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御霊によって生きる

ガラテヤ 5章24~25節   新改訳2017

 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

 私たちは、「御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」とパウロは熱心にガラテヤ地方のクリスチャンに奨めています。つまりキリストにつかず、肉のままの自称クリスチャンが程度はわかりませんが、無視できないほど居たということです。この手紙は残されているパウロの手紙で最も初期のものですから、1世紀のほぼ真ん中で書かれています。つまり、パウロの第一回伝道旅行が終わって5年ないし10年しか経ていないのに、こういう事態だったのです。

 使徒の働きには当初からクリスチャンには二種類いました。<水のバプテスマ>のクリスチャンと<聖霊のバプテスマ>を受けたクリスチャンです(使徒8:14-17、19:1-7)。聖霊のバプテスマを受けていないと、神と親しく交れませんから、クリスチャンの使命「御霊によって生きる、神の御心を行なう」ことは困難です。そしてパウロは前節までで、<肉のわざ>と<御霊の実>と対比して二種類のクリスチャンの違いを明示しています。

 ところで、「神を本当に信じるとは、どういうことですか?」を質問されたことがあります。「実がつき、実ることです」と私は答えました。これを初歩的な事例で例えば、自分自身の心の内に肉のわざへの誘惑が襲ってきた時、これを古い自分自身が今一度虜にしようとの攻撃であることを直感し、「イエス・キリストの御名によって命じる、お前を縛る。今すぐ私から出て行け!」と戦えるかどうか、なのです。肉のわざを行う者は、神の国を相続できない(21節)のですから、これは非常に重大な問題です。これは全クリスチャンに向けてのメッセージであって、決して看過してはいけないものなのです。

 あなたは22節以降のような実をつけていますか?あなたの心の中は、本当に主の霊によって生き、歩んで おられますでしょうか。私達の髪の毛の数すら数えておられる神は、私達の心の中の全てを、私達が生まれる前から、一切を見ておられるのです。

 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」とパウロは熱心にガラテヤ地方のクリスチャンに奨めています。つまりキリストにつかず、肉のままの自称クリスチャンが程度はわかりませんが、無視できないほど居たということです。この手紙は残されているパウロの手紙で最も初期のものですから、1世紀のほぼ真ん中で書かれています。つまり、パウロの第一回伝道旅行が終わって5年ないし10年しか経ていないのに、こういう事態だったのです。
 使徒の働きには当初からクリスチャンには二種類いました。<水のバプテスマ>のクリスチャンと<聖霊のバプテスマ>を受けたクリスチャンです(使徒8:14-17、19:1-7)。聖霊のバプテスマを受けていないと、神と親しく交れませんから、クリスチャンの使命「御霊によって生きる、神の御心を行なう」ことは困難です。そしてパウロは前節までで、<肉のわざ>と<御霊の実>と対比して二種類のクリスチャンの違いを明示しています。

 ところで、「神を本当に信じるとは、どういうことですか?」を質問されたことがあります。「実がつき、実ることです」と私は答えました。これを初歩的な事例で例えば、自分自身の心の内に肉のわざへの誘惑が襲ってきた時、これを古い自分自身が今一度虜にしようとの攻撃であることを直感し、「イエス・キリストの御名によって命じる、お前を縛る。今すぐ私から出て行け!」と戦えるかどうか、なのです。肉のわざを行う者は、神の国を相続できない(21節)のですから、これは非常に重大な問題です。これは全クリスチャンに向けてのメッセージであって、決して看過してはいけないものなのです。


 あなたは22節以降のような実をつけていますか?あなたの心の中は、本当に主の霊によって生き、歩んで おられますでしょうか。私達の髪の毛の数すら数えておられる神は、私達の心の中の全てを、私達が生まれる前から、一切を見ておられるのです。

2022年1月 2日 (日)

神に愛される秘訣

 詩篇 32篇5節   新改訳2017 

私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを【主】に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。

 神というのは、当たり前だけれども全地全能の造物主で、全てのことをご存知である(天の御座の周りに前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた:黙示録4章6・8節)。私たちは常にその天の神に報告され一切が知られている存在である。

 長年小学校の教師をしていた私が、教師をしていて一番嬉しかったことは、教え子に問題があって、指導していた時の子ども態度だった。私から咎めを受けそうな子が、それまで嘘を言ったり取り繕っていて、どうにも隠しきれなくなって、突然「ごめんなさい」と反省し認め、悔い改めた瞬間である。それはすごく嬉しくて、思わずその子を抱きしめたくなったものである。

 実は、天の神さまも同じではないかと思う。詩篇32でこんな箇所がある。
私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ

 全てを知っておられる神に向かって、自分を守って偽りを言うほど愚かで、神をガッカリさせ悲しませることはないと私は思う。神からの愛を失うことほど、私たち人間にとって危険な状態は存在しない。逆に「お父さん、ごめんなさい赦してください」と本当のことを白状し、その懐に飛び込むことほど、神さまを喜ばせることはないはずだ。心からであれば、たとえどんなに罪を犯していようが、両手を上げて喜んでくださり、赦してくださり、愛してくださるのは絶対の請け合いだ。

「神に愛される秘訣」とは、善行を行なったり、無理して聞き従う真似をして頑張ることではない。そんなこと、見ておられる神さまもお疲れになる。良い子ぶっても、そこはお見通しなのである。神に愛されれば、述べたような神を受けて、もう本当の自分を見ることは怖くなくなる。その罪だらけの自分に愛想を尽かし、解放され、全ての希望と喜びを、ただ神の愛だけに見出すようになるのは時間の問題だ。そして聖霊のバプテスマを体験し、神さまと交わり、神を知れば知るほど神を愛するようになる。この恵みのサイクルにはまっていく素晴らしさ、その喜び。

 その秘訣は極めて単純であり、幼児ですら分かることである。正直なこと。私は「自分の罪をあなたに知らせ、私の咎を隠しません」と神の愛をゲットする。このサイクルにはまると、もう罪を報告するのがサディスティクという訳ではなく、喜んでいつもするようになるのだから。
 あなたの身の回りに、そんな理解不可能なサディスティックとすら思えるクリスチャンはいませんか。彼らに喜びがあるのを見ていませんか? 彼らは真のクリスチャンです。

2021年12月26日 (日)

キリストにある者

✝ ローマ 8章1節   2017新改訳

 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

「私たちはイエス・キリストを信じます」と言い、洗礼を受ければクリスチャンとして、聖書にある永遠のいのち などを受けた者として歩んでいます。しかしその根拠とされている聖書であるローマ人への手紙8章を通りいっぺんではなく、きちんと読むなら、そこに限定があることは自明のことです。
つまり、「主(キリスト)にある者」という言葉であり、それはクリスチャンと言っても、「キリストの内にいない者」がいることへの但し書きとして挿入されていることです。これはこの章の続きを読めば、具体的に書かれていることから明らかです。つまり、聖霊が内住し、その人が聖霊を主とし、聖霊に聞き従って歩むなら、その人は「主にある者」なのです。しかしそうでない人、信じる前とほとんど変わらず、相変わらず自我が中心であって、肉の思いを持ち、妬みや欲情、独占願望を抱いている者は、聖霊が内住しているとは言えず罪の中にある、つまり真のクリスチャンであるとは言えないと説いているのです。

肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。ローマ 8章5~6節

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。ローマ8章9~10節

しかしそうは言っても、まだ望みがあります。なぜなら十字架によって、人の魂と霊が救われることだけは少なくとも知っているからです。ですからこれから試練や困難という、自我を滅ぼすチャンスに最も近い位置に立っているからです。神にとっては不可能はありません。主が導かれるならば、明日にでも救いが来ることでしょう。キリストの御体なる教会の恵みは大きいのです。自分が主から「哀れまれるべき存在」であることを心から理解し、告白するならば、どんなに天に大きな喜びが来ることでしょうか。

2021年12月19日 (日)

預言-神から受けて語る

Ⅱペテロ 1章21節   2017新改訳

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

 神に用いられる人物は必ず大きな試練を受けている。聖書中の偉大な人物は例外なく。アブラハムは75才で行先を知れず旅立ちました。モーセは王族の育ちと身分であったのに、自分こそがイスラエルを救えると高慢さのゆえに、80歳になるまでの40年間、ミディアンの地で雇われ牧者として過ごしました。この希望の無い惨めな逃亡生活こそ、神が与えられた試練です。ダビデもサウル王から理不尽な仕打ちを受け続け、荒野の中、あるいは敵国へと辛い逃亡生活を送りました。パウロに至っては<2コリ11:23-27>にある通りです。
これは徹底的に自我を砕き、肉なき魂に変えられない、ご自分のものとされるためでした。そうでなければ、返って大きな災いに置かれるのです。

 聖霊の恵を受けても、それは永久的に自分の内に住まうと思ってはなりません。ダビデを殺そうと執念を燃やしたサウル王は王になる時、偉大な主の器サムエルから油注がれ、聖霊を受け、預言を語りました。しかし彼は試練を受けていませんでした。このサウルが後年、神の言葉に対して聞き従いができず、肥えた家畜をぶんどってしまい、主は王にしたことを悔やまれたのです。またエルサレム 教会の指導者ヤコブは、ペテロのような主からの訓練を受けてはいませんでした。ひょっとして主の兄弟という肉の力でなったのであって、彼らは公生涯を送られる主イエスの迫害に近かったのです。エルサレム教会は割礼問題でパウロたちを苦しめ、最終的にはローマによって滅ぼされる教会となりました。

 このように、サウル王などにあるように、いかに訓練が大切かを私たちは教えられるのです。それゆえ私は現在試練や困難を受けている方に申し上げるのです。「オメデトウ、主に愛された人よ」と。

 預言は基本、言いたくない類の言葉であり、言えば自分がまずい立場に陥りそうで、実際語る時には喉がカラカラに乾いたようになり、非常に勇気がいるものです。忠実に聞き従って神の言葉を語るためには、自我が残っていてはなりません。自分の努力では自我を無くすなんてことはできません。ただ、ただ一つ、神から来る試練困難だけがそれを可能にするのです。ですからかつて、耐え難い試練や困難から無私となり、神に自分を捧げて聖霊を注がれた身ならば、試練困難こそ何ものにも替えられない宝であって、それは神の愛であることを、はっきりと証するのです

2021年12月12日 (日)

神のことばで生きる

マタイ 4章4節   2017新改訳

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

「世の中の一番大きな誘惑は、私たちが見たまま、感じたままを話すことです」(J・Meyer)。一見聞いただけでは、反発すら覚えられる言葉です。それも当然。文科省は小学校の教育目標として「自ら判断し行動するために必要な基礎的な力自分の考えや意見を持つ」ことを教育目標にしてさえいます。しかしこれは、キリスト教徒としては、当然のことであり、神を信じていると称している多くの肉のクリスチャンへの警鐘です。

 イエスさまがサタンの誘惑にあった最初は、四十日四十夜という断食直後、空腹を覚えられたタイミングで、サタンが現れ『「あなたが神の子なら石をパンに変えなさい」、それを行って自分が神の子であることを証明しなさい』と言う試みをしました。もしイエス様が己れの空腹に耐えかね、石をパンに変えようものなら、どんなことになったことでしょうか。それは肉欲を神の力で以て満たし、満足したことを意味します。もちろん主はそんなこと、お茶の子さいさいでできたことでしょう。しかしそれでは神が肉の誘惑に負けたことになり、人の創造の根本理由、「人は・・・神のことばで生きる」創造の御業を否定することになるのです。

 人は生物学的には生きていようと、そのままでは罪のままであり、霊的には死んでいる存在であると、聖書ははっきり宣言しています。次に重要なのは、最後の「・・・と書いてある」と言う言葉です。たとえクリスチャンだと称していても、己の肉の欲求ばかりを満たし、神のことばを無視し続けて命を終えるならば、その後、神の御前に立った時、どうやって弁明するのでしょうか。それは極めて困難です。イエスさまは自分の考えではなく、神の言葉、聖書でお答えになりました。まして被造物たる人間が聖書の言葉に立って生きなければなりません。

 私たちは十字架の恵みに与りました。しかし本来、十字架は罪を赦し、聖霊様がお住みになれるようにするためでした。それなのにきれいにお部屋を掃除したままになっていると、出て行った悪霊がさらにたくさんの悪霊を連れてきて、事態はもっと悪くなるのです(マタイ12:42-45)。これは今日の多くのクリスチャンの状態を指して言っています。内住される聖霊様が単に内住されているのではなく、その人の頭として実際に働かれ、指図されていることが決定的に重要です。私たちの主は、私たちの中に生きて働かれる主でなければなりません。これほど申しても、私がなにを語ろうとしているのか、まったく分からないクリスチャンがいます。聖霊の満たし、バプテスマを受けていないからです。どうか先ず、それを求めて頂きたいと思います。その時はじめてその人は、サタンの支配から解放されて神のものとなり、自我から解放されて自由を得るのです。サタンに支配され肉のまま滅びるか、神に自分を明け渡して永遠のいのちと自由を得るか、そのどちらかしかないのです。

2021年12月 5日 (日)

本当の自由

ヨハネ  8章34節   新改訳2017

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」

 罪に支配され、その奴隷になっているのに、そのことを自覚しないで居る人が多い。クリスチャン以外のこの世の人々とは、そう言う人々がほとんどだ。逆にクリスチャンでなければ、芥川や太宰のように自殺するか、または精神を犯されてしまう結果になりはしないだろうか。キリスト教は、罪の自覚が無い人、または乏しい人には関わりの無い宗教である。

イエスは彼らにこう言われた。

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。マル2:17】

 今一度振り返ろう。私たちはキリストを知る前に、この世で正しく生きることができていただろうか?いや却って自分自身を持て余し、理想にほど遠い現実の自分の姿に、ほとほと参ってしまっていたのではないだろうか。大人になる前、理想と高慢、繰り返す自己嫌悪のサイクルに果てしなさを覚え、不安が絶えず自分を襲って来ていたのは、私だけのことだったのだろうか。大人になると多少世界が広がって見えるようになり、そんな自分を他と比べてまだ良い方だと、変な納得をして、自分を蔵にしまい込んだだけなのではないだろうか。それはふつふつと自分の地の底でたぎっているにもかかわらず、である。私たちは本能的に知っている、このままでは自分は永遠の良い所には行けない、と言うことを。ただその解決の道を知らず、それをいいことにしてそのための努力を払いたくないだけなのです。

 ここに大きな真理、しかもパラドックス(背理)の真理があります。みな自分が唯一無二の大切なものなのですが、それを捨ててこそ解放され、真理に到達するのです。つまり自分自身の理性、自己決断、思いや望み、決めることをすべて神に捧げて、委ねる。そのように自己の主体を神に明け渡してこそ、自分を逃れた真の自由を得る・・・言ってみれば簡単なことなのですが、経験から言ってこれは本当に真実なのです。どうして神様の奴隷になることが、かえって自分自身から自由になることなのでしょうか。ましてそのように自分の主体を神に捧げ委ねる・・・ことが自分の力では、いえ人間の能力の範囲を超えていて、人にはできないことだとしたら、どうでしょう。つまり一旦キリストの神に降伏して、その十字架の愛を信じ、神のその力によってでないと、神に自分を明け渡すことは不可能なことなのです。

 ただし明け渡す相手が三位一体の真の神様でなければ、結果はもっと悲惨なことになるのですが。「神様、感謝いたします。あなたの愛とあわれみに」そのように私たちは気づかされ、思い、心からの感謝をもって祈るのです。

2021年11月28日 (日)

コミットメント(Commitment)

エレミヤ 29章11~13節   新改訳2017
 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている ーのことば─ それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

 コミットメント(Commitment)とは、一般的に関わりあいとか公的な誓約の意味です。が、本日は英語の委託、委任、引き渡し、投獄などの明け渡しの意味で用います。

 まず、私たちクリスチャンは神さまに自分自身をコミットメントしなくてはなりません。神さまは平安や未来と希望を与えるために私たち一人ひとりを創造されているのです。ですから神さまに自分自身を喜んで捧げ、明け渡し、コミットメントしなければ、その造られた真の恵みを享受できないばかりか、制御できない自分自身に苦しみ続け、とどのつまり罪に縛られ滅びの道を歩むことになるのです。

 しかしあまりにも罪の中に生き続けているので、私たちはどれほど自分がどれほど罪の中にいるのか分かっていない場合がほとんどです。つまり多くの方は次のように考えます。「自分は自分のもので、コミットメントなんて意味が分からない」とか、「大人になってようやく親などに左右されない生き方、自己実現できているのに、何を好き好んでコミットする必要があるの」とかです。

 しかし真実は真逆です。私たちはコミットメントし、神に委ねてみてはじめて罪をはらみ、産み出す欲がどんなものであるかを知ることができ、真に自分自身を解放できるのです。それは不思議なパラドックスであり、逆転です。しかしながら、信仰告白をし、バプテスマを受けたクリスチャンであっても、この世の人と何ら変わらない肉欲、物欲の世界に生きている人が何と多いことでしょうか。そのような人はコミットメントがされていないからなのです。クリスチャンの醍醐味・・・・を地上で送らずして、どうして天の国で神に喜ばれることができるでしょうか。日曜日の午前中だけ、やっと教会の礼拝に加わる、献金も十分の一に不十分で、心の中の思いは、すべてこの世のことである・・・・どうしてこのような可方が健全なクリスチャンだと言えるのでしょうか。神を信じる者は、富と神とに兼ね仕えることができないのです。

 本当に神を信じる人とは、自分の理性、思考や人間的な判断、あるいは事細かな嗜好の部類にまで、神に明け渡す決心をし、その実現を祈り続けている人に他なりません。決心と言いましたが、十分にできているかどうかは別の問題です。ただそのように志向して心から祈り求めている、それが土台ですし、そのような決心した人のことを言っています。その人はやがて、聖霊なる神の恵みに与り、その圧倒的な威光の前に、自分のすべてを差し出し、投げ出させずには居れなくなリます。この世で最も神を愛するようになるからです。少なくとも私はそのように変えられました。

 私たちの創造主だけが自分の人生の最善を知っておられ、最善を知っておられる方に自分をコミットしましょう。それはあなたを解放させ、回復させ、平安をもたらすことでしょう。

 

 

 

 

2021年11月21日 (日)

伝道師按手・任命式

Ⅱテモテ 4章1~5節   新改訳2017

1 神の御前、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前、その現れとその御国を思いなが、私は厳かに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽く、、絶えず教えなが、責、戒、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。

本日伝道師の按手を受けられる稲村姉妹について、確かイスラエル派遣の中で姉妹とはじめてお会いしたと思いますが、しばらくして、今日のように深く関わり合うようになるという主の示しがありました。他教会の方ですし、住まいも、家族の状況もありました。ですからこれは「あり得ないし、もし実現したらそれは、神のわざでしかない」とその時は思いました。それで、このことは一旦忘れることにし、できるだけ私は動かないようにすることにしました。
 ただ一度だけ、ご主人の召天後、これも示されてですが、群馬のご自宅に伺ってお片付けや庭掃除のお手伝いをしたことがあります。しかしその後、姉妹は不思議な身辺のいろいろな事があって、私たちの近くの教会に移動されるということがあり、牧師夫人との関わりが増し加えられ、ゆっくりですが、私たちとの距離が近くなって行くのです。これは不思議でした。
 今回の伝道師、その就任に決定的だったことが二つあります。一つは、向こうで引っ越しされてまだ間がないのに、この教会の二階に住む計画に手を上げてくださったことです。ご存知のように、この会堂の二階部分への住み手なくしては、この家を借りることは不可能だったのです。「どうして手を上げたのか自分でも分からない」という本人の言葉でした。コロナ禍の中、私たちの礼拝場所が守られたのは、この姉妹の手を上げられた瞬間から大きく前進したのです。
 二つ目は神学校を卒業されると言うことでした。何しろこの教会に来られた頃は、神学校を続けることを半ば諦めておられました。伝道師への任命・按手に神学校の「卒業」が必須だと言っているわけではありません。しかしそのような示しが来たのです。「卒業して按手・任命を」と。それで学びを再開するよう勧めますと応じてくださり、それから1年以上かかってこの十月、姉妹は卒業に必要な全単位を取得されたのです。
 最後の難関は、姉妹が伝道師になることを承諾してくださることでした。これもはじめは消極的な様子でした。しかしずいぶん祈られたのでしょうか、または神様の強い迫りがあったのか、つい最近、応じても良いという返事をいただき、そこで急きょ按手式を本日することに致しました。
【宣言】
 教会のかしらである主イエス・キリストは牧師・伝道師を立てて、福音を宣べ伝えさせ、ご自身の《血であがないとられた神の教会を牧させ》なさいます。
 TLEA船橋キリスト教会の牧師、ケパ中村は、教会員(アンナと示された)稲村いづみ姉妹を船橋キリスト教会の伝道師として立てることを主から示されていました。これが神から来た吟味のポイントとして、姉妹が神学校を卒業した時点で任命するよう、主から導かれておりました。
 今姉妹は卒業に必要な単位を修得し、私はここに、当教会の伝道師として姉妹を任命いたします。この日以後牧師を補佐し、牧会伝道師に次ぐ霊的な指導者として、教会に深く重荷を持つ働き人・奉仕者として、姉妹を伝道師に按手し任命します。


 

2021年11月14日 (日)

2022年度聖句

2022年度ガリラヤ湖畔新年礼拝でパウロ秋元牧師の年間聖句のメッセージを、ケパ中村牧師がさらにわかりやすく要約しました。

今年度の年度の御言葉 ヨハネ14章12節  第3版

「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとへ行くからです」である。

 聖書で用いる「わざ」という言葉には、神による意図的で、かつ奇跡のような超自然的な行いの意味で用いられている。ここでの節には次の三つのポイントがある。
 (1)キリストを信じる者はキリストのわざを行う・・・秋元牧師はこれを「キリストがこの世に来られた時に、多くの人を癒やしたり、奇跡を行ったり、解放を行ったことを指す」と説明された。つまりクリスチャンは、キリストがされたようなわざを行うようになるのである。しかしそれは、<キリストのわざはキリストがされる>と秋元牧師が幾度も指摘されたように、わざの実現者は人を通して神が行われるのであって、人が実質的には何の力もないことを肝に銘じなければならない。クリスチャンならば、この点に異論を唱える方はいないはずである。
 私自身も過去、癒やしの祈りをして、その実現を経験したことがある。その時私は非常に良い気分、高揚した状態になった。しかしそれは神の栄光であって、神をほめたたえ、畏れることはあっても、少しでも自分の手柄のように喜ぶなら、それは大きな誤りであったと今では思う。私たちは神のわざの管に過ぎず、ただ通りよい管に徹することが非常に重要である。

 (2)「またそれよりもさらに大きなわざを行います」・・・ここがもっとも誤解されている箇所である。文字通りに読めば「キリストもできなかったような、すごいわざを私たちクリスチャンが行うようになる」と理解してしまう。例えばラインハルト・ボンケはアフリカで7900万人をキリストに導いた。これはキリストが為し得なかった数字である、などと。

 しかし秋元牧師が「キリストのわざはキリストがする」原則から見れば、このような成功も、(1)番の通り、キリストが働いてくださった故の大収獲である。ボンケではない、キリストが働かれた故の大収穫であり、勘違いしてはいけない。従って「大きなわざ」とは、キリストが意図された<(神の計画の)大きな進展がこれから始まってくるぞぉ>の意味であると秋元牧師は語られたのだった。
 
 (3)以上を受け取った上で私は個人的に、さらに次の(3)「わたしが父のもとに行くからです」の言葉を注視したいと思った。ここでのすべてはイエスさまが十字架に架かり、復活して、ペンテコステの日に聖霊が注がれてから始まるわざである。聖霊を通して働かれるわざに、聖霊さまが単に内住されるだけでなく、その日までにクリスチャンが聖霊さまに、<徹底的に聞き従うしもべとなって>いなければ、話しにならないではない。今の時はその猶予の時であり、いつ来ても良いよう、今は器として整えられている時、これに集中しなければならないことを強調する

2021年11月 7日 (日)

罪と病

マタイ 9章2節   2017新改訳

すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた

 天上から中風の男が吊り下げられて来た。吊り下げて降ろすといった非常識なことをするこれら男たちは、イエスさまの癒やしを信じ、何としてでもこの中風の男が癒やされることを期待してであった。それに対してイエスさまが「あなたの罪は赦された」と語られた時、その時点では期待された目に見える形で肉体上の癒やしが起こったわけではなかった。しかしこの根源的な癒やし・・・「罪は赦された」のことばは激しい副作用を伴った。その場に居た律法学者たちにとって、自分を神と等しいものとする「冒涜」にしか聞こえず、彼らの怒りを買うものだった。
 それでイエスさまは、「冒涜」に対する反証として、目に見える形での癒やし、中風の癒やしを行われたのだった。

 ここで二つの疑問が湧き起こる。一つは中風の癒やしを求めて来たのに、その答えは「なぜ『罪の赦し』なのか」と言うこと。次に、律法学者たちの「冒涜」視がなかったなら、この場での癒やしが行われなかったのだろうか?という疑問である。

 この中風の男は何を求めていたのか?それは記されていないので確かなことは分からない。しかし私は主を少しだけ存じているので、男が何を求めていたのか、想像することが出来る。それは「罪を悔い改めており、その赦し」だったと。神は頓珍漢なことは決してされない。その人の心の中を完全に見通され、最善をもって応える方である。ならばこの男が吊り下ろされていく時、このように思い、願っていたと私は推察するのである。肉体の癒やしは一時的なものに過ぎない。また少し年を経れば、私たちの肉体は朽ち滅んでいく神から預かった仮初めの宿である。しかし魂の救い、罪の赦しは永続的な、真に価値のあるものである。この男はその良い方を求め、祈っていたはずである。星野富弘さんという方がいる。星野さんも信仰に比べ、肉体の癒やしを望まなかった証人である。

 群衆や律法学者たちは霊的に盲目の人たちであった。もし「罪の赦し」が「病の癒やし」と関わりないことで、この中風の男が癒やされなかったとしたら、彼らはイエスさまがされた根源的な癒やしを悟ることができなかった。それゆえに、「『あなたの罪は赦された』と語られ、言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問われ、続いて「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と言われながら、この男の中風を癒やされたのだった。癒やしはまさに、主ご自身が明示された<あなたがたが知るために>なのであった。

2021年10月31日 (日)

- 信じる-生きておられる神を

ヨハネ 2章23節   新改訳2017

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

 少し前の世代、私たちの祖父母たちの時代までは、ほとんどの人に何らかの信仰心があるのは当たり前でした。神が存在することを疑うことはなかったのです。自然への畏敬、超越的な存在、死後の霊的な世界が存在することは当然だったのです。その時代は神は神でも、どのような神を信じるのかが問題だったのです。つまり八百万の神々なのか、仏なのか、あるいはキリスト教の唯一神なのかが人々の関心事だったのです。キリシタンの迫害でも、信じることそのものは、当然だったのです。
 しかし科学の発展した現代は、そもそも神というものが存在するのかということが疑われています。少し前の世代からすれば、驚くべき不信仰の時代になっているのです。たとえ存在すると思っていても、多くの人は窮屈な思い、それは人を縛り、金銭を要し、自由を制約して来るかのような存在に見えるようです。ですから現代では最低限必要な冠婚葬祭時のみ、お世話になる時代になっています。そしてキリスト教のように、どんな時代であっても、毎日曜日教会に集うような緊密な宗教は、非常にごく限られた人々のものになっています。これはまさに、教会に来る人は神に選ばれた人であり、神の選びの厳粛さを表すものです。

 現代人にとっては自分の目に見える世界がすべてで、見えない世界は存在していないかのようです。つまり見える世界とは財産や金、また家族とかの絆などです。しかし事実は異なることを神が証明してくださっています。「しるしを見」たり「神からことばを受け、信じた」人々が居るからです。この時人は「神は生きておられる」「神は生きて、働いておられる」揺るがない確証を得るのです。しかしいかにもこれはごく稀なような気がします。どうしてでしょうか。求めないからです。

 聖書ではそのような人々の証しで満ちあふれています。一例を上げればペテロは長年猟師をしていて、決してあり得ない事象に遭遇しました。ナタナエルはいちじくの木の下にいたことを語られました。それぞれに不思議を見て、そして「信じた」のです。しかしこれらの決心も、ただ見て信じたようにありますが、体験し、あり得ない中に、主を信じ告白したのです。ただ頭の中だけで【主は生きておられる】とした信仰とは、根本的に土台が異なります。

 口で告白して私たちは信仰を持ちました。しかし耳学問ではなく、体験したのですから、これは揺るぎない確信になります。私はここはカリスマの教会ですから、このような神と直接交わり、神からの召命をもって、一つのみ体を形作って参りたいと思うのです。すべてを捨ててイエス・キリストに従う、一騎当千の信仰の強者となって参りましょう。

2021年10月24日 (日)

不正な管理人

ルカ 16章8節   新改訳2017

主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。

 このたとえ話は難解な箇所だと言われています。それは世の常識と天の父なる神のみ心と分けて考えないからです。この世の常識では、信頼されるべき職務の管理人が、不正を行なったというだけでも重罪であるのに、その上、解任の残された短い期日を使ってさらに主人の財産に損害を与えたというのは、更なる裏切りであって、言語道断な行為です。しかしそれを主人が「賢く行動したのをほめた」なんてことはあり得ないからです。
 しかし上記の8節から次の9節を見ていくなら、その意味がかなりわかってきます。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなった時、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」の 「富がなくなった時」とは自分が血肉の命を失った時のことであり、その時天国へは不正な富で多額の債務を減額された友が歓迎してくれる・・・という意味だからです。
 つまり<不正な富>とは文字通りに受け取るのではなく、<天の富>であって、それを正しく管理していなかったことが<不正>だったことになります。この管理人の富の使い方は、一言で言えば神のみ心に反していたということなのです。

 私たちは自分の財産やそれを産み出すもの・・・富を世において持っていたとしても、それらは神から委ねられたものであって、真の自分のものではありません。そしてこの委ねられた富をいかに用いたかということが、ある意味、天への道を左右するものとなるのです。
 同じ章で語られた「金持ちとラザロ」の話では、金持ちが死んで、彼は黄泉の国の熱い炎で苦しめられていました。彼がここで苦しむ理由として聖書で分かることは一つしかありません。貧しく重い皮膚病人だったラザロは、金持ち宅の門前で寝ていて、その「食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた」とあるだけです。ラザロは犬がもらえる残飯でも欲しかったのですが、そのことは犬からさえも同情されていたことしか知ることができません。ここで読み取れるのは、金持ちの<あわれみの心の無さ>です。門前に居たラザロに金持ちが気づかぬことはあり得ません。それにもかかわらず彼は何も助けようとはしなかったのです。
 金持ちの彼にとって、ラザロは隣人と見なさなかったのでしょう。しかし良きサマリヤ人で語られているように、この金持ちは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」の律法に明確に違反しているのです。そのように考えるなら、この不正な管理人が窮地に陥ってですが、負債の減額に天の富を用いたことは<ほめられる、賢い>ことだったのです。

2021年10月17日 (日)

贖い出される

ガラテヤ 3章13節  新改訳2017

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです

「あがない出される」とはすなわち、犯した罪を代償物を出してつぐなわれ、それで助け出されることです。そこで「あがない出された」者は、当然自分の罪を十分知っており、その代償物をも知っています。もちろんその代償物とはイエス・キリストです。

 しかし自分の罪がわからない人は、あがなわれていることが分からないので、縄目が解かれ、獄を出て行くことができるのに、未だその中に留まっているのです。つまりあがなわれておられないのです。このような方はその血肉の体と共に滅びます。
クリスチャンと称される方であっても、ガラテヤ5章16~21にあるような未だ肉のわざの働きが内心にあれば、未だ獄内ということになるので、裁きの時には外の暗闇に放り出されるおそれがあります。
 ともあれ、真に自分の罪を知っており、十字架の恵みによってあがない出された者は、常に救われた感謝と喜びの中にあります。つまり十字架は祝福の土台なのです。罪のことを申しますと、まるで暗い呪いの中に落とし込むように、これを忌避される方がおられますが、そのような方はご自分の罪がわかっておられないということになります。

 ここで一つ分かりにくい御言葉が、本日の聖書箇所にあります。
ご自分が私たちのために呪われた者となることで、わたしたちを律法の呪いからあがない出して」の≪律法の呪い≫という言葉です。律法の中での最高規範をイエス様は第一に「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして主を愛すること」、第二に「隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:36-40)と語られましたが、本当にそれが文字通りにできて、実際に行っているかどうか、です。皆さん、自分は行っていると言えるのであれば、その人に≪律法の呪い≫はありません。どうでしょうか? もし私のように自信を持って「行えていない」のであれば、律法に呪われています。しかし誉むべきかな、私たちには十字架の赦しがあります。このできない呪い・・・罪を主があがなってくださったのです。
 ハレルヤ!そのことを「律法の呪いからあがない出して」とパウロは語ってくれているのです。そしてあがなわれた私たちに<御子の御霊>を遣わされ、み心を行う者としてくださり、遂には子としてくださるのです(ガラテヤ4:5-7)。感謝します。

2021年10月10日 (日)

主は生きておられる

Ⅱ列王記 4章30節   2017新改訳

その子の母親は言った。「【主】は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。

 この上記の告白はシュネムの女がエリシャに、わが子を生き返らせるよう懇願した際の言葉です。「主は生きておられる」、この言葉は、神、主をリアルに実際に体験しなければ言えない言葉です。神を体験する、これは神の一方的な主権による顕現であって、これを受けた人にとって、それまでの自分の人生観や価値観が、その瞬間、決定的に変容せざるを得ないのです。しかしこのような体験は「聖霊のバプテスマ」は聞き及んでも、現代では余り聞くことがありません。果たしてそれでいいのでしょうか。

 聖書ではどのように描かれているのでしょうか。先ずこのシュネムの女ですが、夫がすでに高齢で、子を持つことをあきらめていたようです。しかしエリシャは「来年の今頃、あなたは男の子を抱くようになる」と預言し、実際それは成就しました。まるでアブラハムの妻、サラの事例のようです。この女性は「主は生きておられる」ことを体験しているのです。この言葉はエリヤやエリシァだけでなく、ギデオン、サウル王、ダビデ、エレミヤなど旧約では多くの人物が口にしました。彼らは皆、神の生きておられることを体験し、主に用いられた人生を歩んだのでした。

 「主は生きておられる」ことを体験するなら、それまで神は自分の思いやイメージ、観念の中にボヤーッと知識の中にあったのですが、その瞬間に現実の神とは、力ある唯一の権威と圧倒的な力、創造者にして真に贖い主であることが分かるのです。現れ方や伝え方はそれぞれに適応したものとなるでしょうが、最終的には一人ひとりに神の愛のメッセージが注がれるはずです。少なくとも私はそうでした。その愛の渦の中で呆然としながら、ただ強い感動で涙が止まらないのです。
 これを強いて言えば少し異なりますが、今はもう古い話、中国残留孤児が日本に来て、実の親にはじめて対面できたような感じでしょうか。

 「主は生きておられる」体験をした人は、マタイ 13章44節のようです。隠された宝を畑の中に見つけ、喜びのあまり、持っている物すべてを売り払い、その畑を買うようなものです。自分の持っているもの全部を売り払って、神に捧げたくなってしかたがありません。それほどのこの体験は余りにも恵みであり、今自分が生きている意味とその目的をも知る事になるのです。信仰の確信が持てない、クリスチャンとして本当に自分は実をつけて、良い地なのだろうか。そう悩んでいる方は真剣に、深い悔い改めの中から、神のあわれみによってこの恵みを受けていただきたいと思います。

2021年10月 3日 (日)

いやし

イザヤ 53章5-6節   新改訳2017
 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 イエス・キリストは「信じていない人々から」ではなく、民族全員が信じ、待ち望んでいたはずの人々から罪人とされ、苦しみを受け、捨てられました。その権力者たちからは自分たちの地位を脅かす危険な存在だとされ、民衆・・・イエスによって赦され癒やされた多くの人々・・・からは期待外れだとして、嘲られたのです。人々をあわれみ、愛そうと天から降りて来られた我らの聖なる造物主に、これほど最悪で悲劇的な結果があるでしょうか。しかし主はほむべきかな、最悪を神は最善に変えてくださりました。Healing_20211010034601
 イスラエルの民は<自分が期待しているメシア像と異なっていた>のでイエスを捨てたのですが、今日のクリスチャンにもそっくり同じことが言えます。使徒時代には当たり前であった聖霊のバプテスマを、どうして現代のクリスチャンは受けられないのでしょうか。衝撃的な表現をすれば、あの十字架につけた時代と今も変わりなく、神を自分の利己目的実現のために利用しようとしているからです。神のみ心を行おうとしなければ、結局のところ、十字架上のキリストに向かって「降りて来い、そうしたら信じよう」と叫んだ人々と大差はありません。

 このことは癒やしについてもまったく同じことが言えます。癒やしはまず第一に神がみ心によって行われるものです。聖書の理解で言えば、病の多くは罪が原因であり、特に心の病ではそれが顕著です。ですから真に癒やしを受けるためには、まず神との関係を正しくしなければなりません。神が今も生きて働かれていることを認め、自分の高慢と罪を認め、徹底して悔い改め、ひたすら神のあわれみにすがらなければなりません。

 癒やしはこのように信仰によって受ける恵みです。どんな時代でも、信仰が無ければ癒やしは起こりませんでした。イエス様も、不信仰な郷里ナザレではほとんど力あるわざは行われませんでした。またどんなに信仰があっても、み心の故に癒やしが行われない場合もあります。しかしその場合、神がその理由を答えてくださることでしょう。「わたしの恵みはあなたに最善である」と。
 実は癒やしの最大最高なものは、神を心から信じる事ではないでしょうか。その時、もはや癒やしなどは超越してしまっていて、どうでも良いことになっているのでしょう。どんなに癒やされたとしても、人の体は100年もありません。そうではなく、霊の人となって、永遠に神の国で永遠に生きるとしたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。

2021年9月26日 (日)

まず神の国を求める

マタイ 6章33節   2017新改訳

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

 この世の人々の天国と地獄の理解は、「帰って来たヨッパライ」の歌同様、まったく自分に都合の良いものです。しかし聖書で描かれている神の国(天の新しいエルサレム)とゲヘナが真実なのです。混同しないために下図で示します。ルカの16章では、最初、黄泉の世界は三つの部分に別れていました。その中の地獄的な炎の中で、金持ちが貧しいラザロを哀れまなかったが故に暑さで苦しんでいました。その彼がふと見上げると遠く上の方、天的なアブラハムのふところではあののラザロが居て、慰めを得ていたという話です。この両者の間には、深い淵があって、全く行き来出来ないのでした。しかしキリストの十字架の福音は、信仰によって完全に罪を赦されて行くので、下図のように黄泉が天的な部分である神の国パラダイスとして分離しました。Photo_20211002163001

 こうなると二つの世界は完全に別世界となりました。そしてこの時代十字架の時代の後、最後の審判が行われた後は、それぞれに滅びない体が与えられるのですが、新しいエルサレムでは悲しみも苦しみもない栄光の神の民として、一方ゲヘナでは永遠に苦しみ続けるための体として与えられるのです。ですからこれはまったく正反対です。
 ただし天のエルサレムには臆病な者、不信仰な者、偶像を拝む人などは入ることができず、キリストを信じることを告白していても、火と硫黄のゲヘナに行くことになります。

 さて天のエルサレムとはどんなところでしょうか。それはとにかく素晴らしいところとして主に黙示録21、22章に描かれています。一辺が2,200kmの信じられないほどの巨大な城郭都市で天から降りてきます。太陽や月がなくても、もっと素晴らしい絶えない光が神の御座から光り輝き、街や周辺全体を照らしています。いのちの水の川が中央から流れ出て、その川のほとりには月々に変わる木の実がなっています。
 本日はこのぐらいにしますが、新しい天のエルサレムは素晴らしい所です。どんなことがあろうと、強い願いを持って主に祈り求めて行きましょう。

2021年9月19日 (日)

エリ、エリ、レマ、サバクタニ

マタイ 27章46節   2017新改訳

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 題名は古代のアラム語であり、意味は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。受肉して人の姿になられ、多くの人々を教え、癒やし、わざを現した神の子が、その結果として考えられないほどの苦しみを受けた挙句、十字架上の今際(いまわ)の際に、どうしてこのように遣わされた神から<見捨てられ>なければならないのか。多くのクリスチャンは理不尽に思い、不可解なことと受け取っているようだ。このような人は当然サタンからも狙われ、信仰が窮地に陥っているケースが多い。

 結論から言えば、それは全人類の罪を背負われた贖いの意図を理解せず、Photo_20211002164601  ペテロがイエスをなだめたような人間的な思考でこのことばを理解しようとした誤りである。処断され見捨てられたのはイエス様ではなく、人類の罪の方である。その罪は最も偽善家であるパリサイ人の代表によって告発され、時の権力によって血肉の命を奪うべく実行された。彼らはイエス様の血肉の死を目的にしたが、その霊に対しては無力である。私たちの罪を私たちの創造者である神ご自身がその責を取り、贖いのわざを果たされたのである。そしてイエスの名によって私たちの罪も十字架の贖いのわざを信じるなら、完全に赦されることになった。神がお見捨てになったのは、繰り返して言うが、人間の罪に対してであった。
 だが、そのイエス様は最後の大声での叫びによって、血肉の使命を全うされた上、ご自身の霊を天の父の元にお戻しになった。人類の罪の全てを神は御子イエスに背負わされたまま葬られたのである。繰り返すが、それゆえ人はイエス・キリストを信じるだけで、その罪が赦されるのである。救いのわざのすべてが十字架によって「完了」したのである。

 こうして真に自分の罪を自覚したクリスチャンにとって、その罪の身代わりとなってくださった十字架のイエス様の血潮は慕わしく、また狂わんばかりに十字架の血が自分の生きるいのちそのものとなっていることを自覚するのである。たとえ神を信じない人々からは「気味悪い」「吸血鬼」とか誤解されようと、私たちは意に介さないのである。この群れでよく賛美されるのが「尊き血潮を流された‥‥十字架の愛(一例8集60、救い主イエス」であるのは以上のような理由による。私たちはこの賛美を、これまで以上に声を大にして歌おうではないか。

2021年9月12日 (日)

今の時は

✝ ローマ 10章18節   2017新改訳

では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。

  今年の9・11までに20年になる長い戦いを避けようと撤退したアメリカは、アフガニスタンにおいて敗北したも同然です。再びテロ国家が世界の一国として登場することになったのです。これは20年近くも続けたベトナム戦争を思い出させます。圧倒的な軍事力を持っていたアメリカは、共産主義と今回は、イスラム原理主義に勝てなかったわけです。聖書的に見るならばこれ以後の世界は、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」(マルコ13:8)となるでしょう。人類普遍かと謳われたキリスト教的価値観は、明らかに行き詰まりを呈しているのです。

 私たちはこれまでマタイ24:14の「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」をそのまま受け取り、全世界がキリスト教化して終わりが来ると思っていました。しかしそうではないことが明らかになっています。世界の宗教分布図を見てください。キリスト教はアジアの西部と中央部を除いて、ほぼ世界を覆っています。共産主義の国では迫害されていますが、今も地下教会はしぶとく福音を伝えています。イスラム教国でもクリスチャンは迫害されていますが、その比率は日本より高いのです。

 聖書をよく読んでみると、ローマ書10:18には『その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた』とあります。これは福音が届くということであって、世界中がキリスト教国になるという意味でないことに気づきます。共産国には地下教会を通して、イスラム教国にはSNSや教会を通して、福音は伝わり届いていれば良いのです。

 つまり福音はすでに全世界に伝わっており、終末の全世界に福音がほぼ伝わっているという印象を持ちます。つまりキリスト教国かどうかはすでに関係なく、世界の終わり、終末の舞台のお膳立てがほぼほぼ整ったと見れるのです。

 とするならばすでに信じた私たちは黙示録3:3の「思い起こし、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、私は盗人のように来る」とあるように、<悔い改め、(聖霊の満たしを受けて)目を覚まさ>なければならないのです。そうすれば「戸の外に立ってたたいている」主が入って来られ、「ともに食事をする」という主との交わりの恵みの中に入るのです。ですから自分の深刻な罪に目を覚まし、<永遠のいのち>なる主と生きることの命に勝る価値に目覚めて気がつかねばなりません。そのような人は、それまでの暮らしてきた世のすべてを喜んで捨てることでしょう。むしろ邪魔物なのです。先ほどの証しのように、その類いのしるしが伴うのです。
 永遠のいのち、ただそれだけに目を覚まし、神と交わって生きる、それが目を覚ますことです。

2021年9月 5日 (日)

誠にあなたは神の子です

マタイ 14章33節   2017新改訳

舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。

 これまでペテロの水上歩行はいろいろ語れて来ました。結局は歩けなかったペテロの弱さ、不信仰を責めるケースと、逆に少しでも水上を歩けた(イエスという神でなく)人間はペテロが唯一であると持ち上げたりするものです。今回私が示されたのは、ペテロの叫び声「主よ、助けてください」を聞かれたイエス様が即座に手を伸ばされ、ペテロを掴んで引き上げてくださったことです。つまり視点をイエス様に置いてみようということです。

 ペテロは信仰に立って歩みでましたが、途中で波立つ強風にさらされ、それを見た途端に彼は現実に戻され、恐怖の余り沈みかけました。私たちもどんなに時に強く信仰に立ったとしても、ペテロとまったく同様に恐れおののくことはしばしばなのです。血肉のからだをもった弱い存在なのです。「自分は決してそのようになはならい」と誰が断言できるでしょうか。とするならば、ペテロは私たちの代表なのです。
 そのような私たちが心から「主よ、助けてください」と叫ぶなら、神は決して耳をふさがず、そのあわれみの豊かさをもって必ず助けてくださるのです。いえ、「待っておられた」と言っても差しつかないかも知れません。私たちが自分の力で歩もうとすると、それは必ず困難の障壁にぶつかり、沈みかけます。しかし神に助けを求め、神の力によって引き上げられ、共に進むなら、舟に乗り込んだ二人のように風は止み、勝利を得るのです。このペテロの水上歩行は、どんなに私たちが神の力によって歩まなければならないか、そのことを端的に教えてくれているのです。

 この結果、「まことにあなたは神の子です」とイエス様を拝する信仰告白を弟子たちはしてしまった。当時の感覚から言えば、これは人を崇めるわけで偶像崇拝です。明確に一線を超えてしまっているわけです。そのきっかけとなったのが、この水上歩行です。
 それまでイエス様がされたのは、①教えること、②罪を赦し悪霊を追い出して癒やすこと、そして③弟子訓練でしたが、④として一線を超えての告白に必要な大奇跡がこれであったことは明白です。
 皆さん、困難にあえぐ時、どうか「主よ、助けてください!」と叫びましょう。そして助けてくださった方に「まことにあなたは神の子です」と告白しましょう。自分の力で行おうとしたことを悔い改め、神に依り頼む、それが神のみ心です。



 

2021年8月29日 (日)

狭き門より入れ

マタイ 8章13-14節   2017新改訳

それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。
それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。

 ここで「狭き門」と言われていますが、クリスチャンになった自分はすでに狭い門をくぐっていると思っている節があります。これはまったくの読み誤りでしょう。続く21節の「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのでなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」とあるからです。広い門も狭い門もみなクリスチャンのことであって、多くのクリスチャンが広い門を選んでしまい、滅ぶと受け取るべきです。

 どうして多くのクリスチャンが広い門、広い道を選ぶのでしょうか。多くの人が行く・・・多くの人の連れがあることで、安心感があることでしょう。広いので世的で妥当な道と見えるのでしょう。しかし21節を見ると、「父のみ心を行う者」とあり、<み心>がポイントです。これは真に神を信じ、聖霊のバプテスマを受け、常に天の父と交わっていなければ御心を知ることができません。そのような人は自分の使命をも知らされています。たとえ聖霊派、カリスマ派の教会員であっても、直接聖霊様と交わって聞き従っている方は少数なのかも知れません。
 狭き門をくぐる聖徒とは、殉教者をはじめ、血肉の命を神に捧げています。肉が死んで新生し、聖霊の実を実らせている方々です。生きながらすでに殉教しているので、携挙されるのはこのような方々です。妬み、肉欲、物欲に日々支配されていて、神のみ心を知ることができないのです。

 ここ半年から数ヶ月、わたしは安利淑著の「たとえそうでなくても」をもう一度読むよう促されてきました。1972年という半世紀近く前の本で、当時一度読んだものの、手元から失われてしまったものでした。促されて再び買おうと探しましたら、あまりにも高価な本になっていました。しかし驚いたことに、今月の東京カリスマ聖会で「たとえそうでなくても」がなぜか上映されたのです。その聖会後の帰り道、同乗されたある方に、相談したら、なんと「あります、貸してあげましょう」と即座に郵送してくださったのです。主の促しはスピーディに、即刻実現するのです。

 この本は76年前までの日本が行った、キリスト教弾圧と迫害の真実な記録です。朝鮮の人々に皇民化政策を推し進め、牧師や信徒たちを捕縛し、拷問し殺しました。これからそのうちの二人の牧師の話を聞いた安姉の記録を読ませていただきます。一人は奇跡を期待した若い牧師、もう一人はそうではなく、十字架の苦しみを負うことを決心した牧師です。それではお聞きください。
 私たちは、広い門を通った日本のキリスト教会がどうなったのか、その結果を知っています。空から降ってきた焼夷弾、硫黄の火で都市は廃墟となりました。少数ですが、狭き門を選び、その栄光をも見た教派もあります。迫害を受けた教会でした。その当座はただ主に従うだけでしたが、神は怠りなく酬いてくださる方であることを見るのです。これは来るべき世への備えです。

2021年8月22日 (日)

主イエスよ来て下さい

黙示録 22章20節   2017新改訳   

これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

「主イエスよ来て下さい」
 本日の聖書日課が黙示録22章になります。この章では3度も「見よ、私はすぐに来る」があります。一つの章の中でこれだけ繰り返される、これには大きな意味があると思われます。英語では【Surely I am coming quickly】ですが、<行く>というgoではなく、戻って<来る>という意味的なcomeが用いられているので、この地上こそが神の最終的な約束の地です。実際、天のエルサレムが太陽も月も、山も海も無くなったこの地上に降りてくるのです。

 さて私たちの教会は、11年前の2010年8月16日の日曜日にスタートしたわけですから、ちょうど12年目の歩みに入ったわけです。今年が閏年もあって曜日がピタッと同じに重なった年である事や、聖書日課がカレンダーと黙示録の章が同じ数字になっています。神を信じる者にとって偶然はありませんから、この教会に主の御手がある事を感じます。それだけでなく昨日変なというか、不思議な体験をしました。

 昨日、仕事の都合でコンビニのトイレをお借りしなくてはならなくなり、子どもが用を足している間、レジ横で私は立っておりました。すると店員の一人が運転免許証らしきカードを持って来て「これ、あなたのではありませんか?」と言ってくるではありませんか。見るとそのカードは紛れもなく私のものでした。「えええ、どうして!」と一瞬混乱しました。しかし今月の10(火)、免許証をコピーする必要があってこのお店でコピーしたことを思い出しました。それでコピー機に忘れて、ずっとそのままだったことに気がつきました。なんと3週間私は免許不携帯で走り回っていたのです。
 免許証はお礼を言って返していただいたのですが、しかし何だか変です。これは普通の事ではありません。お店の中で忘れ物があったら、即日ではないにしても、速やかに警察にとどけますよね。しかし警察に届けず、ずうっと今日来るか、明日来るかと私を待ち続けてくださったのです。たくさんのお客が出入りするお店で、これはちょっとあり得ないと思うのす。20日間待ち続けられ、ついに発見されました。「こんな事ってあるかなあ」が私の最初の印象でした。しかし皆さん、これは私たちクリスチャンが一人ひとり、神に覚えられて、一日千秋の思いで悔い改めを待たれている、そんな神のみ心そのものだと私は思わされたのです。

 今私の免許証忘れのように、「自分はなかなか聖霊の恵みを受けられない・・・」「どうせ神様の勝手、どうしたって自分には無理だ」、そう思っておられる方々、それはみ心をないがしろにすることです。神はあなたをコンビニ店員さん以上に待っておられるのです。悔い改めた時が来るのを、です。聖霊の恵みを求めることは、み心です。皆さんの肉の心、石の心はご自分の力で断ち切り、聖めることは困難です。ただ導かれることを信じ、祈り、待ち続けましょう。それが信仰です。

2021年8月15日 (日)

新たなスタート

使徒 16章9節   2017新改訳

彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは彼らに血を飲ませられました。彼らにはそれがふさわしいからです。

 さて先週の礼拝でお証ししたように、私たちの教会には明白に主のみ心があります。「結腸癌の疑い」からの牧会への主の召し、群れ全体への「マケドニアの叫び」に応じた実質唯一人の牧師。この牧師は<日本のリバイバル>に召された牧師ですから、教会もそうなのです。

 その召された教会がカリスマであることに大きな主の計画があります。牧師だけがこの召しを受け、ついてきなさい、ではなく、個々の教会員のレベルにおいても聖霊様から同様の召しを受けほしいのです。牧師が言うからではなく、一致して同じ召しであれば、どれほど強力なスクラムになり、主の召しを確かに行える教会であることでしょうか。

 さてそのためには、私たちの教会員の多くが聖霊のバプテスマを受け、主にみ心を聞く者でなければ話になりません。ヨハネ12章24では、「一粒の麦は、地に落ちて死なずば、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」とあるように、肉の自分が死ななければ、聖霊様がその人の内で<主>になることができません。なぜならその人の罪深い肉が主であれば聖霊様は内住されていも、しもべとしてなので、しもべが主人に教え語ることも、諭すこともできないからです。

本当に自分の罪がわかり、悔い改めて聖霊のバプテスマを受けることで、賜物として聖霊を受ける内容のことが使徒2章8,38節にあります。ところが自分に死のうとどんなに努力や修行をしたところで、それは実現不可能です。私たちは自身が一番自分を知っているように思っていますが、とんでもない、あなたの造り主である神が一番あなたをご存知なのです。ですから事は神によるのです。

「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネ3:8)
それゆえ一切を神に委ね、信仰をもって祈り求めましょう。聖霊を求めることはみ心なのですから。神はパンを求める子に石を、魚を求める子に蛇を渡したりはされません。真に求め、祈られるならば、必ず与えられるのです。ただし、その時まで信仰による忍耐が試されます。熱心に待ち望みましょう。

2021年8月 8日 (日)

証人としての力

使徒 1章8節   2017新改訳
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 今年の夏白馬でのテーマ「証人としての力」で強調されたことは、<神に触れられる><聖霊のバプテスマ>の体験であった。本日はその「証人」の<力>とは如何なるものか、それらを具体的に理解して行きます。12年目の当教会の出発に当たり、それが土台とするべきものだからです。4~5年前ぐらいにハリウッドのスコセッシ監督によって映画「沈黙ーSilent」がリリースされました。この小説が発売された直後、高一でしたが私は読みまして、「殉教をいとわぬほどの信仰が無ければ、かえって躓きになる。だから安易にバプテスマを受けてはいけない」と思い、結局二十歳になるまでバプテスマを受ける決心ができなかったことを思い出します。

 この「沈黙」の主人公はロドリゴという若き司祭ですが、日本の長崎に潜入したものの、密告されて捕縛され、巧みに棄教を迫る奉行によって踏み絵を踏んでしまいます。「あなたが転ばないから、あなたを信じている多くの信者が苦しんでいる」と。耐えかねてロドリゴが踏み絵を踏んだ時、すべてを失った痛みに、キリストがこのために十字架に架かられたのだと気づいた・・・ことで物語は終わっています。これはすぐにわかることですが、神を証しすることと真反対です。棄教を正当化するだけのサタン的なものです。ロドリゴは聖霊に従ってでなく、師のフェレイラが転ぶはずがないという肉的な動機で来たのですから、神は沈黙を守られたのです。

 さらに今回、安利淑(アン・インスク)の「たとえそうでなくても」の動画が8月の東京カリスマ聖会で流されました。利淑姉がどんなに朝鮮の迫害の状況を訴えても、当時の日本のクリスチャンが協力するはずがなかったのです。当時ホーリネス系の教会と牧師に対し、官憲による大弾圧はじまり、百二十あまりの教会と牧師、殉教した牧師九人を出すほどでした。この迫害に対し、なんと当時の日本キリスト教団は、この官憲による逮捕と拷問を歓迎し、幹部が「彼らは手のくだしようもないくらい気違いじみているため、当局において処断されることは、教団にとって幸い」だとか、「こうした不純なものを除去することは、かえって運営上好結果が得られる」と発言したのです。

 その後教団は遺族に謝罪しましたが、根本的な誤りに気付き、悔い改めた訳ではありません。彼らはまたその誤りを繰り返すでしょう。なぜなら神に触れられ、「証人としての力」、すなわち聖霊のバプテスマを受けて神のみ心を行う者との違いに、全く気付いていないからです。結局、終末の時代が来た際には再び聖霊派の教会に対し、繰り返して迫害する役回りを演じることでしょう。彼らにはクリスチャンの裁きが、滞りなく行われるのです。私たちは天に属するものとして、世での命を惜しまず、神に依り頼んでその力を受け、「神の証人」として立たねばなりません。

2021年8月 1日 (日)

その血によって

黙示録 1章5節   2017新改訳

また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち

 愛することは、愛されることよりも大きな喜びがある。しかし愛されることに欠乏を感じて育った人にとって、生涯「愛される」ことを求め続けます。しかしそれは、来受けるべき相手であった親から受けるべき時期を逸しており、その親だって愛を受けずに親になっている事が多く、実際には受けることがほとんど不可能です。よく結婚する相手に求めようとするのですが、それもイコールパートナ-の点から無理なのです。離婚って、だいたいそんな理由から生じています。

 話を戻しまして、レビ記17章14節に「すべての肉のいのちは、その血そのもの』とあり、これを元に輸血を拒否する自称キリスト教の人々がいます。しかしこれは罪の贖いに動物の血をもってするメシア以前の不十分なものでした。ヘブル書10章10節には、「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされ」とあり、もはや血の犠牲は不要です。
ですから旧約の「血」の理解に基づく輸血拒否の見解は、キリストの神性を否定する十字架の理解から来る誤りであることが分かります。
 さて、キリストが十字架の上で流された血潮は、私たちの罪を赦し、解放するものです。神の愛はこの十字架の贖いの血に最も端的に表れています。それゆえ自分の罪を真に知らされた者は、十字架を愛しますし、その血を我が事、私のためであることがわかります。ですからこの罪の赦しを得させるキリストの血は、どんなに慕わしく麗しいものでしょうか。永遠のいのちそのものであり、神がそのいのちを持ってあがなってくださった恵みです。ですからそれを受けた私たちも、自分の命をもって神を愛し、捧げるのは当然ではないでしょうか。私たちは神が十字架の血潮を持って買い取られたのですから、もはや神のものです。別に聖書にあるように命令されなくても、私たち神を愛する者は、兄弟姉妹を自然に、心から愛します。その愛で教会は満ちるのです。

 もし教会の中で愛のない行動を、たとえば兄弟姉妹を妬んだり、陰口をたたいたり、中傷したりするならば、冒頭で述べましたように、たとえバプテスマを受けていようと、その人は肉の人であって、冒頭に述べたように人の愛を求め続けてさまよっている人であって、奉仕し、愛する教会にあって、自分の肉のためにただ奪って得ようとし、人を躓かせようとサタンに用いられているのです。
 私は信じますが、そのような人も自分の真の罪が分かり、悔い改めれば、親から得られなかった愛を、キリストの中に無尽蔵に受けて癒やされ、変えられるのです。絶望した自分からキリストの愛に触れるならば、個人的な奇跡が起こるのです。神に触れられること、そして聖霊のバプテスマを受け、一新されるのです。神は愛する者を必ず試練や困難を通して訓練されます。ハレルヤ、その人は根本から変えられます。ですから試練や困難が来たら喜んでください。

2021年7月25日 (日)

主と交わる

✝使徒 1章8節   新改訳2017

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 今回はいつものようにキャンプ明けは聖会のダイジェストメッセージになります。
「わたしの証人となり」と使徒1章8節にあります。ここで証人になるとは知って、交わって、特別な互いの関係になっていることを前提にしていると言われました。確かに「証人となる」には、実際証する相手を知っていなければ語りようが無いのです。神との交わりが無ければ偽証ですし、その人は神にさばかれることになるでしょう。それ故、聖霊のバプテスマを受けることは大きな祝福です。まだ神様を知っていない人は、聖霊のバプテスマが受けられるように祈りましょう。

 私も聖霊のバプテスマを受けるまでは肉のクリスチャンでしたから、信仰の力は無く、肉に従う自分に、毎日空しさを感じておりました。天国が希望でしたが、その確信が無かったのは当然です。聖霊様が自分の主ではなく、主は私自身であったからです。 

 この後秋元牧師は、実際に聖会に参加することは、主に触れる恵まれた機会であることを力説されました。確かに礼拝でも、オンラインやYouTubeで観ることは観ないよりは良いことです。しかし教会に行き、礼拝に出席し、顔と顔を合わせてリアルに礼拝することに優る礼拝へのベストな参加はあり得ません。その他はすべて擬似的でやむを得ないものです。秋元牧師はこれを<臨在>の違いであり、<主に触れる>恵みの重要なポイントだと言われました。

 その上、「主はどこにおられますか?」と主を求めるアプローチの誤りを指摘されました。主はハナから私たちと「触れ合おう、交わろう」として手ぐすねを引いておられるのです。赦しを求めている人の「罪を赦してやろう」としておられるのです。ここを勘違いしないよう念を押されていました。その上で私も、一つだけ付け加えさせていただきます。
 それは神は愛なる方ですが、それは義にして聖なる諸点を無視して発揮されることは無いことです。主の十字架によって愛を受け、罪を悔い改め、新しくされた者であることです。そうでなければ主はあなたのその罪深さに、ドアを開けることがおできになれないのです。この点をパスしないでいただきたいのです。

2021年7月18日 (日)

あなたは愛されている

Ⅰヨハネ 4章19~20節   2017新改訳

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません

 昨日の土曜日、仕事で子どもたちを乗せていると、ラジオをつけて欲しいとせがまれ、スイッチを入れた途端に、レーナ・マリアの話が聞こえてきました。両腕や左足が形成不全で生まれて来ました彼女は、スウェーデンのパラオリンの水泳で、数々の入賞を果たしました。選手を引退してからは今に至るまでゴスペルシンガーとして世界を回り、度々来日し、長野冬季でも開会式で歌いました。わたしが彼女を知ったのは久米宏さんのTV、ニュースステーションでした。今でもその時語った彼女の証しは、放送の自粛規定すれすれだったと思いますが、力強く脳裏に残っています。異口同音に彼女に対し「その明るさはどこから来るのか」の問いに、彼女はいつも同じ答えをしています。「私は、私のこの特別な体は神様の計画ために造られたのだから、そのために使っていただきたいと思っていますし、そのようにお祈りしていると、神様が親友でいてくださることがわかって、いつも喜んでいることができる」と。
 障害は目に見えるものと見えないものがありますが、霊、魂にそんな垣根みたいなものはありません。レーナさんの障害は見える形を通して、私たちの障害者感こそ、実は障害であることを明らかにし、造られた者が造ってくださった方に対し、それは各自異なってはいますが、それぞれに与えられ計画(み心)を行うならば、どれほど命が素晴らしく輝くかを実証し、学ばせてくれるのです。

 私たちは一人ひとりがレーナ・マリアでもあります。神の目には高価で尊い(イザヤ43:4)のですし、神に愛されて(1ヨハネ4:19)この世に生まれて来たのです。全能の神に当たり外れはあり得ません。み心がただ、お一人おひとりに異なっているだけなのです。もし世の人から見て羨ましいほどの健全な体と恵まれた豊かな家に生まれたとしても、神を信じなかったら何の意味もないのです。もし豊かさが高ぶりを招き、真実の人間の姿が曇って見えたとしたら、それは本当に不幸としか言いようがありません。

 神が人間のために天地万物を創造され、天使たちすら創られたのです。万物の創造の目的は多くの人を神ご自身の子として、友として得るためでした。神は人を愛してくださったのです。それは天使のように、受け身形で聞き従うだけでなく、レーナのように「どうか主よ、この私をあなたの者とし、あなたのみ心のためにお持ちいください」という自ら進んでの自主的、積極的な魂を得るためでした。それ故、神の子は神の御性質と等しく、兄弟姉妹をも心から愛するはずです。愛せない人は、世のものです。これは神から来ているのです。

2021年7月11日 (日)

みことばを行う人になりなさい

ヤコブ 1章21~22節   2017新改訳

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。

 私たちは聖書の民です。聖書は人類にとって唯一の特別な書であって、神を知ること、その真理も信仰もすべてこの書から来ています。神が与えてくださったこの書によって私たちは生き、養われています。聖書だけがすべての知の土台であって、一切の権威、力の源です。またこの書に付け加えるあらゆるもの、聖母崇拝、使徒権の継承、聖人、秘蹟などを私たちは受け入れません。
 しかしイスラエルの民があのシナイの荒野で日毎マナによって養われても、結局はその信仰が保持されなかったように、宗教改革を経て誕生したプロテスタント教会の多くの現状が、聖書のみ言葉が有り難いお経のようになって、ただ聞き流されて実際の生きる力となっていないのを見るのです。要するにこれは霊的な問題であって、神への「信仰」とその渇きが乏しいからなのです。

ヤコブ書は聖書の中でもっとも早期のものですが、初代教会からしてすでに現在のような傾向がみられていたようです。まだ新訳の多くの文書が出回る前という背景から、ここでの「み言葉」とは兄イエスのことば録と旧約とを指していると思われますが、「福音を聞いても、もし行いが伴わない」なら、信仰に何の意味があるのだろうかと問いかけています。これは信仰による義を否定しているわけではなく、信じた結果、十字架によって赦され新たに生かされた人としての生まれ変わっての「行いのないあなたの信仰をわたしに見せてください(2:18)」と言っているわけです。つまりこれは実の問題でもあります。信じた結果、生き方が変わらない信仰はあり得ず、そのような実の伴わない信仰とは偽りの告白(2コリント5:18-23)になります。
 これには順番があります。先ず福音を信じ、悔い改めること。次に罪から解放され、自分を捨て、聖霊の内住された者として新生すること。そして生まれ変わった者としての新生の実をつけることです。真に信じたなら、肉のままの元の自分でいることはありえません。ヤコブはこの最後の実のことを言っているだけなのです。

 御言葉には力があり、信じて聖霊のバプテスマを受けた人に、それまでの肉の人に戻ることは不可能です。ただ聞くだけの者となるはずがないのです。しかし理想はすべての人が聖霊のバプテスマを受け、新生した人になることですが、もちろん信者であってそれを求め続けている人も多いのです。その場合、ただ一つだけ注意点があります。それは御言葉は神のことばであって、従って霊的なものです。これを正しく理解して受け取ることが重要です。ですから御言葉を聞いても読んでも、それに少しの疑問点も無く、勝手な解釈のままに受け入れないようにしましょう。そのために教会があり、牧師や伝道師が存在しているのです。どうか神の霊が主となってその人に住まうように、共に祈りましょう。

 

2021年7月 4日 (日)

本当の自分に立つ

ヨハネ 14章6節   2017新改訳

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

 真実とは良く言った言葉だと思います。実が本当にあるという字だからです。このことから、イエス様が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ」と語られたことは次の一つの法則を示しています。つまり神を信じて救い主と告白しても、ただ口にしたことばがその通りに、約束された実を結んで(ガラテヤ5:22-23)こそ、真に神の国人になると言っているわけです。
従ってどんなに教会生活が長く、どんなに教会の重要な役職を奉仕をしていようと、それら目に見えることは、永遠のいのちである天国とは関係ないことです。むしろそれらは、ある意味、さばかれる原因の一つになるかも知れません。

 「真に実を結ぶ」とは、たとえば先ほどの I姉の証しのように、偽りに立たず、「真実」に立って生きることを選ぶということです。神を信じる者には、たとえ当座はつらくても、そのように神が造られた恵みの計画を信じますから可能なのです。そして実際、神は信仰に応じて祝福して下さいます。信仰がなければ神に喜ばれないのと同様、真のクリスチャンは偽りに耐えられません。内住されている神に聞き従うので、真実の上に立つのです。
 問題は自分自身の真の姿、それがわからないクリスチャンがいることです。そのような方にも神は試練や困難を送って,どうにかして気付かせようとされるのです(ヘブル12章5-7節)。しかしどのようにしても、人間的な偽りに気づけない場合、悔い改めて新生し、その人の中に神が住まうことは困難です。私たちは口先のことばではなく、自分の本当の姿から、十字架の神の愛にすべてを委ね、すべての希望を見いだす者となっていきましょう。

2021年6月27日 (日)

実生の木

ピリピ 2章10~11節   新改訳2017 

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

 善悪の基準とか、そこに至った動機は決して悪いものではなかったとしても、正々堂々とできず、はばかられる事柄に神に導きを祈る時、すばらしい神の助けがあった事を証しします。このことを通し私は神が信じる者を通し実際に居られ、働いてくださる神であることを証言します。

 私が今のマンションに越してきて7、8年は経つでしょうか、マンションの出入り口から数メートル離れた道路と住宅の境に、腰の高さほどの実生の木が生えていました。小さかったので何の木か当時はわかりませんでしたが、今では写真の通りの4、5mの高さがある、たぶんコナラでしょうか、立派な木に生長しました。

 これは小さいことかも知れませんが、最初はまったく土がない、アスファルトとコンクリートの間に、よくも生えることができたものだと感心していたのですが、ここまで大きくなると「困ったことだ、何とか今のうちに伐採しなければ」と思うようになりました。そこで「誰も何も手をこまねいて、ここまでになったのだから」と私が何とかしなければと思うようになりました。 

 問題はその方法です。私道に生えているのですから、市に依頼するのが筋なのか、あるいは塀のお家の了解を取るべきなのかわかりません。いずれにしても面倒です。そこで目立つ伐採では無く、ネットで調べ、根に近い方に小さな穴を開け、そこに除草剤を流して、徐々に枯らす方法なら、誰にも不審に思われないでできると思ったのです。そしてすぐに決行することに決めました。

 しかしどうにもやり方が正しくないように思えたのですが、妻にも誰にも相談できず、決めたその夜、この木曜日でしたが、神様に祈ったのです。するといつもにない、ある示しが来ました。それは「あなたがするのでなく、私に任せなさい。私なら最善にこれを解決できるのだから」という内容でした。経験上、私が思いつかないことで、これは神から来たと思いましたので、「そうだ、そうだった。これで私は楽になった」と委ねることにしたのです。

 しかし試しはすぐに来ました。なんとその翌日、妻が珍しくホームセンターに行きたい言うのです。そして行きますと、私は「これは除草剤を買うチャンス」と昨夜の祈りも忘れてそのコーナーに行って、安い薬を探しました。三百円ぐらいあるにはあったのですが、それさえも惜しんでいると、昨夜のことを思い出し、「これはまずい」と商品を棚に戻しました。

 さて一夜明けて昨日、つまり土曜日の朝になり、私が仕事を終えて帰ってみると、何とあの実生の木が根元で切り取られているのです。驚いて妻に聞くと、マンションの管理人と隣のご主人が話し合われ、切ることになり、伐採はたまたまマンションの庭の手入れに来ていた業者が行ったとのことでした。繰り返しますが、私があわや伐採しかけていたことなど、私以外には妻さえも、誰も知らないことです。そしてすでに数千日も放っておかれた伐採が、木曜日に祈り、金曜日に試され、土曜日にまったく当事者間で話し合われ、専門の業者によって伐採されたので。

皆さん、これは偶然でしょうか。私は偶然には思えません。小さな事かも知れませんが、信じる者の心を知られる神が行われたことです。神は生きておられ、これは「すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するため」なのです。

2021年6月20日 (日)

真の宗教、真の神

ヨハネ 7章28節   新改訳2017

イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。

 イエス様が宮で大声を上げ、「『わたしを遣わされた方は真実』だが、イスラエルのあなたがたは真実を受け入れようとしていない」と言われた言葉が私の胸に迫ります。今この日本の国でも、私たちクリスチャンは圧倒的少数に留まっていますが、それだけでなく、「真の神」を知るクリスチャンはさらに少ないことでしょう。しかしこの数は問題ではありません。主がエリヤに語られたように、この不信仰不信仰な世に対し、膝をかがめなかった残された者(1列19:18)でいることです。

 さてつい先だって、テニスの合間に、自分の親族にクリスチャンが多い方がおられて、その彼が「クリスチャンって、死を恐れないんだよな」と言いました。すかさず私は「クリスチャンにとって死は天国への凱旋式ですよ」と言ったのですが、彼は「死んだら皆同じ」と答えました。聞いていた人が「暗い話はもうよそう」で終わったのですが、確かに普通の人には死後の話は暗い話で、怖いことなのです。すべての人に避けられない、必ず来る現実を避け、備えないとは実に愚かな事です。

 人の命は、それが尽きるまでに霊・魂の存在を信じるかどうかを決めなければなりません。信じるならば霊の行き先は、信じた宗教に左右されます。ここで最大のポイントは真の宗教であるかどうかです。究極にして永遠の選択結果となります。そこで聖書、その天地万物の創造からイスラエル二千年とキリストによる全人類への福音二千年が、人類の歴史をどれほど先導し、今日の世界を築き上げてきたかは論を待ちません。キリスト教は世界最大の宗教であり、人類の歴史と道徳のスタンダードとなった宗教なのです。キリスト教の神こそ、真の神であることは明白です。

 このキリスト教の一切の土台は聖書です。聖書は原点において誤りなき神の言葉です。この他に誤りの無い聖典とか経典を知りません。神は人間のすべての罪を背負せて御子キリストを十字架に架け、そのことによって信じる者を罪無き者とされました。驚くべき神の愛です。皆さんは天国というものを思い描かれることと思いますが、天国は悲しみ、恨み憎しみなど人間の罪がない所だから天国です。しかし人間の努力でそのように聖くなることは不可能です。ただ自分の罪の身代わりとなってくださった神イエス様を信じる以外に、人間に道はないのです。

 皆さん、キリスト教にも多くの過ちと失敗があると思われている方もいるでしょうが、それは間違っています。権力を与えられた自称クリスチャンが、神から離れ、世の権力を用いて自分の肉的な野望を達成しようとしただけです。聖書はそのような過ちを語ってはおりません。見分けてください。神に誤りは無く、真に神に従う者は世より天を選ぶのです。真の宗教、真の神を信じましょう。

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