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2013年8月11日 (日)

いのちの使い方

マタイ 4章4節

「風立ちぬ」という宮崎作品が公開されています。零戦を生み出した天才的な設計技師、堀越二郎が零戦を完成させるまでを、堀辰雄の「風立ちぬ」のストーリー展開に重ねてつくられています。この作品の最後は、零戦の残骸があふれた背景に、「生きて」という婚約者・菜穂子の言葉に押し出されて立つ二郎の姿が映し出されます。個人的にですが、無残な敗戦に終わって、零戦も菜穂子も失って、主人公二郎は「何を『生きねば』なのか?生きることに何の価値を見出だしているのか?」ということが気になりました。

 命はそれだけでも尊いと思いますが、さらに命が何のために有って、どのようにこの人生を用いたらよいのかという、人生の目的があったらさらによいと思います。踏み込んで言えば、人というものの命には動物など他の生き物と異なって、人にしかできない為すべき目的があるはずです。それを知らせることを福音と申します。
 多くの日本人は生きてはいますが、実は死んでいます。福音を知らず、命をなんのために使うのか、わかっていないからです。肉体の命は必ず滅びます。しかし滅んでしまってからでは遅いのです。

 この与えられた命を何のために使うのか?その答えを教えてくれるのが聖書です。聖書はイエス・キリストが唯一のテーマです。「教祖が人類のすべての罪を引き受け、むごい十字架にかかって死んだ」などという話は、イエス・キリスト以外にありません。彼は人々の霊の命を救うためにこの世に降りて来られ、癒やし、奇跡を行ってよいことばかりをしたのに、十字架にかけられました。十字架につけたのは人々の罪によります。全人類の罪を背負ってくださったのですから、彼を信じる者は、たとえ肉体は滅んでも永遠の命が与えられます。これが福音であり、神はこの世人が誰一人滅ぶのをお望みではありません。イエス・キリスト、彼を信じること、彼に従って今命を与えられているときに、永遠の命を受けることが命の使い方なのです。

 「人はパンだけで生きるのではない」とキリストは言われました。言い方を変えますと、人は生きていても、パンだけ、ただ命をつなげているだけでは、本来の使い方をしていないのであって、本当に生きているとは言えません。神の口から出る言葉とは、まず聖書そのものであり、聖霊なる神からの一人一人への語りかけられた言葉です。神の言葉という食べ物によって、人はなぜ自分の命が与えられ、どうこの命を使ったらいいのかがわかるのです。それは心から納得できるものですし、目標のある充実した人生と一変するのです。はっきり言えば、福音の恵みを知らず神を信じない人生では、本当の意味での生きているとは言えないのです。その絶大な恵みにあずかっている私たちに、命の使い方を証し福音を伝える使命が託されているのです。

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