全世界に優るいのち
† マタイ16章26節
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」
私はこの御言葉から、強い警告的なインスピレーション(霊感)を受けます。この御言葉がわかっていることのように思えて、実は他人事にしている、そんな肉のクリスチャンに語られています。ここで語られている「全世界」に優る「まことの命」を損じ、神の言葉がないがしろにしていながら、自分はクリスチャンだとしている人にです。神を信じ、全身全霊を捧げているように見えても、それは目に見えるイエス・キリストに対してであって、そのイエスを世に遣わされた神と神の国に対してではない、と指摘されているのです。
聖書を見ると全世界の真の所有者は、サタンではなく、神であることは明らかです(創世18:25、出エ19:5、イザヤ13:5)。サタンは期限付き(つまり神の計画と段階があって)で、世というやがて滅ぶ世界を一時的に預かっているだけなのです。それもサタンはその期限を知らないのですから、占有権もない家屋の賃貸や借地権以下の、かなり限定的なものです。
そうは言いながら私たちは物質的な肉体を持っており、生きて行くためには、と・・・・この肉体の維持のために食べなければいけませんし、寝なければなりません。命の、世にある限り、サタンが支配的な世の現実の中で、肉の試みを受け続けていかなければなりません。神を信じない多くの人、また神の力を知らないクリスチャンは、この世の、サタンの支配を唯々諾々と受け入れる以外に道はないことでしょう。
荒野での誘惑の際、40日40夜の断食後、「この石がパンになるように命じなさい」と迫るサタンに、キリストはこう言われたのです。肉体の極度の飢えの中でキリストが答えたのは、「神の口から出る一つ一つのことばによる(マタ4:3ー4)」でありました。人が生きるのはパンではなく、神のことば(みこころ)だと言われるのです。
ここでも「たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」という究極の選択が問われているのです。わたしたちは、これまでの古い自分が「まことの命の前に」持っていたあらゆる世の価値あるものを、比べものにならないほど取るに足らないものとしなければなりません。自分のアイデンティ、人生の目標、特技、財産、父母兄弟姉妹親族、故郷、学歴などいっさいのものが世のものです。「わたしのためにいのちを(つまりそれら)を失う者は、それを(まことのいのち)を見いだす」のです。ただし、それらを自分の力でしないでください。神が愛する子にしてくださいます。それを試練といいます。試練はすばらしい神の愛であり、子としてくださった恵みではありませんか。
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