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2013年1月

2013年1月27日 (日)

父と子の関係

詩篇  51篇1~19節
聖書のこの詩編は、ダビデ個人史上最悪の状態での記録です。この時ダビデは、イスラエル史上最高の王でした。それなのに自分の罪を何一つ隠さず、白日のもとにさらしています。それは聖書に書き留められ、今日、私たちもダビデの心を知ることができます。自分の罪を隠そうとすれば、王である彼には簡単にできたのですが、そうはしていません。
 この結果、バランスを欠いた、実に一方的な神の恵みがダビデに注がれたのです。罪の結果である子が死んだ以外には、ダビデもバテ・シェバも何一つ罰を受けることはありませんでした。それどころか次にバテ・シェバが生んだソロモンは、なんとダビデの後継者として、ダビデへの祝福と王権を継ぐものとして立てられるという破格の恵みを得ています。これはもう罰を赦されたと言うより、祝福されたと言う方が適切です。
 このような恵みは、この詩編にあるダビデの神への態度にあります。まさに神の前に何一つ自分の恥を隠さず、子どものようにあわれみに訴え、甘えきっています。「恵みと甘えとは同義語」と昨日耳にして、目からうろこでした。
 我が家に猫のコールがいます。家の中では夫婦から極度の猫可愛がりを受けておりまして、家中好き勝手な振る舞いをし、人に媚びるということはありません。細君の実家にはクロという猫がおりますが、この猫は野良猫暮らしから、ようやく家に入れてもらった猫で、実に分別があるのです。決して食卓には上らないとか、私どもがお邪魔しますと、コールも一緒だと思って、遠慮して自分の家にもなかなか入ってこないのです。
 コールとクロ、猫としての性格は、苦労をしてきたクロに軍配が上がります。しかしだからといってわがままコールが叱られ、特訓を受けるとか、人格形成不十分だから失格にはなりません。コールが自ら家出しない限り、私たちの愛を失うことはないのです。
 ダビデも、そして今ここにいる神の子である私たちも同様です。どんなに罪を犯そうが、力が無く、ふさわしくなかろうが、天の父の元にいることを止めてはいけません。心から悔い改めて、神に向かえば父は必ず赦してくださり、子としての特権を失うことはあり得ません。
 肉の父でもそうなのですが、父というものは将来を見ます。はじめから完成された人格というものはありません。今の挫折とか、罪を犯すとか、そんなマイナスでしかないものから何を学び、次にどう立ち向かって行くのか、それが重要なのです。ダビデは権力の絶頂であっても、神を信頼し、悔い改め、栄光を神に帰す信仰を増し加えました。私たちも同じです。

2013年1月20日 (日)

祈りについて

ヨハネ15章7節
 今日、神への祈りが本当に答えられるとは、多くのクリスチャンは思っていないようです。この群れではありませんが、毎週の祈祷会では、なんと祈りが短く、ほとんどの時間が聖書研究やメッセージにあてられています。答えられる祈りを実際に見ることもなく、それが当たり前になってからも、それでも懸命に信仰生活を歩んでいるのです。しかし私はある事情が、必要が生じて、耐えられなくなりました。
 その時私は「こんなことならクリスチャンを廃業しよう」とすら思ったものです。しかしこは、神様がお昼寝されていたのでなく、100%私の信仰が問題だったのです。祈りとは、きわめて霊的なものなのです。もし祈りが聞かれない、答えられないという私と同じ様な方が居り、神との生きた交わりである祈りをせつに求めておられるならば、その方はチャレンジを受け、回復の時が来たのです。
 バプテスマを受けたばかりの少年がいました。少年の家は大きな山の背後にあって、そのため朝日が遅く差してきました。そこで少年は聖書にあるとおり、神様に「この山を動かしてください」と信じて祈りました。さて翌朝少年が期待に胸を膨らまして朝日の差してくる山側の窓を開けると、山はまったく変わらずにそこにあったのでした。少年は大変落胆をしたということです。
 このお話を聞かれてみなさん、どう思われたでしょうか?聖書は真実な書ではないのでしょうか?それならどうして神は、少年の祈りに答えて山を動かされなかったのでしょうか?答えはシンプルです。今日の聖書箇所にあるように、節の前半部分になんと書いてあるでしょうか?これは「神のことば」、つまり聖霊の臨在ですが、その人に聖霊が「とどまっているなら」と言っているのです。少年はかたく信じて祈ったと思われますが、しかしそれは結果としてですが、聖霊による祈りではなかったのです。少年は自分の思いで、早い朝日を見たいあまり祈ったのです。神様はドラえもんのポケットではありません。本人のためにならず、神の計画は妨害されるので、肉の祈りは成就しないのです。
 注意しなければならないのは、バプテスマを受けた時など、神様が手ほどきのようにつたない自己中心の祈りでも、ある範囲内で祈りを聞いてくださる時があることです。しかしいつまでも母乳を飲むわけにはいきません。霊と信仰は成長されるべきです。子ならば私たちは天の父を愛しており、そのご計画を自分の使命として果たしたいのです。この祈りは「御心の祈り」となり、神の栄光が現される、成就する祈りなのです。聖霊様がそれを教えてくださり、祈った瞬間に「かなえられた!」と成就することがわかるのです。聖霊によりて祈る御心の祈り、それは何でも祈ることはかなえられるのです。

2013年1月13日 (日)

いのちの使い方

マタイ 10章39節
 私たち日本人の多くは自分の命、人生をあたかも自分の所有物のように思っています。しかしほんの63年前までは、お国のために死ぬのが国民の義務でした。それより前は武士道があって、主君と家名のために死ぬことが当然であり、庶民は滅私奉公がふつうでした。ですから現在の日本人の自己中心の個人主義的な考えは、ごく最近のものです。「自分のために」という、このような生き方は誰からも尊敬されません。現在では退職した後の熟年離婚が多いようですが、家族を顧みないで働いてきた、その当然の報いなのかも知れません。
 戦前の日本人にあったこのような犠牲的な精神、自分以外のために命と人生を捧げHeaven_26 る・・・・というものが、結局実は、根無し草のように日本人固有のものではないことが明らかになったのです。物資不足が敗因だと懸命に経済に生き、手にしかけた豊かさには中身が肺っていませんでした。今やその豊かさすら失いつつあるのが日本人です。生きる柱を我が国民は失って、あわれむべき状態となっているのです。
このような時代は、これは日本弱体化へのアメリカの陰謀ととらえるのではなく、神の摂理だと私は気づくのです。なぜなら一人一人の日本人が・・・・まさに個人個人ですが、真に己の罪に気づき、悔い改めて神の赦しと愛、十字架の救いに立つ、そういうリバイバルへのお膳立てが整って来つつあると思うからです。
 キリスト教内を見てもそれは明らかです。従来の教会は老人ホーム化してきています。聖書を信じてはいますが、まるで天国への保険のようです。そうではなく自分が死に、聖霊によって生まれた新しい人を通して、神の力と栄光が現されます。喜んで神に命を捧げ、神の奴隷、しもべとなりましょう。この世はせいぜい数十年のものなのです。命は永遠の使い方をしなければなりません。リバイバルの前夜の今こそ、切に求めていきましょう。

2013年1月 6日 (日)

信仰といやし

マルコ 5章34節
いやしはキャサリン・クールマンのようにどんなに偉大な神の器であったとしても、本人たちも言っているようにその人の力ではなく、すべて神からのものに他なりません。神の私たちへの恵み、あわれみとして、神の絶対的な大能によって一方的にいやしは行われます。Photo_2 ゲザレ人の地でレギオンという悪霊にとりつかれていた人に対して、「悪霊の追い出し」という形で一方的ないやしが行われたようにです。しかしいやしの多くは、それを求めてイエスのもとに来た者に、無条件で与えられた(マタイ14:14、15:30)のです。
 しかし、キリストご自身は、いやしを行われるためにこの世に来られたのではなく、いやしは二義的なものに過ぎませんでした。見えなかった目が開き耳が聞こえはじめると言った肉体がどんなに癒されようと、死人がよみがるという大奇跡であえろうと、その人が心から悔い改めて信仰を持たないなら、水泡に帰すというか、空しいことなのです。なぜならそれは、死というもので朽ち滅びるもので、ただ一時的に良くされ、命が延ばされただけなのですから。
 キリストは私たちに永遠の命を与えるために世に降ってこられました。一言で言えば福音の宣教のためにです。キリストはいやしによって、神の実在と力、愛とあわれみの深さを体験する者となり、神をほめ讃え信じる者になることを期待されました。ですから聖書はいやしに関して、いやされる人や執りなす人の「信仰」と関連づけての記述に多くのスペースを割いているのです。神からの真の祝福は「永遠のもの、信仰」にあるからあり、「罪の赦し」「信仰があなたを救った(直した)」にポイントがあるのは当然なのです。
 新約聖書ではその人の信仰を大いに賞賛された二人の人物がいます。なんと二人とも外国人なのです。しもべのいやしを願った百人隊長であり、レバノンでのシドン人の女です。イエス・キリストはこの二人に「あなたの信じた(願い)通りになるように(what you beieve(or want) will be done for you)」と言われました。二人の信仰は御心のものであり、これこそ私たちが目標とするいやしなのです。これを端的なことばで言うと、「自分のためにいやされたいのか」、それともいやされるべき病は「神様の力と栄光を誉め讃えるため」であったかということです。 

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