フォト
2022年5月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

ヨセフの子と考えられていた

ルカ 3章23節   2017新改訳

イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、

 メシアの出現を預言する数ある預言の中でも、<ダビデの家系から生まれる>と<処女から生まれる>は確認しやすい預言です。
先ず<ダビデの家系から生まれる>は二つありますが、いずれもバテ・シェバへの罪を指摘した預言者ナタンのものです。神はダビデはバテ・シェバとの一件で罪を犯し、その子を罰せられましたが、メシアの家系はそのバテ・シェバの子が選ばれました。つまりその子ソロモンを王権の家系とし、ソロモンと同じ兄弟のナタンを祭司系の家系とされました。数十代の時を経てナタンの預言は驚くべき形で成就しました。夫ヨセフがソロモン系、妻マリアがナタン系という末裔同士の結婚です。この夫婦の長子がイエス・キリストです。※預言者ナタンとバテ・シェバの子ナタンは別人

 また身重のマリヤが親族である祭司ゼカリヤに身を寄せましたが、もしマリヤに罪があるのでしたら、ゼカリヤは受け入れなかったと推察します。しかしゼカリヤは少し前、子ヨハネの誕生をめぐる神の取り扱いを受けた夫婦でしたので、マリアの処女懐妊を信じたと推察されます。

 次にメシアが処女から生まれるということですが,これは本当に超自然的な奇跡中の奇跡、空前絶後のことです。信仰が弱い方は、聖書に書かれてあるこの事実を受け入れることができません。神のことばである聖書より、人間である自分の判断を上に置けばそうなります。しかしそれでは全人類の罪の身代わりとして死んだイエスの神性を否定し、罪の贖いは無効となります。こういうわけで全キリスト教徒にとって、処女懐妊は信仰上の踏み絵です。

 上述の傍証として、イエスが私生児として生まれたという記事は、聖書に数箇所見られます。通常ならば「ヨセフの子」であるのに、「マリアの子」(マルコ6:3)としたことや「ヨセフの子と考えられていた」(ルカ3:23)などの箇所からです。特に「考えられて」などの表現は、イエスがヨセフの実の子であれば大変失礼な表現です。これはヨセフが、実の子ではなくとも、少なくても表向きには自分の子、長子として遇していたことを表していると見るのが普通でしょう。

 マリアもイエスが自分の腹を痛めた子には間違いないのですが、親族の結婚式で「ぶどう酒がなくなった」時、イエスに向かって「ぶどう酒がありません」(ヨハネ2:3)と言う不可解なことを要望するのでしょうか?これは母自らが、イエスが普通の人間ではないと認識していたからではないでしょうか。
 このようにイエス・キリスト出生には、処女からの出生であることを伺わせる傍証が多く、神を信じる者には、神にはそれができることを確信するのです。

2022年5月 8日 (日)

私の御からだはどこ?

エペソ 5章30節   2017新改訳

私たちはキリストのからだの部分だからです。

 きょうのメッセージは、インターネットラジオ「Ein・Karemのトークルーム」で証しした事がきっかけになりました。それは私が神さまの語りかけを実際に体験した時のできごとです。

 悔いて悔いて曜日の感覚をなくしていたその日の朝、今日が日曜日だということが分かった時、「こんな不浄で罪深い者が、教会などに行ってはいけない」と思いました。クリスチャンになって初めて「教会に行けない」と思った朝でした。しかし心はともかく、長年の習慣だったからでしょうか、思いとは裏腹に体が勝手に私を運転席に座らせ、ハンドルを握らせて車を動かしていたのです。後で考えると、これは神の御手が働いていたのだったとしか思えません。なぜならもしあのまま家で私がくすぶっていたら、この後の人生を一変させた体験はなかったことでしょうから。
 人それぞれに特別な出会いがあるでしょうが、特に神様となると、それは限られた方になると思いますし、それは一層特別であり、また念入りにそれは準備されているようです。半時ばかり運転後、目指す教会が見下ろせる高台まで来た時、とつぜん変なことが起こったのです。運転中の車のダッシュボード上にくるくる回るサイコロのような物がいくつも現れ、やがてその回転が順々に収まって行くと、どうやら一つ一つに文字が読めて来るのです。「ワ・タ・シ・は・あ・な・た・を・ア・イ・シ・テ・イ・ル」と。運転中でもあり、はじめこの奇妙な現象に目を取られて、ナ、ナニ?って感じだったのですが、意味が分かってくると、明らかにこれは自分以外の意思であると分かりました。

 やがて私の心に<どーん>と津波のように襲って来るものがあり、体の震えと涙とで圧倒されて行く自分がいました。ですからやっとのことで車を道路の左端に寄せて停めたのです。自暴自棄になって信仰をほぼ失いそうになり、ほとほと自分自身に愛想が尽きたという状態だったのです。その私にこれは何ということばかけだったのでしょうか。以後省きますが、「この世に神が生きて働かれ、愛を持って語りかけてくださるんだ」と驚きを持って体験しました。まさに人生と価値観を一変させる衝撃的な臨在の出会いでした。

 ちょうどペンテコステの日、弟子たちが変えられたように、私も変えられました。夜、少し落ち着いてみると、一つだけはっきりと分かったことがありました。それは「もう、普通の教会(福音派)には行けない」ということです。普通の教会の信仰・・朝にはそこさえも行けないと思っていたのに、夕には「もうそこにも行けない」という確信でした。私はカリスマになってしまったのです。この信仰では、普通の教会では苦しむだろうし、どこへ行けば良いのか、検討もつきませんでした。

私はその夜、御体を求めて祈り、示された方法、ネットの検索で一回だけ押して見たところ、全く未知のTLCCCが現れ、しかも翌日に広島でその聖会があることがわかりました。その聖会に行くと私が来ることが予告預言されていたのです。全く、神の御手は用意周到です。

2022年5月 1日 (日)

信仰と希望

ローマ 15章13節  2017新改訳

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

 今日私たち目にし、耳にするニュースは戦争であり、疫病「コロナ禍」やあたかも「神の小屋」のようなおぞましい事件です。
しかし、どんなに状況が悪くなっても、いや、それだからこそ、私たちにはかえって希望があふれてくるのです。

 この聖句はちょっと抽象的でわかりにくいところかも知れません。しかし、「希望」という言葉を「天の御国への希望」と置き換えてみますと、かなりわかりやすくなります。私たちクリスチャンにとって、神のみがすべてであり、神の国に行けることがすべての希望です。まさかこの世でのことが、最大の希望だというクリスチャンはいないはずです。

 ということから考えてみますと、どんなに暗いニュースがこの地上がどんなにあふれて行く、それこそ終末が近いというあらわれですし、これから患難時代に向かって加速度的に悪くなっていくとしても、それらは「産みの苦しみ」であって、私たちは決して奪われることのない喜びで満ち足りており、近づくリバイバルの足音を聞きながら、常にHappyなのです。それを明示する二つのことがありす。
①聖書 :✝天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
この御言葉は(マタイ2:35、マルコ13:31、ルカ21:33)すべての共観福音書にあって、イエス・キリスト神ご自身が確かに語られた言葉です。私たちは揺れ動き、やがて消え去っていく天地に目を向けるのではなく、旧約のメシア預言からはじまり、福音書や書簡、終末の預言書で語れられている神の言葉を信じています。
 それによれば、これから起こることはすべてあらかじめ語られていることであり、二度の再臨の後、千年王国時代を終え、天の都エルサレムがずいぶん模様替えしたこの地上に降りてくるまでの序章です。これからの患難時代でのリバイバル、それを私たちは満を持して待ち受けるのです。
②交わり:信仰によって私たちは神の子とされる特権を与えられます。しかしこの信仰は、迫害や患難時代に必ず試しを受けなければなりません。「本当に信じる」なら、血肉の自分の命以上に価値を有しているはずです。道端や岩地の上、また荊の生じる土地に生えたのはないことを証する時が来るのです。耐えて良い地の実を実らせ、栄光の主を証しする恵みに預かるのは、その本当に信じているかどうかがポイントになります。
 この「本当に」と言った時、神との直接的な交わりがあり、子としてリアルに父を知っているかどうかが決定的な力となります。これを別な言葉で言えば、思い込みや思い込まされてではなく、真実、聖霊のバプテスマを受け、絶えず御心を行おうとしていることです。新生していることです。

2022年4月24日 (日)

新たな迫害が始まる

ルカ 21章12~19節     2017新改訳

また、わたしの名のために、すべての人に憎まれます。

 この度のウクライナ戦争で、次第にはっきりしてきたことがあります。それは思わぬ方向からのことです。現在二ヶ月になっているウクライナ戦争は、ヨーロッパの東欧の出来事であって、極東に住んでいる私たちが身近に感じることはないはずです。が、現実はそうではありません。連日TVやYouTube、Facebookなどを通して、我々日本人の関心が非常に高いのです。日本も西欧民主主義諸国と同じ一員であり、強い絆があるようです。ロシアとも国境を接しています。ウクライナもそのように見なし、ゼレンスキー大統領も日本の国会議員に向けて演説さえしました。

 このような中、多くの日本人がウクライナを何とか支援したいと思っており、私たちのような小さな群れでも、ウクライナへの献金を集めると、たちまち160万を上回る金額が集まるほどでした。そしてそのような関心は、咋今ではロシアのプーチン大統領を支える背後に目が行き始めることで、クローズアップされてきたことがあるのです。
 それはプーチン大統領の精神的盟友だとされるロシア正教のキリル総主教の存在です。BS-TBSでは「侵攻と信仰のただならぬ仲」と題して1時間以上の特集番組さえ組みました。彼はウクライナを攻撃するプーチンとその軍を信仰的に正当化し、鼓舞までしているのです。
 一般の人々にとって、キリスト教徒同士が殺し合うことや、それを推奨するキリスト教指導者って、当然人々は疑問を持ち、恐ろしいと思うようになります。それがクリスチャンへの否定的見方となって来ているのでしょう、すでに私の職場やテニス仲間から疑問を呈されたり、職場帰りの伝道師へのしつこい攻撃となって、現実化しています。おそらくロシアの蛮行に日本人が感じる義憤が、たまたま怒りに近い感情となって、このような形で私たちに向かってきたと私は見ています。
 このような近づいてきた終末の時代、私たちはどのように対処していけば良いのでしょうか。「あれは宗派が違う」とか「キリスト教の本質からキリルは逸脱している」と弁明しても、それは非キリスト教国のこの国では通じない話です。そうではなく、私たちクリスチャンもロシアが国際的な制裁を受けるのは当然だと思っていること、ウクライナの人々の願いと痛みを我がこととして感じ、心を一つにして祈っていること、その支援にも実際取り組んでいることなどを語るべきでしょう。

 そして終末の時代、必ずクリスチャンへの迫害が起こってくると聖書にありますので、どのような状況が許されようとしても、私たちの信仰がサタンに奪われたり、迫害(岩地)のために枯れたり、世の誘惑につまづくことのないように祈りを強め、備えて行かなければなりません。次のみ言葉、
わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタ5:44」
と主がお命じなったように、自身の弱さを覚え、神の愛を証する者として祈り求めて行きましょう。

2022年4月17日 (日)

よみがえられたのです-思い出しなさい

ルカ 24章6節   2017新改訳

ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。

 さて復活祭の本日の聖書箇所は「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたこと、主がお話しになったことをお思い出しなさい。」(ルカ24:6)です。マグダラのマリヤをはじめとする女たちが、復活の朝、イエスが葬られた墓の前で天使達から聞いたことばですが、今回特に最後の「思い出しなさい」に心が惹かれました。ですから天使に言われたこの言葉を、現代の私たちも同じように追体験したいと思います。

 ではその前段階として、次の三つの問いを考えてみましょう。
1、「なぜ神が人の体になって来られたのでしょう。これはメシア預言の成就のためであり、人の体でなければ弟子を育て、愛のわざを行い、主   目的の全人類の罪を贖うためであったでしょう。
2、なぜ神が十字架に架かって苦しみ死ななければならなかったのでしょう。これは第一に人の肉体の弱さを思いやり、その死に打ち勝つため。後に続く信者への励ましと赦しのためでしょう。
3、なぜ神は復活されたのでしょうか。血肉の死から御霊のからだで現れ、後のからだと永遠のいのちの勝利を宣言するためでした。

 では本題ですが、彼女たちは「思い出しなさい」と言われて、何を思い出したのでしょうか。おそらく弟子たちも同様だと思いますが、これを次の二つの点ではないかと思われます。
 まず 「わたしは、三日でそれをそれをよみがえさせる」(ヨハネ2:19)と語られた言葉です。これは宮きよめの時に語られたのですが、まさしく三日目に神の住まいである神殿がよみがえったのです。
 次に(五千人の給食の奇跡の後の)「人の子は多くの苦しみを受け・・三日目によみがえられなければならない」(ルカ9:20〜)の言葉でした。実際イエスを信じる者は、迫害やその他多くの苦しみを受け、自分に死に、血肉のいのちを神に明け渡さなければならないのです。

 さて弟子たちは以上のように、生前にイエスが予告されたことばを思い出したはずですが、重ねて一つの重要な面を確認しておきたいと思います。それはイエス様が御霊のからだの初穂として復活されたことです。弟子たちは復活されたイエス様がなかなか分かりませんでした。それは当然です。アポロ宇宙飛行士の体験は彼らだけのものでしたが、弟子達も人類初の体験をし、それは未だもって人間の理解力をはるかに超えるものでした。同時に私たち信じる者の究極の目標が、リアルに実際に明らかにされた日でもあるのです。
 そう言うわけで、これから私たちはイザヤ53章、ここはメシア預言の最たるところですが、これを斉読しながら、イエス様の十字架と復活に心を寄せて終わりにしたいと思います。

2022年4月10日 (日)

信じる段階Ⅱ・・・義を行う

Ⅰヨハネ2章29節   2017新改訳
あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。
Ⅰペテロ2章24節   2017新改訳
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた

 この段階は聖霊の油注ぎを受け、聖霊のバプテスマを受け、新生したクリスチャンの段階です。何が段階Ⅰと違うかといえば、神と交わっていること(1ヨハ1:3)それゆえ御心がわかり、御心を行おうとし、その賜物を得ているクリスチャンの段階であるということです。

 この段階には、人が意志の力で努力しても到達することは無理です。なぜなら人は皆救い難い罪人であり、自分を捨てることは不可能だからです。どうしても自己正当化し、守ってしまいます。そうすると、本当の自分を救うことが不可能になります。以下はその例です。
 悪霊は騙しの専門家です。私たちはカリスマの教会ですから、悪霊に悩まされている人で、多少なりともその存在や問題に気付いた人が居て、その追い出しを本人から依頼されることがあります。引き受ける場合、まず本人が悪霊が自分の中に居ることを認識されており、自分の敵として追い出したいと願っておられることが土台になります。しかしそこまで認識できないで悪霊の追い出しを依頼されるケースです。その場合、心の王座に聖霊なる神をお迎えできないので、悪霊は再び戻って来、前より悪い状態になってしまいます。(参照マタ12:43 ルカ11:224)
 悪霊は自分の正体を隠し、宿主を騙します。いつまでも真の罪人である自分の姿を分からせず、自己弁護と高慢で終始します。またその逆に、ひどい不安と落ち込みで自分が無価値な存在として整理しなければと思わせます。こうして昂揚と転落の繰り返しに疲れ果て、最終的には宿主を重度の統合失調症や自殺に至らせようとします。
 そんな苦しさに教会の門を叩き、十字架の贖いによる赦しと悔い改めに導かれ、救われる方が多いです。但し、真の自分を知って悔い改めていることが前提になります。真でなければまさに死んでいません。心の王座は依然として肉なる自分のため、新生していませんし、実がついていません。)自分に聖霊の実が実っているかどうか、どうか吟味下さい。

 さてサタンは今も働いており、巧妙な実に容易ならざる敵です。ですから霊的なことに対しては、神に拠って立つ他ありませんし、十字架のみが勝利をもたらすのです。これら一連のことに対しては、神に選ばれた子であることがポイントになって行きます。

 信じる第2段階とは、真に自分の罪を知らされる、十字架で悔い改め、聖霊が注がれ、新生することが土台になります。もしそうでなく、肉が残っていたら、神に聞き従えず、不従順はサウル王のように、むしろ怒りを買い、裁かれてしまいます。
 神があらかじめ子にしようと選び定められた人々、その人たちは例外なく、言いようも無い世という困難と試練の中で自分に死に、今ではただ神にのみ希望を抱き、世にある限り御心を行おうとする人々こそ、真のクリスチャンです。殉教する前にすでに世で死んでいます。

2022年4月 3日 (日)

信じるって・・・どういうこと

Ⅰペテロ 2章24節   2017新改訳

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 ここでキリストが十字架に架かってくださったのは<私たちの罪を代わりに負ってくださるため>であり、私たちが<罪を離れ、義のために生きるため>であるとペテロは言っています。つまり私たちが自分の罪がわからなければ悔い改めることはできないし、イエス様の十字架の赦しはありません。罪が赦されず残るなら、どんなに自分はクリスチャンだと言っても滅びます。天国には入れません。口先だけの告白では偽りの告白ということになるわけです。

罪が分かる‥‥私は自分の例を出し、罪が分かって信じるには二つの段階があると思っています。まず<最初>についてですが、20歳の時の私の証です。高校生時代には、私はようやく見つけた伝導所で毎水曜日、聖書研究会に欠かさず通っていたのです。聖書に神のいのちがあると思っていましたし、実際そうでした。高校を卒業しようとした時、牧師から受洗を勧められました。なにしろ熱心に聖書を学ぶ子でしたから、できたら受けたかったのです。すごく心が動いたのですが、結局受けませんでした。
一番の問題は信じたかったけども、それは頭の上だけで実感が持てなかったからです。神が聖書の文字上では存在していても、私の体験としては空をつかむような感じで、神様がリアルに存在している感じがなかったのです。
わたしとは真逆のクリスチャンホームで育ち、自然にクリスチャンになった方からも、最近、同じように30歳になるまで罪が分かっていなかったとお便りがありました。人それぞれですが、学生運動に私が挫折し、自分の愚かさが分かって呆然としていた時、ただ星々の規則正しい動きを見て、自分を含め流転する人というものの浅はかさ、愚かさ に比べ、変わらないもの、規則正しく永遠のように運行するもの、つまり秩序というものがあり、それを造られた神がおられる、そういう風に初めて神の存在が実感でき、信じることができ、その足でクリスチャンになるために教会の門をくぐりました。このようにして、自分の罪を認め、神を信じてクリスチャンになったわけですが、新生していないので肉のクリスチャンであって、世の欲望に支配されて勝つことはできていなかったため、世の人々と変わらぬ心の状態でした。いわゆる福音派の人々も同様だろうと思われます。

次に<第二番目の信じる>についてですが、これはいわゆる聖霊のバプテスマです。聖霊のバプテスマを受け、新生しなければ「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」(ヨハネ12章25節)の意味がわかりません。神から与えられ愛されることを、命以上に大切だと思うのは、聖霊の神による力そのものです。しかし今回はここまでにしておきたいと思います。

2022年3月27日 (日)

目を覚ましていなさい

マルコ 13章37節   2017新改訳

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。

 この度のウクライナへのロシアの侵攻は、次の二つのことを読み取ることができます。一つにはロシアの本質です。終わりの時代になると、エゼキエル書の38章に、イスラエルの北の果て、ゴグが他の国々とともに攻めてくると預言されています。ゴグとはイスラエルの真北にあるロシアのことです。今回そのロシアの残虐さが明らかになったわけですが,一方、国連でロシアへの非難決議の採択があり、世界の圧倒的多数の賛成がありました。しかしこれに反対もしくは棄権した国々、つまりロシアの友好国とでも言える国々が少数でもありました。そしてその国々を見ると、何とロシアからイスラエルまで、陸路で行けるのです。また一歩、預言が成就する背景が整ったのです。
次にこのロシアの暴挙に対して、西側世界が強い団結を示したことです。特に陸続きのEUにそれが顕著で、早晩NATOの一翼を担うEU軍を作ろうとするのではないでしょうか?そうなれば、終わりの時代になって登場するかつてのローマ帝国の再来となり,反キリストが登場する舞台が出来上がって行くことになります。これが第二の重要な事になります。

このように終わりの日が近づいて来ているのを見ると、私は高木仙右衛門のことを思い出すのです。村の有力な中心人物達は、迫害に転ぶことはないと自信を持っていましが、彼は自分の体が病弱なことを知り、転ばないよう主に祈り続けていました。結果的には、仙右衛門だけが転ばずに済んだのです。

私たちは自分の弱さを知り、サタンの策略に揺り動かされないようにしなければなりません。また、神に聞き従う者は,圧倒的な勝利者になることが約束されているのです。
そのためには、終わりの時代の備えとして、神に祈り、交わり続け、神からの守りがあることと、最後まで耐えられる力を受け続けて行かなければなりません。そしてそれは、終わりの時代になってからでは遅いのです。したがって
「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。(ヘブル人への手紙 3章13節)が特に必要なのです。

それが本日の主題
わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。(マルコの福音書 13章37節)の答えとなるでしょう。

2022年3月23日 (水)

目を覚ましていること

・・・3月23日水曜礼拝メッセージ要旨です・・・
マルコ 13章37節   2017新改訳 

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。

 本日のメッセージは「目を覚ましていること」です。終末は遠い先のことだと思っていましたが、今回のことでゴグの動きとその野望が明らかになり、非常に現実化してきました。生きている間には来ないのでは無いかと思われる方が多いと思いますが、どうもそうではないようです。
 そこで本日は終末の時代はイエス様が特に言っておられたこと、「目を覚ます」とはどういうことかをお伝えしたいと思います。まず第一にそれは、<突然来る>ということが特徴であるということです。なにしろそれがいつかは、イエス様だって知らない(マタイ24:36)とおっしゃっているのです。まして私たちのような人間に過ぎない者がわかるわけはありません。ですからそんな日時のことを言っていたり、恐れている人は皆、御心に背く人たちです。

 ではどうしたら良いのでしょうか。普段通りで良いのです。ただし、心配ばかりし、ふわふわ落ち着かないので仕事が手につかない、のではなく、「忠実で賢い管理人(ルカ12:36)」のように、帰って来られた主人にその働きぶりを見ていただくことです。忠実にとは、いつ帰って来られても良いように、主をお迎えできる態勢をとっているということです。
 ではそれは今の私たちに当てはめるなら、「忠実に」とは具体的にどういうことでしょうか。社会での仕事も勿論、きちんと果たすということですが、信仰的には次のような意味になるのではないでしょうか。

 つまり、疫病(今がそうですが)や戦争(ウクライナ)の話を聞いても、また飢饉(資源の問題や気候変動で必ず来ます)や地震などの自然災害に遭って、私たちのこの社会に生活に未曾有の混乱が起こることでしょう。また偽預言者が私たちを惑わそうとし、人々の愛が冷え、クリスチャンが迫害されるようになりますが、どんな時代が来ようと動揺せず、ただ天に向けて祈り、聖書と聖霊に忠実に従い続けることです。聖書の言葉以外を信じてはいけません。聖書に書いていないことであれば、確かな示し、語りかけがあるまであきらめず祈ってください。示しがないのに自分の願うことを肉的に「受け取った」として罪を犯さないようにしましょう。たとえ辛く従いにくいことでも、確かに示されたことには、従いきりましょう。
 そのために一層信仰を求め、信仰に励みましょう。危機にあればこそ、聖霊の主が頼りあることは確かなことです。そのためには皆さんの血肉の命を神に捧げ、全てを神に委ねる者となっておきましょう。終末の最大の備え、それは聖霊の油注ぎを受ける、受け続けることです。



 

2022年3月13日 (日)

主の祈り

✝マタイ 6章9-13節   2017新改訳

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

天にまします我らの父よ・・ これは、祈る対象が父なる神であることをはっきりさせる意味です。これなくして間違えて、悪霊に祈ってしまうかもしれません。養子とは言え相続権を持つ子ですから、遠慮なく「天のお父さん」と呼びかけましょう。子が「お父さん」と一生懸命呼びかけているのに、肉の父が無視していることはあり得ません。天の父も同様です。ですからどんなに祈っても神が沈黙しておられるとしたら、それはその人がまだ子になっていないのです。

願わくは御名をあがめさせたまえ・・ この箇所は「神様、あなたはあまりにも偉大なお方なので、どうか褒め称え、礼拝させてください」という意味になるでしょう。

御国を来たらせたまえ・・ この箇所は、聖徒にとっては再臨を待ち望む意味です。しかし聖霊のバプテスマを受けていない人にとっては「私たちの心の中に、神の支配が確立し、聖霊の宮である神の国が実現しますように」と言う求めにも受け取れます。しかし弟子たちに教えられたという状況を考えれば、「再臨によって神の国の一員として引き上げられることを待ち望んでいます」になるでしょう。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ・・ 神の御心は聖霊のバプテスマを受け、日々神と交わって知っていなければ、御心を地上で行うことは困難です。広義に見れば聖書での神の計画の成就を願うということでしょう。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ ・・省略

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ・・ 【赦し】はキリスト教の最重要なテーマです。英語でbad debtという言葉があって、それは返済不可能な債務という意味です。私たち人間は皆、気付くか気付かないかは別としてbad debtを負っている。神のあわれみに拠る以外、私たちは全員牢獄行きです。それゆえ、全て神に赦された者は、たとえ自分の命を不当に奪おうとする者に対してでさえ、赦します。さもなければ、私たちへ自身への赦しを失って、御国に行けなくなる最大の損失をこうむります。赦さずにはいられません。

我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ・・ ここでの試みとはtemptationの意味であり、試練というより誘惑の意味に近い。イブの時代から人は誘惑に弱い。常に祈るべきです。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり アーメン ・・省略

 

2022年3月 6日 (日)

真の祈り

マルコ 1章35節   2017新改訳

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 私が四十代だったので今から25年前ぐらいになる。そのころ私たち家族は癒やしを切に求めていたので、癒やしで有名な某教会のサポートを受けながら「家の教会」をしていた。その教会の礼拝に在る時出席した後に、広い地下室で牧師に祈ってもらったことがある。薄暗がりの下、聖なる卒倒者が続出する雰囲気の中、その牧師は私の額に手を当てて祈って一言、「あなたは祈りが足りません」とだけ言ってくれた。私は一瞬、「この立派な信仰者に祈ってないなんて、失敬な」とムカッとしたが、同時に「確かにそうだ」とも思った。正直もっと祈りたかった。祈れる者になりたかった。しかしどのように祈ったら良いのか、わからなかったのである。

 今でもあの時の私のような方が多いのではと思う。その頃の私の祈りは、家庭内の大きな問題で自分を被害者にし、神に改善の要求ばかりを突きつけていた。それはまるで、プラカードを掲げて押しかけるデモ隊そのものだった。「クリスチャンホームは祝福されるべきなのに、これでは話が違う」「神よ、妻の病を癒してください、それでも祝福の神なのですか」・・・etc。これではほとんど脅迫だった。その結果はもちろん、遠藤周作の「沈黙」そのものであった。神は黙され、大声を上げて叫ぶ私には、一切何も語られることはなかった。

 神は忍耐され、本人が気づくまで待ち続けられた。それも神の愛でもあった。私がついに自分の真の姿を見、重大な罪に気づいた時、その絶望の中で神は、私にぴったりな語りかけで自らを現してくださった。全知全能の神のタイミングだった。神を知ったその日から祈りも開かれた。私は毎早朝、少なくとも一時間は祈る者に変えられた。なぜできるか?祈れば神の応答があり、意思の交わりがあり、神の御性質が戒めと慰めと励ましに満たされるからである。楽しくて仕方がなかった。このような交わりがなければ、決して長い時間祈ることなどできはしない。

 祈ることは素晴らしい。それは神と交わる時のみ得られる。数人で、あるいは祈祷会とか集団で祈ることがあるが、それは神と一対一で交わる祝福には遠く及ばないものだ。イエス様は多忙な中、祈る時には人々を遠ざけ、妨害されない静かな寂しい環境、たとえば山の上や密室で祈ることを習慣にされていた。神ですらそのように祈る時間を大切にされるのに、まして私たちが祈りにいい加減な態度で、どうして義とされるのだろうか。私たちは血肉の世に生きているが、聖書と祈りに生きること、それが結果として御心を行い、神の国の宝を積む唯一の道である。

2022年2月27日 (日)

私たちの召し

Ⅱテサロニケ 1章11節   2017新改訳    

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

 私たちは母の胎の中にいる時から、神のみ心があり、いのちの使用目的、つまり1人ひとりに使命を与えられ、この世に生まれて来たはずだ。それなのにクリスチャンが自分の使命を知らずして、世での命を終わったのでは如何なものであろうか。やがて再臨された主に天でお会いした時、その人は何と弁明できるのだろうか。これは確実に来る恐るべき事態である。

 それゆえ私たちは、自分の使命を知らなければならない。知らなければ、その使命を果たしようがないではないか。また神から見込まれてその使命を示されても、即座に勇躍、果たそうとしたヨセフやダビデのような者ばかりではない。優柔不断、困ってしまって、神からの励ましや脇役を固めてもらってようやく立ったモーセやギデオンもいる。しかしどうとあれ、神がその人に使命を明確に示す時は、最善の時なのだ。時が良くてもなくても、自分に使命への信仰が不足しているように思えても、単純に信頼し聞き従い、全能の神の敷いたレールを走りきるのみだ。神がすべてを整えて、み心を貫徹してくださる。

 私たちは主からの使命に備え、まず自分を取り扱っていただくことを願い、使命を果たすに足りる者とされることを第一に願い求めるべきではないか。その上で、主は臨在の恵みを持って語ってくださるであろう。またすでに使命を聞き及んでいる者は、常にその使命を果たせるよう、日々神への祈りを欠かすことはできない。頼るべきは自分ではなく、ただ力ある神にのみあるのだから。そうすれば神は御力をもってその栄光を、その人を通して現してくださるにちがいない。

2022年2月20日 (日)

従うと言うこと

Ⅰペテロ 2章13節   2017新改訳

人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても

 ペテロ第一の2章でペテロは、上に立てられた「権威に従う」ことを求めました。たとえ意地悪な主人であろうと、理不尽な不当な苦しみを受けようと、クリスチャンが上に立てられた者に従うこと、それは「それは神に喜ばれること」であり、苦しんで耐えて行くならば「このためにこそ、あなたがたは召され」ているとまで言い切っています。
 今日の世の常識では、ペテロのようなことを言うならば、大変な批判を浴びてしまうかも知れません。弱者を救済すべき、あるいはパワハラとかコンプライアンス違反など、いくらでも反対の事例がある時代になって来ました。しかし目に余る犯罪的な不正ならともかく、聖書でペテロは上に立つ権威は神が立てたものであって、敬意を持って従うように言っています。私たちは聖書を現代流に解釈するのではなく、聖書の書かれている内容に時代を超えて従うべきです。

 実際、聞いてみますと表だっての反発や文句が言えず、同僚のスタッフ同士で、陰で上司を批判したり、不満を言い合うことは大変多いのです。面従腹背なわけですね。しかしそれは知らず知らずの内に、あなたがたの心を
暗くし、サタンの罠にはまって偽りの偽善家になってしまいます。しかし、もし心から従うなら守られます。
 実際、従うことには多くの益があります。戦争の非道や力による現状変更、弱肉強食、あらゆる混乱と破壊は、定められたルールに従わない人間の心、「自分が」「自分が」という欲心から出ています。秩序を壊すことは、確かに神から出ているとは言えないのです。

 儒教などの教えと異なって、神は聖書を通して一人ひとりのこころを、信仰によって根本から変え、互いを尊重し、立てられた権威にキリストの故に従うことを通し、その困難に信仰によって耐えるならば、周囲の人たちから不思議に思われ、その私たちの内に、神の力が働いているの見ることでしょう。口先で福音を語るより、身をもって証する、これこそ私たちの徳であり、神の証です。実際そのことによって神の勝利を私たちは見ますし、その例挙はいとまがありません。

 私たちは反抗する者ではなく、従うことによって勝利者となりましょう。

 

 

 

 

2022年2月13日 (日)

神の用意周到さ

イザヤ 40章28節   2017新改訳
   あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。 

 神のされることは私たち人間の理解を超えています。神のされようとしておられる計画は、時に<おかしなこと、良いこととは思えない>事柄であっても、神を信頼し、その導きに委ね従って行くならば、最善にして最高の結果を私たちは見ます。本日は福音を全世界に広め、ユダヤ教を脱してキリスト教を確立したパウロ、その次に私たちの教会を例にして、神の用意周到さ、その導きに信頼することの素晴らしさを見ていきましょう。

 神さまはパウロを、いきなりキリスト教の立役者として引っ張り出されたのではありません。アブラハムに「あなたによって祝福されるすべての部族は祝福される」(創世12:3)と語った神は、その子孫を通し、人の力や行いでは救われ難い事実を明らかにされました。つまり十字架のメシアが必須な状況において、万を侍してイエスさまをこの世界に送り出されたのです。
 ステパノの殉教によって、エルサレムの主だった人たちが散らされたことも益にされました。ピリポによって、隣接民族サマリヤ人に救いがもたらされたのです。それだけでなく、使徒ペテロを通し、幻で3度も「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と教え導き、異邦人の百人隊長コルネリウスの家に行かせ、家族と食事を共にさせ、バプテスマまで施させたのです。
 当然パウロはエルサレムに帰って、律法違反の嫌疑をかけられましたが、同行し異邦人にも聖霊が下った証人が七人もバックにいたのでは、認めるしかありませんでした。しかし注意すべき点は、異邦人信徒が救われたことには同意はしたものの、割礼を無効にした訳ではないことです。そこまで受容してしまえば、エルサレム教会の人々は異端とされ、エルサレムに存在することはできなかったことでしょう。
 このようにお膳立てされた上で、タルソ出身、つまりバイリンガルでローマ市民権という特権に恵まれたパウロが登場しました。律法に精通していた彼のしたことは、律法の限界から「信仰義認」という土台を確立し、ユダヤ教の枠からイエスの教えを飛び立たせたことです。彼にあって割礼問題は、もはや飛び越す当然のステップになったのでした。
 さて船橋キリスト教会についても、神の用意周到さを知ることができます。例えば今日13日はちょうど2年前、前日に引っ越しを完了し、初めての礼拝を開いた日になります。翌日には稻村家が引っ越されてきました。驚くことに、もしこの家が会堂として開かれていなければ、間違いなく私たちはこの二年間、礼拝する場所を失っていただろうと言うことです。今回、契約の更新がなった今、さらに礼拝場所が確保されたのです。2年前のあの時、私たちが望んでいた条件に適合した物件はこの一軒だけでした。しかし契約に必要なお金がまるでなかったのです。諦めるしかない、そう思ったのですが、「見るだけでも」と言う誘いの言葉に従って下見に来た時、「此処です」と示されたのでした。
 必要なお金は、特に金額を上げずとも、皆の献金で必要な額が満たされたのです。御心とはこういうことを言うのでしょうか。この会堂は、皆が捧げて与えられた教会です。感謝しましょう。
会堂がわかり易いので最初に話しましたが、12年前、私は牧師として派遣されてきました。それにも「マケドニアの叫び」と言う神の用意周到な備えがありました。実に不思議な神の導きでした。もうすぐパトモス派遣という時期。区の定期検診結果を知らされる日に病院に行きますと、まだデータが届いていないと言われ、仕方なくそれはパトモス派遣の後に聞くことになりました。そのパトモス派遣は、帰りに島からギリシャ本土に着くとすぐバスに乗り、ほぼ1日かけてマケドニアのテサロニケに行ったのです。その夜テサロニケのホテルに泊まった翌朝の聖会で秋元牧師が変な夢、
「マケドニアの叫び」を見たと言い始められたのです。帰国後、それを悟られた秋元牧師は、「宣教に遣わすので示された者は名乗り出るように」と言われました。私がこの群れに来て、この逆はあっても、アンテオケ教会から遣わすとは初めてのことでした。
 さて帰国後すぐに検診結果を聞きましたが、かなり大きな癌らしき腫瘍が二つもあるという診断でした。「結腸癌の疑い」があるので、すぐに大きな病院でカメラによる検査を受けるように指示されました。レントゲン写真を見ましたが、それは素人目にもわかる大きなものでした。
 造影剤で映った大きな腫瘍を見て、これが本当なら大きなゆえに転移もかなり進んでいるような気がしました。ネットで調べますと、結腸癌の自覚症状の項目にすべて該当し、ガンだと確信を持ちました。生存率を見ますと「ああ、これでは私は死ぬかも知れない」という思いに至りました。真剣に祈り始めますと、「永遠のいのちに比べれば、これは取るに足りないこと」のように思え、死への恐怖心は取り去られ、平安がきました。さらに祈っていますと、こんな示しがきました。「命は私の手の内にあります」 「主よ、その通りです」 「わたしの与えた使命を、あなたは全く果たしていません」 「主よ、その命がなければ、私の使命を果たす事は出来ないのではないですか」。しかし祈りはここまでで、この後の応答は無くなったのです。けれども御心はわかりました。(牧師)として召したのだから、その使命を果たせ=つまり、本格的な牧会に出なさいと言う意味であると。
 ところが月曜日のカメラによる検査結果は驚く結果で、「全く癌はありませんでした」と言うものでした。「それではあれは、別人のものでは無かったか?」と思うほどでした。
 検査の翌日の火曜日は白馬キャンプでした。キャンプで秋元牧師に検査結果を聞かれた私は「癌は無かったです」と報告しました。「それは奇跡ではないですか」と言われました。しかし私は人違いだったような気がしましたし、示されたことに対して、どのように自分が対応すべきなのか、考えがまとまっていませんでした。しかしもし奇跡であれば、神の御心は明らかです。踵を返して去ろうとした時、突然私は自分でも思ってもいなかった言葉が口から出ました。「秋元牧師、私をどこかに牧師として出してください」と。
 その結果、船橋という未知の土地に赴任が決まりました。「マケドニアの叫び」は神が私をこの船橋に遣わすために、群れ全体に示してくださったのです。「信徒は1人も居ない、開拓地」と聞いて船橋に来たのですが、主は1人だけ備えてくださっていました。右も左もわからない私たちにとって、その方はその後、非常に大きな助けとなってくださいました。神に感謝します。
 偶然はあり得ません。神はこのように御心を成そうと用意周到に、人知を超えた準備してくださる方です。私たちはいろいろな問題や不安を抱えたとしても、信仰によってその火矢を消し、神を信頼し、神の導かれた道を全うしようではありませんか。神は信頼に値する方であり、その英知は測り知れないからです。

 

 

 

 

2022年2月 6日 (日)

負い目のある者

ローマ 1章14節   2017新改訳

私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。

このローマ書1章14節の意味は、一見難解である。どうしてパウロが負い目を負わなければならないのだろうか。

 ここで用いられている「負い目」という言葉は先の第三版では「返さなければならない負債を負って」とある。この方がKJBのdebt(返さなければならない借金)に近い訳語では無いかと思う。つまりパウロにとってローマで福音を語ることは、神への返済義務を負っている借金の一つなのだ。
 そのような視点で見て行くならば、これは一人パウロだけでなく、福音に与って恵みを得たすべての者は、キリストへの返済義務を負っていることになる。神はその命をもって私たちの罪をあがなってくださり、そしてその贖いの十字架を信じて罪赦され、救われたのが私たちである。いわば私たちは神に買い戻された僕なのだ。
 例えば戦いに負け、降伏したならば捕虜となる。昔の捕虜はその場で殺されるか、奴隷になるか、あるいは次の戦いの最前線に出されて、死ぬまで戦わなければならない。事実日本軍は捕虜になるより、自決を求めていた。キリストの捕虜となったあなたが、高潔な精神で教会での奉仕を行っていると、もし自分を見るならば、それは勘違いである。あなたは十字架によって代価を払って買い取られた存在なのだ。言わば神にその命をもって仕えるために、その命を用いなければならない。したがって奉仕をするのは、滅びから生かされて、返済義務を果たしているという、その当然のことをしているだけなのだ。

 神は人間を滅びから救って永遠のいのちを与えようと、我が子キリストを世に贈ってくださった。(ヨハネ3:16)このキリストを信じる者は、肉の自分は死に、神の宮が内にあり、もはや神によって生きている。神によって生きる者は神の御心を行うはずで、それがここで言う「返済義務」であり「負い目」であるのだ。パウロはローマ人に対して、福音を語り義務を果たしたいと願っていることがよく分かる。
 ではパウロだけでなく、同じように死んだ状態からいのちを救われた私たちは、受けた恵みの返済義務をきちんと果たしているのだろうか?それを土の中に埋めたり、そうでなくても、無償で高潔な奉仕をしているかのような誤った認識に陥っていたりしてはいないだろうか。

2022年1月30日 (日)

金よりも高価で尊い

Ⅰペテロ 1章7節   2017新改訳

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

 神を知ることは人の意志や努力である程度可能でしょう。しかし知り得た知識や情報だけでは、本当に信じる(クリスチャンになる)ことは不可能です。なぜなら信仰は人知を越えたものだからです。例えば、イエス・キリストが処女から生まれたという出生の奇跡。湖の上を歩き、嵐を静め、二匹の魚と五つのパンだけで五千人の人々に食べさせ、かつ相当余った奇跡。また中風や足萎えの人、生まれつき盲目の人を瞬時に癒やした癒やしの奇跡。死んで四日も経ってしまい、腐敗の臭いの中、ラザロという人物を蘇らせ(他にも二人)た奇跡。極めつきは十字架で葬られたはずなのに、三日目に御霊のからだという、血肉のからだを超えた驚くべき姿で現れたことでしょうか。これらあり得ない理解を超えた多くのキリストのワザを奇蹟を、実際に起こったと信じなければならないからです。これらは人の常識や理解の限度を超えていますので、信じることを信仰と呼びます。逆に言えば奇跡が踏み石になって、私もバプテスマを受けたものの、三十年もクリスチャンと称しながら、不信仰な世界を漂流していたのです。

 人が信仰を持つには、自分の常識、知る力、判断力などを捨てなければならないことは明白ですが、それは人の力ではできないことで、これを「自分に死ぬ」と申します。ではなぜ信仰を持てるのか?それは神による「試練」に耐え、自分の罪を徹底的に知らされ、自分に希望を失い、そのどん底の中で自分の命をはるかに優った神の愛を、聖霊によって知らされたからに他なりません。神によって絶望的な罪人状態であることを知らされることは、逆に神の驚くべき圧倒的な愛の価値に自分を遷移することができます。これが神による試練の実態です。この試練の恵は、全知全能なる神だからできることであって、人の高ぶりや我慢の限界、限度を本人よりも見極めておられる神でしかできないことです。

 この試練はその人の価値観、人生観、生きる目的を180度変えます。変えられていなければ、それは神から来た試練ではありません。試練の結果は明白です。自分のいのちは神のものであり、神の栄光のために残りの余命があります。そして目は永遠なる神に向けられ、それを仰ぎ続けて、神の御心にすべて従います。この地上の何ものも、以前のように自分を楽しませることは無くなったのです。

 人の命は、金以上に素晴らしいものです。しかし金以上に、はるかに高い価値を信仰者は天に見出して歩む、もはや地上の何ものもそれを奪うことはできません。これは聖霊の油そそぎと満たし、あるいは聖霊のバプテスマとほぼ同義語であって、生きながらにして神の絶大な栄光に与るものです。それを導き開く扉が「試練」であるのです。ですから「試練が来たら喜ぼう」なのです。

2022年1月23日 (日)

新しく造られた者

Ⅱコリント 5章17節   2017新改訳

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

「神様を信じた人」と言っても、大きく三種類に分けられるかと思います。一つ目はサマリアで魔術を使っていたシモンのようなタイプです。彼はいつもピリポに付き従って信者のようにしていたのですが、それは信じたからでは無く、お金で神の賜物を買おうとしたように、自分の魔術のパワーアップのためでした。
 今日、教会側にも大きな責任がある事態が生じています。明らかに本当には信じていないのにもかかわらず、ローマ10章9−10の「口で」の意味するところを、単に形だけ、口先だけでも告白さえすれば、即時に信者(クリスチャン)だとすることです。これは偽りであり、言わばその気にさせて、なりすましの信者を強いているのです。これが今日の教会の退潮と混乱の原因ともなっています。

 後の二つは聖霊のバプテスマを受けていないクリスチャンと、受けているクリスチャンのことを指します。これらのクリスチャンはキリストの死による罪の赦しを受けていますので、聖霊なる神が内住しています。ただその聖霊がその人を支配しているかどうかの違いがこの両者を分けています。しかし共通して言えるのは、礼拝を決して欠かしませんし、なんとかして捧げ物をしようとすることです。
 さらに下記の聖句ように、「もはや自分のためではなく、キリストのために生きる」という信仰の実が必ずついていることです。その端的な例は、きちんと毎週毎週の礼拝出席ができることです。霊的な命がある人ならば、礼拝を欠かして、正常なこの世に逆らって神を第一にできるはずがありません。新しく造られた人は、キリストのみからだの一員として、霊的な飢えを満たす教会の礼拝を欠かすことができないのです。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。 (✝Ⅱコリ5章15節)

2022年1月16日 (日)

御霊のからだのリアル

Ⅰコリント15章44節   2017新改訳

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

 土で造られた私たちの祖先であるアダムは罪を犯したため、私たちの体は、土に還るものとなりました。もしも罪を犯さなかったなら、彼らは永遠に生き、私たちも存在していなかったことでしょう。しかし測り知れぬ神の予知と計画によって、今日の私たちになったのです。

 今から2千年前、罪のない方が世に現れ、神であるわざとしるしと言葉を残され、罪を赦すための十字架で死なれました。驚くべき事に、その方は御霊の体で復活されたのです。御霊のからだとは、単に霊的な存在ではなく、超物質的な存在です。壁を通り抜け、どんな所にも瞬時に移動でき、飢えも渇きも無いだけでなく、永遠で朽ちることはありません。御霊のからだはその霊と同体であり、個性と自主性を維持しつつ、神の子として神のみこころを行ない続ける存在なのです。

 十字架の神の御子を信じたなら、罪が赦されて聖霊の内住が可能になります。さらに自分に死んで神のものとなるなら、聖霊が支配される存在、いわば天が降り立った者となります。キリストの初穂のからだと同じように、キリストにあって死んだ者が、時が来た時にキリストと同様、御霊の体にしてよみがえるのです。しかし時が来た時、神のご意志の実行役に用いてくださるがこの1コリント15章44節で語られている御霊のからだです。

 このことは、次のことを暗示します。土で造られた者は土の性質を現し、天に属する者は、天の性質を現すと言うことです。クリスチャンと称していても、いつまでも土の性質であるこの世の欲望や不安や恐れに支配されていては、御霊のからだになれる保証はありません。
 つまり、種は死ななければ発芽せず、多くの身を結ばないように、自分に死ななければ新生しないのです。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます ヨハネⅠ2:24
血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちる者は朽ちないものを相続できません。Ⅰコリ15:50

 血肉のからだで蒔かれたものは、地上だけのもので、卑しく朽ちて行く弱い存在です。天上のからだとは朽ちることなく、強く、永遠に栄光ある存在です。そのような人は、自分の命をこの世でどのように使うのか、神からの召しを受けています。それゆえ天への喜びがが満ち溢れており、自分を偽り隠すことがないのです。

2022年1月 9日 (日)

御霊によって生きる

ガラテヤ 5章24~25節   新改訳2017

 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

 私たちは、「御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」とパウロは熱心にガラテヤ地方のクリスチャンに奨めています。つまりキリストにつかず、肉のままの自称クリスチャンが程度はわかりませんが、無視できないほど居たということです。この手紙は残されているパウロの手紙で最も初期のものですから、1世紀のほぼ真ん中で書かれています。つまり、パウロの第一回伝道旅行が終わって5年ないし10年しか経ていないのに、こういう事態だったのです。

 使徒の働きには当初からクリスチャンには二種類いました。<水のバプテスマ>のクリスチャンと<聖霊のバプテスマ>を受けたクリスチャンです(使徒8:14-17、19:1-7)。聖霊のバプテスマを受けていないと、神と親しく交れませんから、クリスチャンの使命「御霊によって生きる、神の御心を行なう」ことは困難です。そしてパウロは前節までで、<肉のわざ>と<御霊の実>と対比して二種類のクリスチャンの違いを明示しています。

 ところで、「神を本当に信じるとは、どういうことですか?」を質問されたことがあります。「実がつき、実ることです」と私は答えました。これを初歩的な事例で例えば、自分自身の心の内に肉のわざへの誘惑が襲ってきた時、これを古い自分自身が今一度虜にしようとの攻撃であることを直感し、「イエス・キリストの御名によって命じる、お前を縛る。今すぐ私から出て行け!」と戦えるかどうか、なのです。肉のわざを行う者は、神の国を相続できない(21節)のですから、これは非常に重大な問題です。これは全クリスチャンに向けてのメッセージであって、決して看過してはいけないものなのです。

 あなたは22節以降のような実をつけていますか?あなたの心の中は、本当に主の霊によって生き、歩んで おられますでしょうか。私達の髪の毛の数すら数えておられる神は、私達の心の中の全てを、私達が生まれる前から、一切を見ておられるのです。

 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」とパウロは熱心にガラテヤ地方のクリスチャンに奨めています。つまりキリストにつかず、肉のままの自称クリスチャンが程度はわかりませんが、無視できないほど居たということです。この手紙は残されているパウロの手紙で最も初期のものですから、1世紀のほぼ真ん中で書かれています。つまり、パウロの第一回伝道旅行が終わって5年ないし10年しか経ていないのに、こういう事態だったのです。
 使徒の働きには当初からクリスチャンには二種類いました。<水のバプテスマ>のクリスチャンと<聖霊のバプテスマ>を受けたクリスチャンです(使徒8:14-17、19:1-7)。聖霊のバプテスマを受けていないと、神と親しく交れませんから、クリスチャンの使命「御霊によって生きる、神の御心を行なう」ことは困難です。そしてパウロは前節までで、<肉のわざ>と<御霊の実>と対比して二種類のクリスチャンの違いを明示しています。

 ところで、「神を本当に信じるとは、どういうことですか?」を質問されたことがあります。「実がつき、実ることです」と私は答えました。これを初歩的な事例で例えば、自分自身の心の内に肉のわざへの誘惑が襲ってきた時、これを古い自分自身が今一度虜にしようとの攻撃であることを直感し、「イエス・キリストの御名によって命じる、お前を縛る。今すぐ私から出て行け!」と戦えるかどうか、なのです。肉のわざを行う者は、神の国を相続できない(21節)のですから、これは非常に重大な問題です。これは全クリスチャンに向けてのメッセージであって、決して看過してはいけないものなのです。


 あなたは22節以降のような実をつけていますか?あなたの心の中は、本当に主の霊によって生き、歩んで おられますでしょうか。私達の髪の毛の数すら数えておられる神は、私達の心の中の全てを、私達が生まれる前から、一切を見ておられるのです。

2022年1月 2日 (日)

神に愛される秘訣

 詩篇 32篇5節   新改訳2017 

私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを【主】に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。

 神というのは、当たり前だけれども全地全能の造物主で、全てのことをご存知である(天の御座の周りに前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた:黙示録4章6・8節)。私たちは常にその天の神に報告され一切が知られている存在である。

 長年小学校の教師をしていた私が、教師をしていて一番嬉しかったことは、教え子に問題があって、指導していた時の子ども態度だった。私から咎めを受けそうな子が、それまで嘘を言ったり取り繕っていて、どうにも隠しきれなくなって、突然「ごめんなさい」と反省し認め、悔い改めた瞬間である。それはすごく嬉しくて、思わずその子を抱きしめたくなったものである。

 実は、天の神さまも同じではないかと思う。詩篇32でこんな箇所がある。
私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ

 全てを知っておられる神に向かって、自分を守って偽りを言うほど愚かで、神をガッカリさせ悲しませることはないと私は思う。神からの愛を失うことほど、私たち人間にとって危険な状態は存在しない。逆に「お父さん、ごめんなさい赦してください」と本当のことを白状し、その懐に飛び込むことほど、神さまを喜ばせることはないはずだ。心からであれば、たとえどんなに罪を犯していようが、両手を上げて喜んでくださり、赦してくださり、愛してくださるのは絶対の請け合いだ。

「神に愛される秘訣」とは、善行を行なったり、無理して聞き従う真似をして頑張ることではない。そんなこと、見ておられる神さまもお疲れになる。良い子ぶっても、そこはお見通しなのである。神に愛されれば、述べたような神を受けて、もう本当の自分を見ることは怖くなくなる。その罪だらけの自分に愛想を尽かし、解放され、全ての希望と喜びを、ただ神の愛だけに見出すようになるのは時間の問題だ。そして聖霊のバプテスマを体験し、神さまと交わり、神を知れば知るほど神を愛するようになる。この恵みのサイクルにはまっていく素晴らしさ、その喜び。

 その秘訣は極めて単純であり、幼児ですら分かることである。正直なこと。私は「自分の罪をあなたに知らせ、私の咎を隠しません」と神の愛をゲットする。このサイクルにはまると、もう罪を報告するのがサディスティクという訳ではなく、喜んでいつもするようになるのだから。
 あなたの身の回りに、そんな理解不可能なサディスティックとすら思えるクリスチャンはいませんか。彼らに喜びがあるのを見ていませんか? 彼らは真のクリスチャンです。

2021年12月26日 (日)

キリストにある者

✝ ローマ 8章1節   2017新改訳

 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

「私たちはイエス・キリストを信じます」と言い、洗礼を受ければクリスチャンとして、聖書にある永遠のいのち などを受けた者として歩んでいます。しかしその根拠とされている聖書であるローマ人への手紙8章を通りいっぺんではなく、きちんと読むなら、そこに限定があることは自明のことです。
つまり、「主(キリスト)にある者」という言葉であり、それはクリスチャンと言っても、「キリストの内にいない者」がいることへの但し書きとして挿入されていることです。これはこの章の続きを読めば、具体的に書かれていることから明らかです。つまり、聖霊が内住し、その人が聖霊を主とし、聖霊に聞き従って歩むなら、その人は「主にある者」なのです。しかしそうでない人、信じる前とほとんど変わらず、相変わらず自我が中心であって、肉の思いを持ち、妬みや欲情、独占願望を抱いている者は、聖霊が内住しているとは言えず罪の中にある、つまり真のクリスチャンであるとは言えないと説いているのです。

肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。ローマ 8章5~6節

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。ローマ8章9~10節

しかしそうは言っても、まだ望みがあります。なぜなら十字架によって、人の魂と霊が救われることだけは少なくとも知っているからです。ですからこれから試練や困難という、自我を滅ぼすチャンスに最も近い位置に立っているからです。神にとっては不可能はありません。主が導かれるならば、明日にでも救いが来ることでしょう。キリストの御体なる教会の恵みは大きいのです。自分が主から「哀れまれるべき存在」であることを心から理解し、告白するならば、どんなに天に大きな喜びが来ることでしょうか。

2021年12月19日 (日)

預言-神から受けて語る

Ⅱペテロ 1章21節   2017新改訳

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

 神に用いられる人物は必ず大きな試練を受けている。聖書中の偉大な人物は例外なく。アブラハムは75才で行先を知れず旅立ちました。モーセは王族の育ちと身分であったのに、自分こそがイスラエルを救えると高慢さのゆえに、80歳になるまでの40年間、ミディアンの地で雇われ牧者として過ごしました。この希望の無い惨めな逃亡生活こそ、神が与えられた試練です。ダビデもサウル王から理不尽な仕打ちを受け続け、荒野の中、あるいは敵国へと辛い逃亡生活を送りました。パウロに至っては<2コリ11:23-27>にある通りです。
これは徹底的に自我を砕き、肉なき魂に変えられない、ご自分のものとされるためでした。そうでなければ、返って大きな災いに置かれるのです。

 聖霊の恵を受けても、それは永久的に自分の内に住まうと思ってはなりません。ダビデを殺そうと執念を燃やしたサウル王は王になる時、偉大な主の器サムエルから油注がれ、聖霊を受け、預言を語りました。しかし彼は試練を受けていませんでした。このサウルが後年、神の言葉に対して聞き従いができず、肥えた家畜をぶんどってしまい、主は王にしたことを悔やまれたのです。またエルサレム 教会の指導者ヤコブは、ペテロのような主からの訓練を受けてはいませんでした。ひょっとして主の兄弟という肉の力でなったのであって、彼らは公生涯を送られる主イエスの迫害に近かったのです。エルサレム教会は割礼問題でパウロたちを苦しめ、最終的にはローマによって滅ぼされる教会となりました。

 このように、サウル王などにあるように、いかに訓練が大切かを私たちは教えられるのです。それゆえ私は現在試練や困難を受けている方に申し上げるのです。「オメデトウ、主に愛された人よ」と。

 預言は基本、言いたくない類の言葉であり、言えば自分がまずい立場に陥りそうで、実際語る時には喉がカラカラに乾いたようになり、非常に勇気がいるものです。忠実に聞き従って神の言葉を語るためには、自我が残っていてはなりません。自分の努力では自我を無くすなんてことはできません。ただ、ただ一つ、神から来る試練困難だけがそれを可能にするのです。ですからかつて、耐え難い試練や困難から無私となり、神に自分を捧げて聖霊を注がれた身ならば、試練困難こそ何ものにも替えられない宝であって、それは神の愛であることを、はっきりと証するのです

2021年12月12日 (日)

神のことばで生きる

マタイ 4章4節   2017新改訳

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

「世の中の一番大きな誘惑は、私たちが見たまま、感じたままを話すことです」(J・Meyer)。一見聞いただけでは、反発すら覚えられる言葉です。それも当然。文科省は小学校の教育目標として「自ら判断し行動するために必要な基礎的な力自分の考えや意見を持つ」ことを教育目標にしてさえいます。しかしこれは、キリスト教徒としては、当然のことであり、神を信じていると称している多くの肉のクリスチャンへの警鐘です。

 イエスさまがサタンの誘惑にあった最初は、四十日四十夜という断食直後、空腹を覚えられたタイミングで、サタンが現れ『「あなたが神の子なら石をパンに変えなさい」、それを行って自分が神の子であることを証明しなさい』と言う試みをしました。もしイエス様が己れの空腹に耐えかね、石をパンに変えようものなら、どんなことになったことでしょうか。それは肉欲を神の力で以て満たし、満足したことを意味します。もちろん主はそんなこと、お茶の子さいさいでできたことでしょう。しかしそれでは神が肉の誘惑に負けたことになり、人の創造の根本理由、「人は・・・神のことばで生きる」創造の御業を否定することになるのです。

 人は生物学的には生きていようと、そのままでは罪のままであり、霊的には死んでいる存在であると、聖書ははっきり宣言しています。次に重要なのは、最後の「・・・と書いてある」と言う言葉です。たとえクリスチャンだと称していても、己の肉の欲求ばかりを満たし、神のことばを無視し続けて命を終えるならば、その後、神の御前に立った時、どうやって弁明するのでしょうか。それは極めて困難です。イエスさまは自分の考えではなく、神の言葉、聖書でお答えになりました。まして被造物たる人間が聖書の言葉に立って生きなければなりません。

 私たちは十字架の恵みに与りました。しかし本来、十字架は罪を赦し、聖霊様がお住みになれるようにするためでした。それなのにきれいにお部屋を掃除したままになっていると、出て行った悪霊がさらにたくさんの悪霊を連れてきて、事態はもっと悪くなるのです(マタイ12:42-45)。これは今日の多くのクリスチャンの状態を指して言っています。内住される聖霊様が単に内住されているのではなく、その人の頭として実際に働かれ、指図されていることが決定的に重要です。私たちの主は、私たちの中に生きて働かれる主でなければなりません。これほど申しても、私がなにを語ろうとしているのか、まったく分からないクリスチャンがいます。聖霊の満たし、バプテスマを受けていないからです。どうか先ず、それを求めて頂きたいと思います。その時はじめてその人は、サタンの支配から解放されて神のものとなり、自我から解放されて自由を得るのです。サタンに支配され肉のまま滅びるか、神に自分を明け渡して永遠のいのちと自由を得るか、そのどちらかしかないのです。

2021年12月 5日 (日)

本当の自由

ヨハネ  8章34節   新改訳2017

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」

 罪に支配され、その奴隷になっているのに、そのことを自覚しないで居る人が多い。クリスチャン以外のこの世の人々とは、そう言う人々がほとんどだ。逆にクリスチャンでなければ、芥川や太宰のように自殺するか、または精神を犯されてしまう結果になりはしないだろうか。キリスト教は、罪の自覚が無い人、または乏しい人には関わりの無い宗教である。

イエスは彼らにこう言われた。

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。マル2:17】

 今一度振り返ろう。私たちはキリストを知る前に、この世で正しく生きることができていただろうか?いや却って自分自身を持て余し、理想にほど遠い現実の自分の姿に、ほとほと参ってしまっていたのではないだろうか。大人になる前、理想と高慢、繰り返す自己嫌悪のサイクルに果てしなさを覚え、不安が絶えず自分を襲って来ていたのは、私だけのことだったのだろうか。大人になると多少世界が広がって見えるようになり、そんな自分を他と比べてまだ良い方だと、変な納得をして、自分を蔵にしまい込んだだけなのではないだろうか。それはふつふつと自分の地の底でたぎっているにもかかわらず、である。私たちは本能的に知っている、このままでは自分は永遠の良い所には行けない、と言うことを。ただその解決の道を知らず、それをいいことにしてそのための努力を払いたくないだけなのです。

 ここに大きな真理、しかもパラドックス(背理)の真理があります。みな自分が唯一無二の大切なものなのですが、それを捨ててこそ解放され、真理に到達するのです。つまり自分自身の理性、自己決断、思いや望み、決めることをすべて神に捧げて、委ねる。そのように自己の主体を神に明け渡してこそ、自分を逃れた真の自由を得る・・・言ってみれば簡単なことなのですが、経験から言ってこれは本当に真実なのです。どうして神様の奴隷になることが、かえって自分自身から自由になることなのでしょうか。ましてそのように自分の主体を神に捧げ委ねる・・・ことが自分の力では、いえ人間の能力の範囲を超えていて、人にはできないことだとしたら、どうでしょう。つまり一旦キリストの神に降伏して、その十字架の愛を信じ、神のその力によってでないと、神に自分を明け渡すことは不可能なことなのです。

 ただし明け渡す相手が三位一体の真の神様でなければ、結果はもっと悲惨なことになるのですが。「神様、感謝いたします。あなたの愛とあわれみに」そのように私たちは気づかされ、思い、心からの感謝をもって祈るのです。

2021年11月28日 (日)

コミットメント(Commitment)

エレミヤ 29章11~13節   新改訳2017
 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている ーのことば─ それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

 コミットメント(Commitment)とは、一般的に関わりあいとか公的な誓約の意味です。が、本日は英語の委託、委任、引き渡し、投獄などの明け渡しの意味で用います。

 まず、私たちクリスチャンは神さまに自分自身をコミットメントしなくてはなりません。神さまは平安や未来と希望を与えるために私たち一人ひとりを創造されているのです。ですから神さまに自分自身を喜んで捧げ、明け渡し、コミットメントしなければ、その造られた真の恵みを享受できないばかりか、制御できない自分自身に苦しみ続け、とどのつまり罪に縛られ滅びの道を歩むことになるのです。

 しかしあまりにも罪の中に生き続けているので、私たちはどれほど自分がどれほど罪の中にいるのか分かっていない場合がほとんどです。つまり多くの方は次のように考えます。「自分は自分のもので、コミットメントなんて意味が分からない」とか、「大人になってようやく親などに左右されない生き方、自己実現できているのに、何を好き好んでコミットする必要があるの」とかです。

 しかし真実は真逆です。私たちはコミットメントし、神に委ねてみてはじめて罪をはらみ、産み出す欲がどんなものであるかを知ることができ、真に自分自身を解放できるのです。それは不思議なパラドックスであり、逆転です。しかしながら、信仰告白をし、バプテスマを受けたクリスチャンであっても、この世の人と何ら変わらない肉欲、物欲の世界に生きている人が何と多いことでしょうか。そのような人はコミットメントがされていないからなのです。クリスチャンの醍醐味・・・・を地上で送らずして、どうして天の国で神に喜ばれることができるでしょうか。日曜日の午前中だけ、やっと教会の礼拝に加わる、献金も十分の一に不十分で、心の中の思いは、すべてこの世のことである・・・・どうしてこのような可方が健全なクリスチャンだと言えるのでしょうか。神を信じる者は、富と神とに兼ね仕えることができないのです。

 本当に神を信じる人とは、自分の理性、思考や人間的な判断、あるいは事細かな嗜好の部類にまで、神に明け渡す決心をし、その実現を祈り続けている人に他なりません。決心と言いましたが、十分にできているかどうかは別の問題です。ただそのように志向して心から祈り求めている、それが土台ですし、そのような決心した人のことを言っています。その人はやがて、聖霊なる神の恵みに与り、その圧倒的な威光の前に、自分のすべてを差し出し、投げ出させずには居れなくなリます。この世で最も神を愛するようになるからです。少なくとも私はそのように変えられました。

 私たちの創造主だけが自分の人生の最善を知っておられ、最善を知っておられる方に自分をコミットしましょう。それはあなたを解放させ、回復させ、平安をもたらすことでしょう。

 

 

 

 

2021年11月21日 (日)

伝道師按手・任命式

Ⅱテモテ 4章1~5節   新改訳2017

1 神の御前、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前、その現れとその御国を思いなが、私は厳かに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽く、、絶えず教えなが、責、戒、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。

本日伝道師の按手を受けられる稲村姉妹について、確かイスラエル派遣の中で姉妹とはじめてお会いしたと思いますが、しばらくして、今日のように深く関わり合うようになるという主の示しがありました。他教会の方ですし、住まいも、家族の状況もありました。ですからこれは「あり得ないし、もし実現したらそれは、神のわざでしかない」とその時は思いました。それで、このことは一旦忘れることにし、できるだけ私は動かないようにすることにしました。
 ただ一度だけ、ご主人の召天後、これも示されてですが、群馬のご自宅に伺ってお片付けや庭掃除のお手伝いをしたことがあります。しかしその後、姉妹は不思議な身辺のいろいろな事があって、私たちの近くの教会に移動されるということがあり、牧師夫人との関わりが増し加えられ、ゆっくりですが、私たちとの距離が近くなって行くのです。これは不思議でした。
 今回の伝道師、その就任に決定的だったことが二つあります。一つは、向こうで引っ越しされてまだ間がないのに、この教会の二階に住む計画に手を上げてくださったことです。ご存知のように、この会堂の二階部分への住み手なくしては、この家を借りることは不可能だったのです。「どうして手を上げたのか自分でも分からない」という本人の言葉でした。コロナ禍の中、私たちの礼拝場所が守られたのは、この姉妹の手を上げられた瞬間から大きく前進したのです。
 二つ目は神学校を卒業されると言うことでした。何しろこの教会に来られた頃は、神学校を続けることを半ば諦めておられました。伝道師への任命・按手に神学校の「卒業」が必須だと言っているわけではありません。しかしそのような示しが来たのです。「卒業して按手・任命を」と。それで学びを再開するよう勧めますと応じてくださり、それから1年以上かかってこの十月、姉妹は卒業に必要な全単位を取得されたのです。
 最後の難関は、姉妹が伝道師になることを承諾してくださることでした。これもはじめは消極的な様子でした。しかしずいぶん祈られたのでしょうか、または神様の強い迫りがあったのか、つい最近、応じても良いという返事をいただき、そこで急きょ按手式を本日することに致しました。
【宣言】
 教会のかしらである主イエス・キリストは牧師・伝道師を立てて、福音を宣べ伝えさせ、ご自身の《血であがないとられた神の教会を牧させ》なさいます。
 TLEA船橋キリスト教会の牧師、ケパ中村は、教会員(アンナと示された)稲村いづみ姉妹を船橋キリスト教会の伝道師として立てることを主から示されていました。これが神から来た吟味のポイントとして、姉妹が神学校を卒業した時点で任命するよう、主から導かれておりました。
 今姉妹は卒業に必要な単位を修得し、私はここに、当教会の伝道師として姉妹を任命いたします。この日以後牧師を補佐し、牧会伝道師に次ぐ霊的な指導者として、教会に深く重荷を持つ働き人・奉仕者として、姉妹を伝道師に按手し任命します。


 

2021年11月14日 (日)

2022年度聖句

2022年度ガリラヤ湖畔新年礼拝でパウロ秋元牧師の年間聖句のメッセージを、ケパ中村牧師がさらにわかりやすく要約しました。

今年度の年度の御言葉 ヨハネ14章12節  第3版

「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとへ行くからです」である。

 聖書で用いる「わざ」という言葉には、神による意図的で、かつ奇跡のような超自然的な行いの意味で用いられている。ここでの節には次の三つのポイントがある。
 (1)キリストを信じる者はキリストのわざを行う・・・秋元牧師はこれを「キリストがこの世に来られた時に、多くの人を癒やしたり、奇跡を行ったり、解放を行ったことを指す」と説明された。つまりクリスチャンは、キリストがされたようなわざを行うようになるのである。しかしそれは、<キリストのわざはキリストがされる>と秋元牧師が幾度も指摘されたように、わざの実現者は人を通して神が行われるのであって、人が実質的には何の力もないことを肝に銘じなければならない。クリスチャンならば、この点に異論を唱える方はいないはずである。
 私自身も過去、癒やしの祈りをして、その実現を経験したことがある。その時私は非常に良い気分、高揚した状態になった。しかしそれは神の栄光であって、神をほめたたえ、畏れることはあっても、少しでも自分の手柄のように喜ぶなら、それは大きな誤りであったと今では思う。私たちは神のわざの管に過ぎず、ただ通りよい管に徹することが非常に重要である。

 (2)「またそれよりもさらに大きなわざを行います」・・・ここがもっとも誤解されている箇所である。文字通りに読めば「キリストもできなかったような、すごいわざを私たちクリスチャンが行うようになる」と理解してしまう。例えばラインハルト・ボンケはアフリカで7900万人をキリストに導いた。これはキリストが為し得なかった数字である、などと。

 しかし秋元牧師が「キリストのわざはキリストがする」原則から見れば、このような成功も、(1)番の通り、キリストが働いてくださった故の大収獲である。ボンケではない、キリストが働かれた故の大収穫であり、勘違いしてはいけない。従って「大きなわざ」とは、キリストが意図された<(神の計画の)大きな進展がこれから始まってくるぞぉ>の意味であると秋元牧師は語られたのだった。
 
 (3)以上を受け取った上で私は個人的に、さらに次の(3)「わたしが父のもとに行くからです」の言葉を注視したいと思った。ここでのすべてはイエスさまが十字架に架かり、復活して、ペンテコステの日に聖霊が注がれてから始まるわざである。聖霊を通して働かれるわざに、聖霊さまが単に内住されるだけでなく、その日までにクリスチャンが聖霊さまに、<徹底的に聞き従うしもべとなって>いなければ、話しにならないではない。今の時はその猶予の時であり、いつ来ても良いよう、今は器として整えられている時、これに集中しなければならないことを強調する

2021年11月 7日 (日)

罪と病

マタイ 9章2節   2017新改訳

すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた

 天上から中風の男が吊り下げられて来た。吊り下げて降ろすといった非常識なことをするこれら男たちは、イエスさまの癒やしを信じ、何としてでもこの中風の男が癒やされることを期待してであった。それに対してイエスさまが「あなたの罪は赦された」と語られた時、その時点では期待された目に見える形で肉体上の癒やしが起こったわけではなかった。しかしこの根源的な癒やし・・・「罪は赦された」のことばは激しい副作用を伴った。その場に居た律法学者たちにとって、自分を神と等しいものとする「冒涜」にしか聞こえず、彼らの怒りを買うものだった。
 それでイエスさまは、「冒涜」に対する反証として、目に見える形での癒やし、中風の癒やしを行われたのだった。

 ここで二つの疑問が湧き起こる。一つは中風の癒やしを求めて来たのに、その答えは「なぜ『罪の赦し』なのか」と言うこと。次に、律法学者たちの「冒涜」視がなかったなら、この場での癒やしが行われなかったのだろうか?という疑問である。

 この中風の男は何を求めていたのか?それは記されていないので確かなことは分からない。しかし私は主を少しだけ存じているので、男が何を求めていたのか、想像することが出来る。それは「罪を悔い改めており、その赦し」だったと。神は頓珍漢なことは決してされない。その人の心の中を完全に見通され、最善をもって応える方である。ならばこの男が吊り下ろされていく時、このように思い、願っていたと私は推察するのである。肉体の癒やしは一時的なものに過ぎない。また少し年を経れば、私たちの肉体は朽ち滅んでいく神から預かった仮初めの宿である。しかし魂の救い、罪の赦しは永続的な、真に価値のあるものである。この男はその良い方を求め、祈っていたはずである。星野富弘さんという方がいる。星野さんも信仰に比べ、肉体の癒やしを望まなかった証人である。

 群衆や律法学者たちは霊的に盲目の人たちであった。もし「罪の赦し」が「病の癒やし」と関わりないことで、この中風の男が癒やされなかったとしたら、彼らはイエスさまがされた根源的な癒やしを悟ることができなかった。それゆえに、「『あなたの罪は赦された』と語られ、言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問われ、続いて「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と言われながら、この男の中風を癒やされたのだった。癒やしはまさに、主ご自身が明示された<あなたがたが知るために>なのであった。

2021年10月31日 (日)

- 信じる-生きておられる神を

ヨハネ 2章23節   新改訳2017

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

 少し前の世代、私たちの祖父母たちの時代までは、ほとんどの人に何らかの信仰心があるのは当たり前でした。神が存在することを疑うことはなかったのです。自然への畏敬、超越的な存在、死後の霊的な世界が存在することは当然だったのです。その時代は神は神でも、どのような神を信じるのかが問題だったのです。つまり八百万の神々なのか、仏なのか、あるいはキリスト教の唯一神なのかが人々の関心事だったのです。キリシタンの迫害でも、信じることそのものは、当然だったのです。
 しかし科学の発展した現代は、そもそも神というものが存在するのかということが疑われています。少し前の世代からすれば、驚くべき不信仰の時代になっているのです。たとえ存在すると思っていても、多くの人は窮屈な思い、それは人を縛り、金銭を要し、自由を制約して来るかのような存在に見えるようです。ですから現代では最低限必要な冠婚葬祭時のみ、お世話になる時代になっています。そしてキリスト教のように、どんな時代であっても、毎日曜日教会に集うような緊密な宗教は、非常にごく限られた人々のものになっています。これはまさに、教会に来る人は神に選ばれた人であり、神の選びの厳粛さを表すものです。

 現代人にとっては自分の目に見える世界がすべてで、見えない世界は存在していないかのようです。つまり見える世界とは財産や金、また家族とかの絆などです。しかし事実は異なることを神が証明してくださっています。「しるしを見」たり「神からことばを受け、信じた」人々が居るからです。この時人は「神は生きておられる」「神は生きて、働いておられる」揺るがない確証を得るのです。しかしいかにもこれはごく稀なような気がします。どうしてでしょうか。求めないからです。

 聖書ではそのような人々の証しで満ちあふれています。一例を上げればペテロは長年猟師をしていて、決してあり得ない事象に遭遇しました。ナタナエルはいちじくの木の下にいたことを語られました。それぞれに不思議を見て、そして「信じた」のです。しかしこれらの決心も、ただ見て信じたようにありますが、体験し、あり得ない中に、主を信じ告白したのです。ただ頭の中だけで【主は生きておられる】とした信仰とは、根本的に土台が異なります。

 口で告白して私たちは信仰を持ちました。しかし耳学問ではなく、体験したのですから、これは揺るぎない確信になります。私はここはカリスマの教会ですから、このような神と直接交わり、神からの召命をもって、一つのみ体を形作って参りたいと思うのです。すべてを捨ててイエス・キリストに従う、一騎当千の信仰の強者となって参りましょう。

2021年10月24日 (日)

不正な管理人

ルカ 16章8節   新改訳2017

主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。

 このたとえ話は難解な箇所だと言われています。それは世の常識と天の父なる神のみ心と分けて考えないからです。この世の常識では、信頼されるべき職務の管理人が、不正を行なったというだけでも重罪であるのに、その上、解任の残された短い期日を使ってさらに主人の財産に損害を与えたというのは、更なる裏切りであって、言語道断な行為です。しかしそれを主人が「賢く行動したのをほめた」なんてことはあり得ないからです。
 しかし上記の8節から次の9節を見ていくなら、その意味がかなりわかってきます。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなった時、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」の 「富がなくなった時」とは自分が血肉の命を失った時のことであり、その時天国へは不正な富で多額の債務を減額された友が歓迎してくれる・・・という意味だからです。
 つまり<不正な富>とは文字通りに受け取るのではなく、<天の富>であって、それを正しく管理していなかったことが<不正>だったことになります。この管理人の富の使い方は、一言で言えば神のみ心に反していたということなのです。

 私たちは自分の財産やそれを産み出すもの・・・富を世において持っていたとしても、それらは神から委ねられたものであって、真の自分のものではありません。そしてこの委ねられた富をいかに用いたかということが、ある意味、天への道を左右するものとなるのです。
 同じ章で語られた「金持ちとラザロ」の話では、金持ちが死んで、彼は黄泉の国の熱い炎で苦しめられていました。彼がここで苦しむ理由として聖書で分かることは一つしかありません。貧しく重い皮膚病人だったラザロは、金持ち宅の門前で寝ていて、その「食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた」とあるだけです。ラザロは犬がもらえる残飯でも欲しかったのですが、そのことは犬からさえも同情されていたことしか知ることができません。ここで読み取れるのは、金持ちの<あわれみの心の無さ>です。門前に居たラザロに金持ちが気づかぬことはあり得ません。それにもかかわらず彼は何も助けようとはしなかったのです。
 金持ちの彼にとって、ラザロは隣人と見なさなかったのでしょう。しかし良きサマリヤ人で語られているように、この金持ちは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」の律法に明確に違反しているのです。そのように考えるなら、この不正な管理人が窮地に陥ってですが、負債の減額に天の富を用いたことは<ほめられる、賢い>ことだったのです。

«贖い出される