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† ルカ 10章25節
標題は「良きサマリヤ人」の一節です。これは旧約聖書しか知らない律法の専門家に、イエス様が逆質問されたことばです。がしかし、今の新約時代の私たちにも、同じように問われているのです。
現代でもこの「良きサマリヤ人」のたとえから、「あなたも行って同じようにしなさい」と語りかけられる説教がなんと多いことでしょうか。しかしちょっと待ってください。「行いの律法をまっとうし、永遠の命を得なさい」? それは行いによらず、ただ信じることで永遠のいのちを得させようとされ、そのために世に来られた主イエス様の真意であろうはずがありません。実はこのことばに少し省かれたことば、「できるものなら」と言うことばがあったはずだと私は思うのです。
さて、読み誤らないために、この律法の専門家が現れた場のおさらいをしましょう。質問に対し、(旧約)聖書で最も大切な戒めは次の二つであるとして、マタイ・マルコでは主ご自身が自らお答えになっています。ところがこのルカでは逆に質問されて、相手の律法の専門家に答えさせています。1点目は周知のことでしたから不審はないのですが、2点目の「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」はイエス様独自の聖書解釈です。それをドンピシャと答えることができたこの律法の専門家は、事前にイエス様のお答えをどこからか聞き及んでいたか、それともただ者ではないか、です。
場のおさらいはこのぐらいにして、この律法の専門家は「永遠のいのち」も、良きサマリヤ人のように「隣人を愛する」もできていなかったようです。それで質問に来たのですし、「私の隣人とは、誰のことですか」と自ら答えながらわかってはいなかったので質問したのです。頭でわかった風なことを言って人を教えますが、自らは決して実行しない(マタ23:1)人々の典型なのかも知れません。
イエス様はすべてを見抜かれておられますから、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われたのです。しかしこの律法の専門家が良きサマリヤ人と同じようにできるでしょうか?そして今の私たちにもできるでしょうか?悲しいことに私は「したい」と熱望しますが、「できる」と自信をもって答えることはできません。と言うことは私は、永遠の命を得ることはできません。絶望なのです。
この「絶望」し、自らの力をあきらめることを主は待っておられるのです。悔い改めです。イエス様の前に洗礼者ヨハネが置かれたのもこのためです。悔い改めた者のみが、十字架のあがないを我がものとし、救われるのです。
結論から言うと、イエス様の真意とは「(できるものなら)あなたも行って、同じようにしなさい。(それは到底行えない!)」 ならば「悔い改めなさい」なのです。ですから、このたとえを以て「良きサマリヤ人」のように善行をしましょう、と言うのは、かなりピントを外していると言えないでしょうか?
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