神の愛
† Ⅰヨハネ4章16章
私たちの信じる神をたった一言で言い表すなら、「神は愛です」の1ヨハネ4章16節になるでしょう。教会の窓にこの御言葉が貼られている理由です。
ところで忠実な信徒に、大きく分けて二種類の人がいます。神をおそれ敬う人と,神を愛する人とです。旧約時代に聖書に登場する人物には、前者の信仰者が多かったようです。おそれることは忠実に従う土台ですから、そのような人物を通し神様の計画はダイナミックに進んで行きました。おそれの反対はないがしろにし侮ることです。それで聖書では、おそれることを知恵の始まりであると言っています。
旧約聖書にダビデという偉大な人物がいます。バテ・シェバとの一件では姦淫や殺人などを犯し、本来なら先王サウルのように神に棄てられても仕方ない人物です。ところが簡単に赦されたばかりか、子々孫々に至る大きな祝福を得ています。どうしてなのでしょうか?その答えは、ダビデが神を愛する人物であったからだと私は思います。おそれて従うより、神を愛して歩む方が、祝福されるのです。
私の教師としての経験から言えることがあります。最近は見かけませんが、休憩時間になるとおそれもなく教卓に近寄って来て、ノートでいっぱいになった机の上を片付けてくれる子がいました。時には「先生、さっきの授業はわからなかったよ」と耳に痛いこともずけずけ言ってくれます。これは教師を信頼し、親近感を持ってくれている子なのです。人格的な交わりを求めている生徒とも言えましょう。表だっては特別扱いはできないものの、このような生徒を教師は内心喜び、信頼するのです。
「愛にはおそれがありません(1ヨハ4:18)」という言葉は、神様に対しても同じことが言えると私は思います。多く赦されている者が多く神を愛するのです。言い方を変えれば、自分をどこまで罪深いと認識しているかであると思います。罪深い自分に希望が無ければ、そのような自分を、十字架にかかってまで愛してくださった神の愛に希望を見い出し、自然、神への愛がわいて来ます。神を愛する者は、神との交わりを求めるのです。同じ18節には「全き愛はおそれを締め出す」とあります。御前におそれずに近づき、何とかして御心を行いたいと願うようになります。神様もそれを待ち望んでおられることは確かなことです。
愛にはおそれがないだけでなく偽りがありません。神に愛されたありのままの自分を喜び、信頼したやすらぎがそこにあります。神は愛そのものお方なのですから。
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