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リバイバル (終末)

2016年12月11日 (日)

リバイバル

使徒の働き 4章29-30節
29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
30 御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。
 
弟子たちのしるしとわざはすべて、聖霊に満たされて行われました。少々の聖霊ではありません。満杯です。いささかの他の霊、人間的な思いは混じる余地はありませんでした。つまり神が指示され、弟子たちを通して行われたのです。
 
ペンテコステでの三千人の救い・・・教会の発足に次ぐ神の計画とは次なようなものでした。四十過ぎの下半身の障害で立つことができない男が、美しの門に座らせられていました。宮詣での人々から施しを受けるためです。この時代、障害というものに理解も、サポートもない時代でした。まして多くの人からは障害が罪の結果と見られていたのですから、この男のこれまでの人生は苦しみと屈辱の人生であったかも知れません。しかし彼がこの状態からの救いを求めていたのは明白です。
美しの門と言うのは、エルサレム神殿の中の中、異邦人の庭を分けて、神殿を囲む聖域があり、その唯一の入り口です。ここに置いてもらえたと言うことは、神殿に詣でるユダヤ人全員がこの男を知っていたはずだということになります。神は誰もが認めざるを得ない、揺るがぬ証人としてこの人物を選ばれたのです。これはヨハネ9:3「神のわざがこの人に現れるため」のイエスの言葉の実証でもあります。
 
ではその展開を見て行きましょう。使徒3:4からです。少し要約して申します。
ペテロたちが「私たちを見なさい」と言ったので、何かもらえると思って、足が悪いこの男はペテロたちを見上げました。この男はつい最近、都で起こったこと・・・イエスという癒やしと奇蹟の人が十字架上で死んだこと、復活したこと、聖霊降臨があって、三千人という多くの人々がイエスを信じたこと・・・などをかなり知っていたはずです。ですから、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言われた時、彼らが自分の右手を取って立たせよあとしても抵抗するどころか、彼の人生にあり得ない不可能なこと、その手にすがって立とうとしたのです。つまり、信仰を働かせました。
 
私もかつて、車いすに座るようになった母を立たせようとしたことがあります。肉親の情で、元気だった頃の母に戻れるよう、癒しの祈りをしてからのことでした。母もつい、立ってみようとしたのですが、神の言葉があったわけではなかったので、私は重い母の体重を支えながら、全力でいすに戻すしかありませんでした。
 
しかしこのペテロたちの場合は実に明瞭に奇蹟が起こりました。差し出された手に従って立とうとしたこの男は、「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり」とあります。つまり、信じ聞き従った結果、奇蹟が現れたのです。足とくるぶしが強くなったから立てたのではありません。ここが大切です。聞き従った結果、起こったのです。
8節に彼は「おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った」とあります。いくら何でも、これまで立ったことがない者がすぐに躍り上がり、跳ねたりできるでしょうか? あり得ません。これは本当に想像を超えた奇蹟なのです。
 
マタイ21:21やマルコ11:23に「山をも動かす信仰」ということがあります。私はリバイバルの炎が本当に燃えさかる時には、多くのしるしや奇蹟が起こされると信じています。そしてそれはイエス様と使徒の時代の比ではないと思われます。奇蹟を目の当たりにして、多くの日本人は手品だと思ってトリックを懸命に探すことでしょう。何とか合理的に説明できないかと・・・。しかしその努力も空しかった時、この世界では物理や科学では説明できない、自分の考えの範囲を遙かに超えた世界があり、それは霊的な神の、信仰の世界があるということを認めざるを得ない事態に陥るということなのです。
 
ここにおられる神を信じる皆さん、皆さんにはお一人お一人に神の計画があり、神のその時には証人として用いられます。ただし、くれぐれもご注意ください。内住ではなく、聖霊に満たされた上で、神に聞き従うのです。ペテロたちも、そして私たちも、です。
皆さん、聖霊とその満たしを求めましょう。

2016年7月10日 (日)

パトモス主日礼拝

マルコ 11章23節   (東京アンテオケ教会 パウロ秋元牧師) 
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
※ このメッセージはヨハネの洞窟横松林の中で、開かれた主日礼拝の要約です。
 
殉教事件の真相という小冊子を出しましたが、これはフィリピンのトランプと言われるドュトルテ大統領の暴言が、オーストラリアとの国際問題になっているタイミングで主が出されたと言えます。カンボジアの孤児院から9名の孤児が来日できたりするなど、あり得ないことが次々と現実のものになっています。と同時に、非常に先が見えない時代、困難が予測される時代に入ってきました。そのことは皆さんも共感してくださると思います。
 
困難な時代が来た・・・・それは同時にリバイバルの時代が本格化しつつあるということであり、霊的な戦いが許され、主の十字架である私たちはそれを負っていくということでもあります。ただし、神の助けを全面的に受けなければ、それらは到底負うことはできません。ですからこれから私たちが為さなければならない一番の為すべきこと、神の助けを受けるための備えです。
 
先ず・・・・神の言葉の位置づけがリバイバルの働きに非常に大きな影響を与えます。神の言葉を「受けた」と信じなければ、神の力、実質はその人に現れないのです。例えば、ヨハネ3:16での神の愛は、信じ受け入れなければ神の愛はその人に現れません。ロマ10:10「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」のみ言葉を信じなければ、いつまで経っても、その人は罪の意識の中に留まり続け、救われません。この信じ受け入れることは、「すでに受けたと信じる」ことです。受けたと信じる、これが信仰であり、そうすればその通りになるのです。
 
次に、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい」ですが、「何でも」の前に「み心ならば何でも」という条件がつきます。ですからここでも聖書の位置づけが重要なのです。聖書のみ言葉は疑いようもない確実なものです。リバイバルの土台、備えとして、み言葉を確かに「すでに受けたと信じ」ているかどうかが、リバイバルにおける大きな差・・・・用いられるかどうかの差となることでしょう。  (Capha)

2016年1月10日 (日)

あなたの来られる時

マタイ 24章3節

 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 この聖書箇所は数日前の聖書通読箇所ですが、見逃せない重要なところです。それは、黙示録以外で終末に関して最も多くの記述があることや、神であるイエス様ご自身が語られているからです。

 3節で弟子たちが「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」とイエス様に問いました。「あなたの来られる時」とはキリストの地上再臨の「時」であり、それはA.D.(主の年、恵みの年)が終わり、世界の終わりが来ると考えられている「時」のことでした。その前兆(sign)を教えてくださいと請うたのです。イエス様は丁寧に次のような十の前兆を教えてくださいました。それは二千年後の、まさにその時が来ようとしている私たちにもわかるようにです。

①偽キリストの出現。②戦争や戦争の噂。③民族の対立。④飢饉。⑤地震。⑥宗教的な迫害。⑦つまずきや背教が起こる。⑧偽預言や宗教的な混乱。⑨人々の愛が冷める。⑩リバイバルが本格化する。

 しかし、実際に○月○日が再臨の日、とわかることは決してないのです。その「時」を決断されるのは、ただ父なる神だけです。神の右に座しておられるキリストですら知ることはない、と断言されました。逆に再臨の日時を語る者がいたとしら、それは簡単です。100%の確率で偽者だと判ります。

 またキリストが再びこの地上に来られたなら、それは神を信じなかった全世界の人にも一瞬でわかるよう、その有様を教えてくださっています。全世界にラッパが鳴り渡り、天の方から大勢の軍勢と聖徒を引き連れ、キリストが昇天された時と同じように、雲に乗ってオリーブ山に降りて来られる(31節)のです。しかし私たちは、決して、地上にいてそれを見たくはないのです。

 キリストの再臨は何のためでしょうか? 第一に滅亡寸前のエルサレムを囲んでいる世界の軍隊を滅亡させ、サタンに支配されているこれまでの世界を終わらせて、千年王国という新たな世界を造るためです。これにてアブラハム以降キリストまでの二千年間と、キリスト以降二千年続いた恵の時代は終わる事になります。次にご自分を信じる聖徒たち、すでに肉体を失った者も失ってない今生きている者にも(これを携挙と言う)、そのすべてに御霊の体を与え、復活させるためでもあります。実はこの方が先に行われ、神は携挙し復活した聖徒たちを皆引き連れて、天の雲に乗って再び地上に降りて来られるのです。それは誰もが時を知ることがない時であり、突然なのです。

 私たちはそれまで朽ちない栄光の体に変えられるまで、教会の兄弟姉妹を愛し、目を覚まして正しい生活、つまり罪を悔い改め、罪から遠ざかった生活を送っていかなければなりません。

2015年11月29日 (日)

携挙の3条件とその目的

へブル 12章7 マタイ24章25章

12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

聖書に明確に述べられている携挙のことをクリスチャンが知らない、あるいはそのための準備ができていないことになれば、その教会と牧会者の責任が後に神に問われることになるでしょう。終末が確実視されている現代では特にそうです。

 携挙についてあらまし確認します。携挙はこれから来る七年の患難時代の真ん中、第七のラッパが吹き鳴らされた時に起こります。その前哨戦であるリバイバルはすでに始まっており、やがて来る患難時代の大リバイバルは反キリストによる中東和平が成ってから始まります。その患難時代のちょうど真ん中近く、六つ目のラッパによる大きな地震が起こった後、次の七つ目のラッパが吹き鳴らされた時、携挙は起こるのです。
 その瞬間私たちは、生きているまま、即座に御霊の体に変えられ、空中に引き上げられ、そこでイエス・キリスト様にお会いすることになります。しかしたとえフィラデルフィア教会においても全員ではありません。また他の教会においても、少ないなりに携挙される方は携挙されます。引き上げられて大患難から守られる者と、残される者とに分けられるのです。大患難時代については、また次の機会にふれたいと思います。

 では、私たちクリスチャンが携挙されるためにはどうしたらよいのでしょうか? 携挙される三つの条件と言うべきものが、マタイ福音書の24、25章にキリストに三つの喩えを通してキリストが語っています。管理人のたとえでは ①「忠実に御心を行う」、十人の乙女では ②「聖霊の油を切らさない」、タラントのたとえでは ③「聖霊の賜物を用いて使命を全うする」というものです。
 これは個人的な解釈ですが、これら携挙されるための三つの条件の土台には、基本として②のような「聖霊様との深い交わりを第一にした生き方」があると思います。聖霊様との深い交わりを通して神様をよく知るなら、③のようなとんでもない誤解をして大失敗をすることもないでしょう。また必ず深く主を愛するようになりますので、そのうち自分の命や人生など取るに足りないことに気づき、まず第一に主である神の御心、ご計画を行い大切にする者と変えられます。さらに主を信頼する忠実なしもべとなるので、主が賜物を豊かに注いでくださることでしょう。聖霊の深い交わりと主を心から愛することは、すべての携挙の条件をカバーして余りある者とされて行くのです。

 みなさん、日々のデボーションを欠かすと、霊的な飢え渇きを覚えられませんでしょうか。教会にはキリストが満ちていますが、日々のデボーションという主との霊的な交わりを大切にし、生活の中でも主を第一にした歩みをするべきです。

 さてこの携挙から万が一、残されたとしたらどうでしょうか。大患難時代、教会はもはや存在しません。信仰を守れば、殉教必須の時代となります。残された人は神から見放されたのでしょうか。いいえ、そうではないと思います。なぜなら神は愛する子、子どもとして扱っている証拠なのです。父から懲らしめを受けないような子どもはいません。ただ携挙後にその懲らしめが来ただけなのです。また私たち神の子どもとされた者に、耐えられないような試練というものは与えられません(1コリ10:13)。ですからまず神を信頼し、脱出の道を備えてくださっていますのでそれを感謝し、祈り求めるべきです。天地は移り変わっても、神のことばは不変です。大患難時代といえども、私たちは神の国へ凱旋するのは確実なのです。

2015年8月16日 (日)

しるしと不思議

使徒 4章30節
 5月20日にリバイバルが始まりました。私はこの日本という国、この国の民がかたくなにされたのは、イスラエルの民のように、このリバイバルが来る時までだと思っておりました。ではこの日本の民にどのようにしてリバイバルが来るのでしょうか? それは大いなる聖霊の賜物、「しるしと不思議」によってです。

日本は整えられた学校制度と教育熱心な国民性があり、何ごとにも知性と冷静さを重んじ、工夫をしないではおられない国民性でもあります。つまり見えること、実証的なことには関心がありますが、逆に見えないことは容易に信じようとはしません。別の言葉で言い代えると、頭で考える習慣があり、見えることだけを信じ、非宗教的であります。このような民が神を信じるには、一度見える世界、各人の知性の限界を超えた、見えない世界というものを見れば、それがその人の魂へのチャレンジとなります。つまり誰もが認めるしかない神の奇跡によって、日本人の知性を打ち破るのです。さすれば日本人は霊的な存在、(神またはサタン)が本当に存在していることを認めるか、さもなくば、受け入れられないので何とかしてそれが奇跡でない理屈を考えるしかありません。つまり日本の後の雨、リバイバルは、聖霊の賜物が開かれることと大いに関連すると私は示されているのです。

 では「しるし不思議」を聖書で見て参りましょう。使徒の3章2節に「美しの門」の前に、一人の足なえの男が座らせてもらっていました。美しの門とはエルサレムの街に入る七つの門でもなく、また神殿の丘に入る門ではなく、神殿そのものの入り口にあたる門だと言われています。つまり神殿に入るユダヤ人は残らずこの男を見ていると察してもよいのであり、その男が瞬時にイエス・キリストの名によって癒やされたで、何と五千人の人が救われました。これは使徒による伝道史上、最大の成果となりました。

 また弟子たちも、この「しるしと不思議の力」を使徒4章30節にある通り、切に祈り求めています。
「・・・御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした・・・とあります。祈り求めるならば、御心ならば、これは与えられるのです。
そして今が、5月20日以後の今が、まさに、<御心の時>なのです。  

2015年7月19日 (日)

携挙されるための三つのポイント

 黙示録 6章1~2節 
                          (パトモス派遣19日主日礼拝 パウロ秋元牧師メッセージ)
 携挙は黙示録の七年のまん中に起こり、残り三年半の大患難時代に入ろうとする直前の七つ目のラッパが鳴った時(黙11:15ー19)に起こります。これはクリスチャンの最初の裁きでもありますが、次の大患難時代のためにクリスチャンを守る事でもあります。もし残されたとしても、悔い改めた上でのセカンドチャンスがあります。とはいえ、携挙されたいのは、みなさん同じ希望のことと思います。

 それでは携挙されるためにはどうしたらよいのでしょうか。それがマタイ24章から26章に三つのポイントを挙げて述べてあります。ここで前提となること、次に個々人への三つのポイントを挙げることができます。先ず教会ですが、どの教会に属しているのかが重要です。一言で言えば黙示録の七つの教会、携挙されるフィラデルフィア教会に属していることが重要になります。また、そのほかの教会であっても「勝利を得る」少数の人がいます。またフィラデルフィア教会だからと言って、必ずしも全員とは限らないことでしょう。個々人が携挙されるために以下の三点にポイントに注意して行きたいと思います。

 次に祈りも大切です。自分が携挙されるのに「ふさわしくない者」であることを認識し、携挙してもらえるよう神に祈り求めること。また天国に行っても、宝が一つもない人や、火の中をくぐっての人、つまり火傷を負いながら来る人さえいますので、そうはならないように祈ってまいりましょう。次は携挙の3ポイントです。

 一つは神から委ねられたことを忠実に果たしていることです。どんな良いことであっても、神から委ねられていないことをしても意味がありません。ですから自分に何が委ねられているかよく分からない人は、今すべきことをしながら、忍耐して待っていてください。そして神から来た、その時には与えられたその使命を忠実に全うしてください。できないことでも、それは先刻神がご承知なのです。神に頼れば不可能はありません。そういう意味でいわば、できない子ばかりを神様は集めておられるようなところがあります。しかしそれが通常の状態かも知れません。

 次に十人の乙女のたとえ話のように、聖霊に満たされ続けることです。それは御心を行い続けることだと言っても良いでしょう。

 最後の三つ目として、主から与えられた賜物を持ってそれを用いることです。賜物には生来持っていた肉の賜物もあるでしょうし、神に聞き従う時に現される賜物もあることでしょう。この賜物を用いたかどうかが大きなポイントになって行きます。

 以上、携挙されるためのポイントは聖書にはっきりしているのですから、熱心に求め祈って行きましょう。大切なことは今の自分を見ることではなく、神を見、神に祈り求めることなのです。

2014年7月 6日 (日)

第七のラッパが鳴る時

ヨハネの黙示録 11:15−19
 いよいよ現代は黙示録の時代に入口に進みつつあります。どんな本日の題の第七のラッパが、どんなタイミングで鳴るのかについて、図で説明をします。この時、私たちは携挙されるのですから。七つの封印については先週ふれました。巻物の七つの封印すべてが解かれると巻物は開き、次の段階へと終末は進んで行きます。

 第七のラッパがなる前後にサタンは天から落とされ、地上での残り少ない時を知ってサタンが暴れ狂う後半の大患難時代が始まります。つまり七つ目のラッパが鳴るということは、患難時代を二つに分ける大きな節目となります。
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 さてこの時代は信じない者にとっては恐怖と死の裁きの時ですが、信じる者にとっては証と待ち望んだ酬いの時なのです。クリスチャンにとってはなぜそうなのか?それは「肉において死に、神の霊によって生き」ていることが明らかにされる時だからです。カンボジアの首都プノンペンがポルポトによって滅ぼされる直前、大リバイバルが起きました。死よりも価値のある霊の命が注がれたのです。  生は必ず滅びますが、それは永遠の命、肉にまさる霊のいのちを見出だすためにあるのです。命の希望を失ったときこそ、チャンスなのです。同じことが終末の世界を覆う患難時代にも起こるのです。
 聖書に「奥義」ということばが幾度も出てきます。狭義の意味で奥義とは携挙を意味します(黙11:6-7,1コリ15:51−53)。第七のラッパが鳴って、後半の大患難の始まる直前に地上から引き上げられ、空中で主とお会いするクリスチャンがいる一方、地上に残されたクリスチャンがいます。この方たちにとっては、もはや殉教するか棄教するかしか道は残されていないことでしょう。

 この携挙の分岐点は「肉において死んでいたか」です。心の中心に聖霊の主がおられ、聞き従っているクリスチャンにあっては、再び肉において死ぬ必要はないので携挙されます。逆に残されたクリスチャンは、もう一度肉において死ぬチャンス、試しが与えられたと言うことになります。みなさん、これは明白な聖書のメッセージです。アブラハムからヨセフ、モーセ、ダビデに至まで、すべての信仰者は例外なくこの試しを通らされました。ただ肉において死ぬという力は、人間にはありませんから、恐れることなく心からそう願い、祈るということが決定的に重要です。神は私たちのすべてをご存知であり、最前の恵みを与えてくださるのです。これを固く信じること、これをすなわち信仰といいます。終末への備えの土台は、この切なる祈りです。アーメンでしょうか?

2014年6月29日 (日)

白い衣のひとたち

黙示録 7章13~14
 ふつう血で洗えば白くなるどころか、血の色に染まります。ですからこれはヘブル書の12:24に「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」とあるように、耐えられないほどの患難にも戦い通した人々のことです。彼らは殉教こそしませんでしたが、信仰にいのちを懸けた人々なのです。
 むろん殉教者たちにはすでに白い衣が与えられています(黙6:9)。白い衣とは、罪が完全にきよめられ聖とされたことであり、同時にそれは神の国人として認定されていることを示します。今の私たちにとっても目標であり、勝利の栄冠そのものです。  

 さて黙示録には読んでいくための土台があります。恐ろしい天変地異、人類の1/4と1/3、計半分が死んでいくという大いなる審きの時代とは、一般的には恐怖の時代であるからです。しかしこれは審かれる側の場合であって、神を信じる者にとっては待ち焦がれた日、勝利の時であります。ただしクリスチャンであっても、救い、携挙の確信がない場合は不安や恐れを感じることでしょう。揺るぎない信仰、救いの確信があった上での説き明かしが黙示録なのです。

 さて七つの封印が解かれると、最初に白い馬が出てきます。これはイエス・キリストであると言われています。つまりこれはまず結論から説いているようなものであって、この起こっていくあらゆる災いは、キリストの勝利として終わることを告げているわけです。そして赤い馬=戦争、黒い馬=飢饉、青ざめた馬と、あらゆる多くの死が告知されて行くのです。これらは悲惨なことであることは確かですが、人間が高慢に気づき、悔い改め神に救いを求める機会として見るなら、それはすばらしい後の雨、恵みの時ともなります。  

 第五の封印で殉教者たちの叫びと白い衣の賦与があり、第六の封印でヨエル預言の成就である天体を含む天変地異が起こります。これらはおそらく、大リバイバルの時代の背景として起こる事柄だと私は受けとめています。

 やがて第七の封印から七つのラッパが鳴る、さらに非常な困難な時代となっていきます。ここで殉教者だけでなく、「額に神の印を押される」クリスチャンたちや、数え切れぬほどの大勢の群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って御座の前に集まります。これらは確定した神の聖徒たちです。もちろん未だ地上にいる私たちは、この群衆には加わってはおりませんが、携挙の後に共に増し加えられることになるのでしょう。この望みを私は持っているのです。

 殉教者とかこの大勢の群衆にしろ、白い衣を着た人々とは、「大きな患難から抜け出て来た者たち」というのは共通しています。つまり試練困難で己の肉と戦い、「子羊の血」=「キリストの十字架の血潮による罪の赦し」によって罪を完全に捨て、白くされた人々です。それ故今の私たちも、患難なしに白くされることはあり得ません。それがいつなのかはわかりませんが、懲らしめを受けるのは、子とされた印なのです。祝福の患難が来ることを感謝して受けましょう。その先にあるのは携挙という勝利なのです。私たちクリスチャンは第七のラッパが鳴らされたその時、携挙によって主と空中でお会いし、後の迫害からも守られるのです。

2013年7月21日 (日)

どうしたら私たちは携挙されるのでしょうか?

マタイ  24章42-51節

 今私たちが生きているこの時代、聖書の黙示録の時代(艱難時代)を迎える可能性が非常に高くなりました。特に後半の3年半、大患難時代はたいへんな時代です。獣の像を拝まずにその刻印を身に受けない者は、ものを売ることも買うこともできず、殉教しか残された道はないというような時代です。反キリストが直接支配するすさまじい後半の大患難時代を迎えずにすむ、唯一の道として携挙があります。クリスチャンにとって携挙されるかされないかは、極めて切実な問題です。

 この携挙について、教会としては黙示録の七つの教会のうち、フィラデルフィアの教会が携挙される教会であることを学びました。しかしこのフィラデルフィア教会員であっても羊として携挙される者、山羊として携挙されない者が生じます(マタ25:32)。そこで携挙に関しての三つのポイントを学んでまいりましょう。

○忠実なしもべ  まずこの「忠実な賢いしもべ」のたとえですが、主人がいつ帰って来ようと、いつも裏表なく忠実に働いていることだとされています。一言で言えば「自分の考え(「まだ主人は帰って来るはずがない」)ではなく、忠実に指示されたことをし続けて」いかなければならないことを意味しています。

○10人の乙女  このたとえ話での油は聖霊を表しています。「花婿がそんなに遅れて来ることはまずないだろう」と自分の考え・判断を優先した者は油が切れ、宴席(携挙)には与れないというたとえです。私たちは神のしもべ、はしためであり、主の御心に忠実でなければなりません。油の予備を用意していた乙女たちは、どんなに遅くなってでも花婿を迎えることができるよう備えていたのです。単なる忠実さではなく、熱心さと思慮を伴った忠実さにこのたとえでは深まっています。

○タラントのたとえ この最後のたとえには特異な点があります。主人は実際に商売をしたしもべのもうけの額とは関係なく、したことをまったく同じことばでほめたということです。それはタラントの違い=各人に与えられた能力の大小ではなく、それを用いたかどうかに神の目は向いているのです。与えられた賜物(自分の力)の大小や優劣は言い訳になりません。あるものを信仰をもって用いるのです。そうすればさらに増し加えられて行くと、聖書は言っているのです。少ないからと隠しておいたしもべは暗闇の外、つまりサタンの支配する大寒難時代に残されることになりました。

 これら三つのたとえ話は「召されたことを忠実に」「熱心さと思慮をもって忠実に果たし」「自分の能力で判断することなく、結果を考えず主人の指示を忠実にやり遂げる」ということなのです。これが携挙の条件だと聖書は言っているのです。明確なこれらの点を守って確実に携挙されましょう。

2013年7月14日 (日)

パトモス派遣パウロ牧師メッセージ

「神はご自分の計画を前もって語られます」

「あなた方を世界に遣わす」と語られた時、ある者は信じ、ある者は信じませんでした。信じない方が自然だったかも知れません。なぜならその当時、日本には海外宣教している教派教団はほんのわずかでした。その上、発足したばかりの小さな単独教会でしいた。その上英語が堪能な人はほとんどおらず、資金も、海外との関わりもなかったからです。
 語られたことが成就するよう信じた人たちで祈り続けましたが、2、3年全く進展が無く、それが永遠に続く時間のように感じられたものです。しかし時が来た時にそれは成就し、今では日本の中では、もっとも海外宣教を行っている教会になっています。人間的には考えられないことであっても、信じ受け取って行く時、それは神の方法で成就していくのです。

 仙台に蔵本牧師という方がおられますが、「あの大震災で、タンスの上などから何も落ちなかった」と言っておられます。予告されていたので、地震への備えができていたからです。あらかじめ備えるということがいかに大切なことであるかがわかります。私たちが毎年パトモスに来るのは、携挙へ「備える」という意味であり、召しが全うできるよう「用意する」ということなのです。備え、用意を怠って万が一残ってしまえば、その時には殉教しか道がない艱難時代が来るからです。

 さてアメリカでは同性婚を許容しないのは、違法であるとの判決が出たそうです。しかしこの同性愛についてはEUの方がもっと進んでおり、聖職者まで進んでいます。ヨーロッパの街は近代的できれいですが、そこはサタンが住むとんでもない所になりつつあるのです。ヒットラーどころではない、恐るべき独裁者反キリストが登場する土壌ができつつあるのです。
 惑わしがおこり、あのケネディのように彼は清々しく登場してくることでしょう。中東和平を実現したりする時代のヒーローになりますが、クリスチャンを迫害します。三人の者を打ち倒し、暗殺されても奇跡的によみがえります。そして後半の大艱難期には聖徒に打ち勝つと言われますので、獣の印を拒むクリスチャンを皆殺しにすることでしょう。これには、浦上四番崩れの、高木清右衛門のように祈って備えることなのです。
 神があらかじめご自分の計画を語られるのは、私たちの守りのためであり、ただ指示されただけのことをするのだけでなく、私たちが自らの意思で神の計画を果たして行く時、神のご計画はさらに進展し、完全に成就していくのです。
  Capha