どうしたら私たちは携挙されるのでしょうか?
† マタイ 24章42-51節
今私たちが生きているこの時代、聖書の黙示録の時代(艱難時代)を迎える可能性が非常に高くなりました。特に後半の3年半、大患難時代はたいへんな時代です。獣の像を拝まずにその刻印を身に受けない者は、ものを売ることも買うこともできず、殉教しか残された道はないというような時代です。反キリストが直接支配するすさまじい後半の大患難時代を迎えずにすむ、唯一の道として携挙があります。クリスチャンにとって携挙されるかされないかは、極めて切実な問題です。
この携挙について、教会としては黙示録の七つの教会のうち、フィラデルフィアの教会が携挙される教会であることを学びました。しかしこのフィラデルフィア教会員であっても羊として携挙される者、山羊として携挙されない者が生じます(マタ25:32)。そこで携挙に関しての三つのポイントを学んでまいりましょう。
○忠実なしもべ まずこの「忠実な賢いしもべ」のたとえですが、主人がいつ帰って来ようと、いつも裏表なく忠実に働いていることだとされています。一言で言えば「自分の考え(「まだ主人は帰って来るはずがない」)ではなく、忠実に指示されたことをし続けて」いかなければならないことを意味しています。
○10人の乙女 このたとえ話での油は聖霊を表しています。「花婿がそんなに遅れて来ることはまずないだろう」と自分の考え・判断を優先した者は油が切れ、宴席(携挙)には与れないというたとえです。私たちは神のしもべ、はしためであり、主の御心に忠実でなければなりません。油の予備を用意していた乙女たちは、どんなに遅くなってでも花婿を迎えることができるよう備えていたのです。単なる忠実さではなく、熱心さと思慮を伴った忠実さにこのたとえでは深まっています。
○タラントのたとえ この最後のたとえには特異な点があります。主人は実際に商売をしたしもべのもうけの額とは関係なく、したことをまったく同じことばでほめたということです。それはタラントの違い=各人に与えられた能力の大小ではなく、それを用いたかどうかに神の目は向いているのです。与えられた賜物(自分の力)の大小や優劣は言い訳になりません。あるものを信仰をもって用いるのです。そうすればさらに増し加えられて行くと、聖書は言っているのです。少ないからと隠しておいたしもべは暗闇の外、つまりサタンの支配する大寒難時代に残されることになりました。
これら三つのたとえ話は「召されたことを忠実に」「熱心さと思慮をもって忠実に果たし」「自分の能力で判断することなく、結果を考えず主人の指示を忠実にやり遂げる」ということなのです。これが携挙の条件だと聖書は言っているのです。明確なこれらの点を守って確実に携挙されましょう。
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