三位一体の神
† 1テモテ2:5
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
本日の聖書箇所を新欽定訳では、For there is one God and one Madiator between God and Manと言っています。なんと明快な神様表現でしょうか。日本語で「唯一」と訳されていますが、唯一の意味が少しよくわかりません。新欽定訳では存在するものは、ただ神であり(つまり、その神以外には何も神的なものは存在していない)と。神と人との間に立つ取りなせる存在も、イエス・キリストだけだと。つまりその他いろいろな神々やマリヤさんがいても、そんなものは「存在すらしない」と明快に教えてくれているんです。日本語の「唯一」という言葉より、よほどわかり易いのです。
次にthe Man Christ Jesusと、仲介者は人であるイエス・キリストだと断じています。決してマリヤではありません。私たちは三位一体の神を信じていますが、さてここで人としてのキリストと言われています。人であり、神でもあったイエス・キリスト、これこそキリスト教信仰の核心なのです。人として生き、人の弱さや苦しみをご存じのキリストがけが仲介者なのです。
実はキリスト教が誕生した当初からこの人であり、神であったことから多くの異端が生じました。アリウス派や景教と呼ばれ、中国にまで伝わったネストリウス派などです。キリストが人であり、神であったことを、ことばで正しく把握し信じることが大切です。
使徒信条という、使徒時代からの信仰の土台があります。「我らの主イエス・キリストを信ず」から「我は聖霊を信ず」までの間に実に多くの言葉で、イエス・キリストが神であったことを、告白として言い表しています。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬むられ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
みなさん、聖書にはいろいろな驚くべき奇蹟が記してありますが、これほどの奇蹟、処女から聖霊によって赤子が生まれることほどの天地がひっくり返るような大奇蹟はないと思うのです。これは理解するとか、納得するとかいうレベルではありません。私たちの信仰とは、自分の常識や理性を封印してでも「先ず信じること」から始まっています。主を自分の主とし、「先ず従う」ということでもあります。してみるとすべての誤りは、自分の理性や判断を聖書の言葉より先に置いたり、あるいは整合化をはかった不信仰から生じていることを知るのです。人と神とのキリストの神性は、主を主とし、従うことの告白から、信仰によっての道からでないと危ういのです。ケパ
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