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大切なものと、こと

ピリピ 1章10-11節   2017新改訳

あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。

 たった一つのものを除いて、すべては滅んでいきます。また、たった一つのものを除いて、自分のものは存在しません。あらゆるものの内で、大切なものは一つしかありません。多くの人は知らず、また知っていても自分のものにできず、結局は失って行く。そのことを皆さんはご存知でしょうか。
 謎解きをしているのではありません。私たちが自分のものだと思っている自分の体も実は自分のものではありません。体は神から私たちが預かったもので、その管理者として私たちに委ねられたものです。
 しかし多くの人はそうは思っていませんし、やがて命が尽き腐って滅ぶ体と共に自分も滅ぶのだと思っています。しがみついています。体以上の価値のあるものを知らないのです。滅ばないものこそ、真実の価値があります。

 それは霊です。霊は滅ぶことがありません。なぜなら私たちは、黙示録で千年王国の時代の終わりに、すべての人の霊がよみがえり、神に裁かれること(最後の審判)を知っています。霊だけが肉体の時代にあったことを問われ、神に裁かれます。つまり霊だけが永遠であり、問われるたった一つのものだと聖書は記しています。

 その霊には三つあります。神と神に属するもの、人に属するもの、サタンに属するものの三つです。天使は霊的な存在ですが、神に従う霊であって、神に属するものです。同様に悪霊はサタンに従い、属する霊です。この両者にあって、人だけが中間的な存在です。けれども人は皆罪を背負っています(原罪)ので、十字架を信じなければ全ての人は皆、地に落とされる存在です。
 この原罪がわかっているかどうかが、福音を聞いて信仰の道に入るかどうかの非常に大きな違いを生むことになります。罪性に苦しむことは一見不幸なようですが、後に莫大な天の恵みを受け継ぐ土台になるのです。

 最後の審判時にすべての人がよみがえって、新しい体を着せられますが、天の国に迎えられた者は素晴らしい<御霊のからだ>を着、ゲヘナに行く多くの人々もまた、いわば永遠に苦しむための、滅ばない体を与えられるれます。
 このような人間の霊の裁きを見るなら、肉体の命がある私たちが今、何を思い、何をすべきなのかは明らかです。神と交わり、神の子として、父の御心を常に知り、その御心が行える者として歩まなければなりません。
 大切なもの、また大切なことは次のように明らかです。私たち人の体に住まう霊であり、聖霊と共に歩むことであります。他に何の大切なことがあるでしょうか?無いのです。

 

大切なものと、こと

ピリピ 1章10-11節   2017新改訳

あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。

 たった一つのものを除いて、すべては滅んでいきます。また、たった一つのものを除いて、自分のものは存在しません。あらゆるものの内で、大切なものは一つしかありません。多くの人は知らず、また知っていても自分のものにできず、結局は失って行く。そのことを皆さんはご存知でしょうか。
 謎解きをしているのではありません。私たちが自分のものだと思っている自分の体も実は自分のものではありません。体は神から私たちが預かったもので、その管理者として私たちに委ねられたものです。
 しかし多くの人はそうは思っていませんし、やがて命が尽き腐って滅ぶ体と共に自分も滅ぶのだと思っています。しがみついています。体以上の価値のあるものを知らないのです。滅ばないものこそ、真実の価値があります。

 それは霊です。霊は滅ぶことがありません。なぜなら私たちは、黙示録で千年王国の時代の終わりに、すべての人の霊がよみがえり、神に裁かれること(最後の審判)を知っています。霊だけが肉体の時代にあったことを問われ、神に裁かれます。つまり霊だけが永遠であり、問われるたった一つのものだと聖書は記しています。

 その霊には三つあります。神と神に属するもの、人に属するもの、サタンに属するものの三つです。天使は霊的な存在ですが、神に従う霊であって、神に属するものです。同様に悪霊はサタンに従い、属する霊です。この両者にあって、人だけが中間的な存在です。けれども人は皆罪を背負っています(原罪)ので、十字架を信じなければ全ての人は皆、地に落とされる存在です。
 この原罪がわかっているかどうかが、福音を聞いて信仰の道に入るかどうかの非常に大きな違いを生むことになります。罪性に苦しむことは一見不幸なようですが、後に莫大な天の恵みを受け継ぐ土台になるのです。

 最後の審判時にすべての人がよみがえって、新しい体を着せられますが、天の国に迎えられた者は素晴らしい<御霊のからだ>を着、ゲヘナに行く多くの人々もまた、いわば永遠に苦しむための、滅ばない体を与えられるれます。
 このような人間の霊の裁きを見るなら、肉体の命がある私たちが今、何を思い、何をすべきなのかは明らかです。神と交わり、神の子として、父の御心を常に知り、その御心が行える者として歩まなければなりません。
 大切なもの、また大切なことは次のように明らかです。私たち人の体に住まう霊であり、聖霊と共に歩むことであります。他に何の大切なことがあるでしょうか?無いのです。

 

2023年9月10日 (日)

主を信頼し主に委ねよ

詩篇 37篇5節  2017新改訳

 あなたの道をにゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

 クリスチャンには、なぜか期待する平安や祝福どころでなく、試練や困難が続くことが多い。私の身近に聞く話でも、教会を支えるような篤信な信徒の家庭に、結婚式直後数日で新郎が事故死したケースや、牧師を支えて教会を再出発しようとした直後、息子が車に轢かれて即死したケースがあります。タイミングといい、若かった私には「どうしてこんなことが許されるのか?」と嘆息せざるを得ませんでした。

 その根底には「天知万物を創造された全知全能の神に守られて、恵まれ祝福された人生のはずなのに、なぜ?」という思いがありました。「神にはこれらの不幸を防ぐ力はないのか」とも思ってしまいました。幸いこのことで不信仰になることはなかったのですが、疑問は当分続きました。
 しかしそのような、世的には<不幸>としか思えないようなことが、やがて私にも訪れ、直面する事態が来ました。十数年も続いたこの試練、困難の期間を通じて、私の人格、人生設計など、家族の破壊を通して何もかも大きく悪い方向に変わりました。
 祈っても祈っても、全然願いが叶わない。「こんな病気や不幸を与え続けるような神は、神じゃない!」とまで思うこともあり、危うく信仰まで失いそうになりました。

 しかしこの試練や困難が許され、通されたのは、私が自分自身に死ぬためには、絶対に必要であって、どうしても通らなければならない道だったのです。みなさん、自分に対して死ぬ、ということは、どんなに頑張っての努力や精進では不可能だということをご存知でしょうか。しかし「死ななければ、身を結ぶことができない」という御言葉もまた真実です。この唯一の突破口が神からの試練・困難なのです。それは、恐ろしいまでの自分の罪深さを気づかされ、無価値さに絶望することでした。

 それゆえ、私たちの教会の今直面している大きな困難<教会員が半減した、会堂を出て行かなければならない>に対しても、私は次の神の大きな計画が控えていることがわかるので、Restart だと確信しているのです。これを御言葉通り「このうえもない喜びと」(ヤコブ1:2)思いましょう。「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか(ヘブル10:23)。

2023年9月 3日 (日)

主は今生きておられる

黙示録 1章17~18節   2017新改訳

この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。

 本日のテーマを英語で言えば「Because He lives」です。実は同名の英語讃美に数日来ハマっておりまして、頭の中にずっと流れ続けて止まらないのです。特にBecause He lives, I can face tomorrow. Because He lives, All fear is goneの歌詞(和訳:主イエスが生きておられるから、私は明日に立ち向かえる。主が生きておられるから、すべての恐れは逃げ去る)のImg_1270 くだりが繰り返され、会場の数千人の全聴衆が立ち上がって讃美する、その圧倒的な情景に、心から感動するのでした。

この讃美は、聖霊派なら誰でも知っていそうな、かなり有名な曲のようです。日本でこのようなことが起こったなら、「リバイバルが起こった」と感動することでしょう。
 特に「主が生きておられるから‥明日に立ち向かえる‥全ての恐れは逃げ去る」に深く同感するのです。私がこれまでの人生経験から最も導き出されるのは、人の行動原理は<恐れ>だということです。むろん、かねて申し上げている通り、恐れはサタンから来ており、サタン・悪霊は恐れを支配の道具にしています。障害と精神の病は厳密には分離し難いところもありますが、以後のことは聖書から見ての見地です。 生まれつきの障害は「神の栄光」のため。逆に後天的な障害は幾分か本人の罪のせいであろうかと推察されます。しかしほとんどの精神の病については、ほぼほぼ悪霊の本質である<恐れ>が宿主に憑依した結果だというのが聖書的に見れば言えるでしょう。代表的な統合失調症など、実情は薬による寛解が治療の目的になるようです。寛解ですから治ることはあり得ません。治るのは主イエス・キリストを信じ、神の力による悪霊の追い出し以外にあり得ません。
 つまり「全ての恐れは逃げ去る」こと、真の癒やしや解放は、悪霊に対し、唯一の勝利者、聖霊による追い出しと神の支配の確立だということです。ですから真のクリスチャンは恐れに聖霊に頼って対抗し、追い出し勝利を得るのです。その結果は神の愛、平安、喜びです。
 繰り返しますが、十字架による罪の赦し、聖霊の支配によって私たちは<見えない闇の力が見え、見分けることができ、神の道を選ぶ=悪霊を追い出す>勝利を得ることができるのですから、真に神を信じていない人には、神の御心がわからず、肉のクリスチャンにあっては、いくら自分はクリスチャンだと称していても、持続的な平安はあり得ません。<肉の死>を超えて永遠のいのちへの確信も、残念ながら持てないのです。

 

 

 

 

2023年8月27日 (日)

恐れるな

創世記 15章1節   2017新改訳

これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。

イエス・キリストを信じ、霊の目が開かれて来ると、「恐れる」ということがサタン、悪霊の働きであることが見えてきます。聖書では「恐れるな」という言葉が39回出てきます。恐れは神の働きを止め、妨害します。なぜでしょうか?
 それは人間の生存し防衛する本能そのものであり、一切考える必要のない、何ものにも優る強い動機である。本来人を生かすためのものだが、逆にこれが強く働くと不安と恐れに支配され続けてしまい、正しい生き方、判断ができなくなります。
 例えていうならそれは、木に取り付いて絡みつき、最終的にはその木を弱め枯らしてしまうつる、蔦のようものに例えられるでしょう。蔦のように恐れで人を支配するものを私たちは悪霊という。
 悪霊の存在は、主なる神を信じている霊的なクリスチャンだけがわかるもので、一般の人には認識できない。神の霊、聖霊がわからなければ、真札を知らないで偽札を見分けることが困難であることと同じです。つまり原因である悪霊を見分け、その上で追い出す権威がある神に頼らなければ、恐れのあらゆる類、不安神経症からいわゆる統合失調症などの病に対して、陰で働く主因の悪霊を追い出すことはできません。つまりこの種の完全な癒やしは無いと私は思っています。ただしこれは、人の努力や意志によるものではなく、神の御心、信仰の領域になります。

私の失敗談の一つ〜広島の片田舎から献身して、東京は高円寺の単身者のアパート暮らしを始めました。献身の際に一つ心に決めていたことがありました。それは神様のために用いることにした人生なので、「世的な労働はしない」ということでした。さてなんとか献身生活も半年経った頃のことです。ある夜、不安が私を支配することになりました。退職金の蓄えが思ったより早く目減りしていくんですね。これで計算すると、あと何年保つか、十年はないんじゃないか、不安になって来たのです。なんとかこれをもっと保たせたい、そう思った時、脳裏に思い出したのは銀行がやっている外国債の投資でした。これで月々十万以上の利息が配当されると、ほとんど目減りしません。これに飛びついたわけなんです。
 そんな旨い話がこの世の中にあるはずもなく、国際情勢の急転で半年後には、逆に元金を割り込むことになりました。「神の戒めであった。これは授業料だった」と悔い改めて即解約しましたが、発端は「先行きの不安」から出た愚かな判断でした。神に委ねて献身したはずなのに、祈りもせず、自分の知恵で判断した愚かさを本当に思い知らされました。みなさん、不安に駆られてすることは、ろくなことがありません。不安なら不安を、経済なら経済を神様に委ね、とことん祈って御心を確かめ、平安が来たら決断しましょう。

 みなさん、もう一度申し上げます。不安から来るものは悪霊、もしくは悪霊的なもので、これに動かされてはなりません。クリスチャンは平安、愛、喜びなのです。

2023年8月20日 (日)

刈り込まれた者

ヘブル 12章6節   2017新改訳

主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。
 
神は愛する者を刈り込まれる。その刈り込みとは何か?
 家の庭が、伸び放題の木や高い雑草で覆われていたら、その家は空き家に見えます。もしそれが自宅だったら恥ずかしく思うだろう。自然のまま放っておけば、必ずそうなるものだ。そこで刈り込んで手入れする。樹木には痛いことであろうが、結果として美しくなり、風通しが良く、病害虫も防いで生長も良くなる。手入れされることは美しく快適で、持ち主の庭への愛を感じる。

 これは神と人との関係に同じことが言える。天地万物を造られた神は、人をその管理者として置かれた。しかし人もまた神の被造物であって、自然のままでなく刈り込みを受け、整えられなければ野性のままである。刈り込みを受ける人は、神に愛されているのである。
 私たちクリスチャンへの刈り込みとは、真に神を「主」とするための試練困難のことである。肉のクリスチャンはいつまでも自分が主であり、逆に神をしもべとしていることに気付かない。人間の努力や力では、真に神を主とすることは困難なのだ。そこで神は愛する者に刈り込みをされるのである。神からの刈り込みによって、自分自身の誇りや高ぶりが打ち砕かれ、人ははじめてへりくだって自分の人生を神に明け渡し、神を文字通り主とすることができる。

 イエス・キリストは弟子たちに重ねて次のように教えた。(ヨハネ 12章24~25)
 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

 刈り込まれた者は、父の愛を知り、父を愛し、慕う。喜んで自分を神に捧げ、「主」として聞き従うようになる。自分がどんなに肉の人間であったかを知って、心から悔い改める。そして初めて平安を得る。刈り込みを恐れてはならない。それは神を信頼していないことになる。アブラハムに神が「子イサクを燔祭として捧げよ」と言われた時、神はアブラハムが実際に捧げる信仰があるのを確信していたと私は信じる。できないことを神は試されたり、困難に陥れられない。全知全能の神に失敗はなく、すべては愛する者をより愛そうと、愛から発しているのだから。

 私たち人間は刈り込まれることによって、真に神との正しい関係に入り、神の愛の内に憩い、喜び、御心を何としてでも行いたい熱意を持つ。肉の果てる命に優る永遠の霊のいのちは、その人の中で宮となり、栄光の神の計画と共に歩む。刈り込まれた者は、世では惨めで呪われた者に映るかも知れないが、実際には素晴らしい恵みであり祝福された人のことである。

2023年8月13日 (日)

Restart (再出発)

申命記 6章4~5節   2017新改訳

聞け、イスラエルよ。は私たちの神。は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。

 本日はちょうど13年前の15日(日)、船橋に着任後、勤労市民センターセンターで初めての礼拝を持った日になります。その時の出席者は牧師夫妻にK姉、つまり今日のメンバーそのままでした。そしてなんということでしょうか、あらゆる面で、再びここから14年目に向けて原点に戻っての再出発をすることになりました。「原点に戻って」とは、それまでいた教会員が主日礼拝直前に、創設時のメンバーにまで減らされ戻されたということです。
 こんな偶然があるものでしょうか。私は心中不安覚えて(※三つの無い)祈っていたものの、具体的は何らそのことにお応えや指示はなく、脱会通告が一斉に来てはじめてことの成り行きを知りました。SNSを同時に閉鎖されたので遺留のための対応は不可能でした。ですからちょうど14年目の出発というタイミングで、最終的に残されたメンバーが最初の三人であったことなど、これが神のみこころであり、「ここから再出発をせよ」の指示であることをはっきりと受け取るのです。

 ひとことだけここで確認しておきたいことがあります。出られた姉妹が退会理由として、TLEAのことを異端であり、カルトだと断定されました。これはまったく誤った判断です。こんな一方的な思い込みによる自分の判断と主張をし、それに対する相手の言葉は一切聞かないというのは、取り返しのつかない過ちをされている恐れがあります。
 異端とはキリスト教と称していても、使徒信条で特に触れられている神であるイエス・キリストを認めない教団・教会を指します。三位一体を前提とするキリスト教から逸脱しているわけです。エホバの証人や旧統一原理などがこれに当たります。
 次にカルトというのは、カリスマ的指導者を中心とするマインドコントロール中心の集まりを指し、現在では犯罪行為を犯すような反社会的な宗教団体を指して言います。確かにTLEAは偏見を持ち外見だけを見るのであれば、一見そのように見間違う人がいるかも知れません。しかし別にマインドコントロールがあるわけではなく、信仰と聖霊にもとづく歩みが実体なのです。ですから私たちはカルト教団ではありません。実際いつでも退会は自由です。そしてカリスマ派、ペンテコステ派など、全ての聖霊派の教会に言えることですが、どうしてもリーダーにはカリスマ的傾向はあるのですが、問題はそこに神の臨在があるのかという点であり、各人に与えられた賜物が正しく運用されているかどうかです。

 本日からこの船橋キリスト教会は14年目の働きに入ります。神はこの地に私たちを立てさせ、ご自分の証人として用い、日本のリバイバルに用いると語っておられます。したがってこれまでの13年間は、霊的にですが、イスラエルの民がシナイの荒野で訓練を受け、約束の地を獲ち取る戦士にされたような期間であったと考えましょう。さあ、Restartの賛美に載せて、この約束の地を占領しましょう。

2023年8月 7日 (月)

聖霊と悪霊

エペソ6章12節   2017

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 精神の病は、代表的な統合失調症であれ、私がそばで見続けた摂食障害であれ、重症化すれば病識がないのが特徴である。この病識がないことで陽性症状と陰性症状を繰り返し、次第に重症化する。重症化すると深夜、自分に呼びかける声が聞こえたり、本人とは全く別な人格が見え隠れするのが特徴と言える。
 医学では重症化すると患者を隔離病棟に入院させ、寛解(完治ではない)に向けて治療を行う。しかし退院すると再発率高く、完全治癒はあり得ない前提である。病の原因がわからず、対症療法であるためだと私は思う。

 以上は精神科医が概略述べてくれたことだが、牧師としてこのような病状を聞くと、これは悪霊の働きだと見ることができる。悪霊に対し、神の霊でなければ追い出す事は不可能であって、治癒の可能性があるのがキリス教だけである。神の霊である聖霊のみが、取り憑いだ悪霊を追い出すことができ、精神の病を完全に癒やすことができるのだ。

 聖書によると、今から2千年前のシドンで、イエス・キリストは「悪霊に憑かれた娘」を癒やされた。本人には病識がないので、この場合は母が信仰によってイエス様のもとへ来た。イエス様がイスラエルで起こされた癒やし、悪霊の追放は隣国にも聞こえていた。堅い信仰を持っていた異邦人の女は、イエス様から拒まれたり、小犬だと娘ともども貶められようと、全く怯まなかった。信仰による癒やしの確信があったからである。それゆえ女は、イスラエル人が聞いたこともないほどの最上級のほめことばにあずかり、望みの癒やしを受けることになった(マタイ15:28)。
 次にマグダラのマリヤは、「七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人」(マルコ16:9)であるが、癒された後には、イエスら使徒の群れを実質的に支える働きをしていたが、十字架の死の証人となり、最初に復活のイエスに会い、最初に声をかけていただく栄誉にあずかった女になった。

 このように精神の病には世人に対し、悪霊の存在を明らかにし、悪霊をも用いて神の計画と栄光を明らかにされる。精神の病だからこそ、その原因である悪霊の追い出しによって、神の栄光と力の証人とされたのである。このことを主イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」と言い表したのである(ヨハネ9:3)。

2023年7月30日 (日)

礼拝は最強の伝道

エペソ 1章23節   2017新改訳

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

 私たちは<伝道>というと、外に出て行って、駅前とか大学のキャンパスでトラクトを配ったり、聖会の開催に合わせてやはりトラクトとか、呼び込みをしたりするのが伝道のイメージです。ところがオン・ザ・ウェイのジャック・ヘイフォードさんは違うんです。礼拝こそが最高、最強の伝道だと。伝道というものは非常に霊的なものだと言われるのです。確かに神の霊に触れなければ、神がわからず、本当に信じて救われることはかなり困難です。

 では神に触れられる所とはどこか?ここなんです。霊的な礼拝をしている今この時、この場、そう、教会の礼拝が答えなんです。私たちが霊とまことをもって真に神に礼拝しているなら、この場に聖霊が臨在し、満ちて人々を倒し、魅了し、神を信じる者とされるのです。

 このことがペンテコステの日に起こりました。大きな音がしたわけですが、実際には聖霊が三千人の人々を超自然的に集め、異言やペテロのメッセージに霊感された礼拝によって最初の教会が発足したのです。男性だけで三千人は現在でも大きな人数ですが、昔の狭いエルサレム市街に、過越の祭から居残って人々の三千人というのは、途方もない数のように私は思われます。
 またパウロとバルナバを召して異邦人伝道に向かわせたのも、礼拝中、聖霊の指示によるものです。これは今日に至る世界史的な転回点となった出来事です。このように礼拝における臨在が、霊によって信じる者を起こし、神に聞き従って神の計画、伝道の御業をはじめられた場そのものなのです。

 皆さんの中に、礼拝って毎週同じことばかりを繰り返して、形式的で新味がなく、退屈だと思っている方がおられるかも知れません。牧師にも相当の責任があると思いますが、中には余りにも平安があり過ぎて、メッセージ中に居眠りされる方も。ですが昔から、そして現在に至るまで、逮捕されたり拷問を受けるリスクを冒してまで、クリスチャンは命懸けで礼拝を守ってきました。どうしてでしょうか?

 逆にサタンは何とかして礼拝に行かせまいとし、あらゆる策略を用いて来ました。世人が日曜日にレジャーで楽しむのをうらやましく思わせ、教会の人間的な負の側面から心に傷を負わせたり、などです。また礼拝後の交わりが楽しく、それが教会に行く主目的になってしまうこともあるでしょう。しかしそれらはサタンの罠に縛られているのです。

 そうでなく、教会は神を礼拝し愛し、隣人を兄弟の愛でもって交わるところです。そこには臨在の恵みがあり、あふれる祝福の場となのです。そうなっていないのであればまず第一に悔い改めるべきは牧師です。そして教会全体で主の霊、臨在の恵みを追い求めてください。応えてくださる神を信じましょう。

 

 

 

 

2023年7月23日 (日)

信仰とは何か

マタイ15章28節   2017新改訳

そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

 本日の聖書箇所(マタイの福音書 15章22~28節)でシドン人の女性が登場する。群衆が押し寄せることのない異教の隣国で、静かに弟子訓練を続けたかったイエス様にとって、この叫び続ける女は大迷惑の存在だった。「彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであった」とあるように、当時の国際語ギリシャ語が話せるということは、隣国ユダヤの事情にも通じており、イエス様のことをも相当聞き及んでいたと思われる。そして彼女にとって困難と絶望の中、唯一の希望の灯火はイエスによる癒やしであった。そうでなければ、ここまで叫び続けてまとわりつかなかったはずだ。彼女にとってイエスの一行の到着は、これぞ神の導きと確信したはずである。
 聖書には「汚れた霊」「悪霊に憑かれて」と表されている精神の病は、現代においてもどんな病名がつこうと、治癒が困難な病である。私の体験では、当人が苦しむだけでなく、身近な母や子、或いは伴侶も、正常であるだけに本人同様かそれ以上の苦しみがあったはずである。

 さてこの女性はイエス様に通されると、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください」と真っ先に言っている。「ダビデの子よ」は、彼女の信仰が正当なものであることを告白している。娘本人は悪霊に憑かれているので信仰はない。しかし母親の信仰によって家族の癒やしを願っているのだ。
 この異邦人の女に対し、イエスは、これ以上にないほどの辛辣な試しを投げかけられた。救いや癒やしなどはイスラエルのもので、異邦人にはお門違いだと一蹴する。しかしそれでも「主よ、私をお助けください。」と引き下がらないので「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないこと」と侮辱的なまでの拒絶の言葉を投げかけられた。
 普通はこれまでである。憤然と怒りのあまり、期待外れのイエス様を罵って席を立つのが人間ではなかろうか。愛する娘が、存在の価値が極めて低い<小犬>呼ばわりされたのである。多少でもプライドがある人なら、必ずそうしたはずである。しかしこの女はそうしなかっただけでなく、「小犬でもこぼれ落ちたパン屑はいただきます」と食い下がったのである。

 聖書でイエス様から信仰をほめられた人物は二人だけで、その両方とも異邦人であった。特にこの女性に対しては「あなたの信仰は立派です」と最上級の賛辞を贈られている。もし現在において私がこの時のイエス様のような試しの言葉を言ったなら、きっとレイシストとして社会的に抹殺されるだろう。しかし神であるイエス様は、この女性の信仰を見抜いておられ、弟子たちの前で信仰とその酬いというものを鮮やかにお見せになったのである。後になってみればこれも、弟子訓練の一貫であったと言えるのである。
 どんなに彼女は拒絶され、侮蔑されても怯まなかった。神の大きな恵みの前に、一切のプライドは剥がれ落ちていて、ただ主の憐れみと恵みを信じていた。信仰は立派な行いや人品を装うものではなく、ただ追い求める必死さ懸命さ、憐れみを信じ求め続けるひたむきさの中にあることを、主は教えられたのである。私たちもそのような信仰でなければならないのだ。

 

 

 

 

 

2023年7月16日 (日)

「ルツ前田さん孤児院報告会」から

✝ 詩篇118篇22節     2017新改訳

家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。

 東京アンテオケ教会で行われたカンボジア孤児院報告会で、開設25年が経過したとのことだった。私も2004年8月にほぼ一ヶ月訪問したが、この時は開設からまだ6年しか経っていなかった。
 20年にわたる内戦が、1993年のカンボジア国民議会選挙でようやく終わったのだが、この国におどろくほどの孤児が増えることになった。何しろ国民の2割近くが同国民同士が争って犠牲になったのだ。
2004年に私が訪れた時でも戦後十年ぐらい。戦争の爪痕はようやく整理されかけていても、メインストリートにバラックが多く、報告会の話にあったようにほとんどが二階屋であり、あちこち破壊された都市はアジアの最貧国に見えた。

 それ以上に気になったのは、人々の目の鋭さ、あるいは貧しさである。街の辻々には、なぜか鋭い目をした青年や成人らしい若者が立っており、常に何かに警戒して目を光らせている。私は彼らの目を非常に意識して歩くことになった。また目に付いたのは道に磁石を転がし、鉄屑を探して歩く母子の姿。住宅街はどの家も高い塀で囲い、中を見せないように警戒していた。そうでなければ街のあちこちに丸太の柱を突き立て、五、六十センチもの土台の上に、吹きっ晒しのようなバラック建ての家も目立った。市場では男たちが昼間っからTVゲームに群らがっていたように、概して仕事にあぶれている感じだった。

 私よりも5、6年前に来たルツ前田さんの時代は、さらに物騒だったのも分かる。ルツさんが到着し孤児院を始めて間もなく、近所を戦車が通り、銃声が聞こえたと言うから、おそらく街に潜入してくるポルポト派のゲリラに対し、軍の掃討作戦が行われたのだろうと思われる。そのような困難な時代だからこそ、ルツ前田さんが命の危険を感じても、預かった子ども達を守って踏みとどまられ、その使命を全うされたのはすごいことだと思わされる。

 今回、孤児院の子供達が立派な社会人として、次々に巣立って行った報告を聞いた。大学を出て就職したり、中には結婚した子もいる。これらの子ども達は四半世紀の大きな収穫である。心から孤児院の働きと神を崇めた。彼らが神の証人としても用いられるよう、これからも祈り続けて行きたい。

(7月15日東京アンテオケ教会での報告会より)

2023年7月 9日 (日)

備える信仰

Ⅱテサロニケ 2章3節  2017新改訳

どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。
マタイ 24章13節 (補足) しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。

いきなりですが皆さん、「患難時代への信仰の備え」できていますか? 

 これまで「黙示録」「ダニエル70週の預言」などを学んできましたが、その中で大いに気になることがあります。それはみなさん、と言っては失礼になる方もいらっしゃるでしょうが、ご容赦願います。
 杞憂に終わる心配ですが、知識としてどんなに学ばれても、単に知識や教養だけに終わっていては、いざその時が迫って来てからでは遅すぎると言えましょう。
 マタイの24章48節以降では、悪いしもべとして、次のように述べられています。「しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです」

 ですから今自分が「主の日は当分来ない」と思って、その備えを怠るなら、その日には「泣いて歯ぎしりする」ことになりかねません。「これは大変だ。このままではいけない」と危機意識というか、悔い改めてやがて来る次の時代に備えようとする心構えが大切なのです。もっと言えば、これは2000年前の使徒の時代から、私たちが常にアイデンティティーとして持ち続けなければならないことだと言えましょう。日本の有名な格言で、<泥棒を捕らえて縄をなう>ように、間に合わないのです。
 私たちの目は常に天を仰いでいます。「主の日は当分来ないだろう」と勝手に決められるのはそれぞれの判断ですが、聖書はそのような事を言ってはいません。いつ主が来られても良いように、しもべとして与えられたタラントを用いて行くのです。勿論人によってはたった1タラントの人もいるでしょう。しかし1タラントでも、その1タラントを恐れずに用いて行くことで、10タラントの人と全く同じおほめにあずかるのです。
 特に今の時代、ロシアがウクライナにする野蛮な戦争をし、地球規模で疫病や温暖化など気候変動が起こり、これらは時が近づいている兆候は確実です。礼拝、証、献金などの基本的なことはもとより、対抗心や自尊心を廃し、いつもこころに主に感謝する喜びの表情でおられることが大切です。

 

 

 

 

2023年7月 2日 (日)

みこころを行う

マタイ 7章21節   2017新改訳

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
 「キリストを信じて信仰告白をすれば、誰でもみな天国に行ける」と多くのクリスチャンは思っているはずですが、そのような人たちは、本日のこの箇所 --「みな」ではない-- をどう読み取るのでしょうか。
 このような不安を払拭できないからでしょうか、この重要な箇所であるにも関わらず、過去においてメッセージにおいて、私は一度も聞いたことがありません。しかしこれを避け、このまま不安を残したまま時を迎えるのであれば、牧会者として大きな問題であります。

 神のみこころを行なわなければ、天の御国に入れない。では<みこころ>とは何か? これは聖書では明確にイエスの言葉として次のように言っている。
第一に神を愛しなさい。」「第二に隣人を愛しなさい」と。さらに「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19−20)という使命も語られています。神のみこころが分からないという人は、これらのはっきりしたみこころを行おうとしていない‥‥つまり本当に救われた神を愛する実が、実際に実っていないのではないか、と私は疑っています。本当に救われていれば、自分ができる、できないではなく、行えるよう神の助けを真剣に祈り求めるはずです。

 次に神のみこころは具体的に個々人にあらわされていきます。自分の努力や働きで霊的な救いを得るということでもありません。それは勿論聖書の範囲内のことであり、聖霊との日々の交わりを通して明らかにされて行きます。神はご自分を愛される者にご自分をあらわされるのです。それは聖霊のバプテスマのような、肉なる心を滅ぼし、聖霊がその人の中で主となり、宮を築いておられる人限定になります。いわば神への献身者を通して神は具体的な指示や慰め、励ましを与え、みこころを行わせて神の計画を前進させられます。
神はみこころのままに、あなた方のうちに働いて志を建てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリピ12:13)
文字は殺し、御霊は生かす」この聖句も(Ⅱコリント3:6)に出てきます。文字とは直接的には十戒のことですが、律法の意味です。律法によっては人は罪を知るばかりです。(使徒13:38−39)が、十字架によって罪から解放された私たちは新たな主、御霊が与えられました。この御霊によって私たちは肉の心から解放され、父と交わる者とされました。世の霊、肉の自分からはじめて自由になりました。それを御心のために用いることによって、<永遠に生きる>存在とされ、自由の意味を知ることになりました。御霊は私たちをそのように教え育て、真に生かすという意味です。

 

 

 

 

 

2023年6月25日 (日)

主は御霊

Ⅱコリント 3章17~18節  2017新改訳

 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

 三位一体について、直接言及した聖書本文はありませんが、聖書の随所でそのことは明らかにされています。本日の箇所もその一つと言うべきでしょう。御霊なる聖霊は、父なる神、子なる神イエス・キリストであると明言しています。

 次に自由という言葉も、肉的なクリスチャンがよく思うような <好きなことをなんでもして良い>と受け取ってはなりません。大前提として、キリストを信じる者は、キリストが贖ってくださった、買い取られた者です。いわば奴隷市場で、新たなご主人に買われたのです。しかしこのご主人は私たちを奴隷として扱わず、子としてくださる方なのです。ですから子として、保護者である親から養育され、成人するまでは聞き従う必要があります。勘違いしてはいけません。
 では自由とは何の自由でしょうか。強制でも命令でもなく、御心を行える自由です。確かに聖書には命令形の言葉がたくさんあります。「悔い改めなさい」とか「感謝しなさい」のような言葉です。しかしそれは、聞き従って恵を受けるための、父からの戒めであり訓育です。悔い改めない者、感謝しない者に対してのものです。

 しかし子として父を愛する者には自由があります。聖霊によって普段に父と交わり、父がどのような考えをし、対応をしているかを知っていますので、子も進んで父のように行おうとします。すでに何が良いことでいけないことかを知っており、わきまえているので、父もある程度の自由を許して、子に色々な経験を積ませようとするのです。
 それは家庭と同じように、子は父の家の中で安心し、恐れなく、嗣子として自由に振るまいます。神の下にある時、人は罪の縄目から解放され、愛する父の御心を行おうとするので、自由があるのです。

 文字は殺し、御霊は生かす。この聖句も(Ⅱコリント3:6)で出てきます。文字とは直接的には十戒のことですが、律法の意味です。律法によっては人は罪を知るばかりです。(使徒13:38−39)が、十字架によって罪から解放された私たちは新たな主、御霊が与えられました。この御霊によって私たちは肉の心から解放され、父と交わる者とされました。世の霊、肉の自分からはじめて自由になりました。それを御心のために用いることによって、<永遠に生きる>存在とされ、自由の意味を知ることになりました。御霊は私たちをそのように教え育て、真に生かすという意味です。

 

 

 

 

 

2023年6月18日 (日)

赦されるために赦す

ルカ 6章37節  2017新改訳

さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。

 聖書で使われる「赦す」ということばですが、これは「水に流す」という意味ではありません。ルカ15章の放蕩息子の話ですが、過ちに気づいた息子はきちんと反省し、過ちを認めその上で、「もう息子ではなく、使用人の一人に」と償いをすることを言い表しています。「水に流す」というような、あったことを無かったことにするとは一言も言っていません。
 一方、赦す側としては、聖書のマタイ6:14-15でもし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。と言っています。これが今日のテーマである<赦されるために赦す>という根拠になっています。

 人はなぜ赦すことができないのでしょうか。口先では赦すと言っても、それは真実ではなく、後々恨み言を呟く人がなんと多いことでしょうか。幼い時に受けた心の傷やいじめ、先ほどの証のように、まったくの誤解をしつこく言いふらされるパワハラ的なことが起こったとして、それを赦すと言うのは、通常は困難です。しかしまず第一に留意したいことは、それらを抱え込んでいる内に、やがて恨み、憎しみとなり、自分が一番じくじくと大きなダメージを受けることです。
 自分を正当化し、晴れない思いにくすぶり続け、時に「仕返し」とかの相手への懲罰を願うということは、自分が裁判官になって相手を断罪するということと同義です。しかしあなたはその時の相手側の事情や起こった背景について正しくは知っていません。ただあなた自身の一方的な被害者意識があるだけで裁いているのであって、決して公正ではありません。そのよりも一番大事なことは、それを神が許されたということです。あなたが神に代わって裁いてはいけません。あなたもその人と同じ、罪人の一人に違いないのです。
重要なポイントは、神がすべてを見ておられ、最終的に裁かれるのです。また赦さなければ赦さなかったことから来ることが、人格や信仰の形成に大きな影響を及ぼしてしまうのです。他者を断罪する大きな罪があるなら、神はその人の罪を赦さないし、聖霊の注ぎかけは困難です。その人にとってこれが最大の損失でありましょう。この地上でのことはやがて過ぎ去り、取るに足りないことになります。私たちは永遠の天に生きる者でありながら、赦さない人の正体は、実はこの滅ぶべき地に属していることを証明しているのではないでしょうか。

 本当に天国に所属する人たちは、イエス・キリストも、ステパノもパウロ三木も、目前の自分を殺そうとする人たち皆に罪を着せなかったのです。今みなさんはおそらく、自分の赦さない罪に気づかれていないかも知れません。これからもし、聖い聖霊様が聖霊のバプテスマとしてみなさんに臨む時、おそらく聖霊様ご自身によってみなさんの罪を改めて教えてくださることでしょう。その時はじめて悔い改め、赦され、一段と完全な者とされて行くことでしょう。

 

 

 

 

2023年6月11日 (日)

真の祝福

コロサイ 3章1-4節  2017新改訳

神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、
コロサイにいる聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟たちへ。私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたにありますように。
私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。
キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。

 世の人には、今のこの世にしか希望がありません。しかしこの世で生きることは、多くの煩いー食べることや健康など、血肉の体の必要や、社会という人間同士の関係に伴う困難なことなど、ー一つ一つが大変です。
 しかし世の人たちにとっては、今のこの世がすべてであり、ここで終わりでこの先にある世界を知りません。ですからどんなに高齢になっても、八十歳や九十歳になっても、生き続けることに執着します。また若さだけが希望そのものですから、「おばあちゃん」と呼ばれることを拒否したりします。肉体は死んで滅びることが頭ではわかっていても、その事実を受け入れられないのです。
 そういうわけで、「長寿数え歌」で喜寿では「命の七十七に迎えがきたら、せくな老の楽しみこれからだ」など、死は不吉なこととして考えないことにし、いつまでも避け続けるのです。

 このように今の命が全て生き続けることだけが希望ですから、健康に関心が非常に高いのです。私はかなり前に、市が主催する健康体操に一度だけ参加したことがあるのですが、皆さん背筋をピンとはって、とにかく健康に良いことに努めていらっしゃる。私など姿勢が悪いと何やっても酷評され続けました。私から見れば、参加する皆さんが失礼ながら、ゾンビのような健康オタクに思え、二度と参加する気にはなりませんでした。

 この世の人々と神を信じる私たちとは、決定的な違いがあります。それはいつも天を仰ぎ、天にいのちを見出し、そこに永遠のいのちと真の希望を見出しているからです。つまりこの世は仮の世、本番の生活は天にある天国人なのです。この世は私たちが神の御心を行って、天の国で誉を得るための使命を果たす場なのです。私たちは神イエスによっていのちを贖われ、買い取られて永遠のいのちに生きているのです。

 神を信じる者の使命といっても、十人十色でしょうが、世での基準がクリスチャンに適用され、大きな働きをした人が大きな報いを得るとは限りません。タラントの喩えがあるように、ただ忠実に神からの使命を果たした者に、同じ報いが与えられるのです。ですから私たちは目を天にあげ、上にあるものをひたすら思いましょう。地にあるものを思ってはなりません。

 神の計画を妨害するため、サタンは神を信じる者に狙いをつけています。目を天に向けさせまいと、肉の体と世への思い煩いや困難を、ひっきりなしに大きく取り上げさせ、刺激してきます。しかしそれに乗ってはいけません。キリストの命によって救われた私たちには、神への愛と感謝しか残っていないのですから。

 

 

 

 

2023年6月 4日 (日)

信仰と癒やし

マタイ 11章5節  【新改訳2017】
目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

 昨日の船橋カリスマ聖会で、秋元牧師は「信仰のない人に癒やしは起こらない」と語られました。確かに聖書を見ると、癒やされた人たちには、イエス様、神様に対する信仰が本人に、あるいは周囲の人たちにあったことは読み取れますし、確かなことです。

 確かに癒やしは信仰者に与えられるものです。私たちの群れではその大きな御わざを見ています。例えばM牧師夫妻においての精神の病が癒やされたりしています。本日私が証したい癒やしの証は「歯の再創造」です。

 51歳で聖霊のバプテスマを受け、続いて牧師へ召命を受けました。何のためらいもなく喜んでその招きに応じたのですが、私には気になる事柄がありました。それは牧師としての使命を果たすのに、<フガフガ歯>で喋りに差し障りがあるということでした。

 50代に入る前に、私は右奥歯大臼歯3本を歯槽膿漏で失ったのですが、その際、どんなに痛み止めの薬を飲んでもまったく効かず、以来歯医者に行くことがトラウマになってしまいました。それで私は、自分にとって都合の良い歯医者に行かなくて済む、自然に歯がまた生え出てくるよう「歯の再創造」を神に祈るようになりました。ただ、客観的に見るならば私の両親は五十代で総入れ歯になっており、おそらく私も同じ轍を踏むことになっていたことでしょう。

 再創造の熱い祈りは二年経っても答えられず、半ば諦めかけていた頃、田舎の小さな学校に転勤していました。毎年この時期には学校では歯科検診があります。その時のことでした。検診を始めた医師は、記録を教師にさせず、連れてきたスタッフにさせた上、少しでも引っかかった児童は、隣室の歯科衛生士からブラッシング指導を受けさせられていました。その時、私の脳裏に「この歯科医に行きなさい」という明確な指示が来たのです。それが断固たるものだったので、トラウマなんぞは言っておれず、聞き従ってその日の夕方には、私はその歯科医院で診察を受けていた。
 その時から私は歯科医院に毎週通うようになり、私の口腔環境は劇的に回復して行ったのです。それから3年が経って、私はインプランの手術を受けられるまでになり、歯の再創造はかないませんでしたが、ほとんどそれと変わらない歯を得ることが出来ました。私は未だに自分の歯で、りんごやピーナッツを齧れている恵みに預かっています。神は私の願った通りではなかったのですが、神から語られたことに恐れず、忠実に聞き従った結果、実に願った以上の恵みを受けることができたのだ。

 

 

 

 

2023年5月28日 (日)

ペンテコステ

使徒 2章1~4節  2017新改訳

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

✝使徒 2章1~4節
「ペンテコステ」
ペンテコステはどのようなものであったかを使徒2章は記しています。イエス・キリスト復活の日からちょうど50日目のことでした。その時、エルサレムで120人全員が聖霊に満たされ、直ぐに異言を語り出したと聖書は記しています。聖霊のバプテスマを受けたかどうかは、異言がバロメーターだと言われます。しかし、異言はれっきとした外国語でありました。「ラーラーラー」とかの意味の通らない繰り返しではなく、その聞く人が聞けば通じるのが異言です。聖書がそう言っています。

 次にいくつか聖霊のバプテスマについて誤解がありますので、それをはっきりさせておきましょう。まず「エルサレムから離れないで」という指示があったのに、どうして弟子たちはガリラヤ湖周辺に行ったのか、と言うことです。これは単にこの指示が復活のイエス様が40日間居られた最後の頃に言われた指示だったはずで、何の問題もありません。
 次に水と聖霊のバプテスマ問題ですが、これはイエス様も言及された「あなたがたは間もなく、(水ではなく)聖霊によるバプテスマを授けられる(使徒1章5節)」の約束の成就です。聖なる聖霊様は罪と同居ができません。それを可能にするために罪を赦す十字架を負われたのです。全ては聖霊のバプテスマを受けさせるためのものだったとも言えるでしょう。事実、ペテロたちはそれまででもイエスを信じていました。しかし聖霊のバプテスマは受けていなかったのです。そして教会は、聖霊のバプテスマを受けて誕生したのです。聖霊のバプテスマが教会の土台なのです。
 熱心な伝道者でアポロがいましたが、彼は聖霊のバプテスマを受けていませんでした。従って彼が導いた人々も、パウロが会ってみると水のバプテスマしか受けていませんでした(使徒19章2~6節)。今日、水のバプテスマだけのクリスチャンが圧倒的な多数派になりました。しかし本来、教会は聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンの集まりです。多くの教会で、水のバプテスマと聖霊のバプテスマは同じであるようなことを言っていますが、これは知らないからで別物です。

 以上聖霊のバプテスマについて述べてきましたが、私自身の体験から申しますと、40歳の時、「聖霊のバプテスマ」という言葉を知って、天啓のように私は「これだ!」とわかり、狂ったように何としてでも受けようと、求め続けました。しかしどんな求めて探しても受けることができませんでした。10年経つとさすがに諦めるようになり、自暴自棄になり、罪100%に陥りかけました。惨めに信仰を失おうとしたある朝、突然に神のあわれみが降ったのです。
 みなさん、自分の力では自分に死ぬことはできません。聖霊のバプテスマも神様の御心次第です。今あの十年は、神さまが肉的な私を刈り込んでくださった、産みと整えの苦しみの時であったことがわかります。それが絶対に必要だったことも、感謝を持ってわかります。みなさん、どうか諦めずに熱心に求めてください。しかし努力や熱心でも不可能です。神は求める者をご存知ですし、あなた以上にあなたを知られる神は、神の時タイミングでそれを与えてくださいます。

 

 

 

2023年5月21日 (日)

ヨベルの年

レビ 25章10節   2017新改訳

あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。

 本日、創立50周年を迎える私の勤務先では、スタッフは皆このTシャツを着て頑張っていると思います。しかしこのTシャツに<Golden Jubilee>と大きなロゴが印刷してあります。Jubilee?ということを調べてみますと、50周年記念という一般的な意味と、聖書でレビ記のヨベルの年というのが語源であることがわかりました。さらに昨年の大贖罪日から今年のその日まで、現在が50年に一度のヨベルの年らしいことがわかりました。

 ヨベルとは雄羊の角の意味です。赦しを象徴するこの年は、レビ記によると7年目ごとに地を休める七度目、つまり49年後に来るあらゆる回復の律法であることがわかりました。地は2年続けて休耕し、土地は元の持ち主に返され、奴隷など人もその縄目から解放される、つまりあらゆる回復が成される年なのです。

これは世界を創造された神が7日目に休まれ、聖なる日とされたこと、ペンテコステが七週の祭りとされた50日目であることと関連しています。しかしヨベルの年は50年に一度なので、おそらく人が生きている内には、ただの1回しかないチャンスでしょう。このヨベルの年はただの休息という意味ではなく、人は霊的な存在であって、休息とは神と共に生きるシンボルであり、7の7倍、つまりペンテコステ(5旬節)やヨベルの年(50年)には、それらの集大成としての意味があることがわかります。

 私たちはヨベルの年を通して、神がエデンという最初の罪なき世界を回復されようとしておられること、それはキリストの十字架と再臨よる罪なき世界の再創造(神の国)であり、そこに魂の大収穫をもってより巨大な楽園を創造しようとされる神の意図を感じます。

Jubilee(ヨベルの年)は50年に一度の、神の祝福の年なのです。

2023年5月14日 (日)

いつでも感謝

エペソ 3章16節   2017新改訳

いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

 私たちの教会ではマーリンさんから受け継いだ 「感謝」を徹底している。だがそれと同時に感謝での注意点も浮き上がっている。それは以下の3点である。

〈1〉口先だけの感謝  〈2〉感謝に気づかない  〈3〉不純な感謝  
 順に説明していこう。
〈1〉では全然感謝していないのに、瞬間的に「感謝します」と言い替えたり、多分に〈口癖〉で習慣的に呟いているだけの人がいることである。
 例を上げれば、交通違反切符を切られて「頭に来ている」のだが、そばにいる人のために、悔しさを押し隠して「か、感謝しま~す」と言い換えただけの場合などである。

〈2〉では、自分の身に起こった悪い出来事(会社の倒産、罹患して入院など)を感謝しないでいることである。神を信じる人に起こるすべての物事は、すべて主の許しなしには起こり得ない。全ては後に最善な結果になる。それゆえ私たちは神を信頼し、全てにおいて徹底感謝をするのである。感謝なしに、私たちは主が期待される信仰者とは言えない。        

〈3〉不純な動機。これはいうまでもなく、感謝の誤った姿勢である。主イエスの十字架によって私たちの命が贖われているにも関らず、感謝しているからと、神様と取り引きをしているのである。例えば、「今私たちは、この苦しみと混乱のさなかにあって、感謝し、あなたを賛美しましたから、私たちをこの状態から出してください」等と。また

「これだけ感謝したんだから、きっと報われる」と期待することも同様である。

 このような感謝は、全く神へ感謝しているのではなく、ただ功利を求めているだけに過ぎない。そのような方たちは、試練に耐えられず、やがて絵のように信仰からも脱落する。私たちは不純な動機や隠されたたくらみから、己に死に、清められて、真に感謝する者とならなければならない。ダニエルは、命を狙われているはかりごとだと知りながら神に祈り、感謝を捧げることを止めなかった(ダニエル6:7−10)。どんな状況になろうとも、全幅の神への信頼を持って感謝する、これが私たちの感謝である。

いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。(エペソ人への手紙 5章20節)

2023年5月 7日 (日)

癒やし~回復の時

使徒 3章16節   2017新改訳

このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。

真に癒されるとは、神様との関係の回復である。

足が不自由な人の<美くしの門>での奇跡について                  

○神殿内にあった<美しの門>の場所についての二つの説とその図。
○この四十代の男は、ある意味、神を信じ神殿詣をするユダヤ人にとって、誰もが知る超有名人だったはずである。
○最近起こったイエスの事件を、彼が知らなかったはずがない。そして癒やされるに足りる信仰があったと見るべきである。
○神はペンテコステの後、最初の奇跡としてペテロを通し、この奇跡を行われた。萎えていたはずの足の筋肉とくるぶしが、差し出されたペテロ  の手をとって立ち上がろうとした瞬間に回復した。ここにこの男の信仰を見ることができる。その結果、即座に躍り上がって立って歩けた。さらに歩けただけでなく、飛び跳ねて歩けたことは、もはや奇跡である。
この男は、即座に証人としての活動に入った。二人と一緒に宮に入って、歩きながら神を賛美している姿を見た人々は、「ものも言えないほど驚いた」のである。ペテロはこの奇跡を通して説教し、信じた男の数が五千人にも上った大収穫となったのである。

このように神に触れられた体験は、即座に「歩きながら賛美し」サンヒドリンの議会では、「二人と共に証人として立った」など、信仰の大きな力を伴うものだった。

 誤解してはならないこととして、神に触れられる体験と癒やしの違いである。イエス様がガリラヤからサマリヤとの境を通られた時、十人のツァラアトに冒された人がいて、祭司に行く時に十人とも癒されたのであったが、そのことをイエスに報告に来たのがサマリヤ人の一人だけであったことである。神による癒やしが即座に信仰に結びつかないのであれば、それは神の恵みを全くの無駄にしたわけで、かえって裁きの一つの理由になってしまいかねない。

2023年4月30日 (日)

まことのブドウの木 Part2

ヨハネ 15章1節  2017新改訳

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

 イエス様は、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」(ヨハネ15章1節)と言われました。この「まことの」とは英語でtrueになり、真実の、本当のと言う意味であることは先週お話ししました。

 ご承知のとおり、ぶどうの実は大地を通し、幹と枝を通しての豊かな滋養を受けなければ実ることはできません。大地を耕やし豊かにされているのは農夫である神、その大地の栄養はぶどうという木であるイエス様を通し聖霊として吸い上げられ、幹から枝を通してぶどうの房への養分として注がれて行く。では実とは何でしょう?聖霊様の働きによる<愛>では無いでしょうか。ぶどうの一粒一粒の実とは、その愛の現れだと言えます。
 つまり誰であっても神とイエス様を通してでなければ、また聖霊様を通してでなければ誰一人、証しとなる実、またその実がもたらす永遠のいのちと言う<実>を得ることはできないのです。Img_1194_20230506204901

 そして今回特に示されたのは、大粒の実を実らすための刈り込みを<行うのは誰か?>ということです。

「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」 (ヨハネの福音書 15章2節)

 神です。考えてもみてください。ヨブに考えられないほどの困難を許されたのは神です。全知全能の神にしか許可を与えることはできないのです。逆に言えば、刈り込みは直接神が選ばれた、愛された人であって、その結果も完全に見通された絶対的なものだと言うことです。ですから刈り込みにあった人は、そのことに甘んじ、感謝し、下記の(ヨブ記 1章21節)のように告白しましょう。

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

 

 

 

 

2023年4月23日 (日)

まことのブドウの木

ヨハネ 15章1節   2017新改訳

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

 イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」(ヨハネ15章1節)と言われました。この「まことの」とは英語でtrueになり、真実の、本当のと言う意味です。ご承知のとおり、ぶどうの実は大地を通し、幹と枝を通しての豊かな滋養を受けなければ実ることはできません。

 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。(ヨハネ10章11節・15節)
 このイエス様こそ真の牧者であり、私たちに滋養を注ぎ入れてくださる方です。世界には色々な宗教があると思いますが、教祖が自分の民のために死ぬなんて宗教は他にありません。どこも崇高な死に方をされているのですが、キリストだけは全く別な最後を遂げられました。
 それは当時の宗教的な権力者によって極悪な犯罪人として殺されるという、壮烈な最後でした。彼らこそ、真っ先にイエス様を神として崇め、仕えなければならなかったはずの人々だったのです。このことを、虚飾と書き換えの無い聖書が証しています。この真の神は、あらかじめ予告しておられただけでなく、次のことから真実であることがわかっています。

   ⭐️四千年も前からの最も古くから在る神
   ⭐️最も多くの人類が信じている神
   ⭐️神自らが、人のために命を捨てた神
   ⭐️復活によって罪と死を滅ぼした神           以上で、この方が真の神とわかるのです。

 しかし私たちがキリストの神を信じたのは、修行などの努力で得たわけでも、色々な雑念を捨て自分を超えることができたからでもありません。また、ひどく良心があり自分がはっきりとゲヘナに行く罪人だと悟ったからでもないでしょう。

 私たちがイエス様が神であることがわかったのは、ただ神のあわれみであり、あらかじめ選ばれていただけのことなのです。信じるまでは、あるいは信じても聖霊をうけるまでは、この世の人とは、何も変わるところはなかったのです。ただ一つ、時が来た時、私たちはこの方が真実の神であることを信じたのです。それは自分の力ではないことは明白です。

 ただ、麦は麦の実を結びますが、毒麦は毒麦の実を結びます。実によって真か偽りかを判断できるのです。私たちが救われたのは、すべて神の御心に拠るのです。決して高ぶることの無いようにしましょう。

2023年4月16日 (日)

わたしを愛してる人

ヨハネ 14章21節   2017新改訳

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。

 ここでいう戒めとは、イエス様が答えられた「主を愛し隣人を愛する」ことに他ならない。特に隣人を愛することは具体的な事項であって、教会内おいてまず実践されていなければならないはずだ。しかし時たま、このイエス様の戒めと逆の場面を目撃するのはなぜだろうか? それは信じている土台に、聖霊の有無があるかどうかの違いだと私は思える。
 聖書のすぐ後には次のようにある。 わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。(ヨハネ14章16節)
 この助け主に依らないでは、私たちはこの世の人々となんら変わらない存在である。主イエスを主と告白しても、側の人間には判別できなくとも、神はその人の心をその人以上に知っておられる。神の判別は聖霊の付与となって明確だ。それは実とも呼べるものである。

 それに関連して、次のような誤解が聖句に関連して多くある。
 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(ヨハネ15章7節)
 このような聖句から、神はあたかもドラえもんのポケットのように、何でもお望み通り願いを叶えてくれる存在のように受け取られるかもしれない。確かに神に願い求めることは大切なことであるが、ただし、条件が一つ付けられていることを忘れてはならない。それは<わたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら>である。
 ここで«とどまっている»という意味の理解が重要である。これはぶどうの木で喩えられているように、実を結ばせるもの、つまり神からの聖霊を指しているとわたしは理解する。ここでも信じる者への聖霊の付与がポイントになっている。

 使徒時代は、信者が聖霊の注ぎを受けていることは特別なことではなくて、むしろ前提だったと言っていい。したがってマルコ伝16章の「信じる人々には」が「悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、蛇をつかみ、毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば癒やされる」のは、常に聖霊に聞き従って、御心通りに語るからであることがわかる。しかし聖霊が多くの場合失われてしまっている現代では、それが橋脚が脱落した橋のようになってしまっているのが現状なのだ。

 繰り返すが、本日のヨハネ14章21節も全く同様に、神を愛し、戒めを保って守り、その人を通してあたかも神が顕現されるよう なクリスチャンとは、聖霊が注がれているかどうかが決定的な前提であることを理解したい。

2023年4月 9日 (日)

レマ、サバクタニ

マタイ 27章46節  2017新改訳

わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。

本日は復活祭(イースター)の主日です。復活祭はクリスマスよりもはるかに大切な日です。聖書には核心的に書かれ、もし復活がなかったら十字架も不完全なものです。復活によって死への勝利と御霊のからだの希望、永遠のいのちがあるのです。あらためて復活を整理しましょう。
二千年前、神が受肉されて地上に人となって来られるという、空前絶後のことが起こりました。
イエスという名のユダヤ人として生まれ、聖書の預言をすべて成就されるにあたって、その数々のされた事柄を通して、神さまを具体的に知ることができるようにしてくだされました。
 残された四つの福音書、いわば四つの視点から、私たちは神を立体的にイメージできるのです。聖書を読んでイエス様が神であることが分かるなら、あらかじめ選ばれていた神の子です。
受肉さらた神の最終的な目的は、人間の罪を身代わりになることでその罪を赦し、聖なる神との交わりを回復させる事でした。聖霊様はその回復後の交わりの役目をになっておられます。

 神が人となってこの世に来られたということを疑う、つまりキリストの神性を信じない人たちがキリスト教誕生の初期から数多くいました。使徒信条は最も古く、かつ土台的な信仰告白ですが、キリストの神性について多くが割かれているのはこのためです。しかし疑った人々はことごとく失敗しています。映画にもなったベン・ハーの著者もそうでした。疑った結果、逆に真実であることを知りました。もし真実でなければ、今日でも何十億人も信じる人がいる世界最大の宗教であり続けることは歴史的にも、実際的にもあり得なかったことでしょう。

 さてこうして公生涯をでのイエス様を通し、私たちは神様というお方がどのようなお方であるかがわかる恵みを得ました。イエス様はピリポに向かって次のように言われました。
「わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。(ヨハネ14章9節)と、私たちは言われないようにしましょう。

 私には神様のお人柄は次のように見えます。まず、自分を「正しい(義)とし、他者を裁く」人や悔い改めようとしない高慢な人たち、例えばパリサイ人や律法学者、祭司長のような宗教的に指導者に対しては厳しく対応されました。その反面、意外と罪や弱さを自覚している人には愛とあわれみで対応をされました。社会的な弱者である貧しい人、差別されている人、病や障害がある人、性的な罪を犯している人などに対しては特にそうでした。
 聖書を読んで、イエス様が生ける神であることがわかるなら、なんと祝福でしょうか。私たちを愛してその独り子さえ惜しまれなかった神の愛を信じる方は、復活の恵みをすべて受けるのです。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3:18)

2023年4月 2日 (日)

死んでも生きる

ヨハネ 11章25節  2017新改訳

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

「死んでも生きる」とは、死後四日経ったラザロをよみがえらせる空前絶後の大奇跡の直前、主イエスがマルタの信仰告白に対して語られたことばです。「死んでも」とは肉体の死を指し、「生きる」とは「御霊のからだ」の意味です。血肉の体をはるかに超える永遠の御霊の体のいのちが待っているのです。「老い」とは血肉の体への希望を断ち切り、この後に来る素晴らしい神の備えを告げ知らせる恵みです。それ故に今、血肉のからだである私たちが、老いを感謝して受け、次への希望に満ちて歩む、その証人でありたいと思うのです。
 折しも本日から「棕櫚の日曜日」が始まります。私たちに十字架によって罪の赦しを与え、死から永遠のいのちを与えるためエルサレムに入場された日に当たる日です。

 当然ですが、血肉の命のある間に、罪がわかり、悔い改めて十字架を受け入れなければ永遠のいのちと御国に入ることは与えられません。老いはこの肉体が永遠ではないことを教えてくれます。若い頃には、永遠に続くと思っていた命だったのですが、そうではないのです。神を信じない人は健康教室に通い、健康食品に気を使い、肉体の維持に涙ぐましい努力をされますが、所詮それは無駄な抵抗です。老化とその先にある死は、時間の長短はあっても、確実に万人に来るのですが、そんな話題は「不吉」として避けようとします。こんな長寿の歌があります。「70歳でお迎えが来た時にゃ、ただ今留守ですと云え。80歳でお迎えが来た時にゃ、まだ早いと追い返せ。」これはほんとど笑い話ですが、神を信じない人々の死への恐れをよく物語っているではありませんか。
 本日の聖句ですが、意外かも知れませんが、主はマルタのこの信仰告白を引き出すために語られたことばです。
「また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」✝ヨハネ11章26~27節
 このように神の聖なる力やわざは、「決して死ぬことがない」、これは血肉の命のことでなく、永遠のいのちへの信仰を表す告白のもとに現されるのです。私たちはクリスチャンと称していますが、もし一般人と変わらないで死を恐れたり、あるいは衰えていく老化に逆らい若さだけにこだわるなら、みこころを損なっていると言えるでしょう。現実だけを見、信じる者に用意されている天の御国を待ち望んでいないからです。クリスチャンとは、リアルに次のことばを信じ、そのように待ち望んで生きています。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

2023年3月26日 (日)

聞き従いVS御心を行う

詩篇40篇7~8節  2017新改訳  

7 そのとき私は申し上げました。「今私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。
8 わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。

 本日のテーマをわかりやすい人物で例えるなら、アブラハムとダビデです。アブラハムはモリヤの山で、唯一無二の息子イサクを神に聞き従って捧げようとしました。私ならそれは絶対不可能です。「神様、お気は確かですか?」とか「いくら何でも約束のものを反故にするなんて」と拒絶したでしょう。しかしアブラハムは従ったのです。彼はまさに信仰の人、聞き従いの代表です。

 一方ダビデはみこころを行う人の代表です。彼は今に至ってもイスラエルの象徴とでも言うべきです。キリストはダビデの子孫から出ました。イスラエルの版図を最大限広げたのもダビデです。神殿建築こそ許されませんでしたが、ダビデほどひどく神から愛された人物はいません。たとえ部下を殺してまでその妻を奪おうとも、晩年にも民の数を数えようとも、普通なら断罪されておかしくないケースですが、ダビデは許され、神の祝福は変わることがありませんでした。

 どうしてでしょうか。彼は神を愛していたからです。神もまたダビデを愛しておられました。ダビデがみこころを行う者だったからです。互いの気持ちというものは、それが通じ合うためには一定の期間が必要です。一朝一夕では不可能です。相当期間ふれあい、交わっていなければなりません。ダビデは人の弱さから罪を犯しながら、即座に悔い改める二心のない者でした。そのような存在であったからこそ、神が愛され、いつも交わられていたのです。そしてみこころがわかる者とされたのです。
 そのことがよくわかる例は、契約の箱をエルサレムに迎えた時、その喜びを裸になって踊った姿にあります。彼は王の娘にして妻ミカルの、侮の目を意に介しませんでした。ダビデは人からどう見られようと、ただ神に対していたのです。このような人物を神が愛されないわけがありません。どんな過ちを犯そうとも、悔い改めるダビデを神は赦すのです。ダビデもまた、みこころを行うこと最上の喜びとしました。

 神に「聞き従う」者は祝福されます。しかし「みこころを行う」者は御国入りが確かなだけでなく、愛されて「わたしの兄弟、母」(マルコ3:35)と呼んでくださるのです。両者を分けるものは何でしょう。真に神が人に求めておられるのは、上下関係的なものでなく、対等的なものです。それは交わりが土台となります。交わりとは何でしょう?聖霊によるバプテスマ以降のものです。わたしの経験では、それを遮っているものは、神の都合やタイミングもあるでしょうが、ほとんどの場合、人にあります。私たち人間は自分が一番自分のことをわかっていると思っていますが、そうではありません。あなたを造られた神が一番わかっておられるのです。ですから、神との交わりを遮っているのは、他ならぬその人にあるのです。「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8)悔い改めるべきことが見当たらないような皆さん、この喫煙や飲酒、それが切れた時、もし不機嫌になるとしたら、その人には軽度の禁断症状が出ているのであり、霊的には世の霊、悪霊に支配されていると言えます。

 実際にはこのようなわかりやすい例だけではありません。不安とかコンプレックス、金銭への執着、いじめに限らず心に受けた傷、そのようなことがいっさいないという方はむしろ少数派でしょう。悪霊が巧妙に隠れて入り込み、その人を、世の中を支配しているのが世の姿です。今年のハリウッドでアカデミーの主要な賞を独占した映画、略称エブエブなど、その典型例です。映画ではマルチバースと聞こえはいいのですが、実際には現実逃避の変身願望と闘争に終始した子供騙しです。
 人が自分自身を、あるがままの姿をそのまま肯定し、自分を喜んで生きることはかなり困難です。欲望に支配されて満足することを知らず、その罪深い自分を、あるがままに受け入れられないのです。サタンはそうやって人間を疲れさせ、真に絶望させようとしています。この解決はただ一つ、十字架のキリストを信じ、キリストの愛によって自分と和解するしかありません。キリストに愛され赦された自分なら、受け入れることができるのです。これ以外に正しく歩める人の道はありません。もともと神は人を、エデンの園でのように、ご自分と親しく交われるために創造されているからです。イブやアダムと同様、罪がそれを妨げているのです。

 どうやって私たちは、愛してくださる神を知り、正しく導いてくださる神の声を聞くことができるのでしょうか?その第一は神のことばである聖書に聞き従うことです。聖書を神のことばと信じるなら、聖書の御ことばに聞き従い、御ことばを行なう者となるはずです。主イエスが命じておられるたった二つの命令とは、「何よりも神を愛すること」「隣人を愛すること」です。神を愛する者は、神を知り、御ことばを通して語りかけてくださる神の御心を行おうとします。ところが悲しいことに多くのクリスチャンは、口先では神を信じると言いながら、実際には信じた実が伴っていません。神を認めることだけなら、悪霊の方がはるかに優っています。そうでなく、信じた御ことばの実が実る者でなければ、真に救われているとは言えないのではないでしょうか。ポイントは聖霊の実です。

 また神は信じる者に直接語られることがあります。これは誰にでも、ではありませんが、聖書の主要な人物、アブラハム・イサク・ヤコブ・モーセなど皆、神の声を聞いています。聖書がある今の時代においても、神は変わらず語ってくださっています。これは御ことばの具体的語りかけであり、もちろんそれは聖書の範囲内で語られていることです。私たちは聖書を土台に吟味して、個人的に語られる神の声を受け取って行くのです。ことに気づけておられるでしょうか。神はあなたの横で、交わりの手を差し伸べ、それを待っておられるのです。

2023年3月19日 (日)

神の声を聞く

Ⅰサムエル 3章10節   2017新改訳

主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。

 喫煙や飲酒、それが切れた時、もし不機嫌になるとしたら、その人には軽度の禁断症状が出ているのであり、霊的には世の霊、悪霊に支配されていると言えます。
 実際にはこのようなわかりやすい例だけではありません。不安とかコンプレックス、金銭への執着、いじめに限らず心に受けた傷、そのようなことがいっさいないという方はむしろ少数派でしょう。悪霊が巧妙に隠れて入り込み、その人を、世の中を支配しているのが世の姿です。今年のハリウッドでアカデミーの主要な賞を独占した映画、略称エブエブなど、その典型例です。映画ではマルチバースと聞こえはいいのですが、実際には現実逃避の変身願望と闘争に終始した子供騙しです。

 人が自分自身を、あるがままの姿をそのまま肯定し、自分を喜んで生きることはかなり困難です。欲望に支配されて満足することを知らず、その罪深い自分を、あるがままに受け入れられないのです。サタンはそうやって人間を疲れさせ、真に絶望させようとしています。この解決はただ一つ、十字架のキリストを信じ、キリストの愛によって自分と和解するしかありません。キリストに愛され赦された自分なら、受け入れることができるのです。これ以外に正しく歩める人の道はありません。もともと神は人を、エデンの園でのように、ご自分と親しく交われるために創造されているからです。イブやアダムと同様、罪がそれを妨げているのです。

 どうやって私たちは、愛してくださる神を知り、正しく導いてくださる神の声を聞くことができるのでしょうか?その第一は神のことばである聖書に聞き従うことです。聖書を神のことばと信じるなら、聖書の御ことばに聞き従い、御ことばを行なう者となるはずです。主イエスが命じておられるたった二つの命令とは、「何よりも神を愛すること」「隣人を愛すること」です。神を愛する者は、神を知り、御ことばを通して語りかけてくださる神の御心を行おうとします。ところが悲しいことに多くのクリスチャンは、口先では神を信じると言いながら、実際には信じた実が伴っていません。神を認めることだけなら、悪霊の方がはるかに優っています。そうでなく、信じた御ことばの実が実る者でなければ、真に救われているとは言えないのではないでしょうか。ポイントは聖霊の実です。

 また神は信じる者に直接語られることがあります。これは誰にでも、ではありませんが、聖書の主要な人物、アブラハム・イサク・ヤコブ・モーセなど皆、神の声を聞いています。聖書がある今の時代においても、神は変わらず語ってくださっています。これは御ことばの具体的語りかけであり、もちろんそれは聖書の範囲内で語られていることです。私たちは聖書を土台に吟味して、個人的に語られる神の声を受け取って行くのです。

 

 

 

 

2023年3月12日 (日)

御霊に満たされなさい

✝ エペソ 5章18節   2017新改訳 

また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。

 酒は世の楽しみを意味し、一時のものであって、醒めた後は空しいものです。また酔ったが故に失敗することがどれほど多くあることでしょうか。そのようなものに頼るのは滅び行く人たちの業です。確かに聖書では飲酒を全面的に否定してはいません。しかこのエペソ5章18にあるように、基本酔うことを戒めています。この点我が国では酒は酔うために飲むのです。飲酒の背景がまったく異なるのです。御言葉の「そこに放蕩がある」とは酔うことを指しているのです。半砂漠地帯で乾期が長く続くこのパレスチナの地では生水が腐りやすく、葡萄酒が保存飲用として必用な事情もあるのです。
 特に個人的な体験から言いますと、かつて「酔うために」飲んでいた酒が、御霊に満たされること、つまり聖霊に触れられ信仰を増された時、酒を必用としない体に変えられ、いつの間にか数ヶ月も経っていたという経験をしました。御霊は、酒に酔うことをお嫌いなのです。御霊を受けた信者に酒は無縁のものです。逆に言うと、酒を必用としている限り、その人は御霊に満たされていないのです。

 さてこの御言葉、「御霊に満たされる」ということは、聖霊によるバプテスマを受けると言うことと同義です。確かにペンテコステの際、弟子たちは昼間から酔っているかのように誤解されました。確かに私たち人間というものは、すぐに醒める酒に空しさを感じます。最近発売されたマーリンさんの「獄中からの讃美」にもとづいた漫画「PRISON to PRAISE」が出版されたのを機に、その元本の方を読んで、この聖霊に満たされる有様に深く感動しました。ではこれからはその4章を中心に語らせていただきます。

  ここでは「今、信じなければ手遅れになる」という神からの一方的な語りかけに、マーリンは神の実在に震え、応じます。これは母や祖母の祈りが叶えられたとも、神の計画の御手が動いたとも読めます。マーリンが信じた時、御言葉が生きて語りかけたりし、牧師への道を歩むことになります。しかしクリスチャンの落とし穴とでも言うべきものにマーリンは陥ってしまいます。つまり動機は人助けしたいという純粋なものであれ、聖潔への道を自分の努力で掴もうとしたのです。

 しかし結論から言えば、それはまったく逆行するものでした。信仰の奥義とは、キリストが私たちの内に住んでくださり、内側から私たちを変えてくださることです。内住される神を信頼し歩んでいくなら、当然ながらその神と私たちが似たような者になるのです。

さらに神はへりくだられて、「わたしを用いてほしい」と仰っておられるのです。

 

 

 

 

2023年3月 5日 (日)

信仰の戦い

Ⅰテモテ 6章12節  新改訳2017

信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。

 私たちは肉と骨だけでできている存在ではありません。スポーツでもウクライナでの戦いでも実証されているように、正義と意思、心が実際には真のポイントです。人間はその霊・たましいで生きている存在なのです。そしてそれは血肉で表すことができないのと同じように、血肉が消滅しても存在します。ただ別の、二つに別れた永遠の世界に舞台を移して生き続けて行くのです。

 本日皆さんと分かち合いたいと願っていることは、ありのままの姿を確かめ、共に良い選択をし、そしてそれを妨げようとする闇の力に打ち勝って栄冠を得ることです。

 みなさん、自分を受け入れられない、愛せない人がいるのはなぜでしょうか? きっと要求水準が高く、ありのままの自分ではダメなのでしょう。子どもの時から勉強を「がんばれ、がんばれ。現状で満足するな、努力して引き上げろ」と金科玉条のように言われて育ったためでしょうか。しかし私は根本的には、その人たちは、親から愛されていたとしても、自分が愛されていると心から感じる経験が無かったのだと思います。私にも思い当たるので言っていますが、それは本人にとって不幸なことです。
 この愛の欠乏感の解消は、疑いようもなく真に愛されること、それが本人に分かることでしか解消されることはない、そう私は思います。これは肉の両親にとってはその人なりのやり方を大転換するものですから、よほどの指導的オーソリティがついていなければ不可能です。可能であるのは、その絶対的なオーソリティ、つまりその者の創造者、神にしかできないことです。神にはそれができます。神は全知全能であり、すべての人間の肉の親にはるかに優る、真の創造者ですから。神は人間というものが、同じ人間の見方・評価・価値観を基準にしてでしか自分を推し量れなかったのに対し、根本的に異なった目的を持っておられるのです。

 最近、自分の顔をアプリで好きなように変えて楽しむことから、最終的に整形にまで進んでしまうことが流行っているそうです。ありのままの自分を受け入れ、愛することができないようです。神の愛を知らず、自己中心の罪のただ中に居ると、私たちの魂・霊は惨めな状態になります。しかし神の愛、造られた方の意図、愛を知ったならそうではありません。

 神は人を愛し、尊重されるからこそ、自由意志を与え、その中から真の愛に目覚めるよう期待してくださっています。ただそれだけでなく、十字架によってはっきりと愛を示してくださいました。私たちは十字架を我がためと気づき、信じることによって自分自身の罪、自己中心の生き方の誤り、人間基準の見方や価値観から解放され、神に愛されている自分から始めて、その愛に満たされてはじめてありのままの自分を愛せるようになるのです。それは信仰からの平安であり、幸せです。

 

 

 

 

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