私たちはいかにして義とされるか
† マタイ21:32
マタイ21:32とルカ18:10に取税人が出てきます。この正反対の二人が祈るために神殿に上がったのですが、それぞれの祈りは対照的でした。パリサイ人は取税人のような悪行を行わず、断食や1/10の捧げ物など律法を守っていることを感謝した・・・・つまり自分の義を誇ったのです。一方の取税人は、社会的な評価の通り、自分を恥じ入っていました。おそらく神殿に入ることすらためらわれたことでしょう。パリサイ人から遠く離れた隅で顔を上げることもできず、ただ自分の胸をたたいてひたすら罪人であること、神のあわれみを求めたのです。
この時神から義と認められたのは、パリサイ人ではなく、なんと罪深い取税人でした。これはまったく常識をくつがえす、あり得ない見方でした。だからこそですが、これは神の目から見た義を端的に物語っているのです。別な箇所では「まことに、あなた方に告げます。取税人や遊女の方が、あなた方より先に神の国に入っている」とはっきりと告げられています。
このキリストが説く誰が「義とされたか」から、すぐ次の二つのみ言葉を思い出すのです。「なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです(18:11)」と「義に飢え乾く者は幸いです(マタ5:6)」。こう申し上げますと時に叱責を受けることもあるのですが、恐れずに言いますと、みなさんは、社会での成功者でも、勝ち組でも、また名声を得た方でもありませんね。実はそれは、本当にすばらしい祝福です。いろいろな意味で世に希望がある人は、世を捨てることがたいへん困難です。みなさんは謙遜に生きる、神の国に近いという恵まれた人なのです。
ただし、偽りの謙遜に気をつけましょう。業績をあげ、すばらしい働きをした人を心から褒めた時でも、「とんでもない。そんな大したことではありません」と一見へりくだったような人がいます。こういう人の中には、謙遜のようでいて実は目標が高く、これっぽっちでは満足できないという上昇志向な人もいますし、ものすごく負けず嫌いで、褒められることがお世辞にしか聞こえないような人も居ます。これは謙遜ではありません。
洗礼者ヨハネが「時は近づいた。悔い改めよ」と述べ悔い改めの水のバプテスマを施しました。水は当時、死と生を意味しました。ノアの洪水であらゆるものは死に、あらゆるものは水でいのちを得ました。義に飢え乏しい者、罪の中にあって心から悔い改める者、そのような人たちこそ、神に希望を見出し、心から神に依り頼みます。神が求められ、喜ばれる義はそのような人に注がれるのではありませんか。
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