある教会に立っているのです。
 世の富が失われて初めて知る、愚かな自分に注いでくださった神の絶大な愛と救いの価値ゆえに、何もお返しができないがゆえに、今自分自身を神への聖なるささげ物として立とうとしているのです。アーメンでしょうか。

2024年2月11日 (日)

世界の終わり

黙示録 13章5節   2017新改訳

この獣には、大言壮語して冒?のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。

 聖書には1500箇所以上の終末時のメシア再臨預言があります。そして現在はかつては絶対不可能だとされていた、イスラエルの復興後すでに七十年が経っています。現在ではあり得ないと見られていた北のマゴクことロシアが、イスラエルに南下する道も開かれています。しかもハマスとの戦いで現在のイスラエルは、世界の多くの国から非難を浴びており、これも預言通りイスラエルが憎まれる構図になっています。これでエゼキエル書やダニエル署に書かれた終末のお膳立てが、まさに整ったというしかありません。
 コロナという疫病や頻発する地震、ウクライナ戦争から引き起こされた食糧難と近年の異常気象、物価高など、世の終わりが近づく不安は高まっています。しかし人々は不安を感じても、できるだけ死を考えないようにするのと同じで、見て見ぬふりをして避けています。しかし必ずそれは近い将来、外れたことのない聖書が預言した世界の終わり、終末は必ず来るのです。

 また個人的な実感ですが、教育の仕事に携わって感じることですが、急速なデジタル化によっても人間関係や思考力、忍耐力が低下しています。ぱっと判断して「できない」と一瞬で問題を投げ出すとか、他者を思いやることが乏しくなっています。その場限りの軽薄な判断や思慮の浅い行動を取り、互いに自制ができなくなっての混乱が大きくなって行くことでしょう。また日本でも進行している貧富の差が拡大し、先が見えなくなっています。こうして今後、首魁が不安定になり、愛が冷めて行くことでしょう。第一次大戦で敗北したドイツではヒットラーが民主的に選ばれたように、反キリストを生む舞台装置は整っています。

 本日の黙示録にありますように、七年間の患難時代の中、後半の3年半は完全に反キリストと呼ばれるサタンが世界を支配する時代になります。しかしクリスチャンにはその直前に空中携挙があって、完全に守られます。しかし携挙に残された自称クリスチャンにも、後半の時代に殉教というチャンスが残されています。この患難時代こそ、産みの苦しみの時代であり、クリスチャンにとって天への希望の時代です。
 本日は「世界の終わり」と題して、このような時代に私たちはどう対処して行くかを行くかを宣べたいと思います。皆さん、歴史上多くの戦いで証明されたことがあります。それは常日頃から備えをしていた側が勝つという原則です。宗教改革者のルターは「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日、りんごの苗を植える」と言う言葉を残しています。
 ルターは、今過ごす一日一日が、自分にとってかけがえのない備えの時であることを言っています。彼のように私たちも、普段の日常生活そのものが天国への備えの日々にして行かなければなりません。毎日を「その日に備える」。そうして救い主がいつ来られても良いよう待ちつつ、日々を過ごして参りましょう。その日を勝利の歓喜をもって迎えるためです。

2024年2月 4日 (日)

女の子孫

創世記 3章15節   新改訳第3版

わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
 本日の聖書箇所は、メシア預言と言われるものの、いの一番に挙げられる所です。

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(創世記3:15)」

この箇所は、「なんでこれがメシア預言なの?」と思われる方が多いのですが、とんでもない、大変重要な預言箇所であり、原始福音として是非とも理解しておかなければならない所です。

 ご存知のように、これはエバとアダムが禁断の木の実を食べた直後に神が蛇に言われたことばです。そして二つのことがここで定められました。一つにはあらゆる生き物のなかで蛇(サタン)が最も呪われるということ。二つ目には女の子孫である「彼(単数名詞)が、敵対関係に置かれ、後におまえと呼び捨てにしたサタンの頭を踏み砕く」です。言うまでもなく、彼とはキリストのことです。そして頭を踏まれ、砕かれたのでは、もはや再起は不可能です。サタンが再起不可能とはゲヘナという地獄に落とされることを意味します。対するにキリストの方は、かかとを噛まれますが、これは致命的なものではありません。このかかととは、十字架の痛みを指すものでしょう。
 そして「女の子孫」「彼」にも大きな意味があります。女の子孫とは女系の血筋という意味ですから、キリストは母親の家系から生まれるのです。これはユダヤ人にとっては異例なことです。確かにルカ福音書を見ると「ヨセフはエリの子」と書かれています。日本語ではわかりにくいのですが、エリはマリアの実父ですから、ヨセフには義父になります。イエス・キリストは人間の遺伝子を持たないで乙女マリアから生まれ、マリヤの胎で育ち、マリヤから産まれて育ったのです。マリアにとって、遺伝的には他人であっても、不義の子を宿したと言われるリスクを承知で腹を痛めた子ですから、イエスは母の愛情を存分に受けて育ったものと考えられます。

 また、こうしたユダ族の系図は紀元70年に起こったローマによる神殿破壊と放火によって失われましたから、メシアはそれまでに世に登場しなければいけなかったのです。聖書の数々のメシア預言は、こうして完全に成就しています。この点でも、神の計画は世界の創造の時から、また人間の堕落の時点から、メシアによる人間の救いの計画がスタートしていたことがわかります。神の計り知れない知恵と力は人である私たちに計り知ることの出来ないものです。しかし神はなんと愛に満ちた素晴らしいお方なのでしょうか。 この方を私は信じます。

2024年1月28日 (日)

神に用いられる

Ⅱテモテ 2章21節  2017新改訳

ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。

 私たち神を信じる者は、まずもって神に愛されていたからです。そして神を愛しています。愛は一方的なものではなく、相互的なものですから、なんとかして私たちも神の愛に応えて行きたいと思うのが自然な感情でしょう。。
 その愛しているので、愛する方の御心を行なおうとします。例えば小さな子どもが親におつかいを頼まれたとします。子どもは親の役に立つことが嬉しく、ちょっと不安もあリマスが誇らしいものです。が、親にとっては心配です。ですから、まず子どもの成長や特性を見定め、実際にできる能力があるかどうか、道のりや金銭感覚、所定のものがわかるかどうかなど、熟慮した上でできることを確信してお使いに出すことでしょう。私たち神の子どもは安心して役目を果たすことができます。人間の親とは異なって神は完全であり、私たちの能力(タラント)を私たち以上に正確にご存知です。ですから5タラントだろうが2タラントだろうが、言いつけに従って言われたことをやれば必ず成功します。しかし、もしかして不首尾に終わるとすれば、1タラントを地中に隠したしもべのように、しもべの側に自分の考えを優先する問題があったからです。

 つまり神の側は完全で誤りがないのですから、私たちの側の行なう決心や意志の方が決定的に重要です。またせっかく全うするための道具として賜物を与えられていても、それをただ地面に埋めて隠し持っていただけでは使命を果たせず、信頼せず不服従の報いを受けることになります。ピアノが弾ける、会計やコンピュータができるなど、世的な賜物の力も、決して偶然と考えてはいけません。神があらかじめ備え、御心に従って用いるためのものであることがほとんどです。実際、この群れでは音楽とか映画というジャンルで多くの証人がいます。これらの世における賜物と合わさって、九つの聖霊の賜物が用いられて行くのです。

 このように神に用いられた人々の実例を見ましょう。そこに一つの共通点があることに気づきます。パウロ、アウグスティヌス、ジョージ・ミューラー、マザー・テレサなどからわかるのは、用いられる器にふさわしく、たとえ信じる前に汚れた過去があったとしても、本人の意思と神の恵みによって<きよめられて>いることです。本日の聖書箇所、だれでもこれらのこと(世的なこと)から自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります(1テモテ2:21)はそのことを示しています。聖霊が住まわれ、人を通して働かれるには、その人の自分に死に、神に明け渡したきよい人であることです。ですから神を愛し、神に応え、御心を行なう器として神に用いられようとするならば、神の聖さにふさわしいきよめを求めましょう。神への愛が、その願いを起こさせ、神がその願いに応え、神の方法できよくしてくださるのです。
 ですからまず祈り求めましょう。「主よ、どうか私を罪の縄目から解放し、汚れた私を洗ってきよくしてください、それによってあなたの御心を行なう者に私を造り変えてください」と。

2024年1月21日 (日)

御霊の実と賜物

Ⅰコリント 12章31節   2017新改訳

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。
 私たちはカリスマの教会で、異言や預言、癒やしなどに熱心な教会です。九つあると言われる御霊の賜物(Ⅰコリ12章)を用いて、世における神の計画の進展を願っているのです。
 しかし聖書には同時に御霊の実(ガラテヤ5章22~23)ということばが存在します。賜物と実、これを今までは横並びで理解していたのですが、最近になって「順序があるのではないか」と思うようになりました。つまり「御霊の賜物の前に、先ず実ありき」ではないかと。そこで聖書を詳しく調べてみたところ、以下のことがわかりました。賜物については、A信仰、救いと理解されるべきものと、B癒やしや預言などの九つの特別な賜物と理解すべき二つがありました。

 実については、「悔い改めて身を結ばねば火に」と迫るものや、聖霊の働きによって神の品性を表すような九つの実が併記されていますが、基本、愛が中心となるものでした。これら実も賜物も、自分が死んでいない肉的な人に現れることはあり得ません。働きがその人自身のように見えても、その中身、働きは聖霊である神です。ですから、通り良き管となっている人の思うがままに使えているわけでも、自分の意思で用いているわけでもありません。

 これがよくわかる話に、七人の執事の一人、ピリポの話があります。彼はステパノ以後の迫害によってエルサレムを追われ、遣わされたサマリアで伝道をします。そこでは聖霊の賜物が大いに用いられ、バプテスマを多くの人が受けました。現地で評判の高かった魔術師のシモンまで本物のしるしと不思議に、ピリポに付き従うようになります。ところがピリポには、聖霊のバプテスマまでは授けられなかったので、エルサレム教会のペテロとヨハネが遣わされ、聖霊のバプテスマを施しました。「シモンは、使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て、使徒たちのところに金を持って来て」(使徒 8章18節)それを二人から買おうとします。

 シモンは金で得ようとしたので「悪事」と呼ばれました。シモンのように金を持って来ないまでも、聖霊のバプテスマを<受けたい>と願う人は多いことでしょう。しかし勘違いしてはいけません。肉が死んでいないのに求めるなら、それは自分の栄誉のためであって、シモンと同じ「悪事」に他なりません。

 先ず、聖霊のバプテスマを求めましょう。これこそ御霊の賜物と実の土台であって、聖霊ご自身が分与され注がれるものです。自分に死に、完全に明け渡していなければ聖霊のバプテスマはありえません。悪霊や肉の霊と神が同居されることはあり得ません。また自分に死ぬことは自分の力でできません。悔い改め、心から神に自分が捧げられるよう祈ることしかありません。道のりを歩き、時が来たら与えられるでしょう。また貸与であって、サウル王のように、従えなくなれば取り去られます。結局、神が人を通して働かれる外面的なものが「賜物」であり、神の実質を見る内面的なものが「実」です。その土台は「聖霊のバプテスマ」です。

2024年1月14日 (日)

恐れるな

ヨハネ 14章20節   2017新改訳

その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

 最近マザーテレサの手紙というものを知る機会がありました。以下、その内容です。
「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない。もし魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実でない。」・・・この手紙はごく親しい司祭に宛てたもので、本人からは非公開にしてほしいと要望されたものでした。  
 この手紙を読んでみると、彼女は神の存在を一時的にせよ、疑う時があったことがわかります。もちろん神の存在を疑うことは天的なものではありませんが、この世に肉体をもって存在している限り、惑わしは逃れられないものです。むしろ、その揺るがせの中で、堅く信仰を持ち続けることが大切なのではないでしょうか。つまり、マザーテレサも弱い肉体を持った人間であった、その中でことごとく惑わしを断ち切り、打ち破ってあの偉業を成し遂げたのです。

 さて視点を聖書に戻してみますと、偉大な預言者エリヤでも死を願ったり、聖霊のバプテスマを受ける直前の弟子たちも、同じような疑いと不安の中で集まり、必死に祈っていたはずです。現代でも明らかに神を声を聞いたマザーでも、こうした疑いを抱かされるのです。私は幸い、聖霊の注ぎを受けた以後、存在を疑うことはなくなりましたが、それでも神を身近に感じたり、時に遠く感じたりします。クリスチャンには次のような段階というものが存在します。

聖化の段階
①無味乾燥の不毛状態が続く
②全ての被造物との離脱に導かれる
③その後は神の御手に適合した道具となって、純粋に私心なく神に使える
④キリストとの高い一致に到達する

 私は③や④のような段階に至るまでの、②の段階であり、かなりひいき目に見ても、③の初心段階ではないかと思います。それでもキリストや神を決して否定することなく、老化という神が導かれる恵み、肉体の衰えが肉体への希望を失わせつつあるという恵み‥‥それは全ての被造物との離脱に向けての大きな希望を抱くのです。
 それゆえ聖書には、いったい幾度神は「恐れるな」と語られているのでしょうか。疑い、恐れてはなりません。自分自身への疑いや惑わしに乗らず、③の段階である、神が用いてくださる私への使命を、神は全うさせてくださることを確信しているのです。
 神を信じ、神を追い求め続けましょう。その先にあるのはただ天への希望であり、神の光です。さあ、祈りましょう。

2024年1月 7日 (日)

聖別~この世のものでは無い

ヨハネ 17章16~17節  2017新改訳

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です
 古来から「諸行無常の響きあり」と、この世の全ては移り変わっていくことは知られていました。人間だって、曾孫の代になれば、ほぼほぼ忘れ去られてしまっているでしょう。世、世界は流転しています。しかし、ただ神のことばだけが永遠に、時を超えて確かに存在し続ける唯一のものです。
 実際、ここにおられる皆さんは、おそらく美しいステンドグラスの光の下、荘厳な礼拝堂に魅せられて来られたわけではなく、また天使のような素晴らしい人に憧れて来られたわけではないかと想像しています。

 そもそもこうした教会と、その真実な信仰を持っていらっしゃることが奇跡です。まず神が人の形をとってこの世に来られた。これは結構神話なんかにありますが、処女から聖霊によってお生まれになったというのは、かなりハードルが高いです。常識ある人は信じないでしょう。そのイエス・キリストという人は、死人を三人も、最後には腐っていたのですが蘇らせ、あらゆる患い病気を癒やされ、海の上を歩き、嵐を鎮め、五つのパンと二匹の魚で数万人の食事を賄われたというのですから、これを信じるには、人間を捨てないと難しいかも知れません。その上、崇められる教祖様が酷い十字架刑で苦しみ抜いて死なれ、三日目に復活し、その後大勢の人の前に現れ、共に食事をしたりした、という極め付けの出来事が、神のことばである聖書に書かれています。これを信じる皆さんとは、本当に自分自身の価値観、在り方を捨てていらっしゃるのです。これは自分の力ではできません。そうです、自分では信じられなくても、皆さんの内に御住みなっていらっしゃるご聖霊様が、助けてくださったのです。

 皆さんはすでに聖別されています。父母の間から生まれて来ましたが、実は天地万物の創造の直前、神の計画によって霊がすでに神の子として生まれていたのです。したがって皆さんはすでにこの世のものではありませんから、世から迫害を受けるのが当然です。多くの苦しみを通して完全なものとされるのは、天に属する者として、ふさわしいことなのです(ヘブル2:11から)。
 ですからみなさん、賜物を持っている人は賜物を用いて感謝しましょう。しかし恐れてはなりません。ハレルヤ!主は十字架ですでに勝利を取っていらっしゃるのです。堅くたってみことばを忠実に守りましょう。(2テサ2:15)

2023年12月31日 (日)

これはひどい話だ

ヨハネ 6章60節   2017新改訳

これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」

 福音書の中に、なかなか私たちには理解できないイエス様の行動がいくつかあります。本日はその一つ、自分に従われる大勢の弟子たちが一斉にイエス様から離れて行く事件がありました。本日はそのことについて語らせていただこうと思います。

 ヨハネによる福音書の6章にそのことが書かれています。場所はガリラヤ湖畔のカペナウムです。それまで付き従っていたたくさんの弟子たちは、イエス様のこの言葉によって去ったのです。
 かつて荒野でイスラエルはマナを食べたが、彼らは死んだ。しかし「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるもの」と言われ、群衆からそれを求められると「わたしがいのちのパンです」と答えられたのだった。そして決定打は「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」とさらに明言されたことだった。
 これを聞いた弟子たちは<人肉嗜好>だと思い、「これはひどい話だ」と去って行ったのです。どうしてこのような誤解されることをあえて言われたのでしょうか。背景とその後を見るなら、実に深い計画があっての言葉だとわかります。

 まず第一にイエス様は二つの理由によって、群衆から追いかけまわされていました。一つは奇跡見たさの群衆です。直前に五千人の給食という大奇跡をされていたからです。群衆はエリヤの再来だと思っていたのです。もう一つは最も危険な、イエスを王に担ぎ上げようとする政治的な陰謀です。またそこまでではなくても、弟子たちが本当にイエス様を信じて従おうとしているのか、試しが必要でした。「これはひどい話だ」と思った弟子たちは、自分の常識や判断でイエス様のことばを捉えました。そして自分の判断に従ったのですから、これは本当の弟子ではなかったのです。
 現在でもクリスチャンと称しながら、すべて物事を自分の判断で為し、教会に集っていながら、自分に何がしかの益を得ようとする人々は多いのです。このような目的で付き従う弟子の存在は、十字架に向けての宣教には、かえって妨害になるのです。

 さらに本日もありました<聖餐式>において、見かけはパンとぶどう酒ですが、そうではなく、イエスの体を食べ、その血を飲んでいます。私たちイエスを主と告白したので、永遠のいのちを受けているので聖餐の恵みに与るのです。人肉嗜好のように聞こえたイエス様のことばは、人智では測り難い、神の真実でした。

2023年12月24日 (日)

キリストに望みをおく者

Ⅰヨハネ 3章2~3節   2017新改訳

2:愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3:キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

使徒2章で、イエス様がご自身を信じる者は証人として「地の果てまで、わたしの証人となる」と語られました。

 一昨日の金曜日の夜、私が勤めている学校の慰労会があり、その時、同席していた同僚からいきなり「本職はなんですか?」と聞かれました。以前私が今の仕事は副業で、別に本職があると言っていたようなのです。私はすぐに「牧師です」と答えました。するとみなさん、一様に驚かれていました。牧師が珍しいのか、私が意外だったのか、どちらかでしょうけど。

 そこで「はた」と気づかされました。「今まで教室の子どものためには、あれこれ祈らされてきたが、同僚たちのことはまったく祈っていなかった」と。世の人々への証し人としては、何たるうかつなことでした。証人として私には、何の能力も資質もありませんが、それで引っ込んでしまっていては、何のための世との関わりだったのでしょうか。これからは証人として主に用いられるよう祈ることを強く示されました。力のない者であっても、神の力は祈る者を通して流されて行くからです。
 それでかなり反省し感謝もしていたのですが、今年の歌集ガラテヤ人への手紙5章22−23節で「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容・・・」とあります。今年の歌集にちょうどこの賛美があるように、それらはわたしにはないし、どこまでもレンタルですが、神が注いでくださるものです。自分が証し人として足りない力や、過去に打ちひしがれるのではなく、み心を行うために、上から受けるものです。それはちょうど子がお遣いに行くようなもので、神はちゃんとお金や何を買うかの商品知識を持たせてくださるのです。イエス様もこのことを「わたしは、自分からは何も行うことができません」(ヨハネ5:30)。つまりやることも、やれる力も主から来るのです。来てもいないのに無いことを悲観してはいけません。
 今回のことも、これが主の示しでしたら、私は同僚の救いのために熱心に祈ることができ、その力が与えられ、実際主が働かれて行くのを見ることでしょう。
 明日のクリスマスを迎えるにあたり、「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストがきよい方であるように、自分を清めます」とある通り、今は私はこのように、祈りたちなかったり、御霊の現れ、その証に乏しい者です。しかし、だからと言ってこのままではありません。神の時には、主が九つある御霊の必要な力を注いでくださるでしょうし、天に行く時には「望みをおいている」限り、必ず清くされて引き上げられるのです。
 今、御霊の現れがそうでなくても、真に信じている者は必ず救われ、天で清くされるのです。主に感謝しましょう。

2023年12月17日 (日)

彼らはわたしの民となる

ヘブル 8章10節   2017新改訳

それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 私たちの教会は、イスラエルに重荷がある教会です。聖書は神のことばなので、そこで語られて来た預言は、これまで外れたことがないばかりか、これから起こる事を知らせ続けるのです。今ほど聖書で語られた終末に「世界は非常に近づいている」と感じさせられることはありません。

 さて私たちの教会は「イスラエルに重荷がある教会」です。重荷とはなんでしょうか。それは終末期、二つのことが起こると預言されている二つ目のことです。つまり一つ目はありえない出来事ですが、二千年の時を経て、再びイスラエルの国が再興されたことで、1948年に成就しました。
 次は未成就の預言ですが、エルサレムに第三神殿が建ち、イスラエル人がとうとうメシアニックジューになるというものです。従って私たちはユダヤ人のメシアニック化に向け、現在ではまだ少数派の彼らと連携を取り、毎年イスラエルを訪問しながら関係を深めて協力体制をとっています。終末の最後段階では、全世界に福音が、そして日本がリバイバルが興り、仕上げにイスラエルが主イエスをキリストとして信じるリバイバルが起こされることを期待して祈り続けているのです。
 10月7日、イスラエルにとって驚くべき悲劇が起きました。ハマスによる奇襲攻撃であり、その虐殺の手口から、憎しみに支配されたテロリストの本性、非人間性が明らかになっています。これは今やイスラエル国の存亡をかけた戦いとなって二ヶ月余り、ガザでは2万人以上の犠牲者が出て、国連でイスラエルへの避難決議がされています。そんな中、私たちはイスラエルへの重荷をどのようにして担えば良いのでしょうか?

 まず第一にはっきりさせたいことは、どちらが始めたか、ということです。イスラエルの歴史上独立戦争に次ぐ犠牲者を、それも民間人に対する残虐な奇襲攻撃をしたのはハマスです。日本も真珠湾攻撃をして奇襲しましたが、軍に対しでした。しかしハマスは音楽祭に参加していた人々、ガザ近くに住んでいた一般市民を1500人あまり犠牲にしたのです。しかも250人の捕虜までぶんどりました。日本は東京大空襲や広島、長崎への原爆まで落とされ無慈悲な数十万の犠牲者を出しましたが世界にアピールなどしません。しかしガザの状況はニュースで映し出します。犠牲者が増えることには痛みを覚えますが、しかしこれはテロ組織ハマスに利用されているのです。
 爆撃したところの地面によく大穴が空いていますが、これは地下に大きな空間があったことを意味します。そして建物内での死者が多いのは、警告されても避難しないよう脅されるからです。つまり、純粋な戦闘員以外の死者は、守ってくれるはずのハマスによって間接的に殺されていると見るべきでしょう。民主主義国のマスコミを利用し、有利な状況を作り出そうとするテロリストの戦略です。日本と違って欧米のマスコミが報道に控え目なのはこの点からです。

 私たちはテロ組織のハマスが倒されること、ハマスによってガザの人々がこれ以上犠牲になることがないように祈り、またマスコミがハマスに加担することなく、報道することをも祈りましょう。

2023年12月10日 (日)

万人祭司

マタイ 16章18節   2017新改訳

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
 マタイ16章18・19節の箇所は、カトリック教会にとっての生命線です。なぜなら、「わたしはこの岩(ペテロ)の上に、わたしの教会を建てます」の御言葉を適用して、教会の正当性と救いが、ペテロの後継者であるローマ教皇にあるとしているからです。

 しかしそれは一般の人が聖書を読めなかった時代はともかく、印刷技術が発展し、誰でも聖書が読めるようになった時点で、文の流れを読むなら誰でも分かるこじつけ(曲解)です。聖書を利用して、自らを絶対的な権威にしようとし、それは聖書の真理と十字架の神の御心をないがしろにする罪とすら思えます。
 この箇所をここまでの流れを読むなら、文脈上、弟子の代表であるペテロの「あなたは神」という信仰告白に対して語られたことばです。またイエス様はよく「岩の上に自分の家を建てた賢い人(マタイ7:24)」のように、信仰を岩にたとえられることが多いのです。さらに、終わりにイエス様が弟子たちに口封じをされたことからも、これは皆に語られたことであることは確かです。
 重要なことは、イエス様が福音書全体で語っていることから察して、これはペテロ個人だけに教会と天国の鍵を‥‥と受け取ることは無理があります。普通に自分に従う者全体に対して語られ、岩のような堅い信仰と告白の上に立つよう語られた‥‥ことに疑いの余地はありません。

 パウロは晩年にローマに到着して、ローマ教会の礎を築きましたが、その後ペテロが来たとは、聖書ではない外典・偽典や伝承として残っているだけです。ローマの教会の土台はパウロです。カトリックは本日の聖書箇所を基にして、伝承にもとづいて、神と人との仲介者(聖職者)の地位、人間でありながら、神に等しいほどの権力をぶんどろうとしたのであって、その根拠にしたのが唯一、本日の聖書箇所に過ぎません。
 百歩譲って、ペテロは確かに語られるのにふさわしい弟子でした。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」のイエス様のことばに多くの弟子たちが離れ去っても、ペテロは揺らぎませんでした。ゲッセマネで、捕縛のために来た大祭司のしもべマルコスの耳を切り落としたのもペテロです。イエス様がガリラヤ湖においてもペテロに「わたしを愛するか」と問われ「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。
 しかしたとえそうでもはっきり言えることは、神の言葉である聖書にそのような仲介者、聖職者を記した記事はありません。むしろ信じる者、誰にでも聖霊が住まい、聖霊さまが祭司として私たちは神と交わることができるのです。プロテスタント教会に教役者、牧師は必要ですが、聖職者では決してありません。務めを終われば、ただの信徒です。仲介者は一切要らないのです。人と神との間に仲介者不要であって、どこまでも人は罪人に過ぎません。

2023年12月 3日 (日)

罪深さからの救い

コロサイ 3章12節

3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

本日の聖句前半の「神に選ばれた者、聖なる者、選ばれた者」とは、クリスチャンのことです。後の深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容には、個人としてはうなだれるしかありません。

 この二節前には「新しい人を着た」(3章10節)とあるので、聖霊のバプテスマを受けた者に語られていますが、その結果恵、聖なる方を知るにつけ、私は自分をますます罪深く感じ、まず神にあわれみを乞い、その赦しの中で平安を得るようになりました。私に慈愛とか、謙遜、寛容の心は一切なく、それらは全て神のものであることが分かるのでした。

 信仰義認とは一般的に、秘蹟奇跡路線で罪をゆるす儀式宗教カトリックに対して「信仰によってのみ神から義とされる」と理解されています。十字架を信じる信仰によって、自分は赦され義とされるとほとんどのクリスチャンは信じているのです。しかしそのような自分を義とする自得的な信仰では、実は危ういと私は思っています。聖とされ義であるのは、ただ神のみで人ではありません。私に義は無いのです。そのことは「着る」と表現されているように、私はただそれを一時的に着させていただくだけであって、私そのものではないのです。ここを勘違いしてはいけません。簡単に言えば、聖霊のバプテスマによって神と交わるのですが、その結果、いかに自分が救いようのない罪人であるかがますます分かるのです。ですから自分がわずかでも聖化されるとか、義人とされるなどとは決して思えないのです。

 もし他人が見て、あなたに聖と義のかけらがあるように見えたとしたら、着ると言われているように、神からの借り物ですから、神に栄光を完全にお返しするべきです。ほんのわずかでも盗んで自分のものとしてはいけません。それは大きな罪になり、天国行きは閉ざされることでしょう。遠藤周作の作品「沈黙」における神の「沈黙」は、まさにこの故であると私には思えるのです。
 とは言え、これは借用して大いに用いるべきです。一時の住まいであるこの世で「着る」恵みは大きく、寒風から守られ、神の愛の温かさの中で安息できます。もはや飢えや寒さはなく、証しとなります。世への不安や死への恐れなどは全く無いのです。
 これはなんという恵みを着ているのでしょうか。神ご自身のあわれみと恵みからくる守りと解放の奇跡、これが信仰義認です。いささかの高慢や選民意識は無く、信仰義認とは栄光の神の義と力が、何の努力も、何の価値もない私、そして皆さんに現れていることなのです。

2023年11月26日 (日)

信仰義認

✝ ローマ 1章17節   2017新改訳

 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 私たちプロテスタントが、カトリックからどういういきさつで別れ出てきたのか、そのことを知らなかったとしたら、自分の正体が不明という由々しき問題です。本日は宗教改革を取り上げます。

 プロテスタントの誕生、いわゆる宗教改革はルターによって、1517年、ヴィッテンベルク城門に95ヶ条の論題を張り出されたことによって始まりました。ルターは親の希望通り、法律家を目指していましたが、ある日雷に打たれて死にそうになり、現世より永遠の世界に目覚めて修道会に入りました。修道士から司祭になっていく中で、救いについて大きな悩みを持つようになりました。裁き主である神の義の前に、人間の罪深さがどこまでキリストによって赦されるのか、と言う疑問です。
 ご存じのとおり、カトリックでは礼拝堂の中に告解室があります。信者は司祭を通して神に罪を告白することよって罪がゆるされるとしていますが、すべてを告解しないと罪が残る訳で、救われて天に行きたい人々にとって、これは重要な課題でした。この罪のゆるしについて、ちょうどこの頃、教皇レオ10世によって贖宥状(免罪符)が販売されました。罪のゆるしを金で買う贖宥状の誤りを、城門に張り出したルターが触れていたため、教皇に逆らう宗教改革が始まったのです。しかしながらルターは、贖宥状自体は主題ではなく、具体的な例でのおまけのようなものでした。

 実際はルターが悩んでいた神の二面性についての答えを啓示によって見い出し、その観点からカトリック信仰の内部改革を目指したものでした。神には裁き主、義なる神という面と、十字架で愛し、罪をとりなし赦す神イエス・キリストの両面があります。神を愛すると言っても、恐れが含まれていれば、真に神を愛したとは言えません。この問題はカトリックだけでなくプロテスタントの多くのクリスチャンが、神の義と聖による裁きの恐れを排除できていないと私は見ています。

 私の見解ではこの時ルターへの啓示とは聖霊の満たし、聖霊のバプテスマを受けて恐れを解決したと思われます。聖霊が己の内に臨在され住まわれる大いなる出来事によって、完全な義が自らの内に存在されたのです。義と聖は自分がつかみ到達するものではなく、神の一方的なプレゼントによって神の内に見い出され実現するのです。そのことを「福音のうちには神の義が啓示されていて‥‥『義人は信仰によって生きる』」(ロマ1:17)とパウロが言ったのです。
 こうしてルターは、罪のゆるしの難問を一気に解決し、カトリック信仰の罪を告解や行いでゆるすという反聖書性を暴いたことが贖宥状批判に結びつき、一気に宗教改革が始まったのです。

2023年11月19日 (日)

三日で建てられた神の宮殿

マルコ 14章58節   2017新改訳

「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」
 本日はエルサレム、特に神殿と聖墳墓教会について語らせていただきます。これらは全世界のクリスチャンにとって非常に聖なる所ですが、少々誤解も含まれているようなので、改めて説明をいたします。まずエルサレムは聖なる所です。そのことは✝歴代誌第二7章16、✝詩篇99篇1~5、そして✝ヨエル書3章17節にはっきりと書かれています。

 その足台となるエルサレム神殿がありますが、ここはアブラハムがその子イサクを捧げたモリヤの山、ダビデがアラウナの打ち場の傍で主の御使いに、罪と民の代わりに自分を罰するよう告白した所です。そこに主がガドを通し、祭壇を築きなさいと命じられたのです。イエス様もここを「父の家」と言われました。

 そのイエス様の使命は神殿を支配する者たちの手にかかって十字架に架かり、ご自身が贖罪の子羊となられることでした。なんと神ご自身が私たちの罪を背負ってくださったのです。その場所がほぼ間違いなく、聖墳墓教会です。この場所はA.D.300年ごろコンスタンチヌス帝の母ヘレナによって発見された所です。その後何度もイスラム勢力によって破壊され、再建されての歴史を経て今日に至っています。このような長い歴史の結果、現在はキリスト教6派の共同管理の下に運営され、世界中のクリスチャンの聖地となっています。

 歴史的な建造物ですから薄暗く、香料の匂いもあり、私達の群れには霊的に良くないと入らないという方がおられます。しかしこれは余りにももったいないことであって、ゴルゴタの丘、「エディクラ」と呼ばれるキリストの埋葬場所を同時に見学できる所は、この地球上で唯一、ここだけです。この二つの場所を見て回れるよう、巨大な建物で覆って当時の面影を完全に作り変えた面はありますが、救われるすべての魂にとっては、霊的に良くないの超反対の所です。

 ぜひエルサレムを訪問できる機会があれば、神殿の丘が難しくてもこの聖墳墓教会だけには入れます。ぜひ御わざの痕跡が残る現場で、改めて信仰を堅くする機会に恵まれますようお勧めします。

2023年11月12日 (日)

どんな罪も癒やされるが

マルコ 3章28節   2017新改訳

まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
 十字架を真に信じているなら、どんな罪も赦していただけます。その赦しの程度も、たとえ神を冒涜するようなことを言ったとしても、赦していただけるのです。「すごい」と思われませんか?しかし、続いて「聖霊を冒涜する者は、だれでも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます」とあるではありませんか。これって、気になりませんか?私は大いに気になりました。

 すべての罪は赦されます。これは十字架を信じる人々への神の言葉です。ですからクリスチャンの罪は、罪を告白し、心からそれを悔い改めるならばすべて赦され、あたかも罪を犯さなかったかのように、完全に忘れてくださる恵みにあずかります。ですから、クリスチャンと称していても、生きるのがしんどいとばかりに暗い顔をしていたり、過去の重い罪を背負っている風な人は、基本おかしいのです。ひょっとして十字架の赦しと神の愛を、本当には信じておられないのかも知れません。クリスチャンは明るく前向きで、秘めた喜びを隠しきれないような顔をするはずです。
 ただし、過去にあったことではなく、今現在、聖霊様に示されてはじめて気づいたような過ちとか、知らず知らずのうちに人を見下したり、さばいていたりとか、つい小さな嘘を言ってしまったような罪に対しては、ただちに告白し、赦されて行かなければなりません。ですから神に向かうとき、私は胸を叩き、告白し、悔い改める姿勢から祈りを始めるのが常です。

 私が感じるのは、高ぶる意識はない方でも、自分はちゃんと生きていて、まっとうに生きていると認識している人、いわば普通の人に聖霊を感じることはまずありません。罪意識の乏しさが共通しています。しかし真に謙遜な人にはそれを感じました。それは性悪説とかいろいろ言い方はありますが、原罪を認識している人、つまり救いを必要としているところに共通点があります。
 ところで本題の聖霊を冒涜することについては、明快な答えがあることに気づくようになりました。自殺者は天国に行けないと聞くことがありますが、死んでしまっては、自分の侵した罪(自分の命も神から預かったもの)を赦される道が無いわけですから、これは理解できます。

 では聖霊様に対してはどうでしょうか。三位一体の神様にあって、聖霊様の役割は神と人とを直接繋ぐパイプのような働きをされます。したがって、聖霊なる神を冒涜することは、神の働きの断ち切りになります。これではそのひとは救われる可能性が全くのゼロになります。人は原罪があり、そのままでは永遠に滅びに至ります。人は聖霊なしには誰も「イエスは主」と言えないわけですから、聖霊を冒涜する=信仰へのパイプを失い、信じることが出来ないので永遠の罪に定められることになるのです。

2023年11月 5日 (日)

十字架の愛

マタイ 11章11節   2017新改訳

まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。

今、イスラエルとハマスの戦いが地上戦という形で激化しています。時間が経つにつれ、イスラエルを非難する人が増えています。これまでにないフェイク情報合戦の結果、イスラエルを非難する国や人が増えています。クリスチャンにとってこれは看過できないことです。まずこれは、ハマスが残虐で非道な殺人と拉致から始まった戦いであるということを揺るがせないようにしましょう。その上でテロリストの犠牲となるガザの人々、その命が少しでも守られるように祈りましょう。

 さて本日は「十字架の愛=ゆるす」というテーマです。解決策がどこにあるのだろうか、人間の罪深い争いの中、神はどのように人を見ておられ、どう解決の手を差し伸べられておられるのか、です。

 2000年前キリストが来臨された当時のユダヤ社会は、イスラエル史上最高の信仰的社会でした。今のガザでの紛争とまるで逆です。しかしその結果は、神が看過できないほどパリサイ人やサドカイ人に代表される偽善の世界になっていました。人間の営み、努力では戦いの中はもちろん、非常に宗教的な世界にあっても、人が救われることは不可能であることを実証したのです。このタイミングで神の計画、神の子が地上に人となって来られました。
 人間の絶望的な罪性に対する神の解決策は、神ご自身による贖い、つまり十字架による赦しでした。宇宙の創造者が被造物である人間のために、身代わりの子羊となられたのです。十分に全人類の罪を贖ってあまりある犠牲でした。
 バプテスマのヨハネがイエス様が来られる前備えとして「悔い改めよ」と説きましたが、これは己の救い難い罪を自覚しなさい、そしてメシアに己が罪を告白し、赦されて生きなさいと言う意味です。従って自分を義とする者は罪が分からず、悔い改めることができないので救われません。
 十字架の素晴らしさは、最高の預言者バプテスマのヨハネを凌駕します。それだけでなく、何よりも生きながらに、聖霊の神と共に生きることは、人間の罪性が清められ、根本的に変えられます。十字架の力は偉大です。悔い改める者の罪を拭い、きよめ、一度も罪を犯さなかった者に、天国人にふさわしく変えるからです。
 イスラエルはこれから終末にかけて、一時は和平を楽しむことがあっても、第三神殿を建設しながら、最終的には世界中の軍に囲まれて絶滅の危機に陥ります。その時、悔い改めてメシアがすでに到来していたことに気づくのでしょう。ここに至って初めて十字架の恵みに気付くのです。みなさん、イスラエルのために祈りましょう。神は十字架によって、すべての人を愛しておられ、悔い改めて信じ、罪赦されて平和が訪れることを望んでおられるのです。世界の平和は究極的には今よりもっと悪い患難の時代の後に来ます。信仰によって現実の悪、罪深さに立ち向かいましょう。

2023年10月29日 (日)

私は何をお返ししよう

マタイ 18章26節   2017新改訳

それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。

マタイの18章21~35節で、イエス様がペテロの問い、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」に対して七十回と答えられましたが、実は回数の問題ではないこと、「ゆるす」ことの真の意味を続けて語られたのです。
 それがこの、王に対し、一万タラントの負債をした家来のことです。家来ですから、当然クリスチャンで、立場としては神から相当の責任を任される牧師とか、会計執事のような人に相当するでしょう。ところがこの家来は主に対して忠実な者ではなく、能力はあっても私腹を肥やすような不正な者でした。数ある教会では、主の声を聞き、従うのではなく、自分が良かれと思う自分の思いと考えで牧会する牧師は多いと思われます。しかしそれは不正なのです。
 この家来の不正な額は、今の相場で言えば6千億円相当になり、途方もないものです。私にとって大金である百万円の何倍でしょうか?六万倍です。これを返すには家を処分し、家族を奴隷に売っても全然足りません。そこで彼は王様に泣きつき、許しを願ったので、あわれみ深い王にゆるされました。神のゆるしは1万タラントに象徴される途方もないゆるしです。

 普通でしたらこの裏切りに対して厳罰が当然です。教会に当てはめれば、神の権威を利用できる立場にある者が、実は自分の栄光や財を蓄積していたようなものでしょうか。しかし、あわれみを求められると、なんと神はゆるされるのです。ですから神のゆるしは、途方もないゆるしであることがわかります。

 しかし重要なことがこの後続きます。ゆるされた家来の帰り道、自分から百万円借りていた者を見つけ、返済を迫って牢屋に入れたのです。百万は王に許してもらった六千億の六万分の一です。あわれみのないこの家来に、王が怒って、先の許しは取り消されました。
 これは私たちが神のあわれみによって、どれほど赦されているか、またその恵みの故に、私たちも同じ罪人を決して恨まず、ゆるし続けなければいけないことを教えています。それどころか主は「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。(ルカ6章27~28節)」とさえ語られたのです。

 これは自分の罪が本当にわかっている人、または主から<わからされている人>なら、心から「アーメン」と言えることです。どうでしょうか皆さん、心の底から「アーメン(真摯にその通り)」と言える人こそ、神から愛され、あわれみが何であるかを体験された恵みの人ではないでしょうか。「主に何をお返ししようか」と思うなら、まず自分を赦された膨大な主の愛、また自分自身を始め、すべてをゆるし、そのただ中で主を賛美しましょう。<私は賛美の声を上げます!>

2023年10月22日 (日)

平和をつくる者

マタイ 5章9節  2017新改訳

 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

 「平和をつくる者」、この御言葉が今ほど心に響く事はありませんでした。これまでは3節の「心の貧しい者は幸いです」の印象が主にんっていて、平和は、今いちピンと来なかったのです。平和ボケしていたか、平和がよくわかっていなかったということでしょう。しかし、平和が失われつつある今の世界に、平和の尊さを強く感じるようになりました。

 ロシア軍によるブチャでの犯行とか、今回のハマスの残虐なテロ行為を知ると、憎しみや恐れ、高慢というものが人間の本質であると気付かされます。あらためてすべての人は罪人であり、自己中心的な存在であって、一皮剥けば人殺しなのです。三年以上にわたったコロナ禍や異常気象の猛暑、そして今進行している二つの戦争など、いったいこの先、世界はどうなってしまうのだろうかと思ってしまいます。
 その上に、身近にショックなできごとが二ヶ月前ありました。私たちは一つの御体、天の御国に行っても永遠に続く信仰の兄弟姉妹と思っていた姉妹たちを失ったのです。教会は痛手を受け、後始末に追われました。しかし今、新しい形での礼拝が始まり、ようやく一息ついたところです。

 そうしてみますと分かり始めたことは、失われたことに目を止めるのではなく、未来に目を向け続けることが大切であることでした。イエス様は次のように言っています。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。ー中略ーこれらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」マルコの福音書 7章20~23節
 自己中心というこれら人間の罪に対して、残された道は私たち一人一人が平和を造る者に、神の力によって変えていただくことです。平和をつくる人は、少なくとも自分自身の心に平和を築いていなければなりません。悔い改め、神に立ち返り、神によって生まれ変わること、そして平和の神の御心を行うようになること。確認しますが、これこそが私たちの道であり、依って立つ使命です。

 ヤコブの手紙 1章19節には次のように戒められています。
「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」
ここには二つの戒めが述べられています。

<1>すぐに人を裁かないで、柔和な人になりなさい。
<2>怒るに遅くなりなさい。
 柔和な人とか、すぐに怒らない人は天性のもののように思われていますが、実は神から愛され、神を愛する人は誰でもこれを実行するようになるのです。どうか主が私たちの信仰を増してくださり、この時代にあって「地の塩」「世の光」として用いてください。どうかリバイバルをこの地に起こし、私たちを平和をもたらす者として用いてくださいますように。

2023年10月15日 (日)

罪人の救い

マタイ 9章13節   2017新改訳

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

 一週間前、仮庵の祭り最終日から突如として始まった、ハマスの残虐な奇襲攻撃について触れざるを得ません。そのイスラム原理主義のハマスも、反撃しているユダヤ人も、実は私たちと同じ、同じ神を信じている一神教徒です。ハマスは極端なイスラム過激派武闘集団であって、PLOから武力でガザの支配を奪い取っているだけで、ガザの住民はむしろ被害者です。
 そのハマスはアルカイダやISと同じイスラム原理主義ですから、イスラエルと平和に暮らす考えは全くありません。巧みな宣伝工作はしても、目的は宿敵イスラエルを滅ぼし、世界をイスラム原理主義の支配に置くことです。彼らは創始者ムハンマドがジハード(聖戦)を行ってイスラム世界を広げた理念そのままを、今に再現しようとしているのです。

 さてこの度のような、ハマスが何千発ものミサイルなどを同時に打ち上げる大規模な攻撃ができるのは、北のヒズボラと同様に支援するイランがいるからです。つまりこれは、イランとの代理戦争の様相を呈しているのが現状でしょう。イランはシーア派、イスラム原理主義はスンニ派ですので、ちょっと奇異に思いますが、イスラエルや西欧世界は共通の敵なので、支援するのでしょう。
 今後についてはハマス支配下にあるガザの人々を思いを寄せ、地上戦において人々の犠牲が最小限で済むように、そしてイスラエルがイランとの全面戦争にならないように、私たちは祈らなければならないと思います。

 さて本日のテーマの通り、すべての人は罪人です。すべての人が罪を自覚し、悔い改め、聖書が証明する真の神、キリストの救いと平和を信じることが、たとえ不可能とも思えても、唯一の解決の道だと私は信じます。
 もちろんキリスト教においても、これまでに多くの過ちを犯してきました。しかしその原因は、王権を上回るほどに権力化した教会組織や、時の権力者との癒着、腐敗があり、その歴史からプロテスタント教会は一つの真実を学んできました。それは宗教と政治の分離です。歴史は貪欲な王や支配者王たちが宗教を利用してきた過去そのものでした。現在でも北朝鮮などでは、支配者はほぼ神さまになっています。唯一プロテスタント教会だけが当初は難しかったのですが、世俗の権力から分離し、政治非介入の原則を立てるようになりました。ですから政治にすり寄って行った統一原理が国による解散請求に至ったのは当然です。権力に歩み寄るのは世俗化した宗教です。

 私たちは、キリストの平和の成就には神の時と力、そして全世界的なリバイバルがあって実現することを知っています。平和には神の力、信仰による祈りが必要です。決して人間だけの力でしようとしてはいけないのです。ウクライナにしても、ガザにしても、真の神に捧げる聖徒の祈りを、主は用いてくださるのです。

2023年10月 8日 (日)

感謝の心

コロサイ 1章12節   2017新改訳

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
 感謝の心とはどういうことか。私たちの群れでは「悪いと思えることでも感謝」を特に推奨している。良かったことを感謝をするのは一般的だろうが、悪い出来事、状態を感謝するのは普通のことではない。しかしこれをことさら強調するのは、テサロニケ人への手紙 第一 5章18節にある、「すべてのことにおいて感謝しなさい」の「すべてのこと」の具体的実践であるからだ。つまり、御言葉をそのまま、生きた神のことばとして信じ行おうとする、信仰の現れでもある。
 一例を挙げれば、交通違反の切符を切られてしまって、落ち込んだり、自分の失態を嘆いてしまうより、神に感謝することは、どれほど素晴らしいことであろうか。逆にこれを胡散臭いと感じる向きもあるだろうが、その方は聖書と神の力を知らず、自分中心の力のない信仰に陥っているのかも知れない。

 そうは言っても群れの中には「かか、か、感謝します」と言葉は言っていようと、実態は全然感謝してない者もいるかも知れない。無理にでも感謝しなければいけないからするのであって、言葉だけのものかも知れない。が、それでも不満や悪態を吐くより、はるかに優れた対応である。
 感謝の信仰は優れて聖書的であり、それが真の感謝であったなら素晴らしいと言える。来たる終末の患難時代においては、この感謝の信仰なしには乗り切れないとさえ言われている。私たちはどんな悪いと思える状況にあっても、それは神が許されたことであり、十字架のイエスの死が神の大逆転勝利であったのと同じように、実際には最善な結果になることを信じている。

 本日私が示されていることは、この無理やり感謝する域を脱出することである。悪いと思えることを、私たちは信仰によって感謝する。聖霊(のバプテスマ)を受け、真に神と出会い、新生し、主と交わり続けておられる方々には、価値観のコペルニクス的反転が起こっているはずだ。この世や、今生きていること、今生かされていることなどは、やがて来る天での生活に比べればはるかに劣ることであって、取るに足りないことであることを実感している。

 では真に感謝する心とは何か?それは取るに足りない者とされたことへの感謝である。そこには自分の罪深さを一切弁解できないほどに徹底的に知らされていなかればならない。自分に死に、生まれ変わった者は、神の愛にすべてをささげている。抜き難い高慢、金銭への執着、少しでも自分を高めようとする罪性と常に戦っている。そして私たちには一人ずつに使命が与えられている。私たちのこの世での命は、その使命を果たすために用いられるのであって、自分の計画や願いによるものではない。それゆえ、人間的な思いで一喜一憂することは、たとえしたとしても、ランクが低いはずである。その上で、状況や環境が厳しくなるのであれば、それこそ「神の時」が近づいているしるしであって、私たちは大収穫の時が近づいていること、待ち望んだ使命を果たし、用いられることを喜ぶのである。

2023年10月 1日 (日)

神の言葉の力

使徒 12章24節   2017新改訳

主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。

 聖書に「神のことばはますます盛んになり、広まっていった。使徒の働き 12章24節」と、ありますが、その直前までは、エルサレムで誕生したばかりの教会は風前の灯火でした。パリサイ派やサンヒドリンの議会という、これまでにも対立していた勢力はもとより、ヘロデ・アグリッパ一世というその時代の王からも、迫害を受けることになったのです。

 この王はヨハネの兄のヤコブを殺しただけでなく、さらにペテロを捕らえてエルサレム教会を壊滅させようとしたのです。神の使いは使徒の代表ペテロは鎖に繋がれ、両脇にいた兵士だけでなく、二重の衛所と最後の鉄の門をも開かせて、ペテロを市中で解放しました。それは当時、異常な奇跡であったはずです。この後、これを企てたヘロデ王は、神に打たれて死にます。
 王という最大の迫害者が潰えたエルサレム教会は、「神のことばがますます盛んになり」とありますので、メシア預言の確かさ、十字架と復活の成就という、キリストの救いが人々に広まり、祭司まで加わるほど、教会は大きく発展することになりました。

 さて、神のことば、つまり福音は伝道の本質ですが、聞く人がいなくては語れません。イエス様が異邦人伝道されたレアなケースに、「スカルのサマリヤの女」があります。この時イエス様は、この女の過去を預言されました。おそらく本人にしか知らないはずの過去の事実だったのでしょう、女は直ちにイエス様が語られる福音のことばに耳を傾けたのです。

 このように、サマリヤの女などの異邦人が福音を聞く者になるためには、しるしや不思議は大きな力を持ちます。しかしどんなに大きな癒やしや奇跡を起こしても、神のことばである福音が、聞く人に良い地として根付かなければ意味がありません。

 最初に女の告白によってサマリヤの人々はイエス様の預言に引き寄せられたのですが、「さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた結果になりました。

彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。ヨハネ 4章39~42節と、サマリヤの人々がしるしや不思議にではなく<ことばによって信じた>こと、それがイエス様の伝道の究極的な目的でした。神のことばの力によって真に信じた者は、本当に幸せでした。

2023年9月24日 (日)

真の幸福な人

マタイ 25章34節  2017新改訳

 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 
真に主を信じるクリスチャンは、いつも喜びに満ちています。人間の一番の不幸は淋しさですが、親子、夫婦などどんなに大切な人であっても、人間であればいつかは別れが来ます。しかしクリスチャンは全く異なります。死も無く、変わらない愛と永遠の祝福に生きるのです。

 本日のマタイ25章には三つの裁きのたとえ話集といえます。「十人の乙女の話」「タラントの話」そしてこの「最後の審判」の話です。それぞれポイントがありますが、このたとえには、以下の重要なメッセージが込められています。天国へと祝福される人たちは、自分たちを義とせず、最後の審判まで山羊の群れの中に居ることです。それにつれて、私には思い出されることがあります。

 イスラエルをツアーしていた時の光景です。家畜は普通どちらかの群れになりますが、その時は山羊も羊も混在した群れでした。山羊の中に羊が並んで歩いていたのですが、山羊だけははみ出てついているものが多いのです。私も子供の時山羊を飼っていたのですが、山羊は飼い主に忠実ではありません。

 山羊も羊も飼われているのですから、これは牧会されている集団、つまりこの三つのたとえすべてがクリスチャン、教会員の群れであったことがわかります。主に牧されているはずのクリスチャンにも、全員が無条件に天国に凱旋するのではなく、最後に可否を決める審判があるようです。つまりクリスチャンと自称していても、「もっとも小さい者たちの一人にした」という信仰の実が問われていることです。この隣人への「空腹」「渇き」「旅人のもてなし」「裸や病気の者」への世話は、聖霊のクリスチャンなら当たり前のこととして見返りなしにすることでしょう。

 この「最も小さい者たちの一人にしたこと」が選り分けのポイントになるのですが、ここからいくつかの実際例を見ていきましょう。一番はチョー牧師から聞いた話ですが、ある時「家族を捨てて献身して来ました」という人物が弟子になりたいと来たそうです。彼に対し、チョー牧師は叱りつけたそうです。最も身近で小さき者を捨てる、そんなことはあり得ないのです。

 イエス様は30歳になってから公生涯に入られました。父親が早世したため、大工として一家を背負っておられましたが、その頃には弟のヤコブが家族を十分養える状態でした。
 私が献身したのは55歳の時です。献身するにはかなりの問題がありました。自宅や実家にある先祖代々の墓地や土地や家屋でした。しかし真に召命されたことを確信したのは、なんと主がすべての問題を解決してくださり、後顧の憂なく出発することができ、その際、何かを切り捨て犠牲にしたということはないのです。

 主は人の心を見られます。同じような親切行為であっても、主は見分けられるのです。心から信じて従うならば、地上においても祝福され、真に幸福な道を歩む人になるのです

2023年9月17日 (日)

大切なものと、こと

ピリピ 1章10-11節   2017新改訳

あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。

 たった一つのものを除いて、すべては滅んでいきます。また、たった一つのものを除いて、自分のものは存在しません。あらゆるものの内で、大切なものは一つしかありません。多くの人は知らず、また知っていても自分のものにできず、結局は失って行く。そのことを皆さんはご存知でしょうか。
 謎解きをしているのではありません。私たちが自分のものだと思っている自分の体も実は自分のものではありません。体は神から私たちが預かったもので、その管理者として私たちに委ねられたものです。
 しかし多くの人はそうは思っていませんし、やがて命が尽き腐って滅ぶ体と共に自分も滅ぶのだと思っています。しがみついています。体以上の価値のあるものを知らないのです。滅ばないものこそ、真実の価値があります。

 それは霊です。霊は滅ぶことがありません。なぜなら私たちは、黙示録で千年王国の時代の終わりに、すべての人の霊がよみがえり、神に裁かれること(最後の審判)を知っています。霊だけが肉体の時代にあったことを問われ、神に裁かれます。つまり霊だけが永遠であり、問われるたった一つのものだと聖書は記しています。

 その霊には三つあります。神と神に属するもの、人に属するもの、サタンに属するものの三つです。天使は霊的な存在ですが、神に従う霊であって、神に属するものです。同様に悪霊はサタンに従い、属する霊です。この両者にあって、人だけが中間的な存在です。けれども人は皆罪を背負っています(原罪)ので、十字架を信じなければ全ての人は皆、地に落とされる存在です。
 この原罪がわかっているかどうかが、福音を聞いて信仰の道に入るかどうかの非常に大きな違いを生むことになります。罪性に苦しむことは一見不幸なようですが、後に莫大な天の恵みを受け継ぐ土台になるのです。

 最後の審判時にすべての人がよみがえって、新しい体を着せられますが、天の国に迎えられた者は素晴らしい<御霊のからだ>を着、ゲヘナに行く多くの人々もまた、いわば永遠に苦しむための、滅ばない体を与えられるれます。
 このような人間の霊の裁きを見るなら、肉体の命がある私たちが今、何を思い、何をすべきなのかは明らかです。神と交わり、神の子として、父の御心を常に知り、その御心が行える者として歩まなければなりません。
 大切なもの、また大切なことは次のように明らかです。私たち人の体に住まう霊であり、聖霊と共に歩むことであります。他に何の大切なことがあるでしょうか?無いのです。

 

大切なものと、こと

ピリピ 1章10-11節   2017新改訳

あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。

 たった一つのものを除いて、すべては滅んでいきます。また、たった一つのものを除いて、自分のものは存在しません。あらゆるものの内で、大切なものは一つしかありません。多くの人は知らず、また知っていても自分のものにできず、結局は失って行く。そのことを皆さんはご存知でしょうか。
 謎解きをしているのではありません。私たちが自分のものだと思っている自分の体も実は自分のものではありません。体は神から私たちが預かったもので、その管理者として私たちに委ねられたものです。
 しかし多くの人はそうは思っていませんし、やがて命が尽き腐って滅ぶ体と共に自分も滅ぶのだと思っています。しがみついています。体以上の価値のあるものを知らないのです。滅ばないものこそ、真実の価値があります。

 それは霊です。霊は滅ぶことがありません。なぜなら私たちは、黙示録で千年王国の時代の終わりに、すべての人の霊がよみがえり、神に裁かれること(最後の審判)を知っています。霊だけが肉体の時代にあったことを問われ、神に裁かれます。つまり霊だけが永遠であり、問われるたった一つのものだと聖書は記しています。

 その霊には三つあります。神と神に属するもの、人に属するもの、サタンに属するものの三つです。天使は霊的な存在ですが、神に従う霊であって、神に属するものです。同様に悪霊はサタンに従い、属する霊です。この両者にあって、人だけが中間的な存在です。けれども人は皆罪を背負っています(原罪)ので、十字架を信じなければ全ての人は皆、地に落とされる存在です。
 この原罪がわかっているかどうかが、福音を聞いて信仰の道に入るかどうかの非常に大きな違いを生むことになります。罪性に苦しむことは一見不幸なようですが、後に莫大な天の恵みを受け継ぐ土台になるのです。

 最後の審判時にすべての人がよみがえって、新しい体を着せられますが、天の国に迎えられた者は素晴らしい<御霊のからだ>を着、ゲヘナに行く多くの人々もまた、いわば永遠に苦しむための、滅ばない体を与えられるれます。
 このような人間の霊の裁きを見るなら、肉体の命がある私たちが今、何を思い、何をすべきなのかは明らかです。神と交わり、神の子として、父の御心を常に知り、その御心が行える者として歩まなければなりません。
 大切なもの、また大切なことは次のように明らかです。私たち人の体に住まう霊であり、聖霊と共に歩むことであります。他に何の大切なことがあるでしょうか?無いのです。

 

2023年9月10日 (日)

主を信頼し主に委ねよ

詩篇 37篇5節  2017新改訳

 あなたの道をにゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

 クリスチャンには、なぜか期待する平安や祝福どころでなく、試練や困難が続くことが多い。私の身近に聞く話でも、教会を支えるような篤信な信徒の家庭に、結婚式直後数日で新郎が事故死したケースや、牧師を支えて教会を再出発しようとした直後、息子が車に轢かれて即死したケースがあります。タイミングといい、若かった私には「どうしてこんなことが許されるのか?」と嘆息せざるを得ませんでした。

 その根底には「天知万物を創造された全知全能の神に守られて、恵まれ祝福された人生のはずなのに、なぜ?」という思いがありました。「神にはこれらの不幸を防ぐ力はないのか」とも思ってしまいました。幸いこのことで不信仰になることはなかったのですが、疑問は当分続きました。
 しかしそのような、世的には<不幸>としか思えないようなことが、やがて私にも訪れ、直面する事態が来ました。十数年も続いたこの試練、困難の期間を通じて、私の人格、人生設計など、家族の破壊を通して何もかも大きく悪い方向に変わりました。
 祈っても祈っても、全然願いが叶わない。「こんな病気や不幸を与え続けるような神は、神じゃない!」とまで思うこともあり、危うく信仰まで失いそうになりました。

 しかしこの試練や困難が許され、通されたのは、私が自分自身に死ぬためには、絶対に必要であって、どうしても通らなければならない道だったのです。みなさん、自分に対して死ぬ、ということは、どんなに頑張っての努力や精進では不可能だということをご存知でしょうか。しかし「死ななければ、身を結ぶことができない」という御言葉もまた真実です。この唯一の突破口が神からの試練・困難なのです。それは、恐ろしいまでの自分の罪深さを気づかされ、無価値さに絶望することでした。

 それゆえ、私たちの教会の今直面している大きな困難<教会員が半減した、会堂を出て行かなければならない>に対しても、私は次の神の大きな計画が控えていることがわかるので、Restart だと確信しているのです。これを御言葉通り「このうえもない喜びと」(ヤコブ1:2)思いましょう。「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか(ヘブル10:23)。

2023年9月 3日 (日)

主は今生きておられる

黙示録 1章17~18節   2017新改訳

この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。

 本日のテーマを英語で言えば「Because He lives」です。実は同名の英語讃美に数日来ハマっておりまして、頭の中にずっと流れ続けて止まらないのです。特にBecause He lives, I can face tomorrow. Because He lives, All fear is goneの歌詞(和訳:主イエスが生きておられるから、私は明日に立ち向かえる。主が生きておられるから、すべての恐れは逃げ去る)のImg_1270 くだりが繰り返され、会場の数千人の全聴衆が立ち上がって讃美する、その圧倒的な情景に、心から感動するのでした。

この讃美は、聖霊派なら誰でも知っていそうな、かなり有名な曲のようです。日本でこのようなことが起こったなら、「リバイバルが起こった」と感動することでしょう。
 特に「主が生きておられるから‥明日に立ち向かえる‥全ての恐れは逃げ去る」に深く同感するのです。私がこれまでの人生経験から最も導き出されるのは、人の行動原理は<恐れ>だということです。むろん、かねて申し上げている通り、恐れはサタンから来ており、サタン・悪霊は恐れを支配の道具にしています。障害と精神の病は厳密には分離し難いところもありますが、以後のことは聖書から見ての見地です。 生まれつきの障害は「神の栄光」のため。逆に後天的な障害は幾分か本人の罪のせいであろうかと推察されます。しかしほとんどの精神の病については、ほぼほぼ悪霊の本質である<恐れ>が宿主に憑依した結果だというのが聖書的に見れば言えるでしょう。代表的な統合失調症など、実情は薬による寛解が治療の目的になるようです。寛解ですから治ることはあり得ません。治るのは主イエス・キリストを信じ、神の力による悪霊の追い出し以外にあり得ません。
 つまり「全ての恐れは逃げ去る」こと、真の癒やしや解放は、悪霊に対し、唯一の勝利者、聖霊による追い出しと神の支配の確立だということです。ですから真のクリスチャンは恐れに聖霊に頼って対抗し、追い出し勝利を得るのです。その結果は神の愛、平安、喜びです。
 繰り返しますが、十字架による罪の赦し、聖霊の支配によって私たちは<見えない闇の力が見え、見分けることができ、神の道を選ぶ=悪霊を追い出す>勝利を得ることができるのですから、真に神を信じていない人には、神の御心がわからず、肉のクリスチャンにあっては、いくら自分はクリスチャンだと称していても、持続的な平安はあり得ません。<肉の死>を超えて永遠のいのちへの確信も、残念ながら持てないのです。

 

 

 

 

2023年8月27日 (日)

恐れるな

創世記 15章1節   2017新改訳

これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。

イエス・キリストを信じ、霊の目が開かれて来ると、「恐れる」ということがサタン、悪霊の働きであることが見えてきます。聖書では「恐れるな」という言葉が39回出てきます。恐れは神の働きを止め、妨害します。なぜでしょうか?
 それは人間の生存し防衛する本能そのものであり、一切考える必要のない、何ものにも優る強い動機である。本来人を生かすためのものだが、逆にこれが強く働くと不安と恐れに支配され続けてしまい、正しい生き方、判断ができなくなります。
 例えていうならそれは、木に取り付いて絡みつき、最終的にはその木を弱め枯らしてしまうつる、蔦のようものに例えられるでしょう。蔦のように恐れで人を支配するものを私たちは悪霊という。
 悪霊の存在は、主なる神を信じている霊的なクリスチャンだけがわかるもので、一般の人には認識できない。神の霊、聖霊がわからなければ、真札を知らないで偽札を見分けることが困難であることと同じです。つまり原因である悪霊を見分け、その上で追い出す権威がある神に頼らなければ、恐れのあらゆる類、不安神経症からいわゆる統合失調症などの病に対して、陰で働く主因の悪霊を追い出すことはできません。つまりこの種の完全な癒やしは無いと私は思っています。ただしこれは、人の努力や意志によるものではなく、神の御心、信仰の領域になります。

私の失敗談の一つ〜広島の片田舎から献身して、東京は高円寺の単身者のアパート暮らしを始めました。献身の際に一つ心に決めていたことがありました。それは神様のために用いることにした人生なので、「世的な労働はしない」ということでした。さてなんとか献身生活も半年経った頃のことです。ある夜、不安が私を支配することになりました。退職金の蓄えが思ったより早く目減りしていくんですね。これで計算すると、あと何年保つか、十年はないんじゃないか、不安になって来たのです。なんとかこれをもっと保たせたい、そう思った時、脳裏に思い出したのは銀行がやっている外国債の投資でした。これで月々十万以上の利息が配当されると、ほとんど目減りしません。これに飛びついたわけなんです。
 そんな旨い話がこの世の中にあるはずもなく、国際情勢の急転で半年後には、逆に元金を割り込むことになりました。「神の戒めであった。これは授業料だった」と悔い改めて即解約しましたが、発端は「先行きの不安」から出た愚かな判断でした。神に委ねて献身したはずなのに、祈りもせず、自分の知恵で判断した愚かさを本当に思い知らされました。みなさん、不安に駆られてすることは、ろくなことがありません。不安なら不安を、経済なら経済を神様に委ね、とことん祈って御心を確かめ、平安が来たら決断しましょう。

 みなさん、もう一度申し上げます。不安から来るものは悪霊、もしくは悪霊的なもので、これに動かされてはなりません。クリスチャンは平安、愛、喜びなのです。

2023年8月20日 (日)

刈り込まれた者

ヘブル 12章6節   2017新改訳

主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。
 
神は愛する者を刈り込まれる。その刈り込みとは何か?
 家の庭が、伸び放題の木や高い雑草で覆われていたら、その家は空き家に見えます。もしそれが自宅だったら恥ずかしく思うだろう。自然のまま放っておけば、必ずそうなるものだ。そこで刈り込んで手入れする。樹木には痛いことであろうが、結果として美しくなり、風通しが良く、病害虫も防いで生長も良くなる。手入れされることは美しく快適で、持ち主の庭への愛を感じる。

 これは神と人との関係に同じことが言える。天地万物を造られた神は、人をその管理者として置かれた。しかし人もまた神の被造物であって、自然のままでなく刈り込みを受け、整えられなければ野性のままである。刈り込みを受ける人は、神に愛されているのである。
 私たちクリスチャンへの刈り込みとは、真に神を「主」とするための試練困難のことである。肉のクリスチャンはいつまでも自分が主であり、逆に神をしもべとしていることに気付かない。人間の努力や力では、真に神を主とすることは困難なのだ。そこで神は愛する者に刈り込みをされるのである。神からの刈り込みによって、自分自身の誇りや高ぶりが打ち砕かれ、人ははじめてへりくだって自分の人生を神に明け渡し、神を文字通り主とすることができる。

 イエス・キリストは弟子たちに重ねて次のように教えた。(ヨハネ 12章24~25)
 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

 刈り込まれた者は、父の愛を知り、父を愛し、慕う。喜んで自分を神に捧げ、「主」として聞き従うようになる。自分がどんなに肉の人間であったかを知って、心から悔い改める。そして初めて平安を得る。刈り込みを恐れてはならない。それは神を信頼していないことになる。アブラハムに神が「子イサクを燔祭として捧げよ」と言われた時、神はアブラハムが実際に捧げる信仰があるのを確信していたと私は信じる。できないことを神は試されたり、困難に陥れられない。全知全能の神に失敗はなく、すべては愛する者をより愛そうと、愛から発しているのだから。

 私たち人間は刈り込まれることによって、真に神との正しい関係に入り、神の愛の内に憩い、喜び、御心を何としてでも行いたい熱意を持つ。肉の果てる命に優る永遠の霊のいのちは、その人の中で宮となり、栄光の神の計画と共に歩む。刈り込まれた者は、世では惨めで呪われた者に映るかも知れないが、実際には素晴らしい恵みであり祝福された人のことである。

2023年8月13日 (日)

Restart (再出発)

申命記 6章4~5節   2017新改訳

聞け、イスラエルよ。は私たちの神。は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。

 本日はちょうど13年前の15日(日)、船橋に着任後、勤労市民センターセンターで初めての礼拝を持った日になります。その時の出席者は牧師夫妻にK姉、つまり今日のメンバーそのままでした。そしてなんということでしょうか、あらゆる面で、再びここから14年目に向けて原点に戻っての再出発をすることになりました。「原点に戻って」とは、それまでいた教会員が主日礼拝直前に、創設時のメンバーにまで減らされ戻されたということです。
 こんな偶然があるものでしょうか。私は心中不安覚えて(※三つの無い)祈っていたものの、具体的は何らそのことにお応えや指示はなく、脱会通告が一斉に来てはじめてことの成り行きを知りました。SNSを同時に閉鎖されたので遺留のための対応は不可能でした。ですからちょうど14年目の出発というタイミングで、最終的に残されたメンバーが最初の三人であったことなど、これが神のみこころであり、「ここから再出発をせよ」の指示であることをはっきりと受け取るのです。

 ひとことだけここで確認しておきたいことがあります。出られた姉妹が退会理由として、TLEAのことを異端であり、カルトだと断定されました。これはまったく誤った判断です。こんな一方的な思い込みによる自分の判断と主張をし、それに対する相手の言葉は一切聞かないというのは、取り返しのつかない過ちをされている恐れがあります。
 異端とはキリスト教と称していても、使徒信条で特に触れられている神であるイエス・キリストを認めない教団・教会を指します。三位一体を前提とするキリスト教から逸脱しているわけです。エホバの証人や旧統一原理などがこれに当たります。
 次にカルトというのは、カリスマ的指導者を中心とするマインドコントロール中心の集まりを指し、現在では犯罪行為を犯すような反社会的な宗教団体を指して言います。確かにTLEAは偏見を持ち外見だけを見るのであれば、一見そのように見間違う人がいるかも知れません。しかし別にマインドコントロールがあるわけではなく、信仰と聖霊にもとづく歩みが実体なのです。ですから私たちはカルト教団ではありません。実際いつでも退会は自由です。そしてカリスマ派、ペンテコステ派など、全ての聖霊派の教会に言えることですが、どうしてもリーダーにはカリスマ的傾向はあるのですが、問題はそこに神の臨在があるのかという点であり、各人に与えられた賜物が正しく運用されているかどうかです。

 本日からこの船橋キリスト教会は14年目の働きに入ります。神はこの地に私たちを立てさせ、ご自分の証人として用い、日本のリバイバルに用いると語っておられます。したがってこれまでの13年間は、霊的にですが、イスラエルの民がシナイの荒野で訓練を受け、約束の地を獲ち取る戦士にされたような期間であったと考えましょう。さあ、Restartの賛美に載せて、この約束の地を占領しましょう。

2023年8月 7日 (月)

聖霊と悪霊

エペソ6章12節   2017

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 精神の病は、代表的な統合失調症であれ、私がそばで見続けた摂食障害であれ、重症化すれば病識がないのが特徴である。この病識がないことで陽性症状と陰性症状を繰り返し、次第に重症化する。重症化すると深夜、自分に呼びかける声が聞こえたり、本人とは全く別な人格が見え隠れするのが特徴と言える。
 医学では重症化すると患者を隔離病棟に入院させ、寛解(完治ではない)に向けて治療を行う。しかし退院すると再発率高く、完全治癒はあり得ない前提である。病の原因がわからず、対症療法であるためだと私は思う。

 以上は精神科医が概略述べてくれたことだが、牧師としてこのような病状を聞くと、これは悪霊の働きだと見ることができる。悪霊に対し、神の霊でなければ追い出す事は不可能であって、治癒の可能性があるのがキリス教だけである。神の霊である聖霊のみが、取り憑いだ悪霊を追い出すことができ、精神の病を完全に癒やすことができるのだ。

 聖書によると、今から2千年前のシドンで、イエス・キリストは「悪霊に憑かれた娘」を癒やされた。本人には病識がないので、この場合は母が信仰によってイエス様のもとへ来た。イエス様がイスラエルで起こされた癒やし、悪霊の追放は隣国にも聞こえていた。堅い信仰を持っていた異邦人の女は、イエス様から拒まれたり、小犬だと娘ともども貶められようと、全く怯まなかった。信仰による癒やしの確信があったからである。それゆえ女は、イスラエル人が聞いたこともないほどの最上級のほめことばにあずかり、望みの癒やしを受けることになった(マタイ15:28)。
 次にマグダラのマリヤは、「七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人」(マルコ16:9)であるが、癒された後には、イエスら使徒の群れを実質的に支える働きをしていたが、十字架の死の証人となり、最初に復活のイエスに会い、最初に声をかけていただく栄誉にあずかった女になった。

 このように精神の病には世人に対し、悪霊の存在を明らかにし、悪霊をも用いて神の計画と栄光を明らかにされる。精神の病だからこそ、その原因である悪霊の追い出しによって、神の栄光と力の証人とされたのである。このことを主イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」と言い表したのである(ヨハネ9:3)。

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