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2013年1月 6日 (日)

信仰といやし

マルコ 5章34節
いやしはキャサリン・クールマンのようにどんなに偉大な神の器であったとしても、本人たちも言っているようにその人の力ではなく、すべて神からのものに他なりません。神の私たちへの恵み、あわれみとして、神の絶対的な大能によって一方的にいやしは行われます。Photo_2 ゲザレ人の地でレギオンという悪霊にとりつかれていた人に対して、「悪霊の追い出し」という形で一方的ないやしが行われたようにです。しかしいやしの多くは、それを求めてイエスのもとに来た者に、無条件で与えられた(マタイ14:14、15:30)のです。
 しかし、キリストご自身は、いやしを行われるためにこの世に来られたのではなく、いやしは二義的なものに過ぎませんでした。見えなかった目が開き耳が聞こえはじめると言った肉体がどんなに癒されようと、死人がよみがるという大奇跡であえろうと、その人が心から悔い改めて信仰を持たないなら、水泡に帰すというか、空しいことなのです。なぜならそれは、死というもので朽ち滅びるもので、ただ一時的に良くされ、命が延ばされただけなのですから。
 キリストは私たちに永遠の命を与えるために世に降ってこられました。一言で言えば福音の宣教のためにです。キリストはいやしによって、神の実在と力、愛とあわれみの深さを体験する者となり、神をほめ讃え信じる者になることを期待されました。ですから聖書はいやしに関して、いやされる人や執りなす人の「信仰」と関連づけての記述に多くのスペースを割いているのです。神からの真の祝福は「永遠のもの、信仰」にあるからあり、「罪の赦し」「信仰があなたを救った(直した)」にポイントがあるのは当然なのです。
 新約聖書ではその人の信仰を大いに賞賛された二人の人物がいます。なんと二人とも外国人なのです。しもべのいやしを願った百人隊長であり、レバノンでのシドン人の女です。イエス・キリストはこの二人に「あなたの信じた(願い)通りになるように(what you beieve(or want) will be done for you)」と言われました。二人の信仰は御心のものであり、これこそ私たちが目標とするいやしなのです。これを端的なことばで言うと、「自分のためにいやされたいのか」、それともいやされるべき病は「神様の力と栄光を誉め讃えるため」であったかということです。 

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