栄光を私たちの神にささげよ
† 申命記 3章23節
ガリラヤ湖での11月4日の聖日新年礼拝、その場で直接この年間聖句を聞き
、その後の夜聖会の都度、言わんとされることが明瞭となって来ました。ですから「栄光を神に帰す」、この聖句の意図するものを私なりに取り次がせていただきます。

62名の奇跡(※1)は、これを明らかな神の奇跡として認識するか、はたまた単なる偶然の所産だと見るかで、大きく変わって来ます。奇跡としてなら「栄光を神に帰す」ことができます。逆に「神はスバラシイことをしてくださった」と神に帰さないのであれば、今後この群れに神の業、栄光は乏しくなって来るのです。重要なのは「心から認識する」ことであり⇒「言い表し、伝え証する」こと、これが年間聖句の意図するものです。
「神に栄光を帰す」とこのことを語ったのは、モーセです。そして他ならぬモーセが、このことを身に沁みて味わさせられた本人でした。奴隷にしてかたくなな民、彼らイスラエルは不信の民で、約束の地に入るのにはふさわしくありませんでした。その民と神との間に立ってモーセはどれほど苦労したことでしょう。そして唯の一度でしたが、メリバの水のことで神に栄光を帰さなかったからなのです。
そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。(民20:10-11)
これまで私は、モーセが約束の地であるカナンに入れなかったのは、不遜にも「岩を」一度で良いいはずのものを「二度打っ」た不信のためだと解釈していました。しかし今回示されたのは、二度打つこと以上に神に咎められたのは13節にある通り、神である主に対し「わたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった」ことなのです。すなわちモーセとアロンが水を出す行為を【主がなさった】と言い表さなければならないところを『私たちが』としてしまったからなのです。これには愕然とする思いでした。
みなさん、神に栄光を帰しましょう。これからモーセが神に仕えた如く、私たちも神に用いられ、リバイバルの器となっていきます。どのような状況に陥ろうとも、神に栄光を帰すべきものの、たとえホンの一部でも帰すべきものを帰さないことが、決してあってはならないのです。先ず認識し、100%神に栄光を帰せるよう言い表して行くことを肝に銘じましょう。人間の力で無く、神にそう祈って神の力によって為していきましょう。
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