教会の恵み
† 1コリント 12:14-27
教会はキリストのからだと聖書は言っています。ということは教会員一人一人の働きは異なるのですが、それぞれが体の一部として組み合わさって、それで一つの体として機能すると言っているのです。体としては目も頭も手も足もなければ困るのです。
クリスチャンは教会というみ体をもっているのが通常です。持っていないとすれば、それはきわめて危険な状態であり、正常ではありません。言い方を変えれば、教会というキリストのみ体に属していなければ、信仰を守ることができません。目や耳が自分の体から離れては生きていけないのと同じです。
私はかつて長い間福音派と呼ばれる教会にいました。が、癒やしの必要から「聖霊」を求めるようになり、その教会の信仰とは異なった道に進み始めました。アブラハムのように、まさに行く道を知らないで踏み出しました。聖霊の信仰を求め、結局、首都圏の某ペンテコステ派の教会の、広島家の教会という、今で言うウェブ会員になりました。しかしテレビを通してのみ体つくりという方向は、私の家族の場合失敗に終りました。本当の生きた体、実際の体を通しての交わりでないと、霊的な成長ができず、決して満足することはできなかったのです。
このように私には「体」を失って彷徨した時代がありました。みなさん、生きる神、聖霊の臨在なしの信仰とは、空をつかむような、ぼんやりと曇った鏡を見るような信仰であり、力のない信仰なのです。いつまでも幼子のような信仰で、成長がありません。教会がどのような信仰を持っているか、教会というみ体の恵みはとてつもなく大きいものです。ヨハネ15章に、「わたしはまことのぶどうの木」であり、「実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き」とあります。「実」を結ぶためには、まことのぶどうの木に、その枝につながっていなければ、実を結ぶことができないのです。「まことの」とは生きた神の霊が注がれ続けている教会のことなのです。ですからどのような教会に属するかは、実がなるかならないかの分かれ目、決定的に重要なことです。
残念ながら日本の教会で、聖霊なる神が今も生きて働かれていると信じ、聖書をすべて神のことばとして受け入れている教会は、そう多くはありません。その上、異言だけでなく預言など九つの賜物すべてを用いようとしている教会は本当に一握りなのです。私たちの群れは迫害されてきました。今は少し認められて来て、以前ほど迫害がありません。しかしこの群れには未だに聖霊の賜物が著しく現れているわけではありません。この程度で賞賛の霊にやられてはいけません。実質が現れてくるその日まで期待と祈りを持ち、信仰を堅く守って行きましょう。