高慢と謙遜
† 1ペテロ 5章5節
本日の聖書箇所はヤコブ書にも出ましたが、出典は箴言3:34です。初代教会の時代からこのみ言葉は語られ続けられてきましたし、それは今に至るまで同様です。それほど人間にとって高慢というものは、認識することも、これと戦うことも困難な内なる敵なのです。もと大天使だったサタンも、「神のようになろう」と高慢になって堕落した(※イザヤ14:12-14)のですから、これはあらゆる面で最強の敵なのだと言うことを知っておく必要があります。
高慢とは何でしょう?駅から教会への途中にある超高層マンション・プラウドのことではありません。確かに高慢になっても仕方のない豪華な住まいではありますが(笑い)。高慢とは端的に言えば、神に頼らないことの一切であり、世のもの、自分の力、神を認めないことです。自尊心も高慢の一つです。「平安」「感謝」に属さない「思い・煩い」も入ります。さらに言えば「主の栄光」に帰せないものすべてがそうだと申し上げてもよいでしょう。
心配事や、恐れ・不安という心を捕えて離さないものはどこからくるのでしょうか。これに捕らわれると、人はしばしば夜も寝られず、精神がおかしくなってしまいます。これらは神を頼らず、自分の常識で考えるとか、自分を守ろうとする思索から生じるものです。
嫉み、嫉妬という感情も、高慢から生じます。神は最善な計画と愛をもってわたしたち一人一人を造られ、世に送ってくださいました。それなのに他と比べ、自分に無いものをうらやみ嫉む心はどこから湧いてくるのでしょうか。不安や恐れと同様、これらは決して良いものを生じることはありません。
これらは神を頼らず、神の計画を無視して、ただ自分を守りたい、高めたいという人間的な欲望からのものであって、悪霊に支配された状態だということを多くの人はわかっていません。これらサタンの支配から神の支配に移ることは、キリストの十字架を自分のこととして信じ受け入れることです。サタンと神との中間は存在しません。どちらかなのです。
キリストを信じた人には明確な特徴が有ります。それは自分に死んでいると言うことです。キリストへの希望だけが喜びとして残っているのです。それで、どんな現実や困難があったとしても、天への希望があり、感謝がその人から失われることはないのです。不安とか恐れは消え、代わって謙遜がその人を支配します。すべての栄光は神のものとして、神に帰せる喜びに心が満たされあふれています。世の何ものをも、たとえ死さえこれを奪うことはできません。一瞬のようにして過ぎ去るものへではなく、永遠への希望が最大の関心事だからです。もはや過ぎ去るものへ執着し、誇ることはあり得ません。ですから謙遜なのです。
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