父と子の関係
† 詩篇 51篇1~19節
聖書のこの詩編は、ダビデ個人史上最悪の状態での記録です。この時ダビデは、イスラエル史上最高の王でした。それなのに自分の罪を何一つ隠さず、白日のもとにさらしています。それは聖書に書き留められ、今日、私たちもダビデの心を知ることができます。自分の罪を隠そうとすれば、王である彼には簡単にできたのですが、そうはしていません。
この結果、バランスを欠いた、実に一方的な神の恵みがダビデに注がれたのです。罪の結果である子が死んだ以外には、ダビデもバテ・シェバも何一つ罰を受けることはありませんでした。それどころか次にバテ・シェバが生んだソロモンは、なんとダビデの後継者として、ダビデへの祝福と王権を継ぐものとして立てられるという破格の恵みを得ています。これはもう罰を赦されたと言うより、祝福されたと言う方が適切です。
このような恵みは、この詩編にあるダビデの神への態度にあります。まさに神の前に何一つ自分の恥を隠さず、子どものようにあわれみに訴え、甘えきっています。「恵みと甘えとは同義語」と昨日耳にして、目からうろこでした。
我が家に猫のコールがいます。家の中では夫婦から極度の猫可愛がりを受けておりまして、家中好き勝手な振る舞いをし、人に媚びるということはありません。細君の実家にはクロという猫がおりますが、この猫は野良猫暮らしから、ようやく家に入れてもらった猫で、実に分別があるのです。決して食卓には上らないとか、私どもがお邪魔しますと、コールも一緒だと思って、遠慮して自分の家にもなかなか入ってこないのです。
コールとクロ、猫としての性格は、苦労をしてきたクロに軍配が上がります。しかしだからといってわがままコールが叱られ、特訓を受けるとか、人格形成不十分だから失格にはなりません。コールが自ら家出しない限り、私たちの愛を失うことはないのです。
ダビデも、そして今ここにいる神の子である私たちも同様です。どんなに罪を犯そうが、力が無く、ふさわしくなかろうが、天の父の元にいることを止めてはいけません。心から悔い改めて、神に向かえば父は必ず赦してくださり、子としての特権を失うことはあり得ません。
肉の父でもそうなのですが、父というものは将来を見ます。はじめから完成された人格というものはありません。今の挫折とか、罪を犯すとか、そんなマイナスでしかないものから何を学び、次にどう立ち向かって行くのか、それが重要なのです。ダビデは権力の絶頂であっても、神を信頼し、悔い改め、栄光を神に帰す信仰を増し加えました。私たちも同じです。
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