あなたは私を愛しますか
† ヨハネ 21章16節
私の名前はペテロでありケパですので、本日の聖書個所であるこのイエス様とペテロとのやりとり・・・・難解なところもありますが・・・・関心を持ち続けていました。
この時ペテロたちは、イエス様から指示されてエルサレムからガリラヤに帰っていましたが、どうも手持ちぶさただったようです。それで元は漁師でしたから、ガリラヤ湖で漁をしていたのです。そこに復活されたイエス様が現れて、朝の食事の用意をされたのです。そしてはじめの時のように不漁から大漁に変えられたところで、弟子たちはそれが主イエス様であることに気づいたのです。
この流れで行きますと、次の「この人たち(他の6人の弟子たちの誰よりも)以上に、私を愛しますか?」と言う言葉は唐突な印象を受けます。むしろ、「この」というギリシャ語は、人か物かを区別できないものなので、直前までしていた元の<漁師>を愛する以上に<イエスに従う弟子としての召し>を愛するのか?と言う意味の方が自然です。そしてペテロが弟子としての道を選ぶのであれば、<わたしの羊の世話に時間を捧げなさい。お前の仕事ではなく、わたしの仕事に>とイエス様の指示がピタッとはまります。
さらにイエス様は3回の内、2回目までは「アガペー」という言葉を使われたのですが、3回目はペテロと同じフィレオーという言葉を使われました。より高い献身を意味するアガペーを下げて、ペテロと同じフィレオーという言葉を使われた。これはつまりペテロのレベルにまで主が下りてくださり、<あなたのその(低めの)愛のレベルで良いから>という受容の意味に受け取れるではありませんか。
「献身」とか「神に聞き従う」という言葉の動機に、もし神への愛がなければそれは虚しいのです。イエス様は「愛」をペテロにチャレンジされました。ペテロ同様に私たちも、信仰や行いのすべてが、キリストなる神への「愛」ゆえでなければ、と思います。愛はキリストから注がれ、そのキリストへ返して行くものなのです。
最後にイエスに従った結果、ペテロが行く道は投獄と殉教の道です。先には「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます(13:36)」とされた所へ、今は開かれ招かれているのです。「行きたくないところ」はキリストの道の終着点が語られているのですが、ペテロが死に怖じ気づいて「行きたくない」のだと理解してはならないでしょう。伝承ですが、キリストの栄光ある十字架はおそれ多く、自分は逆さ十字架を望んだペテロです。殉教とは神から選ばれた者の最高の恵みであり、キリストにならう特権なのであって、まさに栄光なのです。
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