キリストの復活
† 使徒 2章32節
エジプトのピラミッド、インドのタージ・マハル、中国の始皇帝廟、日本の仁徳天皇陵など世界の歴史的な遺産の多くは、巨大な墓であり、これはよみがえりのためのものです。どんなに生き続けたくても人は必ず死に、ならば死んだ後またよみがえりたい願いは、人類共通の強いものなのです。しかしどんなに立派な墓を造っても、誰一人として実際によみがえることはありませんでした。すべては空しいことでした。
しかしここに一つの例外が存在します。その人はなんと十字架につけられ、死が完全に確かめられて埋葬されたのに、三日目によみがえりました。よみがえっても普通はまた死ぬのですが、このお方は新しい体で現れ、二度と死ぬことがなかったのです。その方は全能の神なる右の座に今も座しておられ、名をイエス・キリストと言います。
彼の復活を信じる教えをキリスト教と言いますが、キリスト教と言ったら十字架が有名でありシンボルです。確かに十字架は罪の赦し(贖罪)を表す最も大切なものですが、しかしそれも復活が無かりせば空しいのです。使徒信条というキリスト教信仰を凝縮して言い表すものがありますが、その中心は復活なのです。
キリストがなぜ復活されたか、それには重要な理由があります。
まず第一に、全人類の罪を背負ってキリストは十字架上で息を引き取られたのですが、よみがえりによってその「贖い」が完全に終了しただけでなく、それ故に永遠の命へと移行したことを表します。「死は勝利にのまれた(Ⅰコリ 15:54)」のです。キリストが復活しなかったら、私たちには自分の罪が赦されたことが分からず、神の国へ行くこと、永遠の命への希望はないのです。しかしキリストの復活は初穂であって「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました(Ⅰコリ 15:20)」、復活したキリストを信じる私たちもまたキリストと同様、新しい体を与えられ、永遠のいのちへとよみがえさせられるのです。
次にもし、キリストの復活がなかったなら、キリストが私たちのために神の右の座で今もとりなしてくださり、「足跡」のように今も私たちと共に生きることはなかったでしょう。さらによみがえらずに黄泉の国に居り続けられたのであれば、再臨はありえません。復活され、天からこの地上に再び戻られる必要があるのです。
このようにキリストの復活こそキリスト教信仰の土台でした。かつて使徒時代の多くのクリスチャンは、人々に受け入れられにくい復活の信仰のゆえに、迫害と殉教が尽きることはありませんでした。自分が信じてもいない、虚構のために一つしかない命をかけることができるでしょうか?キリストの復活が真実であったからこそ、彼らは殉教者の道を選んだのです。アーメン
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