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2013年4月

2013年4月28日 (日)

「善悪の木」はなぜ置かれたのか

創世記2章17節
 アダムとエバの楽園追放から今日に至るまで、私たち人類は罪に苦しんでいます。その私たちから見れば、神がなぜ「善悪を知る木」を園の中央に置かれたのか、理解に苦しむ方がいるかも知れません。

Tree_of_knowlege_2  人は本質において平等です。が、同時に目的があり、事をを成し遂げていくためには、組織というものが避けられません。いわゆる秩序が必要なのです。みな同じでは、「船頭多くして船山に登り」かねません。神は混乱の神でなく、秩序の神です。それゆえ親子や夫婦に、社会に、さらに教会にも権威と秩序があるのです。無論神の国においても、権威と秩序はあることでしょう。注意しなければならないことに、秩序と平等とはぶつかるものでなく、共存するものだということです。世を愛する者は権威と秩序を厭いますが、厭うことも求め願うことも、共に間違っております。神は世の権威にも従うよう言われました。どのような暴君であれ、神によって立てられている(ロマ13:1)のです。神を愛し、神の立てられた秩序を喜ぶことは、従順と感謝の歩みであって、偽りと反逆、不満と憎しみと関わりはありません。

 さて、本日は高慢について言及しなければなりません。なぜならエバはすべての生きる者の母(創3:20)でしたが、同時にヘビによる誘惑に応じてしまい、すべての人が罪を犯すようになったその母でもあるのです。エバのこの重大な過ちは何が原因なのでしょうか?
 今風に言えばエバの気持ちというものは「自己向上心」の表れであったことでしょう。しかしサタンが放ったこの言葉「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり」という言葉は、「明けの明星」とも呼ばれ、美を極めた存在であったサタンが、まさに堕とされた言葉なのです(エゼキ28:2)(イザヤ14:13-14)罪の本質とは、高慢であります。エバがこの言葉に乗ったということは、エバもまた、サタンの本質と同じ高慢さが心の中にあったからに他なりません。高慢がなせる業、神に聞き従い、権威と秩序を尊ぶのではなく、己を神に等しく高めようとする判断をし、それは不信と反抗の道を選んだことになるのです。
 おわかりでしょうか?神を信じる者は権威と秩序に従順でなければなりません。己の判断をその上に置いてはいけません。それは高慢であり滅びの道であります。サタンというものはその高慢を嗅ぎつけ、誘惑の手を伸ばしてくるのです。罪の責任は神にではなく、高慢という罪の人間にあるのです。そして私たち神に聞き従う者は、自分の中に潜む高慢をいつもチェックをしなければなりません。そのワクチンこそ徹底した悔い改めなのです。悔い改めこそ私たちを神の恵みに留める力なのです。

2013年4月21日 (日)

人生の勝利者

詩編23篇6節
 この日本という国は、世界で指折りの安全で豊かな生活をしています。けれどもカンボジアの孤児院を訪れ、職業柄、孤児たちの笑顔を見てからショックを受けたものです。日本の子どもたちにあのような笑顔はほとんど見かけないのです。彼らは生命すら危うい、どん底の状態を経験していたにも関わらず、です。

 大恐慌の少し前になりますが、1923年に世界で最も成功した財閥たちがシカゴのあるホテルに集う機会がありました。ウォール街のドンや最大の鉄鋼会社、最大の専売公社、国際セツルメント銀行などの社長や頭取たちです。彼らの富は当時の世界最大の大国アメリカの国富より多かったかもしれません。しかし25年後、彼らの何人かは刑務所暮らしであり、大半はすでに自殺をしておりました。彼らはお金儲けの達人ではあったかもしれませんが、人生の達人ではなかったのです。
 人間は自分を超越したものを信じ、忠誠を尽くす存在なのです。そうでなければ生きていても意味は無いし、滅んでいくものなのです。人生に究極の意味と目標を与えてくれる存在、それは三位一体の神しかあり得ません。人間はみな、個人的に神を知り、体験する必要があるのです。

 もしあなたがある日突然、会社が倒産したり、愛する子を事故や病で失ったりしたら。また少しも疑ったことすらない人生のパートナーが「ノラ」のように家を出て行ってしまったり・・・・そんな時にどうしますか?しかしどのような困難にも私たちには神様がおられます。世が私を棄てようとも、この方は決して見放されません。それどころか彼の内にすべての鍵があり、敗北はありません。キリストと共にあるなら、罪の全き赦し、平安、喜びがあり、人生の勝利である永遠の命があります。どうかこの神を信じ、受け入れてください。

 私のことを申し上げますと、40歳から14年にわたって苦しみを受けました。この世で一番大切にしてきた家族、打ち込んできた仕事、それらを一つ一つなくしていきした。最後には「希望」すら私には残っているように思えませんでした。生きてはいましたが、死んだも同然でした。この死んだ者を神様があわれまれて、愛の言葉をくださったのです。その瞬間から私は生まれ変わって全く別人になりました。神の絶大な価値の故に、失っていったすべてのものが糞土のようにつまらないものに思えました。同じ姿かっこうをしていと思いますが、もう神様のことだけを考える者・・・・そうです、御心だけを追う者になりました。かつての自分中心の心に戻ることは、決して無いと自分で分かります。確かにこの世では敗残者でしょう、しかし私は永遠の命を聖霊によって確信しているのです。そして天でまことの父に会える日を、心待ちにしているのです。私の力によってではなく、神の愛とあわれみによって、私は世に勝るものを求めているのです。みなさん、これが勝利でなくて何でしょう。

2013年4月14日 (日)

キリストの身たけにまで

 エペソ 4章13節
 日本という国があっても、それは一人一人の国民から成り立っているのと同じように、教会も教会員一人一人によって成り立っています。「キリストの身たけ」とはどういうことで、どうして一人一人が「キリストの身たけ」にまでなる必要があるのでしょうか?

Miake  パウロはクリスチャンの段階を次の3段階に分けて考えていました。よちよち歩きの幼い段階、世で達成しうるレベルの段階、そしてキリストと同じような完全な段階です。最後の段階は、世では達成不可能です。しかし第2段階くらいまで、これを「キリストの身たけ」として明らかに求められているのです。
 私はこれは、キリストにあって新しく生まれた人(2コリ5:17)ではないかと思っているのです。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです・・・・これらのことはすべて神から出ています」つまり自分の努力ではなく、神によって成されて行くものです。
 私もクリスチャンになって30年、悩み迷いました。あれほどの困難がなければ、相変わらず古い人のままであったと思います。他の群れですが教会の中には、新しい人などほとんどいない教会すらあるのです。しかし私たちの教会はそうではありません。
 この新しい人の教会は次のような特徴があります。神に直接聞き従う教会であり、主任牧師がイエス・キリストなのです。一人一人が新しく生まれているので、直接聞き従うことが可能なのです。

 5世紀の偉大な教父の一人にアウグスチィヌスと言う人がいました。ある時彼がカルタゴの街を歩いていましたら、罪の中に歩んでいたかつて馴染みの女から「あーら、お久しぶり」と声をかけられました。するとアウグスチィヌスはきびすをくるっと変え、急いで逃げ出したのです。女は「どうしたの、わたし、私よアウグスチィヌス」と後から追いかけたのですが、アウグスチィヌスは振り返って「わたしはもう昔の私ではない。だからもう追わないでくれ」と答えたのでした。
 「もはや私が生きているのではなく、キリストが生きている(ガラテヤ2:20)」のが新しく生まれた人です。教会員の一人一人がそのような新しくされた人である必要があります。この教会に未信者の人々が来て何を見るでしょうか。見事な会堂?そのようなものはありません。その目の先に、たとえ神を見れなくても、教会員は見えます。教会員の中にキリストの身たけ、神の似姿を見るならば、ここに確かに神がおられ、キリストが満ちている所であることがわかるでしょう。
 クリスチャンが世にあって、自分がクリスチャンであることを告白できない人がいます。それは当然でしょう。世の人々と変わらない者であれば、つまづかせることが分かるからです。しかし、ただ新しくされた者であれば、百の勧誘をするよりもはるかに雄弁に、神様をお伝えすることができます。人々は神をその人の内に見るからです。そういうわけで、私たちは「キリストの身たけ」に至るよう、熱心に祈り求めましょう。また実は、枝から常に新しい養分を受け取って成長するように日々新たにされて行く必要があります。これらは御心ですから、必ず答えられるのです。

2013年4月 7日 (日)

あなたはどう読んでいますか

ルカ 10章25節
 標題は「良きサマリヤ人」の一節です。これは旧約聖書しか知らない律法の専門家に、イエス様が逆質問されBible_07_2たことばです。がしかし、今の新約時代の私たちにも、同じように問われているのです。

 現代でもこの「良きサマリヤ人」のたとえから、「あなたも行って同じようにしなさい」と語りかけられる説教がなんと多いことでしょうか。しかしちょっと待ってください。「行いの律法をまっとうし、永遠の命を得なさい」? それは行いによらず、ただ信じることで永遠のいのちを得させようとされ、そのために世に来られた主イエス様の真意であろうはずがありません。実はこのことばに少し省かれたことば、「できるものなら」と言うことばがあったはずだと私は思うのです。

 さて、読み誤らないために、この律法の専門家が現れた場のおさらいをしましょう。質問に対し、(旧約)聖書で最も大切な戒めは次の二つであるとして、マタイ・マルコでは主ご自身が自らお答えになっています。ところがこのルカでは逆に質問されて、相手の律法の専門家に答えさせています。1点目は周知のことでしたから不審はないのですが、2点目の「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」はイエス様独自の聖書解釈です。それをドンピシャと答えることができたこの律法の専門家は、事前にイエス様のお答えをどこからか聞き及んでいたか、それともただ者ではないか、です。

 場のおさらいはこのぐらいにして、この律法の専門家は「永遠のいのち」も、良きサマリヤ人のように「隣人を愛する」もできていなかったようです。それで質問に来たのですし、「私の隣人とは、誰のことですか」と自ら答えながらわかってはいなかったので質問したのです。頭でわかった風なことを言って人を教えますが、自らは決して実行しない(マタ23:1)人々の典型なのかも知れません。

 イエス様はすべてを見抜かれておられますから、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われたのです。しかしこの律法の専門家が良きサマリヤ人と同じようにできるでしょうか?そして今の私たちにもできるでしょうか?悲しいことに私は「したい」と熱望しますが、「できる」と自信をもって答えることはできません。と言うことは私は、永遠の命を得ることはできません。絶望なのです。

 この「絶望」し、自らの力をあきらめることを主は待っておられるのです。悔い改めです。イエス様の前に洗礼者ヨハネが置かれたのもこのためです。悔い改めた者のみが、十字架のあがないを我がものとし、救われるのです。

 結論から言うと、イエス様の真意とは「(できるものなら)あなたも行って、同じようにしなさい。(それは到底行えない!)」 ならば「悔い改めなさい」なのです。ですから、このたとえを以て「良きサマリヤ人」のように善行をしましょう、と言うのは、かなりピントを外していると言えないでしょうか?

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