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2013年6月

2013年6月30日 (日)

キリストの復活

使徒 2章32節
 エジプトのピラミッド、インドのタージ・マハル、中国の始皇帝廟、日本の仁徳天皇陵など世界の歴史的な遺産の多くは、巨大な墓であり、これはよみがえりのためのものです。どんなに生き続けたくても人は必ず死に、ならば死んだ後またよみがえりたい願いは、人類共通の強いものなのです。しかしどんなに立派な墓を造っても、誰一人として実際によみがえることはありませんでした。すべては空しいことでした。
 しかしここに一つの例外が存在します。その人はなんと十字架につけられ、死が完全に確かめられて埋葬されたのに、三日目によみがえりました。よみがえっても普通はまた死ぬのですが、このお方は新しい体で現れ、二度と死ぬことがなかったのです。その方は全能の神なる右の座に今も座しておられ、名をイエス・キリストと言います。
 彼の復活を信じる教えをキリスト教と言いますが、キリスト教と言ったら十字架が有名でありシンボルです。確かに十字架は罪の赦し(贖罪)を表す最も大切なものですが、しかしそれも復活が無かりせば空しいのです。使徒信条というキリスト教信仰を凝縮して言い表すものがありますが、その中心は復活なのです。

 

 キリストがなぜ復活されたか、それには重要な理由があります。
 まず第一に、全人類の罪を背負ってキリストは十字架上で息を引き取られたのですが、よみがえりによってその「贖い」が完全に終了しただけでなく、それ故に永遠の命へと移行したことを表します。「死は勝利にのまれた(Ⅰコリ 15:54)」のです。キリストが復活しなかったら、私たちには自分の罪が赦されたことが分からず、神の国へ行くこと、永遠の命への希望はないのです。しかしキリストの復活は初穂であって「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました(Ⅰコリ 15:20)」、復活したキリストを信じる私たちもまたキリストと同様、新しい体を与えられ、永遠のいのちへとよみがえさせられるのです。
 次にもし、キリストの復活がなかったなら、キリストが私たちのために神の右の座で今もとりなしてくださり、「足跡」のように今も私たちと共に生きることはなかったでしょう。さらによみがえらずに黄泉の国に居り続けられたのであれば、再臨はありえません。復活され、天からこの地上に再び戻られる必要があるのです。
 このようにキリストの復活こそキリスト教信仰の土台でした。かつて使徒時代の多くのクリスチャンは、人々に受け入れられにくい復活の信仰のゆえに、迫害と殉教が尽きることはありませんでした。自分が信じてもいない、虚構のために一つしかない命をかけることができるでしょうか?キリストの復活が真実であったからこそ、彼らは殉教者の道を選んだのです。アーメン

 

2013年6月23日 (日)

あなたは私を愛しますか

ヨハネ 21章16節    

 私の名前はペテロでありケパですので、本日の聖書個所であるこのイエス様とペテロとのやりとり・・・・難解なところもありますが・・・・関心を持ち続けていました。
 この時ペテロたちは、イエス様から指示されてエルサレムからガリラヤに帰っていましたが、どうも手持ちぶさただったようです。それで元は漁師でしたから、ガリラヤ湖で漁をしていたのです。そこに復活されたイエス様が現れて、朝の食事の用意をされたのです。そしてはじめの時のように不漁から大漁に変えられたところで、弟子たちはそれが主イエス様であることに気づいたのです。
 この流れで行きますと、次の「この人たち(他の6人の弟子たちの誰よりも)以上に、私を愛しますか?」と言う言葉は唐突な印象を受けます。むしろ、「この」というギリシャ語は、人か物かを区別できないものなので、直前までしていた元の<漁師>を愛する以上に<イエスに従う弟子としての召し>を愛するのか?と言う意味の方が自然です。そしてペテロが弟子としての道を選ぶのであれば、<わたしの羊の世話に時間を捧げなさい。お前の仕事ではなく、わたしの仕事に>とイエス様の指示がピタッとはまります。
 さらにイエス様は3回の内、2回目までは「アガペー」という言葉を使われたのですが、3回目はペテロと同じフィレオーという言葉を使われました。より高い献身を意味するアガペーを下げて、ペテロと同じフィレオーという言葉を使われた。これはつまりペテロのレベルにまで主が下りてくださり、<あなたのその(低めの)愛のレベルで良いから>という受容の意味に受け取れるではありませんか。
 「献身」とか「神に聞き従う」という言葉の動機に、もし神への愛がなければそれは虚しいのです。イエス様は「愛」をペテロにチャレンジされました。ペテロ同様に私たちも、信仰や行いのすべてが、キリストなる神への「愛」ゆえでなければ、と思います。愛はキリストから注がれ、そのキリストへ返して行くものなのです。

 最後にイエスに従った結果、ペテロが行く道は投獄と殉教の道です。先には「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます(13:36)」とされた所へ、今は開かれ招かれているのです。「行きたくないところ」はキリストの道の終着点が語られているのですが、ペテロが死に怖じ気づいて「行きたくない」のだと理解してはならないでしょう。伝承ですが、キリストの栄光ある十字架はおそれ多く、自分は逆さ十字架を望んだペテロです。殉教とは神から選ばれた者の最高の恵みであり、キリストにならう特権なのであって、まさに栄光なのです。

2013年6月16日 (日)

教会はキリストのからだ

エペソ 1章20~23
 牧師としてこれまで人から相談を受けたり、時には「祈ってください」とリクエストされることがありました。その中のある方の例ですが、非常に経済的な困難な状況で、ずっと苦しんでいらっしゃるのです。その中でカリスマの信仰も求めておられ、時には東京カリスマ聖会に出席されたりアンテオケのホームページを観ていらっしゃるようです。それである時、こう言われるのです。アンテオケ教会のホームページに絶大な人気の「クリスチャンの寄り道」と言うのがありますが、こう言われるのです。「『クリスチャンの寄り道』にはいっぱい祝福があるのに、どうしてわたしにはないんでしょうか?」と。
 わたしは言葉に詰まって、一瞬「神さまにどう答えたらよいのでしょうか?」と祈ると、「はっきりとその訳を言いなさい」と示されるんです。それで言いにくかったのですが、その方にズバリ、次のように答えました。
「あなたは教会に来ておられないので祝福がないのです。教会はキリストの体ですので、体に伴う実際的な恵みが注がれないんです」と。

 確かにキリストのみ体である教会に属するのと属さないのとでは、大きな違いがあるのです。なぜなら教会とは「キリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ(エペ 1:23)」です。ここに居られるみなさんは、お一人お一人がもはやキリストの体の一部(1コリント6:15)となって教会に属しています。逆に言えばキリストの体の一部とならないことには、霊的にはともかく、実体がない幽霊も同然です。教会に属して信仰の実質が、祝福の実があらわれるのです。

 教会という御体につながることは、十戒の3条を除く十戒の第1条「神は唯一である」から4条の「安息日」までをカバーします。殉教した代々の聖徒たちは、命をかけて教会に集い、礼拝を守ったのです。
 わたし事ですが、信仰がカリスマ派になるに及んで、元の教会に属することができなくなった時期がありました。その時の霊性の落ち様は破滅的なレベルのものでした。教会に属していないで健全な信仰というものは、その時あり得ないことを身を以て体験しました。みなさん、教会に属していない、愛する兄弟姉妹のために祈りましょう。その多くは真の神を見い出せず、自分中心の実のない信仰のままです。また教会の人間関係に躓いたのかも知れませんが、それで教会に行かないというのは、完全に誤った選択です。神様に自分の教会を導いていただく祈りをするべきでした。一度は光を見た愛する兄弟姉妹よ、教会に戻りなさい。その迷える魂を神に委ね、従いなさい。私たちも熱心にとりなしの祈りを捧げましょう。

2013年6月 9日 (日)

全世界に優るいのち

マタイ16章26節
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」

 私はこの御言葉から、強い警告的なインスピレーション(霊感)を受けます。この御言葉がわかっていることのように思えて、実は他人事にしている、そんな肉のクリスチャンに語られています。ここで語られている「全世界」に優る「まことの命」を損じ、神の言葉がないがしろにしていながら、自分はクリスチャンだとしている人にです。神を信じ、全身全霊を捧げているように見えても、それは目に見えるイエス・キリストに対してであって、そのイエスを世に遣わされた神と神の国に対してではない、と指摘されているのです。

 聖書を見ると全世界の真の所有者は、サタンではなく、神であることは明らかです(創世18:25、出エ19:5、イザヤ13:5)。サタンは期限付き(つまり神の計画と段階があって)で、世というやがて滅ぶ世界を一時的に預かっているだけなのです。それもサタンはその期限を知らないのですから、占有権もない家屋の賃貸や借地権以下の、かなり限定的なものです。
 そうは言いながら私たちは物質的な肉体を持っており、生きて行くためには、と・・・・この肉体の維持のために食べなければいけませんし、寝なければなりません。命の、世にある限り、サタンが支配的な世の現実の中で、肉の試みを受け続けていかなければなりません。神を信じない多くの人、また神の力を知らないクリスチャンは、この世の、サタンの支配を唯々諾々と受け入れる以外に道はないことでしょう。
 荒野での誘惑の際、40日40夜の断食後、「この石がパンになるように命じなさい」と迫るサタンに、キリストはこう言われたのです。肉体の極度の飢えの中でキリストが答えたのは、「神の口から出る一つ一つのことばによる(マタ4:3ー4)」でありました。人が生きるのはパンではなく、神のことば(みこころ)だと言われるのです。

 ここでも「たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」という究極の選択が問われているのです。わたしたちは、これまでの古い自分が「まことの命の前に」持っていたあらゆる世の価値あるものを、比べものにならないほど取るに足らないものとしなければなりません。自分のアイデンティ、人生の目標、特技、財産、父母兄弟姉妹親族、故郷、学歴などいっさいのものが世のものです。「わたしのためにいのちを(つまりそれら)を失う者は、それを(まことのいのち)を見いだす」のです。ただし、それらを自分の力でしないでください。神が愛する子にしてくださいます。それを試練といいます。試練はすばらしい神の愛であり、子としてくださった恵みではありませんか。

2013年6月 2日 (日)

神の愛と信仰

ローマ5章6節
  この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 この世の宗教とは、自分の願いごとを祈りとして、この世の神にそれを求めて行きます。また神などを一切信じないお方もいるでしょう。そのような方は自分自身を神として生きておられるのです。この世の宗教も、自分教も結局は一つに帰結します。人生は自分自身のものであり、自分が幸福になれるように、自分が良いと思うように生きたいのです。

 しかし自分の願いとは自分の欲望が生んだものであって、それは支配欲、物質欲、所属欲などの産物です。これらの豊かさの究極の姿は、「お金」が代表する「富」です。金にとりつかれての殺人や自殺は後を断ちません(無信仰国日本は世界に冠たる自殺大国です)し、国家単位では戦争すらいといません(先の大戦では人の命を「一銭五厘(はがき代)」と呼んだことを思い出してください)。

 「お金」は生きていく上で必要なものですが、イエス様が荒野での誘惑で答えられたように、「神の口から出ることば」以上のものではありません。お金は偽りの目的なので、どんなにこの世での富が豊かにされても、心に喜びがありません。一つ目標を得るとすぐさまもっと激しい飢え乾きに囚われます。また人を信じることができず、孤独に打ちひしがれて行きます。

 大切なのは何を一番とするかであり、その優先順位をきちっと明確にできているかなのです。それには真実の神への信仰が唯一の前提条件です。イエス・キリストを信じる者に、何がこの世で一番大切かという質問は、これはもう愚問の類いなのです。三位一体の神を心から信じることから初め神の愛がわかります。どれほど自分が神に愛されているかということがわかることによって、神とのより深い関係、すすんで自分を神に捧げ、神の愛に応答したくなるのです。

 さらに熱心に求める人、みこころの方々には「(聖霊のバプテスマによって)新しく生まれる」道が開かれます。そうすれば神の声に「聞き従う」信仰生活が営まれていくことでしょう。このようにこの世の神ではなく、真の神を選び従う人への祝福と愛は、限り無い喜びがわきあふれる人生であり、そのように実にダイナミックに変えられていく祝福の人生なのです。

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