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2013年2月

2013年2月24日 (日)

死から命へ

ヨハネ 5章24節 

本日のテーマは今現在、終末の時代に確実に入りつつあり、黙示録に記述してあるいろいろな恐ろしい出来事が迫りつつあることです。その怖いことばかりが気になっている方が気になります。しかしほんとうに神を信じるクリスチャンにとっては、心を躍らせ、待ち焦がれていることなのです。Page001

 聖書の預言、1948イスラエルの建国。反キリスト、偽キリストの舞台として旧ローマ帝国に相当するEUが、終末のこの時代、1つの国としての体裁を整えつつあること。現在、イスラエルが世界中の国から憎まれつつあること。先の東日本大地震や異常気象、飢饉などの転変地異が起こってきています。
 これら終末の世では、リバイバルと大迫害が同時に起こってきます。なぜなら旧来の宗教勢力にとっては、信者が減るという経済的なの損失が大きいからです。また浦上の1番から4番までの崩れなどこれまでの迫害の歴史から、一番の敵は実は自分たちの仲間からの密告なのです。
 しかしローマ時代のキリスト教は、迫害されれればされるほど、殉教者が出れば出るほど大きくなり、ついには巨大なローマを乗っ取ってしまったのです。アジアだけが、特に日本がその実を得ていないのです。神さまがこのままにしておくと思われるでしょうか?いいえ、この日本から世界が驚くリバイバルが始まっていくのです。

 ところで中1の時に、「この神が本当の神」とわかり、キリスト教へずっと焦がれるような関心を持っていた私は、高校生になる直前頃から、教会らしき所へようやく通うようになりました。相当な決心をして、ただ一人通いました。しかしそれは神によってであったと思います。しかしちょうどその頃、「沈黙」という遠藤周作のキリシタンの転びの物語を読んでしまったのです。信じたのに棄教すると即、地獄行きだと思ったのです。「お前は神のために命を捨てることができるのか?」そんな自問が頭を離れることがなく、二十歳に学生運動が挫折するまで恐れ、ためらい続けてしまいました。

 サタンは巧妙です。棄教し悔い改めることをしなかったら確かに裁かれることになるでしょうが、だからといって信じなかったら、はじめから裁かれる運命になるのです。不安や恐れさせるのはサタンの仕業なのです。この群れは「殉教したい」と告白する人が多いすばらしい群れです。しかし殉教は選ばれた人の特権なのです。それぞれに召しがあって、その召しに命を捧げて私たちは従い歩んでいくのです。
 また終末の時代、いろいろと恐ろしいこと、不安な時代がやってきます。不安や恐れ、これを信仰から見て喜びと希望であることを理解していきたいと思います。

 この時代をモーセの出エジプトにたとえることができます。エジプトは、いわば豊かな地ですが、実はイスラエルを奴隷にし苦しめたサタンの地にたとえることができます。しかし神は時が来たとき、頑ななエジプトを大いなる業と奇跡で打ち据え、過ぎ越しの祭りを通し、ご自分の民数百万人を選び出し、脱出させられました。武器も何もないイスラエルの民を追って迫ってくる膨大な軍を、民の力でなくただ神の力で、水で滅ぼされたのです。
 シナイの荒野に入る。人間の知恵と知識とでは、荒野でこの民が生きて行けるわけがありません。奴隷の民で戦うことも知らず、すぐにカナンに直行したって入れるわけがありません。神は40年も荒野で律法をイスラエルに与え、マナとうずらによって養い、服は古くならず、まったく新しい民に造り替えられました。このとんでもない奇跡によってこの民を主は新しい民に造り替えられ、約束を果たされたのです。

 次に創世記と黙示録の記事を読み比べてみましょう。<表省略>
 この対比表を見れば一目瞭然なように、神はすべての物事の終わりまでの、完璧な計画を立てられて天地万物を創造されたのです。その終わりの時代は本当は新天新地の始まりであり、永遠の神の光の中で私たちは毎日、主に顔と顔を会わせ、お声を聞き、喜びと賛美の中で主とお交わりをするのです。いわば肉に過ぎない私たちを、その計り知れない恵みの中に選び出すために世界は造られたのであり、終末の時代に生きる私たちは、その産みの苦しみにも召されているのです。

 考えてみてください。生きていて何の苦しみも悩みもない、豊かで平和で問題のない人生って幸せでしょうか?そうではないことはみなさん、ご存じです。教師がいて、とても乗り越えられないような問題を生徒に与えるのは、適切ではありません。同じように、あまりにも簡単ですぐわかるような問題は、思い出すためだけのものであって、問題ではありません。良き教師とは、あれこれ難儀をして、いろいろなアプローチを苦心して、それでやっと解決できる問題を出します。それは生徒の力を知っており、また努力し続けるられるような援助がに力を注ぐからです。苦心して問題が解けた、それは生徒の力になり喜びです。苦心すればするほど、喜びもまた大きいのです。
 イエス様を見ても分かるように、私たちの神は偉大な教師です。人と天地を造られた神さまほど私たちを知っておられる方はいません。ですからみなさん、安心してください。これからの終末の時代のあらゆる困難や問題は、産みの苦しみ、必ず解ける問題の、解ける前の苦しみなのです。苦しみは喜びの源、大きな苦しみは必ず大きな祝福が与えられるのです。ハレルヤ。喜び躍って、新しい新天新地の産みの苦しみを迎えようではありませんか!

2013年2月17日 (日)

神の愛~天の御国へ

ヨハネ 6章14節
 あるHPのQ&Aサイトに「クリスチャンだけが天国に行ける?」という問いがあって、「イエス様はみんなを天国に行かせるために十字架にかかられたはずで、クリスチャンだけとは納得できない」というものでした。このベストアンサーはなんと次のようなものでした。Promise

 「クリスチャンのみが天国に入れるなんて、聖書に書いてありません。『こころのきれいな人は神を見る(マタ5:8)』のだから、仏教徒でも間違いなく天国に行っています」と。
 実は私もバプテスマを受けたすぐの頃、同じように思いました。周囲には私よりはるかに善い友だちばかりだったのです。なかにはこのことで、「狭い」「独善的」とクリスチャンを辞めた人さえいます。一見これはやさしい心根の持ち主のように思われますし、共感する方も多いことでしょう。

 では聖書は何と言っているでしょうか?先の例で言えば、自分は「心がきよい」と言いきれる人がはたしているのだろうか?と疑念を持たざるをえません。聖書は「すべての人は、罪を犯した(ロマ3:23)」「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい(ヨハネ8:7)」と言っています。
 つまり、罪を犯さないような「きよい」人は誰一人としていない、これが聖書が語り続けている真実です。「人は良いものであり、人を信頼し人に希望と未来がある」と思いたいのは山々ですが、聖書から見る限りこれは正しくありません。

 共産主義やヒューマニストたちは、人間を理想とした社会を実現できたでしょうか?とんでもない、彼らは同国人を大量に虐殺し、恐怖で縛る魔の帝国をつくりあげているではありませんか。罪ある私たちすべての人のためにキリストは十字架に架かられました。十字架はすべての人々のためであり、信じるならすべて罪を赦され、洗いきよめられレて罪から救われるのです。罪有るままでは天国へ行ったのでは、そこは現状と同じで、決して天国とは言えないでしょう?そういう意味で、クリスチャンに天の国が開かれているのです。

 次にクリスチャンはみな天国へ行けるのか?と言うことについてですが、これについて「『主よ主よ』という者がみな天の御国に入れるのではなく、天にいますわが父の御心を行う者だけが入る(マタ2:21ー23)」から「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる(ロマ10:13)」まで異なった見方があります。信じたら全員天国へ行けるはずだと思っている方には、これまたどうにも腑に落ちない話です。
 前者では信じた「救い」とは罪が赦されることであり、聖霊が内住されるのですが、聖霊の支配がその人に確立され、御心を行う者となる前段階に過ぎないという見解です。確かに「御心」の何たるかもわからず、相変わらず自分中心の生き方をしていたのでは、「幼な子」的な存在でしょう。ただ神中心の信仰生活は自分の力でできるものではなく、聖霊のバプテスマを受け、肉が死に、聖霊の働きによって新しく生まれかわるのです。そうすれば「御心」もわかるようになるでしょう。

 後者は、クリスチャンはみな天の御国に入れるのであり、入り方に差があるとする見解です。みな入れるのですが「建物が焼け、損害を受け・・・・自分自身は火の中をくぐるようにして助かる(1コリ3:15)」のです。これは明らかに天の御国への良い入り方ではありません。クリスチャン全員が入れたとしても、永遠の住まいで大きな差があってはたいへんなことです。

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者それを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。(マル8:34-35)

 終末のこの時代です。クリスチャンは確実に携挙されるように心がけましょう。また御心を行うためには聖霊の支配が日々実効されていることです。これは共通しており確かなことなのです。

2013年2月10日 (日)

世界が驚いた奇蹟(浦上の信徒発見)

ヤコブ 5章11節
この度の殉教聖会では、「浦上四番崩れ」が心に強く残りました。Urakami_3
 歴史のおさらいをすると(表参照)驚くことは、長崎、浦上地区での宣教はせいぜい30数年ぐらいだということです。それなのに彼らはその後250年、帳方(指導者)七代にわたる長い長い年月、隠れキリシタンとして信仰を守り通したのです。
 はじめてキリシタンが発見された時、世界は驚きました。この背後には帳方ー水方ー聞き役という組織とバスチャンの日繰りという復活祭、降誕祭のカレンダーがありました。しかし最大のものはバスチャンの預言にあったと私は思うのです。
 バスティアンの預言とは、七代までは霊魂が守られるが、それ以後は困難になる。大きな黒い船に乗って司祭がやってきて、毎週でも告解ができるようになる。どこでも大きな声で賛美し歩ける時代がくる、と言うものでした。
 幕末の世、開国によって長崎の居留地である大浦に、黒い大きな船で司祭がやって来ました。そこに教会堂(国宝大浦天主堂)が建てられました。まさにバスティアンの預言が成就したような状況になったのです。こうなると、どんな困難があったとしても、浦上の人々はもう我慢することができませんでした。「黒船の人と一つになれ」という伝承もあって、浦上の人々はプチジャン神父に「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と信仰を告白したのです。
 こうして世界を驚かした信徒の発見は同時にキリスト教禁制下、3千人以上の一村総流罪という大迫害=「浦上四番崩れ」の始まりとなったのでした。
 1865年の信徒発見から二年後の1867年、仏式の葬儀を拒否したことから端を発して、遂に68人の信徒組織の代表が幕府の命を受けた長崎奉行所によって捕縛されました。この結果ただ一人転ばなかった高木仙右衛門は、病気がちで迫害にはもっとも適さない人でした。しかし仙右衛門は、毎週断食し迫害下で信仰を守ってくださるように祈っていました。それ故自らの力に頼るのではなく、神に祈り、頼るならば、迫害を恐れることはないのです。
 仙右衛門だけが免れた中、転んだ全員は村に入れてもらえず、悔い改め、全員殉教を覚悟しての「信心戻し」をしました。結局このことで、三千名以上の一村総流罪の大迫害が始まりました。この時はすでに明治新政府となっていましたが、天皇護持の国家神道を奉じた明治新政府が、600名以上の浦上殉教者を出した、苛烈な迫害者となったことを忘れてはなりません。
 しかし世界は浦上の人々を忘れてはいませんでした。不平等条約改正を目的とした岩倉使節団が、欧米中のどの国に行っても国家元首から迫害の誤りを諭され、一歩出ると「ウラカミ、ウラカミ」と叫ぶデモ隊に取り囲まれたからなのです。こうして使節団は帰国直後、不平等条約改正のためにやむなくキリスト教御禁制の高札の撤去したのです。
 262年の年月を経て、ついにバスティアンの預言は成就しました。私たちの信仰の自由は、歴史を見る限り、浦上の人々の血で買い取られたものなのです。
 ふだん仏式の葬儀や法事などがありますが、その歴史を見る時、これらは私たちを迫する為の装置として用いられました。世にではなく、神に従った対応をしなければ、天の神様に対してどのように申し開きをすればよいのでしょうか。毅然とした対応が必要です。そのことをこの度、示されたのです。いつも心を「天」に向け、御心を為すために世を生きるのです。日々の祈りこそ、私たちの力でなのです。

2013年2月 3日 (日)

信仰の土台である聖書

テモテⅡ 3章15~17節
最近当教会で「聖書」に関してのいろいろな学びがあり、この際「信仰の土台である聖書を正しく把握しておく必要が生じました。<逐語霊感>という言葉をおさえ、聖書への信仰的見方を学びましょう。
 神の言葉としての聖書を否定するクリスチャンがいます。その人たちの論拠は主に二つです。1:聖書がなかった時代にもクリスチャンは存在した。だから聖書を信仰の絶対的な規範とするのはおかしい。2:聖書には多くの誤りがある。たとえば女性牧Bible_07_2 師の問題でも、同じパウロが†ガラ3:28で「男子も女子もありません」と言っているのに、1テモ2:12では「女が教えたり男を支配したりすることを許しません」とし、誤りがあるとして誤りなき神の言葉=無謬性を否定するのです。
 1の見方について~では神の救いの計画、キリストの十字架は不要だったのでしょか?そんなことはあり得ません。聖書の主題はキリストなのです。その十字架によってこの後は主の年、恵みの年であり、神の救いと恵みはイスラエル民族から、異邦人の救いのなる時として大きく開かれ、まさに人類の歴史を画することとなったのです。聖書はキリストの救いの土台であり、時が来て私たちはその恵みの時代、聖書の時代を生きているのです。
また2の見方ですが、私たち福音主義の諸教会では原典において、逐語霊感と言って示を受けた者、またそれを筆記する聖書記者に対し、神は一語一語誤りなく神の言葉を書かせたと信じています。ですから聖書は原典においては神の言葉であり、聖書に誤りはありせん。すべて信じて信仰の規範として受け入れるに足りるものです。
 確かに指摘されているような、一見間違いかと思われるような所もあります。が、全能の神の言葉を有限なる人に過ぎない存在が判断できるのでしょうか?神の知恵は測りがたく、人の理性よりもはるかに優れているのです。特に女性牧師の場合、これは男性が立たない所においては信仰優先の原則が働くのであって、聖書に矛盾はありません。
 もちろん「原典においての無謬」ですから、翻訳においてはミスがあることでしょう。また手紙という形式においては、宛先の人々に受け入れらる内容であることが意識されていることも考慮されなければなりません。
 ただ一つ強く言えることは、聖書は誤りなき神の言葉であるという信頼なしにいくら読んだとしても、その真実と知恵と力は、読み手には理解も想像することもできない信仰の書であることは確かです。

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