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神のかたち

コロサイ 1章15節  【新改訳2017】
御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
      
聖書のかなりの部分を受け入れながら、キリストが三位一体の神であることを信じられない人たちがいます。しかしこのコロサイ1章15では、イエスは神のかたちであって、目に見える神であると言っています。またイエスの裁判で、肯定すれば「冒神罪」で死刑を免れないシーンで、「わたしはそれ(神の子)です」(ルカ22:70)とイエス様は肯定されました。
3年半、朝な夕な身近に接して来た筆頭弟子のペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」(マタ16:16)と告白しました。当時のユダヤ社会を考えるなら、この告白は相当な覚悟を伴ったものです。イエス様の復活という超奇跡は「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れ」(1コリ15:6)ました。これも驚くべきことです。

神が肉体を伴って世に現れる、驚天動地のこの目的はいったい何でしょうか。それは神は高き御位に座して良しとされず、地に降りて神のすがたを現し、人々に神を信じさせるためでした。それは十字架上で人間のすべての罪を贖って、信じる者には永遠のいのちが与えられること、復活によってその確かさを明らかにするためでした。
それまでイスラエルを通し、律法が与えられていましたが、その律法によっては人は救われないことがハッキリした、まさにその時にイエス・キリストが世に来られたのです。この神の受肉と身代わりの贖罪を一言で言えば、神の「愛(Agape)」です。イエス・キリストは神の子であり、同時に神そのものでした。このイエスのうちに、神のすがた、神の愛の本質が溢れているのです。

では少しだけ具体的に聖書を見ていきましょう。まずイエス様ご自身がご自分のことを「七つのI am」(資料1)として語っておられます。イエス様の愛を端的に示すものとして「十字架上の七つの言葉」(資料2)があります。
私自身で言えば、マタイ伝5~7章で語られている公生涯最初のメッセージを読んだ時の衝撃を思い出します。「心の貧しい者は幸いです」、「情欲を抱いて女を見るものはだれでも、心の中ですでに姦淫を犯した」、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」「まず神の国と神の義を求めなさい」。平易なことばであっても、まさに一刀両断のように私を捉えました。これは人が語ろうとしても語れるものではない、語った人、この人は人間の姿をしていても神だ!と思ったのです。 

2019年4月 7日 (日)

隔ての壁

エペソ 2章14節   【新改訳2017】
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し

 クリスチャンの中にはパウロのガラテヤ2:16 人は律法を行うことによってではなく、ただキリストを信じることによって義と認められる という信仰義認の原則をもって、ヤコブ書2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない を律法主義と断罪するケースがあります。ルターもヤコブ書を「藁の書」と呼んでいた時期がありました。しかしこれをもって、ヤコブが律法主義だと断じるのは少々行き過ぎです。ヤコブが律法主義的な傾向を持っていたことは否定できませんが、この書では律法主義者としてではなく、真に信仰による義を受けているなら、実としての行いが伴うはずだと信仰生活について言っているのです。パウロが信仰の根本を強調したとすれば、ヤコブはその後、信仰の結果を強調して言っているわけです。

 さて本日の聖書箇所で「隔ての壁」とあります。これが二つものを隔離し、どちらかに敵意があったようです。これは実際にエルサレム神殿に存在したもので、当時の第二神殿の丘にはまず異邦人の庭があり、そこで犠牲の動物や両替商が商いをしていました。丘の中央部に神殿があり、割礼を受けたユダヤ人だけが入れるよう建物の周囲を壁で仕切っていました。それが隔ての壁で、壁には「異邦人が壁の中に入ると殺される」と書いてあったようです。
 これは言うまでもなく教会内にある、メシアニックのユダヤ人と異邦人クリスチャンの間にある壁のことを指し、十字架がそのわだかまりのすべてを解消させて教会の一致が成るように説いたものです。そのカギは御霊による一致です。御霊は複数ありませんし、御霊に従って歩むなら、分裂分派などは起こりようがないのです。主は一つ、御霊も一つなのですから。私たち現在の教会内でもアーメンでしょうか。

2019年3月31日 (日)

私は死んでキリストが生きる

ガラテヤ 2章 19-20節     新改訳2017】
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

まだはっきりと信仰を持っていない方から、質問を受けました。
求めなさい、そうすれば与えられます (マタイ7:7)と言われ祈り求めようとしたら、聞き従いなさい (1サム15:22)とも言われる。それなら自分は求めるべきなのか、従うべきなのか、いったいどちらが正しいのかわからない?と。
確かにこれは一見矛盾しているように感じられるでしょう。しかし全く矛盾していないのです。「求めなさい」に重要な言葉が省かれているからです。それは「みこころを求め、それを求めるなら」と言うことです。それを裏付けるみ言葉が以下です。

まず神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます(マタ6:33)とあります。
私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます(ヨハネ9:31)

同じように、本日の聖書箇所も一見すると矛盾しているように見えます。これは「私が弱いときにこそ、私は強い」(2コリ12:10)もそうですが、まず「私が死ぬ」ことが理解できない、あるいは理解できても到底不可能と思われますので、余計にそうどうしていいのか、と感じるようです。しかしこれは罪の問題です。自分の罪が深くわかれば、私たちは自分の罪深さに絶望するしかありません。とても天国に行けるような存在ではないと。その時、私たちに十字架の恵みが染み通って来ます。こんな罪人のために、尊い神ご自身が身代わりになってあがなってくださったことが。自分への望みを失っても、人間はそれでもなかなか自分に死ねる者ではりませんが、神に心から求め続けていくならば、それは御心ですから、神が試練や困難を通して導いて下さいます。人にはできないが、神に不可能はないのです。

その時、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな身を結びます(ヨハネ12:24)の真実さを知ることになります。

2019年3月24日 (日)

新しい天と新しい地

黙示録 21章1節      新改訳2017
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 ベストセラー本「天路歴程」のように、何とかして私たちは天国に行くかということに腐心していたと思います。考えてみますと、天国がどんなところかもよく知らずに、ただ「行きたい」「行きたい」では少しおかしくないか、と気づきました。

では天国ってどんな所でしょうか。それは人間の想像を超えた素晴らしい所です。黙示録21章には次のように描かれています。千年王国が終わって後に、最後の審判があることを私たちは知っています。その後、今のエルサレムの上に天から着飾った花嫁のように天のエルサレムが降りてきます。一辺が2200kmある広大な都市、十二の門があるたとえようもなく美しい都です。この地上はもはや太陽も月もなく、夜がありません。なぜなら都には神の栄光が満ち、子羊キリストが明かりだからです Photo_1thumb2 。都には一切の陰、闇も無いと私は想像しています。

なぜなら「神は私たちの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」(黙21:4)とあるからです。これはどういうことかと申しますと、サタンの陰、一切の罪が無い世界であり、それにふさわしい暗い所はないのです。24時間、永遠に明るく、住まいにも暗い所はありません。あるとしたらそこは地獄という火の池でしょう。

なぜ無いのかというと、まず第一に私たちが変えられた御霊の体は朽ちないということです。ですから朽ちる体の時のような眠ること、入浴すること、着替えの個室も要らないことになり、従って目隠しするプライベート空間が必要ないことです。次に黙示録から散見される世界、例えば御座の周りが水晶に似たガラスの海のようであったとあります。私たちの知らない素材が天国にはあり、各人が自分の務めを終えて自由に過ごせる家があるとしても、これまでのような照明器具の要らない、光を通す透き通った素材でできており、隠す必要の無い空間であると私は想像するのです。

天国は素晴らしい所です。今のような血肉の体がある時とは全く異なって、血肉の体と共に霊、たましいまでも本来のものに神は造り替えてくださっているのです。わたしは天国のことを思う度に、胸が焦がれるような熱い希望を持ってしまいます。天国は現実の存在なのです。みなさん、命ある限り、天国を目指してひたすら歩きましょう。

2019年3月17日 (日)

愛がなければ

✝Ⅰコリント  16章14節     【新改訳2017】
いっさいのことを、愛を持って行いなさい
 1コリントの12章から16章の本日の聖書箇所を通してみると、パウロがこの手紙を通して何を一番言いたかったのかがよくわかります。
12章31節で「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と言いながら、それに続く「はるかにまさる道を示しましょう」とは<愛>のことでした。13章3節でも「愛がなければ何の役にも立ちません」と言っています。同13節では真・望・愛の中で「一番すぐれているのは愛」だとしています。次の14章の1節では先ず、「愛を追い求めよ!」とばかりの強い命令形で述べていますが、御霊の賜物、預言を特に熱心に、と奨めているだけです。最後にこの16章では振り返って、念押しのように「一切のことを、愛を持っておこないなさい」と締めくくって述べています。
 このような賜物と愛の関係理解は、私たちの群れの名称が最近「The Light of Eternal Agape」に変わったことと結びついていると思われます。
 さて「一切のことを愛をもって行う」というみ言葉を自分に適用する時、私には深い悲しみが生じます。かつて人と自分を見比べていた時代ならともかく、今自分自身を振り返るならば、愛を持って接したつもりの多くが、「自分が良く思われたい」とか「売名行為」の下心が無かったとは言い切れないのです。たとえ自分を捨て、相手のことを思っての対応をしたはずの事ですら、それは相手の人の反応を読み、自分にとってもより利となり益となるための抑制に過ぎなかった…そんな見方もできる…と気づかされるのです。
 私は良いと思うこと、愛を純粋に行うことができない自己中心な者であり、あわれな偽善者なのです。しかしこの時、ローマ7章7節のみ言葉が開かれました。律法が無かったらな私たちは自分の罪深さがわからなかったように、新約の唯一の律法である「愛しなさい」は、愛せないこと、愛する力が無いことを明らかにしました。そんな自分にほとほと愛想が尽き、自分を神の愛と十字架に献げ、ただみ心だけを行ないたい、そんな決心をさせる力になりました。愛は神のもので、私にはありません。しかし神の愛を反射させることはできます。自分の力でなかなか自分を神に献げきれないのですが、神が助けてくださるのです。その意味で自分の罪深さがわかるということは、神の愛がわかり、自分を献げる土台の力となる恵みだと合点するのです。ハレルヤ、神は愛であり、真実な方です。

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2019年3月10日 (日)

真実な神

Ⅰコリント 10章13節     【新改訳2017】

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

あなたがたが経験した試練は、みな人の知らない試練ではありません」と聞いて、反発される方が多いでしょう。自分の受けた試練は過酷で、特別だと思いたいのが人の常でしょう。しかしこの言葉から、神は個々人に与えている試練をすべてご存知であり、神の手の中で許容されていることがわかります。全知全能の神はすべてをご存じなのです。

「神は真実な方です」とは本日のテーマです。私が試練のどん底にいた時、神がひょっとして私を「弄んでいる」「いたぶっている」のではないかと疑ったことがあります。後に大変後悔し悔い改めましたが、神には決してそのようなことができません。私は血迷って思ったのです。その時、私以上に神も苦しんでくださっていたのです。これは後になって神が私に触れてくださった時に、一気に氷解してわかったことです。

「あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません」全知全能の神の手の平の中での試練です。必ず解決があると安心し、過度に患わないようにしましょう。耐えられる保証を神がしてくださっているのですから。その上で、試練のその先に私たちをこの道を通してでないと得られない祝福があるのです。神に期待しましょう。ただ感謝です。

「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます」とは、今直面している困難に何か抜け道やバイパスを見つけると考えるより、困難に耐える力を神が与えてくださると解する見方があるようです。が、私は両方ともあるのではないかと思っています。いずれにしても脱出の鍵は神の言葉と感謝の信仰です。

パウロはビリピでは神が起こされた地震によって助け出されました。しかしいつも必ず助け出されたわけではなく、鞭打たれたり、石打ちにあったりと何度も死にそうな目に遭いました。それでもパウロは、神への忠実と信仰を失うことはありませんでした。ですから、今くじけそうな重荷や試練にあえいでいる方、失敗だらけで、まるで自分が不良品のように思えて「自己否定」したり、希望を失いかけている方、その方に申し上げます。それは神を悲しませることです。陶器師である神は、あなたを失敗作として世に送り出したのでしょうか?そんなことはあり得ません。それは世的な見方で自分を見ているからです。神の見方ではありません。神は真実な方で、神にあっては失敗作は存在しません。

 だいたいこの罪深い自分のために、世界の創造主である神ご自身が、あなたの罪のために十字架に架かって下さった。この愛に勝る価値、奇跡は計り知れない恵みです。帳消しにされ赦された自分の罪の深さが、まだ十分には分かっておられないのかも知れません。

2019年3月 3日 (日)

神のみ心に従って願うなら

Ⅰヨハネ 5章14節      【新改訳2017】

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

   今回の白馬スネルゴイキャンプで、賜物の用い方について迷っていた事について見事な解決が与えられました。右下の図で座っているのは、神さまからの賜物の注ぎが来るまで、ずっと待ち続けている人です。立っているPhoto
人はそうでなく、賜物を用いて行こうと立ちあがって人の姿です。キャンプでA牧師は「聖霊はみ心の祈りをすればかなえてくださる。それはそうしようとする私たちの意思から始まる。故に奇蹟は私たちの意思から始まる」と語られました。座ってでなく立ち上がって行く。これが答えでした。

  ですが少し誤解のないよう、付け加えさせていただきます。癒やしとか奇蹟のわざは100%神のものです。それを人間が行えると少しでも思ったなら間違いです。ではどういうことかと申しますと、A牧師は最初のフィリピン派遣を例に出されたのです。

 初期の派遣でしたが、チームは預言に従ってテロが頻発するミンダナオ島に入りました。命を惜しまない決心をしたいたのですが、チームを乗せた車が市内の歓迎のアーチをくぐる時、そこに「Solvation & Healing」の文字が書かれていたのです。その途端、チームは動揺してしまったのです。癒やしは意図しておらず、どうやっていいか経験もなかったからです。しかしチームは導きと腹をくくって神に頼り、それこそかつて見たことを見よう見まねで癒やしを行ったのですが、なんとそれが現地新聞にも載るほどの、驚くべき奇跡の癒やしの集会へと変えられたのです。
 意図して行ったわけでなく、むしろ「私たちにはできません」と辞退して帰ろうという声さえ上がっていたのです。しかし預言を通し、神の導きに従った結果は真実で見事でした。これは「意図してではなく、そのように追い込まれて聞き従った」結果でした。以後、私たちの群れは外部から「日本で癒やしの教会といえばTELAしか思い浮かばない」とまで称されるまでになったのです。
 癒やしは神に聞き従って行くという私たちの意思に、神が働いてくださるものです。

 絵を見てください。座って聖霊の賜物をただ待っている人より、立って意思を持って神に聞き従おうとする人がいます。どちらが神のみ心に答えており、用いられるでしょうか。そうです。信仰を使って立っている人にです。癒やしと奇蹟は私たちの意思にかかっているのです。

2019年2月24日 (日)

真の礼拝

ローマ 12章1節     【新改訳2017】

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

本日の聖書箇所での「お勧めします」とは、<懇願する>という意味が強い言い方です。ですから聞く人々に、パウロがひざまずいて「どうか・・・」と強くお願していることになります。そうまでしてパウロが切に願っているのが、この1節を起点にした全部で24になる「クリスチャンへのお勧め」です。24_2     (右図参照)

 この24にもなる勧めを見、その「言わんとすることは何か?」と言えば、理想だが実際に行うのは大変難しい、そう思ってしまう所が多いことです。のです。例えば15節の「泣いている者たちとともに泣く」ことはできても、「喜んでいる者たちとともに喜ぶ」ことは、人間にはねたみうらやむ心があって、完全には難しいことです。ただしこれは人間的には、でしょう。

 モーセの律法が、人間の罪を明らかにするためにあったように、パウロのこのクリスチャンへの勧めも、肉なる人のままではできないことを明らかにしています。ですからパウロは冒頭にきちんと「あなたがたのからだを、神に喜ばれる生きたささげ物として献げなさい」とあらかじめ断ったかのように言っているのでしょう。

 神殿の時代、何らかの節目には必ず神殿で犠牲の動物を献げました。その時代は現在のように冷凍冷蔵も急速乾燥もありませんでしたから、神に献げる最高に鮮度の良い物は、その動物を生きたまま献げることでした。ですから、現在に適用するなら、神に喜ばれる献げものとは、今生きている私たち自身のことであり、実際の体そのものということになります。

 もちろん皆さんのなかには、「すでに私の心と霊をすでに献げています」という方もおられることでしょう。それは尊いことです。しかし血肉の体を持っている以上、霊肉はしばしば相反する働きをしますし、体を完全に従わせることは大変難しいと言わざるを得ません。私たちは血肉の体という弱さを持っているのです。しかし神に完全に献げられたものは聖別され、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死に」(ロマ14:7-8)、聖化が恵みとして与えられていくことが約束されており、パウロの「24のおすすめ」が実践されていくことでしょう。従って「パウロの24の勧め」とは、主に触れられ新生した、あるいは聖霊のバプテスマを受けたというレベルの方々のものであり、そうでない方々は、究極的には自分もそうなるのだと希望を持って祈り、求め続けられるべきなのです。

 皆さんは、そのように主のものとされることを祈っておられると思います。しかしそれには時があります。神が試練とともに、一人一人に受け入れられる真実の姿をあらわにされ、見せてくださる時です。自分の罪深い真の姿を知り、悔い改める時が来た時がその時です。その試練とは神の愛です。自分の力ではなく、神が私たちをつくり変えてくださるのですから。

2019年2月17日 (日)

罪の奴隷から義の奴隷

ローマ 6章13-14節     【新改訳2017】

13 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。

私は祝福されています。感情も霊という心がいつも神によって守られ、平安です。神の愛が私を包んでいるからです。また、私は死ぬことも益であり、天の御国を待ち望んでいます。私は自分の罪とその深さを知らされたからです。いのちに代えてご自分の羊を守ってくださった神のものとなる、これほど幸せなことはないのです。
しかしこの神のものになるということは、神の所有物=奴隷になると言うことです。サタンは強制的に人を縛って虜にしますが、神は決してそうなさいません。徴兵制のサタンに対し、神は志願制だからです。古来しもべとは、奴隷とあまり差がありませんでした。主人に命を捧げてみ心に従うこと、「自分に死ぬ」と言うことは、このことを指しています。

どんなに長くて人生百年もある人は珍しく、私を含めて遅かれ早かれ数十年したらみなさん肉体の命は終わります。そして行くべき先は神の国か、それともゲヘナという地獄のどちらかしかなく、グレイゾーンというか、その中間はありません。どんなに若くても、明日の命が知れないのです。信じる人は今すぐ信じましょう。
さて、神のものとなるのは志願制だと申し上げましたが、志願したくてもなかなか自分の力でできるものではありません。決め手は自分の罪深さを知ったからです。希望を神の国に見出したからです。 自分を守り、価値があると思っている間はできませんでした。
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右の図での「悔い改め」とは、自分を捨て神に自分を捧げることで、右側の人々、神を自分のために使おうとしてはならないのです。
罪がわからないとそのような悔い改めはできません。ですから神に愛されている人には、試練が許されるのです。これは神の愛です。

自分の力でできないからです。その結果、罪がわかる人はなんと幸せな事でしょうか。神を知っていなければ絶望して自殺するしかありませんでした。しかし幸いなことに神とその愛を知っているならば、神に希望を見、神の愛に自分を捧げたくなって仕方がなくなります。これが志願です。自分の命以上に神を愛するからです。なぜなら神は光であり、神には真の自由があり愛、喜び、平安があるからです。神の奴隷となり、神のものとされるということは何という恵みでしょうか。

神を信じている方で、いまだ神のものとされていない方がいるならば、それは惜しい、あまりにももったいない。「at Hand」、すぐそこに恵みがあるのに、未だに罪の奴隷のままであるということです。そのことは自分のと自分の内側を支配するものがなんであるか、ということで明らかです。

悔い改め、ともに神のものとならせていただきましょう。

2019年2月10日 (日)

闇から光に

使徒 26章18節     【新改訳2017】

それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。

闇とはサタン、またはサタンの支配下にある状態を指します。日が沈んでいく時、徐々に光を失って行きます。どっぷりと日が沈んだ世界は色や形を失い、何がどうだったのかさっぱり分からなくなります。闇は存在が認められない混沌の世界です。そこではどうなるか恐れと不安に包まれ、うごめきしかありません。罪を隠し、わからなくさせるのも闇です。神とは全く関わりの無い世界です。

これに対し、光の世界はどうでしょうか。日が昇って光が射すと世界は色を取り戻し、ハッキリと形が見えて、認識ができるようになります。光は植物を育て、植物はすべての動物たちのいのちを支えます。光はいのちそのものであるとも言えます。天地万物の被造物には秩序があり、それによって神がおられ、世界は神によって成ったものであることがわかるのです。ですから光とは神、または神の栄光そのものであることがわかります。

神を信じない人は未だ闇の中に居り、神を信じた人は光の中にいます。しかし神を信じた人であっても、闇と光の間を行ったり来たりしている人がいるのも確かです。その人たちは自分が果たして光の子なのかどうかすら、確信が持てなくなっているかも知れません。これら試みられている人たちは、神から見捨てられているのではなく、むしろ「神から祝福のチャレンジを受けている」と理解すべきだというのが、私の考えです。

クリスチャンは一旦罪を告白し、赦されたのですから、揺るぎない天国の相続権があります。しかし世で光の子として証しするには、愛、喜び、平安の実を結んでいる必要があります。神はその恵みを私たちに等しく与えようとしてくださっているのであって、それはまず自分自身を全部神に捧げ、神のものとされる必要があります。どっちつかずは本人にも苦しいわけです。

自分を捨てる、つまりルカ 9章23節にあるように、己の内にある肉なるものを明け渡し、それを負ってキリストに従って来なさいという明確なメッセージがあります。握っている肉なるものが、神と一つになる障りとなっている、それに気づかせ、確かに神のものとされるようにと、主は語っておられます。富める若人には財産を、父の葬ることは死人たちに、と主はこの世よりも、神の国を第一とする者に変えていただきましょう。

私たちはそれを聖化と言ったり、新しく生まれた者と言っているのです。心から悔い改め、神のものとして自分を捧げましょう。神の光によって私たちは変えられていくのです。

2019年2月 3日 (日)

私と和解する

エペソ 2章16節     【新改訳2017】

二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

 聖句で「二つのもの」とあるのはユダヤ人と異邦人のことです。パウロが終生戦ってきた割礼問題の解決が和解という言葉で言い表されているのです。割礼はクリスチャンをユダヤ教へ改宗させることですが、妥協するのではなく、キリストにあって乗り越え一つのものとなりました。今回は一人の人間における相反する二つのものがテーマです。
 これは実はすべての人がこの問題に直面しています。人はしばしば二つの狭間に在ってバランスを失い、死を選んだり病になるケースがなんと多いことでしょうか。う

 もう少し具体的に見ていきましょう。人の内に在って対立する二つのものとは、「がんばる」に代表される自己の引き上げに対し、それと逆な開き直りのことです。「がんばる」とは、「自己実現」とか「できるようになる」「向上心」とか呼ばれています。あなたがもし会社員だとしたら、会社からは仕事の成績アップとか業績を成し遂げることを常に求められているでしょう。しかし開き直って「いえ、もう私の力ではここまで、無理です」と正直に言うならば、その会社での将来は順調とは言えません。人間には各々能力が異なり、皆が達成できるわけではありませんし、平等な機会が与えられている訳でもありません。社会でも競技でも、ホンの一握りの人以外、多くの人が届かない現実と向きあわざるを得ないのです。

 そのような時、自己像が大きくズレている人の場合、ありのままの自分がわからないのですから、折り合いがつけられず出口のない状態に陥って、病を発症してしまうケースが多くなります。そうなると社会生活が困難になり、入退院を繰り返し、癒えるまでに長い時間がかったり、不治の病と診断されるようになります。
 そこまで行かなくても、どうして多くの人々はありのままの自分を見ることができないのでしょうか。たとえ開き直っても「居直り」となり、罪の意識が極度に鈍感な人もいます。詐欺事件で逮捕されても「だまされる奴が悪いんだ、こんな社会が悪いんだ」とうそぶくような極端なケースもあります。

 神を信じない多くの人に共通して言えるのですが、真の自分自身とはあまりにも罪深く、まともに見ることは困難です。それであるがままの本当の自分自身を受け入れることができません。クリスチャンは違います。罪深い自分、真の姿を見ることができるのです。なぜならその最低の自分を死に至るまで愛し贖ってくださった方を知っているからです。十字架ですべての罪を赦された喜びと感謝、それは人の中で対立し、バラバラにしていた二つのものを和解させて一つにし、そこから自分の為ではない、神のみ心を行おうとする全く新しい人を生み出します。ここに真の解決があるのです。

2019年1月27日 (日)

神のものとされる

エペソ 1章14節     【新改訳2017】

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

エペソ1:14節で聖霊が保証とか、別な言葉では証印と言われています。しかし多くのクリスチャンにとって聖霊が内住されているはずなのに、自分は本当に御国に行けるのだろうか確信が持てない人が多いようです。聖霊の実どころか、自分の心の中は相変わらず罪深い性質であるからです。

人はサタンと神との間にあって、どちらかに所属しています。問題なのは、サタン側は常Photoに人間を支配しようと不安や恐れの霊を送り、絶えず攻勢に出ていることです。神様側はそうでなく、慎しみと控えめで愛に満ち、私たちが神に悔い改めて心を向ける時まで、常に忍耐しておられることです。私たちはその草刈り場であることを決して忘れてはいけません。私たちが愛、喜び、平安を日頃感じていなければ、それはサタン側の攻撃を受けていると理解すべきです。

ではどうして神を信じ、聖霊が内住してくださっているはずなのに、そのようになるのでしょうか。答えは明解です。それはその人が完全に神のものになっていないからです。一つ、その例を取り上げてみたいと思います。

マタイ・マルコ・ルカにある、永遠のいのちを求める富める若人は財産を捧げられず、悲しんでイエス様の前から去って行きました。しかし弟子たちやペンテコステで信じた人々は財産をすべて捧げ、一人も乏しい人はいませんでした。どうして捧げることができたのでしょう。それは神を知り、永遠のいのちに比べれば、この世が取るに足りないことを知ったからでした。完全に神のものとなったこれらの人々は、大牧者の神のものである羊とされ、全能なる神が守ってくださるわけで、愛、喜び、平安の内に居続けるのです。

ですからみなさん、祈り求めて下さい。自分のすべてを捧げる祈りができれば、それは「み心」ですから成就します。時が来れば必ず受け取っていただけます。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と言われています(マルコ28:34)。自分を捨てるとは、神に己を捧げることです。今の自分を見てはいけません。神の助けによってその祈りは成就するのですから。

2019年1月20日 (日)

忍耐

✝使徒5:29 「忍耐」     【新改訳2017】

しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。」

弟子たちの豹変ぶりは、驚くほどでした。50日前には、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」とまで言ったペテロたちでした。が、ご承知のように命惜しさに三度も否定した挙げ句に逃げ出し、それからは恐れのあまり閉じ籠もって祈っていた人たちだったのです。

しかし聖霊のバプテスマを受けてからは一変しました。二度も居並ぶ最高法院の権威者たちを前にし、どんなに脅されようと鞭打たれようと、ペテロたちは死を恐れずに神を選び主イエスの証しをしました。ガリラヤの猟師という無学なはずの田舎育ちが、全くの堂々とした逆転の姿でした。ルカ12:11-12で「言うべきことは、その時に聖霊が教えてくださる」ので心配しなくて良いとイエス様が語られた通りの姿でした。これは彼らが別人になったわけではなく、彼らはただ聖霊に従っていただけなのです。

弟子たちを豹変させた聖霊のバプテスマですがImg_0072_2
聖霊のバプテスマは大きな誤解を生んでいる可能性があります。これは100%神から来るものですから、周りにいる人はせいぜいその執り成ししかできません。聖霊のバプテスマはみこころの時に、みこころの方法で起こりますが、受けた本人に神の実在と愛と恵みが激しく望み、人生の生き方が全く変わる新生を体験します。そのことは受けた人が一番鮮烈にわかることです。

つまり、それまでの自己中心で御利益的な存在=ドラえもんのポケットのように、自分中心に生きていたはずだったのが、逆に神のみこころのみに従う存在になるのからです。

そのような恵みを受けるまで、私たちは忍耐しているように思っていますが、実は神さまの方が、私たちよりももっと忍耐をして待って下さっていたのです。それまでの人生の中で、自分を捨てるという事とは、試練や困難を通して一つ一つ自分への希望を失い、そこに神が愛を持って守って下さり、歩んできたもので、皆さん全員がそこに神の手を見られるはずです。神は忍耐して私たちを長い期間をかけて導き、私たちの信仰告白という実を実らせて喜んで下さいました。神こそ一番に忍耐してくださったお方なのです。このわが神、主をほめたたえましょう。

2019年1月13日 (日)

7つの「I am 」

ヨハネ 10章11節      新改訳2017

わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。 

 「神さまって、よくわからない」、そういうお方がPhoto_2結構居られます。仏像とかのような偶像が神さまにはないので、そう思われるのかも知れません。しかしヨハネ伝には、それまでの喩えではなく、イエス様が「わたしは○○・・・こういうものである」とわかりやすい七つのステートメント(声明)をしてくださっています。イエス様は「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハ14:9)と仰っていますので、この七つのステートメンで神さまを理解するのは大変な近道ではないかと思われます。

※七つの「I Am」の表を呈示

 今日はその中でも、四番目「わたしは良い牧者です」に着目してみます。七つの中で唯一人間に喩えてありますし、具体的でわかりやすいのです。ただし、私たち日本人は身近には羊に詳しくありません。それでイマイチ、聖書によく喩えられている羊と羊飼いの関係がわかりません。

 イスラエルの荒野には、狼の群れや時にはピューマが跋扈しており、羊は常に狙われています。そのような猛獣に羊飼いは立ち向かって、自分の守らなければならないはずですが、雇われ羊飼いは自分の命を惜しんですぐ逃げるそうでJesus_seveni_amす。

しかし自分の羊を飼っている本当の羊飼いは、自分の羊を守るためには決して見捨てず、命を賭けて狼たちと戦い、護りきろうとします。

 この羊たちとは神を信じた私たちのことであり、命をかけて私たちを守ってくれる良い羊飼いとは、イエス・キリストのことです。そのためにまず十字架に架かって死に、私たちの罪を贖ってくださいました。またキリストが復活することによって、信じる者には罪に対する勝利、永遠のいのちが与えられました。自分の羊は、決して見捨てられることがありません。そのことは、たとえ道に迷い、はぐれた哀れな1匹の小羊となっても、です。ですから神を信じる羊である私たちには平安があります。

神さまとはそのような方なのです。 

2019年1月 6日 (日)

ひかり

ヨハネ 12章46節      【新改訳2017】

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。

 この聖句で「光」とは神のことを意味し、「闇」とは神の光が当たらない罪の世界を指します。創世記の始めのように、光がなければ在っても、色も形も全体も見えないので認識できません。存在は光があってこそのものです。人に神の光が当たるならば、己の真の姿がわかりますが、多くの人は罪がわからず、闇の中に留まっていることになります。光は罪を知らせ、悔い改めて光である父のもとに立ち返らせます。

 神を信じない人々は、光を知りません。原罪がわからず、人を裁き自己を正当化します。そして悪霊の世界に属していることが当然で、光の子どもを妬んだり、理解できない存在として拒み迫害します。このように闇の中を歩く人は、自分が最終的にはどこへ行くのかを知りません。でも本当は何となくわかっていて、はっきりとは知りたくないのかも知れませんが。

 主イエスはこのような滅び行く人、自分の敵さえも愛しておられました。ご自身もたびたび仰っておられれますが、彼らはイエス様を除くことが神への忠誠であり、奉仕だとすら思っていたのですから、最後の審判に本当のことを知ったらどれほど驚くことでしょうか。「(メシアである)しるしを見せろ」と迫るユダヤ人たちのに、どんなしるしを見せてもそ無駄であることまでイエス様はご存知でした。にもかかわらず、最後の最後に生まれつき見えなかった人を直し、死後四日経っていたラザロを生き返らせました。偶然ではなく、神の栄光が現されるため、あらかじめ備えられた人たちでした。案の定というべきか、ユダヤ人たちは眼前で行われたこの明白なしるしですら、一部を除いて信じ受け入れませんでした。こうして自分たちが、闇に属する者たちであることを明白にしました。
 ただニコデモのようなほんの一部にはイエスを認めるパリサイ人のユダヤ人が出て、彼らにささやかな分裂は生じました。しかしどんなに少数であっても、公然とイエス様に従うことができなかったとしても、イエス様にとっては大切な羊だったのです。

 光は闇を恐れません。かえって闇を明らかにします。イエス様はご自分の「私は良い牧者です。わたしは羊のために命を捨てる」と語られ、「捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」(ヨハネ10:14-17)を実践されました。父がご自分に従うイエスキリストを愛されたように、キリストに従う私たちをも愛されます。決してご自分の羊を失われません。

私たちはその愛を反射して、新しい群れの名前の実質をラザロのように、光と愛を証しして参りましょう。

2018年12月30日 (日)

死人が神の声を聞く時

ヨハネ5章25節      新改訳2017

まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

「死人」には2種類あります。一つはほとんどの日本人のように、霊と死後の世界を信じないとか、自分の罪がわからず、悔い改める必要を感じない人たちのことです。もう一つは、このユダヤ人のように、律法を守ることで自分を義人だとする人のことです。日本人でも善行とか修行など、行いによって自分を救おうとしている人がいますが、これも同じです。しかしどんなに努力しても、十字架がなかったら罪の赦しがなく、結局は罪がわからない人と同様に滅びのです。

聖書は繰り返し次のように説いています。「自分のいのちを救おうとする者はそれを失い、わたしと福音のために命を失う者はそれを救う」(マタ16:25、マル8:35、ルカ7:33、9:24)

では「わたしと福音のために命を失う」とはどういうことでしょうか。ストレートには「信仰によって殉教する、またその用意ができている」と言うことになりますが、それはキリストに従って、恵としてそのように選ばれた結果です。ですからもっとも大切なことは「キリストのように私たちも神のみこころを求め、キリストのように徹底して聞き従う」ことです。

 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。・・・中略・・・。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。【ヨハネ5:30 】

三位一体の神と子と聖霊の有りようについて、ヨハネは従順を通し描いています。キリストは神のみこころだけを求められ、死に至るまで忠実でした。ですからキリストに倣う私たちも、自分のために生きるのではなく、神の栄光のために自分の人生を差し出して生きましょう。それは日々神のみこころを求めて祈り、明らかにされた使命に堅く立って歩んで行くことになります。

まとめるとまず第一にみこころがわかるという前提があり、次にみこころに従いきる実践があります。自分ではみこころが分からない方は、牧師のような霊的な指導者に従うことが次善の段階となるでしょう。いずれにせよ一日の一番大切な静まれる時間を捧げ、祈りと聖書の時間を第一とすることが神に自分を捧げ、「わたしと福音のために命を失う」者のしるしです。

2018年12月23日 (日)

神のみ心とは

詩篇 73篇26節     【新改訳2017】
 この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。 

 クリスチャンは本来、祝福されてしかるべきです。しかし人は世を基準にし、自分の描いた祝福が祝福だと思っていますが、神の祝福は人と大きく異なっているのが現実です。
神に忠実で熱心なクリスチャンに、世的には悲惨な、大きな試練がのぞむことが多いようです。教会をあげて応援していたよく知っている神学生夫婦の夫人が、出産後のマタニティブルーで飛び降り自殺しました。息子のように親しくしていただいた篤信の長老の一人娘は、結婚して三日目の朝に、夫は突然交通事故で召天しました。まだまだ例を上げることができます。ひょっとして以前の私も試練を通ったという点では、同類になるでしょう。

聖書では、イエス様がこの世に来られた目的は、行いなどによって自分を義とするような「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるため」(マタ9:13、マル2:17、ルカ5:32)と語られています。つまり世の中の成功者、権力など力ある人にではなく、社会から価値が無いとされていた子どもや見捨てられていた人、罪人と迫害されていた病や弱い立場の人たちのために、です。

それはなぜでしょうか。成功者や力ある人々は自分の罪がわからないからです。罪がわからないので、悔い改めることができません。神を信じていると思っていたとしても、真に罪を告白し悔い改められないので罪が赦されていないのです。「放蕩息子のたとえ」を思い出します。罪を悔い改め父の許に行く時、罪が赦されはじめて父の愛がわかりました。父としては、父権に依る強制でも、命令した聞き従いでもなく、悔い改めて帰ってきた息子ほどいとおしい者はないのです。息子の真実な愛を得たことになります。これが神が願って私たちに求めておられる、神への自発的、自主的な愛です。これに反し、不安や恐れで人を動かし支配しようとするものはすべからずサタン的です。

熱心な、み心のクリスチャンへの試練が多いのですが、それはなぜでしょうか。もちろん神は人をいたぶって居られるのではありません。確かにこの世的なものを失うように見えて、実は試練を通して本当に何が大切か、ちょうど放蕩した息子が何もかも失って自分の姿を知り、始めて父の許に帰ろうと決心したように、自分の真の姿を気づかせてくださっているのです。試練を通してのみ、私たちは自分の真の姿に気づき、世の力を打ち破ることができるとすれば、不幸に見えたすべては神の愛なのです。

2018年12月16日 (日)

神の愛-Agape-

ルカ 15章24節    【新改訳2017】

この子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。

昨日の通読聖書箇所を今日のメッセージとして取り上げました。今回読んでおりまして特に「死んでいたのに」が示されました。父にあろうことか生前贈与を要求し、家を出て行った弟息子は、生きておりましたが自分のしたいことやその欲望に従っていました。弟はすでに霊的には死んでいました。死んでいた、これはどういうことでしょうか。

私たちは、罪を悔い改めて生まれ変わらなければ、そのままでは滅びます。滅ぶとは、神の国に行けないということです。このことを主イエスが繰り返し繰り返し「悔い改めなければ滅ぶ」と語られたことですが、悔い改めるためには、自分の罪が徹底的にわからなければできないことです。

父が赦してくれた生前贈与、それで身を持ち崩すということは容易に想像できたことでしたが、それでも父は赦します。案の定放蕩によって、弟息子は罪のあらゆることを身に知らされました。人々は自分ではなく、自分の金にだけ群がっていたこと、忘恩の憂き目にあい、忌むべき豚小屋で命をつなぎ止める生活に落とされました。ユダヤ人にとって、豚の食べ物を食べようとする困窮さは、すでに人としての誇りも何もかも失っていることを表します。そうなって始めて弟息子は、自分の罪がわかったのでした。

あらゆる自尊心を捨て、どんなに屈辱を味わおうとも、もう一度父の許に帰ろうと決心します。悔い改めの「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう息子と呼ばれる資格はありません」の言葉を胸に、です。

悔い改めることができたのです。生きている間に、実は自分は死んでいたことに気づき悔い改める者には、神の愛が注がれ、真の生きる意味と目的が与えられます。これが人の親にはできない、神の愛です。

現在逮捕され取り調べ中のゴーンさんは、毎年日産からだけでも10億円の収入があったようですが、それだけでは全然足りなかったようです。人間の欲望というものは際限のないもののようで、その先は、罪が口を開けて待っているようです。

聖書では主イエスが地上に来られたのは病む人のためだとえ語られました。「取税人」「罪の女」「病の人」など、世からはさげすまれており希望がなく、「癒やし」と「救い」を切実に求める人の多くは福音を求め、主を信じました。罪がわかるからです。世で成功している人にはそれが全く分からない事。神の国にはこれほど逆転があるのです。

2018年12月 9日 (日)

罪の赦し

詩篇 32篇1-2節     【新改訳2017】
幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。
幸いなことよ【主】が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。

公生涯に入られてからのイエスの評判は、救いや癒やしを通して大きく広がりました。同時にそれを快く思わない当時の宗教指導者たちがいました。彼らは自分たちの権威への挑戦と受け止め、疑い警戒しました。屋根から病人を吊り下ろす背景には、このような人々がたくさん詰めかけ、本当に癒やしが必要な人がイエスに近づけなくなっていたのです。

 さてイエスは、天上から吊り降ろされた人に対し、中風を直すのでなく「友よ、あなたの罪は赦された」(ルカ5:20)と罪の赦しを宣告されました。これは少し不思議ではないでしょうか。癒やされたいのに、罪の赦しだったのです。なぜでしょうか。実は罪が原因である病があります。最善は完全に癒やされることです。そしてイエスは真の原因である罪を取り除かれたのです。つまり根本からの癒やしが行われたのでした。

 しかしこれを見ていたパリサイ人は、罪を赦すということが冒涜に映りました。彼らが思った「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか」は正しく、「罪を赦す」ことは、神かまたは神に等しい存在のみが実行可能なことでした。
 ですからイエス様が罪を赦されたことは、自分が神であることを宣言したことになります。パリサイ人たちが「冒涜」と感じたのは、イエスが神であることがもっとも分かるべき彼らが、実は一番鈍くて分からなかったという証明です。これは宗教指導者として失格です。イエスは彼らのためにも、真の原因が罪であった証明として、中風の人への即座の癒やし「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」(5:24)と言われたのです。

 本日は「罪の赦し」がテーマです。この後イエス様が十二弟子を遣わされますが、彼らに与えられた権威は悪霊の追い出しや癒やしでした。しかし罪の赦しは含まれていません。罪の赦しは神だけができることです。もしイエス様が神でなければ十字架も空しく、罪の赦しはあり得ません。教会は極めて初期から、使徒信条で明らかなように、イエスを神としない異端と戦ってきました。 

 繰り返しますが、キリストが神でなければ赦しはありません。また三位一体の神以外に罪の赦しは無く、人であったマリアや司祭相手にどんなに告解しても、それは無駄というものです。私たちは真に神に赦される信仰の教会であり、罪から解放され、癒やされる祝福を感謝しましょう。この祝福は、5節にあるように罪を隠さず、告白するという前提条件があります。ですから真に赦され解放された者として、証しにおいて主に栄光を帰す教会でありますように。

2018年12月 2日 (日)

処女降誕

ルカ 1章35-45節      【新改訳2017】

35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」  
45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。


 キリスト教の土台は聖書です。しかし多くの人が初めにつまずくのは、処女マリアが懐妊し、子どもを生むことです。
 このような到底信じがたい奇跡でなぜ福音書は始まるのでしょうか? しかしこれこそが必ず起きなければならない事でした。キリストが三位一体の神であるならば、聖であり罪なき存在です。もしキリストが普通に男女の両親から生まれたならば、どんなに立派な人物であったとしてもアダムの原罪を免れず、その罪ある者が全人類の罪の身代わりにはなれません。聖である神ご自身が受肉して来られた、それがキリストの処女降誕です。
 ほとんどの異端は、キリストの神性を否定し人間だとします。しかし三位一体を信じる者にとって、処女降誕は神ならばおできになると堅く信じることができます。

次に聖書からこの事実を学びます。第一に、イエスの出生にまつわる出来事は、キリスト教のもっとも初期から信じられてきたことです。ルカ福音書にはその著者ルカが、母マリヤから直接聞いたのだろうと思われる記事で溢れています。エリサベツとその胎内にいたヨセフのこと、マリア賛歌、また<シメオンは・・・・母マリアに言った>とか、イエス12歳の時<母は言った「どうしてこんなことをした・・・・」>2章51節<母は・・・・心に留めおいた>などの記述からです。
 さらに、十字架にマリアが立ち会っていることや、弟にあたるヤコブやシモンが聖書の書簡を書くほどになっています。またマルコ6章3節にイエスが<マリアの子で>とあるのも、周囲の人々の中には、イエスを私生児視していた人がいた証拠になります。

 私生児ということが出てきたので関連しますが、ユダヤ教のタルムードではマリアは淫婦だったので私生児イエスを生んだとしています。もしそうならば、婚約者ヨセフは決して結婚しなかったでしょうし、イエスに続く6人の兄弟もなかったことでしょう。さらにまた12歳になって、多くの連れの一員としてイエスが都詣ですることもなかったはずです。

 最後にイザヤ7章14で聖書が処女降誕を預言していました。ですからこれは預言の成就でした。また出生地もミカ5章2-5節にあり、神は時のローマ皇帝すら用いて、160キロも離れていたナザレから移動させ、ベツレヘムで生まれるという預言を成就されました。

 これらのことをまとめるなら、ルカ1章37節の「神にとって不可能なことはありません」という天使の言葉を信じるのが、神を信じる者としての唯一の妥当な結論になります。これを信じない者は、自分の考え、判断を聖書より優先しており、不信仰に該当します。

2018年11月25日 (日)

聖霊の目的

ルカ11:5-13 (13節中心)   【新改訳2017】

 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 この聖書箇所はちょっと聖書を読んだ人なら、大抵は覚えておられる所でしょう。示された「神さまが私たち人に、最終目的として聖霊を与えてくださるのはなぜか?その目的とは?」に思いをはせる時、この箇所が浮かんできました。神さまとは、このようなお方なのだと・・・。

 ここでのポイントは「必死さ」です。同じく「必死さ」を見るなら、悪霊につかれた娘を持ったシドンの女の叫び、エルカナの妻ハンナの祈りも参考になるでしょう。神さまは私たち人を通してご自分の目的を果たされますし、御栄光を現されます。人を用いられる時、神様は人の「必死の願い」をかなえる形でお実現されるのです。もっとも、そのように導かれる面もあるわけですが。そういう意味で「求めなさい。そうすれば与えられます。」は「必死になって」が大切になります。が、人間がそうなろうとしても、なかなか難しいものです。

 今から四十年も前の私の経験ですが、長女が生後三十日ぐらいで、前妻が腰を痛めて突然寝たきり状態になり、その検査と治療のため入院するハプニングが起きました。当初、娘には粉ミルクで大丈夫だと思っていたのですが、実際にやってみると口の周りに発疹が出始め、診察してもらうと人工乳のせいだとわかりました。粉ミルクは飲ませられず、かといって母乳も新生児は病院に立ち入り禁止で飲ませられません。しかし時間が来れば乳児は乳が欲しくて「おぎゃあー」と泣き叫びはじめるのです。そしてところ構わず、私の胸にも吸い付き始めました。

 私はこの子におっぱいを飲ませてやりたくて、やりたくて、神経は正常ではなくなってしまいました。どうしたらよいか、気が狂うほどになりました。父の葬儀にも涙を見せなかった私が、生まれて初めて、赤ん坊を抱えて泣いてしまいました。

 罪深い人の親ですらこうなのですから、天のお父様は私たちの求めに、何としてでも応えてやろうとしてくださっており、お心を痛めてくださっていることは、痛いほど分かります。父に求める者に、父は今年の年間聖句のように、遂には30倍、60倍、100倍の結果を酬いてくださるお方なのです。

 話を戻します。この聖書箇所、ちょっと変に、唐突に思われませんか?13節「それならなおのこと、天の父は(最上の良いものとして)、ご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」の≪聖霊≫と言う言葉です。その前後に、この聖霊という言葉や、ニュアンスがまったくありません。こういうところに、つい、神さまの本音が出た、私はそう思うのです。そうです、「聖霊」こそ主がお奨めになる最上のもの(ヨハ20:22)であって、私たちが真に求める最善のものです。逆に「聖霊を冒涜する者は赦されない」(マル3:29ルカ12:10)ということにもなるわけです。
 復活についても、生ける神の確信、その交わImg_9519_2りがあってこその「御霊の体」を実感できることです。

 本題に入りましょう。「聖霊」という言葉を使いますが、これは聖霊のバプテスマの≪聖霊≫のことです。確かに十字架を信じバプテスマを受ければ聖霊様が内住されます。十字架によって告白した罪は完全に赦されています。しかしそのような内住される聖霊のことを言っているのではありません。

 私もそうでしたが、聖霊のバプテスマを受けていない人に、「聖霊のバプテスマとは」を語っても、それは体験であり、十人十色であって伝えることは本当に難しいことです。もし受けていないのであれば、ぜひあきらめずに求めて下さい。

 再度自分の話をします。クリスチャンになって30年近く経った40代の後半から50歳過ぎまで、私は何とかして聖霊のバプテスマを受けたたいと願うようになりました。癒やしを求めて長年居た教会を出て、癒やしを求める過程で聖霊のバプテスマがあることを知りました。そうなるとどうしてもほしくなり、東にベニー・ヒン来たればそのイベントへ走り、西にそのような霊的な教会があれば祈ってもらいに行くという何年かを過ごしました。その他、ネットでの掲示板やチャットでも、いろんな方にずいぶんお世話になりました。しかし結果として「聖霊のバプテスマ」は遠く、この燃えるような熱い望みは叶えられなかったのでした。

 叶えられたのは、その熱意を失いかけ、ほとんどあきらめた時でした。一時の情熱を失うと、やがてすさんで自暴自棄になっていきました。クリスチャンの堕落は悪霊たちにとっては大物で見物らしく、その瞬間を見ようとぞろぞろと私の頭上に集まって来ており、期待されて見守っているのがわかりました。それが分かったのは、今しも彼らのぶら下げた鈎針つきの獲物を私が飲み込もうとした瞬間だったのです。「自分が悪霊たちの見物になっている」、ハッとして私は目が覚め、自分の真の状態、本質的な罪に気づいたのです。問題の被害者に自分をし、自分を義としていた罪でした。

 私はあまりのことに三日三晩悔い改め、日曜日が来た時、この時が最初で最後ですが、「もう教会なんぞに汚れた自分は行けない」、そう思いました。しかし行けないと思っていたのに、なぜか車に乗り、入れないと思っていた教会が見えた時、神さまの方で私に触れてくださいました。罪人を愛してくださる神さまの愛がわかった瞬間でした。

 神に触れられた私は、恐れおののき、またそれまでの教会、神が居るか居ないかのようなような曖昧な信仰の教会には二度と行けないと思いました。神は確かに生きておられ、今も働いておられるのです。ですから主の十字架は、神さまが「私の御体は何処にあるのでしょうか?」と言う祈りに応えて導いてくださった教会です。また聖霊のバプテスマはその後、すぐに受けました。まるでアニメ「風の谷のナウシカ」でのラストシーンに近いオームのシーンのようだったのですが・・・。

 本題に入りましょう。聖霊のバプテスマは完全に神の主権に属するものですが、必死に求めるならば、神は与えてくださいます。しかしその下さり方は人それぞれであって、定まったものではないようです。私の場合も熱心に求めましたが「はい、どうぞ」というようなものではありませんでした。自分を徹底的に無とされてからのことでした。考えてみればこれは当然のことです。自分と聖霊様が一つの中に同時に主として住むことはできません。私という自己愛が滅ぶか、少なくとも首位の座を降りなければならないのです。「主よ、主よ」と呼んでいましたが、それは口先だけのもので、本当に主を主としてはいなかったのです。

 次にいよいよ本題そのものですが、十字架は何のため? それは罪を赦し永遠のいのちを下さるためです。復活はその具体的な天上の姿であり実質であって、神の栄光を現すものです。十字架と復活の五十日後、信じて待ち望んだ弟子たちには約束のもの≪聖霊(のバプテスマ)≫が注がれました。が、逆に言えば、十字架と復活は聖霊を送るためにあったということではないでしょうか。それほど聖霊のバプテスマは大切なもの、神が人に与えようとされている最善、最高のものなのです。聖霊によって、改めて十字架と復活が大切なものにもなるからです。これは神の目的なのです。

 大宣教命令も聖霊のバプテスマの力なくしては絵に描いた餅です。私は三十年近くのいわゆる福音派の教会でいやと言うほど体験しました。(※ルカ24:49「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。」)(※使1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」。しかし聖霊のバプテスマを受ければ分かることですが、十字架も復活も聖霊によって、リアリティーを持って我がこととわかり、待ち望むようになります。その意味で、殉教も恐れることがなくなっていくことでしょう。信仰が堅くされるこれらのことすら、ある意味、副次的な者ものに過ぎません。

 神が下さる聖霊のバプテスマの目的は、ずばり「交わり」だと今は思っています。考えても見てください。神は子として私たちを愛してくださっています。父としては子に、最善なものを与えたいと思っていらっしゃいます。そして「子ども(=私たち)が魚を求めているのに、魚の代わりに蛇」でなく、もっと素敵なもの、それは13節の「それならなおのこと、聖霊を」の「聖霊」なのです。聖霊を通して私たちは神さまと交わります。子としての実質が聖霊であり、子としての証印が聖霊なのです。

 聖霊を通して私たちは父と交わることができます。親は子と交わりたいのです。幼かろうと、出来そこないであろうとも、そうなのです。また子も、実の父を知りたい、父と交わりたいと願うのです。もしそうでないなら、それはもはや親子ではありません。せいぜい継子か、または私生児です。
 父は聖霊を通しての交わりによって、ご自分のみ言葉を解き明かしてくださり、祈りに応えてくださいます。また父の、声にならない声を聞きます。九つの聖霊の賜物も父から来るものであって、教会のものであり、わたしのものではありません。自分に与えられて得られるものだと誤解している人もいますが、父からの預かりものであって、聞き従って用いるだけのものです。

 何よりも、私たちは聖霊さまを通して日々交わり、神さまを深く知ることによって、この方を信頼し、深く愛するようになります。神の愛には到底及ばないものの、愛には愛をもって、ただ応えて行く。その結果として、自分よりも神さまを本当に愛するようになるのです。
 よく聞き従いと申しますが、その本質は神を愛するからだと思います。何とかして愛する方の思いと計画を実現したい、それがみ心を行いたいという願いとなり、主が用いて下さることになります。それも深く交わることによって、相手の考えていること、願っていることがかなりわかるようになるからです。
 聖霊のバプテスマを受けるまでは、「聞き従い」とは聖書に代表される神のことばや教えを逸脱せず、守る、従うかも知れませんが、聖霊のバプテスマを受けてからの聞き従いとは、「(自ら進んでの)どうぞ私をお用い下さい、させてください」なのだと思っています。神様は愛なるお方なので、命令を好まれません。この段階では神は、私たちの自由意志を尊重して下さるのです。これが神が私たちに聖霊を与えようとしてくださる目的だと思っています。繰り返しますが、神は私たちを使用人や兵隊のように、何事かを命令して用いようとしておられるのではなく、私たちの意思を尊重し、願いを生かすようにして私たちを用いようとしておられるのです。これって、素晴らしいことではありませんか。

2018年11月18日 (日)

助けて

マタイ 15章23-25節     【新改訳2017】

しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」 
しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」

 今年の主題は今月四日の日曜日に初めて聞いたのですが、その四日前の火曜日、オリーブ山ではじめて祈った時、個人的に明確に示されたのはこの「助けて」でした。
 
マタイ15章21節以降のこのカナン人の女の記事は共観福音書のすべて記されています。イエス様達が行かれたシドンという所は、今のレバノンであり、バールやアシュタロテという偶像崇拝の地です。その異教の地においても、イエス様のことを「主よ、ダビデの子よ」と叫んでつきまとって弟子たちを困らせる女がいました。娘の癒やしをなんとしてでも得たい一心であったのでしょう。

イエス様はこのカナン人の女に対して、びっくりするような厳しい言葉を浴びせています。「わたしはイスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」→イスラエル人に遣わされているので、外国人のあなたは関係ないです。
 「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」→神の子であるイスラエル人への恵みをカナン人のあなたに分けてあげることはできません。
 その上、イエス様から「小犬」と呼ばれる屈辱的な言葉も浴びせられました。しかし女はひるまなかったのです。おそらく女は、シドンからガリラヤのイエス様の所へ癒やしていただきに行った人たちが、みな癒やされて帰ってきた、その証しを聞いていたのでしょう。そして悪霊につかれた自分の娘が助かる方策は、もうこのイエス様だけが唯一希望であったのかも知れません。女はイエスのことばを受けて「食卓から落ちるパンくずでも」ください、とイエスにさらに願ったのでした。

似た話があります。最後の大士師サムエルを得ようと、神さまはハンナの胎を閉ざし、エルカナに第二夫人をとらせて多くの子を得さえ、ハンナを苦しめられました。それがエリの前に心を注ぎ出す祈りとなりました。神に捧げられた人サムエルの誕生はハンナの祈りの実でした。その祈りを引き出されたのは神だったのです。

このプライドも何もかも捨てて、ただ神のあわれみを必死に求め続ける・・・・・・これを今、神さまが私たちに求めておられるのです。心からの神への願いを神がご自身の計画のために用いてくださり、大きな祝福が結果として与えられます。確かに今現在、私たちの教会は経済的な面などで、困難に直面しており、教会の成長を心から祈っています。これこそみ心であり、必ず祝福されるとわたしは信じます。100倍、60倍と実を結んで行く、今年の年間主題がそのことを保障しているのです。

2018年11月 4日 (日)

2019年度のみ言葉

マタイ 13章23節     【新改訳2017】

ガリラヤ湖新年礼拝パウロ秋元牧師メッセージ

 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

 皆さんは良い地なので、神を信じ、永遠のいのちを与えられる恵みにあずかりました。ここで「悟る」とは理解するということで、良い地とは心から神を信じるクリスチャンのことで、福音を聞いて理解し、悟って信じた人のことです。そのような人は神の子であり、100倍、60倍、30倍の実を結びのです。2019_2

 一つここで気になる言葉として、「本当に」とあるのは、それが当座は疑わしく思えるものだからです。しかし神から与えられたみ言葉や使命を、人間的な思いを遠ざけ、何があっても握り続けて手放さない限り、それらは成就するものなのです。疑わしく思える、それを「本当に」と言い表しているわけです。

確かに、神が語られたり、示された言葉を見る時、自分の能力や状態を見て、「あり得ないことだ」とか「そんなことが成就するのだろうか」と不信仰に陥ってしまう人がいることでしょう。確かにこの世の目で見、基準で見たならば、自分には不可能なことでしょうし、希望を持つのは愚かなことなのかも知れません。しかし、神の目は全く異なります。

主が見られるのは、神の言葉に忠実に立ち、悟り、対応しようと心に定めているかどうか、その信仰を見られるのです。その人の信仰を見る時、将来性が神のみ心の通りに広大なものとなります。そして神の偉大な力と言うものは、その人を通して現されて行きます。そのことはアブラハム、モーセ、ダビデと聖書がはっきり証ししていることなのです。神は神ご自身が地上に出て働かれるのではなく、皆さんお一人お一人を通して神は働かれるのです。

ですから神を信じ、聞き従いをさらに強めて行きましょう。自分に与えられた使命を全うできるように祈り続けましょう。それが神から来たものである限り、実となって必ず成就するのです。時が近づいています。皆さんは、これから大きく用いられ、100倍、60倍、30倍となって大きな実となって、祝福されるのです。

2018年10月28日 (日)

恐れるな

マタイ 10章31節     【新改訳2017】

ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。

昨日の聖書箇所マタイ10章に三度出てくる「恐れてはいけません」の言葉は創15:1や46:3、士6:23に出てくる「do not be afraid」と同じで、「恐れるな」とも訳していい言葉です。そしてこの度、この箇所が三度出てくる10章に導きを感じました。
 26節の「ですから彼らを恐れてはいけません」の<彼ら>とは、私たち神を信じる者を迫害する世の人々、世の力です。彼らの前に引くことなく証し続けなさいと言う意味です。

 28節の「恐れてはいけません」は、真に恐れる相手を教えています。サタンやサタンの側の世は、確かにクリスチャンを迫害し、第1の死である血肉の命を奪うことができるかも知れませんが、彼らにできるのはそこまでです。しかし神はその次の永遠の死である第2の死、ゲヘナで滅ぼすことがおできになります。真に恐れる相手は、ただ神だけです。

 31節では、クリスチャンに許される困難や殉教は、決して神が無関心であったとか、沈黙していたからではないとを告げています。600~700円ぐらいで売られている1羽の雀の命さえ、神の許しなしにその命がなくなることはないのです。雀よりはるかに価値の高い私たちに許されることには、神の深い計画があり、神の栄光になることなのです。

 さて、これらの「恐れるな」がなぜ三度も語られるのでしょうか。迫害が近づいているからです。この箇所は元々弟子たちを派遣する前の、その心構えを語られているのですが、読んでいると実は患難時代を前にしての私たちに語られているような気がしてきました。そしてその核心は「血肉の命を失ってでも、主イエスの御名を否むな」と言うことに尽きると思われます。なぜならクリスチャンを否定するならば天国に行けないことと、逆に命を失ってでも「イエス・キリストの神こそ私の主です」と告白するならば、主イエスが天国で喜んで迎えてくださる事が約束されています。似た事がこれから起こる黙示録での「獣の刻印を受ける」こととして聖書に記述されています。
 黙示録では獣の刻印を受けるならば、ゲヘナに落とされる、とはっきり書いてあります。しかし一部の人たちに「そんなことは形式的なことだから受けても大丈夫。信仰は心の中のものだから」という人たちがいます。しかしそれはとんでもない間違いです。

 ただ自分の力で転ばない、大丈夫だと思わないでください。血肉の体を持つ私たちの弱さをご存知の主イエスの愛とあわれみに頼りましょう。また日頃から深く神と交わって、強い信頼を築いておくことも大切です。神の前に悔い改め、神を呼び求め続けることが最も大切なことでしょう。

2018年10月21日 (日)

癒やし

マタイ 4章24節     【新改訳2017】
イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。

 バプテスマのヨハネは、自分がキリストであることを否定し、次のような預言をしました。「その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます」(マタイ3:11)と。
 その預言通り、イエスはヨハネからバプテスマを受けられると、ただちに天から聖霊が下り、公生涯がスタートしました。また「火」とは裁きを表し、次の12節「手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられ……殻を消えない火で焼き尽くされます」の通りです。ですからキリストの地上再臨時の「収獲のための火」と理解してもよさそうです。ヨハネの言った「聖霊」と「火」は、イエス・キリストの公生涯の始まりと福音の時代の終わりを端的に言い表していたとも言っていいでしょう。

今は西暦2018年ですが、A.D.2018と表記します。これはラテン語のanno Domini(主の年に)の略語で、キリスト以前(B.C)と世界の歴史は二分されているといるのです。今の二千年は福音の時代、恵みの時代です。しかしこれが永遠に続くわけではありません。もうすぐその終わりが近づいており、新しい時代に入ることを私たちは知っています。しかしこれまで学んできましたように、どんな時代でも天のエルサレムに入るには「試練」が付きものであり、逆に言えば、試練を受けなければ救いの確信は得られないことでしょう。

 皆さんの中には体や心の病、あるいは障害で苦しまれたり、辛い思いをされている方もおられます。たとえ自分自身でなくとも、家族や境遇というものでも同様です。また、いじめとか挫折、経済の貧しさ、自分の能力の無さに苦しんだ方もおられることでしょう。これらは皆、試練として苦しみを受けましたが、同時に、このような試練なしに神を心から信じられた人は、一人もいないと私は思っています。その苦しみがあったればこそ、葛藤の中で罪が分かり、永遠の目が開れたのです。逆に素晴らしい祝福になったのです。
 反対にこの世の成功者、富、権力がある人が神を信じることは容易ではありません。ラクダが針の穴を通るほどの確率でしかないでしょう。その体現者であるパリサイ人に対し、主はマタイ伝の23章で「わざわいだ」と呼んでいるくらいです。

 イエス・キリストの福音の恵みはまず病ある人に届けられました。最終的には多くの異邦人を含むシリア中の人々がイエス様の元に来て、癒やされたのです。主の癒やしには明確な原則があります。それは肉体上の病も癒やされますが、より根源的な罪を癒やされるということです。体や心の癒やしから真の癒やしに向かうなら何という祝福でしょうか。癒やしが単にそれだけなら死ぬだけです。罪を赦され神を信じるなら永遠のいのちです。私たちはその祝福の恵みに与っている幸せな者なのです。神に感謝しましょう。

2018年10月14日 (日)

試練

黙示録 3章10節     【新改訳2017】
あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。

 聖書日課に黙示録の終わりが近づいていますが、何となく腑に落ちない点というのがあります。それはキリストの再臨時、反キリストや偽キリストはゲヘナに落とされるのに、その首領のサタンは千年王国の終わりまで閉じ込められ、最後の最後にまたサタンを解き放って人々を惑わせることです。「神さま、あんまりじゃございませんか」とまでは思いませんが、「どうしてでしょうか?」と思うわけです。

それで、つれづれ祈り導かれながら諭されてたことに、神の陣営は聖であるということです。聖なる存在は、神に背く働き、つまり人々を惑わしたりすることができないのです。それでサタンを残し用いるのです。千年王国の時代はちょうど今とあべこべで、キリストが王の王となり、キリストに従って復活したクリスチャンが地上の支配者となる千年間です。そうなると、よほど反抗的な人以外の、地上のほとんどの人がクリスチャンになることでしょう。しかし本当に心から信じているかどうかは、今と逆の時代だからこそどうしても今以上に、試練という試しが無ければならないのだと示されたのです。

ではどういうことになるでしょうか。どんな時代であっても、試練は必ずあるということです。なぜなら、血肉の体を持つ私たちの今の使命は、証人としてです。このことはルカ24:48 使徒1:8、1:22、32などに明記されています。その証人が試練の時に、自分の血肉の命を惜しみ、御名を否んで獣の像を拝んだのでは証人としての使命の放棄であり、かえって人をつまずかせることになります。そのような者は皆ゲヘナへ落とされる黙示録19:20、20:4と聖書でははっきり書かれています。

使徒1:8 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」
黙示録3:8 のフィラデルフィア教会でのわたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」ことに対してです。

結論として私たちは弱い存在ですから、高木仙右衛門のように、弱さを自覚し、証人としての使命を全うできるよう神に祈り求め続けましょう。神だけが希望であり、頼りです。「主よ、私は弱い者です。ですから主よ、その時、あなたの名を否まない力を主が与えてください」と。そしてこの祈りは必ず聞き届けられると私は信じます。

2018年10月 7日 (日)

エルサレムの平和のために祈れ

詩篇 122篇6節     【新改訳2017】

エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

エルサレムは一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教それぞれの聖地です。エルサレムのエルとは神、あるいは神の現れる、大いなるという意味であり、サレムとは平和です。エルサレムの現状は、名前の意味とはかけ離れています。それ故に祈るべきでありましょう。
また、全体としてはすべてイスラエルの支配にありながら、神殿の丘や、その周囲である旧市街の多くをイスラム教徒(モスレム)が押さえていますので、神殿の丘を中心に両者の争いが絶えません。ですが神が「エルサレムの平和のために祈れ」と命じておられることを、そのまま現実のイスラエル国を支援し、その平和が進むようにと祈ることは少し違うのです。どちらか一方の味方をして平和が来るでしょうか。聖書で言われている「エルサレムの平和を祈る」言葉の意味と真実を確かめて参りましょう。

現実のイスラエル国の首都エルサレムがこの地上には存在しています。ですがどちらにも味方しない、その聖書はもう一つのエルサレム、天の都エルサレムがあることを教えてくれます。実はこのエルサレムがみ心が完成し、早期に天から舞い降りるように祈るのが、このみ言葉の意味だと思われます。
詩篇122:6のエルサレムの平和は、何の為かというと、すぐに続けて書いてある通りでエルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。122:7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」です。

これは天のエルサレムのことです。天の神殿は神を信じる一人一人の内にありますから、真のイスラエル人であるクリスチャンの中に、聖霊の宮があり神の神殿があります。
つまり私たちお一人お一人の中に平和がありますように、という意味に広がっていく者であると考えます。
現実のエルサレムはやがてバビロン化し、ますます戦争と混乱が広がってくると思われます。キリストの再臨から平和が実現するのを知っていますが、それまではますます悪化していくようです。その中でどうかみ心だけがなりますように、私たち霊的イスラエル人が一層平和になりますようにと、霊、魂、心を合わせて祈リりましょう。「主よ、来たりませ」と。

2018年9月30日 (日)

来てください

黙示録 22章17節     【新改訳2017】
御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

私たちは神の子どもだ。だから神の護りがある。患難時代の後半は携挙によって守られるが、前半も私たちはあらかじめ、何が起こっていくかということを知らされるので、守られて行く。
そのことを例えれば、地震や津波にいきなり遭遇するのと、そのことをあらかじめ知っていて対応するのと同じぐらい、決定的な違いがある。聖書を信じるならば、次の三つの地震を知ることで、患難時代に目を醒まして備えることができる。

1回目の地震は封印の六つ目が開いた時。ヨエルの預言が成就するので、ここから後の雨、終末の大リバイバルが始まるかも知れない。

2回目が第六のラッパが吹かれた時。この時の地震はエルサレムなので、「残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した」とあり、イスラエルに大規模なメシアニック化が起こるのかも知れない。仕上げのように、携挙がすぐ後の第七のラッパと共に起こるので、
私たちはこれ以降を天から見ることになる。
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3回目の地震はその後、第七の鉢が地にぶちまけられてからで、再臨があり、イスラエルを中心に、地球の様子がすっかり変わってしまうほどの地震が起こる。これを機に千年王国が始まり、ゼカリヤ14:16にある「諸国の民が礼拝をしに上ってくる」ようになる

2018年9月23日 (日)

神のみこころを知る

ローマ 12章1-2節     【新改訳2017】
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

 聖書は神の言葉であり、その聖書を通して私たちは神のみこころを知ります。その方法は大きく分けて二つあります。第1にイエス・キリストのゲッセマネの園で祈りにその典型例があります。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26章39節)
 キリストは神でしたが、同時に完全な肉の体を持った人でもありました。受けなければならない想像を絶する苦しみは、人々を愛し尽くした末の酬いでした。これは弱さというより、まったく理不尽な酬いを前にして、キリストはみこころの確認を求められられたのです。重要な点は、ただ神のみこころを確認しただけで、従うという意思に微塵も揺るぎがなかったことです。「何があっても従う」これがみこころを知るための一つです。神のみこころは「十字架の上で死になさい」でした。

 「みこころを知る」もう一つは、「神のご命令のみこころ」とでも言うべきものです。どんなに悪いことにでも「感謝しなさい」(1テサ5:18)、いつでも「喜びなさい」(ピリピ4:4)は神の命令ですが、私たちへのみこころです。特に「愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)は主イエスからの重ねての命令で、厳命とでも言うべきものです。
 しかしながら現状は聞き従っているとは思えません。知っていても実際に従おうとしない不服従がみられます。自分を見、自分に到底行う力がないのを知っているので、はなから試みないのです。

 確かに私たちには行う力がありません。神はそのような私たちの力をよくご存知なはずです。つまり、自分の力では「愛する」「感謝する」ことができないことを告白し、「悔改め」て全面的に神により頼むことを期待されているのです。神に期待し、心から願うことによって、神によって私たちは新しくつくられるという真理が開かれるのです。本日の聖書の2節に「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば‥‥‥」とあるのは、このことです。
 どうか謙遜になって、この神のあわれみと恵みを無駄にしないよう、みこころを知り、それを行える者に、自分の力ではなく、神によって変えていただきましょう。アーメンでしょうか?

2018年9月16日 (日)

けして見捨てられない

1ペテロ 2章6節    【新改訳2017】
聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」

本日の聖書箇所で,シオンという言葉は、世俗化したエルサレムに対比してのものでしょう。それに対しシオンの丘は、「神の住む丘」、「神の都」です。シオンとは「天のエルサレム」をも暗示しています。

さらに「選ばれた石」とはイエス・キリストのことであり、失望という言葉はKJVで「shame=恥」と書かれています。このみ言葉全体の理解は、人々に見捨てられたキリストを信じるならば、神の国へ必ず行けると言う意味でしょう。
また、このことを非常に言い当てている、神は「決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(へブル13:5)のみ言葉は,このことを端的に言いあらわしていると言えましょう。

さて神の約束はまことに心躍るものです。この神にあって霊的に成長させられるならば、私たちは次の四つの栄光にあずかります。「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神のものとされた民」となります。実際、キリストの再臨の後に来る千年王国で、私たちはキリストと共に王となり、人々を導き執りなす者となることは聞き及びでしょう。

信仰をまっとうし、天のエルサレムに引き上げられてからの私たちは、このような栄光の召しがあり、なんとしてもそれを望み、まっとうできるように、この地上での命を尽くしましょう。その力は私たち自身にはなく、内住される聖霊様にどれほど働いていただけるかにかかっています。聖霊様中心の自分になるために、熱心に<霊の乳を求め>ましょう。
また聖霊の力でもって<肉の欲を避け>、<善を行えるよう祈り>、<与えられた自由を神に従うものとして用い>、<すべての人を敬う>と言う信仰の行いが生じて行くのです。つまり、神が私たちに望んでおられるのは、次のみ言葉に集約して言うことができるのです。
ですからそのようにこの世の時間を用いるため、ご一緒にお祈り致しましょう。

「それはあなたがたが残された時を、もはや人間的な欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです(1ペテロ4:2)」

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