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2013年8月 4日 (日)

山上の垂訓

マタイ 5章 3~12節

 聖書の中の聖書、その真髄を表すものとしてこの聖書箇所があり、山上の説教、あるいは垂訓と呼ばれています。聖書の中のマグナ・カルタ(大憲章)と呼ぶ方もいます。

 最初の節「心の貧しい者は幸いです」とありますが、英語ではすべて最初に「Blessed」と力強く「幸いなるかな」と宣言しています。文語訳ではそうでしたが、口語訳以降は今風の言葉になってしまい、力弱い表現になったと感じます。
 さて内容ですが、「心の貧しい」とは如何なることでしょうか?これも英語では「poor in sprit」と実に明確に「霊的な乏しさ」を覚える者と言い表しており、このような意味はそれは後の「義の飢え、乾き」でも同様な趣で言っています。
 「悲しむ者」とは何を悲しむのでしょうか?救われず、滅びに至る魂のことを悲しんでいるのではありませんか。慈悲深い者とはまず神の慈悲にあずかったから、それをただ流すことができているだけではありませんか?
 こうしてみると、前半のポイントは「神が自分のすべてであり神の霊なしに自分は存在も、あるいは生きているとも思えない」「この世のどんなものにまして、ただ神の国を待ち望む」という、真実なるクリスチャンへの祝福であることがわかります。
 従って前半の最初の言葉「the poor in spirit」が非常に重要です。実に多くの人々が「貧しさ」を覚えず、結果として「Blessed=祝福」を失っているのです。罪の自覚がない人に、「あなたは罪人です」と言っても憎まれるのがおちです。しかし彼らが幼い時にはみな、自分の罪を自覚していたはずです。成長するに従って「他の人と比べ」て、自分を義とし正当化したのです。それでも少数の者は罪の自覚を残され、「乏しき者」「飢え渇く者」として神を求める者とされました。この世、地上にあっては霊的な飢え貧しい者が、「天の御国はその人のものだから」と絶大な祝福を与えられるのです。
 後半のポイントは「迫害」です。この世の豊かな人々はおおよそ霊的な貧しさが理解できないだけでなく、自分たちに対峙する神の国人という他国人を必然的に迫害します。クリスチャンは天に行き、自分たちは地に残されるのですから、彼らは平安ではあり得ません。それゆえ神の国人は福音を受け入れない人々からあらゆる迫害を受けることになります。
 「迫害」を受ける者とされたことは大きな恵みです。私たちは命ある限り世で神を証し、福音を語り続けるのですから、迫害が止むことはあり得ません。神の使命を果たすため命のある限り、走るべき道を走り続けましょう。安息は神の御国にあり、私たちのゴールです。その安息の場所を目指し、確信を持って世にある今を走りきろうではありませんか。

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