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2013年8月

2013年8月25日 (日)

教会の恵み

1コリント 12:14-27
 教会はキリストのからだと聖書は言っています。ということは教会員一人一人の働きは異なるのですが、それぞれが体の一部として組み合わさって、それで一つの体として機能すると言っているのです。体としては目も頭も手も足もなければ困るのです。
 クリスチャンは教会というみ体をもっているのが通常です。持っていないとすれば、それはきわめて危険な状態であり、正常ではありません。言い方を変えれば、教会というキリストのみ体に属していなければ、信仰を守ることができません。目や耳が自分の体から離れては生きていけないのと同じです。

 私はかつて長い間福音派と呼ばれる教会にいました。が、癒やしの必要から「聖霊」を求めるようになり、その教会の信仰とは異なった道に進み始めました。アブラハムのように、まさに行く道を知らないで踏み出しました。聖霊の信仰を求め、結局、首都圏の某ペンテコステ派の教会の、広島家の教会という、今で言うウェブ会員になりました。しかしテレビを通してのみ体つくりという方向は、私の家族の場合失敗に終りました。本当の生きた体、実際の体を通しての交わりでないと、霊的な成長ができず、決して満足することはできなかったのです。

 このように私には「体」を失って彷徨した時代がありました。みなさん、生きる神、聖霊の臨在なしの信仰とは、空をつかむような、ぼんやりと曇った鏡を見るような信仰であり、力のない信仰なのです。いつまでも幼子のような信仰で、成長がありません。教会がどのような信仰を持っているか、教会というみ体の恵みはとてつもなく大きいものです。ヨハネ15章に、「わたしはまことのぶどうの木」であり、「実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き」とあります。「実」を結ぶためには、まことのぶどうの木に、その枝につながっていなければ、実を結ぶことができないのです。「まことの」とは生きた神の霊が注がれ続けている教会のことなのです。ですからどのような教会に属するかは、実がなるかならないかの分かれ目、決定的に重要なことです。

 残念ながら日本の教会で、聖霊なる神が今も生きて働かれていると信じ、聖書をすべて神のことばとして受け入れている教会は、そう多くはありません。その上、異言だけでなく預言など九つの賜物すべてを用いようとしている教会は本当に一握りなのです。私たちの群れは迫害されてきました。今は少し認められて来て、以前ほど迫害がありません。しかしこの群れには未だに聖霊の賜物が著しく現れているわけではありません。この程度で賞賛の霊にやられてはいけません。実質が現れてくるその日まで期待と祈りを持ち、信仰を堅く守って行きましょう。

2013年8月18日 (日)

試練という神の愛

ヤコブ 1章2節
 今夏の秀作映画の「終戦のエンペラー」「風立ちぬ」に、共通して男女の愛が描かれていました。出会いがあり、いつしか恋になり、困難を乗り越えて互いに結ばれていく・・・・というパターンは昔から変わっていません。
 若いみなさんにとっても、これは他人事ではないかも知れません。映画では上等な恋愛を見せてくれますが、多くの場合、相手を愛しているつもりでも、自分の夢を相手にかぶせているだけで、本当に相手を見て愛したとは言えないケースが多いのではないでしょうか。夫婦の隙間や不一致、こんなはずではなかった、家庭内離婚は、相手そのものを見ようともしなかった自分の方にも原因があるのではないでしょうか?また人はまことに不完全なものです。自己中心で、どうにもならないのが自分なのではないでしょうか。

 ですが、イエス・キリストという本当の神を信じてください。この方は真実、人間を愛し、究極の愛、十字架にかかってくださいました。人間をそこまで愛してくださる神は他にいません。天地を造り今も生きておられ、人間に語りかけ愛していてくださっている神、この方を信じることによって最善の道を歩むことができるのです。ただ多くの人の場合、信じること、それは自分の考えよりも神の導きを選ぶことなのですが、その自分を捨てきれていないのです。Cgg17
 しかし安心してください。できないからこそ、試練があり、そこに神の矯正プログラムがあって、試練の先に祝福を受けるものとされていく・・・・・・試練を感謝する土台がこれです。

 その結果はどうでしょうか?試練の激しい炎は、肉なる自分を焼き、どうにもならない自我を完全にでは有りませんが、それ以上に神の御心の方が勝りたるものとして選べるようになるのです。ちょうど「製鉄所」の溶鉱炉が、鉄鉱石といって、石の中に混ざり込んでいる鉄分を石炭を蒸し焼きにしたコークスと一緒に激しい炎で焼きますと、石の中の鉄分が溶けてドロドロになって出てくるようなものです。真っ赤に燃えて鉄が抽出されるように、試練という溶鉱炉が人を純粋な鉄分、聞き従いのできるものへと変えてくれるのです。これは祝福の土台ではありませんか? また神が試練を通されるのは、不従順な者を用い、高慢になり、却って地に落とされることを考えましょう。試練によってでしか神中心に新生することはできません。まさに試練こそ神からの愛であり、この上ない喜びとなるものです。

2013年8月11日 (日)

いのちの使い方

マタイ 4章4節

「風立ちぬ」という宮崎作品が公開されています。零戦を生み出した天才的な設計技師、堀越二郎が零戦を完成させるまでを、堀辰雄の「風立ちぬ」のストーリー展開に重ねてつくられています。この作品の最後は、零戦の残骸があふれた背景に、「生きて」という婚約者・菜穂子の言葉に押し出されて立つ二郎の姿が映し出されます。個人的にですが、無残な敗戦に終わって、零戦も菜穂子も失って、主人公二郎は「何を『生きねば』なのか?生きることに何の価値を見出だしているのか?」ということが気になりました。

 命はそれだけでも尊いと思いますが、さらに命が何のために有って、どのようにこの人生を用いたらよいのかという、人生の目的があったらさらによいと思います。踏み込んで言えば、人というものの命には動物など他の生き物と異なって、人にしかできない為すべき目的があるはずです。それを知らせることを福音と申します。
 多くの日本人は生きてはいますが、実は死んでいます。福音を知らず、命をなんのために使うのか、わかっていないからです。肉体の命は必ず滅びます。しかし滅んでしまってからでは遅いのです。

 この与えられた命を何のために使うのか?その答えを教えてくれるのが聖書です。聖書はイエス・キリストが唯一のテーマです。「教祖が人類のすべての罪を引き受け、むごい十字架にかかって死んだ」などという話は、イエス・キリスト以外にありません。彼は人々の霊の命を救うためにこの世に降りて来られ、癒やし、奇跡を行ってよいことばかりをしたのに、十字架にかけられました。十字架につけたのは人々の罪によります。全人類の罪を背負ってくださったのですから、彼を信じる者は、たとえ肉体は滅んでも永遠の命が与えられます。これが福音であり、神はこの世人が誰一人滅ぶのをお望みではありません。イエス・キリスト、彼を信じること、彼に従って今命を与えられているときに、永遠の命を受けることが命の使い方なのです。

 「人はパンだけで生きるのではない」とキリストは言われました。言い方を変えますと、人は生きていても、パンだけ、ただ命をつなげているだけでは、本来の使い方をしていないのであって、本当に生きているとは言えません。神の口から出る言葉とは、まず聖書そのものであり、聖霊なる神からの一人一人への語りかけられた言葉です。神の言葉という食べ物によって、人はなぜ自分の命が与えられ、どうこの命を使ったらいいのかがわかるのです。それは心から納得できるものですし、目標のある充実した人生と一変するのです。はっきり言えば、福音の恵みを知らず神を信じない人生では、本当の意味での生きているとは言えないのです。その絶大な恵みにあずかっている私たちに、命の使い方を証し福音を伝える使命が託されているのです。

2013年8月 4日 (日)

山上の垂訓

マタイ 5章 3~12節

 聖書の中の聖書、その真髄を表すものとしてこの聖書箇所があり、山上の説教、あるいは垂訓と呼ばれています。聖書の中のマグナ・カルタ(大憲章)と呼ぶ方もいます。

 最初の節「心の貧しい者は幸いです」とありますが、英語ではすべて最初に「Blessed」と力強く「幸いなるかな」と宣言しています。文語訳ではそうでしたが、口語訳以降は今風の言葉になってしまい、力弱い表現になったと感じます。
 さて内容ですが、「心の貧しい」とは如何なることでしょうか?これも英語では「poor in sprit」と実に明確に「霊的な乏しさ」を覚える者と言い表しており、このような意味はそれは後の「義の飢え、乾き」でも同様な趣で言っています。
 「悲しむ者」とは何を悲しむのでしょうか?救われず、滅びに至る魂のことを悲しんでいるのではありませんか。慈悲深い者とはまず神の慈悲にあずかったから、それをただ流すことができているだけではありませんか?
 こうしてみると、前半のポイントは「神が自分のすべてであり神の霊なしに自分は存在も、あるいは生きているとも思えない」「この世のどんなものにまして、ただ神の国を待ち望む」という、真実なるクリスチャンへの祝福であることがわかります。
 従って前半の最初の言葉「the poor in spirit」が非常に重要です。実に多くの人々が「貧しさ」を覚えず、結果として「Blessed=祝福」を失っているのです。罪の自覚がない人に、「あなたは罪人です」と言っても憎まれるのがおちです。しかし彼らが幼い時にはみな、自分の罪を自覚していたはずです。成長するに従って「他の人と比べ」て、自分を義とし正当化したのです。それでも少数の者は罪の自覚を残され、「乏しき者」「飢え渇く者」として神を求める者とされました。この世、地上にあっては霊的な飢え貧しい者が、「天の御国はその人のものだから」と絶大な祝福を与えられるのです。
 後半のポイントは「迫害」です。この世の豊かな人々はおおよそ霊的な貧しさが理解できないだけでなく、自分たちに対峙する神の国人という他国人を必然的に迫害します。クリスチャンは天に行き、自分たちは地に残されるのですから、彼らは平安ではあり得ません。それゆえ神の国人は福音を受け入れない人々からあらゆる迫害を受けることになります。
 「迫害」を受ける者とされたことは大きな恵みです。私たちは命ある限り世で神を証し、福音を語り続けるのですから、迫害が止むことはあり得ません。神の使命を果たすため命のある限り、走るべき道を走り続けましょう。安息は神の御国にあり、私たちのゴールです。その安息の場所を目指し、確信を持って世にある今を走りきろうではありませんか。

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