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2012年12月

2012年12月30日 (日)

みこころ第一

マタイ 6章33節
 昨日、秋元牧師から「召し」について語ってくださいました。私は十代の頃、初めての教会が日本基督教団で、それから色々行きましたが、確かにこれら福音派と呼ばれる教会には水戸黄門のあの印籠がありました。特伝をする、神学生を送る、新たな教会をつくる、宣教師を派遣する。あらゆる教会の召しにあの印籠「予算」という裏付けが必要でした。新教会設立には、会堂にする土地代、建築費など億単位の予算を計上したものです。しかし、神の計画と言いながら本当に「金、カネ、これでいいのか?」と次第に疑問を持つようになったことを思い出します。
 私たちの主の十字架は、このような裏付け万能の対極にあると言っていいでしょう。ただ神の言葉だけがあり、それに従っているのです。この船橋キリスト教会も「信徒ゼロからの開拓です」と告げられ、ただ神の導きにだけが頼りで私たちは来たのです。
 さてこの両者、どちらが正しいでしょうか?判断を聖書に求めましょう。するとキリストご自身が12弟子を、アンテオケ教会がパウロとバルナバを派遣した実際をみますと、これは主の十字架的であることが分かります。伝道や教会は世的なものによってではなく、神のご計画、御心によって立つのです。
 しかしあえて一言付け加えますと、そこに「神の時」があるのです。主が私をこの群れに導かれたのは乳飲み子を抱えた時でもなければ、子どもに教育費がかかる時でもありません。またそんな時に主の十字架に召しを受け、立てられたとしても、果たして従うことができただろうか、大いに疑問です。神は実に計画的に、着実に段階を追ってご計画を進められます。はっきりしていることは、神の為されることは時にかなって美しく、最善であることです。
 ですからみなさん、まず神の国と神の義を求めましょう。そうするならば最善しかお出来にならない神は、あとの者はすべて添えて与えてくださるのです。教会の召しは召しとして、その成就に時があります。自分は伝道者に、宣教師への召しがあるからといって、まだ何も状況は変わっていないと焦る必要はありません。確かに教会の召しは決定的なものですが、その召してくだった神を信頼し、神に時を委ねることは、忍耐の試される時であり、大きく神の計画が進む土台です。神は必ず成就してくださることを信じ、召しの時がなるのを待ち続ける信仰こそ、私たちの願いであり祈りの中心です。

2012年12月23日 (日)

With all Your

申命記 6章4ー5節
示される御言葉というものがあります。ある夜、就寝前にふと手に取りました英語聖書でDeuteronomyという巻名が目に入りました。「はてこれは、何だろう?」と思いましたら、申命記でした。申命記ときたら、6章を開きますよね。
するとこの、"Israel,remenmber this! The Lord--and the Lord alone--is our God.Love the Lord your God with all your heart, with all your soul, and all your strengh.(4-5)です。言葉の持つ力が、その時強く心に迫ってきました。これは日本語では「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という聞き慣れた言葉ですが、「・・・・を尽くし」では、インパクトに欠けるのです。唯一というaloneでもわかるわけですが、英語は聖書の言語表現に深く根ざしている言語であり、コイネー(古代ギリシャ語)を読めない者にとっては、原典理解の一助なのです。
 ここで言う、「with all your heart」は「あなたのハートの全部」、「with all your soul」は「あなたの滅ばない霊魂の全部」、「withy all your strength」は「あなたの体の力の全部」という意味です。自分のあらゆるもの全部をもって神を愛しなさい、そういうことになります。
 これはもう、この世での何ものよりも、自分の命よりも愛するということになるのです。それほどまでに神を愛することが、自分にはたしてできているだろうか?という疑問が湧き上がってくることでしょう。そうです、それは、そうしたいけど、現実は難しいのです。
 そのような私たちのためにキリストが十字架あるのです。弱い私たちのために、神ご自身が卑しい肉となってくださり、弱さを担ってくださって、神の右に座して私たちを執りなし、思いやってくださるのです。自分が十字架によって死に、もはや生きているのは神のためと言う、この愛に応える生まれ変わりが可能にするのです。私たちにはできなくとも、神にはできるのです。ハレルヤ!

2012年12月16日 (日)

自分の十字架

マルコ 8章34節
 社会的に成功した男の話ですが、武士の家系で帝大を出て、外地でエリートとなった人がおりました。ところが生まれたばかりの子どもを残して、奥さんが帰らぬ人となりました。彼は早速内地に帰り、嫁探しをした結果、「お姫様」と呼ばれる美しい女性を迎えることができました。
 戦後何もかも失って引き上げてきましたが、才能ある彼は事業を興して成功し、前以上の財を築きました。順風満帆のように見える彼の人生でしたが、一つだけ大きな問題がありました。それは新妻との仲がうまくいかないことでした。奥さんの気位が高かったのが原因のようでした。ちょうど何番目かの赤ちゃんがお腹にいた時、夫の浮気が発覚したのです。妻はその裏切りを許せず、独断で堕胎を決心してしまったのです。
 この悲劇はそれだけに留まらず、その後残された子々孫々に至るまで、大きな災いの種となったのです。このケースは負の連鎖を産みました。相手を憎み責めて良い解決となった例を私は知りません。できればですが、妻の方に「自分に至らぬ点があったあったのかも知れない」と省みる心があれば、結果はまったく変わっていたことでしょう。
 私も教師を長年続けていて、問題を起こした子どもを断罪し責めて、それで良い解決ができたケースは一例もありません。先ず教師自身が反省し、悔い改めて子どもに寄り添ってこそ、解決の道が見えてくることがほとんどでした。
 このように人間関係の問題とは、相手の問題のように見えて実際には自分の問題であり、相手の目のちりを取るより、自分の目にある梁を取ることの方が気づかず困難なことでした。しかし、たとえそうしたいと思っても、人間には自己愛があり、プライドという高慢があり、理想は理想として実際は不可能に思えるのです。
 イエス・キリストの十字架にその解決があります。罪のない聖い神、全知全能にして万物の創始者であるにも関わらず、乙女マリヤを通してこの世に人間としてお生まれになり、人のあらゆる弱さや苦悩を自ら体験してくださいました。ですからこの方は、私たちの弱さを思いやってくださり、代わりに負ってくださることができるのです。十字架はその証なのです。悔い改めて十字架を信じる者は、まったく新しい自分にされます。罪が赦され聖くされた人に、聖霊なる神が主として新しくお住みになるからです。自分を捨て、その十字架を負って神に従う決心をすることです。人にはできなかったことも、神にはできるのです。   ハレルヤ!

2012年12月 9日 (日)

あなたの信仰があなたをいやした

ルカ  8章40-47節
「長血」という病、辞書によりますと、子宮から血の混じったおりものが長期間出ることです。この女性の場合12年間もこの病が続き、前より悪くなるばかりでした。その上医者から見放され、すっかり財産を使い果たしてしまいました。   
 さらにこの女性を苦しめたのは、律法(レビ5:21)によって汚れた者とされ、社会から隔離させられたことでしょう。生きていても存在しない死んだような状態でありました。そんな中、この女性はたった一つの希望をあらゆる病をいやされる、「イエス・キリスト」に見出します。絶望的な女性に残されたたった一つの希望、それが「このお方の衣の裾にでも触れれば、いやされる」であったのです。しかしそこに大きな壁がありました。自分が汚れており、公衆の前に出ていくことができないからです。
 御衣に誰かふれ、自分の体から力が出て行くのに気づかれたイエス様は、自分の力が「盗られた」とお怒りになって立ち止まり、押しかける群衆を見回されたのでしょうか?会堂司ヤイロの娘はまさに危篤状態であり、一刻を急ぐ場合なのに、どうしてイエス様は、名乗り出るまでは一歩も退かない態度に終始されたのでしょうか?これは私が若い頃から抱いていた疑問の一つでした。
 女から言えば、律法を破ったという「出るに出られない」状況がありました。どれぐらいの時間が、沈黙が流れたのかわかりません。これは「怒られた」わけでも、状況をわきまえられなかったわけでもありません。ただ一つ、神に栄光を帰することにより、「罪」を赦し義とするためでありました。
 イエス様が「あなたの信仰があなたをいやし」と女に言われたのは、従来は女のJesus_29_2「御衣にでもふれたならば」という信仰のためであるとされてきました。しかし、もしそうならば、危篤の中、女の自白を待たれる必要はありません。女はいやしを得てはしても、それがイエス様の御衣にさわったからだとは、今後も公に言うことはなかったでしょう。しかしイエス様の決然たる態度を見た女は、隠しきれないと観念したのです。そして信仰の行いをしたのです。群衆という公けの前で、恐れにおののきながら、イエス様の足下に身をひれ伏し、余すところなくすべてを打ち明けたのです。
 聖書には「そこで、(マルコ5:34、ルカ8:48)」とあるように、女の告白に対し「あなたの信仰が」と言われ、賞賛されたのです。告白し「神に栄光を帰す」ことは、罪の赦しと義に決定的に重要なのです。まったく同じことが、十人のライ病者のいやし(ルカ17:12ー19)にもあります。ただ一人、神をあがめるために戻ってきた者にだけ、「あなたの信仰が」と語られているのです。
 いやしを得られたならば、その栄光を神に帰さねばなりません。その行いで神から義を受けるのです。いやしは体と共にやがてまた土に還りますが、神からの義は永遠の恵であり祝福なのです。どちらが決定的に大切か、おわかりですね。このことを心にしっかりと刻もうではありませんか。

2012年12月 2日 (日)

みこころに生きる

Ⅰペテロ 4章1ー2節
ノンクリスチャンのある人が「キリスト教とは、人々を罪の中に閉じこめる呪いの宗教だ」と評しておりました。確かに原罪とか十字架などの言葉だけを聞くなら、そう感じることでしょう。しかし、これは全くの誤解です。
 
さてクリスチャンの皆さんにお聞きしますが、「あなたは神の御心の、その中に生き歩んでおられるでしょうか?」 はい、「そうはなってない」と即座に手を挙げられる方が多いですね。ですが、そのように御心に生きたいという願いを持っておられるでしょうか? はい、全員持っておられます。 
 現実は困難なその願いに、本朝はなんて神様が言っているか、今日は聖書にその答えを求め、主に導かれて参りましょう。
 さて犯罪の意味での罪(crime)ではなく、宗教的な意味での罪(sin)においてなのですが、自分の罪は大きいと思っておられるでしょうか? はい、私もですが、大きくかつ多いのです。実は冒頭の方の言う呪いではなく、これは実に神の祝福の基なのです。「えっ!」とお思いでしょうが、そうなのです。
 
福音書ルカの7章に罪の女の話があります。そこでイエス様が「この女の多くの罪は赦されている」と言われた根拠は「彼女がよけい愛したから」と言われたのです。罪が多い(と自覚する)者は、何とかして滅びを逃れようと罪の赦しと救いを求めます。そして「赦された」者は、どれほどの喜びと感謝があることでしょうか。赦してくださった神様を心から愛するようになるのです。
 神を愛する者は1ペテロ4:2の「地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになる」のです。罪の絶望の中から救い出してくださった神は、もう自分より大切で愛する方だからです。
 
  あなたは自分がどんなに罪深く、救われ難いものであるか、自覚しておられるでしょうか?喜んでください。あなたは自分を捨てることができ、赦され、救いの恵みの中にある方です。御心の道を歩めないと感じた時、その罪のために十字架にかかられたイエス様を思いだし、イエス様の赦しと愛に祈り、神と聖霊の力に依り頼んでください。人にはできませんが、神はどんなことでも、おできにならないことはありません。

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