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2013年7月

2013年7月28日 (日)

わたしたちの教会の使命

Ⅰコリント 14章12節

 フィラデルフィアの教会とは黙示録の七つの教会の一つです。しかし他の教会と異なっている点がありました。
「・・・・ことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう(黙3:10)」
ここでの「全世界に来ようとしている試練の時」とは、この後の七年の患難時代に他なりませんし、「守ろう」とは「携挙」されることなのです。つまりフィラデルフィアの教会だけが唯一携挙される教会なのです。それはなぜかと言うと、「神のことばを守って忍耐し、神の名を否まなかった」からなのです。
 神の言葉とは聖書です。また聖書の枠内にある「預言」でもあります。特に聖書を神の言葉として100%信じる信仰がなければ、死をも恐れずに神の名を称えることはできないことでありましょう。これがフィラデルフィアの教会なのです。この群れだけがそうであると言う訳ではありませんが、確かにこの群れは聖書を原典において神の言葉とする信仰に立っている教会でなのです。

 さて船橋キリスト教会はわが国民同胞を、大勢神の国へ携挙させる特別な使命が与えられています。ところがこの国にはそれを阻む巨大な壁があります。長所とされてきた事物を知的に考えようとし、目に見えないことを容易に信ぜず、あらゆることに主体的に考え判断しようとする、普通は長所である聡明さが問題なのです。これは霊的な見地で言えば、みな「自分教」に冒されているのであり、自分が神という百花繚乱、八百万の多神教徒と言えるのではないでしょうか。一例をあげれば、もし進化論を否定し、聖書的な創造論を真顔で説明すれば、この国では精神病院に送られかねないのです。

 このような人々を打ち砕くのは、死人のよみがえりのような「奇跡」や目に見えての「癒やし」などの力系の賜物でしょう。その上に人々は「預言」に驚嘆し、神が実際に居られることに気づくことでしょう。この国のリバイバルは、日本人の高慢な知性を粉々に打ち砕く神の力によって、大きく開かれていくとわたしはかたく信じているのです。
 わたしたちの教会は聖書を神の言葉と信じる信仰の土台の上に、聖霊のすべての賜物を熱心に求める教会であり、その上にリバイバルに必要な神の力、今現在でも「預言」や「癒やし」などの不思議と奇跡に満ちている教会なのです。ですから聖書の「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい(1コリ14:1)」を文字通り実践し続けているのです。愛する兄弟姉妹の皆さん、退いてはいけません。かたく信仰に立って、さらに時が来るまで熱心にし続けて行きましょう。

2013年7月21日 (日)

どうしたら私たちは携挙されるのでしょうか?

マタイ  24章42-51節

 今私たちが生きているこの時代、聖書の黙示録の時代(艱難時代)を迎える可能性が非常に高くなりました。特に後半の3年半、大患難時代はたいへんな時代です。獣の像を拝まずにその刻印を身に受けない者は、ものを売ることも買うこともできず、殉教しか残された道はないというような時代です。反キリストが直接支配するすさまじい後半の大患難時代を迎えずにすむ、唯一の道として携挙があります。クリスチャンにとって携挙されるかされないかは、極めて切実な問題です。

 この携挙について、教会としては黙示録の七つの教会のうち、フィラデルフィアの教会が携挙される教会であることを学びました。しかしこのフィラデルフィア教会員であっても羊として携挙される者、山羊として携挙されない者が生じます(マタ25:32)。そこで携挙に関しての三つのポイントを学んでまいりましょう。

○忠実なしもべ  まずこの「忠実な賢いしもべ」のたとえですが、主人がいつ帰って来ようと、いつも裏表なく忠実に働いていることだとされています。一言で言えば「自分の考え(「まだ主人は帰って来るはずがない」)ではなく、忠実に指示されたことをし続けて」いかなければならないことを意味しています。

○10人の乙女  このたとえ話での油は聖霊を表しています。「花婿がそんなに遅れて来ることはまずないだろう」と自分の考え・判断を優先した者は油が切れ、宴席(携挙)には与れないというたとえです。私たちは神のしもべ、はしためであり、主の御心に忠実でなければなりません。油の予備を用意していた乙女たちは、どんなに遅くなってでも花婿を迎えることができるよう備えていたのです。単なる忠実さではなく、熱心さと思慮を伴った忠実さにこのたとえでは深まっています。

○タラントのたとえ この最後のたとえには特異な点があります。主人は実際に商売をしたしもべのもうけの額とは関係なく、したことをまったく同じことばでほめたということです。それはタラントの違い=各人に与えられた能力の大小ではなく、それを用いたかどうかに神の目は向いているのです。与えられた賜物(自分の力)の大小や優劣は言い訳になりません。あるものを信仰をもって用いるのです。そうすればさらに増し加えられて行くと、聖書は言っているのです。少ないからと隠しておいたしもべは暗闇の外、つまりサタンの支配する大寒難時代に残されることになりました。

 これら三つのたとえ話は「召されたことを忠実に」「熱心さと思慮をもって忠実に果たし」「自分の能力で判断することなく、結果を考えず主人の指示を忠実にやり遂げる」ということなのです。これが携挙の条件だと聖書は言っているのです。明確なこれらの点を守って確実に携挙されましょう。

2013年7月14日 (日)

パトモス派遣パウロ牧師メッセージ

「神はご自分の計画を前もって語られます」

「あなた方を世界に遣わす」と語られた時、ある者は信じ、ある者は信じませんでした。信じない方が自然だったかも知れません。なぜならその当時、日本には海外宣教している教派教団はほんのわずかでした。その上、発足したばかりの小さな単独教会でしいた。その上英語が堪能な人はほとんどおらず、資金も、海外との関わりもなかったからです。
 語られたことが成就するよう信じた人たちで祈り続けましたが、2、3年全く進展が無く、それが永遠に続く時間のように感じられたものです。しかし時が来た時にそれは成就し、今では日本の中では、もっとも海外宣教を行っている教会になっています。人間的には考えられないことであっても、信じ受け取って行く時、それは神の方法で成就していくのです。

 仙台に蔵本牧師という方がおられますが、「あの大震災で、タンスの上などから何も落ちなかった」と言っておられます。予告されていたので、地震への備えができていたからです。あらかじめ備えるということがいかに大切なことであるかがわかります。私たちが毎年パトモスに来るのは、携挙へ「備える」という意味であり、召しが全うできるよう「用意する」ということなのです。備え、用意を怠って万が一残ってしまえば、その時には殉教しか道がない艱難時代が来るからです。

 さてアメリカでは同性婚を許容しないのは、違法であるとの判決が出たそうです。しかしこの同性愛についてはEUの方がもっと進んでおり、聖職者まで進んでいます。ヨーロッパの街は近代的できれいですが、そこはサタンが住むとんでもない所になりつつあるのです。ヒットラーどころではない、恐るべき独裁者反キリストが登場する土壌ができつつあるのです。
 惑わしがおこり、あのケネディのように彼は清々しく登場してくることでしょう。中東和平を実現したりする時代のヒーローになりますが、クリスチャンを迫害します。三人の者を打ち倒し、暗殺されても奇跡的によみがえります。そして後半の大艱難期には聖徒に打ち勝つと言われますので、獣の印を拒むクリスチャンを皆殺しにすることでしょう。これには、浦上四番崩れの、高木清右衛門のように祈って備えることなのです。
 神があらかじめご自分の計画を語られるのは、私たちの守りのためであり、ただ指示されただけのことをするのだけでなく、私たちが自らの意思で神の計画を果たして行く時、神のご計画はさらに進展し、完全に成就していくのです。
  Capha

2013年7月 7日 (日)

信仰と復活

ローマ 4章24節
 先週は復活についてでしたが、今週は「信仰」についてです。「義とみなされる」とは罪人であったのにまるで罪がない(=義:ただ)しい者とされることであり、確かにそうでなければ神の国に入ることは難しいことでしょう。聖書は義とされることに相当言葉を費やしてますが、今日の私たちは、信仰と義について余り解き明かされていないのです。
 クリスチャンになることを、聖書は「信仰に入る」と言っています。しかし「信仰に入って」も、ただちに「義とされる」わけではありません。「義とされる」ということは、たとえて言えば「裁判の判決で無罪」にされるような意味です。また神の国へ行けること、真に救われることを「信仰によって義とされる」というような表現をしています。
 この「義とされる」については、ガラテヤ書の2章15ー21までに詳しく書いてあります。ここでは「律法」と「信仰」について述べてありますが、要するに神との関係は行いではなく、神は愛ですから、愛し愛される関係によって「義とされる」と言うように受け取れるのです。つまり相互の関係性を表す言葉なのです。
 分かり易くたとえてみましょう。「放蕩息子のたとえ」で語れていたのは何のことでしょうか?読めば、この話は、生前贈与まで受けた財産を放蕩し、見放されて当然の次男がいかに父から愛されていたかがわかる話です。ある意味で父は、はじめから財産の放蕩とその哀れな結果を見通し、たとえボロボロになってでもこの息子のあるものを得ようとしたのです。

「何を」でしょうか?それは父の心がわかる真に謙遜な心でした。心と心が交わるためには、放蕩という肉が失われなければならなかったのです。しかし兄はどうでしょう?弟の帰還を喜ぶどころか、家に入らず、嫉む心をもはや抑えることができないのです。このような長男はあからさまに父に逆らうことのない一見良い子でしたが、実は父とは表面的な「律法的な関係」であり、「良い子」故に父の心と遠く離れている実際を露呈したのです。
 神はこれほどまでに私たちの心を求めておいでなのです。私たちが「信仰」と言った時、何か難しいもの、教えとか告白とか、なんだかよくわからないがとにかく何があっても「信じ続ける決心」とか思いがちですが、ひと言で言えば神さまとの正しい関係であって、それは神を知って体験し、世の何よりも、愛され愛する関係のことだと理解すればまず間違いありません。心から神を愛しているのであれば、あなたは信仰を有しているのです。そしてそれは、あなたの力でも手柄でもありません。神からの賜物によってであり、恵みなのです

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