「善悪の木」はなぜ置かれたのか
† 創世記2章17節
アダムとエバの楽園追放から今日に至るまで、私たち人類は罪に苦しんでいます。その私たちから見れば、神がなぜ「善悪を知る木」を園の中央に置かれたのか、理解に苦しむ方がいるかも知れません。
人は本質において平等です。が、同時に目的があり、事をを成し遂げていくためには、組織というものが避けられません。いわゆる秩序が必要なのです。みな同じでは、「船頭多くして船山に登り」かねません。神は混乱の神でなく、秩序の神です。それゆえ親子や夫婦に、社会に、さらに教会にも権威と秩序があるのです。無論神の国においても、権威と秩序はあることでしょう。注意しなければならないことに、秩序と平等とはぶつかるものでなく、共存するものだということです。世を愛する者は権威と秩序を厭いますが、厭うことも求め願うことも、共に間違っております。神は世の権威にも従うよう言われました。どのような暴君であれ、神によって立てられている(ロマ13:1)のです。神を愛し、神の立てられた秩序を喜ぶことは、従順と感謝の歩みであって、偽りと反逆、不満と憎しみと関わりはありません。
さて、本日は高慢について言及しなければなりません。なぜならエバはすべての生きる者の母(創3:20)でしたが、同時にヘビによる誘惑に応じてしまい、すべての人が罪を犯すようになったその母でもあるのです。エバのこの重大な過ちは何が原因なのでしょうか?
今風に言えばエバの気持ちというものは「自己向上心」の表れであったことでしょう。しかしサタンが放ったこの言葉「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり」という言葉は、「明けの明星」とも呼ばれ、美を極めた存在であったサタンが、まさに堕とされた言葉なのです(エゼキ28:2)(イザヤ14:13-14)罪の本質とは、高慢であります。エバがこの言葉に乗ったということは、エバもまた、サタンの本質と同じ高慢さが心の中にあったからに他なりません。高慢がなせる業、神に聞き従い、権威と秩序を尊ぶのではなく、己を神に等しく高めようとする判断をし、それは不信と反抗の道を選んだことになるのです。
おわかりでしょうか?神を信じる者は権威と秩序に従順でなければなりません。己の判断をその上に置いてはいけません。それは高慢であり滅びの道であります。サタンというものはその高慢を嗅ぎつけ、誘惑の手を伸ばしてくるのです。罪の責任は神にではなく、高慢という罪の人間にあるのです。そして私たち神に聞き従う者は、自分の中に潜む高慢をいつもチェックをしなければなりません。そのワクチンこそ徹底した悔い改めなのです。悔い改めこそ私たちを神の恵みに留める力なのです。
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