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2013年9月

2013年9月29日 (日)

神の言葉で戦う

ルカ4章9-13節 
 最初にこの「荒野の誘惑の舞台はどこか」ということですが、伝承的にはエリコや死海を眼下に見下せる、エリコからのロープウェイが着く駅の左横辺りで洞窟がある所とされています。そこには正教会の修道院があることでも知られていますが、非常に高い所です。
 この荒野の誘惑は、イエス様がヨハネからバプテスマを受けられた直後のことで、あらかじめこれはセットしてあったことのようです。バプテスマの時「天が開け、聖霊が鳩のように下って」来られました。つまりこの時、イエス様は神の子として、ご自分が神と共に天におられた受肉以前の知識を完全に回復されたことでしょう。また神、神の子として制限なしに奇蹟を行える力も再び回復されたということでもあります。そのイエス様が40日40夜の断食を終えられたタイミングで、サタンからの試みに会われたのです。これは重要なことであり、再臨の前に、千年王国の前に、などマクロでも個人個人のミクロの面でも、重要な祝福の前に必ず試練や困難は付きものなのです。私たちはそれにパスできるよう祈って行かねばなりません。

 この荒野での試練の時サタンは、何とかしてイエス様の使命を妨害しようと決心していました。サタンの現れ方に興味はありませんか?フランスの画家が伝承の誘惑の洞窟で暮らし、サタンの登場の様子を想像して絵にしています。サタンはまるでイエスの同僚のように、苦行僧のなりをして描かれています。一見同じ志のような人物から、「手っ取り早くあなたの使命を終わらせてあげましょう」と提案のような形でイエス様は試練を受けられたようです。もちろんイエス様は、彼がサタンであることを早期に見抜かれていたことでしょう。ところで「下に身を投げてみなさい」というサタンの誘惑の順序がマタイとルカとでは違うのです。マタイでは二番目に、ルカでは三番目になります。元はどちらだったのだろうか?そう思っていますと、今回私は、ルカの方に軍配を上げる方がよいと思うようになりました。

 その理由ですが、「パンを石に」で神の力の証明を、「全世界をあなたに」でイエス様の使命を誤った方法で果たせるよう促したのですが、聖書のみ言葉を信頼するか否かの問い、これは決定的な試みではないかと思えるからです。全宇宙も、人も神の言葉でできました。またクリスチャンにとってエペソ書にあるように、唯一の武器である剣とは神の言葉です。何とサタンは聖書をよく知っていました。み言葉すら私たちに対して用いることができるのです。神の言葉である剣に対して、剣と剣の白刃の決闘場面とも言えましょう。

 これまでのサタンの試みに対し、イエス様はすべて神の言葉で対抗されました。そして神の言葉には勝利がありました。ならばサタンも最後には、神の言葉で対抗してきたと考える方が自然です。サタンは確かに聖書を知っておりますが、勝敗の分かれ目は言葉の実質を承知している本人の言葉なのか、意味内容もわからずに偽善的に用いている方便なのかということです。まるで言葉遊びのようなサタンの引っかけに対し、「あなたの神である主を試みてはならない」と聖書全体のみ言葉からイエス様は一喝され、それで勝負が定まりました。サタンは一時期ですが、離れ去って行くしかありませんでした。

 イエス様が戦いに際し用いられたのは、私たちが到底用いることのできないような特別なものではありませんでした。みなさんの今、そのお手元にある聖書の言葉を用いて戦われ、勝利を収められたのです。つまりだれでもサタンに対し、対抗できるようそのお手本を示してくださったのです。私たちはサタンに負けないよう、み言葉を読み親しみ、唯一の武器としてサタンとの戦いに用いて勝利を得ようではありませんか。

2013年9月22日 (日)

高慢と謙遜

† 1ペテロ 5章5節  
 本日の聖書箇所はヤコブ書にも出ましたが、出典は箴言3:34です。初代教会の時代からこのみ言葉は語られ続けられてきましたし、それは今に至るまで同様です。それほど人間にとって高慢というものは、認識することも、これと戦うことも困難な内なる敵なのです。もと大天使だったサタンも、「神のようになろう」と高慢になって堕落した(※イザヤ14:12-14)のですから、これはあらゆる面で最強の敵なのだと言うことを知っておく必要があります。

 高慢とは何でしょう?駅から教会への途中にある超高層マンション・プラウドのことではありません。確かに高慢になっても仕方のない豪華な住まいではありますが(笑い)。高慢とは端的に言えば、神に頼らないことの一切であり、世のもの、自分の力、神を認めないことです。自尊心も高慢の一つです。「平安」「感謝」に属さない「思い・煩い」も入ります。さらに言えば「主の栄光」に帰せないものすべてがそうだと申し上げてもよいでしょう。

 心配事や、恐れ・不安という心を捕えて離さないものはどこからくるのでしょうか。これに捕らわれると、人はしばしば夜も寝られず、精神がおかしくなってしまいます。これらは神を頼らず、自分の常識で考えるとか、自分を守ろうとする思索から生じるものです。
 嫉み、嫉妬という感情も、高慢から生じます。神は最善な計画と愛をもってわたしたち一人一人を造られ、世に送ってくださいました。それなのに他と比べ、自分に無いものをうらやみ嫉む心はどこから湧いてくるのでしょうか。不安や恐れと同様、これらは決して良いものを生じることはありません。
 これらは神を頼らず、神の計画を無視して、ただ自分を守りたい、高めたいという人間的な欲望からのものであって、悪霊に支配された状態だということを多くの人はわかっていません。これらサタンの支配から神の支配に移ることは、キリストの十字架を自分のこととして信じ受け入れることです。サタンと神との中間は存在しません。どちらかなのです。

 キリストを信じた人には明確な特徴が有ります。それは自分に死んでいると言うことです。キリストへの希望だけが喜びとして残っているのです。それで、どんな現実や困難があったとしても、天への希望があり、感謝がその人から失われることはないのです。不安とか恐れは消え、代わって謙遜がその人を支配します。すべての栄光は神のものとして、神に帰せる喜びに心が満たされあふれています。世の何ものをも、たとえ死さえこれを奪うことはできません。一瞬のようにして過ぎ去るものへではなく、永遠への希望が最大の関心事だからです。もはや過ぎ去るものへ執着し、誇ることはあり得ません。ですから謙遜なのです。

2013年9月15日 (日)

神は生きておられる

†  ローマ 14章11節 
 私たちの人生において、一番大切なことはなんでしょうか? それは健康でも、家柄血筋でも、仕事や家庭でもありません。また自分の将来でもありません。これらはすべて一時的な問題です。神と、あなたとの関係一番大切なものです。もしあなたに神との関係がないのであれば、すべてのものが空しいのです。

 これは自身の体験としてなのですが、おそらく私たちは、自分の力で神を知り体験できたわけでも、まして自分を委ねることができるようになったのではいのです。神の選びであり、愛と恵みの賜物だったのです。信仰は、養育係としての神の愛と忍耐の上に築かれたものであって、自分には信仰があるからと自分を誇ることはできないことでしょう。
 ですからここにおられるみなさんは、そう、どんなに数は少なくても、十字架にかかってまでの神の恵みとあわれみを受けた人々であり、奇蹟の人だと申し上げて良いでしょう。この特別な恵みをよく理解してください。そしてみなさんお一人お一人が神の子であるということを。ですので、世人と我を比べて、どんなに自分の拙さを言いあげたとしても、それは無に等しいあなたを造ってご自身の栄光をあらわそうとされている神の計画を知らない、まさに愚かなことなのです。

 今日これからお証することは、笑い話のような、人によっては偶然・こじつけと受け取られるようなことです。しかし偶然はあり得ません。これは目には見えない神様ですが、その信仰を確かにしてくださる神のプレゼントです。

 一昨日私は眼科の病院に行き、診察が終わっていざ会計という時に、自分が財布を忘れたことに気がつきました。リュックに小銭をキープしておりましたので、取り出して見ますと1160円だけしかありません。「これでは到底、足りない」そう思いましたので、妻にSOSを頼みましたが、救急車のように到底発進してもらえそうにもありませんでした。そこで最後の手段、というか特権であるお祈りをしました。「神様、どうかこの金額に収まりますように」と。
 祈り終わると、すぐに会計に呼ばれました。そして驚いたことに請求書金額1150円だったのです。残わずか10円。これは神が祈りを聞いてくださったのです。

 この奇蹟的な支払いは、神が居られること、私の信仰を堅くしようと祈りに答えてくださる神の業です。ハレルヤ!神は、生きておられるのです。

2013年9月 8日 (日)

三位一体の神

 1テモテ2:5 
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

 本日の聖書箇所を新欽定訳では、For there is one God and one Madiator between God and Manと言っています。なんと明快な神様表現でしょうか。日本語で「唯一」と訳されていますが、唯一の意味が少しよくわかりません。新欽定訳では存在するものは、ただ神であり(つまり、その神以外には何も神的なものは存在していない)と。神と人との間に立つ取りなせる存在も、イエス・キリストだけだと。つまりその他いろいろな神々やマリヤさんがいても、そんなものは「存在すらしない」と明快に教えてくれているんです。日本語の「唯一」という言葉より、よほどわかり易いのです。
 次にthe Man Christ Jesusと、仲介者は人であるイエス・キリストだと断じています。決してマリヤではありません。私たちは三位一体の神を信じていますが、さてここで人としてのキリストと言われています。人であり、神でもあったイエス・キリスト、これこそキリスト教信仰の核心なのです。人として生き、人の弱さや苦しみをご存じのキリストがけが仲介者なのです。

 実はキリスト教が誕生した当初からこの人であり、神であったことから多くの異端が生じました。アリウス派や景教と呼ばれ、中国にまで伝わったネストリウス派などです。キリストが人であり、神であったことを、ことばで正しく把握し信じることが大切です。
 使徒信条という、使徒時代からの信仰の土台があります。「我らの主イエス・キリストを信ず」から「我は聖霊を信ず」までの間に実に多くの言葉で、イエス・キリストが神であったことを、告白として言い表しています。
 主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬むられ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

 みなさん、聖書にはいろいろな驚くべき奇蹟が記してありますが、これほどの奇蹟、処女から聖霊によって赤子が生まれることほどの天地がひっくり返るような大奇蹟はないと思うのです。これは理解するとか、納得するとかいうレベルではありません。私たちの信仰とは、自分の常識や理性を封印してでも「先ず信じること」から始まっています。主を自分の主とし、「先ず従う」ということでもあります。してみるとすべての誤りは、自分の理性や判断を聖書の言葉より先に置いたり、あるいは整合化をはかった不信仰から生じていることを知るのです。人と神とのキリストの神性は、主を主とし、従うことの告白から、信仰によっての道からでないと危ういのです。ケパ

2013年9月 1日 (日)

私たちはいかにして義とされるか

マタイ21:32

 マタイ21:32とルカ18:10に取税人が出てきます。この正反対の二人が祈るために神殿に上がったのですが、それぞれの祈りは対照的でした。パリサイ人は取税人のような悪行を行わず、断食や1/10の捧げ物など律法を守っていることを感謝した・・・・つまり自分の義を誇ったのです。一方の取税人は、社会的な評価の通り、自分を恥じ入っていました。おそらく神殿に入ることすらためらわれたことでしょう。パリサイ人から遠く離れた隅で顔を上げることもできず、ただ自分の胸をたたいてひたすら罪人であること、神のあわれみを求めたのです。
 この時神から義と認められたのは、パリサイ人ではなく、なんと罪深い取税人でした。これはまったく常識をくつがえす、あり得ない見方でした。だからこそですが、これは神の目から見た義を端的に物語っているのです。別な箇所では「まことに、あなた方に告げます。取税人や遊女の方が、あなた方より先に神の国に入っている」とはっきりと告げられています。

 このキリストが説く誰が「義とされたか」から、すぐ次の二つのみ言葉を思い出すのです。「なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです(18:11)」と「義に飢え乾く者は幸いです(マタ5:6)」。こう申し上げますと時に叱責を受けることもあるのですが、恐れずに言いますと、みなさんは、社会での成功者でも、勝ち組でも、また名声を得た方でもありませんね。実はそれは、本当にすばらしい祝福です。いろいろな意味で世に希望がある人は、世を捨てることがたいへん困難です。みなさんは謙遜に生きる、神の国に近いという恵まれた人なのです。

 ただし、偽りの謙遜に気をつけましょう。業績をあげ、すばらしい働きをした人を心から褒めた時でも、「とんでもない。そんな大したことではありません」と一見へりくだったような人がいます。こういう人の中には、謙遜のようでいて実は目標が高く、これっぽっちでは満足できないという上昇志向な人もいますし、ものすごく負けず嫌いで、褒められることがお世辞にしか聞こえないような人も居ます。これは謙遜ではありません。
 洗礼者ヨハネが「時は近づいた。悔い改めよ」と述べ悔い改めの水のバプテスマを施しました。水は当時、死と生を意味しました。ノアの洪水であらゆるものは死に、あらゆるものは水でいのちを得ました。義に飢え乏しい者、罪の中にあって心から悔い改める者、そのような人たちこそ、神に希望を見出し、心から神に依り頼みます。神が求められ、喜ばれる義はそのような人に注がれるのではありませんか。

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