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2013年7月 7日 (日)

信仰と復活

ローマ 4章24節
 先週は復活についてでしたが、今週は「信仰」についてです。「義とみなされる」とは罪人であったのにまるで罪がない(=義:ただ)しい者とされることであり、確かにそうでなければ神の国に入ることは難しいことでしょう。聖書は義とされることに相当言葉を費やしてますが、今日の私たちは、信仰と義について余り解き明かされていないのです。
 クリスチャンになることを、聖書は「信仰に入る」と言っています。しかし「信仰に入って」も、ただちに「義とされる」わけではありません。「義とされる」ということは、たとえて言えば「裁判の判決で無罪」にされるような意味です。また神の国へ行けること、真に救われることを「信仰によって義とされる」というような表現をしています。
 この「義とされる」については、ガラテヤ書の2章15ー21までに詳しく書いてあります。ここでは「律法」と「信仰」について述べてありますが、要するに神との関係は行いではなく、神は愛ですから、愛し愛される関係によって「義とされる」と言うように受け取れるのです。つまり相互の関係性を表す言葉なのです。
 分かり易くたとえてみましょう。「放蕩息子のたとえ」で語れていたのは何のことでしょうか?読めば、この話は、生前贈与まで受けた財産を放蕩し、見放されて当然の次男がいかに父から愛されていたかがわかる話です。ある意味で父は、はじめから財産の放蕩とその哀れな結果を見通し、たとえボロボロになってでもこの息子のあるものを得ようとしたのです。

「何を」でしょうか?それは父の心がわかる真に謙遜な心でした。心と心が交わるためには、放蕩という肉が失われなければならなかったのです。しかし兄はどうでしょう?弟の帰還を喜ぶどころか、家に入らず、嫉む心をもはや抑えることができないのです。このような長男はあからさまに父に逆らうことのない一見良い子でしたが、実は父とは表面的な「律法的な関係」であり、「良い子」故に父の心と遠く離れている実際を露呈したのです。
 神はこれほどまでに私たちの心を求めておいでなのです。私たちが「信仰」と言った時、何か難しいもの、教えとか告白とか、なんだかよくわからないがとにかく何があっても「信じ続ける決心」とか思いがちですが、ひと言で言えば神さまとの正しい関係であって、それは神を知って体験し、世の何よりも、愛され愛する関係のことだと理解すればまず間違いありません。心から神を愛しているのであれば、あなたは信仰を有しているのです。そしてそれは、あなたの力でも手柄でもありません。神からの賜物によってであり、恵みなのです

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