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2013年5月

2013年5月26日 (日)

ヨブに見る神の祝福

 ヨブ記42章12

 ヨブは義人であったのに、大変な試練を受けた人として有名ですが、誤解もあるようです。
Job
 まず誤解を招くところですが、サタンによってヨブは財産はもちろん、十人の子どもを失いました。子どもを失う・・・・これに多くの方が拒否反応をされます。もし自分の愛する子がそうなったら・・・・・その事実すら受け入れ難い上、生涯の心の傷となる方もいうことでしょう。たとえその後に新しく、同じ十人の子を与えられたとしても、親の気持ちというものは部品の入れ替えのようなわけにはいかないでしょう。確かに思い入れのあった子どもたちを失う、それを二番煎じでは取り返しがつかないという気もしないではありません。もっともなことですが、しかし聖書には理解する幾つかのキーワードが聖書にあります。

 ヨブは先の十人の子に対しては、機会あるごとに必ず全焼のいけにえを捧げていました。これは子どもたちが、「あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない(1:5)」と、どうしても罪の疑いを取り除けない、そんな子どもたちだったからです。
 しかし後の新しく与えられた子どもたちに関しては、その記述が一切ないことから、おそらくは罪を犯す心配のない、信仰的に善良で忠実な子どもたちであったことが分かります。さらに先では全く記述のなかった三人の娘に関しても名前を挙げた上で、「ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった(42:15)」と賞賛すらしてあるのです。飲み食いの宴会を常としていた先の子どもたちに比べ、後の子どもたちは異なり、宴会より先ず神を中心にした生活を営んでいたのでしょう。

  こうして見れば同じヨブの子どもでも、先の子どもたちにはおそらくは裁かれても仕方のない罪を犯していた可能性が高く、その後に与えられた子どもたちは全く異なる祝福された子どもたちであるとうかがい知れるのです。

 さらに「二番煎じ」という決めつけもどうでしょうか。私は先の妻を病で失い、結婚を二回しましたが、後の結婚を二番煎じだとはまったく思っておりません。一番目の結婚があったからこそ、二番目のすばらしさ、神のあわれみと慈しみが骨身に浸みてようく分かるのです。ヨブも同様ではないでしょうか。

 ヨブは試練によってその心は一新されました。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています(42:6)」。もともとヨブは義人でしたが、さらに神と親しく交わる者、神を知る者が得る真の謙遜な者とされているのです。おおよそあらゆる祝福の中で、しかもキリスト以前の時代の人として、これ以上の祝福はありません。ヨブこそ、試練によってもっとも祝福された人物なのです。ヨブ記はそのことを教えてくれる記録なのです。

2013年5月19日 (日)

聖霊の働き(五職と信徒の連携)

使徒1章8節

 先日、教会で使徒・預言者・伝道者・牧師・教師の五職(エペ4:11)を学びました。この五職は、キリスト教草創期(初めの雨)における聖霊の強い働きと、教会の組織を表しています。これらは唯一、聖書によって公認されたものであり、キリストの御体の中での各部分の働きが位置づけられているのです。

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  「後の雨」と呼ばれるリバイバルが間もなく始まろうとする今、再びこの五職の働きがクローズアップされて来ます。重要なのは、やって来る多くの人々の受け入れ体制です。すべてのクリスチャンは「証人」であり、職場や地域に証の使命を受け持っています。が、信徒の場合「信じようとしている人」を、できるだけ早めに教会に導くことが大切です。教会では神が立てた牧師・教師がおり、訪れた多くの方々に福音を語り、聖書を教えて行く使命を持っています。信徒がこれをしてはいけないというのではありませんが、基本的には五職の働きに位置づけられた、神の定めた秩序の中で進めて行くことがベストでしょう。

 私の事を語りましょう。中学校3年生のクリスマスの日から私は、やっとの思いでキリスト教に触れることができ、熱心に教会に通うものになりました。高校時代はずっと通い、聖書を学びました。やがて大学生活のために故郷を離れようとした時、それまで毎週ずっと導いてくれていた老牧師が、初めて私に洗礼を勧めてくれました。3年以上の教会通いでしたが、後にも先にもこの1回だけが入信の勧めでした。

 結局は私は断ってしまい上京しました。ゴールデンウィークに帰ってみると、驚いたことにその老牧師の葬儀がありました。彼は癌の体をおしてずっと私に、聖書の学びを続けさせてくれていたのでした。それから2年して、学生運動に挫折してクリスチャンになる決心をしたのですが、もしあの時、癌だからとか、長きにわたる指導のお礼のつもりで洗礼を受けていたら、私の信仰は人間的なつきあいの結果となり、今と全く異なっていたことでしょう。

 これと反対に、ある教会では教会に来た人のすべてに、最後に信じる祈りを勧めていました。ですから大勢の人が救いの祈りをしました。ところがその後、教会に続けて来る人は1人もいなかったのでした。これはどういうことでしょうか。

 救いは収穫の神がされるのです。神がすでにご計画によって選んでいらっしゃるのです。ですから神に聞き従い、救われるよう祈り、また御体の働きに委ねましょう。証と取りなしの祈りを捧げながら、熱心に証をし、福音を宣べ伝えるのです。神に時を委ね、神はその熟する時をご存じです。神に聞き従って、五職の働きを全うする中で、神の救いの計画が進み、リバイバルが来るのです。

2013年5月12日 (日)

神とサタン

ヤコブ4章7節

 「知らないと損をする」ということは、ままあることです。船橋と高円寺駅間の交通費が620だと思い込んでいましたが、メトロの東西線を間に挟めば560円で行けます。昨日さらに経由切符で450円で行けることが分かりました。これは1/3近い差額でして、知らないと相当損失を受けてしまいます。
 同じように、もっと重大な、取り返しのつかない損失というものがあります。死後、天国と地獄という世界があるということを知らずに死んだなら、これはもう、想像をはるかに超えた重大な、取り返しのつかない損失なのです。それほどではありませんが、クリスチャンになっていても聖霊のバプテスマを知らなかったとすれば、これもかなりの損失でしょう。あんパンを食べているつもりなのに、実はあんパンを知らず、違うパンをあんパンだと思い続けていたようなものです。実際のパン屋ではそんなことは起こりませんが、クリスチャンに限って言えば、聖霊のバプテスマについては知らない人が多いという現実は、明確に聖書に記述されていSatan_27る(マル1:8、使徒1:5・8:14-17・19:1-7)だけに、これはどういうことでしょうか?実は私こそ31年も聖霊のバプテスマを知らずに過ごしていたのです。今でこそすべてを益に変えられて感謝をしておりますが、はじめはその長い年月をまるで「大損をした」ように感じていたものでした。

 さて孫子の兵法に「敵を知り己を知らば百選危うからず」という言葉があります。神様については相当語られてきておりますので、今日はサタンについても知る必要があるのです。サタンは悪魔とか(赤い)竜・(古い)ヘビと呼ばれています。サタン軍団の長であり、下には反キリストとか偽メシアなどの幹部クラス、その他大勢の悪霊たちを従えている神に背く霊的な大組織のリーダーです。彼は聖書に出ているミカエルやガブリエルと並ぶ大天使の一人であり、一説によるとルシファーと呼ばれていました。彼は「神のようになろう(エゼ28:2、イザ14:13-14)」として堕天した出自を持ちます。ですので配下の悪霊たちというのは、その時のもと天使たちだったと考えられるのです。
 サタンの性質ですが、「神に敵対する者」「高慢」「偽り」「誘惑者」が特徴です。彼らの運命は定まっていますが、ちょうど人が死ぬことが定まっていてもその瞬間まではそれを考えずに生きるように、火と硫黄の永遠の火の池に投げ込まれて滅ぼされるその瞬間まで、決して悔い改めることなく逆らい続ける存在です。
 かつて私は「神様はどうしてサタンの奴めを、自由に放しておられるのだろうか?罪に陥り苦しむ者、それで地獄へ行く者が増えてもお気になさらないのだろうか?」と思いました。しかしそれは神様のご性質への無知なためでした。神は聖にしてきよく、善なるお方です。エバ以来、罪人の私たちは、このままでは決して触れることも交わることもできない存在なのです。しかし罪を悔い改め新生し、聖霊のバプテスマが注がれます。その時世にありながら、神の国が一人一人の中に実現していきます。言わば私たちの罪をあぶり出し、悔い改めさせるためにサタンは用いられるのです。神の国ができるまでは、サタンはその産婆役をさせられているのです。
 クリスチャンとは福音と証を通し、サタンに囚われている人々の目を開いて、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせる(使徒26:18)使命があります。ただし、自分の力でするのではなく、神に従って、そしてサタンに立ち向かって(ヤコ4:7)この使命を果たすのです。

2013年5月 5日 (日)

神の国とエデンの園

ルカ17章20ー21節
 エバが善悪の知識の木から、その禁断の実をとって食べてからというもの、人類はHeaven_41 永遠に失楽園状態になったと思うのが普通かも知れません。そのエデンの園は、何よりも神様との交わりの場でした。今日みなさんにお伝えしたいのは、エデンの園は今日姿を変え、この地上に復活していることです。
 聖書では次のようにこのことを伝えています。
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタ11:12、参ルカ16:16)

 天の(神の)御国とはもちろん神様と親しく交われるところです。つまりエデンの園が再びこの地上に現れる、それを渇望する者たちが得ているとキリストは言っているのです。言葉を変えて聖書では次のように言い表しています。
イエスは答えて言われた。「-略- 人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハ3:3)
 これは言い換えると「新生するならば、(あなた方は世でも)神の国を見る」と言われているのです。さらにその新生とは同5節には「水と御霊によって生まれ」るとあります。これはヨハネがした悔い改めの水のバプテスマを指しますから、求める人の悔い改めの上に、聖霊様の働きによって新しく生まれるのです。人は新生するために自分のどこを、どう直したら良いか分かりませんし、たとえ分かっていたとしても実際に直す力がありません。ただ神が御心のままになされるのみです。

 みなさんの中には聖霊のバプテスマを受けられた方も多いことでしょう。しかし今日私が危惧しますのは、それが過去の一回だけのメモリアルに留まってしまったり、もしくは数度かも知れませんが、しかしその後日々、神と交わる場を失っている人が多いことです。しかしそれでは、あこがれの学校にパスしても、入学式の翌日から全く学校へ行っていないようなものです。せっかく入学してもあまり意味がありません。聖霊のバプテスマとは、聖霊に満たされる最初の現象を言いますが、その後も日々あるのです。かつてのエデンの園でのように、毎日のように神様が来てくださり、アダムが交わっていたようにです。
 確かにエデンの園と新生とはだいぶん異なっておりましょう。しかし、神様と親しく交わるという本質は全く同じです。永遠のいのちの木のある園、エデンの園は確かに地上の私たちのただ中に再び来ているのです。はっきり言えることは、信仰的の確信は、神と日々交われる神の国の確信、その個人的な体験、ここにあると言うことです。
「-略- いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ 17:21)

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