キリストの身たけにまで
† エペソ 4章13節
日本という国があっても、それは一人一人の国民から成り立っているのと同じように、教会も教会員一人一人によって成り立っています。「キリストの身たけ」とはどういうことで、どうして一人一人が「キリストの身たけ」にまでなる必要があるのでしょうか?
パウロはクリスチャンの段階を次の3段階に分けて考えていました。よちよち歩きの幼い段階、世で達成しうるレベルの段階、そしてキリストと同じような完全な段階です。最後の段階は、世では達成不可能です。しかし第2段階くらいまで、これを「キリストの身たけ」として明らかに求められているのです。
私はこれは、キリストにあって新しく生まれた人(2コリ5:17)ではないかと思っているのです。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです・・・・これらのことはすべて神から出ています」つまり自分の努力ではなく、神によって成されて行くものです。
私もクリスチャンになって30年、悩み迷いました。あれほどの困難がなければ、相変わらず古い人のままであったと思います。他の群れですが教会の中には、新しい人などほとんどいない教会すらあるのです。しかし私たちの教会はそうではありません。
この新しい人の教会は次のような特徴があります。神に直接聞き従う教会であり、主任牧師がイエス・キリストなのです。一人一人が新しく生まれているので、直接聞き従うことが可能なのです。
5世紀の偉大な教父の一人にアウグスチィヌスと言う人がいました。ある時彼がカルタゴの街を歩いていましたら、罪の中に歩んでいたかつて馴染みの女から「あーら、お久しぶり」と声をかけられました。するとアウグスチィヌスはきびすをくるっと変え、急いで逃げ出したのです。女は「どうしたの、わたし、私よアウグスチィヌス」と後から追いかけたのですが、アウグスチィヌスは振り返って「わたしはもう昔の私ではない。だからもう追わないでくれ」と答えたのでした。
「もはや私が生きているのではなく、キリストが生きている(ガラテヤ2:20)」のが新しく生まれた人です。教会員の一人一人がそのような新しくされた人である必要があります。この教会に未信者の人々が来て何を見るでしょうか。見事な会堂?そのようなものはありません。その目の先に、たとえ神を見れなくても、教会員は見えます。教会員の中にキリストの身たけ、神の似姿を見るならば、ここに確かに神がおられ、キリストが満ちている所であることがわかるでしょう。
クリスチャンが世にあって、自分がクリスチャンであることを告白できない人がいます。それは当然でしょう。世の人々と変わらない者であれば、つまづかせることが分かるからです。しかし、ただ新しくされた者であれば、百の勧誘をするよりもはるかに雄弁に、神様をお伝えすることができます。人々は神をその人の内に見るからです。そういうわけで、私たちは「キリストの身たけ」に至るよう、熱心に祈り求めましょう。また実は、枝から常に新しい養分を受け取って成長するように日々新たにされて行く必要があります。これらは御心ですから、必ず答えられるのです。
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