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2013年3月

2013年3月31日 (日)

All things God works for good

 ローマ8章28節
 今回の感謝と賛美とリバイバルキャンプでは、ロマ8:28の御言葉が繰り返し語られました。それは「聖書の御言葉を積極的に生きる柱とし、命のことばとして現実に適用しなさい」と言うものでした。たとえばこの「すべてを感謝する」という箇所、ジョージ・ミューラーの「主を畏れる人には何も欠けることがない(詩34:10)」、また有名な「彼に信頼する者は、失望させられることがない(ロマ10:11)」etc・・です。これらは万人に適用できる御言葉です。そして実生活に適用していくなら、御言葉の実を見、人生の大逆転を見ていくという主旨でした。

 しかしこのような御言葉の力、その実を見ていないクリスチャンが多いことも事実です。問題は相変わらず問題であり続けて、「なぜこのようなことが、祝福を受けるべきクリスチャンに許されたのか?」と、ぐるぐる回るらせん階段から脱け出すことができないのです。しかしこれは断言できるのですが、聖書の知識においての神の知識において、また実際の生活においても、人の考えるような程度の祝福でない最高最善の祝福を神は用意しておられるのです。それはちょうど一生丈夫な歯で生きるために、親が子どもに歯磨きを教えているようなものなのです。始めは不快で、あまり歓迎できないことでしょうが、後になればそれが最善であったことがわかるのです。

 つまり神が許される試練にはすべて意味があり、私たちに世のもの、自己愛などから天の富、永遠のものに目を向けさせるためのものなのです。私たちを愛して十字架にまでかかられた神はいたぶる神ではなく、愛なる神なのですから、神を信頼し、愛されているが故に通される試練は感謝なのです。ですからお奨めいたします。これまでの人生の中で、心の深層にある傷んだこと、許せないこと、感謝できないこと、思い出したくもない大失敗の数々・・・・これらを何一つ漏らすことなく思い出し、心から感謝を捧げられないものでしょうか?これまでそうできなかった愚かさを悔い改め、幼子のように、すべてを、そうです、一点の曇りもないほどに感謝を捧げましょう。
そのために、今日の御言葉「All things God works for good」を適用しようではありませんか!

2013年3月24日 (日)

神の愛

Ⅰヨハネ4章16章

 私たちの信じる神をたった一言で言い表すなら、「神は愛です」の1ヨハネ4章16節になるでしょう。教会の窓にこの御言葉が貼られている理由です。
 ところで忠実な信徒に、大きく分けて二種類の人がいます。神をおそれ敬う人と,神を愛する人とです。旧約時代に聖書に登場する人物には、前者の信仰者が多かったようです。おそれることは忠実に従う土台ですから、そのような人物を通し神様の計画はダイナミックに進んで行きました。おそれの反対はないがしろにし侮ることです。それで聖書では、おそれることを知恵の始まりであると言っています。

 旧約聖書にダビデという偉大な人物がいます。バテ・シェバとの一件では姦淫や殺人などを犯し、本来なら先王サウルのように神に棄てらDavid2れても仕方ない人物です。ところが簡単に赦されたばかりか、子々孫々に至る大きな祝福を得ています。どうしてなのでしょうか?その答えは、ダビデが神を愛する人物であったからだと私は思います。おそれて従うより、神を愛して歩む方が、祝福されるのです。

 私の教師としての経験から言えることがあります。最近は見かけませんが、休憩時間になるとおそれもなく教卓に近寄って来て、ノートでいっぱいになった机の上を片付けてくれる子がいました。時には「先生、さっきの授業はわからなかったよ」と耳に痛いこともずけずけ言ってくれます。これは教師を信頼し、親近感を持ってくれている子なのです。人格的な交わりを求めている生徒とも言えましょう。表だっては特別扱いはできないものの、このような生徒を教師は内心喜び、信頼するのです。

 「愛にはおそれがありません(1ヨハ4:18)」という言葉は、神様に対しても同じことが言えると私は思います。多く赦されている者が多く神を愛するのです。言い方を変えれば、自分をどこまで罪深いと認識しているかであると思います。罪深い自分に希望が無ければ、そのような自分を、十字架にかかってまで愛してくださった神の愛に希望を見い出し、自然、神への愛がわいて来ます。神を愛する者は、神との交わりを求めるのです。同じ18節には「全き愛はおそれを締め出す」とあります。御前におそれずに近づき、何とかして御心を行いたいと願うようになります。神様もそれを待ち望んでおられることは確かなことです。

 愛にはおそれがないだけでなく偽りがありません。神に愛されたありのままの自分を喜び、信頼したやすらぎがそこにあります。神は愛そのものお方なのですから。

2013年3月17日 (日)

私ハイッタイ、誰ノモノデショウ

マルコ12章17節

  英語学習で「have」とか「whose」とかの所有をあらわす言葉で困った方は多いことでしょう。今日のテーマは「私はいったい、誰のモノ(所有)になっていますか」です。永遠から見れば、血肉のこの人生はほとんど一瞬です。そして体の命が終わった時、それぞれの持ち主に戻されて行きます。神のものは神に、そうでないものはそのように。

 白馬でインドのベンジャミンさんが「Remember who you are」と繰り返し言われました。確かに私たちは「父によって選ばれ、子によって贖われ、聖霊によって証印を押され」ており、私たち神の子なのです。私たちが帰って行く神の国は、たとえようもないほど素晴らしい所なのです。神のものとして歩む時、不安や恐れはもはや私たちを支配しません。
 ところが世のもの、どんなに富や力、名声があったとしても、それで平安はありません。かえって不安や恐れが増大しセコムやいくつもの鍵が必要です。盗まれるものがあるからです。こうして世のものを何一つ持って行くことのできない所へ行くのです。これは愚かです。
 私たちが神のものである時、根本的な価値観の変革が起こります。聖霊様が支配されると、この世は光を失い、価値を失います。また聖霊の働きで人を愛することができます。悪いことができにくくなります。いっさいの嘘すら言うことができません。

 このような神の子としての恵みを受けて大切なことは、「証人」となることです。ただ本当に神によって変えられていないと「お前それでもクリスチャンか?」と言われることになります。それを恐れて私は隠れクリスチャンでした。ですからクリスチャンと周囲に告げている方がはるかに良いことです。なおかつ望ましいことに、その人が聖霊によって生きる人であれば、人々はその人を通し、神を見、知ることになるのです。それを熱望する者なのです。
 血体の体や置かれた環境は確かにこの世のものであっても、神のものとされた私たちは、すでにこの世のものではありません。なぜなら世においての目的が、神の国とその永遠の証人として立たされているからです。国籍は天にあるのです。私たちは与えられた使命のために世に遣わされており、その使命を終えたならばただちに本来の帰るべき所に帰って行く、そういう存在なのです。神がくださった命であり、体なのですから。世での命はそのために用いるものなのです。実際「どうぞこの命を、雑巾のようにそのために使ってください」と祈る者に変えられて行くのです。そしてただ神を愛し、御心を果たしたという感謝と喜びだけを持って帰るのです。

2013年3月10日 (日)

聖霊のバプテスマ・・・それは力

使徒の働き11章15~16節

<力> 聖霊のバプテスマとは、神を信じる者に、神ご自身の霊がその人の主として住まわれるという驚くべきことであり、その最初の満たしのことを指します。これはイエス・キリストによって約束されたものでした。そしてこれはキリストご自身が「聖霊があなた方にのぞまれる時、あなたがたは力を受ける使徒(1:8)」、「いと高き方から力を着せらる(ルカ24:49)」と言われたように、神の「力」を受けることです。Pentecost_25

<聖霊の力> この「力」とはどのようなものなのでしょうか?「わたしを信じる者はわたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行いヨハネ(14:12)」とあります。さらに聖霊は「いつまでもあなたがたと、ともにおられるため(ヨハ14:16)」とあるように、私たちが罪を犯し、高慢にならない限り、去って行かれることはなく、いつまでも私たちと共に居られるのです。神さまは「取り去る」という選択肢お持ちではないのです。これは確かなことなのです。サタンは「聖霊がもう私から去られた」と思わせたいのです。この策略に決して乗ってはいけません。神がいったんご自分の子とされて、どんなに子が不義理を重ねようと、見捨てられ孤児にされることは決してない(ヨハ14:17)のです。

 そしてこの方(聖霊)は真理の御霊(ヨハ4:17)なのです。聖霊に従う者は世におもねったり、裏表のある行動はできません。嘘を言いたくても言えないのです。借金とも無縁です。なぜなら足りて満足しているからです。神の霊とはそのようなものです。酒もタバコも、やめようとしてではなく、気がついたら飲んでいなかったのです。これらが聖霊の力と言われるものです。

 助け主なる聖霊はすべてのことを教えます(ヨハ4:26)。聖霊が書かせた書物である聖書は、聖霊の導きによってこそ、最適の解説者を得たと言うべきでしょう。まったく次元の違った聖書理解が進みます。興味深いことに、偽預言者とか異端の指導者の聖書解釈はどれも似通っていて、自分勝手な解釈を施し聖書の真理からかけ離れたことを説きます。それらを聞いていると、よほどマインドコントロールされていれば別ですが、全く聞くに堪えないものです。聖霊のバプテスマを受けて後、聖霊の助けによるまでは、聖書通読は難行苦行でした。今は聖霊の導き手があるので、一転して楽しいです。

 聖霊なる神には平安(ヨハ4:27)があります。平安がない方、そのような方は、ほとほと自分自身に愛想が尽きたでしょうから、もう神さまにますますご自分を捧げてください。すべてを捧げるのです。すべてでないと意味がありません。高慢が敵につけ込ませる隙をつくってしまったかも知れません。神の器が敵の手に陥った時に受ける裁きは、格別厳しいのです。また不安や恐れが襲ってきたとき、それは神からのものではありませんから、「イエス様Help!」と神さまに叫びましょう。子が父に助けを求めるならば、必ず助けてくださいます。私たちの父なる神は、サタンよりはるかに優るお方なのです。それから悔い改めや求めの祈りをしてください。

 このようなすばらしい神の力をもたらす聖霊のバプテスマ、私は何年も何年も求め続けて、それでやっと与えられたのですが、比べればのたとえですが、それまでの人生がくずかゴミ箱と思えるほど、はるかに価値のあるもの、聖書にあるような宝が埋まっていた畑を見つけたようなものでした。帰って自分の持ち物をすべて売り払ってでも手に入れるものでした。

<定義> このような聖霊のバプテスマは、教派によっては洗礼と同時に与えられるとか、洗礼や堅信礼を引き上げるものとかの説明がされますが、聖書では同時に与えられる稀な時もありますが、「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」とは明確に区別しています。

<異言> またペンテコステ派においては、聖霊のバプテスマの現れを「異言」と結びつけているのが特徴です。異言とは一つの言語であり、知らない外国語です。ですから意味があるのですが、解き明かしの賜物によって語られるものです。
 声の大小、やめることも含め、語る者がコントロールできます。異言とは神に向かって語るものであり、霊の戦いの武器でもあります。異言と は自分の徳を高めるものであって、教会などの公の席で、解き明かしがない状態で語られても意味をなしません。使徒パウとは明確に異言を語るより、預言を語ることを薦めました。

 だからといって異言を軽んじてはなりません。異言は神の霊が語らせているのであり、平安があり、力があります。長い時間異言によって祈ることができるのです。日々の生活の中で、異言がいつも出てくるようにするならば、サタンにやすやすと入ることはありません。わたしはぶどうの木であり、わたしの枝にとどまっていなさいと言われた、その平安がありますように。神の賜物を用いることは、常に御心なのです。

2013年3月 3日 (日)

聖霊の証印

Benjamin エペソ1章 13-14節

 証印とは古代世界から今日に至るまでの印鑑です。サイン中心の欧米人より、東洋の私たちの方がよくわかるものです。契約書を作っても、そこに押印がないと無効です。要するに印とは確実であることの印であり保証なのです。ですから聖霊の証印とは、この世を去ってから、後の神の国行きが、「確実」であるという保証の印ということです。

 聖書では、聖霊がその人を支配し、満ちていることを言います。別な言葉で言えば、新しく生まれた者であり、御国を受け継ぐ神の子、神に聞き従うしもべなのです。このことを一昨日の白馬でベンジャミン師(写真)は、「天の父によって選ばれ、子によって贖なわれ、聖霊によって証印を受けた」と何度も言われました。神を信じる者とはそのような者であり、すべての権威と力が与えられ、敵を打ち砕くものである、と。

 なぜこれほどまでに価値があるのでしょうか?それを少し考えてみたいと思います。私たちが属する世界は、星々と月と太陽との規則正しい天体の運行があり、全宇宙を探しても見いだせない唯一の比類のない地球という物質の惑星にあります。しかもそこに驚くべき「生命」を神は賦与されました。どこの世界に1が1000倍になることがあるでしょうか?しかしお米一粒がもし死んで実を結べば、1000粒の収穫があるのです。命は驚くべきものです。これら命の頂点に神は人をお造りになっただけでなく、霊をも吹き込まれました。いいえ逆に、この人のために、森羅万象のすべてを備えられたと言っていいでしょう。

 人に魂と霊とを与えられた神には、一つの目的がありました。逆説的ですが、見える物質、世の富と悪しき霊のただ中に、あらかじめご自分が定められ選ばれた子を同じように生まれさせ、育てさせ、世の試練を受けさせてなお、霊なるご自分を選ぶようになる霊を求められるのです。いわば今の見える世界はすべて、その聖徒ための試験場のような役割をはたしているのです。
 一見して見えないが確かにある世界、物質を超越した永遠の世界を選ぶという、世的には非常に愚かな選択をする者を得る為に、物質の全世界は造られ、存在するのです。それ故にその役目を終えるならば、千年王国の終わりですが、消え去らなければならない世界なのです。

 さて皆さんは御国のパスポート、聖霊の証印をお持ちでしょうか?証印がないと、これはかなり不安ですよね。ではご自分がその証印を持っているかどうかのチェックポイントを考えてみたいと思います。
1、聖霊への「飢え・乾き」があるでしょうか?朝のデボーションを欠かしても平気という方は、これはレッドカード状態です。
2、「謙遜」さはどうでしょうか?聖霊様が自分を支配しておられますと、ただ天の御父の意向が気になり、自分の意向になります。よく「同一視」というのですが、この場合、一般的に自分自身についてはどううでもよくなって、自然に謙遜になっているものなのです。
3、「祈りが聞かれて」いるでしょうか?聖霊による祈りは、当然御心の祈りですから、聞かれて成就するのです。このような場合、祈れば「山が動く」のです。もし成就しない祈りばかりであるなら、それは肉的な祈りをしており、聖霊様の支配が為されていない状態である可能性が高いのです。

 「聖霊の証印」これは決定的に重要です。以上申し上げた点が不確かであるなら、悔い改めて神におすがりし、生まれ変わり、神のものとされる熱い祈りを捧げ続けましょう。決してそれを止めてはなりません。成就するまで、またたとえ成就しても、捧げ続けましょう。  ケパ

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