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神様はこのようなお方

ヨハネ 6章35節   2017新改訳

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

一般に、神様と言うと崇高で近寄り難く感じられ、よくわからない存在だと思われています。ところがキリスト教の場合、神が人の形になり、メシアとして、地上に現れてくださったのです。生誕と復活、この二つが最大の奇蹟ですが、その間、さまざまなわざをされ、預言の成就という流れで、ご自分が神の子であることを明らかにされました。それを七つのしるしと申します。
 さらに弟子たちを教える機会の中で、神ご自身のことを「わたし(というもの)は〇〇です」と直に語っておられます。(私流にこれを「七つの I am」とよんでいます)他の福音書にはないこの「七つの I am」ほど、神様が分かるのに適したものはありません。神ご自身が、平易なことばと分かり易い喩えで以て自己紹介をしてくださったようなものだからです。

 そしてこの二つの「七つのしるし」「七つのI am」がすべてヨハネ福音書にあることも見落とせません。なぜなら、最後に書かれたこの福音書は、最もイエスに愛され、おそらく最後の一人になっていた使徒ヨハネによるものだからです。この時、すでにエルサレムは預言通り灰燼に帰し、神殿を失い、亡国の民となったユダヤ人。クリスチャンとしてはネロ帝の大迫害を乗り越え、迫害がまだ止まぬとしてもエペソの大監督としてのヨハネ・・・しかしこの時、すでにキリスト教最大の難敵にして今後も繰り返されるだろう危機・・・をヨハネは見ていました。それは聖霊による新生が伴わない、形骸化した信仰だったはずです。

今日取り上げます「七つのI am」は先ず第一に神はパンであると言っています。これはシナイの荒野での天からのパンでもありますが、基本、主食の意味のパンです。私たちはパンに代表される食物を常に食べ続けることで、命を養っています。食べなければ死ぬのです。その意味で、神からの滋養を受け続けなければ、最後のぶどうの木とその枝のたとえのように、枯れる、死ぬのです。何が死ぬのですか? 内住しておられる主の霊、神との交わりとその信仰、実らぬ実のままの私という枝、それらが霊的に死ぬのです。イエス様という方から、交わり、絶えずいのちを受け続けなければ、私たちは死んだも同然なのです。そのことを光、門、良き羊飼い、よみがえり、道だと少しずつ角度を変えながら説き明かしてくださっているのです。
 私の考えでは、これらの恵みを受けるためには、悔い崩れる深い改めが前提です。神は高ぶるものに道を閉ざされるからです。サウル王と同じように、神の栄光を、やがて自分のものにしてしまう恐れのある者は祝福されず、ダビデのようにたとえ罪を犯そうと、悔い改める者を神は末代まで祝福されます。自分の罪深さを決して忘れない者、それは命をも落とされそうな試練を受けた者だけの特権です。そしてカリスマの教会とは、たとえ少数であっても、そのような方たちの教会なのです。ハレルヤ!

2021年2月14日 (日)

神に愛される人

ヨハネ 3章3節   2017新改訳

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 イエス・キリストが来られるまでの人物の中で、およそダビデほど神から愛された人はいません。しかし彼はバテ・シェバとの一件だけでなく、私たちと変わらぬ罪人の一人に過ぎませんでした。しかし神は愛され、その約束を違えることはなかったのです。なぜでしょうか? それはダビデは悔い改める人であったからです。
 例えば王として最も晴れがましい瞬間、契約の箱をダビデの町に迎え入れた時、前王の娘ミカルに蔑まれても、「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、主の民イスラエルの君主に任じられた主の前だ。私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられ、自分の目に卑しくなるだろう」(第二サム6章21~22節)と、ダビデは人の目より、ただ神だけにへりくだって全幅の信頼を置きました。
 つまり、ダビデは何度も罪を犯しましたが、その度に神を信頼し、心から悔い改める人物だったのです。サウル王のように、王としての慢心を持たない人でした。それが神から愛された最大の理由だと私は思います。

 人は罪人ですから、神は裁こうとする人をますます頑なにされ(つまり、そのままにされ)、愛する人には様々に介入され悔い改めに導かれます。そのような人は、神からと思われる指摘や叱責に、かえって喜んで従います。それはたとえ苦い言葉であっても、自分を守り愛されているが故だとわかるからです。ですから悔い改めのバプテスマのヨハネは偉大だったのです。

 本日のテーマである「神に愛された人」とは、「悔い改める人」のことです。真に悔い改めるとは、謙遜というか、自分自身の真の姿、自分がどれだけ罪深く、罪に囚われた惨めな状態であるかという認識がなければなりません。しかし普通の人のように自分を誇る面が少しでも残っているとすれば、それは困難なことでしょう。
 その点から見れば、世の成功者、強者、または自分はひとかどにやり遂げて成しえたと思っている人々が「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」(マタイ19章24節)と語られている通りでしょう。口先では信じても、神を主とすることが困難だからです。

 神に愛されている人とは必ず尋常で無い困難、試練を経て、自分に絶望し、真の自分の姿を見た人です。自分に希望がないので、主を主とした人々です。悔い改めるができる人です。そのような人は聖霊のバプテスマを受け、新生した人々であり、永遠のいのちを血肉の命で失うことがありません。それは努力して可能になることではありません。神を愛し、すべてに優って神の愛が大切だという、愛された者の当然な結果なのです。神はこのような者を求めて全世界を造られました。神は愛する者を愛し、ダビデのように決して見捨てず、悔い改めに導いてくださいます。

2021年2月 7日 (日)

中風の人から

ルカ5章23節   2017新改訳

 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

 共観福音書マタイ、マルコ、ルカすべてに載るこの「屋根から吊り下ろされた中風の男の癒やし」は、これまで「あなたの罪は赦された」と宣言されたイエス様の立場から語られてきました。しかし今回、当の本人はどう思っていたのか、それに焦点をあてて見ていきたいと思います。

 キリスト教はどこかのクラブやサークルとは異なります。何が違うのかご存知でしょうか? それは罪赦された者の集まりなのです。クリスチャンになる人は次のような三つの段階を通っている人です。先ず霊魂が不滅であることがわかっていなければなりません。「鬼滅の刃」の鬼は炭次郞に切られると滅んでしまいますから、霊的な存在ではありません。霊は血肉の体と異なって不滅であり、天と地獄のどちらかで永遠に生きるのです。
 次に自分について、罪の故に滅ぶ存在であることを認識していなければなりません。それでこそ悔い改めることができるのです。最後に十字架の贖罪と赦しを受け、人が大きく変えられていなければなりません。そのような人は過去の罪を償いたい思いが強くなり、嘘がつけなくなります。良心が強くなるからです。また不安や恐れから解放され、天国を実感するようになります。その喜びはどうにも押さえようがなく、叫び出すほど心が引き上げられていきます。要するに、人が変わるのです。

 中風の男は、これはあくまで推測にならざるを得ませんが、深く悔い改めていたと思います。中風とは脳の血管の障害によって一部が壊死し、半身不随とか片麻痺、言語障害などが起こる後遺症です。吊り下ろされながら男は、自分の体を過信したこと、不摂生をしたこと、特に高慢であったことを悔い改めていたはずです。イエス様はそのことをご存知でした。それゆえ「あなたの罪は赦された」と言われたのです。この時、癒やされることよりも、はるかに素晴らしいものを男は受けたからです。

 この中風の男と同じように「罪は赦された」と語られたのは、パリサイ人に招かれていたイエス様と、そこに侵入した罪深い女との一件でした。女がイエス様にした一つ一つのことがらに、彼女の深い悔い改めを見ることができます。その上で、罪が赦された、そこにどれほどの喜びが溢れたことでしょうか。中風の男も、もう血肉の体が癒やされることなど、どうでも良くなっていたはずです。肉体のどんな癒やしでも、それは一時のもので、やがて必ず滅びます。しかし罪が赦され解放されることは永遠であり、天の神との交わりが開かれる絶大な恵みです。両者を比較するも愚かなことです。この男が癒やされたのは、パリサイ人などへの証明のためです。群馬県在住の詩画作家「星野富弘」さんも、これとまったく同じようなことを言っておられましたことから、このことは確認できるのです。

2021年1月31日 (日)

神にはえこひいきは無い

✝ ローマ 2章11節   2017新改訳

 神にはえこひいきがないからです。

 一羽の雀さえも、その命を惜しまれる神。また私たちの髪の毛の数さえも数えておられる神。そのような方が、どうしてこの日本の国民をあわれんでくださらないのだろうか。天国に行けば、私の先祖たちはほとんど居ないのではなかろうか。

 これはほとんどが非キリスト教式のお葬式に行く私が、その度ごとに口惜しくて、いつも情けない思いにさせられた時の感情です。パウロは「私の心には大きな悲しみがあり、絶えず痛みがあります」(ローマ9:2)と言いましたが、それと同じような感情でしょう。確かに福音は戦後、日本を通り越して韓国で爆発的に広がり、どの町に行ってもその中心地には教会の十字架そびえています。そして今、迫害下の中国にあっては、その数は1億とも言われています。このままでは福音が日本を通り越したままで地球を一周し、終末が来てしまうのかも知れない。神は日本を見捨てられてしまわれたのだろうか。そんな焦りも出てくるのです。

 神は「あわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」(ローマ9:15)という言葉がありますが、これは一見神のえこひいきを表しているように見えて、実は神の主権を表しています。そう受け取ってしまうと「神の勝手ごと」と誤解しがちなのですが、そうではありません。神の絶対的な愛と平等が、ただ人の目には理解出来ないだけであって、「被造物である限界を受け入れなければならない」ということでしょう。神を信頼し、愛し、とことん信頼することこそが信仰です。
 神は人の心を見ていてくださるのです。神は私たちの霊と肉を造ってくださった創造主ですが、それにも関わらず、なおかつ私たちに委ねてくださっている決定的に重要な側面が人に委ねられているのです。それが、この信仰です。人に委ねられているのは、この信仰という側面です。

 結論から言えば、同胞への私の悲しみ、ある意味、神への不満は「私の思い上がり」でした。民族を超えて私たち人間には弁解の余地がないのです。被造物によって、あるいは私たちの心の中の罪によって、神が居られることがすべての人に分かる(ローマ2章)ように、人は造られているのです。神のなされることに偏りやえこひいきはなく、完全なのです。私たち日本人にはそうされる悔い改めてない理由があり、また今現在だけを見て、神がなされようとしている事を判断し断定してはならないのです。過去ははすでに終わったことであり、重要なことは、前を見て行くことです。まだこの国は終わってはいません。神がこれから私たちを用いて何をされようとしているのか、私たちは忠実な召使いのように、いつ主が来られても良いように、自分の十字架を負い、指名が果たせるように整え、整えられて行く必要があるのです。

「ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。」マタイ24章45~46節)

2021年1月24日 (日)

神の右の座に

  ✝マルコ 16章19節   2017新改訳

主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。

 バプテスマのヨハネが預言した主イエスについて、地上で果たされなかったことが一つだけあります。それは何だと思われますか? 答えは「聖霊と火によるバプテスマ」です。

 主は十字架で全人類の贖いをご自分の血肉の命を持っ果たされ、復活の後、天の神の右の座につかれました。右の座・・・まさにそれこそが預言されていた「聖霊と火によるバプテスマ」を授けるためだったのです。罪を赦す十字架によって、信じる者に聖い聖霊様が内住されることが可能になったのです。これが生前のイエス様に、聖霊と火によるバプテスマが無かった訳です。イエス様の地上での生涯も、実にこのためでした。

この神のstrategy(戦略・策略・計画)について、聖霊を受けた私たちも幾分かは知ることができます。元々人もサタンも同じ被造物でした。ですから人はサタンが考えるように考え行い、サタンもまた人の様に考え、行うのです。しかし、サタンの方が経験上、数段上手の存在であることは確かです。今日、私たちクリスチャンは世界中に、あるいは身近に、彼らを見分けることができます。教会においてすら、それは実によって見分けられるのです。Photo_20210201024001

 サタンについてですが、その知恵は人とそれほどの相違は無いと申しましたが、私たち人のアドバンテージ は、一見マイナスとも思える血肉の体があることです。この体があることに関しても、サタンは神の測り難い知恵と力には太刀打ち出来ません。一例を挙げれば十字架です。彼らはよもやこれが自分たちの滅びの決定打になるとは、想像もつかなかったはずです。そして最終局面で、イエス様が十字架の上で苦しんでおられるのを見て、勝利を確信した彼らは「十字架から降りて来い、そうしたら信じよう」などと愚かなことを言ったのです。しかし全人類の救いという大逆転をもたらすことになることをサタンは知らなかったのです。二千年経っていようと、未だにサタン属する霊にとって、「十字架の言葉は、彼らにとっては愚かな言葉」にしか思えないのですが‥‥‥

 サタンはイブへの誘惑から始まり、数千年も人間に対するノウハウを蓄積していますので、侮ることはできません。しかししかし神の知恵と力は、イザヤ55章9節にあるように、それこそ天と地という格段の差があるのです。私たちは自分の力に依ることなく、神に自分を捧げ、神の計画に聞き従い、神の計画と方法を実践して行くべきです。そうすればサタンに対し、私たちは圧倒的な勝利を得ます。しかしてそれは私たちの勝利ではなく、神の勝利です。一寸たりとも神の栄光を奪わないように、愛と謙遜を持って神を褒め称えましょう。ハレルヤ!

2021年1月17日 (日)

見ないで信じる者たちは幸い

✝ マルコ15章32節     新改訳2017

キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。

 この世に生を受けて、自分の命に優る価値あるものを見つけた人は幸いです。命の目的、その使い道がわかるということは、真に人として生き人生を得たからです。先ほど、佐野洋子さんというノンクリスチャンの方の絵本、「百万回生きたねこ」を読みました。百万回死んでも死にきれなかった主人公の<どら猫>も、それを最後に見出したからこそ、仏教的には成仏というのでしょうが、満足し死ぬことができたのです。

 本当の神を知らない方でも、ここまではわかるのです。ですからクリスチャンが自分の命以上の価値=十字架がわからず、自分の命を惜しんでいたのでは話になりません。宇宙も世界も人をも創造された神が、私の身代わりに死んでくださったのです。神が永遠のいのちを与えてくださるために、その命を差し出してくださった愛に対して、いったい何をもって応えるというのでしょうか。100

 本日の聖書日課はマルコ15章です。この29-32節で、十字架上で死の苦しみにあるイエス様に対し、通行人や勝ち誇った祭司長やパリサイ人たちは嘲りの言葉で追い打ちをかけています。特に「十字架から降りてもらおう、それを見たら信じよう」の祭司長たちの言葉は、はからずもサタンの本音をさらしています。彼らには自分の命しか無く、それを超えた愛がわかりません。ラザロを蘇らせたイエス様ですから、それは簡単なことです。それなのに…イエス様の意図をはかりかねている様子が嘲りの言葉の中からうかがえます。しかし彼らには自分(地位や権威)を守ることだけであり、それを超えるものには、一切思いもよらないことなのでした。イエス様の十字架上での血肉の死は、血肉の命の死を無効にした勝利の瞬間となりました。彼らは永遠に打ち負かされたのです。まさに死は勝利にのまれてしまったのでした。

 「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです(マタイ10:39)」この言葉を、まずはじめに実践してくださったのが他ならぬご本人、イエス・キリストであったことは幾重にも感謝しきれないことです。血肉の自分の命を神に明け渡すことは自分の力では困難なことですが、「神にとって不可能なことはなにもありません(ルカ1:37)」のみ言葉通り、私たちはこころから祈っていきましょう。これを信じることが信仰であります。

2021年1月10日 (日)

恵みも満ちあふれる

ローマ 5章20-21節   新改訳2017

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。

 神は「愛」そのものなのに、なぜ神は審きをされるのだろうか?という疑問を抱く方がおられます。かつて私もそのように思ったものでした。しかしその疑問は、神様のご性質がまだよくわかっていない段階のものと思われます。なぜなら神様の愛は人間が考えるような愛とは、まったくレベルが違うのです。全知全能の存在は、人間が及びもつかない聖であり、義なるお方、光と真理に満ちた存在なのです。神は基本的には従うだけの存在である天使とは異なって、自由な意思と意見を持ち、ご自身と分け隔てなく交われる多くの聖徒たちを構成員として、真の天国をお造りになろうとしておられるのです。

 小学生だった頃、浄土真宗だった私の家に、折々その住職さんが読経と法話に来てくださったことを思い出します。特に「二河白道」の話は興味深かったのですが、幼いなりに一つの疑問がありました。貪りや執着心の水の川、怒りや憎しみの川の間の白い道を何とか行けても、その極楽浄土にたどり着いた所は本当に良いところなのだろうか、と。世の人とどこが違っているのだろうか、と。結局はこの世と変わらない世界だとしたら、意味ないと思ったのです。どうにも風変わりな子どもだったようです。
 13歳の時に小説で神を知り、15歳で探し当てた伝道所でキリスト教に接したとき、これが真の神であるとわかりました。疑問を解決する十字架が有ったからです。神は愛なる神ですが、同時に聖なるお方、義なるお方です。天国が本当に天国であるのは、赦されて罪から解放された人々、聖とされた人々の国であるからです。
 十字架無しに人々が義とされることも、聖とされることもありません。神の愛そのものの十字架こそ、世界でオンリーワンの真の宗教です。罪深い私たちを完全に贖ってくださった十字架の主イエス・キリストを、心から自分の罪を償ってくださった方だと信じるなら、その方は救われているのです。救われた人は、決してそれまでの人ではありません。その人に聖霊が内住されたからです。

 しかしクリスチャンになっても、それまでの(肉的な)自分との変化を感じない方が多いとしたら、深刻に自分自身を吟味していただきたいと思います。それは聖霊の内住があっても、聖霊様の方が僕とされている不遜な状態であるか、さもなくば偽りの信仰告白だったからです。神がご自分の血肉の命を捧げてくださったのですから、私たちもまず自分の命を捧げ、その僕となって聞き従う必要があります。その上でいのちの道が開かれます。その時人は、自分自身が最も自分を窮屈にし苦しめてきた敵であることに気付くでしょう。その時、審きはもはや意味を成さないのです。

2021年1月 3日 (日)

福音は先ず悔い改めから

マルコ1章14-15節   2017新改訳

15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。

 マルコの1章は毎朝の聖書日課の該当箇所ですが、気づきがありました。それは14「ヨハネが捕らえられた後」とありますので、イエス・キリスト様の本格的な宣教活動はバプテスマのヨハネが捕らえられて後、それと入れ替わるように始まったという点と、福音は「悔い改め」た上で信じるものであるという点です。この悔い改めこそバプテスマのヨハネが最も伝えたことですが、旧約の多くの預言者も同じことを言っていました。違っていたのはその仕上げにふさわしく、そのしるしとして水でバプテスマを授けたことです。本来バプテスマという言葉は<浸す>という意味であり、全身を水に沈めることで死を現し、再び引き揚げることによって新しく生まれたことを象徴するものです。
今では教会員になる入会の儀式とか、単に形式だけのように見られやすいバプテスマですが、実は真摯な悔い改めが前提のものでした。悔い改めとは反対方向に向かうこと、または完全に変わることでもあります。ですから「悔い改めた」という単に言葉だけの表明に留まらず、自分という自我が死んで滅び、入れ替わりに福音の主が自分の王座となって新生した・・・・その実質が求められていたはずです。

 このように「悔い改め」は当人の心の一大転換を伴うものでしたが、その悔い改めは、自分の真の姿、何の希望も見出せない罪深さの自覚がなければ不可能です。この世で富める若人や高い地位にあるパリサイ人などは世の霊に支配され、高慢があるので悔い改めることはラクダが針の穴を通るように、狭き門です。また悪霊に憑かれている人は、自分自身の真の姿を偽られてわかりませんから、悔い改めることが困難です。しかしレギオンを宿していたゲラサ人、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアのように、もし神によって悪霊から解放されるなら、かえって大いなる働き人に変えられる例もあります。

 全くの別人になるほど心から悔い改めるには、人間の力では不可能ですし、そのジャストタイムで神が臨んでくださり、入れ替えて神をお迎えするのでなければ、却って前より悪くなります。太宰や芥川のように自殺するしかない状態になります。ですから神に覚えられ、祈りを知っていた人は幸いです。絶望し悔い改めのあなたに、トントンと扉を叩いて神の方で呼びかけ、語りかけてくださるからです。神は押し入って占領しようとする悪霊と異なって慎み深く、私たちの意思を尊重されるお方なのです。

 私たちはこの神に悔い改めた自分を捧げるのです。悔い改めなければ救われません(ルカ13:3-5,使徒2:38など)。真の悔い改めは、自分の罪の贖いとしての十字架がわかり、喜んで自分を神に差し出し、神のもの、そのしもべとなることに感謝します。そこではじめて、自分がどうにもならない自我から解放され、自由にされたことがわかるのです。よいでしょうか。自我は肉の思いであり、それはサタン・悪霊の領域に属しているのです。妬みや自己主張、肉欲、人を愛せないことなどすべて、その中に自分が居ることを表しています。勿論、即別人になるわけではありませんし、執拗に罪深い性質が残っています。しかし神が愛していてくださっていること、神は愛する子を見捨てられることはされず、神の力によって私たちは変えられ、必ず永遠のいのちを受けて天の御国に行くのです。これが私たちの信仰です。ただ真の悔い改めと、主イエスを主として受け入れ、聖霊様に聞き従い続けましょう。

 

2020年12月27日 (日)

神に愛される

黙示録3章19節  新改訳2017

わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。

 最初に絵本<大切なきみ>の朗読をしました。このお話の中で、人々が互いに比べ合い、その優劣に囚われている姿が、シールの貼り合いで表されていました。確かに私たちは優劣の価値観で互いを判定し、金ぴかの星シールやダメージを貼りまくりそのことに疑問を持っていません。

1227_20210201020901教会においてすら、競い合うケースがあるようです。しかしこの絵本のように、造り主である神は、たとえ世の見方と異なって、個々人を最善に造られているのです。ただそれがわからないだけです。その作り主の愛と御心に従って生きることの方が、決定的に重要なことであるのはもちろんです。

 昨日、バイトしている放課後ディで二人の中学生をきつく叱りました。リーダー的な存在のはずの子たちなのですが、英語の学びの時間になっても、自分がしたいことを続け、いくら注意しても意図的に無視したためでした。他人である者が叱れば、その後も大変なケアが待っています。しかし一旦「自分勝手な行動が通る」と学んでしまうと、その後、その成功体験を正すことはかなり大変です。子どものわがままを許容することで、降りかかる煩わしさから自分を守ったかも知れませんが、それはその子たちを愛しているとは言えません。
 まして神さまであれば、子である私たちの勝手な思いや行い、わがままを叱られないことはあり得ません。実際、私は褒められることはほとんどなく、叱られることの方が圧倒的です。しかし、叱られても叱られても、それはむしろ当然であって、かえって神さまの愛を感じます。もし「叱られたことがない」と言われるならば、かえってその方は私生児です。または、神の訓練の段階に入れない乳飲児の状態なのでしょう。

 この絵本を子ども向けだと思わないでください。晩節を汚す人、退職していつまでも上役気分が抜けない人、伴侶を送ったばかりに生きる気力すら湧かない人など、この絵本に該当するクリスチャンのなんと多いことでしょう。私たちは、主によって懲らしめられなければ成長できない存在なのです。それは愛されている子の特権です。最後にヘブルの12章の御言葉を受け取りましょう。
「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。主が訓練しない子がいるでしょうか。すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって本当の子ではありません。」

2020年12月20日 (日)

サタンの基本戦略

エペソ 6章 11節    新約聖書2017

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。

 聖書では明瞭なのに、サタンや悪霊が存在することを認めていないクリスチャンがいます。また認めてはいても、悪霊はどこか外にいて自分を攻撃するものであって、自分の内に見い出す方も少いのではないでしょうか。これらはすべて誤った認識をしています。確かに外から来る場合もありますが、先ず自分自身が生まれながらの罪人であったこと、その結果、これら悪しき存在から解放されなければならなかったことを忘れています。サタン、悪霊は自分自身の内に、根罪深い罪の性質の内に、巧妙に巣くっているのです。「自分を良い存在に」「自分の成長の為に」とか、「ことさら自分を引き上げよう」とする動機のすべては罪の性質であって、悪霊的です。

 イエス・キリストは私たちのこの罪のために十字架に架かり、身代わりとなって罪を贖ってくださいました。ですから信じた者には罪から解放されました、そのはずですが、実際にはクリスチャンとなっても、自分の罪に苦しむことが多いのです。福音は無効なのでしょうか? いえ、そうではありません。自分に死んでいないからです。
 マタイ12章43-45節に、追い出された悪霊が、戻ってみると部屋はきれいに掃除されており、そこで七つの悪霊を連れて来たので、その人は前より悪くなった話があります。クリスチャンは悪霊を追い出す権威を持っていますが、追い出した心の王座に聖霊様が代わりに住んでくださらないと、悪霊が戻って来て前より悪くなるという警告なのです。ですからイエス・キリストを信じるということは、自分を捨て、心の王座に神様を置く(つまり自分は神に従う僕)ことです。そこが中途半端で、自分という肉が残っていると、その肉が悪霊の攻撃を受け、支配もされてしまうことになるのです。

 私たちはこの敵の攻撃の特徴を知る必要があります。彼らの基本は「人に自分の真の姿をわからせず、正体を隠して住み続ける(支配する)」ことにあります。そこでのキーワードは<支配>であり、<だます>です。彼らは貪欲にこの二つの特徴を基本である正体を隠しつつ実行します。たまにそれを見破ったクリスチャンが警告しても、彼らは自分自身を守るために、愛を持って忠告してくれた人や教会を攻撃するのです。教会はキリストの御体であり、クリスチャンはその肢体の一部として、神と教会に仕え、問題があっても建設的な提案をするのが当然であり、使命でもあります。しかし悪霊に支配された人の特徴は、そのような人を攻撃して教会を混乱させ、神の使命を奪うことです。私たちはサタンの基本戦略を知り、御心の対応することで、常に神の使命と御心を全うして行き続けなければなりません。satannno 

2020年12月13日 (日)

エクソダス

使徒 7章 25節    2017新改訳

モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。

 エクソダス(Exodus)とは移民など大勢の人々の出国、脱出を意味します。そしてこれは出エジプト記、イスラエル民族のエジプト脱出の意味でもあります。

 モーセは40歳の時、自民族、同胞を顧みる心が起こり、自分の民族、イスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見て、その人をかばいついでにそのエジプト人を殺してしまいました。モーセにしてみれば良いことをしたつもりでしたし、これを機に王族である自分を通し、イスラエル人が救われれば…と思っていたようでした。ところが意に反し、イスラエル人はモーセをまったく受け入れませんでした。それどころか自分たちに非が及ばぬよう訴え出た形跡があります。
 これではモーセは即刻、エジプトの勢力圏外、辺境のミディアンの地にまで逃亡するしかありませんでした。王の娘の子という王族の華麗な立場から、雇われ羊飼いという最も最下層に落ち、その人生をそれまでと同じ40年かけて送ったのでした。今では80歳という老境に達し、若気の過ちと言うか、過去の良かれと思っての自分の肉的な思いで行動した酬いは十分に受け、骨身に浸みたことでありましょう。
 過去はともかく、そんな羊飼いで終わる人生のはずでしたが、燃える柴を通して一大転機が訪れました。神はここまで砕かれ尽くした人物を通してでなければ、エクソダスという偉大な奇蹟を行おうとされなかったのです。万が一にも神の栄光を奪い、聞き従いに肉が混じってはならないのです。
 今日、covit-19などより困難な時代が始まりつつあります。リバイバルなどを通し、世界中のクリスチャンの天国へのエクソダス(大出国)が始まろうとしています。我が国はキリスト教国になったことがありませんので、終末いきなり大規模な救いが起こり、それが即エクソダスへとつながって行くように私は示されています。

その中で大切なことは多くの試練を経てのモーセのような砕き、燃える柴のような召命、福音宣教に伴うしるしと不思議による確かな裏付け、この3拍子になるはずです。全知全能の神に、我が国同胞の救いを熱心に祈り、少しでもエクソダスの輪が大きなものとなるよう、祈り求めていきましょう。

2020年12月 6日 (日)

教会の使命~滅びゆく人々を獲ち取る教会

✝ローマ 10章 14節   2017新改訳

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。

 私はキリスト教から隔絶した世界で育ち、一度も伝道されることもなく、ただ一冊の本を読んで<これが神だ>とわかった者ですから、福音宣教とか伝道の必要性にうとい者でした。「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができる(マタイ3:9)」の実例でした。
 しかしバプテスマを受けて帰郷し、そのような社会に住んで感じたことは、身近に接する親類縁者、近所の葬儀は、全て救われていない人の葬儀になります。近郷近在のどんな墓地に行っても、十字架なんてただの一つもありません。みな滅びの国に行っているのです。いえ、この国全体を見ても、大なり小なりで、ほとんど同様です。これでは天国に日本人はほとんど居ません。悔しくもあり、本当に残念で、日本人として、この国を見捨てないでくださいと痛切に祈ってきました。

 この度今世紀最大の伝道者であるラインハルト・ボンケの伝記を読み、次の言葉からチャレンジを受けました。一週間以上にわたって寝ても覚めても脳裏から冷めないのです。
「積極的な伝道なしに、リバイバルが起こったことはありません」、数行後の我流訳で「永遠の滅びに行く人々に手をこまねいて傍観する教会は、すでに滅んでいます」の言葉でした。これは1986年、ボンケが主催したアフリカ中の牧師、伝道者を集めた「炎の大会」の中で語られた言葉です。

 ボンケの集会では実に多くの癒やしと奇跡が起こりました。続いて「誰があなたを癒やしましたか?主イエス・キリストがあなたを癒やされたのです」と徹底的に福音宣教第一にしていました。癒やしも奇蹟もそのためというのが徹底しているのです。先週も「信じること」と「癒やされること」の「どちらが易しいか」と題して語らせていただきましたが、どんな素晴らしい奇跡やワザが起こったとしても、信仰に結びつかないなら、帰ってこなかった9人のように空しいのです。

これから困難な時代に入って行き、その後刈り取りを迎えると思いますが、それゆえに収穫に向けての積極的な伝道が重要になります。ですからこれは確かに神から来たものであり、私たちはチャレンジを受けていると思います。そしてこれに答えて行く決心を致します。
ただ、闇雲に、肉的な力を持っての積極性ではなく、先ずは同胞への愛を深め、お一人お一人が神の愛に満たされ、愛に答えての献身、愛による伝道が前提でもあり、それは「祈り」によって成就して行くのです。神は私たちがこのために祈ることを求めておられるのであり、その中で自分自身を神に捧げ、神の御計画に積極的に応答して行くことに努めて参りたいと思います。

2020年11月29日 (日)

どちらが易しいか

マルコ 2章5・9節   新改訳2017

5節 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

9節 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。    

   屋根から吊り下ろされた中風の人を前に、「あなたの罪は赦されました」と、その先にある死をも覚悟しつつ、イエス様は並み居るパリサイ人の眼前で言われました。人間がそれを言うことは、自分を神、あるいは神と等しい存在とする冒涜罪であり、死に値することでした。それは現在でも決定的な事柄であることは同じです。もし、この直後に中風の人が癒やされなかったとしたら、です。しかしイエス様の言葉が真実である驚くべき癒やしの奇蹟が起こり、そうはなりませんでした。そうなると周囲の人は、イエス様が神、あるいは神に等しい人物なのか、それとも悪霊の力に依る癒やしなのか、どちらかに判定せねばなりません。この時、民衆は別でしたが、専門家であるパリサイ人の主だった人たちは、なんと後者を選びました。自分たちの権力と利害に目がくらんでいたのです。そのためイエス様は不法な十字架への道をたどることになったのです。

 本日のテーマですが、屋根から吊り下ろされたのは中風の病人です。本人も含め彼らは癒やされることを期待して吊り下ろしたのです。 「この方なら癒やされる」との信仰があったからでした。しかし案に相違して罪が赦されました。彼らが落胆したかどうかは分かりません。もちろんイエス様は癒やしを行えたのですが、真実な方は表面にではなく、根源に目を留められます。これをもって中風の人の病の原因は罪であったと解説する解説があります。しかしそうであれば、中風のような一般的な病気はおしなべて罪の結果だとする、パリサイ人の病の見方と何ら変わりはないことになります。そうでなく、私は中風の人は罪の許し、神の恵みを証する選ばれた証人なのだと思います。義人はいません。すべての人に罪があるのです。病にかかっていないからと、自らを義とするパリサイ人の前で、イエス・キリストによって罪が赦され、癒やされてることに、真の救いはただイエス・キリストを信じ、その罪が赦されることだと教えておられるのです。すべての人の代表として中風の病があったのです。発病するかどうかではなく、罪こそがすべての人の実相です。ですからこのことは福音そのものでした。そして後の十字架によって、救いが完成されたのです。

 たとえ体が癒やされても、をれは肉体が世に在る時だけの一時的なものです。十字架によって罪が赦され、神を信じる者となることこそ、永遠の救い、いのちを得る道です。イザヤ53章5節にある「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」この神の贖いの御業こそ、すべての癒やしの源です。罪の赦し、その宣言こそ、冒涜ではなく、神ご自身による救いの御業が始まった宣言でした。癒やしは神を信じ、救いへと至らせるためのものです。

2020年11月22日 (日)

聖霊の内住とバプテスマ

1コリント12章3節   新改訳2017

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

 本日の聖書箇所でパウロは聖霊の内住無しには、誰も「イエスは主です」と信仰を告白できないと言っています。「イエスは主」と告白するのであれば、神がご主人であり、自分はその<しもべまたは奴隷>に相当します。しかしながらそのことば通り、神に聞き従う、またはそのように願い聞き従おうと熱心に求める人は、実際にはごくわずかな方に留まるのではないでしょうか。もちろん信じて天に行けるのですが、聖霊を通しての神の力の現れは、それだけでは困難です。

 聖書(使徒8:14-17)において、ピリポのサマリアでの大きな伝道の収獲、人々のバプテスマには聖霊が伴っていなかったことが明らかになっています。エペソにおけるアポロのバプテスマも同様でした。後にパウロが主イエスの名によって聖霊のバプテスマを受けさせた(使徒19:1-7)のです。これらを通し、当初から水のバプテスマは聖霊のバプテスマとは、同一のものではないことが明らかです。考えてみれば弟子たち、特に筆頭弟子のペテロも「あなたは生ける神の子キリストです」と人類最初に告白し(マタイ16:16-17)ながらも、その直後にはサタンと言われたり、三度も主を否定したりと、ペンテコステ以降の力強い証し人ペテロとは別人です。これは聖霊を受けていなかったという最大の違いがあるからです。

 では「聖霊のバプテスマ」とは何でしょう。これは徹頭徹尾、神のものであり、神からのものであり、聖霊なる神と交わって神のみこころ行うはたらきです。九つある聖霊の賜物は聖霊のバプテスマを受けて用いられはじめますが、それとてその人を通して神が働かれただけです。確かにペテロやヨハネ、パウロを主は奇蹟やしるし、大いなるワザを行われましたが、その力は彼らの持ち物ではなく、器を通して現された神の力でした。神が彼らを通し、神のタイミングで行われた神の恵みです。ですからどんなに偉大な神の器が聖霊のバプテスマを受けられるよう祈ったとしても、もしみ心でなければ無理です。信じた全員に対し、神が聖霊のバプテスマを受けさせたいと願っておられるのですが、問題は人間の方であって、ふさわしくないままで恵みにあずかって受けることは出来ません。しかし大胆に聖霊のバプテスマを求めて祈ることは大切です。

 聖霊のバプテスマは、受けたしるしとして「異言」が出ることが言われています。そのことともに、私はこの世への見方、価値観の大転換が伴っていることが大切だと思っています。本当に神が居られることと、その一端に触れたのですから、それまで「主が」自分から転換し、文字通り、主を主として聞き従う歩みに入るからです。もし聖霊のバプテスマを受けながら神に真に聞き従う歩みをしないのであれば、その裁きは大きなものになると思われます。つまり主にいのちを捧げる献身の歩みに入ると言うことです。

 さて私たちは黙示録の七つの教会がどの時代にも存在してきたという説に立っていますが、現在の聖霊の働きが顕著になる時代、そのルーツを知ることも大切です。ペンテコステ派の起こりは、メソジストやホーリネス、クエーカーの影響を受け、アメリカのチャールズ・パーハム(左)が創立した「ただ聖書のみ」をモットーにしたベテル・バイブル・カレッジで1900年の大晦日、女子学生オズマンに按手をしようとしたところ、その場にいた人々から異言のワザが起こりました。その頃、ボニーブレアハウスで有名で後のアズサ街リバイバルとなるウィリアム・シーモア(中央)は黒人のため入学が許されず、学院の窓から講義を聴いていたそうです。翌年の1901年彼はロスでメッセージを始め、今日に至る後の雨につながる聖霊の賜物によるリバイバル時代が幕を開けたのです。キャサリン・クールマンのこの流れの中にあり、日本の中田重治(右)も強い影響を受け、今日のホーリネスの祖となりました。現在日本の大きな教会は、すべてこの流れの中にあり、それは勿論私たちにも影響を及ぼしているのです。

2020年11月15日 (日)

奇蹟~御霊の現れ

コリント 12章5~7節   新改訳2017  

奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。
働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです

 キリスト教は奇蹟の宗教です。この信仰の上に、精緻で伝統に包まれた神学と多くの神学大学があります。キリスト教最大の奇蹟はイエス・キリストが処女マリアから生まれ、十字架で死なれた三日後に復活されたことでしょう。神が直接された奇蹟です。一方、神が人間を通してされた奇蹟で最大のものは海を開き、何百万人ものイスラエルの民を、乾いた地を通らせてエジプトから脱出させたことでしょう。これはモーセの栄光ではなく、ただ神を信頼し、神に聞き従って杖を差しのべたモーセを通して起こった神の働きでした。
 最大の預言者エリヤもたくさんの奇跡を行いました。シドン人の女の息子を生き返らせ、天からの火によってバアルの預言者450人を聖絶し、数年にわたる干ばつも予告しました。エリヤは預言者でしたから、これらはただ、神の語られるままに語った結果現された神の栄光でした。
 ですからこと人うぃ通してのいかなる奇蹟も神の力そのものであり、神の栄光でした。人はその通り良き管、器に過ぎません。ただし、神と親しく交わり、謙遜と忠実さ、すべての栄光を神に帰す聞き従いが求められるのです。ほんのわずかでもそれを自分のものにするなら、サウル王のように、かえって大きな裁きを自らに招くのです。

 私たちは奇蹟を求めています。しかしそれは完全に神のみこころに従ってのものでなければなりません。肉親が病で倒れたり、または自分が信仰による迫害を受けていようとも、私たちは神の子、神のものなので、一切神が許されたことです。アブラハムの信仰、ヨセフの試練、モーセの聞き従い、これらに共通しているのは試練を通しての信頼と忍耐です。
 私たちは現状から神に癒やしや救いを求めますが、それ以上に、神は最善しか為されない信仰の土台を揺るがせてはなりません。神のみこころを求め、最後まで神への従いを全うしなければなりません。たとえどんなに奇蹟しか望めない、人間的には絶望的な状態であろうとも、奇蹟を起こされようと起こされまいと、最善であることを疑ってはいけません。失望こそ、神を自分の思い通りにしようとした最大の不信仰になるのです。
 多くの奇蹟、癒やしを行ったラインハルト・ボンケは「奇蹟は福音の真実を確証させる」為のものであると言いました。ですから彼は奇蹟を通して神が生きて働かれる真実な存在であることを実証し、信じられないほど多くの人々を救いに導くことができたのです。彼は奇蹟はすべて神のものであり、神の働きであり、イエス様がされたことを証ししました。私たちはこの奇蹟を日本に待ち望むのです。

2020年11月 8日 (日)

行け、あなたのその力で

士師記6章14節    2017新改訳

すると、【主】は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

 この士師記の聖句は、前年度たびたびギデオンのことが語られていましたので、私がこれになるのでは無いかと予想した所ですが、残念ながらまったく違っていました。また「あなたのその力で」に少し引っかかっていたこともありましたが、しかしよくよく思い直してみますと、これが実にすばらしいみ言葉であることに気づきましたので、このまま教会の年間聖句にしました。

では何がすばらしいかと言いますと、「あなたのその力で」と言うところです。この現状からでなく、少しは努力したり、引き上げられたりしなければ、主のご用に立てないんじゃない?・・・そういう思いがしていたからです。しかし主はギデオンを召すのに、一切そのようなものは無用だとばかり「あなたのその力で」と語られたのです。ギデオンを遣わされた主は、私たちが牧師になったりする際の、神からの召命とまったく同じものです。

 ところが人によっては、神からのはっきりした召命を受けずに、人間的な思いで献身します。その結果、人間的な見方しかできず、神のみこころを行うどころか、逆にそのような忠実な人々に対し、混乱と迫害さえ行う者と化してしまうのです。神からのものでないのに、神からと間違って受け取ったらギデオンもこの召命が本当に神から来たのか、確かめずにはいられませんでした。これは当然なことだったと思います。もしそうでなかったら・・・・それは想像するだけでとんでもないことだからです。
 神は私たちの弱さをよくご存知であり、もしその召命が真に神からのものであれば、そのしるしを見たいという人間の願いに、神は必ず答えてくださるというのが私の確信です。逆に言えば、重大な決心のような際に、しるしを求めても得られなかったら、それは神からのものではないと言うことです。これは私自身の経験からのことであります。
 しるしには二つの目的があります。それは臨在のしるしを求めるものと、神のみこころを問うしるしとです。今回の場合はこの使いが本当に神からのものかどうか、臨在のしるしを求めるものでした。ギデオンは神の使いに対し、子山羊の贈り物を持って供えるので、しるしを見せて欲しいと頼んだのです。ギデオンは子山羊の肉と肉汁、小麦1エパで作った種なしパンを、指示された通りに供えました。すると神の使いが杖をそれに触れただけでそれらはたちまち火が燃え上がり、焼き尽くされてしまいました。これは後のイエス・キリストのひな形でもあります。

 ギデオンはこの臨在に、死すら感じ、恐れおののきました。みなさん、これが神をリアルに体験した瞬間なのです。神の使いは同時に消えてしまいますが、臨在の神を体験したギデオンは、同時に神の言葉が聞こえる存在になったのです。頭の上で神を信じている信仰と、本当に神の実在を体験した信仰とは、その強さはまったく別物です。これは私の経験的にもコペルニクス的な価値観の転換が起こると言えます。
 ですから神は次にギデオンに対し、その信仰をもっての宗教改革を要求しました。何と父の持っている「バアルの祭壇とアシェラ像を切り倒せ」と命じられたのです。父の、となっていますが、それは町の人々も信仰しているものでしたので、これを勝手に破壊することは命掛けでした。献身の証しでもありました。これを恐れながらも忠実に従ったギデオンでしたが、それも臨在のしるしを確かに見たからに違いありません。こうして父ヨアシュが人々の訴えに取り合わなかっただけでなく、属するアビエゼル族全体にも主への信仰に立ち返る機会となったことは想像に難くありません。
 私たちもギデオンのように、それぞれの仕方で神に召されています。神は私たちの弱さを実際をご存知なのですから、足りないものを神ご自身がすべて備えてくださるのです。神から「行け、あなたのその力で」と聞いたなら、ぜひしるしなど確認されてから聞き従っていただきたいと思います。それが神からのものであれば、その願いに答えるなど天地万物の神にとっては朝飯前なのですから。



2020年11月 1日 (日)

9人はどこにいるのか ー癒やしor 救いー

ルカ 17章17節      新改訳2017 

すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。

 この「十人のきよめ」はルカだけの記事です。イエス様が「御顔をエルサレムに向け」てガリラヤからサマリヤ地方を通過しての山道を歩まれていた時、その国境の村での出来事でした。十人の重い皮膚病を患っている人たちの「私たちをあわれんでください」と叫ぶ声に、あわれみの主が答えられました。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と。アラムのナアマン将軍の癒やしがありますが、この十人はナアマンよりも素直に従い、その途中で全員が癒やされました。

 しかしこの十人の中で神を崇めるために戻って来た者は、ユダヤ人にとって外国人であるサマリヤ人一人だけでした。残りの九人は癒やされるために叫んであわれみを求めたのですが、それはただこの状態を脱したいだけの自分のためでした。たとえどんなに超自然的な奇蹟を見たとしても、それが生き方を変える真の神の力であることなどには関係なかったのです。まさに豚に真珠だったのです。

 そもそも奇蹟、奇蹟の癒やしは、近年ラインハルト・ボンケが心がけているように、神が真の神であることの証明として神が起こされるものです。それゆえ奇蹟が奇蹟を起こされた神への信仰に結びつかなければ、まったく無用なものとなります。
 サマリアの魔術師シモンは奇蹟の力を、使徒たちから金で買おうとしました。今日でもベニー・ヒンのように、非常に作為的に奇蹟や奇蹟の癒やしを演出し、人々を虜にしようとした動きがあります。しかし真の奇跡、癒やしを見分けながら、神を誉めたたえなかった九人のようになってはいけません。真の奇蹟は神からのものです。繰り返しますが、それが信仰に結びつかなかったならば、神から嘆かれることになるのです。

 戻って来た一人は、自分が重い皮膚病から癒やされたことに、自分の癒やしよりももっと大切なこと、全能の神が実際におられることに気づいたのです。それは彼にとっては癒やしよりもはるかに大切な気づきでした。肉体の命はいずれ必ず滅ぶものですが、永遠の神がおられ、神を信じ従う者はその永遠のいのちの恵みにあずかります。戻ってきた彼の信仰は詳細には不明ですが、彼は体が癒やされただけでなく、たましいの拠り所が見つかった喜びで満ちていたのです。

 この後しばらくして患難時代が来るでしょうが、癒やしを求めてくる人々に対し、私たちは徹底して癒やしは神のものであること、神に栄光を帰すこと、癒やしの神を信じなければならないこと、つまり「信仰による救い」を伝えましょう。「九人はどこにいるのか」の声を聞くことが無いように。

2020年10月25日 (日)

主に喜ばれるかどうか

Ⅱコリント 5章9節  【新改訳2017】

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

 私たちがこの世で、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れています。やがて天に行き、キリストの前に立った時、地上で行ったことすべてに応じて報いを受けます。この「キリストの前で」とはキリストの地上再臨のことで、その時の報いはすべてのみ使いたちの前で行われるため、私たちめいめいの守護天使が、行いのすべてを読み上げるかもしれません。
 さてその報いとは、1テサ2:19のような栄冠だけでなく、1コリ3:10以下にあるように、世的な富(木、草、藁)はみな焼けて天に持って行けません。ただし最悪な場合でもクリスチャンなら、火の中をくぐるようにして助けられます。それゆえ裁きではなく、報いの時と言われているわけです。

 この天での報いについて、神を信じる者としては無関心ではいられません。タラントの話(マタイ25:15~)でも明らかなのように、評価の基準はこの世での力や人間的な賜物としての能力ではないことが分かります。要は信仰が無ければ出来ないことですが、神への忠実さの問題であることが分かります。聖書に忠実であること、及び何よりも聖霊に聞き従うこと、さらに自ら進んで神のみこころを行おうとすることです。聖書も聖霊による解き明かしがなければ理解できませんし、心に響きません、力にもなりません。まして神に聞き従うことなどは、サムエルのように聞けないと従うことは出来ません。誤解している方がいらっしゃるかも知れませんが、これは人に聞き従うことではないことに注意してください。あくまで神に、対してです。

 さて神に聞き従うためには、聖霊によって神がこの世に実際に生きて働かれるお方であることを個人的に体験していなければ、聞き従うことは出来ません。そのことによって、その人にはコペルニクス的な価値観の転換が起こっているはずです。それがなければ、神の声を聞いたと思っていたとしても、それは単に自分の観念の中、思い込みのものに過ぎず、遅かれ速かれ挫折します。挫折するので、それが肉的なものであったことが分かります。しかし真に聖霊の満たしを体験したのであれば、挫折はあり得ません。

 聖霊によって罪深さを教えられ、自己を明け渡して神のものとされた人は、すべての点において自分の行おうとすることが「主に喜ばれることかどうか」吟味します。主を知っているので、主のみこころ、主が喜ばれることが分かるからです。こうして残りの世での人生を、キリストのために喜んで生きるようになります。自分の為に生きていた時代は不安と肉欲で自分自身が翻弄されていましたが、神に捧げ尽くしてはじめて、思い患いの一切から解放され、平安を得ます。これはキリストが十字架によって勝利をとられたように、パラドックス(逆説)的な解決なのです。

2020年10月18日 (日)

血の契約

✝ ヘブル 9章12節    【新改訳2017】

また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の願いを成し遂げられました。

 本日の題は、これまでの神殿で罪の贖いとしての動物の犠牲ではなく、新たにキリストが「ご自分の血によって(つまり十字架によって)罪の贖いを成し遂げられた」というへブル9章12節からとっている。しかもキリストの罪を贖う犠牲は一度だけで完全であり、永遠のものであることが述べられている。

 世界と人間を造られた聖なる神ご自身が、その造られた被造物に過ぎない肉なる人間のために、神が肉の形となって人間の一切の罪を引き受けられ、清算された、これに何の不足があるだろうか?たとえ人が何億兆人居ようとも、キリストの犠牲からはおつりの山が出ることだろう。神の愛はイエス・キリストを通して完成している。これを信じる者は確実に救われるのだ。

 ところでこの恵みを「信じる」と言うことをみても、言葉は一つであっても本当に信じるまでの信じ方は実に濃淡(グラディエーション)があることに気づく。
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ロマ 10:9)
聖書に「信じるなら救われる」とこのようにあるのだが、どのように心で信じている程度は、外部の人には窺い知れない。あるいは当人自身にすら測り知れない面もあるだろう。ただ神だけがご存知である。

 「縁無き衆生は度し難し」と言う仏教の言葉があるが、自分の罪を自覚できない人は、神の選びからは遠いと言える。救われなければならない自分の罪に気づくことが、十字架の第一歩だ。自分の永遠のいのちを救うために神を信じながら、自分自身に死ななければならない、これが「自分を捨て」とキリストが私たちに説いた神の言葉である。神を真に信じた人には、聖霊によって揺るがされない「確信」が与えられる。信じた喜びが溢れ、主日礼拝を欠かさないだろうし、情緒面も肯定的に積極的になる。
 また良心が咎められて、父のみこころを損なうことに痛みが生じるのも特徴だ。また神の子として天への確信を堅く握っている、これらが本当に信じている「血の契約」の「実」であって、さらに聖霊のバプテスマを受ける土台でもある。

2020年10月11日 (日)

御霊に導かれる

✝ ローマ 8章14節   【新改訳2017】

 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

 本日の聖書箇所は「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです」ですが、これには注意が必要です。これを「クリスチャンはみな神の子ども」と解する人が多いのですが、その前提である「神の御霊に導かれる人は」を無視してしまいがちであることです。つまりバプテスマを受けていても、その人が御霊に導かれ(続け)ていなければ、神の子と言えるかどうかわかりませんよ」という風にも理解できるのです。

 多くのキリスト教会では三位一体の神と子なるキリストは強調しますが、聖霊なる神についてはそうではありません。勿論否定はしませんが、聖霊派やカリスマの教会ほどではありません。しかしこの聖書箇所から見れば、御霊つまり聖霊なる神との親しい交わりを抜きにして、神の子というクリスチャンの特権は怪しいものなのです。

 この前節の13節に「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」とありますが、御霊に生きる人には明確なしるしがあります。それは御霊によって、あるいは依り頼んで肉の行いを殺していることです。そのような人は神の子どもなのです。

 からだの行いって何でしょうか? 妬み、怒り、人を恐れ人を憎んでいる、要するに世の人と何ら変わらぬ人であって、いつも自分を守ることに汲汲としています。そのような自分に疑問を感じませんし、たとえ変えようと思って努力し、牧師に祈ってもらったとしても無理です。普通の人なら自殺するか世捨て人になるしかない罪の深さは、到底受け入れることは困難です。しかし神のあわれみと愛が聖霊様を通して注がれれば別です。自分の罪深さを知れば自分自身に対する希望を捨て、十字架が自分の罪のためであったはっきりわかります。これは聖霊の力であり、選ばれた人であるしるしです。他の人にない、ちょうど主がたどられたように、受難の道を通らされた道の結果でもあります。

 神の子は例外なく、聖霊の油注ぎを受けています。そのような人は、自分が価値があると思っていた一切が、まるで<糞土>のように思える変革が起こした経験を持っています。神の子は、それ以後、聖霊の力に導かれ支えられ、己の肉なる思いに戦いを挑み続けることになります。それまでの自分を騙してきた憎き肉なる思い、世の力、それから生じる行ないに勝利を得ようとし、実際に真の解放と天的な喜び、恵みを体験します。このようなクリスチャンはからだはたとえ世に在っても、天にある父の子の一人として父のみこころの道を歩むのです。
 どうかお一人おひとりがそのように神様に祈り、求めて行っていただきたいと思います。

2020年10月 4日 (日)

アバ、父よ

✝ ローマ 8章14-15節         新改約2017

14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

ガラテヤ4章5-6節   新改約2017

5 私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。
6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

 私が子どもの頃、父の役場という父の職場によく出入りし、庁舎内のどこを行こうがまったく咎められることはありませんでした。長じてこれは「不思議なことだった」と思っておりました。ところが今朝ほど、それはすべて私が父の子であることで、看過されていたんだなということがわかりました。確かに父は長く特別職である収入役でした。それだけでなく、ポイントは職場の全員が父の子としての私を知っていたということです。どうしてそんなことがあったのでしょうか。それは毎年、仕事始めが終わった一月四日の午後、私の家で役場の全職員が集まって新年宴会を開いていたことです。その宴会が興味津々で、一人混じって出ていたのでした。つまり庁舎内をうろつき回るこの怪しげな子は、全員が誰の子か即座にわかっていたのです。

私たちが天のお父様のことを「アバ、父よ」と呼び、その子どもであるということは、つまり天国は自分の家になるわけであって、子である私たちは何の臆する所もなく、すべてを享受できるのです。やがてこの地上に降りてくる栄光に包まれた天のエルサレムが天国です。今この地上では取るに足らない存在の私たちですが、それがどれほど光と栄光に満ちた恵みであることか、いくら想像しても及びつかないことだと思うのです。

 ただし、すべては「子である」という前提の話です。私たちはどのようにして自分が神の子であることを知るのでしょうか。勿論、実の子はイエス様です。わたしたちは養子ですが、しかし子としての特権は世での養子と同じように与えられるのです。養子であるなら、自分が神の子とされた、籍が天に移されたと知れるのは何によってでしょうか。「神の言葉と聖霊によって」です。
 本日の聖書箇所ローマ8:15には「子とする御霊のを受けたのです。この御霊によって私たちは『アバ、父』と叫ぶ」とあります。<※ガラテヤ4:5-6も同様> この、子としての実質はローマ8:23によると御霊の体になってからということがわかります。クリスチャンの葬儀は「ハレルヤ!」である理由でもあります。
 さて神によって世界の基が据えられる前から、私たちは御国を受け継ぐ子とされて<エペソ1:3-5>いたのですが、その保証は聖霊だと続く14節にあります。本日の聖書箇所でもそのように、父なる神は聖霊を私たちに遣わされ、その聖霊によって「アバ、父よ」と私たちが叫ぶとあります。御霊によって子とされた私たちは、地上ではその御霊に導かれ召されてそれぞれの使命を全うして行きます。聖霊に満たされれば満たされるほど、地上でのことは取るに足りないことであって、私たちは天への希望に満ちあふれて行くのです。

2020年9月27日 (日)

祈り

ルカ 6章12節   新改約2017

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

 祈りはクリスチャンライフの生命線である。そのことがわかっていても、いのちの無い形式的な祈りに虚しさを感じている人や、実際どのように祈ったら良いのかわからなくなっている人、そのような人たちに祈りの基本を今一度学んでみたいと思います。
 まず私たちの救い主、イエス・キリストという方は、神そのものなのに常に祈っておられたように見受けられます。まして人間は常に祈りに身をおくべきなのです。

 聖書では祈りに、二つの土台と三つの要素とがあるようです。「絶えず祈り、失望してはならない」(ルカ18:1、ロマ12:12)ことと、「神が聞いて下さることを信じなければならない」(マタ21:22)ことです。この土台の上に、以下の三つの祈りがあるようです。
 「聖霊によって」とは悔い改め、聖霊の臨在の中で祈ることです。これはみこころを祈ることと同義語になります(ユダ1:20、エペソ6:18)。 
「感謝して」とあるように、私たちを造ってくださり、その上十字架の絶大な恵みによって、贖われた者が私たちです。常に謙遜な祈りと感謝が、いつも湧き出る泉のようになっていたいと願って祈りたいと思います。神は高ぶる者を遠ざけられ、へりくだる者を愛してくださるからです(ピリピ4:6)。
「敵を愛せるように」祈り求めましょう。心の傷に封印をし、憎しみを抱いたままで神に祈ることは不可能です。そのような状態の人には、おそらく自覚は無いでしょうが、祈りにおける臨在も感謝もあり得ませんし、神からお答えをいただくことは期待できません。ゆるさなければ、自分もまた赦されないのです。それ故、敵を愛せるように心から祈りましょう。これはみこころですから、心からそのように祈る時、祈りに平安と神の力とが生きて働く実感を経験されるはずです(マタイ5:14、ルカ6:28)。

 最後に注意しなければならないことは、偽善者のように祈ってはならないことです。人の目を意識したり、祈る姿で自分を信仰深く見せようとか、祈りに難しい言葉を用いるような偽善は神が顔を背けられる類いのものです。 自分を立派にしてはいけません。ルカ18:9のような、取税人の祈りのように、罪人として隠れた所で祈りましょう。幼子のように父の前に、ありのままで、安心しきったこころで出ましょう。父は私、私たちを愛していてくださるのです。一日一時間以上、父との交わりを楽しみにし、そのための時間が私たちは必要です。



祈りはクリスチャンライフの生命線である。そのことがわかっていても、いのちの無い形式的な祈りに虚しさを感じている人や、実際どのように祈ったら良いのかわからなくなっている人、そのような人たちに祈りの基本を今一度学んでみたいと思います。
 まず私たちの救い主、イエス・キリストという方は、神そのものなのに常に祈っておられたように見受けられます。まして人間は常に祈りに身をおくべきなのです。

 聖書では祈りに、二つの土台と三つの要素とがあるようです。「絶えず祈り、失望してはならない」(ルカ18:1、ロマ12:12)ことと、「神が聞いて下さることを信じなければならない」(マタ21:22)ことです。この土台の上に、以下の三つの祈りがあるようです。
 「聖霊によって」とは悔い改め、聖霊の臨在の中で祈ることです。これはみこころを祈ることと同義語になります(ユダ1:20、エペソ6:18)。 
「感謝して」とあるように、私たちを造ってくださり、その上十字架の絶大な恵みによって、贖われた者が私たちです。常に謙遜な祈りと感謝が、いつも湧き出る泉のようになっていたいと願って祈りたいと思います。神は高ぶる者を遠ざけられ、へりくだる者を愛してくださるからです(ピリピ4:6)。
「敵を愛せるように」祈り求めましょう。心の傷に封印をし、憎しみを抱いたままで神に祈ることは不可能です。そのような状態の人には、おそらく自覚は無いでしょうが、祈りにおける臨在も感謝もあり得ませんし、神からお答えをいただくことは期待できません。ゆるさなければ、自分もまた赦されないのです。それ故、敵を愛せるように心から祈りましょう。これはみこころですから、心からそのように祈る時、祈りに平安と神の力とが生きて働く実感を経験されるはずです(マタイ5:14、ルカ6:28)。

 最後に注意しなければならないことは、偽善者のように祈ってはならないことです。人の目を意識したり、祈る姿で自分を信仰深く見せようとか、祈りに難しい言葉を用いるような偽善は神が顔を背けられる類いのものです。 自分を立派にしてはいけません。ルカ18:9のような、取税人の祈りのように、罪人として隠れた所で祈りましょう。幼子のように父の前に、ありのままで、安心しきったこころで出ましょう。父は私、私たちを愛していてくださるのです。一日一時間以上、父との交わりを楽しみにし、そのための時間が私たちは必要です。

2020年9月20日 (日)

神のかたち

コロサイ 1章15節   新改約2017

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。

 聖書通読で「御子は見えない神のかたち」という言葉に改めてショックを受けました。旧約の十戒の影響からでしょうか、新しい律法、新しい契約においては<神ご自身が人となられた>ことをもっと重要視すべきだったと気づかされたのです。

 イエス様を見、知れば、私たちは人となった神を知ることができるのです。どのようなご人格、お人柄で、どんなことを為さり、言われたのか。そのお心はどのようなものであったのか、四つの福音書を通してわかるのです。これはすごいことであり、素晴らしいプレゼントではありませんか。他の宗教で教祖がこのように具体的に知らされることは無いでしょう。できるだけ知らせず、神秘的に覆い隠さなければ、罪深い人間の正体がばれてしまうからです。しかし私たちの神はまったく異なるのです。

 イエス様の使命は十字架にありましたが、それまでの三年半の公生涯もそれに劣らず重要だったのです。それは一言で言えば神の愛の姿をリアルに知らせるためでした。人の弱さに対応し、人類への福音そのものだったのです。イエス様は神の愛のかたちそのものだったのです。幼子を抱き、罪を赦し病を癒やし、嵐を静め、飢えた5,6千人をそのままではお帰しになりませんでした。異臭ただよう死人をもよみがえらせられました。大工の息子で教養は受けられませんでしたが、国中の学者たちも太刀打ちができませんでした。

 イエス・キリストが行ったわざに拠ってではなく、その言葉こそ実に驚くべきもの、信じる者の力です。実際、キリストの言葉は神にしか言えないもの、神の叡知と力の証明でした。言葉を聞いて信じる者は、奇跡を見て信じる者より幸いなのです。

 一例を上げましょう。パリサイ人の「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(ルカ20:25 )
これは神の知恵の確かさを示しています。パリサイ人の家での食事において「彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです」(ルカ7:47) 神でなかったら、これらの言葉は到底語れるものではありません。

 私たちはこの神のあわれみによって救われたのです。未信者に対し、仏像とかの偶像がないから説明しづらい思うなら、それは愚かです。神を具体的には語り憎いと思うなら、血肉の形をもって地上に降りてくださった神のみこころを無にすることになります。二千年前であっても、今も私の心の中に居られ、交わっている確かな人物、主イエス・キリストを私たちは個人的に、いきいきと語れば良いのです。

2020年9月13日 (日)

神のみこころを行う

Ⅰペテロ 4章2節   新改約2017

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。

 クリスチャン生活にとって、「み心を行う」ことは究極の目標です。ただ多くの人に通って、「聞き従い」と同義語に受け取られている面があります。間違いではないのですが、もう一歩進んだ受け取りを私は考えたいと思います。
 聖書には少しショッキングなみことばがありますl。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタ7:21) 「主よ」と言い、御名によって預言し悪霊を追い出したりしていますので、これは一応クリスチャンと見られますが、その全員が天国に入れるわけではない、「父のみこころを行う者」だけが入ると読めます。ですから今日のテーマは非常に重要です。

 さて、「聞き従い」には神からの命令を受け、受けたことだけを行うような意味合いを感じます。しかし「父のみこころを行う」という言葉には、私には良い意味での「忖度」(そんたく)することが感じられるのです。忖度とは、「他人の心情を推し量ること、また、推し量って相手に配慮すること」です。神様から命令されたり、指示を出され、そこで受け身的に行うような上下の場でなく、自由で開かれた場、その中で進んで積極的に行おうとする雰囲気が「みこころを行う」には感じられるのです。たとえ全能の神の御前であったとしても恐れることのない、屈託のない、笑いさえ交えるような、そんな中で、進んで手を上げ、「私のにさせてください」というニュアンスの感じがします。神のご性質は愛であり、御国は決して階層的な窮屈な国ではなく、自由でのびのびとした所のはずです。

 「一度生まれた者は二度死ぬ、二度生まれた者は一度だけ死ぬ」という高名な心理学者の言葉があります。これは新生を言っています。新生すれば聖霊は内住の段階から一歩進んで、その方の主となってくださいます。イエス様を通し、私たちの主となってくださった聖霊様だけが、神のみこころをすべてご存知なのです。聖霊様抜きに「神のみこころを行う」ことは不可能です。私たちが神のみこころを知り、交わり、忖度する必須条件は新生です。みこころを行う、その結果は聖霊の証印(2コリ1:22、エペソ1:13・4:30)を受けるわけです。たとえ今、そうでなくても求め続けましょう。それはみこころなのですから、時が来た時、必ず求める者に与えてくださります。ただ人はその時を知りません。ここに忍耐があります。あわれみ深い神様、どうかその時を早めてください。感謝します。

2020年9月 6日 (日)

神の救い

エペソ 1章3-5節   新改約2017

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 クリスチャンになり、永遠のいのちを得ることを「救われる」と称します。神学的な意味での救いの取り扱いを救拯(きゅうじょう・すくい)論と言います。その中心にはカルヴァンに代表される予定説がありますが、これに対してアルミニウス主義というものがあります。両者を誤解を恐れずに言えば、人間はひどく堕落してしまったので、もはやがんばっても救われることはできない、救いはただ神の恵みとあわれみという、無条件の選びによる、というのが予定説です。これに対し、人間側の努力や義の行いも神は考慮してくださるだろうというのがアルミニウス主義の見方です。 

ところがこの両者の対立も、自由主義神学というリベラルな神学が台頭して来たため、結束して立ち向かう必要に迫られて、現在ではかなりうやむやになっているのが現状です。リベラルとは聖書がすべて神の言葉であることを否定し、人間の合理的な知性を解釈に生かすもので、エキュメニカルなグループに多く見られる神学です。救拯を論じるどころではない、聖書への伝統的な信仰が否定される事態になったわけです。

 なお、予定説などは秘蹟を中心とするカトリックや正教では受け入れられていないことは勿論ですが、正統的なキリスト教会にあって、内容面でまったく異なるわけではありません。(信仰によって救われることを説いたルター夫妻)

 さて救いについて聖書を見るなら、エペソ1:5などで「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」とあり、2:5にも「あなたがたが救われたのは恵みによる」とあリます。また預言者エレミヤもエレミヤ1:5で 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた」とあるように、神は私たちが形造られる前の霊の創造の段階ですでに選ばれ、み心の計画と召しを与えられていたと思わなければなりません。

 しかしそれは私たちがロボットのように、意のままに動かされる操り人形としてではなく、アダムのようにいつでも背く自由をも与えられていたことを忘れてはならないでしょう。人間の自主的な聞き従い、そこに人間の意思があり、神の愛が伴って働くのです。ですから救拯論の論争も、神の絶対的恩寵を強調するか、あるいは人間側の意思をも尊重される神の愛を強調するかの違いであって、リベラルな考え方の前に、これは大同小異であったというのが落としどころでは無いでしょうか。
 救いは罪の自覚から来ます。罪が自覚できなければ、あるいはわからなければ、救いは無意味です。神の恵みも存在しません。これがある意味、選びの基礎です。アダムは自由意志を創造者のためではなく、自分のために用いてしまいましたが、これを罪といいます。仮に「より自分を引き上げたい」というつもりで神を信じたのであれば、深刻な悔い改めなくして真に救われることはできません。信仰告白をし洗礼を受けて「天国へ行ける」切符をゲットしたつもりでも、それは偽りの所作になります。その後もまったく世的、肉的な変わらない暮らしを続けているのであれば、それは神をあざむくことになります。なぜなら、十字架においてキリストは私たちを代価を払って買い取ってくださったのであり、キリストを信じた者はもはやキリストのしもべなのです。もはや自分は主人でなく、主人は神です。その神に聞き従っていないとすれば、逃亡奴隷か、偽りの告白をしたことになるのです。

 こんなたとえ話があります。「自分の船の甲板上で、乗組員に殴打されて意識を失った船長が、気付け薬のおかげで生き返り、自分を助けにやって来た他の船の船長の、船の指揮を取ろうという申し出を受け入れる場合、受け入れる船長には何の功績も無い」という話です。これは十字架を信じた私たち一人ひとりのことを適切に表現していると私は思いました。私たちの神の国は、入れるからといって何の功績も私たちにはないのです。ただ神の申し出を受け入れて、打ち負かされていた自分の現状から、真の平和を得ただけなのです。
ハレルヤ!私たちは救いのすべてを神の恵み、栄光としてほめたたえましょう。

2020年8月30日 (日)

ゲッセマネのように

✝ 詩篇34篇18節   新改約2017

【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる

  日本の多くの教会は2030年問題と言って、今や死を待つホスピス状態のようです。十年後には教会員がこれまでの1/3に減少、会堂も朽ち、多くが消滅します。伝道はおろか、我が子ですらそっぽを向かれ、ただただ高齢化して来た教会の現実です。
 私は何十年も福音派の教会におりましたので、このことが分かります。神を信じ、聖書も大体は神の言葉として受け入れ、しっかり学んでいるのですが、何が足りないかと言えば聖霊の力です。三位一体の聖霊がごっぽり抜け落ちているのです。教会は聖霊の降臨(ペンテコステ)によって発足し、聖霊の力強い働きによって、今日のキリスト教となったのです。この聖霊抜きに、教会と福音の力はなく、教会は生ける屍なのです。

 聖霊なる神について、すでに四週以上にわたって語っていますので、今回は省きますが、聖霊の油注ぎ、満たし、バプテスマほどないがしろにされてきたことはありません。あれほど聖書にはっきりと書かれていることを、必要ないと否定した当然の報いです。自分たちの信仰にどうして「力」がないのか分からず、ただ万策尽きているのが現状です。逆に聖霊派、カリスマ派である私たちの恵みを痛感します。

 ゲッセマネはイエス様が最後の時間、神への祈りの時を過ごされた所で、今もオリーブ園があります。ヘブル語では「オリーブプレス」、つまり収獲したオリープの実をすりつぶし袋に入れて圧搾する、オリープの油絞り機があったゲッセマネです。すりつぶし、大きな圧をかけてオリーブオイルがにする…受難を目前にされたイエス様が、最後の場所として過ごされた所として何とふさわしい所でしょうか。全く罪の無い聖なる神ご自身が苦しみの果てに、十字架によって全人類への愛と赦しの油を見事に現された姿を場所でした。

 私たちはキリストに自分のすべてを捧げて従い、キリストに倣(なら)う者です。キリストが耐え忍ばれたような苦難を受けるのは、従う者に当然なことです。ヤベツの祈りはすでに苦難を受けた者の祈りだと思います。私たちの教会では、既婚者は全員が伴侶との死別を経験しています。実際これは神により頼むための恵みでした。キリストに倣う者としてふさわしいことだったのです。

 ヨセフもダビデも、パウロもそうでしたが、苦しむことなく、神に用いられることはありません。とすればゲッセマネの苦しみなしには開かれることのない、勝利の、恵みの世界が在るのです。私たちはそれを体験しており、知っています。聖霊様が私たちと共におられ、私たちの人生を通して、神は生きて働かれていることを、私たちは証します。

2020年8月23日 (日)

キリストのために生きる

Ⅱコリ 5章15節   新改約2017

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

 1863年、南北戦争の最大の激戦地ゲティスバーグで、信仰者でもあったリンカーンはこの戦いが、平等の理念を問うた尊い犠牲であったことを強調し、有名な「人民の、人民による、人民のための政治」を演説しました。この思想は現日本国憲法にも生かされています。そして今私は示されて、「キリストの、キリストによる、キリストのためのいのちと教会」を目指す教会の目標として掲げたいと思います。すべての人のために死んでくださったキリスト、キリストの十字架によって与えられた新しいいのち、それは神の栄光とそのみ体である教会のためにのみ用いられるべきものであると信じるからです。

 イエス・キリストを信じた者は、自分の体がすでに自分のものではなく、神のものとなっています。なぜなら聖書1コリ3:16や2コリ6:16で明らかなように、私たちの体は十字架によって贖われ、買い取られているからです。しかし私たちの霊・たましい・心はそうではありません。これは私たち自身のものです。そうでなければ神を主と告白する信仰に何の意味があり、審きがどうしてあるのでしょうか。

 霊・たましいが自分のものであれば、私たちはどうすれば良いのでしょうか。与えられたその意思を持って、神に自分を捧げること、み心を行いたいと願い祈ることですが、最も大切なことはそれらが神を愛する心から発していることです。主イエスは言われました。
「第一の戒めは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(マルコ12:30)でしたし、「兄弟たち、あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。・・・中略・・・愛を持って互いに仕え合いなさい」(ガラ5:13)

 そこで私たちは最初に述べた「キリストの、キリストによる、キリストのためのいのちと教会」を具体化するために、より一層神を愛して、そのすべてが神によって推し進められるよう祈って参りましょう。神に不可能はないのです。

2020年8月16日 (日)

信仰・希望・愛

Ⅰコリント 6章17節   【新改訳2017】

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

 十字架は贖われた罪、その赦しです。私たちの群れでは「十字架」と言う言葉を入れて証をすることが大切なのですが、言葉だけを入れておけば良いというものではありません。何のためにイエス様は十字架に架かってくださったのでしょうか。人は罪のゆえに、裁かれ、滅びに至るからです。しかしイスラエルの民で明らかになったように、律法を全うして人は救われることができない、ただ一方的な神の愛とその十字架を信じて滅びを免れるのです。但し、もし滅びから免れる、そのためにだけに十字架を信じたのであれば、実に神のみ心を損なっていると言えるのです。

 確認しましょう。本当に罪がわかり、神の子自身が自分の罪のために身代わりとなってくださった。その十字架を信じたならば、すべての罪が赦されます。もっと大切なことは、それは神である聖霊様が内住されるためであったと言うことです。これが十字架と復活の目的でした。これに優る恵は、この人類に存在しないと確信しています。

 しかし聖霊の内住だけでは不十分でした。ペンテコステという聖霊降臨の際には、弟子たちはすでに、神と神の子キリストも信じていたこと、つまり現代で言うクリスチャン状態であったことを踏まえてください。教会はこの聖霊のバプテスマによって誕生したのです。

 聖霊のバプテスマを受けることなしに、神を信じ聖霊が内住されても、多くの方はその存在を自覚できません。存在を感じられないものを「主」と崇め、聞き従うことはできませんから、神を「ないがしろにする」結果になります。しかし聖書はそうでないことを警告しています。自分の内に「神、聖霊の宮」(1コリ3:16-17、同6:19)があること、自分の体がすでに神の所有に移管していることなどです。

 聖霊なる神にしか神の御心を知ることができません。神が聖霊を私たちに送って下さったのは、私たちが聖霊様を通し、神の御心を知り、そのみ心を行うようになるためでなくて何でしょう(ローマ8:27,1コリ2:10)。但しこの御心を行うとは、まだ聖霊のバプテスマを受けていない状態の時のように、命じられて嫌々聞き従うのではなく、神と交わり、神の愛を知り、その絶大な価値のゆえに新生し、神を愛して、自ら進んで行うことなのです。神はそれを最も喜んでくださいます。神を愛する、これが最も大切な教えです。イエスご自身もこのように御言葉でもって教えてくださいました。

『あなたは心を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』と。

2020年8月 9日 (日)

主と交わる

Ⅰコリント 6章17節   【新改訳2017】

 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。

 むかし、クリスチャンの集まりで「聖霊様が・・・」と、つい私が夢中になって話題にすると、大抵が困った顔をされるか、いぶかしんだ表情をされるのがおちでした。私自身も信仰を持って二十年以上そうだったので気持ちはよくわかるのですが、それでも触れないわけにはいきません。なぜなら聖書が教える神に喜ばれること、義はみ心を行うことはひとり、聖霊様に拠っているからです。

 イエス様は聖霊様を私たち一人ひとりに送るために十字架に架かられました(ヨハネ16:7)。十字架以外に人間の罪の赦しは不可能です。また聖霊だけが、神のみ心を知っておられ、私たちに真理を解き明かしてくださるのです。真理とは罪について、義について、さばきについて(ヨハネ16:8-11)です。み心を行うには、聖霊様に聞くしかないのです。
 また聖霊様が来られることによって教会が誕生し(使徒2章)、教会はこれを送ってくださったキリストの霊で満ちている所(エペ1:23)です。聖霊なる神はもう終わったという奇妙な説は誤っています。三位一体の神は不変であり永遠です(へブル13:8)。

 ですから私たちクリスチャンは、聖霊様と共に歩むのでなければ、ただの力のない存在であって(使徒1:8)、み心を行って義とされ、神の栄光を現すことはできません。ではどうやって? 答えは簡単です。聖霊なる神と交わり、一つになる(1コリ6:17)のです。その土台は自分を無とされる徹底した罪の告白と悔い改めにあります。自分の義が少しでも残っていたならば、聖霊に満たされることは不可能です。しかし人は、自分が神に捧げきれていない所には自分で気づけません。内住される聖霊様だけがすべてをご存知ですから、神の愛を信じ、心から願い続け、必ず報いてくださることを信じるのです。

 なかなか聖霊の満たしやバプテスマが与えられないことを「聖霊は風、だれもその気ままさはわからない」と言う方がいます。これは神の御意思を尊重したようであっても、とんでもない思い違いをしています。第一に神は私たちを愛しておられます。第二に最善は私たち人間には分からず、神は最善しかおできになりません。第三に神は私たちの自由意志すら尊重してくださる全能のお方なのです。

 主と交わり、神のすばらしさを知って私たちは完全に変えられます。神のみ心を何が何でも行ないたいと願うようになるからです。祈りが自分の願い事から、神のみ心を行えるようにと強く変えられます。キリストがそうであったように、私たち人に過ぎない存在が、父の思いを知って、子として自ら進んで行おうとする者に変えられて行くのです。

2020年8月 2日 (日)

聖霊と教会

イザヤ55章8- 9節   新改訳2017

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

 本日のメッセージは、これまで二回にわたって聖霊なる神の学びを振り返りかつ、欠けていた教会との在り方追加するのが目的です。

(1)聖霊は三位一体の神であること。従って神を知り、神に聞き従おうとするなら、自分の内に住まう聖霊に頼るということが一番になります。〈✝1コリ2:11〉
(2)聖霊様はたぐい稀な人格をお持ちであること。知恵・意思・感情をお持ちの助け主、癒やし主。聖霊様は、神の愛の体現者です。〈✝ヨハ14:16〉〈✝エペ4:30など〉
(3)聖霊は真理のみ霊であって、罪について、義について、さばきについて明らかにされる。〈✝ヨハ16:8-1〉
(4)本日の中心~教会が聖霊降臨によって誕生したように、教会の頭はキリストであり、そのキリストが十字架に架かられたのは聖霊を私たちに送られるためであったことが最大のポイントになります。従って聖霊の働きがない教会は、どんなに聖書信仰を標榜していたとしても、力のない働きしか出来ません。
 そのような教会は水のバプテスマと聖霊のバプテスマを同一視しています。教会誕生のペンテコステでは、その場にいた全員が神とイエス・キリストをすでに信じていた人々で、水のバプテスマを既に受けていた人たちと言えます。またピリポによるサマリヤ伝道〈✝使徒8:16〉、雄弁なアポロによるエペソ伝道 〈✝使徒19:2〉からも、教会の発足当初からすでに、聖霊のバプテスマが水のバプテスマとは別物であったという認識を示しています。

 聖霊の賜物は教会の徳を高めるために用いられるものです。特に預言は旧約の時代から神のものか人からのものかが問われるのですが、新約時代は聖書と聖霊の内住という強力な吟味の土台があるので、預言は受け取る方が必ず吟味の上、用いられます。また礼拝時や教会に関わる預言の吟味は、教会の霊的責任者である牧師に委ねられるべきです。要は一つの神が言葉をくださるのですから、そこに混乱や分裂があるはずがなく、一致したものであることが見分けのポイントになるでしょう。

 最後に申し上げておきたいことは、聖霊の賜物は与えられたとしても自分の所有物ではないことです。み心に従って用いるよう、一時的に神から預けられているもの、管に過ぎないと言うことです。謙虚にし、これを忘れてはなりません。

 

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