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教会の誕生

使徒 2章1~4節   2017新改訳

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 本日はペンテコステ、キリスト教会の誕生日です。使徒の働きの2章にもありますように、聖霊を受けたのは、イエス・キリストに従った信者であり、その約束を信じて集まり、おそらく祈っていた人たちでした。その信者の上に聖霊が下って異言や預言を語るようになりました。これは聖霊のバプテスマと呼ばれる現象であり、その賜物が現れた現象を物語っています。そのことから二つのことがわかります。聖霊のバプテスマは信じると同時に受けるものではなく、待ち望んでいた信仰の堅い人たちの上に下ったこと。そしてこの日が教会の誕生日と言われるように、聖霊のバプテスマを受けた人びとの上に教会が建てられたということです。

 イエス・キリストを信じるなら罪が赦され、神との障壁が取り除かれます。しかし問題は口先でどんなに「主よ」と呼んでも、自分が相変わらず自分の主であって、神がドラえもんのポケットのように便利な存在では、神と交わる正しい関係にならないことです。 人はどんなに努力しても「一粒の麦、落ちて死なずば」にあるように、自分に死ぬことができないので、聖霊の実を結ぶことができないのです。神である聖霊と交わらなければ、肉の思いであり、御心を行えないのです。そしてこれが今現在の多くのクリスチャンと教会の現状です。

 自分に死ぬとは新生することです。新生と呼ばれる聖霊のバプテスマは自分の力の及ばないものであるとすれば、これは神に選ばれ、愛されたクリスチャンだけが通される道であり、産みの苦しみの果てに与えられる特別な恵みです。そして神は、この聖霊のバプテスマの上に教会を建てられたのです。聖霊のバプテスマによって教会が誕生し、すでにその役目は終わった過去のものだと福音派は説きますが、それならなぜ今から100年前、ロスのシーモア牧師によって聖霊のバプテスマが大きく用いられるようになったのでしょうか。また聖書には、新生を伴う聖霊のバプテスマが終わったなどとは書いてありません。聖霊のバプテスマを受けていないことは、ピリポがサマリヤで多くの信者を得た時に、エルサレム教会がペテロとヨハネを派遣したこと。エペソでアポロによる信者にパウロが会った時のことなどの記事で、当初から懸念されたことでした。それが現在では多数派、主流派になっているだけのことです。

 神様はギデオンに命じてイスラエルの民が誇らないよう、戦う者の数を300という、イスラエル自身では到底不可能な数まで減らされました。今まさにそのように私たちは少ないのですが選ばれた戦士です。神の命によって残されている、そして神の御名が崇められるために、私たちの力を超えてリバイバルという勝利を主は得られのです。

 

2024年5月12日 (日)

赦されてゆるす

マタイ 6章14~15節   2017新改訳

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 マタイ6章15節には「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたをおゆるしになりません」とあり、これ以外にも同様な御言葉が随所にあります。私はこれまであまり真剣に受け止めてはいなかったのですが、何度もイエス様自身の言葉で繰り返されているので、これは重大な戒めであることに気づきました。命じておられるイエス・キリスト様が十字架で赦しそのものになられたのです。と言うことは、信じる者が師に背いて人をさばき、赦さなかったとしたら、それはもはやイエスの弟子でも従う者でもないと言うことになります。最近祈ってしばしば示されたり、またつい最近刊行されたマーリンさんの「地獄に天国をもたらす」に追い打ちのように実行を強く示されました。

 前述の本にこうあります。「私たちが人を赦さなければ、自分が苦しむことになります。赦さない心は、私たちから平安や喜び、健康まで奪うからです。神は人間をそのようなものとして創られました。ー中略ー 人間にはどうすることもできない仕組みなのです」(p29)と。ひと昔前の私でしたら不十分な理解だったでしょうが、今は完全に理解できます。アーメン。

 厄介なのは、赦さなければならないことがわかっても、その相手が具体的にわからないことです。それでは恵みはなく、いつまでも消極的な不服従のままだと言えるでしょう。実は最も身近な存在である身内の中に潜んでいる場合があり、あまりにも関係が深く自分の根源的な存在なので、今更気付けないことが多いのです。そのために祈りの中で、気づかないのだけれども自分が許すべき相手というものをイエス様に聞いてみることがポイントになると私は思っています。

 次に赦す行動を実践することが重要です。これについてもイエス様が簡潔に一言で述べておられます。<赦す=愛すること>です。これ以外に真の赦しはありません。どんなに「赦す」と言っても、行いが伴っていなければ口先だけのことで、赦したことになりません。憎んだりさばいたりするのではなく、愛する、このことを「あなたの敵を愛しなさい」とイエス様はおっしゃったのです。どうでしょうか、自分自身にその力はなくても、御心ですから神の力に依るならば可能になります。どうか神を信じ、御心を行って平安と喜びの祝福を受けていただきたと思います。そこに御霊の実が開いて行くのです。

2024年5月 5日 (日)

地獄に天国をもたらす

詩篇 32篇1~2節      2017新改訳

幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。
幸いなことよが咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。

 あるSNSを観ていましたら、次のような意見が載っていました。「キリスト教会の牧師の中に、「一度救われたら、(その後はどんな罪を犯しても)天国行きは大丈夫だと教えている。しかしそれは、地獄にたくさんの信徒を送り込む大きな過ちだ」と。要するに洗礼は救いの永久免罪符ではないと。私もその通りと思いましたが、おそらくすごい反論を受けるだろうと想像しました。プロテスタントのほとんどの教会はそのような救い観でしたから。果たして予想した通り、代表的には次のような反論がありました。
 「それは、あなたの考えの中(あなたの世界)に、サタンを存在させる以上、常にサタンはあなたの中に存在します。イエス様が常にご加護をくださっている、にもかかわらずです」と、まるで最初に意見を述べた人は悪霊にとりつかれているかのような内容です。さらに別な人も「サタンという概念を持つこと自体がサタンだ」とさえ指摘されていました。
 反論される方は、一度十字架を信じ、救いを受けた者は、天使のように罪を犯さない存在になったかのようです。勿論そんなことはあり得ません。

 確かにローマ10:9-10には もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる、と。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです とあるように、告白した罪は赦され、その時点では救われています。確かに赦されて義とされた解放の喜びが全身を包んだことでしょう。しかし、人の罪性は根深いのです。自助努力や自己肯定は、そんなに簡単に取り除けるものではありません。もしクリスチャンが、自分は罪とは無縁でキリストのように聖とされる存在になれたと思うなら、それこそ万死に値する高慢の罪を犯しているのです。
 私の経験を言えば、そのような教会にいて三十年間、義とされているはずなのに罪深い自分に苦しみました。考えないようにし、頭から振り払おうとどんなにしても無理だったのです。サタンがクリスチャンである私を、聖を諦めさせ、絶えず支配しようと襲っていたのです。

 このようなクリスチャンの救いについて、聖霊のバプテスマを受けることではっきりわかりました。地獄に天国がもたらされたのです。聖霊が望んだ時、私たちにほんのわずかでも自分を義とするものは無かったのです。聖霊に照らされて私は、自分に全く希望がないことを知りました。私は放蕩息子のように、ボロボロの自分をただ父にあわれんでいただくしかなかったのです。父はボロボロの私だからこそ、本当の息子を取り返したように愛してくださるのです。私の弱さを私以上に神はご存じですし、父の御心を行うことしか生きる意味を感じない私と、聖霊を通し親しく交わってくださいるのです。交わって知る父は100%、愛のお方で助け主です。

ああ、罪がわからない自称クリスチャンと牧師たち、一切あなた方が自分を義とせず、砕けた魂と良心から真に救われるよう心から祈ります。

2024年4月28日 (日)

獅子の口から義の栄光へ

テモテ 2章11節   2017新改訳

次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。

 第二テモテとは、パウロが死の直前、我が子同然の愛するテモテに送った最後の手紙です。書かれた年代は、64年のネロの大迫害(クリスチャンがローマ大火の犯人とされた)以降、数年内に処刑されたはずです。すでに処刑が決まって、執行待ちの状態からの手紙なので、遺書的な性格もありますが、牧会指導と言うだけでなく、パウロの心情が吐露された内容になっています。

 この手紙には、アジアで大規模なパウロ離れが起こり、ほとんどの教会がパウロから去っていったことを心配する内容が目立ちます。多分それは濡れ衣を着せられ、大迫害を防げなかったパウロへの落胆や、大火に連座することを恐れてのことであったと思われます。そこでパウロはアジアの中心的なエペソ教会の監督テモテに対して、今の自分の心境を語り、身の上を案じるテモテを励ましたかったようです。エルサレムでの騒動以降、裁判を皇帝に上訴し、カイザリヤやローマで長い期間囚人として過ごしてきたパウロでした。一時期はかなり自由に活動できたものの、処刑が決まってからは身近にはルカだけしか居らず、寒さにも困っていましたが、その心には義の栄冠を受ける喜びで、一点の曇りもなく晴れた天を仰いでいたのです。

 たとえクリスチャンであっても、死んで天国に行くと言うことは同じでも、神に哀れみを受けたままで死んで行くのと、栄光を受けて死ぬのとでは大違いです。
 そのことを「(アジアにいる)私の子よ、イエスの恵みによって<聖霊によって守り(1:14)>強くなりなさい」と教え、く聖霊によって守られ、自分については、福音のために苦しみを受けているのだから私は耐え忍ぶ(2:9ー10)と来る殉教の決意を語り、それだからあなたも「恥じることのない働き人として、自分を神に捧げるように(2:15)」とパウロが心から勧めています。

 私やドルカスの両親はすでに亡くなっていますが、次は高齢者となった私たち世代の番だと思っています。日本にリバイバルが起こされますが、その時私たちは聖霊の賜物によって大きな働きをすることになっています。しかし聖霊の実が実っていないのに、そのような油が注がれることは無いことでしょう。アブラハムは75、モーセは80歳で用いられました。今から遅くはありません、熱心に祈り、信頼し、主と交わり、そのみこころがわかるようになっておきましょう。そのみこころを行うことで迫害されるならば、素晴らしい神の栄光を受ける約束になります。それゆえ、なんとしてでも、九つある御霊の実を一つでも二つでも多く、実らせて参りましょう。

2024年4月21日 (日)

罪が分かる祝福

マタイ9章11-13節   2017新改訳

これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。

 以下はイエス様が語られた言葉です。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」いったいこれはどういう意味でしょうか。聖書では人類の先祖、エバとアダムが罪を犯して以来、すの人が罪の縄目にある(原罪)と言っています。ですからこのことばは、罪が分かるすべての方を招いておられるのです。

 私たち人間には良心があり、良心に照らしてみれば、自分が紛れもなく罪人であることがわかるはずです。小学校の教師時代、道徳の時間特権として、担任した子どもたちに「自分は良い子だと思いますか?それとも悪い子だと思いますか、正直に答えてください」と尋ねましたら、ほとんどの子が「悪い子」に手を挙げました。ただ成長して高学年ぐらいになると周囲が見えてきますので、他者と比較したり、あるいは自己弁護の意識で、自分が悪い子とする子は減っていきました。

 そうしてみるとクリスチャンになる人は、大人になっても良心が残っている人であり、罪が分かる人だといえるでしょう。ふつう、自分が正しくないこと、罪がわかれば、自己正当化できず、辛く惨めな気持ちになります。どうしてこんな状態を喜ぶことができるでしょうか。自分を何とか正しいものと思いたいのですが、ありのままに自分を見ると、物欲、よこしまな思い、妬みなど、いろんな欲望が自分の中につきまとい、時に自分を虜にしていることに気づきます。そしてこれに打ち勝ち勝利することは困難です。まるでモグラ叩きのようにキリなく戦い続けなければなりません。結局、諦めるしかありません。そして「人間とはそういうものだ」と開き直るしかないのです。その結果、自分が多くの人と同じように願わしくない所に行くことを予感しますし、死を避け、考えないようになるのがふつうではないでしょうか。

 しかし冒頭のイエス様の言葉は、そのように滅び行く者にとって、唯一の朗報であり、救いです。罪が分かれば、その罪と向き合い、自分の力では解決が不可能であることを悟っていますから、神に救いを求めることができます。心から救いを求める者に、十字架の神の贖いが用意され、信じ、その救いと恵みにあずかる特権が与えられて行くのです。
 罪が分かる者は、それが十字架の福音に結びつけさえすれば、惨めなどころか、
ハレルヤ!絶大な永遠の命の祝福になるのです。

2024年4月14日 (日)

天に行く確かな歩み

マタイ 7章21節   2017新改訳

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 マタイ7章21節には、イエス・キリストのことばとして、「主よ、主よと言うものがみな天の御国に入るのではなく、(以下意訳)父のみこころを行なう者だけが天の御国に入る」とあります。つまりクリスチャンがみな天国に行けるのではなく、神のみこころを行なっている者だけが入れると言うことです。これは明らかにカルヴァンの予定説の「一度でも信じた者は全員救われる」(永久保証)を否定しています。つまり、パリサイ人のように律法を形式的に守っていてもアウトになります。神との霊的な交わりを保ち続け、その交わりの中で神のみこころが分かって、それを率先して行なう者だけだと言われているのです。これは非常に重要なことです。今回、態度を保留していた私にも、主ははっきりさせるよう迫られました。信徒に永久保証を説き、油断した信徒が裁きの日に地に落とされたら、牧師はその咎を負わなければならないのです。

 実は最近、祈っている中で、<キリストは人となって来てくださった見える神そのものである>ことから、直に神である<キリストのことばにもっと注力しなければならない>と示されています。ただし聖書はどれかが重要で、他は重要でないということはありません。

 さて肝心の「みこころを行う」とはどういう事でしょうか。「種蒔きのたとえ」から見て行くと、最近になって、岩地も茨も全てクリスチャンと自称する人たちのことであって、永久保証説を否定するものだということに気づかされました。「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入る」ので、これは明らかです。
 ではみこころはいかにして行えるのでしょうか。それは先ず良い地であることと、その上に発芽する‥‥自分に死んで代わりに神の霊(聖霊)が成長していなければなりません。もちろん成長をさせてくださるのは神(1コリント6:6)です。このように発芽という言葉を見た時、<自分に死んで神の霊に生きる、聖霊のバプテスマを指していることがわかります。それなくして神と交わり、みこころを知ることもあり得ません。<みこころを行う>者は既にこの世のもので無く、神の代理人と称する偽預言者や教祖に盲従する(カルトに属する)こともありません。
 しかし幾度も言いますが、自分に死ぬことは自分の力では不可能です。「心の貧しき者は幸い」‥‥自分の高慢と無力さ、罪を徹底的に知らされる者は幸いなのです。自分に絶望し、神のものになる決断は本人の自由意志です。サタンのように神は人を虜にしません。愛しておられ、その決断する自由意志を切望しておられます。神のものとして自分を捨て神に従う者を、神は愛してくださり、交わってくださいます。交われば交わるほど私たちは神を愛する者となり、神のみこころ、計画に預り行おうとします。神の子であり、御国を受け継ぐ嗣子だからです。

2024年4月 7日 (日)

いつも喜びなさい

ピリピ 4章4節   2017新改訳

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
 「いつも喜んでいなさい」。この御言葉通りに私たちはいつも喜んでいるでしょうか。そうでなく、仕事のストレスや家庭の問題、金銭の不足に悩んで、時に苦虫を噛み潰したような顔をしていないでしょうか。無理に笑顔でいようとすれば、頬が引き吊ったりして(笑い)‥‥ですからこれは、なかなか守れない、困難な命令のように感じます。ですがこれは神様からの命令です。では不可能なことを命令されているのでしょうか。それとも私たちに何か問題があるのでしょうか。それとも世にあっては神の期待に応えることのできない、永遠の理想なのでしょうか。

 確かに私たち、この世に生きている限り、財力とか権威、能力、家柄や名誉、学歴、あるいは姿形から全く無関係に生きることはできません。しかしそれと自分の心がとらわれることとは、まったく別なことではないでしょうか。その例を使徒の中の使徒、パウロに見てみましょう。

 パウロは世のそのようなものはdung(直接的には糞、2017では塵)だと言いました。このように言ったパウロは、イスラエル人の誰もが羨むような世の富を持っていた人でした。八日目に割礼を受け血統正しきベニヤミン族出身。律法についてはガマリエル門下でパリサイ人の中のパリサイ人。誰もが羨むこれらを、パウロはdungと言ったのです。こう言えるのは、これらに比べようもない、はるかに素晴らしいものを得ていたからに他なりません。それは霊的な恵みであって、喜びあふれ、尽きない祝福です。世の思いから逃れられず、平安と喜びがないクリスチャンでは、神の御心から外れています。世から解放される信仰のすばらしさ、例えられない喜びを手にしていないのです。ぜひ希望と期待を持って、焦がれて祈り求めてください。

 しかしまた、別な見方もあります。今現在の私たちの信仰の状態です。心の大切なもの(心)は両立ませんし、そこに優先順位が当然あります。肉のものを信仰より優先している自分があったとしたら、それこそ神とキリストから自分を遠ざけ、奪い、妨害する世のものと戦わなければなりません。神と世と両方とも大切にすることはできないのです。両方とも失ってしまいます。次の御言葉がそれをはっきりと教えています。世の楽しみや富、それらに心を奪われているなら、滅びの道がその先に待っています。今その優先順位をはっきりさせなければならないのです。そうすれば、神は私たちの祈りに応えてくださり、私たちが神を愛する者になるよう助けてくださることでしょう。

だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。マタイの福音書 6章24節

2024年3月31日 (日)

復活の主の言葉

ルカ 24章39節   2017新改訳

わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。

 本朝は主が復活されたイースターです。ルカ24章36-49節によると、死後三日目にイエス・キリストは墓の中からよみがえられたとあります。死後数日経ってから、人が生き返ったというような出来事は、到底信じ難いものですが、これは確かな事実です。
 弟子たちにとって、イエスの復活が無いままの福音には、多くの良いわざを行ったものの、時の権力者にたてつき、最後には殺された預言者だということになっていたでしょう。もしそうならば、結局はユダヤ教のあだ花で、歴史に流され消え去っていたはずです。

 しかしイエスは約束通りによみがえりました。それだけでも、死に対する勝利を取られたのですが、さらに多くの信じ難い不思議がありました。それは「栄光のからだ(御霊のからだ)」でよみがえられたということです。突如として皆が集まっている部屋に現れ、実際の肉体を見せ、その証拠に焼き魚を食べてみせられました。約束されていた天国で私たちが着ることになっている実物の姿‥‥「朽ちないからだ」をお見せになられたのです。これにはその場にいた誰しもが驚愕し、また確信を持ったことでしょう。

 イエスの復活は、それ以前の死と生涯に、光を投げかけ、律法との数々の戦いは何のためであったかを明らかにし、「キリストを信じること=罪が贖われ永遠のいのちの証明である復活」こそが信仰の真の土台」であることを明らかにされたのです。そう言う意味でも私たちは、この復活の日の様子をもっと深く胸に刻む必要があります。主のご受難と十字架の出来事‥‥罪の赦しと、復活における永遠のいのちの勝利がここにあります。

 神を信じるということは、キリストのよみがえりによって明らかにされたように、霊が実際の体を伴いながら、さらに超越的な永遠の御霊の体となって復活することを確認する信仰です。その為には自分の罪の為に、主が十字架上で犠牲となってくださって、贖われたことを信じる必要があります。神を信じることばには、自分の絶望的な罪に、自分自身の命を主に明け渡すことが前提です。「信仰」とはその意味です。信仰者は自分に死んで、主に聞き従う者でなければなりません。
 「主に聞き従う」と申しましたが、神が語ってくださり、従う力をも添えて与えてくださらなければ、どうして聞き従うことが出来るのでしょうか。「神のことばである聖書があるではないか」と言われるかも知れませんが、そのような方は、本当に御言葉通りに生きていらっしゃるでしょうか。「ふ~ん」と読み流し、実際にはこれまで通りの不服従の生活が続いているとしたらどうなのでしょうか。聖霊が信じる者の中で主となって働かれ、その実が生き様に実っている、これがクリスチャンのしるしであり証しです。

2024年3月24日 (日)

天国と地獄

ヨハネ 5章28-29節   2017新改訳

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。
そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

 今私たちは、この血肉の体の命があり、生きていますが、これには必ず死という終わりがあります。その先に何があるのか、考えようとしない人は、ただただ今の生きていることに執着するしかないのです。死は未知の世界で終わりであって、恐怖なのです。それは自分の行き先が暗に分かるからでしょう。確かに死の先にはゲヘナという地獄の世界が待っており、永遠に苦しむことになるのですから、それまで避けて避けて、とうとうゲヘナに投げ込まれるのです。

 人は死ぬと霊肉が分離し、肉は土に戻り、霊は滅ぶことができないので、最後の審判まで「眠る」状態で待機します。そのことを本日の聖書箇所で述べています。つまり霊は滅ばず永遠であすが、最後の審判後ではそれぞれに裁かれた霊にふさわしい滅ばない体が全員に与えられます。しかし問題はその後、ゲヘナに行けば炎熱の責苦で、死ぬことが出来ませんから永遠に苦しみ続けなければいけないことです。悲劇であるのは、滅ばない体が与えられていますから、体への苦しみが、永久に繰り返されあり続けることです。これでは心が滅びます。
 しかし天国では、全く異なります。神の御座からの光、喜び、感謝、栄光、賛美が溢れるところです。雲泥の差というべきです。ですからクリスチャンは死を恐れません。それどころか遥かに見て確信し、待ち望んでいます。なぜなら血肉の体がある間は、世と悪霊どもとの戦いが常に許され、安住の地では無いからです。

 一つここで確認しておきたいことがあります。クリスチャンはなぜ天国に行くか、ということです。実はクリスチャンも同じ罪人です。しかし「罪が赦されている」ので、まるで罪が無いものとされることです。天国は罪がある者は一切、入ることができません。しかし偉大な十字架、神自らが十字架の上で私たちの罪の身代わりを引き受けてくださって、それを我が罪のためと信じる者は罪は赦されるのです。神はイスラエルの民を通して、人間の力、努力では罪を犯さないことが不可能であり、ただ一つ、神の赦しのみに救いがあることを教えてくださいました。

 次に、クリスチャンになっても罪を犯します。その罪はどうするのか?ここがカトリックと異なるのですが、告解して罪を司祭に告白しなくても、全地を覆う天におられる神に告白し、悔い改めるならば赦されて天に行けるのです。その保証は幕屋と呼ばれる信じる者の中に住まわれる聖霊であり、日々聖霊様と交わるの中から、神への愛、救いの確信を持つに至ります。保証は天からのものであり、人が自分を中心とする生き方を捨てた時から始まるものです。皆さん‥‥確信に立って生きた証人としての使命が、クリスチャン全員にあります。神の御心のために、ご自分の人生を捧げてください。確信に立ちましょう。

2024年3月17日 (日)

内なる霊の戦い

ローマ 12章2節   新改訳2007
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
 霊の戦いと申しますと、高い山、街なら高いビルに上って、辺りを見回しながら賛美し、御言葉を置きながら霊の縛りをするイメージが多いかと思います。または家の中にある偶像とか地域の霊に対してもいたします。しかし本日の「内なる霊の戦い」とは、外的なものに対してではなく、クリスチャンである自分自身に対してです。
 私にも数は少ないのですが、悪い夢とか思索に、明らかに悪霊的なものがあって、それからなかなか脱出できず困った時があります。そのような時、「イエス・キリストの御名によって命じる、神のしもべである私から出ていけ!」と命じますと、すーっとその縛りから解放された経験が一度や二度ではありません。これは端的な例ですが、そこまで行かなくても、毎日、毎朝に起こる、自分自身を見つめ、本当に御心の生活を送っているか、内面へのアプローチが絶対に必要です。それを少しオーバーな「戦い」と表現してでも、強く進める必要があると示されました。
 内なる霊の戦いとは? ズバリ、それは日常の生活において、いかに主と交わり、生活の中で御心を行おうとしているかです。クリスチャンは神の霊を注がれ、注がれた神の力によって歩んでいる者です。イエス様もそうでしたし、イエス様に倣う私たちもそうでなくてはなりません。それを実現し、推進する力が祈りです。祈りの中で神の語りかけ、霊の注ぎかけを受けるのです。ですから毎朝の心からの祈り無くして、クリスチャン生活とは言えないはずです。
 当然ながら、このようなクリスチャンライフは、世の霊と激しく戦わなければならない宿命を負っています。睡眠不足だけでなく、時にクリスチャンは微妙な綱渡りをしている感覚に襲われます。自分に自信を持ち過ぎ、高ぶると罪を犯しますし、逆に自分には力がない、と否定的になっては証し人になれません。そこに微妙なバランスが必要です。
 先週は「老いてこそ」というテーマで、肉体が滅びに向かって進んでいく、それが天への熱い思いを強くし、自分に死ぬことが難しかった罪深かさが次第に清められていく、そのようなことを話しました。神は私たちが本当に神を愛しているのかを、絶えず確かめずにはおられない方です。十字架で心から愛されたのですから、愛された方も当然真剣で命がけでなければなりません。夫婦でも一方が浮気してとして、それでお互いの関係が全然変わらないのでは偽りの夫婦です。そのように神は私たちを妬むほど愛してくださっているのです。十字架でどんなに救われたといっても、神との交わりが無く、御心がわからないというのでは、その人は継子です。
 その交わりを実現させるもの、それが日々の祈りに他なりません。あなたがどれほど祈りに心を砕き専心しているか、それこそが<日々の霊の戦い>です。これに勝利をとりましょう。

2024年3月10日 (日)

老いてこそ

使徒の働き 2章17節 2017新改訳
神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

  私の目は見かけは悪くても、性能は良いとばかり思っていた器官でした。ところが、七十歳を過ぎてから、どうもそうではなくなりました。十年前の緑内障の発見から、最近特におかしいのです。
 例えばテニスで、ボールがラケットの芯になかなか当たりません。高速道路でスピードを出すと、側方の景色がまるでコマ落ち動画のようにカクカクになります。もっと困ったことは人が変に見え出したのです。中景にある人物の顔が、雪だるまのように、目と眉を二本の炭で横に置いたように見えるのです。これは不気味でしたので、かかりつけの眼科医に絵でを見せ相談しました。

 眼科医は困ったような顔をして言いました。「中村さん、あなたの歳ではとても自然なことなんですよ」と。そして自覚の足りなさそうな私に向かって、実は私の水晶体はすでに濁ってきており、白内障が出かかっていること。雪だるまに見えることについては、この歳まで10メートル先の瞳が見えていたことの方が優秀であったことを告げてくれました。そうです、眼科医は「老いた」自覚のない私に「老い」を強制認識をさせてくれたのです。

 少しショックでした。が突然、かねて聖書で幾分なりとも不審に思っていた真理がわかりました。それはなぜ老人が主の器として用いられるのかということでした。アブラハムは75で召命を受け、百歳で約束の子を得ました。しかしその子でさえ、神はアブラハムが自分に従うことができるか、究極のテストをされたのです。モーセは80歳からの召命です。エジプトの王子だったモーセですが、自分がイスラエルの民を救えると思い上がってしまい、エジプト人殺しの追っ手を逃れ、遠く辺境の地ミデアンまで逃れてきたお尋ね者でした。それから40年、しがない雇われ羊飼いとして、その生涯はやがて失意のうちに終わるはずでした。彼にはもはや希望というものがなかったのです。
 「老いる」と言うことは、肉の命にもはや希望を持てない事を意味します。この、「希望が無い」と言うことが非常に重要です。神を信じない未信者には老いは呪いでしょうが、神を信じる者には希望そのものです。なぜなら、人の努力や力では不可能な<自分に死ぬ>ことが限りなく近く迫っており、神の器として適切です。肉が残っていれば、結局はサウル王のように聞き従わない罪を犯し、神が悔いるリスクを負うことになるからです。

神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。(使徒の働き 2章17節)
 しかし年をとり、肉体に希望を失った者には、もはや天にしか希望がありません。そして老人はリアルに神の栄光と天を夢見る、神の器として用いられるのです。

2024年3月 3日 (日)

なりふり構わず

 ✝Ⅱ歴代誌 20章15~16節   新改訳2007 

彼は言った。「ユダのすべての人々、エルサレムの住民、およびヨシャファテ王よ、よく聞いてください。【主】はあなたがたにこう言われます。『この大軍のゆえに恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。
明日、彼らのところに攻め下れ。見よ、彼らはツィツの坂を上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前、谷の外れで彼らに出会う。
Pasted-graphic2 これは殉教聖会後に西坂の丘の上に現れた虹です。 
これをもって秋元牧師は、かねての預言通り、長崎からリバイバルが始まったと明言されました。そこで息子のヨハネ牧師が「先にアメリカでリバイバルが始まったというのは?」と聞いたそうですが、「あれは信仰であって、これは本当だ」と、答えられたそうです。

 本日の本題ですが、先ほどのリバイバルとも関連するのですが、この群れは1984年4月1日に国分寺で始まって以来、40年が経とうとしています。個人的に強く示されているのは、全国的な大リバイバルが起きるためには、著しい聖霊の働きかけである<癒やし、奇跡、預言>など賜物の働きが必須であることです。今、この群れでは著しいそのような聖霊の働きが「(秋元牧師談)ちょっとしか起こってない」ということで、秋元牧師が神さまに聞かれたそうです。「それはどうしてでしょうか?」と。
 すると次のように主が秋元牧師に答えられたそうです。『本来の役割を果たさなかった』と。その理由としては次のようなものでした。『カリスマが働き始めた時の対応で、人から変に思われる、おかしいと思われることを恐れた。それで理知的に自分たちが正しいと証明しようとしたためにおこらなかったのだ』と。
 そのような著しいカリスマの働きこそなかったものの、この40年、聖書に基づいての賜物の教会管理、吟味方法などを対応を行ってきました。カリスマの群れの多くはこの間、泡沫の水の如く現れては消え、消えてはまた現れましたが、この群れだけは揺るがせに負けなかったのです。これは評価すべきことでした。理知的に対応したからです。
 しかし主はそうではなく、「あなた方は気狂いにならず、利口な者になった」と今後の道を示されたようです。日本にカリスマの働きが浸透しなかった原因の一つがそうであるならば、逆に今、私たちが夢中になって後先考えず、主の御心を行って行くことが、偉大な神の働きである聖霊の賜物が注がれ、この国に大リバイバルが起こって行く、ということではないでしょうか。キリスト気狂いになりましょう。アーメンでしょうか。

2024年2月25日 (日)

いのり

マタイ 6章6節   新改訳2007

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 私たちの神、創造主は広大な宇宙やその中で唯一水の惑星である地球、そこにありとあらゆる生き物を造られ、最後の最後に人を造られました。人はそれまでの特別な存在、霊肉合わせもった被造物(創世2:7)でした。霊だけの天使もありますが、霊肉を併せ持つという点に最大のポイントがあります。
 肉は必ず終わりますが、終わるまではその命を懸命に守ろうとします。これは肉の命を持つものすべてに備わっている強固な本能です。しかし霊にとって罪に当たります。霊は肉には見えませんが、見えない霊は滅びず永遠の存在です。物質でないからです。そこで肉体の命という限定条件下で、十字架によって肉体にある罪を赦され、神と和解して霊を回復できるかどうかが最大のポイントになります。人は誰でも永遠の霊を持っていますが、死後、天と地への二分(黙示20:12ー15)は避けて通れません。聖書ではこれを最後の審判と言います。
 では霊肉併せ持った人の命を創造された、神の創造の目的とはなんだったのでしょうか?それはズバリ、子として交わる者を得るためです。天に行く人の子は全員、誘惑や試練困難を受けてパスした子ですから、そんな試験の無かった天使よりも地位は高い(ヘブ1:14)のです・・・

 神は愛と聖のお方です。そのお方の子として交わるには、当然同様な性質が必要です。そのために神はイエス・キリストを地上に送り、十字架上で人類のすべての罪を背負わされました。悔い改めて信じるならば罪赦され救われるのです。ただ一つ、問題は本当に罪がわかり、悔い改めて肉に死んだか、です。しかしこれにも明確なしるしが伴います。聖霊のバプテスマに続いて注がれる神の愛(ガラ5:22-23)、その結果として聖霊の賜物(1コリ12:1-10)という実が結ばれていくことです。
 天の父との交わりを、この地上で営むことを<祈り>と言います。地上の親子でも、顔を合わすたびに「○○欲しい、○○してくれ」とばかり要求する関係はいびつです。たまにはあるでしょうが、祈りは要求し、引き出す交渉の場ではありません。何よりも愛する神と交わる場なのです。ただ生まれたての赤子が「おっぱいが欲しい、お尻を快適にして欲しい」と絶えず要求ばかりしますが、赤ちゃんのままのクリスチャンも同様な傾向があります。人の子どもが成長するように、クリスチャンも成長し、交わりの中から父の御心がわかり、父の御心が行えるように成長しなければ、天の父をがっかりさせてしまうのです。祈ることがどんなに楽しく素晴らしい恵みか、それは皆さんの「祈り」の成長にかかっています。

 最後にお勧めしますが、一日の内で祈る時間を最優先にしましょう。就寝前の祈りから1時間の早天の祈りを大切にしましょう。それには就寝時間がポイントです。「明日のことは明日が心配します」(マタ6:34)。クリスチャンは御言葉と祈りに生きるのです。

2024年2月18日 (日)

さばくな

マタイ7章1節   2017新改訳

さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。

 月曜日ごろ聖書を何気なく読んでいるとマタイの7章の「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」の御言葉が目に刺さるように飛び込んできた。瞬間的にこれは天からの警告、注意であることも理解していた。それは日頃から、ある特定の方の言動を不正義に感じ、<許せない>思いを感じていたからに違いない。最近はむしろ怒りに近い感情さえ持つようになっていた、そのタイミングでこの御言葉が来たからだ落ち着いて考えるならば、このような怒りは冷静さを失ない、相手の事情も構わず、自分を絶対的な義の存在としてさばくからだ。そしてそれは神の主権を奪うことにもなっている。これは自分が裁判官になってしまい、「さばきは神のもの」(申命1:17)への明白な違反であった。この<自分が一番正しい>とするのは、エバから始まった罪、神をないがしらにして聞き従おうとしない罪そのものだ。

 人は自分が正しいと信じることを信じて生きようとするものだが、実はそのほとんどが間違っているのだ。誰が間違った人生を歩もうとす流だろうか。私はこれまで、短いとはもはや言えない人生で、唯一神を選んで信じた以外、自分が正しい決断や選択ができたと言う経験はほとんどない。唯一と言ったが、この唯一というのは神の哀れみと愛の導きの結果であって、真実は可能な限り私は抵抗して抵抗して、追い込まれて仕方なく<信じた>というのが真相なのだ。この群れではほとんど耳タコのように「神に聞き従う」ことが熱心に説かれるが、自分を捨て、神に聞き従うことは<人間中村>を磔にし、自分のことなど木偶の坊のようにしなければ不可能なことなのだ。

 クリスチャンの皆さんにお聞きしますが、別な言葉で「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」とイエス様が語られていますが、そのように死んでいらっしゃいますか。しかし憐れみ深い神は私たちを哀れみ、苦難の道を通されました。この中で、誰か伴侶を失っていない人がいますか?いません。この中で、財産が富んだものにされてますます豊かにされた人がいますか?いません。この中で、家庭が最高に祝福されてみんな元気で問題など何一つない、そんな方が来ていらっしゃいますか?いません。私たちは苦難の道を通してでないと、世が儚いこと、頼ることができなことを知ることができません。苦難を通して神を知ったので、今ここに、会堂も何の飾りもない、牧師も無名なのですが、この臨在ある教会に立っているのです。
 世の富が失われて初めて知る、愚かな自分に注いでくださった神の絶大な愛と救いの価値ゆえに、何もお返しができないがゆえに、今自分自身を神への聖なるささげ物として立とうとしているのです。アーメンでしょうか。

2024年2月11日 (日)

世界の終わり

黙示録 13章5節   2017新改訳

この獣には、大言壮語して冒?のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。

 聖書には1500箇所以上の終末時のメシア再臨預言があります。そして現在はかつては絶対不可能だとされていた、イスラエルの復興後すでに七十年が経っています。現在ではあり得ないと見られていた北のマゴクことロシアが、イスラエルに南下する道も開かれています。しかもハマスとの戦いで現在のイスラエルは、世界の多くの国から非難を浴びており、これも預言通りイスラエルが憎まれる構図になっています。これでエゼキエル書やダニエル署に書かれた終末のお膳立てが、まさに整ったというしかありません。
 コロナという疫病や頻発する地震、ウクライナ戦争から引き起こされた食糧難と近年の異常気象、物価高など、世の終わりが近づく不安は高まっています。しかし人々は不安を感じても、できるだけ死を考えないようにするのと同じで、見て見ぬふりをして避けています。しかし必ずそれは近い将来、外れたことのない聖書が預言した世界の終わり、終末は必ず来るのです。

 また個人的な実感ですが、教育の仕事に携わって感じることですが、急速なデジタル化によっても人間関係や思考力、忍耐力が低下しています。ぱっと判断して「できない」と一瞬で問題を投げ出すとか、他者を思いやることが乏しくなっています。その場限りの軽薄な判断や思慮の浅い行動を取り、互いに自制ができなくなっての混乱が大きくなって行くことでしょう。また日本でも進行している貧富の差が拡大し、先が見えなくなっています。こうして今後、首魁が不安定になり、愛が冷めて行くことでしょう。第一次大戦で敗北したドイツではヒットラーが民主的に選ばれたように、反キリストを生む舞台装置は整っています。

 本日の黙示録にありますように、七年間の患難時代の中、後半の3年半は完全に反キリストと呼ばれるサタンが世界を支配する時代になります。しかしクリスチャンにはその直前に空中携挙があって、完全に守られます。しかし携挙に残された自称クリスチャンにも、後半の時代に殉教というチャンスが残されています。この患難時代こそ、産みの苦しみの時代であり、クリスチャンにとって天への希望の時代です。
 本日は「世界の終わり」と題して、このような時代に私たちはどう対処して行くかを行くかを宣べたいと思います。皆さん、歴史上多くの戦いで証明されたことがあります。それは常日頃から備えをしていた側が勝つという原則です。宗教改革者のルターは「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日、りんごの苗を植える」と言う言葉を残しています。
 ルターは、今過ごす一日一日が、自分にとってかけがえのない備えの時であることを言っています。彼のように私たちも、普段の日常生活そのものが天国への備えの日々にして行かなければなりません。毎日を「その日に備える」。そうして救い主がいつ来られても良いよう待ちつつ、日々を過ごして参りましょう。その日を勝利の歓喜をもって迎えるためです。

2024年2月 4日 (日)

女の子孫

創世記 3章15節   新改訳第3版

わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
 本日の聖書箇所は、メシア預言と言われるものの、いの一番に挙げられる所です。

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(創世記3:15)」

この箇所は、「なんでこれがメシア預言なの?」と思われる方が多いのですが、とんでもない、大変重要な預言箇所であり、原始福音として是非とも理解しておかなければならない所です。

 ご存知のように、これはエバとアダムが禁断の木の実を食べた直後に神が蛇に言われたことばです。そして二つのことがここで定められました。一つにはあらゆる生き物のなかで蛇(サタン)が最も呪われるということ。二つ目には女の子孫である「彼(単数名詞)が、敵対関係に置かれ、後におまえと呼び捨てにしたサタンの頭を踏み砕く」です。言うまでもなく、彼とはキリストのことです。そして頭を踏まれ、砕かれたのでは、もはや再起は不可能です。サタンが再起不可能とはゲヘナという地獄に落とされることを意味します。対するにキリストの方は、かかとを噛まれますが、これは致命的なものではありません。このかかととは、十字架の痛みを指すものでしょう。
 そして「女の子孫」「彼」にも大きな意味があります。女の子孫とは女系の血筋という意味ですから、キリストは母親の家系から生まれるのです。これはユダヤ人にとっては異例なことです。確かにルカ福音書を見ると「ヨセフはエリの子」と書かれています。日本語ではわかりにくいのですが、エリはマリアの実父ですから、ヨセフには義父になります。イエス・キリストは人間の遺伝子を持たないで乙女マリアから生まれ、マリヤの胎で育ち、マリヤから産まれて育ったのです。マリアにとって、遺伝的には他人であっても、不義の子を宿したと言われるリスクを承知で腹を痛めた子ですから、イエスは母の愛情を存分に受けて育ったものと考えられます。

 また、こうしたユダ族の系図は紀元70年に起こったローマによる神殿破壊と放火によって失われましたから、メシアはそれまでに世に登場しなければいけなかったのです。聖書の数々のメシア預言は、こうして完全に成就しています。この点でも、神の計画は世界の創造の時から、また人間の堕落の時点から、メシアによる人間の救いの計画がスタートしていたことがわかります。神の計り知れない知恵と力は人である私たちに計り知ることの出来ないものです。しかし神はなんと愛に満ちた素晴らしいお方なのでしょうか。 この方を私は信じます。

2024年1月28日 (日)

神に用いられる

Ⅱテモテ 2章21節  2017新改訳

ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。

 私たち神を信じる者は、まずもって神に愛されていたからです。そして神を愛しています。愛は一方的なものではなく、相互的なものですから、なんとかして私たちも神の愛に応えて行きたいと思うのが自然な感情でしょう。。
 その愛しているので、愛する方の御心を行なおうとします。例えば小さな子どもが親におつかいを頼まれたとします。子どもは親の役に立つことが嬉しく、ちょっと不安もあリマスが誇らしいものです。が、親にとっては心配です。ですから、まず子どもの成長や特性を見定め、実際にできる能力があるかどうか、道のりや金銭感覚、所定のものがわかるかどうかなど、熟慮した上でできることを確信してお使いに出すことでしょう。私たち神の子どもは安心して役目を果たすことができます。人間の親とは異なって神は完全であり、私たちの能力(タラント)を私たち以上に正確にご存知です。ですから5タラントだろうが2タラントだろうが、言いつけに従って言われたことをやれば必ず成功します。しかし、もしかして不首尾に終わるとすれば、1タラントを地中に隠したしもべのように、しもべの側に自分の考えを優先する問題があったからです。

 つまり神の側は完全で誤りがないのですから、私たちの側の行なう決心や意志の方が決定的に重要です。またせっかく全うするための道具として賜物を与えられていても、それをただ地面に埋めて隠し持っていただけでは使命を果たせず、信頼せず不服従の報いを受けることになります。ピアノが弾ける、会計やコンピュータができるなど、世的な賜物の力も、決して偶然と考えてはいけません。神があらかじめ備え、御心に従って用いるためのものであることがほとんどです。実際、この群れでは音楽とか映画というジャンルで多くの証人がいます。これらの世における賜物と合わさって、九つの聖霊の賜物が用いられて行くのです。

 このように神に用いられた人々の実例を見ましょう。そこに一つの共通点があることに気づきます。パウロ、アウグスティヌス、ジョージ・ミューラー、マザー・テレサなどからわかるのは、用いられる器にふさわしく、たとえ信じる前に汚れた過去があったとしても、本人の意思と神の恵みによって<きよめられて>いることです。本日の聖書箇所、だれでもこれらのこと(世的なこと)から自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります(1テモテ2:21)はそのことを示しています。聖霊が住まわれ、人を通して働かれるには、その人の自分に死に、神に明け渡したきよい人であることです。ですから神を愛し、神に応え、御心を行なう器として神に用いられようとするならば、神の聖さにふさわしいきよめを求めましょう。神への愛が、その願いを起こさせ、神がその願いに応え、神の方法できよくしてくださるのです。
 ですからまず祈り求めましょう。「主よ、どうか私を罪の縄目から解放し、汚れた私を洗ってきよくしてください、それによってあなたの御心を行なう者に私を造り変えてください」と。

2024年1月21日 (日)

御霊の実と賜物

Ⅰコリント 12章31節   2017新改訳

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。
 私たちはカリスマの教会で、異言や預言、癒やしなどに熱心な教会です。九つあると言われる御霊の賜物(Ⅰコリ12章)を用いて、世における神の計画の進展を願っているのです。
 しかし聖書には同時に御霊の実(ガラテヤ5章22~23)ということばが存在します。賜物と実、これを今までは横並びで理解していたのですが、最近になって「順序があるのではないか」と思うようになりました。つまり「御霊の賜物の前に、先ず実ありき」ではないかと。そこで聖書を詳しく調べてみたところ、以下のことがわかりました。賜物については、A信仰、救いと理解されるべきものと、B癒やしや預言などの九つの特別な賜物と理解すべき二つがありました。

 実については、「悔い改めて身を結ばねば火に」と迫るものや、聖霊の働きによって神の品性を表すような九つの実が併記されていますが、基本、愛が中心となるものでした。これら実も賜物も、自分が死んでいない肉的な人に現れることはあり得ません。働きがその人自身のように見えても、その中身、働きは聖霊である神です。ですから、通り良き管となっている人の思うがままに使えているわけでも、自分の意思で用いているわけでもありません。

 これがよくわかる話に、七人の執事の一人、ピリポの話があります。彼はステパノ以後の迫害によってエルサレムを追われ、遣わされたサマリアで伝道をします。そこでは聖霊の賜物が大いに用いられ、バプテスマを多くの人が受けました。現地で評判の高かった魔術師のシモンまで本物のしるしと不思議に、ピリポに付き従うようになります。ところがピリポには、聖霊のバプテスマまでは授けられなかったので、エルサレム教会のペテロとヨハネが遣わされ、聖霊のバプテスマを施しました。「シモンは、使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て、使徒たちのところに金を持って来て」(使徒 8章18節)それを二人から買おうとします。

 シモンは金で得ようとしたので「悪事」と呼ばれました。シモンのように金を持って来ないまでも、聖霊のバプテスマを<受けたい>と願う人は多いことでしょう。しかし勘違いしてはいけません。肉が死んでいないのに求めるなら、それは自分の栄誉のためであって、シモンと同じ「悪事」に他なりません。

 先ず、聖霊のバプテスマを求めましょう。これこそ御霊の賜物と実の土台であって、聖霊ご自身が分与され注がれるものです。自分に死に、完全に明け渡していなければ聖霊のバプテスマはありえません。悪霊や肉の霊と神が同居されることはあり得ません。また自分に死ぬことは自分の力でできません。悔い改め、心から神に自分が捧げられるよう祈ることしかありません。道のりを歩き、時が来たら与えられるでしょう。また貸与であって、サウル王のように、従えなくなれば取り去られます。結局、神が人を通して働かれる外面的なものが「賜物」であり、神の実質を見る内面的なものが「実」です。その土台は「聖霊のバプテスマ」です。

2024年1月14日 (日)

恐れるな

ヨハネ 14章20節   2017新改訳

その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

 最近マザーテレサの手紙というものを知る機会がありました。以下、その内容です。
「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない。もし魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実でない。」・・・この手紙はごく親しい司祭に宛てたもので、本人からは非公開にしてほしいと要望されたものでした。  
 この手紙を読んでみると、彼女は神の存在を一時的にせよ、疑う時があったことがわかります。もちろん神の存在を疑うことは天的なものではありませんが、この世に肉体をもって存在している限り、惑わしは逃れられないものです。むしろ、その揺るがせの中で、堅く信仰を持ち続けることが大切なのではないでしょうか。つまり、マザーテレサも弱い肉体を持った人間であった、その中でことごとく惑わしを断ち切り、打ち破ってあの偉業を成し遂げたのです。

 さて視点を聖書に戻してみますと、偉大な預言者エリヤでも死を願ったり、聖霊のバプテスマを受ける直前の弟子たちも、同じような疑いと不安の中で集まり、必死に祈っていたはずです。現代でも明らかに神を声を聞いたマザーでも、こうした疑いを抱かされるのです。私は幸い、聖霊の注ぎを受けた以後、存在を疑うことはなくなりましたが、それでも神を身近に感じたり、時に遠く感じたりします。クリスチャンには次のような段階というものが存在します。

聖化の段階
①無味乾燥の不毛状態が続く
②全ての被造物との離脱に導かれる
③その後は神の御手に適合した道具となって、純粋に私心なく神に使える
④キリストとの高い一致に到達する

 私は③や④のような段階に至るまでの、②の段階であり、かなりひいき目に見ても、③の初心段階ではないかと思います。それでもキリストや神を決して否定することなく、老化という神が導かれる恵み、肉体の衰えが肉体への希望を失わせつつあるという恵み‥‥それは全ての被造物との離脱に向けての大きな希望を抱くのです。
 それゆえ聖書には、いったい幾度神は「恐れるな」と語られているのでしょうか。疑い、恐れてはなりません。自分自身への疑いや惑わしに乗らず、③の段階である、神が用いてくださる私への使命を、神は全うさせてくださることを確信しているのです。
 神を信じ、神を追い求め続けましょう。その先にあるのはただ天への希望であり、神の光です。さあ、祈りましょう。

2024年1月 7日 (日)

聖別~この世のものでは無い

ヨハネ 17章16~17節  2017新改訳

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です
 古来から「諸行無常の響きあり」と、この世の全ては移り変わっていくことは知られていました。人間だって、曾孫の代になれば、ほぼほぼ忘れ去られてしまっているでしょう。世、世界は流転しています。しかし、ただ神のことばだけが永遠に、時を超えて確かに存在し続ける唯一のものです。
 実際、ここにおられる皆さんは、おそらく美しいステンドグラスの光の下、荘厳な礼拝堂に魅せられて来られたわけではなく、また天使のような素晴らしい人に憧れて来られたわけではないかと想像しています。

 そもそもこうした教会と、その真実な信仰を持っていらっしゃることが奇跡です。まず神が人の形をとってこの世に来られた。これは結構神話なんかにありますが、処女から聖霊によってお生まれになったというのは、かなりハードルが高いです。常識ある人は信じないでしょう。そのイエス・キリストという人は、死人を三人も、最後には腐っていたのですが蘇らせ、あらゆる患い病気を癒やされ、海の上を歩き、嵐を鎮め、五つのパンと二匹の魚で数万人の食事を賄われたというのですから、これを信じるには、人間を捨てないと難しいかも知れません。その上、崇められる教祖様が酷い十字架刑で苦しみ抜いて死なれ、三日目に復活し、その後大勢の人の前に現れ、共に食事をしたりした、という極め付けの出来事が、神のことばである聖書に書かれています。これを信じる皆さんとは、本当に自分自身の価値観、在り方を捨てていらっしゃるのです。これは自分の力ではできません。そうです、自分では信じられなくても、皆さんの内に御住みなっていらっしゃるご聖霊様が、助けてくださったのです。

 皆さんはすでに聖別されています。父母の間から生まれて来ましたが、実は天地万物の創造の直前、神の計画によって霊がすでに神の子として生まれていたのです。したがって皆さんはすでにこの世のものではありませんから、世から迫害を受けるのが当然です。多くの苦しみを通して完全なものとされるのは、天に属する者として、ふさわしいことなのです(ヘブル2:11から)。
 ですからみなさん、賜物を持っている人は賜物を用いて感謝しましょう。しかし恐れてはなりません。ハレルヤ!主は十字架ですでに勝利を取っていらっしゃるのです。堅くたってみことばを忠実に守りましょう。(2テサ2:15)

2023年12月31日 (日)

これはひどい話だ

ヨハネ 6章60節   2017新改訳

これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」

 福音書の中に、なかなか私たちには理解できないイエス様の行動がいくつかあります。本日はその一つ、自分に従われる大勢の弟子たちが一斉にイエス様から離れて行く事件がありました。本日はそのことについて語らせていただこうと思います。

 ヨハネによる福音書の6章にそのことが書かれています。場所はガリラヤ湖畔のカペナウムです。それまで付き従っていたたくさんの弟子たちは、イエス様のこの言葉によって去ったのです。
 かつて荒野でイスラエルはマナを食べたが、彼らは死んだ。しかし「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるもの」と言われ、群衆からそれを求められると「わたしがいのちのパンです」と答えられたのだった。そして決定打は「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」とさらに明言されたことだった。
 これを聞いた弟子たちは<人肉嗜好>だと思い、「これはひどい話だ」と去って行ったのです。どうしてこのような誤解されることをあえて言われたのでしょうか。背景とその後を見るなら、実に深い計画があっての言葉だとわかります。

 まず第一にイエス様は二つの理由によって、群衆から追いかけまわされていました。一つは奇跡見たさの群衆です。直前に五千人の給食という大奇跡をされていたからです。群衆はエリヤの再来だと思っていたのです。もう一つは最も危険な、イエスを王に担ぎ上げようとする政治的な陰謀です。またそこまでではなくても、弟子たちが本当にイエス様を信じて従おうとしているのか、試しが必要でした。「これはひどい話だ」と思った弟子たちは、自分の常識や判断でイエス様のことばを捉えました。そして自分の判断に従ったのですから、これは本当の弟子ではなかったのです。
 現在でもクリスチャンと称しながら、すべて物事を自分の判断で為し、教会に集っていながら、自分に何がしかの益を得ようとする人々は多いのです。このような目的で付き従う弟子の存在は、十字架に向けての宣教には、かえって妨害になるのです。

 さらに本日もありました<聖餐式>において、見かけはパンとぶどう酒ですが、そうではなく、イエスの体を食べ、その血を飲んでいます。私たちイエスを主と告白したので、永遠のいのちを受けているので聖餐の恵みに与るのです。人肉嗜好のように聞こえたイエス様のことばは、人智では測り難い、神の真実でした。

2023年12月24日 (日)

キリストに望みをおく者

Ⅰヨハネ 3章2~3節   2017新改訳

2:愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3:キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

使徒2章で、イエス様がご自身を信じる者は証人として「地の果てまで、わたしの証人となる」と語られました。

 一昨日の金曜日の夜、私が勤めている学校の慰労会があり、その時、同席していた同僚からいきなり「本職はなんですか?」と聞かれました。以前私が今の仕事は副業で、別に本職があると言っていたようなのです。私はすぐに「牧師です」と答えました。するとみなさん、一様に驚かれていました。牧師が珍しいのか、私が意外だったのか、どちらかでしょうけど。

 そこで「はた」と気づかされました。「今まで教室の子どものためには、あれこれ祈らされてきたが、同僚たちのことはまったく祈っていなかった」と。世の人々への証し人としては、何たるうかつなことでした。証人として私には、何の能力も資質もありませんが、それで引っ込んでしまっていては、何のための世との関わりだったのでしょうか。これからは証人として主に用いられるよう祈ることを強く示されました。力のない者であっても、神の力は祈る者を通して流されて行くからです。
 それでかなり反省し感謝もしていたのですが、今年の歌集ガラテヤ人への手紙5章22−23節で「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容・・・」とあります。今年の歌集にちょうどこの賛美があるように、それらはわたしにはないし、どこまでもレンタルですが、神が注いでくださるものです。自分が証し人として足りない力や、過去に打ちひしがれるのではなく、み心を行うために、上から受けるものです。それはちょうど子がお遣いに行くようなもので、神はちゃんとお金や何を買うかの商品知識を持たせてくださるのです。イエス様もこのことを「わたしは、自分からは何も行うことができません」(ヨハネ5:30)。つまりやることも、やれる力も主から来るのです。来てもいないのに無いことを悲観してはいけません。
 今回のことも、これが主の示しでしたら、私は同僚の救いのために熱心に祈ることができ、その力が与えられ、実際主が働かれて行くのを見ることでしょう。
 明日のクリスマスを迎えるにあたり、「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストがきよい方であるように、自分を清めます」とある通り、今は私はこのように、祈りたちなかったり、御霊の現れ、その証に乏しい者です。しかし、だからと言ってこのままではありません。神の時には、主が九つある御霊の必要な力を注いでくださるでしょうし、天に行く時には「望みをおいている」限り、必ず清くされて引き上げられるのです。
 今、御霊の現れがそうでなくても、真に信じている者は必ず救われ、天で清くされるのです。主に感謝しましょう。

2023年12月17日 (日)

彼らはわたしの民となる

ヘブル 8章10節   2017新改訳

それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 私たちの教会は、イスラエルに重荷がある教会です。聖書は神のことばなので、そこで語られて来た預言は、これまで外れたことがないばかりか、これから起こる事を知らせ続けるのです。今ほど聖書で語られた終末に「世界は非常に近づいている」と感じさせられることはありません。

 さて私たちの教会は「イスラエルに重荷がある教会」です。重荷とはなんでしょうか。それは終末期、二つのことが起こると預言されている二つ目のことです。つまり一つ目はありえない出来事ですが、二千年の時を経て、再びイスラエルの国が再興されたことで、1948年に成就しました。
 次は未成就の預言ですが、エルサレムに第三神殿が建ち、イスラエル人がとうとうメシアニックジューになるというものです。従って私たちはユダヤ人のメシアニック化に向け、現在ではまだ少数派の彼らと連携を取り、毎年イスラエルを訪問しながら関係を深めて協力体制をとっています。終末の最後段階では、全世界に福音が、そして日本がリバイバルが興り、仕上げにイスラエルが主イエスをキリストとして信じるリバイバルが起こされることを期待して祈り続けているのです。
 10月7日、イスラエルにとって驚くべき悲劇が起きました。ハマスによる奇襲攻撃であり、その虐殺の手口から、憎しみに支配されたテロリストの本性、非人間性が明らかになっています。これは今やイスラエル国の存亡をかけた戦いとなって二ヶ月余り、ガザでは2万人以上の犠牲者が出て、国連でイスラエルへの避難決議がされています。そんな中、私たちはイスラエルへの重荷をどのようにして担えば良いのでしょうか?

 まず第一にはっきりさせたいことは、どちらが始めたか、ということです。イスラエルの歴史上独立戦争に次ぐ犠牲者を、それも民間人に対する残虐な奇襲攻撃をしたのはハマスです。日本も真珠湾攻撃をして奇襲しましたが、軍に対しでした。しかしハマスは音楽祭に参加していた人々、ガザ近くに住んでいた一般市民を1500人あまり犠牲にしたのです。しかも250人の捕虜までぶんどりました。日本は東京大空襲や広島、長崎への原爆まで落とされ無慈悲な数十万の犠牲者を出しましたが世界にアピールなどしません。しかしガザの状況はニュースで映し出します。犠牲者が増えることには痛みを覚えますが、しかしこれはテロ組織ハマスに利用されているのです。
 爆撃したところの地面によく大穴が空いていますが、これは地下に大きな空間があったことを意味します。そして建物内での死者が多いのは、警告されても避難しないよう脅されるからです。つまり、純粋な戦闘員以外の死者は、守ってくれるはずのハマスによって間接的に殺されていると見るべきでしょう。民主主義国のマスコミを利用し、有利な状況を作り出そうとするテロリストの戦略です。日本と違って欧米のマスコミが報道に控え目なのはこの点からです。

 私たちはテロ組織のハマスが倒されること、ハマスによってガザの人々がこれ以上犠牲になることがないように祈り、またマスコミがハマスに加担することなく、報道することをも祈りましょう。

2023年12月10日 (日)

万人祭司

マタイ 16章18節   2017新改訳

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
 マタイ16章18・19節の箇所は、カトリック教会にとっての生命線です。なぜなら、「わたしはこの岩(ペテロ)の上に、わたしの教会を建てます」の御言葉を適用して、教会の正当性と救いが、ペテロの後継者であるローマ教皇にあるとしているからです。

 しかしそれは一般の人が聖書を読めなかった時代はともかく、印刷技術が発展し、誰でも聖書が読めるようになった時点で、文の流れを読むなら誰でも分かるこじつけ(曲解)です。聖書を利用して、自らを絶対的な権威にしようとし、それは聖書の真理と十字架の神の御心をないがしろにする罪とすら思えます。
 この箇所をここまでの流れを読むなら、文脈上、弟子の代表であるペテロの「あなたは神」という信仰告白に対して語られたことばです。またイエス様はよく「岩の上に自分の家を建てた賢い人(マタイ7:24)」のように、信仰を岩にたとえられることが多いのです。さらに、終わりにイエス様が弟子たちに口封じをされたことからも、これは皆に語られたことであることは確かです。
 重要なことは、イエス様が福音書全体で語っていることから察して、これはペテロ個人だけに教会と天国の鍵を‥‥と受け取ることは無理があります。普通に自分に従う者全体に対して語られ、岩のような堅い信仰と告白の上に立つよう語られた‥‥ことに疑いの余地はありません。

 パウロは晩年にローマに到着して、ローマ教会の礎を築きましたが、その後ペテロが来たとは、聖書ではない外典・偽典や伝承として残っているだけです。ローマの教会の土台はパウロです。カトリックは本日の聖書箇所を基にして、伝承にもとづいて、神と人との仲介者(聖職者)の地位、人間でありながら、神に等しいほどの権力をぶんどろうとしたのであって、その根拠にしたのが唯一、本日の聖書箇所に過ぎません。
 百歩譲って、ペテロは確かに語られるのにふさわしい弟子でした。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」のイエス様のことばに多くの弟子たちが離れ去っても、ペテロは揺らぎませんでした。ゲッセマネで、捕縛のために来た大祭司のしもべマルコスの耳を切り落としたのもペテロです。イエス様がガリラヤ湖においてもペテロに「わたしを愛するか」と問われ「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。
 しかしたとえそうでもはっきり言えることは、神の言葉である聖書にそのような仲介者、聖職者を記した記事はありません。むしろ信じる者、誰にでも聖霊が住まい、聖霊さまが祭司として私たちは神と交わることができるのです。プロテスタント教会に教役者、牧師は必要ですが、聖職者では決してありません。務めを終われば、ただの信徒です。仲介者は一切要らないのです。人と神との間に仲介者不要であって、どこまでも人は罪人に過ぎません。

2023年12月 3日 (日)

罪深さからの救い

コロサイ 3章12節

3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

本日の聖句前半の「神に選ばれた者、聖なる者、選ばれた者」とは、クリスチャンのことです。後の深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容には、個人としてはうなだれるしかありません。

 この二節前には「新しい人を着た」(3章10節)とあるので、聖霊のバプテスマを受けた者に語られていますが、その結果恵、聖なる方を知るにつけ、私は自分をますます罪深く感じ、まず神にあわれみを乞い、その赦しの中で平安を得るようになりました。私に慈愛とか、謙遜、寛容の心は一切なく、それらは全て神のものであることが分かるのでした。

 信仰義認とは一般的に、秘蹟奇跡路線で罪をゆるす儀式宗教カトリックに対して「信仰によってのみ神から義とされる」と理解されています。十字架を信じる信仰によって、自分は赦され義とされるとほとんどのクリスチャンは信じているのです。しかしそのような自分を義とする自得的な信仰では、実は危ういと私は思っています。聖とされ義であるのは、ただ神のみで人ではありません。私に義は無いのです。そのことは「着る」と表現されているように、私はただそれを一時的に着させていただくだけであって、私そのものではないのです。ここを勘違いしてはいけません。簡単に言えば、聖霊のバプテスマによって神と交わるのですが、その結果、いかに自分が救いようのない罪人であるかがますます分かるのです。ですから自分がわずかでも聖化されるとか、義人とされるなどとは決して思えないのです。

 もし他人が見て、あなたに聖と義のかけらがあるように見えたとしたら、着ると言われているように、神からの借り物ですから、神に栄光を完全にお返しするべきです。ほんのわずかでも盗んで自分のものとしてはいけません。それは大きな罪になり、天国行きは閉ざされることでしょう。遠藤周作の作品「沈黙」における神の「沈黙」は、まさにこの故であると私には思えるのです。
 とは言え、これは借用して大いに用いるべきです。一時の住まいであるこの世で「着る」恵みは大きく、寒風から守られ、神の愛の温かさの中で安息できます。もはや飢えや寒さはなく、証しとなります。世への不安や死への恐れなどは全く無いのです。
 これはなんという恵みを着ているのでしょうか。神ご自身のあわれみと恵みからくる守りと解放の奇跡、これが信仰義認です。いささかの高慢や選民意識は無く、信仰義認とは栄光の神の義と力が、何の努力も、何の価値もない私、そして皆さんに現れていることなのです。

2023年11月26日 (日)

信仰義認

✝ ローマ 1章17節   2017新改訳

 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 私たちプロテスタントが、カトリックからどういういきさつで別れ出てきたのか、そのことを知らなかったとしたら、自分の正体が不明という由々しき問題です。本日は宗教改革を取り上げます。

 プロテスタントの誕生、いわゆる宗教改革はルターによって、1517年、ヴィッテンベルク城門に95ヶ条の論題を張り出されたことによって始まりました。ルターは親の希望通り、法律家を目指していましたが、ある日雷に打たれて死にそうになり、現世より永遠の世界に目覚めて修道会に入りました。修道士から司祭になっていく中で、救いについて大きな悩みを持つようになりました。裁き主である神の義の前に、人間の罪深さがどこまでキリストによって赦されるのか、と言う疑問です。
 ご存じのとおり、カトリックでは礼拝堂の中に告解室があります。信者は司祭を通して神に罪を告白することよって罪がゆるされるとしていますが、すべてを告解しないと罪が残る訳で、救われて天に行きたい人々にとって、これは重要な課題でした。この罪のゆるしについて、ちょうどこの頃、教皇レオ10世によって贖宥状(免罪符)が販売されました。罪のゆるしを金で買う贖宥状の誤りを、城門に張り出したルターが触れていたため、教皇に逆らう宗教改革が始まったのです。しかしながらルターは、贖宥状自体は主題ではなく、具体的な例でのおまけのようなものでした。

 実際はルターが悩んでいた神の二面性についての答えを啓示によって見い出し、その観点からカトリック信仰の内部改革を目指したものでした。神には裁き主、義なる神という面と、十字架で愛し、罪をとりなし赦す神イエス・キリストの両面があります。神を愛すると言っても、恐れが含まれていれば、真に神を愛したとは言えません。この問題はカトリックだけでなくプロテスタントの多くのクリスチャンが、神の義と聖による裁きの恐れを排除できていないと私は見ています。

 私の見解ではこの時ルターへの啓示とは聖霊の満たし、聖霊のバプテスマを受けて恐れを解決したと思われます。聖霊が己の内に臨在され住まわれる大いなる出来事によって、完全な義が自らの内に存在されたのです。義と聖は自分がつかみ到達するものではなく、神の一方的なプレゼントによって神の内に見い出され実現するのです。そのことを「福音のうちには神の義が啓示されていて‥‥『義人は信仰によって生きる』」(ロマ1:17)とパウロが言ったのです。
 こうしてルターは、罪のゆるしの難問を一気に解決し、カトリック信仰の罪を告解や行いでゆるすという反聖書性を暴いたことが贖宥状批判に結びつき、一気に宗教改革が始まったのです。

2023年11月19日 (日)

三日で建てられた神の宮殿

マルコ 14章58節   2017新改訳

「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」
 本日はエルサレム、特に神殿と聖墳墓教会について語らせていただきます。これらは全世界のクリスチャンにとって非常に聖なる所ですが、少々誤解も含まれているようなので、改めて説明をいたします。まずエルサレムは聖なる所です。そのことは✝歴代誌第二7章16、✝詩篇99篇1~5、そして✝ヨエル書3章17節にはっきりと書かれています。

 その足台となるエルサレム神殿がありますが、ここはアブラハムがその子イサクを捧げたモリヤの山、ダビデがアラウナの打ち場の傍で主の御使いに、罪と民の代わりに自分を罰するよう告白した所です。そこに主がガドを通し、祭壇を築きなさいと命じられたのです。イエス様もここを「父の家」と言われました。

 そのイエス様の使命は神殿を支配する者たちの手にかかって十字架に架かり、ご自身が贖罪の子羊となられることでした。なんと神ご自身が私たちの罪を背負ってくださったのです。その場所がほぼ間違いなく、聖墳墓教会です。この場所はA.D.300年ごろコンスタンチヌス帝の母ヘレナによって発見された所です。その後何度もイスラム勢力によって破壊され、再建されての歴史を経て今日に至っています。このような長い歴史の結果、現在はキリスト教6派の共同管理の下に運営され、世界中のクリスチャンの聖地となっています。

 歴史的な建造物ですから薄暗く、香料の匂いもあり、私達の群れには霊的に良くないと入らないという方がおられます。しかしこれは余りにももったいないことであって、ゴルゴタの丘、「エディクラ」と呼ばれるキリストの埋葬場所を同時に見学できる所は、この地球上で唯一、ここだけです。この二つの場所を見て回れるよう、巨大な建物で覆って当時の面影を完全に作り変えた面はありますが、救われるすべての魂にとっては、霊的に良くないの超反対の所です。

 ぜひエルサレムを訪問できる機会があれば、神殿の丘が難しくてもこの聖墳墓教会だけには入れます。ぜひ御わざの痕跡が残る現場で、改めて信仰を堅くする機会に恵まれますようお勧めします。

2023年11月12日 (日)

どんな罪も癒やされるが

マルコ 3章28節   2017新改訳

まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
 十字架を真に信じているなら、どんな罪も赦していただけます。その赦しの程度も、たとえ神を冒涜するようなことを言ったとしても、赦していただけるのです。「すごい」と思われませんか?しかし、続いて「聖霊を冒涜する者は、だれでも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます」とあるではありませんか。これって、気になりませんか?私は大いに気になりました。

 すべての罪は赦されます。これは十字架を信じる人々への神の言葉です。ですからクリスチャンの罪は、罪を告白し、心からそれを悔い改めるならばすべて赦され、あたかも罪を犯さなかったかのように、完全に忘れてくださる恵みにあずかります。ですから、クリスチャンと称していても、生きるのがしんどいとばかりに暗い顔をしていたり、過去の重い罪を背負っている風な人は、基本おかしいのです。ひょっとして十字架の赦しと神の愛を、本当には信じておられないのかも知れません。クリスチャンは明るく前向きで、秘めた喜びを隠しきれないような顔をするはずです。
 ただし、過去にあったことではなく、今現在、聖霊様に示されてはじめて気づいたような過ちとか、知らず知らずのうちに人を見下したり、さばいていたりとか、つい小さな嘘を言ってしまったような罪に対しては、ただちに告白し、赦されて行かなければなりません。ですから神に向かうとき、私は胸を叩き、告白し、悔い改める姿勢から祈りを始めるのが常です。

 私が感じるのは、高ぶる意識はない方でも、自分はちゃんと生きていて、まっとうに生きていると認識している人、いわば普通の人に聖霊を感じることはまずありません。罪意識の乏しさが共通しています。しかし真に謙遜な人にはそれを感じました。それは性悪説とかいろいろ言い方はありますが、原罪を認識している人、つまり救いを必要としているところに共通点があります。
 ところで本題の聖霊を冒涜することについては、明快な答えがあることに気づくようになりました。自殺者は天国に行けないと聞くことがありますが、死んでしまっては、自分の侵した罪(自分の命も神から預かったもの)を赦される道が無いわけですから、これは理解できます。

 では聖霊様に対してはどうでしょうか。三位一体の神様にあって、聖霊様の役割は神と人とを直接繋ぐパイプのような働きをされます。したがって、聖霊なる神を冒涜することは、神の働きの断ち切りになります。これではそのひとは救われる可能性が全くのゼロになります。人は原罪があり、そのままでは永遠に滅びに至ります。人は聖霊なしには誰も「イエスは主」と言えないわけですから、聖霊を冒涜する=信仰へのパイプを失い、信じることが出来ないので永遠の罪に定められることになるのです。

2023年11月 5日 (日)

十字架の愛

マタイ 11章11節   2017新改訳

まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。

今、イスラエルとハマスの戦いが地上戦という形で激化しています。時間が経つにつれ、イスラエルを非難する人が増えています。これまでにないフェイク情報合戦の結果、イスラエルを非難する国や人が増えています。クリスチャンにとってこれは看過できないことです。まずこれは、ハマスが残虐で非道な殺人と拉致から始まった戦いであるということを揺るがせないようにしましょう。その上でテロリストの犠牲となるガザの人々、その命が少しでも守られるように祈りましょう。

 さて本日は「十字架の愛=ゆるす」というテーマです。解決策がどこにあるのだろうか、人間の罪深い争いの中、神はどのように人を見ておられ、どう解決の手を差し伸べられておられるのか、です。

 2000年前キリストが来臨された当時のユダヤ社会は、イスラエル史上最高の信仰的社会でした。今のガザでの紛争とまるで逆です。しかしその結果は、神が看過できないほどパリサイ人やサドカイ人に代表される偽善の世界になっていました。人間の営み、努力では戦いの中はもちろん、非常に宗教的な世界にあっても、人が救われることは不可能であることを実証したのです。このタイミングで神の計画、神の子が地上に人となって来られました。
 人間の絶望的な罪性に対する神の解決策は、神ご自身による贖い、つまり十字架による赦しでした。宇宙の創造者が被造物である人間のために、身代わりの子羊となられたのです。十分に全人類の罪を贖ってあまりある犠牲でした。
 バプテスマのヨハネがイエス様が来られる前備えとして「悔い改めよ」と説きましたが、これは己の救い難い罪を自覚しなさい、そしてメシアに己が罪を告白し、赦されて生きなさいと言う意味です。従って自分を義とする者は罪が分からず、悔い改めることができないので救われません。
 十字架の素晴らしさは、最高の預言者バプテスマのヨハネを凌駕します。それだけでなく、何よりも生きながらに、聖霊の神と共に生きることは、人間の罪性が清められ、根本的に変えられます。十字架の力は偉大です。悔い改める者の罪を拭い、きよめ、一度も罪を犯さなかった者に、天国人にふさわしく変えるからです。
 イスラエルはこれから終末にかけて、一時は和平を楽しむことがあっても、第三神殿を建設しながら、最終的には世界中の軍に囲まれて絶滅の危機に陥ります。その時、悔い改めてメシアがすでに到来していたことに気づくのでしょう。ここに至って初めて十字架の恵みに気付くのです。みなさん、イスラエルのために祈りましょう。神は十字架によって、すべての人を愛しておられ、悔い改めて信じ、罪赦されて平和が訪れることを望んでおられるのです。世界の平和は究極的には今よりもっと悪い患難の時代の後に来ます。信仰によって現実の悪、罪深さに立ち向かいましょう。

2023年10月29日 (日)

私は何をお返ししよう

マタイ 18章26節   2017新改訳

それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。

マタイの18章21~35節で、イエス様がペテロの問い、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」に対して七十回と答えられましたが、実は回数の問題ではないこと、「ゆるす」ことの真の意味を続けて語られたのです。
 それがこの、王に対し、一万タラントの負債をした家来のことです。家来ですから、当然クリスチャンで、立場としては神から相当の責任を任される牧師とか、会計執事のような人に相当するでしょう。ところがこの家来は主に対して忠実な者ではなく、能力はあっても私腹を肥やすような不正な者でした。数ある教会では、主の声を聞き、従うのではなく、自分が良かれと思う自分の思いと考えで牧会する牧師は多いと思われます。しかしそれは不正なのです。
 この家来の不正な額は、今の相場で言えば6千億円相当になり、途方もないものです。私にとって大金である百万円の何倍でしょうか?六万倍です。これを返すには家を処分し、家族を奴隷に売っても全然足りません。そこで彼は王様に泣きつき、許しを願ったので、あわれみ深い王にゆるされました。神のゆるしは1万タラントに象徴される途方もないゆるしです。

 普通でしたらこの裏切りに対して厳罰が当然です。教会に当てはめれば、神の権威を利用できる立場にある者が、実は自分の栄光や財を蓄積していたようなものでしょうか。しかし、あわれみを求められると、なんと神はゆるされるのです。ですから神のゆるしは、途方もないゆるしであることがわかります。

 しかし重要なことがこの後続きます。ゆるされた家来の帰り道、自分から百万円借りていた者を見つけ、返済を迫って牢屋に入れたのです。百万は王に許してもらった六千億の六万分の一です。あわれみのないこの家来に、王が怒って、先の許しは取り消されました。
 これは私たちが神のあわれみによって、どれほど赦されているか、またその恵みの故に、私たちも同じ罪人を決して恨まず、ゆるし続けなければいけないことを教えています。それどころか主は「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。(ルカ6章27~28節)」とさえ語られたのです。

 これは自分の罪が本当にわかっている人、または主から<わからされている人>なら、心から「アーメン」と言えることです。どうでしょうか皆さん、心の底から「アーメン(真摯にその通り)」と言える人こそ、神から愛され、あわれみが何であるかを体験された恵みの人ではないでしょうか。「主に何をお返ししようか」と思うなら、まず自分を赦された膨大な主の愛、また自分自身を始め、すべてをゆるし、そのただ中で主を賛美しましょう。<私は賛美の声を上げます!>

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