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リバイバル (終末)

2024年2月11日 (日)

世界の終わり

黙示録 13章5節   2017新改訳

この獣には、大言壮語して冒?のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。

 聖書には1500箇所以上の終末時のメシア再臨預言があります。そして現在はかつては絶対不可能だとされていた、イスラエルの復興後すでに七十年が経っています。現在ではあり得ないと見られていた北のマゴクことロシアが、イスラエルに南下する道も開かれています。しかもハマスとの戦いで現在のイスラエルは、世界の多くの国から非難を浴びており、これも預言通りイスラエルが憎まれる構図になっています。これでエゼキエル書やダニエル署に書かれた終末のお膳立てが、まさに整ったというしかありません。
 コロナという疫病や頻発する地震、ウクライナ戦争から引き起こされた食糧難と近年の異常気象、物価高など、世の終わりが近づく不安は高まっています。しかし人々は不安を感じても、できるだけ死を考えないようにするのと同じで、見て見ぬふりをして避けています。しかし必ずそれは近い将来、外れたことのない聖書が預言した世界の終わり、終末は必ず来るのです。

 また個人的な実感ですが、教育の仕事に携わって感じることですが、急速なデジタル化によっても人間関係や思考力、忍耐力が低下しています。ぱっと判断して「できない」と一瞬で問題を投げ出すとか、他者を思いやることが乏しくなっています。その場限りの軽薄な判断や思慮の浅い行動を取り、互いに自制ができなくなっての混乱が大きくなって行くことでしょう。また日本でも進行している貧富の差が拡大し、先が見えなくなっています。こうして今後、首魁が不安定になり、愛が冷めて行くことでしょう。第一次大戦で敗北したドイツではヒットラーが民主的に選ばれたように、反キリストを生む舞台装置は整っています。

 本日の黙示録にありますように、七年間の患難時代の中、後半の3年半は完全に反キリストと呼ばれるサタンが世界を支配する時代になります。しかしクリスチャンにはその直前に空中携挙があって、完全に守られます。しかし携挙に残された自称クリスチャンにも、後半の時代に殉教というチャンスが残されています。この患難時代こそ、産みの苦しみの時代であり、クリスチャンにとって天への希望の時代です。
 本日は「世界の終わり」と題して、このような時代に私たちはどう対処して行くかを行くかを宣べたいと思います。皆さん、歴史上多くの戦いで証明されたことがあります。それは常日頃から備えをしていた側が勝つという原則です。宗教改革者のルターは「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日、りんごの苗を植える」と言う言葉を残しています。
 ルターは、今過ごす一日一日が、自分にとってかけがえのない備えの時であることを言っています。彼のように私たちも、普段の日常生活そのものが天国への備えの日々にして行かなければなりません。毎日を「その日に備える」。そうして救い主がいつ来られても良いよう待ちつつ、日々を過ごして参りましょう。その日を勝利の歓喜をもって迎えるためです。

2023年7月 9日 (日)

備える信仰

Ⅱテサロニケ 2章3節  2017新改訳

どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。
マタイ 24章13節 (補足) しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。

いきなりですが皆さん、「患難時代への信仰の備え」できていますか? 

 これまで「黙示録」「ダニエル70週の預言」などを学んできましたが、その中で大いに気になることがあります。それはみなさん、と言っては失礼になる方もいらっしゃるでしょうが、ご容赦願います。
 杞憂に終わる心配ですが、知識としてどんなに学ばれても、単に知識や教養だけに終わっていては、いざその時が迫って来てからでは遅すぎると言えましょう。
 マタイの24章48節以降では、悪いしもべとして、次のように述べられています。「しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです」

 ですから今自分が「主の日は当分来ない」と思って、その備えを怠るなら、その日には「泣いて歯ぎしりする」ことになりかねません。「これは大変だ。このままではいけない」と危機意識というか、悔い改めてやがて来る次の時代に備えようとする心構えが大切なのです。もっと言えば、これは2000年前の使徒の時代から、私たちが常にアイデンティティーとして持ち続けなければならないことだと言えましょう。日本の有名な格言で、<泥棒を捕らえて縄をなう>ように、間に合わないのです。
 私たちの目は常に天を仰いでいます。「主の日は当分来ないだろう」と勝手に決められるのはそれぞれの判断ですが、聖書はそのような事を言ってはいません。いつ主が来られても良いように、しもべとして与えられたタラントを用いて行くのです。勿論人によってはたった1タラントの人もいるでしょう。しかし1タラントでも、その1タラントを恐れずに用いて行くことで、10タラントの人と全く同じおほめにあずかるのです。
 特に今の時代、ロシアがウクライナにする野蛮な戦争をし、地球規模で疫病や温暖化など気候変動が起こり、これらは時が近づいている兆候は確実です。礼拝、証、献金などの基本的なことはもとより、対抗心や自尊心を廃し、いつもこころに主に感謝する喜びの表情でおられることが大切です。

 

 

 

 

2022年7月17日 (日)

私の名を名乗る者

ルカ 21章8節  2017新改訳

イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。

 弟子たちは終末のしるしをイエス様に聞きましたが、兆候は21章で語られた通りです。しかしその時がいつなのか、日時を決めるような決定的なことは天使たちも、主ご自身でさえも知らないと語られているのです。
 さて終末が近づくと戦争や社会不安、飢饉や疫病、天変地異などが起こり、これらに乗じてキリスト教の異端が勢いを増してきます。主が語られたように、偽キリストが現れてくるのです。本日は安倍元総理が暗殺されて一週間余り、この歴史的事件の背景、旧統一原理との関わりが徐々に明らかになってきました。この国では私たちも一括りにキリスト教として同一視されかねません。きちんとした把握と対応をしておく必要を迫られてのメッセージいたします。

 事件の詳しい背景を省きますが、要するに容疑者の母親を狂わせた旧統一原理への恨みが暗殺の原因でした。この教団に関しては四、五十年前から国会でも問題になっており、韓国のこの教団は、特に日本を韓国本部への貢物の国として信者から資金を吸い上げる役割を持たせています。すべてのお金を献金するだけでなく、借金までして、当然自己破産までして献金することが多いのです。そのために山上容疑者の家族は経済が困窮し、教団に恨みを持ち、それを晴らすため、わずかな接点でしかなかった安倍元総理を殺害する意図を持ったのでした。

 このカルト教団は名前を変え、勧誘に際しても正体を隠して行い、現在まで生き残っていたことも驚きですが、私たちにおける「十分の一献金」や「すべてを捧げる」、あるいは霊の戦いなどの「霊的対応」など、聖書もキリスト教も知らない一般の人から見たら、たぶんに「どこが違うの?」と誤解されることでしょう。もちろん全然異なるのですが、そのことを詳しく説明しても、私の体験では納得していただくことは困難です。
 なぜなら信仰は信じることから始まりますので、信じていない人にとって、言えば言うほど自己弁解に聞こえてしまうようです。本物を知らない人が、本物を見分けることは困難なのです。

 ではどうすれば良いのか?それは私たち真の信者が<実>を実らせたキリストの証人としての使命を果たすことです。元々私たちは救われるべき何らかの価値を有し、優れて力があり、見分ける目があったので、クリスチャンになったのではありません。そうではなく「世界の基が据えられる前からー中略ーみこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:4)のですから、私たちの内に住まわれる聖霊様の力と恵が流されるよう無私になって聞き従い、聖霊様の愛と真心、謙遜による実を豊かに証して行くことしか希望はないのです。
どうかそのことを祈り、求めてまいりましょう。これは御心ですから、祈りは必ず成就するのです。

2022年4月24日 (日)

新たな迫害が始まる

ルカ 21章12~19節     2017新改訳

また、わたしの名のために、すべての人に憎まれます。

 この度のウクライナ戦争で、次第にはっきりしてきたことがあります。それは思わぬ方向からのことです。現在二ヶ月になっているウクライナ戦争は、ヨーロッパの東欧の出来事であって、極東に住んでいる私たちが身近に感じることはないはずです。が、現実はそうではありません。連日TVやYouTube、Facebookなどを通して、我々日本人の関心が非常に高いのです。日本も西欧民主主義諸国と同じ一員であり、強い絆があるようです。ロシアとも国境を接しています。ウクライナもそのように見なし、ゼレンスキー大統領も日本の国会議員に向けて演説さえしました。

 このような中、多くの日本人がウクライナを何とか支援したいと思っており、私たちのような小さな群れでも、ウクライナへの献金を集めると、たちまち160万を上回る金額が集まるほどでした。そしてそのような関心は、咋今ではロシアのプーチン大統領を支える背後に目が行き始めることで、クローズアップされてきたことがあるのです。
 それはプーチン大統領の精神的盟友だとされるロシア正教のキリル総主教の存在です。BS-TBSでは「侵攻と信仰のただならぬ仲」と題して1時間以上の特集番組さえ組みました。彼はウクライナを攻撃するプーチンとその軍を信仰的に正当化し、鼓舞までしているのです。
 一般の人々にとって、キリスト教徒同士が殺し合うことや、それを推奨するキリスト教指導者って、当然人々は疑問を持ち、恐ろしいと思うようになります。それがクリスチャンへの否定的見方となって来ているのでしょう、すでに私の職場やテニス仲間から疑問を呈されたり、職場帰りの伝道師へのしつこい攻撃となって、現実化しています。おそらくロシアの蛮行に日本人が感じる義憤が、たまたま怒りに近い感情となって、このような形で私たちに向かってきたと私は見ています。
 このような近づいてきた終末の時代、私たちはどのように対処していけば良いのでしょうか。「あれは宗派が違う」とか「キリスト教の本質からキリルは逸脱している」と弁明しても、それは非キリスト教国のこの国では通じない話です。そうではなく、私たちクリスチャンもロシアが国際的な制裁を受けるのは当然だと思っていること、ウクライナの人々の願いと痛みを我がこととして感じ、心を一つにして祈っていること、その支援にも実際取り組んでいることなどを語るべきでしょう。

 そして終末の時代、必ずクリスチャンへの迫害が起こってくると聖書にありますので、どのような状況が許されようとしても、私たちの信仰がサタンに奪われたり、迫害(岩地)のために枯れたり、世の誘惑につまづくことのないように祈りを強め、備えて行かなければなりません。次のみ言葉、
わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタ5:44」
と主がお命じなったように、自身の弱さを覚え、神の愛を証する者として祈り求めて行きましょう。

2022年3月27日 (日)

目を覚ましていなさい

マルコ 13章37節   2017新改訳

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。

 この度のウクライナへのロシアの侵攻は、次の二つのことを読み取ることができます。一つにはロシアの本質です。終わりの時代になると、エゼキエル書の38章に、イスラエルの北の果て、ゴグが他の国々とともに攻めてくると預言されています。ゴグとはイスラエルの真北にあるロシアのことです。今回そのロシアの残虐さが明らかになったわけですが,一方、国連でロシアへの非難決議の採択があり、世界の圧倒的多数の賛成がありました。しかしこれに反対もしくは棄権した国々、つまりロシアの友好国とでも言える国々が少数でもありました。そしてその国々を見ると、何とロシアからイスラエルまで、陸路で行けるのです。また一歩、預言が成就する背景が整ったのです。
次にこのロシアの暴挙に対して、西側世界が強い団結を示したことです。特に陸続きのEUにそれが顕著で、早晩NATOの一翼を担うEU軍を作ろうとするのではないでしょうか?そうなれば、終わりの時代になって登場するかつてのローマ帝国の再来となり,反キリストが登場する舞台が出来上がって行くことになります。これが第二の重要な事になります。

このように終わりの日が近づいて来ているのを見ると、私は高木仙右衛門のことを思い出すのです。村の有力な中心人物達は、迫害に転ぶことはないと自信を持っていましが、彼は自分の体が病弱なことを知り、転ばないよう主に祈り続けていました。結果的には、仙右衛門だけが転ばずに済んだのです。

私たちは自分の弱さを知り、サタンの策略に揺り動かされないようにしなければなりません。また、神に聞き従う者は,圧倒的な勝利者になることが約束されているのです。
そのためには、終わりの時代の備えとして、神に祈り、交わり続け、神からの守りがあることと、最後まで耐えられる力を受け続けて行かなければなりません。そしてそれは、終わりの時代になってからでは遅いのです。したがって
「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。(ヘブル人への手紙 3章13節)が特に必要なのです。

それが本日の主題
わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。(マルコの福音書 13章37節)の答えとなるでしょう。

2022年3月23日 (水)

目を覚ましていること

・・・3月23日水曜礼拝メッセージ要旨です・・・
マルコ 13章37節   2017新改訳 

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。

 本日のメッセージは「目を覚ましていること」です。終末は遠い先のことだと思っていましたが、今回のことでゴグの動きとその野望が明らかになり、非常に現実化してきました。生きている間には来ないのでは無いかと思われる方が多いと思いますが、どうもそうではないようです。
 そこで本日は終末の時代はイエス様が特に言っておられたこと、「目を覚ます」とはどういうことかをお伝えしたいと思います。まず第一にそれは、<突然来る>ということが特徴であるということです。なにしろそれがいつかは、イエス様だって知らない(マタイ24:36)とおっしゃっているのです。まして私たちのような人間に過ぎない者がわかるわけはありません。ですからそんな日時のことを言っていたり、恐れている人は皆、御心に背く人たちです。

 ではどうしたら良いのでしょうか。普段通りで良いのです。ただし、心配ばかりし、ふわふわ落ち着かないので仕事が手につかない、のではなく、「忠実で賢い管理人(ルカ12:36)」のように、帰って来られた主人にその働きぶりを見ていただくことです。忠実にとは、いつ帰って来られても良いように、主をお迎えできる態勢をとっているということです。
 ではそれは今の私たちに当てはめるなら、「忠実に」とは具体的にどういうことでしょうか。社会での仕事も勿論、きちんと果たすということですが、信仰的には次のような意味になるのではないでしょうか。

 つまり、疫病(今がそうですが)や戦争(ウクライナ)の話を聞いても、また飢饉(資源の問題や気候変動で必ず来ます)や地震などの自然災害に遭って、私たちのこの社会に生活に未曾有の混乱が起こることでしょう。また偽預言者が私たちを惑わそうとし、人々の愛が冷え、クリスチャンが迫害されるようになりますが、どんな時代が来ようと動揺せず、ただ天に向けて祈り、聖書と聖霊に忠実に従い続けることです。聖書の言葉以外を信じてはいけません。聖書に書いていないことであれば、確かな示し、語りかけがあるまであきらめず祈ってください。示しがないのに自分の願うことを肉的に「受け取った」として罪を犯さないようにしましょう。たとえ辛く従いにくいことでも、確かに示されたことには、従いきりましょう。
 そのために一層信仰を求め、信仰に励みましょう。危機にあればこそ、聖霊の主が頼りあることは確かなことです。そのためには皆さんの血肉の命を神に捧げ、全てを神に委ねる者となっておきましょう。終末の最大の備え、それは聖霊の油注ぎを受ける、受け続けることです。



 

2021年6月13日 (日)

終末の教会

✝ テサロニケⅡ 2章3節  2017新改訳

どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。

終末の教会の特徴の一つとして、不法の者、滅びの子が教会内に現れて来ることです。しかしそれはキリストの再臨前、大患難時代のことだと書かれています。惑わしの霊がしるしと不思議伴ってクリスチャンを誘惑するのです。その時不法の者は<しるしや不思議を用いる>ますので、虹とか癒やしを見てすぐに「神様の確認だ」とするお方は注意が必要です。

 さらに最悪なのは、惑わされた人たちはそのことに気づかず、ますます熱心に迫害することです。安息日の癒やしを律法違反だと断罪し、イエス様を十字架に架けようと執念を燃やしたパリサイ人のようになることです。彼らは真理に覆いがかけられ、目と耳が塞がれて罪を犯し続け、滅びに道連れにされてしまうのです。気がついてみると、取り返しがつかない真逆の世界にいることになります。

 さて注意すべきは7節の「不法の秘密はすでに働いています」という言葉でしょう。これは使徒の時代から現在に至るまで、すでに教会に働いていると言うことになります。その最たるものは何でしょうか。「背教」ということばが使われていますが、ここで言う背教とは具体的には何でしょうか。勿論教えに背くことですが、直接的な意味は偶像崇拝であると私は思っています。十戒の主要な戒めは「神が唯一の存在であること、偶像を造ることや崇拝することを禁じる」ものです。聖書での最も重要な教えは、イエス様も追認された「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして主なるあなたの神を愛する」ことなのです。先ず神であって、それが人であってはならないのです。しかし口先ではともかく、真に聖霊を受けず、神を知らない人は、眼前の権威ある人間に従うことしかできません。それは本物のお札に触ったことが無ければ偽札を見抜け無いのと同様です。

 この不法な者は4節では自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言するとあります。これこそ不法の秘密が働いている事柄であって、実際、聖霊の賜物によって神に用いられている器は、それが自分の力ではなく、神の力であることを骨身に知らされていますから、神のわざを現せば現すほど、ますます神を畏れかしこみ謙遜になるのです。つまり真逆の結果になるのが本当です。私たちはサタンの惑わしを聖書と聖霊によって見分けて行かなければなりません。ただしパリサイ人は覆いがかけられてはいましたが、誰よりも聖書をよく知っていた人々でした。聖書理解ももその決め手になるのはここにおいても、真の信者として聖霊の満たしを受け、主を主として真に従っているかどうかなのです。祈りましょう、肉なる自分が砕かれ、神のあわれみによって子とされ、聖霊によって主と交われる者とされますように。

2020年12月13日 (日)

エクソダス

使徒 7章 25節    2017新改訳

モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。

 エクソダス(Exodus)とは移民など大勢の人々の出国、脱出を意味します。そしてこれは出エジプト記、イスラエル民族のエジプト脱出の意味でもあります。

 モーセは40歳の時、自民族、同胞を顧みる心が起こり、自分の民族、イスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見て、その人をかばいついでにそのエジプト人を殺してしまいました。モーセにしてみれば良いことをしたつもりでしたし、これを機に王族である自分を通し、イスラエル人が救われれば…と思っていたようでした。ところが意に反し、イスラエル人はモーセをまったく受け入れませんでした。それどころか自分たちに非が及ばぬよう訴え出た形跡があります。
 これではモーセは即刻、エジプトの勢力圏外、辺境のミディアンの地にまで逃亡するしかありませんでした。王の娘の子という王族の華麗な立場から、雇われ羊飼いという最も最下層に落ち、その人生をそれまでと同じ40年かけて送ったのでした。今では80歳という老境に達し、若気の過ちと言うか、過去の良かれと思っての自分の肉的な思いで行動した酬いは十分に受け、骨身に浸みたことでありましょう。
 過去はともかく、そんな羊飼いで終わる人生のはずでしたが、燃える柴を通して一大転機が訪れました。神はここまで砕かれ尽くした人物を通してでなければ、エクソダスという偉大な奇蹟を行おうとされなかったのです。万が一にも神の栄光を奪い、聞き従いに肉が混じってはならないのです。
 今日、covit-19などより困難な時代が始まりつつあります。リバイバルなどを通し、世界中のクリスチャンの天国へのエクソダス(大出国)が始まろうとしています。我が国はキリスト教国になったことがありませんので、終末いきなり大規模な救いが起こり、それが即エクソダスへとつながって行くように私は示されています。

その中で大切なことは多くの試練を経てのモーセのような砕き、燃える柴のような召命、福音宣教に伴うしるしと不思議による確かな裏付け、この3拍子になるはずです。全知全能の神に、我が国同胞の救いを熱心に祈り、少しでもエクソダスの輪が大きなものとなるよう、祈り求めていきましょう。

2016年12月11日 (日)

リバイバル

使徒の働き 4章29-30節
29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
30 御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。
 
弟子たちのしるしとわざはすべて、聖霊に満たされて行われました。少々の聖霊ではありません。満杯です。いささかの他の霊、人間的な思いは混じる余地はありませんでした。つまり神が指示され、弟子たちを通して行われたのです。
 
ペンテコステでの三千人の救い・・・教会の発足に次ぐ神の計画とは次なようなものでした。四十過ぎの下半身の障害で立つことができない男が、美しの門に座らせられていました。宮詣での人々から施しを受けるためです。この時代、障害というものに理解も、サポートもない時代でした。まして多くの人からは障害が罪の結果と見られていたのですから、この男のこれまでの人生は苦しみと屈辱の人生であったかも知れません。しかし彼がこの状態からの救いを求めていたのは明白です。
美しの門と言うのは、エルサレム神殿の中の中、異邦人の庭を分けて、神殿を囲む聖域があり、その唯一の入り口です。ここに置いてもらえたと言うことは、神殿に詣でるユダヤ人全員がこの男を知っていたはずだということになります。神は誰もが認めざるを得ない、揺るがぬ証人としてこの人物を選ばれたのです。これはヨハネ9:3「神のわざがこの人に現れるため」のイエスの言葉の実証でもあります。
 
ではその展開を見て行きましょう。使徒3:4からです。少し要約して申します。
ペテロたちが「私たちを見なさい」と言ったので、何かもらえると思って、足が悪いこの男はペテロたちを見上げました。この男はつい最近、都で起こったこと・・・イエスという癒やしと奇蹟の人が十字架上で死んだこと、復活したこと、聖霊降臨があって、三千人という多くの人々がイエスを信じたこと・・・などをかなり知っていたはずです。ですから、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言われた時、彼らが自分の右手を取って立たせよあとしても抵抗するどころか、彼の人生にあり得ない不可能なこと、その手にすがって立とうとしたのです。つまり、信仰を働かせました。
 
私もかつて、車いすに座るようになった母を立たせようとしたことがあります。肉親の情で、元気だった頃の母に戻れるよう、癒しの祈りをしてからのことでした。母もつい、立ってみようとしたのですが、神の言葉があったわけではなかったので、私は重い母の体重を支えながら、全力でいすに戻すしかありませんでした。
 
しかしこのペテロたちの場合は実に明瞭に奇蹟が起こりました。差し出された手に従って立とうとしたこの男は、「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり」とあります。つまり、信じ聞き従った結果、奇蹟が現れたのです。足とくるぶしが強くなったから立てたのではありません。ここが大切です。聞き従った結果、起こったのです。
8節に彼は「おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った」とあります。いくら何でも、これまで立ったことがない者がすぐに躍り上がり、跳ねたりできるでしょうか? あり得ません。これは本当に想像を超えた奇蹟なのです。
 
マタイ21:21やマルコ11:23に「山をも動かす信仰」ということがあります。私はリバイバルの炎が本当に燃えさかる時には、多くのしるしや奇蹟が起こされると信じています。そしてそれはイエス様と使徒の時代の比ではないと思われます。奇蹟を目の当たりにして、多くの日本人は手品だと思ってトリックを懸命に探すことでしょう。何とか合理的に説明できないかと・・・。しかしその努力も空しかった時、この世界では物理や科学では説明できない、自分の考えの範囲を遙かに超えた世界があり、それは霊的な神の、信仰の世界があるということを認めざるを得ない事態に陥るということなのです。
 
ここにおられる神を信じる皆さん、皆さんにはお一人お一人に神の計画があり、神のその時には証人として用いられます。ただし、くれぐれもご注意ください。内住ではなく、聖霊に満たされた上で、神に聞き従うのです。ペテロたちも、そして私たちも、です。
皆さん、聖霊とその満たしを求めましょう。

2016年7月10日 (日)

パトモス主日礼拝

マルコ 11章23節   (東京アンテオケ教会 パウロ秋元牧師) 
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
※ このメッセージはヨハネの洞窟横松林の中で、開かれた主日礼拝の要約です。
 
殉教事件の真相という小冊子を出しましたが、これはフィリピンのトランプと言われるドュトルテ大統領の暴言が、オーストラリアとの国際問題になっているタイミングで主が出されたと言えます。カンボジアの孤児院から9名の孤児が来日できたりするなど、あり得ないことが次々と現実のものになっています。と同時に、非常に先が見えない時代、困難が予測される時代に入ってきました。そのことは皆さんも共感してくださると思います。
 
困難な時代が来た・・・・それは同時にリバイバルの時代が本格化しつつあるということであり、霊的な戦いが許され、主の十字架である私たちはそれを負っていくということでもあります。ただし、神の助けを全面的に受けなければ、それらは到底負うことはできません。ですからこれから私たちが為さなければならない一番の為すべきこと、神の助けを受けるための備えです。
 
先ず・・・・神の言葉の位置づけがリバイバルの働きに非常に大きな影響を与えます。神の言葉を「受けた」と信じなければ、神の力、実質はその人に現れないのです。例えば、ヨハネ3:16での神の愛は、信じ受け入れなければ神の愛はその人に現れません。ロマ10:10「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」のみ言葉を信じなければ、いつまで経っても、その人は罪の意識の中に留まり続け、救われません。この信じ受け入れることは、「すでに受けたと信じる」ことです。受けたと信じる、これが信仰であり、そうすればその通りになるのです。
 
次に、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい」ですが、「何でも」の前に「み心ならば何でも」という条件がつきます。ですからここでも聖書の位置づけが重要なのです。聖書のみ言葉は疑いようもない確実なものです。リバイバルの土台、備えとして、み言葉を確かに「すでに受けたと信じ」ているかどうかが、リバイバルにおける大きな差・・・・用いられるかどうかの差となることでしょう。  (Capha)