みこころ第一
† マタイ 6章33節
昨日、秋元牧師から「召し」について語ってくださいました。私は十代の頃、初めての教会が日本基督教団で、それから色々行きましたが、確かにこれら福音派と呼ばれる教会には水戸黄門のあの印籠がありました。特伝をする、神学生を送る、新たな教会をつくる、宣教師を派遣する。あらゆる教会の召しにあの印籠「予算」という裏付けが必要でした。新教会設立には、会堂にする土地代、建築費など億単位の予算を計上したものです。しかし、神の計画と言いながら本当に「金、カネ、これでいいのか?」と次第に疑問を持つようになったことを思い出します。
私たちの主の十字架は、このような裏付け万能の対極にあると言っていいでしょう。ただ神の言葉だけがあり、それに従っているのです。この船橋キリスト教会も「信徒ゼロからの開拓です」と告げられ、ただ神の導きにだけが頼りで私たちは来たのです。
さてこの両者、どちらが正しいでしょうか?判断を聖書に求めましょう。するとキリストご自身が12弟子を、アンテオケ教会がパウロとバルナバを派遣した実際をみますと、これは主の十字架的であることが分かります。伝道や教会は世的なものによってではなく、神のご計画、御心によって立つのです。
しかしあえて一言付け加えますと、そこに「神の時」があるのです。主が私をこの群れに導かれたのは乳飲み子を抱えた時でもなければ、子どもに教育費がかかる時でもありません。またそんな時に主の十字架に召しを受け、立てられたとしても、果たして従うことができただろうか、大いに疑問です。神は実に計画的に、着実に段階を追ってご計画を進められます。はっきりしていることは、神の為されることは時にかなって美しく、最善であることです。
ですからみなさん、まず神の国と神の義を求めましょう。そうするならば最善しかお出来にならない神は、あとの者はすべて添えて与えてくださるのです。教会の召しは召しとして、その成就に時があります。自分は伝道者に、宣教師への召しがあるからといって、まだ何も状況は変わっていないと焦る必要はありません。確かに教会の召しは決定的なものですが、その召してくだった神を信頼し、神に時を委ねることは、忍耐の試される時であり、大きく神の計画が進む土台です。神は必ず成就してくださることを信じ、召しの時がなるのを待ち続ける信仰こそ、私たちの願いであり祈りの中心です。
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