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誰が救われるのか

マルコ 10章26節   新改訳2017
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 

 常に人だかりがあったイエス様の周囲で、ある日突然、誰もが知る立派な服を着た一人の人が皆から跳び出し、イエス様に駆け寄って来たのです。思いあまっての行動に違いありません。誰もが知っていた有名人物、非常に富んだ人、品行方正で評判の良い若き指導者でした。その地方の貴族とか議員のような人だったかも知れません。押さえて置きたいことは、当時のユダヤで豊かさは神から祝福を受けていると思われていたことです。

 その彼がなんとイエス様の前に出て膝まづき、思いあまったように質問をしました。「良い先生、永遠のいのちを得るためには何をしたら良いのでしょうか」と。この青年には真実を見分ける目があり、良質で正しい問題で悩んでいたのです。
 イエス様はこの青年に対し、十戒の第五から第九までを守るように言われました。青年はそれらを皆守っていますと答え、それでも自分には永遠のいのちが得られる感覚がないことを言わずもがな語っているのでした。

 この青年に対し、慈しみながらもイエスは「あなたに欠けたものが一つある」、それは十戒の十番目、隣人愛ですとズバリ指摘されました。そして具体的な解決法、「全財産を貧しい人に施し、その上でわたしに従ってきなさい」とイエスは言われたのです。

 ところが若者は多くの財産があったため、この勧めに従うことができませんでした。青年は世の富を捨ててまで、永遠のいのちを得ようとは思わなかったのです。悲しみながら去っていく青年に対し、イエス様は嘆息して「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通る方が易しい」と言われたのです。

 栄枯盛衰、世でのどんな富も時間とともに必ず消え失せます。富は死後の世界にまで持って行けないことは皆知っています。また愛する家族が、財産の相続を巡ってどれほど骨肉の争いを繰り返してきたことでしょうか。世の富、財産は、神の国を目指す者にとっては躓きの元となり、足かせとなり、自身を滅びに至らせる呪縛ですらあります。

「らくだが針の穴を通るより・・・」しかしその絶望に対し、「神にはどんなことでもできる」と神は手を差し伸べられています。神の恵みとあわれみは不可能を可能に、奇跡を起こすのです。

 世と富みに依存する心も、悔い改め、神のあわれみにより聖霊のバプテスマを受けるならば、全く価値観が変わってしまいます。それは畑で宝物を見つけた人のように、自分の全財産を売り払ってでも、その畑を手に入れようとすることに似ています。これは神がされる心、たましい、霊の奇跡であって、人には不可能なできごとなのですから。

2019年8月 4日 (日)

安息日論争

マルコ 2章27~28節   
そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
ですから、人の子は安息日にも主です。  【新改訳2017】

 最高の律法である十戒の第4条は安息日の戒めですが、守り方の具体的な事柄について聖書は何も述べていません。そこでパリサイ人たちはこれを事細かな1500余りの決まり事に定め(口伝律法)、その決まり事を守ることで安息を守ったこととしていました。

 今も変わらない安息日の規定を見て行きましょう。医学的な配慮は、生命が危険にさらされている時にだけ受けることができました。たとえば出産中の婦人は安息日に助けてもらえました。しかし、骨折や捻挫は生命に関わらないので治療は受けられません。指の切り傷は手当をしないで、ただ包帯を巻いて現状維持だけがゆるされたのです。

 さて舞台はカペナウムの会堂です。ここにサンヒドリンなどから遣わされた律法学者たちがあたかも裁判官のように上座に陣取っていたことでしょう。実際に行かれた方はご存知でしょうが、ペテロの家のすぐ近くにあります。問題はおそらくは周到に用意された人・・・・片手が萎えている人が居たことです。彼らの律法の規定によれば、命に別状無く、安息日に癒やされなければならない性質のものではありません。ですから彼を癒やすと、明確な安息日違反となり、死に当たる罪となります。これは実に見事な罠でした。

 イエス様はそのすべてをあらかじめご存知でありながら、堂々とこの会堂に入られ、きっぱりと対処をされました。彼を会堂の真ん中に立たせ、「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことか、それとも悪を行うことですか」と問われたのです。命に代えても、律法の決まりを守ることで天国に行けると思っている律法学者は、この問いに答えることができません。守ることだけがすべてで、神の御心なんて考えたことすらなかったのです。

 続いて「いのちを救うことですか、それとも殺すことですか」という言葉が続いてます。律法の規定では安息日に、いのちの危険があった場合にだけ、救うことが許容されていました。しかし彼らは片手の萎えた人への愛は全くなく、ただ安息日違反だけを確かめに来たのです。安息日を設けられた神の御心など、想像することができなかったのでした。

 主イエスはこの対応を見、最後に怒って彼らを見回し、その心のかたくななさを嘆き悲しみながら癒やしを行われた。神を信じ、礼拝する者は人の作った規則や規律にとらわれない。その心は「かみのあわれみによって受けた愛とゆるしと奉仕」である。そのことを「小さい者たちの一人に一杯の冷たい水を飲ませる人(マタ10;42)」とたとえて主は語られているのです。片手の萎えた人をイエスを試す自分たちの道具に用いるパリサイ人たちこそ、弾劾され、裁かれなければならない人たちだったのです

2019年7月28日 (日)

愛に応える

申命記6章5節   

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。   新改訳2017 

私たちの愛と神の愛とは同じではない。神の愛を知ることは、価値観と生き方を180度変えるものだ。

  ヘレン・ケラーとサリバン先生の感動的な話の1シーンに、ヘレンがwater(水)がわかった時の話があります。どんなに単語を単に覚えても、その言葉の意味を把握していなければ生きた使える言葉になりません。
 こんな例があります。有名なヘレン・ケラーとサリバン先生の1シーンです。ヘレンに水を教えるのに、サリバン先生はいろいろな水に触らせました。私の想像ですが、体を洗う湯、広大な湖、冬はひとかけら氷だったかも知れませんが、ヘレンに触れさせたのです。そのたびに「water」、これも「water」と教えました。1:1なら分かり易いのですが、水:いろいろな水となると、混乱を招きます。しかし本当に水を知り理解するために、サリバンはあきらめませんでした。ついにヘレンは、ある時「water」すべてに共通する特性に気づき、waterがわかったのでした。

  神様の私たちへの言葉と愛も、これに似たところがあります。神は私たちを御手で守りながらも、私たちの真実な姿、それは当初は受け入れること、直視することができない姿ですが、いろいろな問題や試練を通して教えてくださるのです。ただ、それを受け入れるには時があります。時が熟さないとかえって反発して「豚に真珠」となりかねません。放蕩息子のたとえのように、時が来ての悔い改めは、自分の姿を正しく知って、その事実の上に立った時にできることなのです。

 逆のケースを考えましょう。「神は愛なり」という言葉はクリスチャンならどなたでも知っている言葉です。しかし本当の愛は、最善を願う心です。クリスチャンの中でも、かなり自己目的実現の為に信じる、祈るという方が多く、自分を無にして、神の御心だけを願う祈りをする人は少ないのです。自分の願ったことが実現しないと、神は居るのだろうか?と問い続ける有様です。この状態でのクリスチャンに悔い改めは不可能です。

 神は私たちをあわれんでくださいますが、最善の神の計画で愛して下さっているのです。また最善の結果になるように、神は私たちが自分の計画を捨てることを、忍耐強く待っていてくださっています。真に私たちがへりくだって、主を主とし、自分はそのしもべであることに気づくためには、試練の道を通るしか方法はありません。ですから試練は神の愛です。自己中心を悔い改めて、神の御心一番に生きること、それは肉の命にまさる真のいのちを得させようとされる神の愛に答えることであって、人生最大の宝そのものです。

2019年7月21日 (日)

二つの宗教

マタイ15章8-9節    新改訳2017

『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』 

 ユダヤ教的な背景を見なければ分からないことが多くあります。これはその一例です。辺境の地ガリラヤでのイエスの驚くべき奇跡と癒やし、その宣教活動に対し、国中の律法学者、パリサイ人がイエスの元に集まって、メシアかどうかの吟味をしていました。中風患者の罪の赦しと癒やしは、まさにその時、彼らの目の前で行われたことでした。

 次の段階としてパリサイ人らによる審問の段階があり、その代表例が手を洗わない理由でした。「パン(食事)を食べる前に手を洗わない」ことは、現代の私たちにとって衛生上の習慣に過ぎませんが、当時のパリサイ人にとっては、信仰者であるか否かの問題でした。
 どうしてでしょうか。旧約聖書には「食前に手を洗う」明確な規定はないのですが、体液の漏出などを「汚れ」(レビ13章)とする概念があり、それは「伝染」するとされていました。また食べ物に関しても規定があり、常に祭司によって「清められる」ことが必要でした。そのため聖書にはなくても、事細かに「汚れ」を防ぐための規定集、口伝律法が作られてきました。そして実際的には聖書よりもそれを具体化した口伝律法の方を守ることが優先されるようになり、義とされ、天国への保証と化していました。つまり外面的な形式を守ることが信仰そのものでした。「手洗い」はその最たるものだったのです。

 この質問に対し、イエス様はその偽善の核心を突いた返答をされたました。それが十戒の「父と母を敬え」をないがしろにする彼らの口伝律法でした。この重要な戒めを、パリサイ人たちは、一度神に献げると誓ったものは、親の扶養のために渡さなくてもよいという抜け道を作っただけでなく、後に子が悔い改めて親に報いようとしても、律法(民30:2)を盾にこれを許さなかったのでした。これは巧妙な十戒違反だったのです。

 7節の「偽善者たちよ」とのイエスの言葉には、こうした背景があったのです。パリサイ人たちは「父と母を敬え」の神の御心を無にし、単に「汚れ」とそれに伴っての形式的な宗教に堕落し、自分たちに利のあるように律法を利変えて作り変えていました。これに対しイエス様は手を洗うかどうかの問題ではなく(20節)、神の御心を行うことが義とされることだ断じられたのです。

 この外面的、形式的な宗教観と、内面的な霊性を重視する宗教観とでは、根本的な違いと対立があって、全く相容れない存在です。私たちの中にも、外面的な宗教は日本の新党のお祓いなどと同一のもので、パリサイ人のパン種として、現代の私たち自身にも混じっていないか注意する必要があります。「十字架のネックレスをつけないと落ち着かない」とか、どうしてもゆるせない人が居るとか…etc。常に聖霊に祈り聞き従い、御霊によって歩み続けることだけが、主に喜ばれる道です。

2019年7月14日 (日)

どちらが易しいか

マタイ9章5節   
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。   【新改訳2017】 

イエスは天井から吊降ろされた中風の病人に「あなたの罪は赦された」と言われました。この時、ペテロの家にはイスラエル中の律法学者が詰めかけてすし詰め状態でした。

 このような国中の律法学者が集まった中で、教え癒やすのは、前職が教師でしたので、これは授業参観よりもはるかにきつい、多くの同業の教師の前でする研究授業に似ています。違ったとすれば彼らからすれば、イエス様を当時の高弟ヒレル門下でも何でもないただの田舎出なのに、おどろくべき不思議を行って大衆の人気を取っている、もしかしてメシアかも知れないが胡散臭い人物・・・・そんな警戒心やある意味、「この目で真贋を確かめてやろう」的な興味があったことでしょう。

 その中でイエス様は堂々と教え、聖霊によって病いを癒やしておられました。そんな時、突然天井に穴があき、光が射し込み、中風の患者が降ろされたのですから、きっと律法学者たちはみなびっくりしたはずです。今風に言えば「ここまでするかぁ。で、イエスとやらはどうするんだ」という感じでしょうか。
 
 さてそこで、誰もが次のシーンとして想像するのは<癒やし>ではないでしょうか。ところがそうではなく、「あなたの罪は赦された」というイエス様の宣言でした。律法的には「罪を赦す」ことは神にしかできないことであって、当然その場に居合わせた律法学者たちは、「冒涜」と感じたことでしょう。これは律法的には正しい判断です。ただし、イエスが神かさもなくば、本物のメシアであれば別です。このような状況を考えれば、イエス様は、「自分がメシアであり、神であることを明らかに宣言する」意図的な対応だったと言えます。

 寝たきりで吊り下ろされた人に、イエス様はなぜ癒やすのではなく、「罪の赦し」を宣言されたのでしょうか。それは罪の赦しが根源的なものであり、癒やしに優るものだったからです。どんなに癒されても、もし罪が赦されていなかったらゲヘナに落ちるのです。
 また罪が赦されれば、必ず中風にも肉体上の癒やしが現されて行くことでしょう。しかしそれはある意味、二次的なことです。ですがパリサイ人律法学者たちに(彼らの目を醒ますために)、イエス様の神性を証明する即効の癒やしをされたのです。

 これがこの記事の概要です。以後、当然ながら国の宗教的指導者たちは、イエス様を殺そうと対決姿勢を強めることになり、イエス様も後に残す弟子たちの訓練を本格的にされることになります。

2019年7月 7日 (日)

悔い改めなさい

マタイ 3章2節 
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。   【新改訳2017】

「愛の警告」という興味深いイラストを以前に見つけました。なぜ絵の右の人たちはFalse=間違った受け取りなのでしょう?悔い改めを拒んだから・・・その通りですが、その訳を考えますと、一つの見方として、自己中心な信仰だったと言えます。Photo_20190713231901だからヨハネの愛の警告=悔い改めができなかったのでしょう。
-「主よ」の意味 -
 神は御子の命をもって私たちを買い取ってくださり、信じる者すべての罪を赦してくださいました。ですから、信じた者は購われており、その命も神が所有される存在となりました。ですから私たちはすでに神のしもべ、奴隷ですので、主人に対して「主よ」と言うのです。
 ところが右の絵の人々は、神が自分の主であることを拒否するので、False(間違っている、あるいは偽り)のクリスチャンだとされているのです。
- 恐れるクリスチャン -
 一方で、どうしても不安や恐れに囚われやすいクリスチャンがいます。M・キャロザース師は「恐れと信仰とはまったくの正反対のもの」で、聖書で365回も「恐れるな」と書いてあるとその著「恐れからの解放」(p9ー10)で述べています。恐れるから信仰が無いなどとは言っていません。ではどうしたらよいのでしょうか。これが本日の主題です。
 - 赦され感 -
 十字架を信じた時点で、私たちの罪はすべては赦されていますが、それなのに、恐れの悪霊に立ち向かえない、あるいは受け入れてしまうには原因があります。この原因の一つに、赦されているのにその実感の乏しさ・・・・言わば「赦され感」が薄い所に原因があるのではないかと思います。自分はまだ罪があると感じる所に悪霊がつけ込んで来ると・・・・

「赦され感」の無さの原因をたどっていくと、罪を告白し信じたはずの自分が、実は本当の自分ではなかったとしたらどうでしょうか。それは自我を正しく認識できていない場合に、無意識の内に生じます。異なる自分の罪が赦されても、ピンと来ない、赦された実感がしないのは当然だからです。
 神は全知全能の神です。真実の自分の姿はどんなに罪あるものであっても、神はすべてをご存じであったのです。神の愛を信じましょう。恐れ、隠す必要は全く無いばかりか、隠している方が神を悲しませているのです。本当のあなただけが、恐れを追放します。

2019年6月30日 (日)

聖書と信仰

Ⅱペテロ 1章20~21節
ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。                       預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。
   【新改訳2017】
私たちの群れは、キャンプやネットを介し、横の連携は非常に進んでいます。ただ縦糸に横糸が織られて布ができるように、縦糸も大切です。私たちの歴史は1984年4月前後からよく語られていますが、さかのぼって私たちの教会が使徒の時代から今に至る、聖書に最も忠実な教会であることを確認しましょう。

キリスト教会の歴史は使徒の時代以降、大きく四つの時代に分かれます。どの時代でも霊的な教会から始まり、聖霊を失ってすたれ、また聖霊の新たな流れが起きる繰り返しです。

まず、初代教会は私たちとまったく同じような聖霊のバプテスマや異言などの聖霊の賜物を用いる教会でした(使徒8:14-17,19:1-7)。ところがローマ帝国の公認となり、国教となって<1>カトリックと正教という千年にわたる東西教会時代、ひどく形骸化が進みました。そのため、聖書の姿に帰ろうと16世紀に<2>プロテスタントが誕生したのです。そのプロテスタントも当初の聖書中心から逸脱し、次第に進化論を受容し聖書を人間的な理解で解釈する教会が増えてきました。そこで「聖書は神の霊感によって書かれ、誤りのない神のことばである」とする<3>福音派が分かれ出て、原典に忠実な新改訳聖書までできました。私たちのP牧師はこの福音派で信仰を持たれたのです。

しかしこの福音派も聖霊の働きに関しては不十分でした。聖霊の賜物などは「すたれた」と主張しますが、その根拠とする1コリント13:8以降の「すたれ」は、「完全なもの」「顔と顔を合わせて見る」とあるキリストの再臨のことを指しているからです。つまり聖霊のバプテスマや、聖霊の賜物は今もあるとしているカリスマ派の教会が初代教会に最も近いのです。
この流れは1906年、ロスのウィリアム・J・シーモア牧師によってはじまったリバイバル運動が起源であり、K・クールマンへ、さらに日本の新井牧師に、最終的にはその副牧師であったP牧師の1984年へとつながって今日があるのです。

教会の歴史を見ますと、教会が成長し、成熟すると聖霊が失われて形骸化し、それがまた新しくされるというサイクルがありました。今私たちはその最終ランナーとして召されています。この重大な責務を今自覚しなければなりません。また神は必ず私たちを通してみ心のリバイバルを起こされることでしょう。ですから私たちはいっそう聞き従いを強め、用いられるよう祈って行かなければならないと示されるのです。

2019年6月23日 (日)

恐れとゆるしについて

ガラテヤ 2章19~20節  

私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。   【新改訳2017】

<十字架なかりせば、私は絶対にゲヘナ行き>と確信を持っておられる方、いませんか?自分は絶対に地獄のゲヘナ行きだった、と知っている方は、それゆえに、神の愛とあわれみの大きさを骨身に沁みて知っていると言えます。自分の真の罪深さが分かっているかどうか、これが分岐点です。ですから「つぶれてはらわたが出たゴキブリ」と語られるP牧師を、野つぼの中のウジ虫と思っている者として、親近感と尊敬の念を持っています。

「もはやわたしが生きているのではない」この聖書箇所は本日の中心です。クリスチャンにもし、恐れるということがあるなら、それは神の戦士、証人としてはふさわしくないでしょう。注意深くしたりの小さな恐れではありません。恐れるなら退かされてしまいます。麻薬のように私たちができないことの言い訳と正当化に恐れを理由にします。ですから聖書では多くの箇所で、私たちに「恐れるな」と警告しています。
ただし、恐れたからと言って神が私たちを見捨てたりすることはありませんが、御心ではありません。では恐れる原因は何でしょうか。

このすべての原因に私は、罪の赦しを無力化させるサタンの策略があるとみています。十字架は全てを赦しているのです。それを感じさせず、まだ罪が残っているかのような誤魔化しにあって、罪の恐れに取り残されているのではないかと思うようになりました。

運転している時、パトカーを見つけたとします。違反していない時は全然平気ですよね。「ああ、ご苦労様」って。しかしたまたま違反状態にある時には、見つからないかと恐れがどーっと湧き、ビクビクします。それと同じように、実際は赦され罪から解放されているのに、まるでそうでないかのように感じているからこそ、恐れが湧き、恐れに支配されて行くのです。当然ですが、恐れは神から来ていません。

それではどうしたらよいのでしょうか。自分の真の罪がわかっていなければ、当然ですが、赦しも的外れで力の無いものです。罪の告白も形式的な、中身のないものです。十字架はこの私の罪のためであったと真の告白がポイントです。心から「あーっ、自分はゆるされたぁ。解放された!十字架は私のためでした。神さまぁ、ありがとうございます。本来地獄行きの者ですが、どうぞこれをあなたに献げさせてください。私は死んでこれからは、あなたのくださったいのちに生きます」と告白できます。ですからお勧めします。本当の自分の姿を神さまによって知らされ、悔い改められますよう祈ってください。試練はおそらく、このためにあります。感謝しましょう。

2019年6月16日 (日)

御座のまわり

黙示録 4章3節   新改訳2017

その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。

 私たちクリスチャンの行き先について、黙示録ほど述べている聖書箇所はありません。しかしそれでも解釈に混乱があり、おどろおどろしい話、おとぎ話、黙示文学として見られて来ました。黙示録の正しい理解には時が必要で、今、その扉が開かれて来ました。

ヒロシマ・ナガサキへの原爆、1948年イスラエルの復興、EUの国家的な成長形成、最近ではロシアとイランの歴史的な関係進展など、現在は黙示録が現実化し、具体的に読み取れるようになりました。この書はまさに現代に生きる私たちのための啓示の書なのです。

さて黙示録では神の国の全体的な様子は21章の後半に記されており、この4章ではその中心部、主に御座のまわりのことが述べられています。御座は都の中心にあり、御座からの光で世界は光で覆われ闇がありません。都自体が神殿と化しているのでしょう。4章で描かれた情景で私が感じるのは、光の世界であり、中でも御座の周りがエメラルド色の虹で光り、御座の神ご自身も変化する光の中におられることです。全体がガラスのようなこの御座と都では、御座と横にキリストの座があり、聖霊なる神が七つのともしびとして輝いています。そのような光景を目の当たりにして、畏れと同時に感激し、狂喜しないクリスチャンがいるでしょうか。私は卒倒するほどになると思います。

この聖所に24人の長老と、四つの生き物とが登場します。12はイスラエルの全部族んも数ですが、今のイスラエルには北の十部族がいません。ですからこれにはいろんな解釈が可能ですが、12使徒の信仰に基づく新しい契約の全クリスチャンを指すと思われます。
四つの生き物に関してはもう少し明確です。エゼキエルにも現れたこの動物は神の全知をあらわす存在で、地の四方、つまりすべてを知り伝える大天使でしょう。現在はグーグルで地球の隅々まで見ることができます。がしかしこの四つの生き物はそんなレベルをはるかに超えた驚くべき天的な御使いであって、地球上の数十億の人々の髪の毛の数から心の隅々までを知り、その情報を神に伝え、異なる顔が示すように互いに完する情報のセンターではないかと思わされます。この推測ももちろん確証はありません。一切は実際に天に行ってわかることでしょう。それが私の楽しみでもあります。

私たちは血肉の死を怖れません。なぜなら血肉のからだがなく、御霊のからだで天の御国がわかるからです。その天において神と見え、本当の使命と喜びが始まります。その必要最低限なことを、この黙示録4章が教えてくれています。神に期待し、神に感謝します。

2019年6月 9日 (日)

ありのままに見る

Ⅰヨハネ 3章2節    

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。  【新改訳2017】

<怖れと安心> この聖書箇所で「キリストの現れた時」とは再臨、あるいは携挙の時です。つまり御霊のからだになってからでないと、キリストをありのままに見ることはできないのです。血肉の体を着た今のわたしたちは、ありのまま見えなくても、全知の神は私たちの良いも悪いもすべてを知っておられる(ありのままに見ておられる)、その上で私たちを子とし、愛してくださっている、これが難解な同3:10-20の「20たとい、自分の心が責めても、19神の御前に心が安らかにされる」意味でもあります。すべてを知っておられるが故に怖れて神の前に出られない者と、すべてを知っておられるが故に、それでも揺るぎなく子としてくださる神を信頼し、父の許で心が安らぐ直ぐな者、この違いは非常に大きな者です。畏れはあっても、真のクリスチャンに怖れはありません。さて、あなたはどちらの側のクリスチャンでしょうか。

<ありのまま・・・考> 私たちが賛美している歌集の中に「ありのままのあなたでいい」と言う歌詞があります。この「ありのまま」ということをばを、ただ単に「開き直った感じで、現状通り今のままでいい」と受け取られては、それは違うと私は思います。
そうではなく正しく自分の姿を知ること、気づかされることが前提だと思います。実は多くの人が感じていることは、一番自分のことを自分がわかっていると思っているのに、自分自身の真の姿が実際ははわからないことです。胃が痛いと思っても、実際は膵臓や脾臓、胆嚢だったりします。自分の性格は○○だと思っていても、それは思い込みの間違いだったり、○○ありたい、○○あらねばならないと願っていたもので、実際とはかなり違うことの方が多いのです。その他、自分を守ろうとして欠点を正当化したり、心の病や障害にも影響されるのです。ある意味、自分のことが世界で一番わかっていないのが自分だと言えなくもありません。

<ありのまま> 私たちが神を知ることができるのは、神と似た形になった時ですが、神の方は私たちの真の姿を知っておられます。その上で愛してくださっています。私たちが試練や困難に出会い、何一つ弁解できない自分の罪深さを知った時、その時、確かに自分には絶望しますが、神に希望を見出すことができる大チャンスです。実に罪深い自分の姿を見たその時、自分に死に、自分を神に献げてしもべとなり、神のものとされることができます。悔い改めのどん底の中で、次のような声が響きます。「ありのままでよい」と。ですからこれは人間が言う言葉ではなく、神が私たちに語ってくださる言葉なのです。「ありのままに見た」自分に絶望したので、神があわれんでくださり、神と交わる者、聖としてくださったのです。

ですからみなさん、実際どうにもならない自分自身から解放され、神のものとされることによって、罪深い自分自身から解放されていただきたいと思います。神の内にあれば、そこは真に自由があるのですから。

2019年6月 2日 (日)

聖霊のバプテスマ

使徒1章8節    「聖霊のバプテスマ」

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。     【新改訳2017】
 
聖霊のバプテスマを三つに分けて語らせていただきます。一つ目は「どういうものなのか」ということ、二つ目は聖書的な根拠を、三つ目は私の個人的な聖霊のバプテスマ観です。
まず聖霊のバプテスマとは、生きて働かれる神、聖霊様のリアルな体験です。ネットのはやり言葉、「リア充(リアジュウ)」だと言って言い過ぎではないでしょう。また人生を一変させる体験であって、自分の価値観にコペルニクス的転回が生じます。聖霊のバプテスマ、それは神のものであって、個人の心をすべて知られているあわれみ深い神の最善のタイミングで起こります。それまで知的な理解でしかなかった神を体験し、まさに「知った」瞬間ですから、祈ってもらって「自分が聖霊のバプテスマを受けたかどうか、よくわからない」なんてことはあり得ない種類のものだと私は思っています。  

ですから願われ続けること、祈ってもらうことは大切ですが、基本それは神のものであって、自分の時間や都合で得られるものではありません。どんなに祈ってもらっても、聖なる神との間に、気づかない障りが自分にある場合もあるからです。忍耐し、神に願い続け、愛なる神が取り扱いを持って必ず与えてくださることを信じましょう。

さて聖霊のバプテスマの最大の誤解は、聖霊の内住と同一視することです。教会の誕生日でもあるペンテコステの日には、すでにイエス・キリストを信じていた人々に聖霊のバプテスマが注がれました。この後ピリポのサマリア宣教において、多くのサマリヤ人が救われましたが、エルサレム教会はペテロとヨハネを送って、12人のサマリヤ人に聖霊のバプテスマを受けさせています(使徒8:14)。エペソに着いたパウロは、アポロの宣教で信じた人々がヨハネのバプテスマであることを知り、聖霊のバプテスマを受けさせました(使徒19:1-2)。このように、信じバプテスマを受けての聖霊の内住と、聖霊のバプテスマとは、通常は時間差があります。信仰において、初代から水のバプテスマだけでは不十分だと認識されていたのですが、それは今に至るまで全く変わっておりません。

「カリスマ宣言」では聖霊のバプテスマ、証人としての力を(1)信仰が堅くし、(2)メッセージや証しを通して主の力が現れ、(3)しるしと不思議のわざという神の道具が用いられると紹介しています。また(3)の九つの聖霊の賜物に関しては、教会の管理と吟味の中で運用されるべきものであると明確に規定されている通りです。

さて個人的な証しですが、この重要な聖霊のバプテスマは、言わば<神さまとの開通式>です。トンネルでも何でも、開通式は盛大にお祝いします。そんな祝福に満ちたものが聖霊のバプテスマだと言えるでしょう。お祝いなのにひっそり、当の本人がよくわからないなんてことはあり得ないと私は思います。私の場合も光に溢れ、空中に引き上げられたような、次第に減衰して行きましたが、三日間の素晴らしい体験でした。もちろん人に過ぎない存在が、この機会だけで神が全部わかる、なんてことはおこがましいことです。ホンの一部だけでしょう。それでも神を体験し、自分の人生における神がこれまで導かれ、忍耐されていた御手の軌跡を見、自分の価値など消し飛んでしむような圧倒的な神の偉大さ、聖、愛を知るのです。聖霊のバプテスマを受けた方は、即座に自分を投げ出してささげ、何とかしてみ心に用いてもらいたいと願うようになるはずです。

忘れてはならないことですが、自分の場合、神が触れてくださったのは、徹底的に自分の罪深さ、その醜さを知らされ、これまでにない悔い改めをしていた時でした。さすがにその時は、気づかされた罪深さに、初めて礼拝にさえも出るのに困難を覚えたほどでした。自分の真の姿を知って絶望した、まさにその時、神が触れてくださったのです。ですからその瞬間、私の生きる希望は神になりました。聖霊のバプテスマは、私の場合、このまず神が突然触れてくださり、語りかけてくださる開通式の体験の後に受けたのでした。

2019年5月26日 (日)

信仰の真価が試されるわけ

エペソ 6章12節   

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。   【新改訳2017】

 私たちの体は、神による万物の創造の最後に、ご自分の似姿に人を造り、すべての被造物の上に立つものとして置いてくださったものです。人は被造物という「物質」であり、それに「命」を与えられたものですが、さらに唯一「霊」をも併せ持つ究極のハイブリッドの存在です。霊的な被造物では他に天使がいます。しかし天使は物質と命を持たず、従って人間に及ばず、第1に神、次に人間に仕える存在なのです。
 そんな人間が本来の神のみ心通りに救われるために、神は独り子イエス様を受肉させ、十字架と復活の救いの道を開いてくださいました。愛の極まりを人間は受けています。

 人が神の子の十字架と復活を信じるとはどういうことでしょうか。このままでは必ずゲヘナに行くしかない自分の罪を認めるということ。つまり第1の死である肉体の滅びの後、残された永遠の霊の行く先がわかって、十字架の愛と救いに自分を信じ委ねる・・クリスチャンになることです。これは霊魂の不滅という真理に気づいていることがすべて前提のことです。そうでなく、教会の中には、まるで何かの保険のように、あるいは御利益的な自己目的のために表面的に信じた人たちもいます。その人たちもそこから脱皮して、真の信仰を持つことも多いのですが、その真価は第1の死で黒か白か、実質が現れることになります。霊魂の不滅と深刻な自分の罪の覚醒、これが信仰の土台です。

 繰り返しますが人に必ず訪れる第1の死、その時こそ信仰の真価が試される時となります。死を恐れる人は、自分の第2の死を予感するからではないでしょうか。信仰があれば真逆です。「これで自分はこの肉の縄目を脱ぐことができて、天の父の御許にいける」という解放の喜び、天への凱旋で喜びが湧くのです。ですからクリスチャンの葬儀は、一時的な別れで悲しむことはあっても、本来、天国とやがてそこで再会する喜びがあります。「聖者の行進」は埋葬を終えて帰る時の曲ですが、悲しい曲だとは誰も思わないでしょう?
 クリスチャンの死、これは信仰の真価が試される時です。どんなに篤信の信徒、教会での奉仕者、長老であろうと、その臨終に当たって死を恐れるか、または喜んで行くかは、命をかけたこれほど明確な証しはありません。私たちの戦いは血肉に対するものです。

 ここで一つお勧めをします。初代では当たり前であった聖霊のバプテスマを、クリスチャン全員が受けてほしいと私は願っています。もちろんこれはみ心しだいであり、そのためのHow-Toなどあるわけがありません。しかしこころから願い、求め続けてください。神はすべてこころをご存じです。信仰の真価に対し、明確なアドバンテージが聖霊のバプテスマにはあります。このことを次回さらにお証しできたらと思います。

2019年5月19日 (日)

聞き従いのわけは

詩篇 40篇8節   新改訳2017

わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。
 
 クリスチャンにとって、神に聞き従うことは最も大切です。ですが聞き従いにも、恐れから従う人と、神を愛して従う人とがいます。恐れて従うのであれば、その場その場のものですが、愛して従う人は神に近づこうとし、従うことそのものが喜びなのです。

 P牧師が良く述懐しておられますが、教会の誰よりも熱心に教会に出席し、奉仕しても、そんな自分よりもなぜか神に愛され、祝福される人が居ると。聖書ではダビデが該当するタイプではないでしょうか。ダビデは歴史上、イスラエルを最大版図にした英雄であり、イスラエルの国旗にもなっている人物ですが、逆に彼ほど問題を起こした人物は少ないのです。姦淫し殺人までしたバテ・シェバの一件、息子アブサロムに反逆され、妻たちを残して都落ちを余儀なくされたこともあります。

 しかし彼には神を愛する真摯な心がありました。神をなんとかして喜ばせようとしたのです。ですからどんな失敗があっても、神は彼を忘れず、祝福し続けたのです。どうしてでしょうか。神もまたダビデを愛されたからです。愛には、愛を、の原則があるからです。

 私は小学校の担任を長く経験しましたが、児童たちに二つの傾向が見られました。それは恐れて従う子どもと、恐れずに進んで教師に近寄って来る子どもです。恐れて従う子どもたちは確かに従いはしますが、それは教室という私の管理下にある時だけのことでした。しかしもう一方の恐れない子どもは、休憩時間になると教師のところに来て、あれこれ言いたいことを言います。「先生、あれは難しかった」とかの評価をずけずけ言ったりもします。時に山積みになっている教師の机上のノートを整理を手伝ってくれたりもします。この子どもたちは先生を恐れてはいません。教師に興味があり、親しみを感じ、近づいて会話を楽しむのです。すると互いの心がわかり、育まれるものが生じます。信頼と愛の中で育まれる最も理想的な関係、聞き従いではないでしょうか。

 このように、同じ聞き従いでも、神との距離が大きなポイントになります。神は同じように私たちを愛したいと思っていらっしゃいますが、前述のどちらがより多くの恵みを受け取っているか、お分かりでしょう。神を愛したダビデは、契約の箱を都に迎える時には、王の威厳も何もなく、妻に軽蔑されようと、ただ子どものように喜んで裸で踊りました。全知の神は私たちの稚拙より、私たちの心を実に喜んでくださる神なのです。

 私たちも、恐れからではなく、私たちを多く愛してくださった神を愛し返しましょう。

2019年5月12日 (日)

教会~召された人々

Ⅰコリント 1章2節     新改訳2017

キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

 昨日の聖書箇所、へブル2章12節で「会衆」とありますが、別訳で「教会」でした。英語ではアッセンブリーと言い、集まり、集会のことです。一般的なChurchはギリシャ語の エクレシアecclesiaが語源ですが、エクとは~からという意味、レシアとは=呼ぶと言う意味で、アッセンブリーと同様、「(神)から呼び集められた人たち」という意味です。旧約聖書の時代から、教会とは「人々の集まり」という意味だったのです。

 ところが私がキリスト教に接し始めた十代の頃から、私にとって教会とは建物である会堂のことでした。屋根を消失した荘厳なノートル・ダム大聖堂から、森の中の小屋のような教会に至るまで、十字架が掲げてある所、そこが教会だと思っていました。日本では神社仏閣の境内・建物等が信仰の対象になるので、これは日本人の自然な感覚でしょう。しかしこれは拭い取らなければならない認識です。それだけでなく、この教会堂があることによって、実は大きな問題があることをクリスチャン自身ですら気づいていないのです。

 日本では宗教法人法という法律があります。会堂など税金が免除される代わりに、責任を負う3名以上の役員と、財産管理と教会員数などの報告する内部規定が必要です(3章18,25条)。その意味もあって、教会では洗礼証明書とか転会状とかを必要としているのです。特に問題なのが3名以上の教会の根幹とも言える役員会です。私は立派な会堂を持つ大きな教会で役員を二十年しましたが、役員会はまさにこの世そのものであって、信仰とか霊性についての話は皆無でした。仕事の押し付け合い、様々な対立、これが教会だろうかと目を疑う連続でした。

 先週学んだように、教会はイエス様が「(ペテロの告白した)岩の上に」建てると言われたものです。その後、約束通り、十字架の死と復活によって死の力を滅ぼされ、教会はペンテコステの聖霊の注ぎによってスタートしました。聖書的には教会の頭はキリストであり、教会はそのみからだです。教会には設立の当初からキリストの霊が満ちているものなのです。その教会が、聖霊と告白する信仰を失っている例がなんと多いことでしょうか。
 ですから会堂はある意味、わなです。宗教法人法から、あるいは見える教会という物質化から守られています。会堂を持たない私たちは聖書の使徒時代の教会と同じです。本来の信仰オンリーの存在として、純粋で真実な教会です。私たちは恵まれているのです。
 
 何年か前の殉教聖会で「この中で、殉教をも厭わない人、前に出てきてください」との呼びかけに対し、その場の何百人という参加者のほとんどが立ち上がり、前に進み出ました。死を恐れない私たちの信仰こそ、真の教会であるしるしが現されているのです。

2019年5月 5日 (日)

この岩の上に

マタイ 16章15-18節    【新改訳2017】

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

<1>教会は、ペテロが代表して「あなたこそ神の子キリストです」の自発的な信仰告白が土台です。
<2>教会が具体的にスタートしたのはペンテコステでの聖霊の注ぎと働きからですが、教会の頭(かしら)はキリストです。このキリストが言われて居ように、三位一体の助け主、聖霊の働きによって最初は三千人の教会からスタートしました。聖霊の臨在とその働きがなければ、教会はそのいのちを失ったも同然になります。
<3>クリスチャンの使命とはキリストの十字架と復活の全世界での証人です。教会は証人としての働きの土台ですが、キリストの御体そのものであり、世界宣教への母体です。ですからクリスチャンは自分の体である教会を離れては存在出来ず、その肢体の一つとなって恵みを受けて生きることができるのです。
教会には福音宣教を広める以外に、教え育てる、聖礼典を執行するなどがあります。
私たちクリスチャンは御体の一部としての働きを全うしていきましょう。

私はバプテスマを受けた二十歳の時から、教会を中心に生活してきました。日曜日には一家そろって教会へ、そんな私でしたが、教会の恵みを心から思い知らされたのは、皮肉にも自分の教会を失った時でした。
それは前の妻が拒食症を発症したためです。普通の福音派の教会でしたので、医師からは絶望的な宣告をされました。癒やしだけが最後の希望でした。しかし教会には癒やしがありませんでした。初期の時代の溢れるほど載っている癒やしは、聖書が完成した今、もう終わったと言うのです。しかしこれは聖書のどこにも記述がないのです。神の癒やしにしかすがろうとした者にとって、これはいきなり家を追い出され、路頭に迷ったようなものでした。

こうして癒やしと教会を探す十年にわたる放浪が始まりました。本当に辛かったですね。信仰もどんどんレベルダウンしていきました。家族がバラバラになり、生きる目標も失ってもう終わりだという時、神は私の自分の真の姿を教え、悔い改めさせ、ご自分をハッキリとわたしの前に現されました。その日一日中私は神のリアルな存在に圧倒されつつ、「主よ、癒やしを否定し、死んだような教会では無く、どうか私のいける生きたからだ、私の教会を与えてください」と祈りました。

不思議なことにその夜、主はインターネットで、それまで全く知らなかったTELA (旧主の十字架クリスチャンセンター)を教えてくださり、なんと翌日には聖会までセットされている素晴らしいタイミングで導いてくださいました。翌日、私は不安と期待で聖会の会場に着きました。すでに始まっていたらしい会場のそのドアの隙間から漏れる光、わたしはそれだけで自分の教会が「ここだ」という、ついに見つけた喜びに包まれたことを忘れることができません。教会がなかった苦しみを通し、真実の信仰がある教会こそ、本当の教会であることを、皆さんと分かち合って喜びたいと思います。

2019年4月28日 (日)

聖霊の宮

1コリント 6章20節    新改訳2017
 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

聖書では「狭き門より入れ」とイエス様が言われているように、滅びる人が多いのです。ではなぜ、神は人を滅ぼされるようなことをされるのでしょうか。誤解のないように、神は誰一人滅ぶことを望んでおられないことです。エゼキエル18:32、1テモ2:4、2ペテロ3:9等。滅ぶ最大の理由は、人間だけが神の似姿として造られ、神の霊が与えられる霊的な存在として造られました。人間はロボットとしてはなく、自由と意思が与えられ、神に背くこと、従わないことの選択の結果をも引き受けなければならないのです。神は人間の自由な意思から神に近づくよう、望んでおられるのです。ロボットのような存在がいかに神を愛し、賛美したとしても、神にとって何の喜びがあるでしょうか。
ただイブとアダムの背信の結果、すべての人が罪を犯す存在になりました。たとえそうでも人間には良心があり、罪を犯すか犯さないかは、人の決断によります。神は人間を愛し、すべての罪が赦される十字架の道を開いて下さいました。私たちはこの狭い道を通るべきです。

次にクリスチャンにも、それが一部だろうと、滅びがあるかということです。結論から言うと、本当に信じていれば滅びはりません。滅びるように見えるクリスチャンは、元から信じてはいなかったのであって、毒麦だったのです。ただ人は神ではないので、一切裁いてはいけません。
従来、このことについて予定説のように、滅びないとするカルビニズムと、アルミニズムのように、滅びるとする考え方の両方がありました。そのような教理的な見方をするのではなく、クリスチャンにとって信仰が不確かな段階から聖化に至る、霊的な引き上げの段階だと理解した方が妥当ではないかと思います。

私たち神を信じる者は、すでに代価を払って買い取られたものです。ですから自分の所有権はなく、すでに神のものです(1コリ6:20、7:23)。それで私たちクリスチャンには聖霊が内住され、意識するかしないかに関わらず、聖霊の宮があるのです(1コリ6:19)。宮ならば、それを自分の一番大切なところにしなければなりませんが、残念ながら、聖霊さまに気づかず、ないがしろにし、それまでの自分中心の生活を続けてしまうので、結果としてそれまでと変わらない自分に信仰の確信が無いのです。これは当然のことなのに、それで悩んでいる人が多いのです。
罪がわかり、十字架が自分の為だと分かったなら、心から悔い改め、神の恵みに感謝し今一度、自分の心の王座に座っていただきましょう。神はあなたを求めて折られます。時が来て、自分のうちに起こる大きな変化に、あなたは驚くことになるでしょう。すべてはその時に、本当のあなたが始まります。

2019年4月21日 (日)

神に喜ばれたい

Ⅰテサロニケ 2章4節 4章7節  【新改訳2017】

 むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。

 神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

聖書1テサ2:4に「私たちの心をお調べになる神」と言う類のことばがいくつか出てきます。雀の一羽でさえも神のゆるしなしに地に落ちることはなく、私たちの髪の毛の数まですべて数えられています。ナタナエルという十二弟子の召命においても、主はナタナエルが居た場所まで言い表されました。

このことはつまり、私たちのすべて・・・・それがどんな小さなことであろうとも、神が知らないということはないと言うことです。これを聞いて、それでも神を恐れない人が果たしているでしょうか。かといって全知全能である神の前で、自分を守ろうと弁解することほど愚かなことはありません。しかしポイントになるのは神はこのような罪深い愚かな私をも十字架で愛してくださり、ご自分の命を持って救って下さったという信仰です。ですから神の愛に応え、神さまのふところに飛び込むことしか他に道はありません。

以上のことを抑えた上で、この「心をお調べになる」ことばのすぐに「神に喜んでいただこうとして」ということばが続きます。これはパウロがよく言うことばです。愛は愛でしか応えることはできません。神の愛に答え、神を愛する者にとって、神が私をすべて知って下さるということは喜びですし、何とかして神を愛そうという心が湧いてきます。

愛とは最大限の関心を相手に持つことです。すべてを知りたいのです。事実婚と言って、籍を入れず、いつ別れてもいいように、家にあるものはすべて買う時から所有者が決まっている形があるのだそうです。これは極端として、夫婦でも互いのスマホを見てはダメとか言うカップルがあるそうですね。私はこれを聞くと、そこには秘密という罪があるように感じてしまいます。神さまはすべてをご存知です。愛すればこそ相手のすべてを知りたいのです。私たちも愛する神さまを知りたいのです。何とかして神さまを喜ばせたいのです。

 この群れではよく「神のみこころは?」をよく祈っています。みこころを聞くことは確かに大切ですが、1テサ4:7では「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」と大前提がはっきり語られています。これは自分の努力や行いで聖なる者になることではなく、パウロのように、「神に喜んでもらいたい」と常に神を愛する行いから聖とされていく、私はそのように示されています。私たちが神に喜んでもらおうと心から行うなら、その稚拙は関係なくそのすべてを神は喜んで下さり、天国での最上の宝として取っておいて下さることを信じます。目を世にではなく、天に向け、何とかして天のお父様に喜んでいただく生活をいたしましょう。

2019年4月14日 (日)

神のかたち

コロサイ 1章15節  【新改訳2017】
御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
      
聖書のかなりの部分を受け入れながら、キリストが三位一体の神であることを信じられない人たちがいます。しかしこのコロサイ1章15では、イエスは神のかたちであって、目に見える神であると言っています。またイエスの裁判で、肯定すれば「冒神罪」で死刑を免れないシーンで、「わたしはそれ(神の子)です」(ルカ22:70)とイエス様は肯定されました。
3年半、朝な夕な身近に接して来た筆頭弟子のペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」(マタ16:16)と告白しました。当時のユダヤ社会を考えるなら、この告白は相当な覚悟を伴ったものです。イエス様の復活という超奇跡は「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れ」(1コリ15:6)ました。これも驚くべきことです。

神が肉体を伴って世に現れる、驚天動地のこの目的はいったい何でしょうか。それは神は高き御位に座して良しとされず、地に降りて神のすがたを現し、人々に神を信じさせるためでした。それは十字架上で人間のすべての罪を贖って、信じる者には永遠のいのちが与えられること、復活によってその確かさを明らかにするためでした。
それまでイスラエルを通し、律法が与えられていましたが、その律法によっては人は救われないことがハッキリした、まさにその時にイエス・キリストが世に来られたのです。この神の受肉と身代わりの贖罪を一言で言えば、神の「愛(Agape)」です。イエス・キリストは神の子であり、同時に神そのものでした。このイエスのうちに、神のすがた、神の愛の本質が溢れているのです。

では少しだけ具体的に聖書を見ていきましょう。まずイエス様ご自身がご自分のことを「七つのI am」(資料1)として語っておられます。イエス様の愛を端的に示すものとして「十字架上の七つの言葉」(資料2)があります。
私自身で言えば、マタイ伝5~7章で語られている公生涯最初のメッセージを読んだ時の衝撃を思い出します。「心の貧しい者は幸いです」、「情欲を抱いて女を見るものはだれでも、心の中ですでに姦淫を犯した」、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」「まず神の国と神の義を求めなさい」。平易なことばであっても、まさに一刀両断のように私を捉えました。これは人が語ろうとしても語れるものではない、語った人、この人は人間の姿をしていても神だ!と思ったのです。 

2019年4月 7日 (日)

隔ての壁

エペソ 2章14節   【新改訳2017】
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し

 クリスチャンの中にはパウロのガラテヤ2:16 人は律法を行うことによってではなく、ただキリストを信じることによって義と認められる という信仰義認の原則をもって、ヤコブ書2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない を律法主義と断罪するケースがあります。ルターもヤコブ書を「藁の書」と呼んでいた時期がありました。しかしこれをもって、ヤコブが律法主義だと断じるのは少々行き過ぎです。ヤコブが律法主義的な傾向を持っていたことは否定できませんが、この書では律法主義者としてではなく、真に信仰による義を受けているなら、実としての行いが伴うはずだと信仰生活について言っているのです。パウロが信仰の根本を強調したとすれば、ヤコブはその後、信仰の結果を強調して言っているわけです。

 さて本日の聖書箇所で「隔ての壁」とあります。これが二つものを隔離し、どちらかに敵意があったようです。これは実際にエルサレム神殿に存在したもので、当時の第二神殿の丘にはまず異邦人の庭があり、そこで犠牲の動物や両替商が商いをしていました。丘の中央部に神殿があり、割礼を受けたユダヤ人だけが入れるよう建物の周囲を壁で仕切っていました。それが隔ての壁で、壁には「異邦人が壁の中に入ると殺される」と書いてあったようです。
 これは言うまでもなく教会内にある、メシアニックのユダヤ人と異邦人クリスチャンの間にある壁のことを指し、十字架がそのわだかまりのすべてを解消させて教会の一致が成るように説いたものです。そのカギは御霊による一致です。御霊は複数ありませんし、御霊に従って歩むなら、分裂分派などは起こりようがないのです。主は一つ、御霊も一つなのですから。私たち現在の教会内でもアーメンでしょうか。

2019年3月31日 (日)

私は死んでキリストが生きる

ガラテヤ 2章 19-20節     新改訳2017】
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

まだはっきりと信仰を持っていない方から、質問を受けました。
求めなさい、そうすれば与えられます (マタイ7:7)と言われ祈り求めようとしたら、聞き従いなさい (1サム15:22)とも言われる。それなら自分は求めるべきなのか、従うべきなのか、いったいどちらが正しいのかわからない?と。
確かにこれは一見矛盾しているように感じられるでしょう。しかし全く矛盾していないのです。「求めなさい」に重要な言葉が省かれているからです。それは「みこころを求め、それを求めるなら」と言うことです。それを裏付けるみ言葉が以下です。

まず神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます(マタ6:33)とあります。
私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます(ヨハネ9:31)

同じように、本日の聖書箇所も一見すると矛盾しているように見えます。これは「私が弱いときにこそ、私は強い」(2コリ12:10)もそうですが、まず「私が死ぬ」ことが理解できない、あるいは理解できても到底不可能と思われますので、余計にそうどうしていいのか、と感じるようです。しかしこれは罪の問題です。自分の罪が深くわかれば、私たちは自分の罪深さに絶望するしかありません。とても天国に行けるような存在ではないと。その時、私たちに十字架の恵みが染み通って来ます。こんな罪人のために、尊い神ご自身が身代わりになってあがなってくださったことが。自分への望みを失っても、人間はそれでもなかなか自分に死ねる者ではりませんが、神に心から求め続けていくならば、それは御心ですから、神が試練や困難を通して導いて下さいます。人にはできないが、神に不可能はないのです。

その時、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな身を結びます(ヨハネ12:24)の真実さを知ることになります。

2019年3月24日 (日)

新しい天と新しい地

黙示録 21章1節      新改訳2017
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 ベストセラー本「天路歴程」のように、何とかして私たちは天国に行くかということに腐心していたと思います。考えてみますと、天国がどんなところかもよく知らずに、ただ「行きたい」「行きたい」では少しおかしくないか、と気づきました。

では天国ってどんな所でしょうか。それは人間の想像を超えた素晴らしい所です。黙示録21章には次のように描かれています。千年王国が終わって後に、最後の審判があることを私たちは知っています。その後、今のエルサレムの上に天から着飾った花嫁のように天のエルサレムが降りてきます。一辺が2200kmある広大な都市、十二の門があるたとえようもなく美しい都です。この地上はもはや太陽も月もなく、夜がありません。なぜなら都には神の栄光が満ち、子羊キリストが明かりだからです Photo_1thumb2 。都には一切の陰、闇も無いと私は想像しています。

なぜなら「神は私たちの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」(黙21:4)とあるからです。これはどういうことかと申しますと、サタンの陰、一切の罪が無い世界であり、それにふさわしい暗い所はないのです。24時間、永遠に明るく、住まいにも暗い所はありません。あるとしたらそこは地獄という火の池でしょう。

なぜ無いのかというと、まず第一に私たちが変えられた御霊の体は朽ちないということです。ですから朽ちる体の時のような眠ること、入浴すること、着替えの個室も要らないことになり、従って目隠しするプライベート空間が必要ないことです。次に黙示録から散見される世界、例えば御座の周りが水晶に似たガラスの海のようであったとあります。私たちの知らない素材が天国にはあり、各人が自分の務めを終えて自由に過ごせる家があるとしても、これまでのような照明器具の要らない、光を通す透き通った素材でできており、隠す必要の無い空間であると私は想像するのです。

天国は素晴らしい所です。今のような血肉の体がある時とは全く異なって、血肉の体と共に霊、たましいまでも本来のものに神は造り替えてくださっているのです。わたしは天国のことを思う度に、胸が焦がれるような熱い希望を持ってしまいます。天国は現実の存在なのです。みなさん、命ある限り、天国を目指してひたすら歩きましょう。

2019年3月17日 (日)

愛がなければ

✝Ⅰコリント  16章14節     【新改訳2017】
いっさいのことを、愛を持って行いなさい
 1コリントの12章から16章の本日の聖書箇所を通してみると、パウロがこの手紙を通して何を一番言いたかったのかがよくわかります。
12章31節で「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と言いながら、それに続く「はるかにまさる道を示しましょう」とは<愛>のことでした。13章3節でも「愛がなければ何の役にも立ちません」と言っています。同13節では真・望・愛の中で「一番すぐれているのは愛」だとしています。次の14章の1節では先ず、「愛を追い求めよ!」とばかりの強い命令形で述べていますが、御霊の賜物、預言を特に熱心に、と奨めているだけです。最後にこの16章では振り返って、念押しのように「一切のことを、愛を持っておこないなさい」と締めくくって述べています。
 このような賜物と愛の関係理解は、私たちの群れの名称が最近「The Light of Eternal Agape」に変わったことと結びついていると思われます。
 さて「一切のことを愛をもって行う」というみ言葉を自分に適用する時、私には深い悲しみが生じます。かつて人と自分を見比べていた時代ならともかく、今自分自身を振り返るならば、愛を持って接したつもりの多くが、「自分が良く思われたい」とか「売名行為」の下心が無かったとは言い切れないのです。たとえ自分を捨て、相手のことを思っての対応をしたはずの事ですら、それは相手の人の反応を読み、自分にとってもより利となり益となるための抑制に過ぎなかった…そんな見方もできる…と気づかされるのです。
 私は良いと思うこと、愛を純粋に行うことができない自己中心な者であり、あわれな偽善者なのです。しかしこの時、ローマ7章7節のみ言葉が開かれました。律法が無かったらな私たちは自分の罪深さがわからなかったように、新約の唯一の律法である「愛しなさい」は、愛せないこと、愛する力が無いことを明らかにしました。そんな自分にほとほと愛想が尽き、自分を神の愛と十字架に献げ、ただみ心だけを行ないたい、そんな決心をさせる力になりました。愛は神のもので、私にはありません。しかし神の愛を反射させることはできます。自分の力でなかなか自分を神に献げきれないのですが、神が助けてくださるのです。その意味で自分の罪深さがわかるということは、神の愛がわかり、自分を献げる土台の力となる恵みだと合点するのです。ハレルヤ、神は愛であり、真実な方です。

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2019年3月10日 (日)

真実な神

Ⅰコリント 10章13節     【新改訳2017】

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

あなたがたが経験した試練は、みな人の知らない試練ではありません」と聞いて、反発される方が多いでしょう。自分の受けた試練は過酷で、特別だと思いたいのが人の常でしょう。しかしこの言葉から、神は個々人に与えている試練をすべてご存知であり、神の手の中で許容されていることがわかります。全知全能の神はすべてをご存じなのです。

「神は真実な方です」とは本日のテーマです。私が試練のどん底にいた時、神がひょっとして私を「弄んでいる」「いたぶっている」のではないかと疑ったことがあります。後に大変後悔し悔い改めましたが、神には決してそのようなことができません。私は血迷って思ったのです。その時、私以上に神も苦しんでくださっていたのです。これは後になって神が私に触れてくださった時に、一気に氷解してわかったことです。

「あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません」全知全能の神の手の平の中での試練です。必ず解決があると安心し、過度に患わないようにしましょう。耐えられる保証を神がしてくださっているのですから。その上で、試練のその先に私たちをこの道を通してでないと得られない祝福があるのです。神に期待しましょう。ただ感謝です。

「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます」とは、今直面している困難に何か抜け道やバイパスを見つけると考えるより、困難に耐える力を神が与えてくださると解する見方があるようです。が、私は両方ともあるのではないかと思っています。いずれにしても脱出の鍵は神の言葉と感謝の信仰です。

パウロはビリピでは神が起こされた地震によって助け出されました。しかしいつも必ず助け出されたわけではなく、鞭打たれたり、石打ちにあったりと何度も死にそうな目に遭いました。それでもパウロは、神への忠実と信仰を失うことはありませんでした。ですから、今くじけそうな重荷や試練にあえいでいる方、失敗だらけで、まるで自分が不良品のように思えて「自己否定」したり、希望を失いかけている方、その方に申し上げます。それは神を悲しませることです。陶器師である神は、あなたを失敗作として世に送り出したのでしょうか?そんなことはあり得ません。それは世的な見方で自分を見ているからです。神の見方ではありません。神は真実な方で、神にあっては失敗作は存在しません。

 だいたいこの罪深い自分のために、世界の創造主である神ご自身が、あなたの罪のために十字架に架かって下さった。この愛に勝る価値、奇跡は計り知れない恵みです。帳消しにされ赦された自分の罪の深さが、まだ十分には分かっておられないのかも知れません。

2019年3月 3日 (日)

神のみ心に従って願うなら

Ⅰヨハネ 5章14節      【新改訳2017】

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

   今回の白馬スネルゴイキャンプで、賜物の用い方について迷っていた事について見事な解決が与えられました。右下の図で座っているのは、神さまからの賜物の注ぎが来るまで、ずっと待ち続けている人です。立っているPhoto
人はそうでなく、賜物を用いて行こうと立ちあがって人の姿です。キャンプでA牧師は「聖霊はみ心の祈りをすればかなえてくださる。それはそうしようとする私たちの意思から始まる。故に奇蹟は私たちの意思から始まる」と語られました。座ってでなく立ち上がって行く。これが答えでした。

  ですが少し誤解のないよう、付け加えさせていただきます。癒やしとか奇蹟のわざは100%神のものです。それを人間が行えると少しでも思ったなら間違いです。ではどういうことかと申しますと、A牧師は最初のフィリピン派遣を例に出されたのです。

 初期の派遣でしたが、チームは預言に従ってテロが頻発するミンダナオ島に入りました。命を惜しまない決心をしたいたのですが、チームを乗せた車が市内の歓迎のアーチをくぐる時、そこに「Solvation & Healing」の文字が書かれていたのです。その途端、チームは動揺してしまったのです。癒やしは意図しておらず、どうやっていいか経験もなかったからです。しかしチームは導きと腹をくくって神に頼り、それこそかつて見たことを見よう見まねで癒やしを行ったのですが、なんとそれが現地新聞にも載るほどの、驚くべき奇跡の癒やしの集会へと変えられたのです。
 意図して行ったわけでなく、むしろ「私たちにはできません」と辞退して帰ろうという声さえ上がっていたのです。しかし預言を通し、神の導きに従った結果は真実で見事でした。これは「意図してではなく、そのように追い込まれて聞き従った」結果でした。以後、私たちの群れは外部から「日本で癒やしの教会といえばTELAしか思い浮かばない」とまで称されるまでになったのです。
 癒やしは神に聞き従って行くという私たちの意思に、神が働いてくださるものです。

 絵を見てください。座って聖霊の賜物をただ待っている人より、立って意思を持って神に聞き従おうとする人がいます。どちらが神のみ心に答えており、用いられるでしょうか。そうです。信仰を使って立っている人にです。癒やしと奇蹟は私たちの意思にかかっているのです。

2019年2月24日 (日)

真の礼拝

ローマ 12章1節     【新改訳2017】

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

本日の聖書箇所での「お勧めします」とは、<懇願する>という意味が強い言い方です。ですから聞く人々に、パウロがひざまずいて「どうか・・・」と強くお願していることになります。そうまでしてパウロが切に願っているのが、この1節を起点にした全部で24になる「クリスチャンへのお勧め」です。24_2     (右図参照)

 この24にもなる勧めを見、その「言わんとすることは何か?」と言えば、理想だが実際に行うのは大変難しい、そう思ってしまう所が多いことです。のです。例えば15節の「泣いている者たちとともに泣く」ことはできても、「喜んでいる者たちとともに喜ぶ」ことは、人間にはねたみうらやむ心があって、完全には難しいことです。ただしこれは人間的には、でしょう。

 モーセの律法が、人間の罪を明らかにするためにあったように、パウロのこのクリスチャンへの勧めも、肉なる人のままではできないことを明らかにしています。ですからパウロは冒頭にきちんと「あなたがたのからだを、神に喜ばれる生きたささげ物として献げなさい」とあらかじめ断ったかのように言っているのでしょう。

 神殿の時代、何らかの節目には必ず神殿で犠牲の動物を献げました。その時代は現在のように冷凍冷蔵も急速乾燥もありませんでしたから、神に献げる最高に鮮度の良い物は、その動物を生きたまま献げることでした。ですから、現在に適用するなら、神に喜ばれる献げものとは、今生きている私たち自身のことであり、実際の体そのものということになります。

 もちろん皆さんのなかには、「すでに私の心と霊をすでに献げています」という方もおられることでしょう。それは尊いことです。しかし血肉の体を持っている以上、霊肉はしばしば相反する働きをしますし、体を完全に従わせることは大変難しいと言わざるを得ません。私たちは血肉の体という弱さを持っているのです。しかし神に完全に献げられたものは聖別され、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死に」(ロマ14:7-8)、聖化が恵みとして与えられていくことが約束されており、パウロの「24のおすすめ」が実践されていくことでしょう。従って「パウロの24の勧め」とは、主に触れられ新生した、あるいは聖霊のバプテスマを受けたというレベルの方々のものであり、そうでない方々は、究極的には自分もそうなるのだと希望を持って祈り、求め続けられるべきなのです。

 皆さんは、そのように主のものとされることを祈っておられると思います。しかしそれには時があります。神が試練とともに、一人一人に受け入れられる真実の姿をあらわにされ、見せてくださる時です。自分の罪深い真の姿を知り、悔い改める時が来た時がその時です。その試練とは神の愛です。自分の力ではなく、神が私たちをつくり変えてくださるのですから。

2019年2月17日 (日)

罪の奴隷から義の奴隷

ローマ 6章13-14節     【新改訳2017】

13 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。

私は祝福されています。感情も霊という心がいつも神によって守られ、平安です。神の愛が私を包んでいるからです。また、私は死ぬことも益であり、天の御国を待ち望んでいます。私は自分の罪とその深さを知らされたからです。いのちに代えてご自分の羊を守ってくださった神のものとなる、これほど幸せなことはないのです。
しかしこの神のものになるということは、神の所有物=奴隷になると言うことです。サタンは強制的に人を縛って虜にしますが、神は決してそうなさいません。徴兵制のサタンに対し、神は志願制だからです。古来しもべとは、奴隷とあまり差がありませんでした。主人に命を捧げてみ心に従うこと、「自分に死ぬ」と言うことは、このことを指しています。

どんなに長くて人生百年もある人は珍しく、私を含めて遅かれ早かれ数十年したらみなさん肉体の命は終わります。そして行くべき先は神の国か、それともゲヘナという地獄のどちらかしかなく、グレイゾーンというか、その中間はありません。どんなに若くても、明日の命が知れないのです。信じる人は今すぐ信じましょう。
さて、神のものとなるのは志願制だと申し上げましたが、志願したくてもなかなか自分の力でできるものではありません。決め手は自分の罪深さを知ったからです。希望を神の国に見出したからです。 自分を守り、価値があると思っている間はできませんでした。
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右の図での「悔い改め」とは、自分を捨て神に自分を捧げることで、右側の人々、神を自分のために使おうとしてはならないのです。
罪がわからないとそのような悔い改めはできません。ですから神に愛されている人には、試練が許されるのです。これは神の愛です。

自分の力でできないからです。その結果、罪がわかる人はなんと幸せな事でしょうか。神を知っていなければ絶望して自殺するしかありませんでした。しかし幸いなことに神とその愛を知っているならば、神に希望を見、神の愛に自分を捧げたくなって仕方がなくなります。これが志願です。自分の命以上に神を愛するからです。なぜなら神は光であり、神には真の自由があり愛、喜び、平安があるからです。神の奴隷となり、神のものとされるということは何という恵みでしょうか。

神を信じている方で、いまだ神のものとされていない方がいるならば、それは惜しい、あまりにももったいない。「at Hand」、すぐそこに恵みがあるのに、未だに罪の奴隷のままであるということです。そのことは自分のと自分の内側を支配するものがなんであるか、ということで明らかです。

悔い改め、ともに神のものとならせていただきましょう。

2019年2月10日 (日)

闇から光に

使徒 26章18節     【新改訳2017】

それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。

闇とはサタン、またはサタンの支配下にある状態を指します。日が沈んでいく時、徐々に光を失って行きます。どっぷりと日が沈んだ世界は色や形を失い、何がどうだったのかさっぱり分からなくなります。闇は存在が認められない混沌の世界です。そこではどうなるか恐れと不安に包まれ、うごめきしかありません。罪を隠し、わからなくさせるのも闇です。神とは全く関わりの無い世界です。

これに対し、光の世界はどうでしょうか。日が昇って光が射すと世界は色を取り戻し、ハッキリと形が見えて、認識ができるようになります。光は植物を育て、植物はすべての動物たちのいのちを支えます。光はいのちそのものであるとも言えます。天地万物の被造物には秩序があり、それによって神がおられ、世界は神によって成ったものであることがわかるのです。ですから光とは神、または神の栄光そのものであることがわかります。

神を信じない人は未だ闇の中に居り、神を信じた人は光の中にいます。しかし神を信じた人であっても、闇と光の間を行ったり来たりしている人がいるのも確かです。その人たちは自分が果たして光の子なのかどうかすら、確信が持てなくなっているかも知れません。これら試みられている人たちは、神から見捨てられているのではなく、むしろ「神から祝福のチャレンジを受けている」と理解すべきだというのが、私の考えです。

クリスチャンは一旦罪を告白し、赦されたのですから、揺るぎない天国の相続権があります。しかし世で光の子として証しするには、愛、喜び、平安の実を結んでいる必要があります。神はその恵みを私たちに等しく与えようとしてくださっているのであって、それはまず自分自身を全部神に捧げ、神のものとされる必要があります。どっちつかずは本人にも苦しいわけです。

自分を捨てる、つまりルカ 9章23節にあるように、己の内にある肉なるものを明け渡し、それを負ってキリストに従って来なさいという明確なメッセージがあります。握っている肉なるものが、神と一つになる障りとなっている、それに気づかせ、確かに神のものとされるようにと、主は語っておられます。富める若人には財産を、父の葬ることは死人たちに、と主はこの世よりも、神の国を第一とする者に変えていただきましょう。

私たちはそれを聖化と言ったり、新しく生まれた者と言っているのです。心から悔い改め、神のものとして自分を捧げましょう。神の光によって私たちは変えられていくのです。

2019年2月 3日 (日)

私と和解する

エペソ 2章16節     【新改訳2017】

二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

 聖句で「二つのもの」とあるのはユダヤ人と異邦人のことです。パウロが終生戦ってきた割礼問題の解決が和解という言葉で言い表されているのです。割礼はクリスチャンをユダヤ教へ改宗させることですが、妥協するのではなく、キリストにあって乗り越え一つのものとなりました。今回は一人の人間における相反する二つのものがテーマです。
 これは実はすべての人がこの問題に直面しています。人はしばしば二つの狭間に在ってバランスを失い、死を選んだり病になるケースがなんと多いことでしょうか。う

 もう少し具体的に見ていきましょう。人の内に在って対立する二つのものとは、「がんばる」に代表される自己の引き上げに対し、それと逆な開き直りのことです。「がんばる」とは、「自己実現」とか「できるようになる」「向上心」とか呼ばれています。あなたがもし会社員だとしたら、会社からは仕事の成績アップとか業績を成し遂げることを常に求められているでしょう。しかし開き直って「いえ、もう私の力ではここまで、無理です」と正直に言うならば、その会社での将来は順調とは言えません。人間には各々能力が異なり、皆が達成できるわけではありませんし、平等な機会が与えられている訳でもありません。社会でも競技でも、ホンの一握りの人以外、多くの人が届かない現実と向きあわざるを得ないのです。

 そのような時、自己像が大きくズレている人の場合、ありのままの自分がわからないのですから、折り合いがつけられず出口のない状態に陥って、病を発症してしまうケースが多くなります。そうなると社会生活が困難になり、入退院を繰り返し、癒えるまでに長い時間がかったり、不治の病と診断されるようになります。
 そこまで行かなくても、どうして多くの人々はありのままの自分を見ることができないのでしょうか。たとえ開き直っても「居直り」となり、罪の意識が極度に鈍感な人もいます。詐欺事件で逮捕されても「だまされる奴が悪いんだ、こんな社会が悪いんだ」とうそぶくような極端なケースもあります。

 神を信じない多くの人に共通して言えるのですが、真の自分自身とはあまりにも罪深く、まともに見ることは困難です。それであるがままの本当の自分自身を受け入れることができません。クリスチャンは違います。罪深い自分、真の姿を見ることができるのです。なぜならその最低の自分を死に至るまで愛し贖ってくださった方を知っているからです。十字架ですべての罪を赦された喜びと感謝、それは人の中で対立し、バラバラにしていた二つのものを和解させて一つにし、そこから自分の為ではない、神のみ心を行おうとする全く新しい人を生み出します。ここに真の解決があるのです。

2019年1月27日 (日)

神のものとされる

エペソ 1章14節     【新改訳2017】

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

エペソ1:14節で聖霊が保証とか、別な言葉では証印と言われています。しかし多くのクリスチャンにとって聖霊が内住されているはずなのに、自分は本当に御国に行けるのだろうか確信が持てない人が多いようです。聖霊の実どころか、自分の心の中は相変わらず罪深い性質であるからです。

人はサタンと神との間にあって、どちらかに所属しています。問題なのは、サタン側は常Photoに人間を支配しようと不安や恐れの霊を送り、絶えず攻勢に出ていることです。神様側はそうでなく、慎しみと控えめで愛に満ち、私たちが神に悔い改めて心を向ける時まで、常に忍耐しておられることです。私たちはその草刈り場であることを決して忘れてはいけません。私たちが愛、喜び、平安を日頃感じていなければ、それはサタン側の攻撃を受けていると理解すべきです。

ではどうして神を信じ、聖霊が内住してくださっているはずなのに、そのようになるのでしょうか。答えは明解です。それはその人が完全に神のものになっていないからです。一つ、その例を取り上げてみたいと思います。

マタイ・マルコ・ルカにある、永遠のいのちを求める富める若人は財産を捧げられず、悲しんでイエス様の前から去って行きました。しかし弟子たちやペンテコステで信じた人々は財産をすべて捧げ、一人も乏しい人はいませんでした。どうして捧げることができたのでしょう。それは神を知り、永遠のいのちに比べれば、この世が取るに足りないことを知ったからでした。完全に神のものとなったこれらの人々は、大牧者の神のものである羊とされ、全能なる神が守ってくださるわけで、愛、喜び、平安の内に居続けるのです。

ですからみなさん、祈り求めて下さい。自分のすべてを捧げる祈りができれば、それは「み心」ですから成就します。時が来れば必ず受け取っていただけます。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と言われています(マルコ28:34)。自分を捨てるとは、神に己を捧げることです。今の自分を見てはいけません。神の助けによってその祈りは成就するのですから。

2019年1月20日 (日)

忍耐

✝使徒5:29 「忍耐」     【新改訳2017】

しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。」

弟子たちの豹変ぶりは、驚くほどでした。50日前には、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」とまで言ったペテロたちでした。が、ご承知のように命惜しさに三度も否定した挙げ句に逃げ出し、それからは恐れのあまり閉じ籠もって祈っていた人たちだったのです。

しかし聖霊のバプテスマを受けてからは一変しました。二度も居並ぶ最高法院の権威者たちを前にし、どんなに脅されようと鞭打たれようと、ペテロたちは死を恐れずに神を選び主イエスの証しをしました。ガリラヤの猟師という無学なはずの田舎育ちが、全くの堂々とした逆転の姿でした。ルカ12:11-12で「言うべきことは、その時に聖霊が教えてくださる」ので心配しなくて良いとイエス様が語られた通りの姿でした。これは彼らが別人になったわけではなく、彼らはただ聖霊に従っていただけなのです。

弟子たちを豹変させた聖霊のバプテスマですがImg_0072_2
聖霊のバプテスマは大きな誤解を生んでいる可能性があります。これは100%神から来るものですから、周りにいる人はせいぜいその執り成ししかできません。聖霊のバプテスマはみこころの時に、みこころの方法で起こりますが、受けた本人に神の実在と愛と恵みが激しく望み、人生の生き方が全く変わる新生を体験します。そのことは受けた人が一番鮮烈にわかることです。

つまり、それまでの自己中心で御利益的な存在=ドラえもんのポケットのように、自分中心に生きていたはずだったのが、逆に神のみこころのみに従う存在になるのからです。

そのような恵みを受けるまで、私たちは忍耐しているように思っていますが、実は神さまの方が、私たちよりももっと忍耐をして待って下さっていたのです。それまでの人生の中で、自分を捨てるという事とは、試練や困難を通して一つ一つ自分への希望を失い、そこに神が愛を持って守って下さり、歩んできたもので、皆さん全員がそこに神の手を見られるはずです。神は忍耐して私たちを長い期間をかけて導き、私たちの信仰告白という実を実らせて喜んで下さいました。神こそ一番に忍耐してくださったお方なのです。このわが神、主をほめたたえましょう。

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