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2018年12月 9日 (日)

罪の赦し

詩篇 32篇1-2節     【新改訳2017】
幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。
幸いなことよ【主】が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。

公生涯に入られてからのイエスの評判は、救いや癒やしを通して大きく広がりました。同時にそれを快く思わない当時の宗教指導者たちがいました。彼らは自分たちの権威への挑戦と受け止め、疑い警戒しました。屋根から病人を吊り下ろす背景には、このような人々がたくさん詰めかけ、本当に癒やしが必要な人がイエスに近づけなくなっていたのです。

 さてイエスは、天上から吊り降ろされた人に対し、中風を直すのでなく「友よ、あなたの罪は赦された」(ルカ5:20)と罪の赦しを宣告されました。これは少し不思議ではないでしょうか。癒やされたいのに、罪の赦しだったのです。なぜでしょうか。実は罪が原因である病があります。最善は完全に癒やされることです。そしてイエスは真の原因である罪を取り除かれたのです。つまり根本からの癒やしが行われたのでした。

 しかしこれを見ていたパリサイ人は、罪を赦すということが冒涜に映りました。彼らが思った「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか」は正しく、「罪を赦す」ことは、神かまたは神に等しい存在のみが実行可能なことでした。
 ですからイエス様が罪を赦されたことは、自分が神であることを宣言したことになります。パリサイ人たちが「冒涜」と感じたのは、イエスが神であることがもっとも分かるべき彼らが、実は一番鈍くて分からなかったという証明です。これは宗教指導者として失格です。イエスは彼らのためにも、真の原因が罪であった証明として、中風の人への即座の癒やし「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」(5:24)と言われたのです。

 本日は「罪の赦し」がテーマです。この後イエス様が十二弟子を遣わされますが、彼らに与えられた権威は悪霊の追い出しや癒やしでした。しかし罪の赦しは含まれていません。罪の赦しは神だけができることです。もしイエス様が神でなければ十字架も空しく、罪の赦しはあり得ません。教会は極めて初期から、使徒信条で明らかなように、イエスを神としない異端と戦ってきました。 

 繰り返しますが、キリストが神でなければ赦しはありません。また三位一体の神以外に罪の赦しは無く、人であったマリアや司祭相手にどんなに告解しても、それは無駄というものです。私たちは真に神に赦される信仰の教会であり、罪から解放され、癒やされる祝福を感謝しましょう。この祝福は、5節にあるように罪を隠さず、告白するという前提条件があります。ですから真に赦され解放された者として、証しにおいて主に栄光を帰す教会でありますように。

2018年12月 2日 (日)

処女降誕

ルカ 1章35-45節      【新改訳2017】

35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」  
45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。


 キリスト教の土台は聖書です。しかし多くの人が初めにつまずくのは、処女マリアが懐妊し、子どもを生むことです。
 このような到底信じがたい奇跡でなぜ福音書は始まるのでしょうか? しかしこれこそが必ず起きなければならない事でした。キリストが三位一体の神であるならば、聖であり罪なき存在です。もしキリストが普通に男女の両親から生まれたならば、どんなに立派な人物であったとしてもアダムの原罪を免れず、その罪ある者が全人類の罪の身代わりにはなれません。聖である神ご自身が受肉して来られた、それがキリストの処女降誕です。
 ほとんどの異端は、キリストの神性を否定し人間だとします。しかし三位一体を信じる者にとって、処女降誕は神ならばおできになると堅く信じることができます。

次に聖書からこの事実を学びます。第一に、イエスの出生にまつわる出来事は、キリスト教のもっとも初期から信じられてきたことです。ルカ福音書にはその著者ルカが、母マリヤから直接聞いたのだろうと思われる記事で溢れています。エリサベツとその胎内にいたヨセフのこと、マリア賛歌、また<シメオンは・・・・母マリアに言った>とか、イエス12歳の時<母は言った「どうしてこんなことをした・・・・」>2章51節<母は・・・・心に留めおいた>などの記述からです。
 さらに、十字架にマリアが立ち会っていることや、弟にあたるヤコブやシモンが聖書の書簡を書くほどになっています。またマルコ6章3節にイエスが<マリアの子で>とあるのも、周囲の人々の中には、イエスを私生児視していた人がいた証拠になります。

 私生児ということが出てきたので関連しますが、ユダヤ教のタルムードではマリアは淫婦だったので私生児イエスを生んだとしています。もしそうならば、婚約者ヨセフは決して結婚しなかったでしょうし、イエスに続く6人の兄弟もなかったことでしょう。さらにまた12歳になって、多くの連れの一員としてイエスが都詣ですることもなかったはずです。

 最後にイザヤ7章14で聖書が処女降誕を預言していました。ですからこれは預言の成就でした。また出生地もミカ5章2-5節にあり、神は時のローマ皇帝すら用いて、160キロも離れていたナザレから移動させ、ベツレヘムで生まれるという預言を成就されました。

 これらのことをまとめるなら、ルカ1章37節の「神にとって不可能なことはありません」という天使の言葉を信じるのが、神を信じる者としての唯一の妥当な結論になります。これを信じない者は、自分の考え、判断を聖書より優先しており、不信仰に該当します。

2018年11月25日 (日)

聖霊の目的

ルカ11:5-13 (13節中心)   【新改訳2017】

 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 この聖書箇所はちょっと聖書を読んだ人なら、大抵は覚えておられる所でしょう。示された「神さまが私たち人に、最終目的として聖霊を与えてくださるのはなぜか?その目的とは?」に思いをはせる時、この箇所が浮かんできました。神さまとは、このようなお方なのだと・・・。

 ここでのポイントは「必死さ」です。同じく「必死さ」を見るなら、悪霊につかれた娘を持ったシドンの女の叫び、エルカナの妻ハンナの祈りも参考になるでしょう。神さまは私たち人を通してご自分の目的を果たされますし、御栄光を現されます。人を用いられる時、神様は人の「必死の願い」をかなえる形でお実現されるのです。もっとも、そのように導かれる面もあるわけですが。そういう意味で「求めなさい。そうすれば与えられます。」は「必死になって」が大切になります。が、人間がそうなろうとしても、なかなか難しいものです。

 今から四十年も前の私の経験ですが、長女が生後三十日ぐらいで、前妻が腰を痛めて突然寝たきり状態になり、その検査と治療のため入院するハプニングが起きました。当初、娘には粉ミルクで大丈夫だと思っていたのですが、実際にやってみると口の周りに発疹が出始め、診察してもらうと人工乳のせいだとわかりました。粉ミルクは飲ませられず、かといって母乳も新生児は病院に立ち入り禁止で飲ませられません。しかし時間が来れば乳児は乳が欲しくて「おぎゃあー」と泣き叫びはじめるのです。そしてところ構わず、私の胸にも吸い付き始めました。

 私はこの子におっぱいを飲ませてやりたくて、やりたくて、神経は正常ではなくなってしまいました。どうしたらよいか、気が狂うほどになりました。父の葬儀にも涙を見せなかった私が、生まれて初めて、赤ん坊を抱えて泣いてしまいました。

 罪深い人の親ですらこうなのですから、天のお父様は私たちの求めに、何としてでも応えてやろうとしてくださっており、お心を痛めてくださっていることは、痛いほど分かります。父に求める者に、父は今年の年間聖句のように、遂には30倍、60倍、100倍の結果を酬いてくださるお方なのです。

 話を戻します。この聖書箇所、ちょっと変に、唐突に思われませんか?13節「それならなおのこと、天の父は(最上の良いものとして)、ご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」の≪聖霊≫と言う言葉です。その前後に、この聖霊という言葉や、ニュアンスがまったくありません。こういうところに、つい、神さまの本音が出た、私はそう思うのです。そうです、「聖霊」こそ主がお奨めになる最上のもの(ヨハ20:22)であって、私たちが真に求める最善のものです。逆に「聖霊を冒涜する者は赦されない」(マル3:29ルカ12:10)ということにもなるわけです。
 復活についても、生ける神の確信、その交わImg_9519_2りがあってこその「御霊の体」を実感できることです。

 本題に入りましょう。「聖霊」という言葉を使いますが、これは聖霊のバプテスマの≪聖霊≫のことです。確かに十字架を信じバプテスマを受ければ聖霊様が内住されます。十字架によって告白した罪は完全に赦されています。しかしそのような内住される聖霊のことを言っているのではありません。

 私もそうでしたが、聖霊のバプテスマを受けていない人に、「聖霊のバプテスマとは」を語っても、それは体験であり、十人十色であって伝えることは本当に難しいことです。もし受けていないのであれば、ぜひあきらめずに求めて下さい。

 再度自分の話をします。クリスチャンになって30年近く経った40代の後半から50歳過ぎまで、私は何とかして聖霊のバプテスマを受けたたいと願うようになりました。癒やしを求めて長年居た教会を出て、癒やしを求める過程で聖霊のバプテスマがあることを知りました。そうなるとどうしてもほしくなり、東にベニー・ヒン来たればそのイベントへ走り、西にそのような霊的な教会があれば祈ってもらいに行くという何年かを過ごしました。その他、ネットでの掲示板やチャットでも、いろんな方にずいぶんお世話になりました。しかし結果として「聖霊のバプテスマ」は遠く、この燃えるような熱い望みは叶えられなかったのでした。

 叶えられたのは、その熱意を失いかけ、ほとんどあきらめた時でした。一時の情熱を失うと、やがてすさんで自暴自棄になっていきました。クリスチャンの堕落は悪霊たちにとっては大物で見物らしく、その瞬間を見ようとぞろぞろと私の頭上に集まって来ており、期待されて見守っているのがわかりました。それが分かったのは、今しも彼らのぶら下げた鈎針つきの獲物を私が飲み込もうとした瞬間だったのです。「自分が悪霊たちの見物になっている」、ハッとして私は目が覚め、自分の真の状態、本質的な罪に気づいたのです。問題の被害者に自分をし、自分を義としていた罪でした。

 私はあまりのことに三日三晩悔い改め、日曜日が来た時、この時が最初で最後ですが、「もう教会なんぞに汚れた自分は行けない」、そう思いました。しかし行けないと思っていたのに、なぜか車に乗り、入れないと思っていた教会が見えた時、神さまの方で私に触れてくださいました。罪人を愛してくださる神さまの愛がわかった瞬間でした。

 神に触れられた私は、恐れおののき、またそれまでの教会、神が居るか居ないかのようなような曖昧な信仰の教会には二度と行けないと思いました。神は確かに生きておられ、今も働いておられるのです。ですから主の十字架は、神さまが「私の御体は何処にあるのでしょうか?」と言う祈りに応えて導いてくださった教会です。また聖霊のバプテスマはその後、すぐに受けました。まるでアニメ「風の谷のナウシカ」でのラストシーンに近いオームのシーンのようだったのですが・・・。

 本題に入りましょう。聖霊のバプテスマは完全に神の主権に属するものですが、必死に求めるならば、神は与えてくださいます。しかしその下さり方は人それぞれであって、定まったものではないようです。私の場合も熱心に求めましたが「はい、どうぞ」というようなものではありませんでした。自分を徹底的に無とされてからのことでした。考えてみればこれは当然のことです。自分と聖霊様が一つの中に同時に主として住むことはできません。私という自己愛が滅ぶか、少なくとも首位の座を降りなければならないのです。「主よ、主よ」と呼んでいましたが、それは口先だけのもので、本当に主を主としてはいなかったのです。

 次にいよいよ本題そのものですが、十字架は何のため? それは罪を赦し永遠のいのちを下さるためです。復活はその具体的な天上の姿であり実質であって、神の栄光を現すものです。十字架と復活の五十日後、信じて待ち望んだ弟子たちには約束のもの≪聖霊(のバプテスマ)≫が注がれました。が、逆に言えば、十字架と復活は聖霊を送るためにあったということではないでしょうか。それほど聖霊のバプテスマは大切なもの、神が人に与えようとされている最善、最高のものなのです。聖霊によって、改めて十字架と復活が大切なものにもなるからです。これは神の目的なのです。

 大宣教命令も聖霊のバプテスマの力なくしては絵に描いた餅です。私は三十年近くのいわゆる福音派の教会でいやと言うほど体験しました。(※ルカ24:49「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。」)(※使1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」。しかし聖霊のバプテスマを受ければ分かることですが、十字架も復活も聖霊によって、リアリティーを持って我がこととわかり、待ち望むようになります。その意味で、殉教も恐れることがなくなっていくことでしょう。信仰が堅くされるこれらのことすら、ある意味、副次的な者ものに過ぎません。

 神が下さる聖霊のバプテスマの目的は、ずばり「交わり」だと今は思っています。考えても見てください。神は子として私たちを愛してくださっています。父としては子に、最善なものを与えたいと思っていらっしゃいます。そして「子ども(=私たち)が魚を求めているのに、魚の代わりに蛇」でなく、もっと素敵なもの、それは13節の「それならなおのこと、聖霊を」の「聖霊」なのです。聖霊を通して私たちは神さまと交わります。子としての実質が聖霊であり、子としての証印が聖霊なのです。

 聖霊を通して私たちは父と交わることができます。親は子と交わりたいのです。幼かろうと、出来そこないであろうとも、そうなのです。また子も、実の父を知りたい、父と交わりたいと願うのです。もしそうでないなら、それはもはや親子ではありません。せいぜい継子か、または私生児です。
 父は聖霊を通しての交わりによって、ご自分のみ言葉を解き明かしてくださり、祈りに応えてくださいます。また父の、声にならない声を聞きます。九つの聖霊の賜物も父から来るものであって、教会のものであり、わたしのものではありません。自分に与えられて得られるものだと誤解している人もいますが、父からの預かりものであって、聞き従って用いるだけのものです。

 何よりも、私たちは聖霊さまを通して日々交わり、神さまを深く知ることによって、この方を信頼し、深く愛するようになります。神の愛には到底及ばないものの、愛には愛をもって、ただ応えて行く。その結果として、自分よりも神さまを本当に愛するようになるのです。
 よく聞き従いと申しますが、その本質は神を愛するからだと思います。何とかして愛する方の思いと計画を実現したい、それがみ心を行いたいという願いとなり、主が用いて下さることになります。それも深く交わることによって、相手の考えていること、願っていることがかなりわかるようになるからです。
 聖霊のバプテスマを受けるまでは、「聞き従い」とは聖書に代表される神のことばや教えを逸脱せず、守る、従うかも知れませんが、聖霊のバプテスマを受けてからの聞き従いとは、「(自ら進んでの)どうぞ私をお用い下さい、させてください」なのだと思っています。神様は愛なるお方なので、命令を好まれません。この段階では神は、私たちの自由意志を尊重して下さるのです。これが神が私たちに聖霊を与えようとしてくださる目的だと思っています。繰り返しますが、神は私たちを使用人や兵隊のように、何事かを命令して用いようとしておられるのではなく、私たちの意思を尊重し、願いを生かすようにして私たちを用いようとしておられるのです。これって、素晴らしいことではありませんか。

2018年11月18日 (日)

助けて

マタイ 15章23-25節     【新改訳2017】

しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」 
しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」

 今年の主題は今月四日の日曜日に初めて聞いたのですが、その四日前の火曜日、オリーブ山ではじめて祈った時、個人的に明確に示されたのはこの「助けて」でした。
 
マタイ15章21節以降のこのカナン人の女の記事は共観福音書のすべて記されています。イエス様達が行かれたシドンという所は、今のレバノンであり、バールやアシュタロテという偶像崇拝の地です。その異教の地においても、イエス様のことを「主よ、ダビデの子よ」と叫んでつきまとって弟子たちを困らせる女がいました。娘の癒やしをなんとしてでも得たい一心であったのでしょう。

イエス様はこのカナン人の女に対して、びっくりするような厳しい言葉を浴びせています。「わたしはイスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」→イスラエル人に遣わされているので、外国人のあなたは関係ないです。
 「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」→神の子であるイスラエル人への恵みをカナン人のあなたに分けてあげることはできません。
 その上、イエス様から「小犬」と呼ばれる屈辱的な言葉も浴びせられました。しかし女はひるまなかったのです。おそらく女は、シドンからガリラヤのイエス様の所へ癒やしていただきに行った人たちが、みな癒やされて帰ってきた、その証しを聞いていたのでしょう。そして悪霊につかれた自分の娘が助かる方策は、もうこのイエス様だけが唯一希望であったのかも知れません。女はイエスのことばを受けて「食卓から落ちるパンくずでも」ください、とイエスにさらに願ったのでした。

似た話があります。最後の大士師サムエルを得ようと、神さまはハンナの胎を閉ざし、エルカナに第二夫人をとらせて多くの子を得さえ、ハンナを苦しめられました。それがエリの前に心を注ぎ出す祈りとなりました。神に捧げられた人サムエルの誕生はハンナの祈りの実でした。その祈りを引き出されたのは神だったのです。

このプライドも何もかも捨てて、ただ神のあわれみを必死に求め続ける・・・・・・これを今、神さまが私たちに求めておられるのです。心からの神への願いを神がご自身の計画のために用いてくださり、大きな祝福が結果として与えられます。確かに今現在、私たちの教会は経済的な面などで、困難に直面しており、教会の成長を心から祈っています。これこそみ心であり、必ず祝福されるとわたしは信じます。100倍、60倍と実を結んで行く、今年の年間主題がそのことを保障しているのです。

2018年11月 4日 (日)

2019年度のみ言葉

マタイ 13章23節     【新改訳2017】

ガリラヤ湖新年礼拝パウロ秋元牧師メッセージ

 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

 皆さんは良い地なので、神を信じ、永遠のいのちを与えられる恵みにあずかりました。ここで「悟る」とは理解するということで、良い地とは心から神を信じるクリスチャンのことで、福音を聞いて理解し、悟って信じた人のことです。そのような人は神の子であり、100倍、60倍、30倍の実を結びのです。2019_2

 一つここで気になる言葉として、「本当に」とあるのは、それが当座は疑わしく思えるものだからです。しかし神から与えられたみ言葉や使命を、人間的な思いを遠ざけ、何があっても握り続けて手放さない限り、それらは成就するものなのです。疑わしく思える、それを「本当に」と言い表しているわけです。

確かに、神が語られたり、示された言葉を見る時、自分の能力や状態を見て、「あり得ないことだ」とか「そんなことが成就するのだろうか」と不信仰に陥ってしまう人がいることでしょう。確かにこの世の目で見、基準で見たならば、自分には不可能なことでしょうし、希望を持つのは愚かなことなのかも知れません。しかし、神の目は全く異なります。

主が見られるのは、神の言葉に忠実に立ち、悟り、対応しようと心に定めているかどうか、その信仰を見られるのです。その人の信仰を見る時、将来性が神のみ心の通りに広大なものとなります。そして神の偉大な力と言うものは、その人を通して現されて行きます。そのことはアブラハム、モーセ、ダビデと聖書がはっきり証ししていることなのです。神は神ご自身が地上に出て働かれるのではなく、皆さんお一人お一人を通して神は働かれるのです。

ですから神を信じ、聞き従いをさらに強めて行きましょう。自分に与えられた使命を全うできるように祈り続けましょう。それが神から来たものである限り、実となって必ず成就するのです。時が近づいています。皆さんは、これから大きく用いられ、100倍、60倍、30倍となって大きな実となって、祝福されるのです。

2018年10月28日 (日)

恐れるな

マタイ 10章31節     【新改訳2017】

ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。

昨日の聖書箇所マタイ10章に三度出てくる「恐れてはいけません」の言葉は創15:1や46:3、士6:23に出てくる「do not be afraid」と同じで、「恐れるな」とも訳していい言葉です。そしてこの度、この箇所が三度出てくる10章に導きを感じました。
 26節の「ですから彼らを恐れてはいけません」の<彼ら>とは、私たち神を信じる者を迫害する世の人々、世の力です。彼らの前に引くことなく証し続けなさいと言う意味です。

 28節の「恐れてはいけません」は、真に恐れる相手を教えています。サタンやサタンの側の世は、確かにクリスチャンを迫害し、第1の死である血肉の命を奪うことができるかも知れませんが、彼らにできるのはそこまでです。しかし神はその次の永遠の死である第2の死、ゲヘナで滅ぼすことがおできになります。真に恐れる相手は、ただ神だけです。

 31節では、クリスチャンに許される困難や殉教は、決して神が無関心であったとか、沈黙していたからではないとを告げています。600~700円ぐらいで売られている1羽の雀の命さえ、神の許しなしにその命がなくなることはないのです。雀よりはるかに価値の高い私たちに許されることには、神の深い計画があり、神の栄光になることなのです。

 さて、これらの「恐れるな」がなぜ三度も語られるのでしょうか。迫害が近づいているからです。この箇所は元々弟子たちを派遣する前の、その心構えを語られているのですが、読んでいると実は患難時代を前にしての私たちに語られているような気がしてきました。そしてその核心は「血肉の命を失ってでも、主イエスの御名を否むな」と言うことに尽きると思われます。なぜならクリスチャンを否定するならば天国に行けないことと、逆に命を失ってでも「イエス・キリストの神こそ私の主です」と告白するならば、主イエスが天国で喜んで迎えてくださる事が約束されています。似た事がこれから起こる黙示録での「獣の刻印を受ける」こととして聖書に記述されています。
 黙示録では獣の刻印を受けるならば、ゲヘナに落とされる、とはっきり書いてあります。しかし一部の人たちに「そんなことは形式的なことだから受けても大丈夫。信仰は心の中のものだから」という人たちがいます。しかしそれはとんでもない間違いです。

 ただ自分の力で転ばない、大丈夫だと思わないでください。血肉の体を持つ私たちの弱さをご存知の主イエスの愛とあわれみに頼りましょう。また日頃から深く神と交わって、強い信頼を築いておくことも大切です。神の前に悔い改め、神を呼び求め続けることが最も大切なことでしょう。

2018年10月21日 (日)

癒やし

マタイ 4章24節     【新改訳2017】
イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。

 バプテスマのヨハネは、自分がキリストであることを否定し、次のような預言をしました。「その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます」(マタイ3:11)と。
 その預言通り、イエスはヨハネからバプテスマを受けられると、ただちに天から聖霊が下り、公生涯がスタートしました。また「火」とは裁きを表し、次の12節「手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられ……殻を消えない火で焼き尽くされます」の通りです。ですからキリストの地上再臨時の「収獲のための火」と理解してもよさそうです。ヨハネの言った「聖霊」と「火」は、イエス・キリストの公生涯の始まりと福音の時代の終わりを端的に言い表していたとも言っていいでしょう。

今は西暦2018年ですが、A.D.2018と表記します。これはラテン語のanno Domini(主の年に)の略語で、キリスト以前(B.C)と世界の歴史は二分されているといるのです。今の二千年は福音の時代、恵みの時代です。しかしこれが永遠に続くわけではありません。もうすぐその終わりが近づいており、新しい時代に入ることを私たちは知っています。しかしこれまで学んできましたように、どんな時代でも天のエルサレムに入るには「試練」が付きものであり、逆に言えば、試練を受けなければ救いの確信は得られないことでしょう。

 皆さんの中には体や心の病、あるいは障害で苦しまれたり、辛い思いをされている方もおられます。たとえ自分自身でなくとも、家族や境遇というものでも同様です。また、いじめとか挫折、経済の貧しさ、自分の能力の無さに苦しんだ方もおられることでしょう。これらは皆、試練として苦しみを受けましたが、同時に、このような試練なしに神を心から信じられた人は、一人もいないと私は思っています。その苦しみがあったればこそ、葛藤の中で罪が分かり、永遠の目が開れたのです。逆に素晴らしい祝福になったのです。
 反対にこの世の成功者、富、権力がある人が神を信じることは容易ではありません。ラクダが針の穴を通るほどの確率でしかないでしょう。その体現者であるパリサイ人に対し、主はマタイ伝の23章で「わざわいだ」と呼んでいるくらいです。

 イエス・キリストの福音の恵みはまず病ある人に届けられました。最終的には多くの異邦人を含むシリア中の人々がイエス様の元に来て、癒やされたのです。主の癒やしには明確な原則があります。それは肉体上の病も癒やされますが、より根源的な罪を癒やされるということです。体や心の癒やしから真の癒やしに向かうなら何という祝福でしょうか。癒やしが単にそれだけなら死ぬだけです。罪を赦され神を信じるなら永遠のいのちです。私たちはその祝福の恵みに与っている幸せな者なのです。神に感謝しましょう。

2018年10月14日 (日)

試練

黙示録 3章10節     【新改訳2017】
あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。

 聖書日課に黙示録の終わりが近づいていますが、何となく腑に落ちない点というのがあります。それはキリストの再臨時、反キリストや偽キリストはゲヘナに落とされるのに、その首領のサタンは千年王国の終わりまで閉じ込められ、最後の最後にまたサタンを解き放って人々を惑わせることです。「神さま、あんまりじゃございませんか」とまでは思いませんが、「どうしてでしょうか?」と思うわけです。

それで、つれづれ祈り導かれながら諭されてたことに、神の陣営は聖であるということです。聖なる存在は、神に背く働き、つまり人々を惑わしたりすることができないのです。それでサタンを残し用いるのです。千年王国の時代はちょうど今とあべこべで、キリストが王の王となり、キリストに従って復活したクリスチャンが地上の支配者となる千年間です。そうなると、よほど反抗的な人以外の、地上のほとんどの人がクリスチャンになることでしょう。しかし本当に心から信じているかどうかは、今と逆の時代だからこそどうしても今以上に、試練という試しが無ければならないのだと示されたのです。

ではどういうことになるでしょうか。どんな時代であっても、試練は必ずあるということです。なぜなら、血肉の体を持つ私たちの今の使命は、証人としてです。このことはルカ24:48 使徒1:8、1:22、32などに明記されています。その証人が試練の時に、自分の血肉の命を惜しみ、御名を否んで獣の像を拝んだのでは証人としての使命の放棄であり、かえって人をつまずかせることになります。そのような者は皆ゲヘナへ落とされる黙示録19:20、20:4と聖書でははっきり書かれています。

使徒1:8 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」
黙示録3:8 のフィラデルフィア教会でのわたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」ことに対してです。

結論として私たちは弱い存在ですから、高木仙右衛門のように、弱さを自覚し、証人としての使命を全うできるよう神に祈り求め続けましょう。神だけが希望であり、頼りです。「主よ、私は弱い者です。ですから主よ、その時、あなたの名を否まない力を主が与えてください」と。そしてこの祈りは必ず聞き届けられると私は信じます。

2018年10月 7日 (日)

エルサレムの平和のために祈れ

詩篇 122篇6節     【新改訳2017】

エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

エルサレムは一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教それぞれの聖地です。エルサレムのエルとは神、あるいは神の現れる、大いなるという意味であり、サレムとは平和です。エルサレムの現状は、名前の意味とはかけ離れています。それ故に祈るべきでありましょう。
また、全体としてはすべてイスラエルの支配にありながら、神殿の丘や、その周囲である旧市街の多くをイスラム教徒(モスレム)が押さえていますので、神殿の丘を中心に両者の争いが絶えません。ですが神が「エルサレムの平和のために祈れ」と命じておられることを、そのまま現実のイスラエル国を支援し、その平和が進むようにと祈ることは少し違うのです。どちらか一方の味方をして平和が来るでしょうか。聖書で言われている「エルサレムの平和を祈る」言葉の意味と真実を確かめて参りましょう。

現実のイスラエル国の首都エルサレムがこの地上には存在しています。ですがどちらにも味方しない、その聖書はもう一つのエルサレム、天の都エルサレムがあることを教えてくれます。実はこのエルサレムがみ心が完成し、早期に天から舞い降りるように祈るのが、このみ言葉の意味だと思われます。
詩篇122:6のエルサレムの平和は、何の為かというと、すぐに続けて書いてある通りでエルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。122:7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」です。

これは天のエルサレムのことです。天の神殿は神を信じる一人一人の内にありますから、真のイスラエル人であるクリスチャンの中に、聖霊の宮があり神の神殿があります。
つまり私たちお一人お一人の中に平和がありますように、という意味に広がっていく者であると考えます。
現実のエルサレムはやがてバビロン化し、ますます戦争と混乱が広がってくると思われます。キリストの再臨から平和が実現するのを知っていますが、それまではますます悪化していくようです。その中でどうかみ心だけがなりますように、私たち霊的イスラエル人が一層平和になりますようにと、霊、魂、心を合わせて祈リりましょう。「主よ、来たりませ」と。

2018年9月30日 (日)

来てください

黙示録 22章17節     【新改訳2017】
御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

私たちは神の子どもだ。だから神の護りがある。患難時代の後半は携挙によって守られるが、前半も私たちはあらかじめ、何が起こっていくかということを知らされるので、守られて行く。
そのことを例えれば、地震や津波にいきなり遭遇するのと、そのことをあらかじめ知っていて対応するのと同じぐらい、決定的な違いがある。聖書を信じるならば、次の三つの地震を知ることで、患難時代に目を醒まして備えることができる。

1回目の地震は封印の六つ目が開いた時。ヨエルの預言が成就するので、ここから後の雨、終末の大リバイバルが始まるかも知れない。

2回目が第六のラッパが吹かれた時。この時の地震はエルサレムなので、「残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した」とあり、イスラエルに大規模なメシアニック化が起こるのかも知れない。仕上げのように、携挙がすぐ後の第七のラッパと共に起こるので、
私たちはこれ以降を天から見ることになる。
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3回目の地震はその後、第七の鉢が地にぶちまけられてからで、再臨があり、イスラエルを中心に、地球の様子がすっかり変わってしまうほどの地震が起こる。これを機に千年王国が始まり、ゼカリヤ14:16にある「諸国の民が礼拝をしに上ってくる」ようになる

2018年9月23日 (日)

神のみこころを知る

ローマ 12章1-2節     【新改訳2017】
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

 聖書は神の言葉であり、その聖書を通して私たちは神のみこころを知ります。その方法は大きく分けて二つあります。第1にイエス・キリストのゲッセマネの園で祈りにその典型例があります。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26章39節)
 キリストは神でしたが、同時に完全な肉の体を持った人でもありました。受けなければならない想像を絶する苦しみは、人々を愛し尽くした末の酬いでした。これは弱さというより、まったく理不尽な酬いを前にして、キリストはみこころの確認を求められられたのです。重要な点は、ただ神のみこころを確認しただけで、従うという意思に微塵も揺るぎがなかったことです。「何があっても従う」これがみこころを知るための一つです。神のみこころは「十字架の上で死になさい」でした。

 「みこころを知る」もう一つは、「神のご命令のみこころ」とでも言うべきものです。どんなに悪いことにでも「感謝しなさい」(1テサ5:18)、いつでも「喜びなさい」(ピリピ4:4)は神の命令ですが、私たちへのみこころです。特に「愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)は主イエスからの重ねての命令で、厳命とでも言うべきものです。
 しかしながら現状は聞き従っているとは思えません。知っていても実際に従おうとしない不服従がみられます。自分を見、自分に到底行う力がないのを知っているので、はなから試みないのです。

 確かに私たちには行う力がありません。神はそのような私たちの力をよくご存知なはずです。つまり、自分の力では「愛する」「感謝する」ことができないことを告白し、「悔改め」て全面的に神により頼むことを期待されているのです。神に期待し、心から願うことによって、神によって私たちは新しくつくられるという真理が開かれるのです。本日の聖書の2節に「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば‥‥‥」とあるのは、このことです。
 どうか謙遜になって、この神のあわれみと恵みを無駄にしないよう、みこころを知り、それを行える者に、自分の力ではなく、神によって変えていただきましょう。アーメンでしょうか?

2018年9月16日 (日)

けして見捨てられない

1ペテロ 2章6節    【新改訳2017】
聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」

本日の聖書箇所で,シオンという言葉は、世俗化したエルサレムに対比してのものでしょう。それに対しシオンの丘は、「神の住む丘」、「神の都」です。シオンとは「天のエルサレム」をも暗示しています。

さらに「選ばれた石」とはイエス・キリストのことであり、失望という言葉はKJVで「shame=恥」と書かれています。このみ言葉全体の理解は、人々に見捨てられたキリストを信じるならば、神の国へ必ず行けると言う意味でしょう。
また、このことを非常に言い当てている、神は「決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(へブル13:5)のみ言葉は,このことを端的に言いあらわしていると言えましょう。

さて神の約束はまことに心躍るものです。この神にあって霊的に成長させられるならば、私たちは次の四つの栄光にあずかります。「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神のものとされた民」となります。実際、キリストの再臨の後に来る千年王国で、私たちはキリストと共に王となり、人々を導き執りなす者となることは聞き及びでしょう。

信仰をまっとうし、天のエルサレムに引き上げられてからの私たちは、このような栄光の召しがあり、なんとしてもそれを望み、まっとうできるように、この地上での命を尽くしましょう。その力は私たち自身にはなく、内住される聖霊様にどれほど働いていただけるかにかかっています。聖霊様中心の自分になるために、熱心に<霊の乳を求め>ましょう。
また聖霊の力でもって<肉の欲を避け>、<善を行えるよう祈り>、<与えられた自由を神に従うものとして用い>、<すべての人を敬う>と言う信仰の行いが生じて行くのです。つまり、神が私たちに望んでおられるのは、次のみ言葉に集約して言うことができるのです。
ですからそのようにこの世の時間を用いるため、ご一緒にお祈り致しましょう。

「それはあなたがたが残された時を、もはや人間的な欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです(1ペテロ4:2)」

2018年9月 9日 (日)

神との交わり

1ヨハネ 1章3節     【新改訳2017】
私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

神を信じたクリスチャンには三位一体の聖霊という神様が内住されました。本日の聖書箇所「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」です。
 私たち被造物である人が神と交われようにするために、神は世界の始まる前から私たちを造られ、時至ってこの世の世界に命をもって送り出してくださいました。交わりを開くのためにアダムとイブの追放があり、ノアの箱船、アブラハムへの約束があり、イエス・キリストの贖いがありました。すべては十字架と復活を信じる者に聖霊を与えるためであり、交わりを開くためでした。人は聖霊を通して、父と交わるのです。

 続く8節に不思議なことが述べてあります。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」と。聖い神様とお交わりをするのに、全くふさわしくない真逆の自分の罪を告白しなければダメだ、なんて言われているのです。

 これには三つの真理があると思われます。一つには、高慢の逆、へりくだりです。 真に十字架を信じた人には必ず聖霊が内住されています。聖霊の聖さは人の罪を明らかにし、高慢を砕きます。へりくだりは聖霊の内住を現し、神に接する基本的態度です。

 次に罪を認め、告白するならば必ずそれは赦され、まったく無かったこととされます。つまり、罪を告白した直後は、神との交わりにふさわしいきよい者とされるのです。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。【Ⅰヨハ 1:9】

 最後に罪を告白する者に、神は賛美と喜びを与えてくださいます。それは罪の縄目から解放された喜び、真に自由とされた悦び、深く愛され愛している歓びです。

 大切なことは神と交わるということです。これは地上のわずかな時間を越えて、永遠の交わりの、ホンのプロローグに過ぎないと言うことです。次のみ言葉があるように、地上の働きは天とリンクしており、故郷である天に凱旋するためなのです。
まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。マタ 18:18】

 それでみなさん、ご一緒に次のみ言葉のお祈り致しましょう。
こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。1ペテロ4:2】

2018年9月 2日 (日)

感謝

エペソ5章20節     新改訳2017

いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

「感謝する」
信仰との関係 神様は私たちを愛し、私たちと交わりたいがために、十字架と復活、そして信じる者に聖霊を与えてくださいました。聖霊は私たち人に送られますが、それは神なる聖霊様を通して、私たちが交わるためなのです。ですからCaki
交わりが神様の究極的な目的なのです。

表裏一体 ではその交わりは信じる信仰から始まります。分かり易くするために、いささか乱暴ですが、ケーキに喩えてみましょう。ケーキはスポンジと呼ばれる台と、その上に生クリーム、最上層にイチゴなどのデコレーションが乗ってケーキになります。差し詰めスポンジ部が信仰、生クリーム部が感謝、デコレーションは賛美でしょうか。信仰と感謝は表裏一体のものですし、賛美はそれを高らかに歌いあげるものです。

ただ感謝する このように見ていった場合、信仰が一切無報酬で、人間の努力も清さも必要とされなかったように、感謝もこれをしたら何か恵みを得られるだろうというような下心があってはならないのです。ただし、信仰は「ただ信じる」ということが唯一の条件でした。感謝も、自分自身に希望を失う絶望的なことになれば、それこそ神にのみ希望を持て生きる決心のチャンスです。
 「人間的な判断はせず、神様が許されたことのゆえにすべてを感謝する」、この絶対的な肯定が感謝のポイントです。例外は一切ありません。この上に立つ賛美は、ですから感謝の麗しいシンボル、デコレーションだと言えるでしょう。

神を確信する 神の愛は無償の愛~道徳の教科書「お母さんの請求書」(※子どもがお使いなどをお金に換算し母に代金を請求し、それを読んだお母さんが子どもに代金とお母さんの請求書を渡した話)を朗読。人間の親ですら我が子を愛します。まして神は、さらにすぐれた愛を私たち信じる子にくださっています。自分の感覚からではなく、聖書に書いてある神のことばと約束を信じましょう。そして約束を大いに声高らかに感謝しましょう。

2018年8月26日 (日)

主は心を見る

1サムエル 16章7節     【新改訳2017】

主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。

本日の聖書箇所、「主は心を見る」とありますが、前王サウルこそ〈容貌〉や〈背の高さ〉に誰よりもすぐれていた人だったので、これは、サウルの予断に対しての戒めの言葉であり、同時に人間に対する神の基本的な見方を明らかにするものです。

 しかしここで疑問が湧く。全知である主が、どうして見かけ上立派なサウルを選び、心は見なかっただろうか。サウル王の位置づけが気になるところである。神はサウルを王としたことを「悔やむ」(1サム15:11)とまで言われた。ところが不思議なことをサムエルは言っている。主は「悔やむこともない」と(Ⅰサム15:29)。

 一見矛盾に見えることだが、おそらくサムエルは主に、サウル王を退けられた理由を聞いたのだ。神はノアの箱船のように、悔やまれ、失敗に見えても、それを最善の結果に変える力がある。典型例がキリストの十字架だ。それ故サムエルは「神に悔いはない」と神の全知と叡智を証言して言ったのだと。

 サウル王が次王ダビデに果たす役割は、次のように大きかった。第1に世の王権に勝る神の主権があることを知らしめる。第2に長い逃亡生活を通し、ダビデの訓練と主との親密な交わりの確立のために。主はサウルを悔やまれた。しかし神はそれを最善にする計画が用意されていた。故に神は、サウルを退けても悔やむことがないと言われたのだ。

 実際、聖書に登場する人物の中で、ダビデほど神に愛され、祝福された人物はない。油を注がれた後の彼の人生は、苦難の歩みだった。ゴリアテに勝ち、ヨナタンと兄弟以上の契りを結び、常勝の軍団長となって王の娘ミカルの婿となっても、執拗に義父である王から命を狙われ続けた彼の逃避行は、ただ神を頼りとする以外になかったのである。

 また王となってもダビデの家庭には平和がなかった。アブシャロムの反乱、アドニヤの王位狙いなど悲惨であった。またダビデ自身もベテ・シェバとの罪と殺人、あるいは民を数えた罪で幾度も神の前に身を投げ出し。悔い改めなければならなかった。

 しかし神はダビデを愛し続け、ダビデへの祝福を変えることはなかった。ここに神様とはどのような心を求めておられのか、また私たちが目ざすべき心というものを明らかにしてくれるのである。次の詩篇51:17 の短い一節がこのすべてを言い表している。  

神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません

2018年8月19日 (日)

信じる

✝️エペソ 2章8節    【新改訳2017】

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

  この聖書箇所を見ますと、「恵みのゆえに、信仰によって」「あなたがたから出たことではなく」とあります。バプテスマを受ける時、私たちは自分が信じる決心をしたように思っていますが、実はその裏面で、恵み深い神が私たちを選び、神が信じられるように、ずっと導いてくださっていたのだと言っているのです。ですから「自分の力で神を信じる決心をした」などと誇ってはいけないのです。ただ神のあわれみによって信じる者とされ、救ってくださったと感謝しましょう。永遠のいのちを受けたのです。

 ところが「信じる」ということも、運動会の「パン食い競走のように、ただ飛びついて食った」で終わりにはなりません。信仰にはピンからキリまであるのが実際です。神は「エレミヤ。あなたは何を見ているのか(エレミヤ1:11)」と神はエレミヤの見ている景色をすべてご存知でした。私たちの神は、サタンと異なって人の心を支配しようとはされませんが、私たちが神を信じ、内住されたこの聖霊様に、自ら進んで自分を明け渡し、神のしもべとして世を歩もうとするなら、大きな祝福を用意してくださっているお方でもあります。
 その大きな祝福とはなんでしょうか。私たちの血肉での時間は、天のエルサレムに住む永遠の時間に比べれば、ホンの一瞬に過ぎません。どんなことよりも大切な天での永遠の時間、世での賜物や働きの大小は関係なく、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ(マタ25:23)」と仰っていただけます。つまり天の王座の近くに行けるのです。
 この反対に、神が恐ろしいからと、せっかくの機会を生かさず、地に埋もれさたままにするなら、お叱りを受け、持っているものまで取り上げられてしまうのです。これは大きな違いですが、それはホンの一瞬に過ぎない地上でしたことについての結果、酬いなのです。

 では人は如何にして神の器、しもべとなるのでしょうか。祈り、願うことです。神様を愛し、交われるように、そしてみ心を行えるようにと。愛する、と言うことと、交わる、と言うことはほぼ同じことですから、マルコ12:35でイエス様がパリサイ人にお答えになったお答えと同じになります。

 「信じる」ということは「悔い改める」がその土台です。信じることにピンキリがあるなら、悔い改めにもそうなのです。神様に自分を明け渡すためには、少しでも自分に希望や誇りがあっては不十分です。しかし人間には自分の力でもって、自分を打ち砕くことはできません。ただ試練を通してのみそれは可能となります。ですから神は愛する者に、恵もうとする者に試練を許しになられるのです。
 こうして自分を明け渡す者とされ、献身するもの、神に聞き従う者とされることは、なんという祝福でしょうか

2018年8月12日 (日)

本当の愛

へブル 13章5節~6節     【新改訳2017】

  金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。
  ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。 人が私に何ができるだろうか。」

 金銭というのは、この世という物質世界のシンボルです。お金がなかったら生きていけませんので、お金を否定しているのでなく、お金を愛する生活を否定しているのです。それはどういうことかを実際に考えてみましょう。
このみ言葉の対象はクリスチャンです。今回の船橋聖会で秋元牧師が「十字架はすべての人のための恵みですが、その恵みを受け取るのはただ信じた人、信仰を持った人だけなのです」と語れたことが心に残っています。ただ信じて天国に必須のすべての罪が赦されただけでなく、義とされるのです。

信じなければ十字架の恵みを受け取れないように、「決してあなたを見放さない、決して見捨てない」(英文ではneverがそれぞれにかかっている)と信仰によって信じることで、経済的あるいは将来への不安や恐れから解放されることがわかります。実際これら不安や恐れは、人を虜にし惑わすだけで、結局は多くの損失を得てしまうものであることがほとんどです。

「老後より死後」・・・金銭に代表される切実な世界とは老後なのかもしれません。体が衰え、以前のように働けなくなっているがわかった時、「蟻とキリギリス」ではありませんが、頼れるのは蓄えた金銭でしょう。しかし金銭は「おれおれ詐欺」に狙われ、いつの間にか目減りし、高額医療費で消えてしまうものです。

ルカ8:43-44に「十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた」とあります。この女は財産をすべて費やしても癒やされることはなかったのですが、イエス様の衣の房に触れることで、たちまち、一瞬にして癒やされ治りました。(※実際には溶鉱炉の高熱で鉄を取り出す話でしたが、その言い換え)

みなさん、考えてください。この世を含め、すべての力、権威、栄光は神のものです。人の命、健康もすべて神が司っておられるのです。自分が蓄えたお金でどう頑張っても、絶対がんにかからない、明日の命は大丈夫だと言えません。しかし人が神に頼る時、神に委ね愛する生活をするなら、神は決して見放さす、決して見捨てないと一仰ってくださるのです。本当に懸命な選択とはどちらか、自明のことではないでしょうか。神の真実な愛に応えていきたいと思います。

2018年8月 5日 (日)

聖霊の力

使徒の働き 1章8節   【新改訳2017】

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 「聖霊の力」を受ける、とはこの場合、聖霊のバプテスマのことです。しかしこの聖霊のバプテスマはかなり誤解されているのが実状です。どう誤解されているかと言えば、まず第一に多くの教会で異端視されていることです。聖霊のバプテスマや賜物は初代教会の建て上げ時に必要であったもので、聖書と教会が確立している現在ではもはや不要なものであるとしているのです。また、そのように否定していなくても、「聖霊の内住」と「聖霊のバプテスマ」を同一視する教派・教団もあります。これらはともに聖書をよく調べれば誤った理解であることがわかりますが、今回は触れません。

 今回の問題は第二の、カリスマを求める人たちの間での誤解です。確かに聖霊のバプテスマは聖霊の賜物の土台であり、神との交わりを開くすばらしいものです。その恵みの体験を聞けば皆、「私も受けたい、ほしい」と思われるのはA自然です。

クリスチャン生活が三十年近くなっていた私も同様でした。私も聖霊のバプテスマを受けるために、必死になって求めていた4、5年がありました。まどか牧師も6年も経っていたと書いておられます。秋元牧師も、求めたらすぐに与えられたのではありません。かつてアメリカでは、多くのクリスチャンが悲痛な顔をして、「(得られないのは)私のどこが悪いのでしょうか。弱い人間だからでしょうか」と思い詰めていたとマーリンさんはその著書「賛美の力」で述べています。

 ここで「賛美の力」から少し引用させていただきます。「聖霊のバプテスマについての共通した誤った考えがあります。それは聖霊のバプテスマがとにかく私たちに力を与え、私たちの神のために働く力と才能を増し加え、私たちを霊的な巨人にするという考えです。これほど真実からかけ離れたことはないでしょう。それでは何の為に聖霊のバプテスマは必要なのでしょうか。聖霊のバプテスマは私たちを弱くするためなのです。その結果、神の臨在と力がより多く私たちのうちに内在し、また流れ出すのです(p96)。」

 またもう少し説明するために言葉を変えて、
「ですから聖霊のバプテスマとは神の霊に満たされて、自分自身を神に明け渡す器としてのきよめであり、その器に神の力が満たされることである(p98)」と述べられています。

 ですから、聖霊のバプテスマとは弱くされ、自分に希望を失って悔い改め、自分を神に完全に明け渡すという<弱くされる>ことなのです。これは考えてみれば、その人の主が己れなのか、神なのか、はっきりしていなければ、高ぶってサタン化する可能性すらあるからです。しかし、自分を明け渡すということは、自分の力ではできないことです。ですから聖霊のバプテスマには祈り求め、神の計画と時に自分を委ね、試練や困難を通されての、神の時があるのです。

 付け加えますが、聖霊のバプテスマは「聖霊の満たしの最初の現象」と言われている通り、その後も繰り返し繰り返し、満たしを受けていく、最初の第一歩に過ぎないのです。聖霊のバプテスマを受けたことが曖昧な方は、ハッキリと証できるよう、明確な満たしを受けてください。神は喜んで惜しみなく満たしてくださることでしょう。

2018年7月29日 (日)

愛の中身

イザヤ 49章15節   【新改訳2017】
 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。

 ソロモン王没後、王国は二つに分裂します。北イスラエル王国がアッシリアによって滅亡し、ユダ王国も、エルサレム以外の大きな町は落とされ、捕囚の憂き目もに遭いました。最後の首都エルサレムも陥落寸前、取り囲んでいたアッシリア軍18万5千人が一瞬のうちに主の手によって撃ち殺されました。この危急時に王と国を支えて護り、大活躍したのが預言者イザヤです。
 したがってこの風前の灯火の中、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。と言う叫びがあり、これにイザヤを通して「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない」(49:14-15) と言う神の言葉がイザヤによって語られたのです。

 南ユダに対するこの神の言葉は、全体を通して読み解く限り、現実のイスラエルに対してと言うより、霊的イスラエル人に対しての言葉のようです。言わば私たちクリスチャンに対しての神の愛の言葉が語られていると理解しても良いでしょう。これほどの神の愛に対して、その愛されている当のクリスチャンが「神の愛を受けとめきれていないのはなぜでしょうか」、つまり神の愛に対して「応答」できていない、これが今回の白馬キャンプでのメインテーマでした。この「応答」には信仰の「祈り」「聞き従い」「告白」の三つを用いる必要があることが解き明かされています。

 皆さん思い出してください。私が白馬に行く前に示されて語ったのは「聖霊を悲しませない」でした。自分の中にいつも、神の愛を感じ、その愛する方を悲しませたくないという心、それはなぜ生じるのだろうか、とメッセージをしました。それはどんなに自分が罪深いか、罪がわかって真実な悔い改めに導かれ、そこではじめて神の愛がわかる、と語らせていただきました。

 神の愛がわかれば、なによりもそれが大切であるし、その方を決して悲しませてはならないと心に強く思うようになります。また、神様のみ心を聞き従って行いたい気持ちにもなるのです。これを一言で言えば神様との関係、「交わり」だと私は申し上げました。

 「応答」と「交わり」、言葉やニュアンスは少し異なりますが、言わんとすることはほぼ重なっています。それは神様を愛することで、その中味としてのコミュニケーションです。神様はただ崇められたり、奉られたりすることをお望みではありません。被造物に過ぎない人間ですが、特別にお一人お一人を愛されています。愛にコミュニケーションは必須です。神様はそのために十字架によって特別に罪を取り除いてくださり、隔ての壁をなくしてくださったのです。

  それなのに神様の愛がわからない、受けられないのは、100%人間の側の問題です。それが完全に砕かれずに残っている各自の高慢であり、また、祈りや告白に代表される信仰の三つを用いないことにあるのです。

  ですからみなさん、試練を喜んでください。高慢から悔い改めに導かれます。祈り告白してください、神様の恵みの愛がわかり、受けられるますように。

2018年7月22日 (日)

聖霊を悲しませない

エペソ 4章30節  【新改訳2017】

 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

この聖書箇所は昨日の聖書通読箇所です。「聖霊を悲しませてはいけません」とありますが、読まれての感想がございますか。
「ああ、中村牧師がよく言っていた御言葉、ここだったのか!」と気づかれた方?はい、その通りです。私が再々触れる大切な御言葉の箇所はここなんです。どうして大切なのか、説明をしましょう。

 端的に言って、「悲しませたくない」とは、親子とか兄弟のような相手との切っても切れない関係で生じる言葉であって、情緒的な言葉でもあります。たとえばニュースで知っただけとか、通りすがりだけの人に対してはあり得ない感情でしょう。

 そうです、「神の聖霊を悲しませてはならない」とは、何ものにも代え難い大切な関わり、交わりがあるので、その方の意思を無駄にし、背いてはいけないという自制が働くのです。たとえば私ですが、私は子ども時代から空想のストーリー作りに耽る癖があります。しかしその主人公は大抵、肉的にすぐれた力を持っていた者であり、そのサクセスストーリーが常なのです。以前、自分でその誤りに気づき、聖霊様からも注意されていたこともあって、そちらの方に行かないよう、止めるよう心がけています。

 朝一番は「聖霊様、おはようございます」と神様へ挨拶し、その祈り、交わりに入ることが重要です。朝一番の時間を、神の前に捧げることは信仰生活のポイントです。しかし夢うつつの中、妄想に耽ってそれを怠っていますと、最中や終わった後、聖霊様がひどく悲しまれておられることがわかるので、私は「神様、あなたをないがしろにしてごめんなさい」とひどく後悔するのです。

肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。」(ガラテヤ5:17)    

とある通りです。ですから「御霊によって歩みなさい」(ガラ5:16)「御霊に満たされなさい」(エペ5:18)

と、肉の自分を断ち切って、愛する神様が喜んでくださるように自分を向けるのです。これは神が大切なのか、それとも愚かにも肉の自分を選んで、十字架の神の愛をないがしろにするのかの選びともなります。

 私は自分がどれほど罪深く、なおかつ、神が私をどれほど愛してくださったかを知っていますので、パウロが「私は神の恵みを無にはしません」(ガラ2:21)と言っている通り、二度と神様を悲しませたくないのです。

2018年7月15日 (日)

十字架

Ⅰヨハネ 4章10節    【新改訳2017】

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 キリスト教とキリスト教以外の世界のあらゆる宗教とでは、非常に大きな、本質的な違いというものがあります。それが十字架です。ギリシャなどの諸々の神々、仏教、広義にはイスラム教も含まれると思われますが、基本、神は偉大で人間の上に高く座し、人間の弱さや罪、不信仰を怒っています。それゆえ人間は神々をなだめ、身代わりの供え物をいつも捧げなければなりませんでした。

 ところがキリスト教だけはそれを人間の側からでなく、神の側から、それもなんと崇められるべき神自身が捧げられているのです。十字架はその象徴です。このような神は他に類を見ませんし、人間を愛する神の究極的なすがた形が、この十字架だと言えるでしょう。

 なぜ神であるキリストが十字架で死ななければならなかったのでしょう。それは人の罪の大きさに相当し、それを償ない購える存在が他に無かったからです。大切なことは、ただ単に贖うだけでなく、神との関係の回復をすることが真の目的であったという点です。つまり、究極のエデンの園である天の御国に、たくさんのアダムの子孫を加えて、永遠の交わりを再出発させる、これが神のご計画であることです。ですから十字架がわかるためには、「自分の罪がわかる」ことが大前提です。

 実は私がバプテスマを受けたのは、学生運動し、アジっていた自分の高慢さがわかって、悔い改めていた時のことでした。また自宅にも帰れず、ただ星空を見つめていて、星々の規則正しい運行に、天地万物を創造された神がおられることがわかり、それを認めてこなかった罪がわかったからでした。ただまだその時には、罪が本当に心からわかって信じたとは言えなかったと思います。ですから悔い改めが不十分でした。クリスチャンになれた、天国に行ける希望はありましたが、新生したとは言えませんでした。これらは真の悔い改めがなければ生じませんし、それは自分の力では不可能でした。これらを得たのは、その後何十年も経って、大きな試練を経てからのことでした。

 ですから試練があるのはすばらしい祝福なのです。試練がなければ、人は自分の愚かさ、不信仰さ、罪深さのゆえ、神様に自分を明け渡すことができないからでもあります。その時、神は自分に死に、神に明け渡す者を受け取ってくださり、ご自分のものにしてくださいます。それで御霊によって歩む者にされ、御霊の実が実っていくことになります。
 皆さん、十字架がわかり、聖霊の実を実らせる者となりましょう。これを求めることはみ心ですから、必ず聞いてくださいますので、熱心に求め続けましょう。

2018年7月 8日 (日)

要塞を打ち倒す力

Ⅱコリント10章4節     【新改訳2017】
私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです

 要塞とは前線基地でして、いったん作られてしまうと、なかなか打ち破れない強固な陣地のことです。通常要塞は敵との境や敵のただ中に築かれ、精強な軍が派遣されています。領地をパトロールして守り、時に攻めるために要塞から出撃し、危うくなれば要塞に逃げ帰って軍を立て直します。聖書のこの箇所でいう要塞とは、サタンが私たちの中に築いている要塞であり、なかなか打ち壊せないもの・・・・・罪深い性質、ねたむ心、物欲や肉欲、なかなか直せない弱い性質や消えない古傷などが該当するのではないでしょうか。

 そこで二日前のⅡコリ7章10節に「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます」とあります。

 私たちが要塞と戦う時、自分の力の弱さを知ります。そこで戦う力の無いことがわかってはじめて、悔い改めて神様に自分を完全に明け渡し、自分の代わりに神様に戦ってもらうようになります。これが「救いに至る悔い改め」です。この戦いは、神の勝利となります。なぜならサタンは神に勝てないからです。Photo_3

これは兄妹げんかで、体格で負けそうな妹が父親に助けを呼ぶようなものだと言えばよいでしょうか。             

 神の側に立ったクリスチャンに対し、サタンは奪い返そうと激しく攻撃します。ですから神に逆らう闇の力、サタンとの戦いは、世にある限り、クリスチャンにとって常に続くことを覚悟しなければなりません。この霊的な戦いを自分の力で肉的に行うなら、常に深手を負うことでしょう。しかし悔い改めて、常に神に自分を委ね、捧げて、代わりに神様に戦っていただくなら、私たちは必ず勝利を得るのです。このことを「要塞を打ち倒す力」と言っているのです。

私たちに希望はなくとも、心の希望が神にあることを特に学びました。

2018年7月 1日 (日)

私たちの天のかたち

Ⅰコリント15章49節            【新改訳2017】

 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。

 私たち一般的なクリスチャンに、天国への希望、そこに行ける喜びという現実感が、あまりにも希薄な人が多過ぎる、そういう思いがしてなりません。

 たとえ現状がどうあろうとも、本来私たちはすべての罪許され、天国人として希望に溢れてスマイルの存在なのです。私自身も辛かった試練の中で、呻き苦しみ、希望の無い暗い表情をしていた者だったからこそ申し上げます。それでは、いけません。証人としての使命が果たせていません。

 しかし現実には、「天国人なんてこと言ってるの、現実が見えてないお気楽な人たち」とか「地に足が着いてないから言えている」と批判するクリスチャンたちの声が聞こえるようです。また福音派の教会の祈祷会では、ドラえもんのポケットばりに、神様への願い事や要求を呟くように唱えるばかりです。生ける神の臨在の中、感謝や心からの悔い改め、賛美という、祈りの土台がすっぽり抜け落ちているのです。祈りが聞かれる、そんな希望も信仰も無いようです。

 それがハッキリわかるのは、告別式、召天式という教会のお葬式において、まるで永遠の別れのように、式においてひどく嘆く悲しんで悼んでいる光景を目にする時です。出棺では泣き叫ぶ人すら出る始末です。今の世は永遠の世界に比べれば、ホンの一瞬のようなものです。この世での使命を終え、天国に凱旋して行った兄弟とは、私たちはすぐに再会します。ですから一時の別れは惜しんでも、あまりに悲しむのは、世の人と変わらず、復活を実際には信じていないというようにも見受けられます。

昨日、同じ群れの若い兄弟のブログに、次のような文面がありました。
日本で新しい人に出会うといつも、名前のせいで、外国人だと間違えられる。でも、くそまじめに、外国人だと、答えたい自分がいる。天国から来ましたと、天国のことを話すと多くのクリスチャンがしらけるし、笑う。天国の話をできないクリスチャンが多すぎる。けっこう悲しい現実。でも、イエス様はいつも天の御国は、と言って天の国の話をした。この世で成功するお話でもなく この世の政治の話でもなく、イエスさまはいつも御国の話をした。天国人として天の国のサムライとして、天の国の文化の中で生きて行きたいなぁと心から思う。

全くの同感ですし、今日私が皆さんにお伝えしようしたテーマは、完全に読み取られていました。付け加えますが、私たちにはすばらしい「御霊の体」が与えられます。鳥や魚の肉には、同じ肉でもそれぞれ違うように、天国には朽ちも老いもしない御霊の体が与えられます。その御霊の体をもって、罪も苦しみも無いすばらしい天国で私たちは永遠に暮らすのです。天国ではアダムとイブが堕落する前の、実にすばらしい世界が復活すると私は思っています。

どうか皆さん、この世のことを心配する世の霊に支配されないように、心がけていきましょう。不安や心配事が先ず頭に浮かぶ人が居ますが、それは悪霊です。肯定的、積極的な人間になれるよう祈り求めましょう。

 み心の使命が果たせるよう、神に祈り求めて行きましょう。自分の使命を知らずして、それを果たすことはできません。ですからまだわかっていない人は、ぜひそれを得られるよう、熱心に祈り求めてください。これはみ心ですから、必ず答えられます。天の国の文化をこの地上で明らかにできるよう、祈り求めましょう。そして神様に感謝して捧げられた人生、証人としてのスマイル、笑顔、喜んで人生を神様に捧げて参りましょう。

2018年6月24日 (日)

よりすぐれた賜物

1コリント 12章31節
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

 本日の聖書箇所には、“よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい”とありますが、これは九つある聖霊の賜物のどれかを指しているのではありません。この“熱心に求めなさい”と同じ言葉が次の14章1節にも使われており、そこでは「愛」「預言」とが同格で“熱心に求めなさい”となっています。「愛」は「預言」と同格ですが、「愛」という土台が先ずあって、その次に聖霊の賜物の代表であり、神の愛を伝える「預言」があるのです。

 Ⅰコリント13:4-7 には次のように「愛」を語っています“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。”

 私が若い頃は信仰が引き上げられたら、こんなすばらしい愛のある者にしていただけると思っていたのですが、今は違います。ますます自分の罪深さを知り、ほど遠い姿を見るのです。自分という人間には、これは到底到達不可能、そこでわかりました。これは、本当の愛というものを神様が教えてくださっているのだということをです。ですから、これは人には無理なのです。
 たとえばどんなに願っても子どもが与えられなかった人が、できた人を羨ましいと思うな・・・それは無理なことです。程度問題が重要ですが、それにしても嫉妬がない・・・それは人間を超えている気がします。“人をねたみません”これができるのは神様だけでしょう。間違っても自分ができる、そんな誤解をして自分を責め、苦しまないでいただきたいと思います。この罪深いみじめな私のために、ますます十字架の力が働き、赦されたものとして、赦してくださった神への愛がこんこんと湧いてくるのではないでしょうか。

 神への愛は、十字架の愛で私たちの罪が赦され、エデンの園で断ち切られた関係が回復し、聖霊さまを通し神様を個人的に知ることによって深められて行きます。神様はすばらしい愛なるお方です。Ⅰコリ13:4-7にある通り、神様を知れば知るほど、神様に夢中になり、安心して喜んでこんな自分でもよければ、と自分を捧げるようになります。

 神様を愛するようになれば、当然、愛する方から影響されていくようになります。自分の罪深い性質は本質的に変わりませんが、妬みも以前よりは少し減り、心が何よりも平安になります。しかしそれら良いところがあったとしても、それらはすべて神様の影響であって、自分のものではありませんので、高ぶったり、誇りすることにはなりません。人は神に栄光を帰し、ますます謙虚になります。“さらに勝る道”とは「神の愛」のことであり、このように神様と交わる恵みのことを意味するのです。

2018年6月17日 (日)

神の国は力にある

1コリント 3章16節                                           

 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

 通読している本日の聖書箇所、正しくは「神の国は言葉にではなく、力にあるのです」です。これは高ぶった者が信仰的な言葉を使って試すので、「力」という実質が言われているのです。荒野の誘惑でも分かるように、サタンは自分の偽りの目的のためにみ言葉ですら引用するのです。その場合、言葉の「力」はまったくないのです

 人間は神を信じる人と、信じない人との二種類に分かれます。信じない人にはこの世と自分が主たる関心なので、世を支配する悪霊の影響下にある人々です。この人々は「自己実現」とかの言葉を使いますが、自分の欲望の奴隷であって、神のされることやクリスチャンを理解することができません。彼らの報いは審きであり、永遠の滅びです。
これら世の人に対し、選ばれた人、神を信じる人がいます。神を信じる人には聖霊が住んでおられます。"あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。"(1コリ3:16)とある通りです。

 しかし自分の中に御霊が住んでおられても、まったく意識に上らないクリスチャンが多くおり、相変わらず自分の人生の主人はやっぱり自分であり続けます。神を主としないその人に神の力は現れません。このクリスチャンのことをパウロは「肉に属するクリスチャン」と言っています。

 御霊に属するクリスチャンは自分に死んで、神に捧げ、しもべとして御霊に聞き従っています。私の経験からは、御霊に属するすべての人は、修行とか善行とか努力で、つまり自分の力でなった人はいないはずです。例外なく神から試練を受け、深い罪に気づかせられ、その罪深さゆえに自分に死んだ人々だと思います。自分に死ななければ新生することは不可能です。神の力が試練を乗り越えさせ、新生させてくださったのです。そして御霊に属する者として、すばらしい祝福を得ました。罪を知らずして、聖霊のバプテスマや新生、献身はあり得ませんし、聞き従いもありません。

 こうして十字架の代価を払って買い取られた者に、自己を誇ることはできません。誇るならただ主を誇ります。そこに賛美が生じます。教会内にあっては、互いに兄弟姉妹として心から愛し合うことができるのは、己に死んで妬みや欲望から解放されているからです。
自分はまだ御霊に属するクリスチャンとなっていないと思われる方、神に熱心に、粘い強く祈り求めてください。神は真実な方であり、あわれみ深く、それはみ心ですから、最善な時に必ず実現させてくださいます。

2018年6月10日 (日)

私たちは主のもの

ローマ 14章7-9節

7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。


7節 「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです」8節 「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」 このみ言葉の理解には意外に章末の23節「しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。」が具体的な参考になります。しかしこれはちょと理解できにくい箇所です。なぜならこれまでパウロは何度も、食べ物に関して汚れているものは何一つないと説いています。それなのに、たとえ疑いがあったとしても、律法に縛られないで食べることがどうして罪になるのでしょうか。
 しかし前後をよく読むならば「食べる」「食べない」はそれぞれ信仰からしていることです。しかしユダヤ人にも関わらず信仰のある真似をして、禁忌食物を食べるであれば、それは律法違反であって、ユダヤ人を躓かせる罪になるのだと注意して言っているのです。

 ここで大切なことは、信仰によって自分に死ぬということです。信仰義認に立った、いわば信仰が強い人、つまりどんな食べ物も食べられる人でも、未だに律法を遵守する同じユダヤ人クリスチャン(弱い人)に対しては、自制してその人と同じようなコーシャ料理を(彼らと同じように)摂るということ、これが自分に死ぬ愛であると教えています。 

 つまりすべては信仰が原則であり、基準ですが、そこに愛という土台があるのです。その意味で「信仰が強い人は弱い人を受け入れる」という教会の在り方をパウロがここで奨めているのです。個人にあっては主のみ心に聞き従うということがポイントになりますが、教会という御体では、弱い人を愛し、自分に死ぬことが在り方のポイントになります。
 
  これを実際に私たちの教会に適用してみますと、たとえば聖書をよく知っている福音派の方が来られても、また心の病の方が来られても、私たちは愛を持ってそのような方に自分に死んで、愛を示していくことが前提です。知識のある福音派の方には、控えめながら聖霊様の具体的な証しをしましょう。また病のある方があなただけでなく、いろんな方に同じ質問を投げかけていたとしても、そうせざるを得ないその方を受け入れ、愛しましょう。その方は見分けができず、大勢の人から同じ結論を聞かないと、納得できないのです。 私たちは愛を示しましょう。それも自分の力に依ってではなく、神様に祈り、神の力である聖霊の力によって成して参りましょう。

2018年6月 3日 (日)

信じる者はみな、神から生まれた

1ヨハネ5章20節  
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
 

 「罪がわかる幸せ」~救われることを願って、親しい友人や親族の前で福音を語りますと、聞く人は三者三様です。熱心に聞いてくれたり、詳しく知ろうとする人はごく少ないのですが、励まされます。次に聞き流すか、聞きたくない人。霊、魂など見えないもの、現世に関係ないものには関心がないのでしょう。最後に嫌がる、または露骨に怒り出す人がいます。自分を正しいと思っているので、救われなければならないこと、悔い改めなければならないことに抵抗を感じます。まして死後の裁きについて聞くことは、見逃せない不愉快なことなのです。
この違いは、自分の心の中を正しく見ているかどうか、つまり罪意識があるかないかによるものでしょう。その結果、頑なさに違いが生じているのです。

 逆に今礼拝している皆さんは、神に愛され、神の子とされている非常に恵まれた方で、我が国の人口の2%しかいない、つまり五百人に一人という超祝福を受けておられる方なのです。クリスチャン二世を除いて、皆さんの共通項はただ一点、罪が分かったという点なのです。なぜなら、罪が分からなければ悔い改めることができません。罪がわからなければ、悔い改めて救い主、私の罪の身代わりに十字架を受けてくださったイエス・キリストを信じる必要は感じません。ですから、信じる前はどう自覚しておられたとしても、呪われ恐れていた自分の罪深さが、大逆転してクリスチャンには大きな祝福となりました。

 ではどうして自分は罪が分かったのでありましょうか。だいたいは以下の部類に当てはまることでしょう。病の癒やしを求めて。不幸や不条理の理由を探して。自分の能力の低さに解決を求めて。心の傷の空白を埋めたい人、あるいは死を直前にして命を考えさせられた人もいることでしょう。そして神を見出された誰もが、上述した解決を求めて行く中で、自分が、自分がという愚かしさ、罪に気づき、悔い改める心が生じた時に、惨めな自分をも愛してくださった神を知った方が多いと私は思うのです。

 自分の不幸が神を信じ、永遠のいのちがあたえられる幸福を導いてくれました。またそのように、私たちクリスチャンは、本能的に神が父であることが分かるのです。なぜなら、私たちは神の子どもだからです。実の子なら、自分に父が居ることを知っており、たとえ会ったことがなかったとしても、父が父であることが分かるのです。               

 みなさん、父なる神を一層信じ、愛しましょう。小さな子どもが、素直にすべてを父の前で話すように、いつでもどんな時でもお祈りしましょう。父もそれを望んでおられます。そしてそれに答えてくださる、生きたお方が私たちの父なのです。

2018年5月27日 (日)

イスラエルの望みのために

使徒28章20節

このようなわけで、私は、あなたがたに会ってお話ししようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです                   

 パウロは「私はイスラエルの望みのために、この鎖に」と言っています。苦難の果てにやっとたどり着いたローマ、その三日後、ユダヤ人の主だった人たちを集めて牢獄の中で言ったのが今日の言葉です。相手はユダヤ人であって、クリスチャンたちではありません。ここに至ってもなお、福音はまずユダヤ人に語られなければならないのです。
 「イスラエルの望み」とは何でしょうか? それはメシア預言のことです。これはメシアニックユダヤ人の方のたとえ話です。ある時、車を運転していた人が異常に気づいて車を止めて調べました。するとタイヤが一つありませんでした。そこで乗っていた人たちは、タイヤを前の方に捜しに行ったというのです。

 だれでも分かることですが、この人たちはタイヤを見つけることができません。タイヤは走ってきた元の道のどこかに落ちているのです。「メシアはまだ来ていない、これから来る」と思っている現在のユダヤ人をうまく言い表しているとは思いませんか。メシアはすでに来ているのです。それはイエス・キリストというお方です。パウロはそれを何とかして同国人に伝えようとしていたのです。

 さて、どうしてユダヤ人は前を捜しに行ったのでしょうか。これは実に不思議な話です。それは後ろを決して見たくないからかも知れません。なにしろ、ガリラヤ人にして大工の子、イエスなる人物をあざ笑い、呪われているとし、むごい十字架にかけて殺したのです。ですからユダヤ人なら後ろを捜してはならないわけです。

  ところでユダヤ人はなぜイエス・キリストを冒涜罪で殺したのでしょうか。それは神は自分たちのものであり、律法を遵守 (じゅんしゅ) し天国切符をゲットしているという高慢さのゆえです。神殿で祈っていたパリサイ人と、悔い改めていた取税人のどちらが義とされたか、イエス様のこのたとえ話が分かり易い話です。罪深い人間が「義」とされる、それが自分の力によって、行いによってできるとするところに傲慢があることに気づけるかどうか、が最大のポイントです。

  人は自分の力でできないことが分かった時、本当に悔い改めます。それだけではダメで、その自分の罪のために身代わりとなった神の愛が絶対必須でした。ですから罪人はイエスをメシアとして信じ、救われました。私たち異邦人が自分の罪を告白し、イエス・キリストを信じるということは、何という祝福でしょうか。

2018年5月20日 (日)

パウロの誓願

使徒18章18節
パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向けて出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは一つの誓願を立てていたので、ケンクレヤで髪をそった。

第二回の伝道旅行で1年半という長い期間コリントに居たパウロは、エルサレムの事情が知らされたのでしょうか、急いでエルサレムに行こうとします。コリントから丘を越えたエーゲ海側の町ケンクレア髪を剃りました。私たち日本人的な感覚では、何らかの願い事が生じて髪を剃って=誓願を立てた、とこの箇所からは受けがちです。実は反対です。聖書【民数6:1-5】によると髪を剃るのは、誓願が終わImg_0848_2ったからです。

さて私は以前からパウロがどんな誓願をしていたのか、かなり気になっておりました。今回の聖書通読で、その一端がわかってきたように思います。パウロは異邦人の使徒とされていますが、実際にはパウロは同胞ユダヤ人が救われることを第一にし、そこが閉ざされると異邦人に行ったのです。福音は先ずユダヤ人に宣べ伝えられなければならなかったのです。パウロは新しい目的地に着くと、真っ先に会堂を捜し、安息日にはその会堂でイエス・キリストこそがメシアであると、いつも命懸けで語りました。

今でもそうですが、ユダヤ人は捕囚以後、
世界各地に住まざるを得なくなりました。当時のローマ帝国内各地には、会堂を中心にしてユダヤ人が共同体を営んでいました。パウロたちも知らない土地でのとっかかりとして、同じ神を信じているユダヤ人の方が伝えやすかったということもあったことでしょう。実際、その結果として当時のクリスチャンのほとんどはユダヤ人だったようです。しかしユダヤ人と異邦人との間には、同じクリスチャンでありながら…パウロがマルコに割礼を受けさせなければならなかったように…非常に大きな壁がありました。

エルサレム会議以降、異邦人はユダヤ教への改宗を意味する割礼を受けなくていいことになりました。ところがこれは、ユダヤ人クリスチャンまで律法から解放されることではありません。特例的に容認されただけなのです。つまり教会内に、安息日の過ごし方、律法に規定された食事など、まったく異なる二つのグループが存在するのです。初期エルサレム教会で、ギリシャ語を使うユダヤ人(つまり外国育ちの同じユダヤ人)のやもめたちがなおざりにされて七人の執事が誕生しましたが、さらにユダヤ人と異邦人となれば、もっと大きな問題が生じたことは間違いありません。これはエルサレム教会だけでなく、すべての教会での一大問題でした。そこでパウロが願ったこととは、ユダヤ人も異邦人も分け隔てなく、共に一つの御体となって教会形成することだったのではないでしょうか。
しかし誓願を立て、コリントに長逗留している間、パウロに聞こえて来たのは願いに逆行するエルサレム教会の律法主義化でした。A.D.50年ごろからイスラエルは、反ローマの民族運動がますます高揚し、66年にはついに戦争が始まります。そのような渦中にあるエルサレム教会は、存続をかけてますます律法に熱心になって(使徒21;20)行った・・・・パウロの願いとかけ離れたものになって行きました。

もはやエルサレム教会にとって、ユダヤ人と異邦人の分け隔てなく信仰義認の福音を語るパウロは、律法をおろそかにさせる、非常に困った人物になっていたのでしょう。神の計画は福音をユダヤ教から別離させ、キリスト教として全世界の民を救うことでした。パウロの誓願を超えて神の計画は大きく、パウロはそれを知って「みこころのままに(参考:使徒18:21、22:14)」と誓願を取り下げた、と理解するのは如何でしょうか。事実、急いで行ったエルサレムにおいてパウロは、その現状を確認したようで、もはや挨拶だけをしてアンテオケに帰るしかなかったのでした。

どんなに祈っても、しばしば自分の心からの願いや祈りが聞かれないことがあります。しかしそれには最善の神の計画があるためなのです。ここでは神を信頼し、委ねていくパウロの信仰を見るのです。

2018年5月13日 (日)

試練とみ言葉

使徒10節13節
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

  本日はⅠコリ10章13節の後半の<脱出の道>を示されました。では試練に、どんな脱出の道があるのでしょうか。

試練はたとえ辛くても、天の喜びです。つぎのみ言葉があります 「もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子(実子)ではありません。(へブル12:8)」 つまり、神の子としてくださっていることの証明なのです。

とは言え、確かにその渦中にある時はこんな余裕はない。私自身にも経験から言っても、鞭打たれているその痛みに「う、うれしいですーっ」とは、言えるものではありません。
脱出の道とは「どうしてこの苦しみが自分に許されて、この終わりがいつ来るか」、という理由がわかり、希望があることです。多くの試練はただ一つのことを目的としています。それは「自分の罪がわかって悔い改める」ことです。深刻な自分の罪がわからなければ、人は心から悔い改めることができません。十字架がまさしく自分の罪のためであったと100%受け取れなければ、十字架の神の愛もわからないし、聞き従ってみこころを行おうとは思わないことでしょう。けれども問題が一つ、理由とかいつまでは神様に聞くしかないことです。ですから熱心に主に期待して祈ってください。神は真実な方ですから、必ず答えてくださいます。

さて昨夜三本松牧師のお父様の話が紹介されました。退職後、野菜作りを始められたお父様は、野菜作りを勉強され、理想的な土作りから毎日の水やりまで、それは丹精込めて育てられたそうです。しかし結果は、虫がつきまとい、根腐れを起こし、収獲しても味がイマイチだったそうです。そこで野菜作りの先輩に教えを請うと、甘やかして大事にし過ぎだったと。そこで肥料は最低限にし、水やりは枯れそうな寸前まで控える。すると野菜は「これじゃいかん」と頑張りだし、虫を寄せ付けず、わずかな水をしっかりと取り込み、せめて子孫だけは残そうと、自分の身を捨てても次代に託すように熟成した実をならせるのだそうです。

人間も同様です。神は私たちの限界をご存知ですから、必ず護ってくださいます。枯れることはありません。私たちを通してすばらしい実をつけさせようと鍛えてくださっているのです。神を信頼しましょう。

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