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2013年10月

2013年10月27日 (日)

良い忠実なしもべ

エペソ 6章:6-7節
  「信仰を実生活に適用して使命を全うする」
 聖会である姉妹から「私は自分のしたいことをしたいんです。ある計画があって、その通りになるよう神様が私をサポートしてほしいと思っています」と相談を受けました。これは自分の計画が主で、神様が支援にまわっています。神様との位置関係が違っていると思いましたので、私は「それは少し賛成できません、私たち神を信じる者は神様の御心を行うもので、私たちはそれに従う存在なのです」と申し上げました。

 神を信じる人の特徴には、罪の赦しがあり、謙遜であり、神の声を聞く、癒やしなどの賜物、神の栄光、聖霊の内住があります。しかしこれらは神様との関係から現れてくるものであり、その関係とは愛です。しかしこの関係は対等な関係ではありません。神様が主であって私は従、しもべなのです。
 もっとはっきり言いますと、信じる者とは神の奴隷であって、神への愛ゆえ、すすんでそれを選び取った者なのです。サタンの支配から神の支配へと移った存在です。田畑を耕す二頭の牛にくびきをかけますが、もし二頭の力が対等なら互いの行きたい方向が譲れず、1−1=0でまったく仕事にならないようです。しかし力の強い牛をメインにし、もう一頭が従順なら、ちゃんと1+1=2の仕事ができるのです。そのように父と子、神と私に対等はあり得ませんし、その逆は権威と秩序に反した不自然なものであって、神の力は現れません。

 神を信じる者にとって主人は自分では無く、神です。それを新しく生まれる(新生)とか、Born-again Christianとか言います。訪ねてきたニコデモにイエス様が「人は、新しく生まれなければ(ヨハネ3:7)」と言われた通りです。しかしその最大の障害は自分であり、プライドであり、高慢です。大切なのは強制されてではなく、絶大な神の愛の故に、すすんで神の奴隷となるのです。これは恵みであり、真の謙遜から神に仕える、聞き従うことをまっとうして行くのです。
 神を信じる人の特徴はいろいろありました。しかしたとえばブドウの房のように、豊かなその実はすべて枝からの芯につながって実を結んでいます。いろいろあってもその中心とは、つまりブドウの芯ですが、それは愛です。愛こそ一切の基なのです。神のものとなるのは、神への愛なのです。

2013年10月20日 (日)

いのちの書

黙示録 21章12節
 先週、牧師夫人のご母堂が92歳で召天されました。信仰を告白され、洗礼を受けておられましたが、教会生活をする、あるいは遺言をするなど明確な形で意思が見つからなかったため、仏式での葬儀となりました。ご存知のように、個人の意思が特にない場合は喪主の意向で決まります。もちろんこれは、ご母堂の天国行きになんら影響の無いものです。ですから葬儀などどうでも良いと考えがちですが、今回「今後できたらよい」ものとして大変参考になる経験ができました。これも神様からの学び、示しだと思い、語らせていただきます。

 かつてこの国があわやキリスト教国になろうかと言うほど、キリスト教徒が増えた時代がありました。しかし封建制度のこの時代、神の前に人はみな平等であり、永遠のいのちを守るため、たとえ殺されても神に従おうとうするキリスト教は時の権力者には相容れないものでした。豊臣や徳川の幕府政権は、我が国未曾有の大弾圧、大迫害をおこなった結果、少なくとも総人口の1%の30万、最大3%の百万人のキリシタンを拷問の上殺害、刑死させました。

 二百年以上の時を経て、浦上や天草などに隠れキリシタンが見つかったことは、奇蹟として世界に報じられました。発見されたキリシタンへの迫害は続き、明治新政府によって一村総流罪となり、西日本各地の流刑地であらゆる拷問を受けました。しかし世界中の人々にこれが伝わると、不平等条約改正を目指した岩倉具視一行が行く先々の国々で常に抗議の出迎えを受けるようになり、とうとう政府亜は迫害を中止せざるを得ませんでした。
 隠れキリシタンがどうして発覚したのか、そのきっかけは仏式での葬儀を拒否したからでした。長崎に預言通り、コンヒドー(カトリック司祭)がやって来て大浦天主堂が建ち、その司祭から信仰を回復した彼らは、仏式での葬儀に耐えられなくなったのではないか、その最大の原因、それは過去帳である、そう今回気がついたのです。

 この度葬儀の後、位牌を菩提寺へ返しに行くことになりました。飲酒していない私は喪主家族と共に、位牌堂へと招かれて入ったのですが、そこで見たものは、地域ごとに整理された実にたくさんの位牌の群れでした。位牌とは死者の霊が宿っているものとされています。目に見えるものしか信じることができない哀れさを感じましたが、その中に入っている過去帳こそ、恐るべきものです。
 過去帳とは徳川幕府がキリシタン取り締まりのために、宗教戸籍の義務づけとして全国津々浦々に強制したものです。目的は菩提寺を設定させ、仏教門徒になることを強制し、これに応じられないキリシタンをあぶり出すことでした。

 過去帳は菩提寺としての必須のものでした。一家族ごとに一冊あって、仏への信心が頭書きにあり、代々の家族の法名(戒名)と俗名、没年月日が記されています。これは家の宗教として仏教徒であることを証明するものです。キリスト教徒にとって、「いのちの書」でなく、この過去帳に名が記されることは「非常にまずい」と示されました。

 ですから私はこの度の葬儀からたいへん教訓を得ました。信仰を日頃からはっきりと告白し、証し続けていくことの重要性を、です。またこの国には、このような暗闇の亡霊が過去から今に至るまで支配し続けており、多くの人はそれを知りません。私たちはこの悪しき習慣と支配する悪霊と対決し、闇に閉ざされたこの国を開放しなければならないのです。神に依り頼みましょう。神に不可能はありません。 ケパ

神の愛 Part2~神の言葉を行う

ピリピ 2章8節
 キリストの愛は、行いの伴った真実の愛でした。最もキリストを知っていたヨハネは、この行いの極地ともいえる十字架の愛を伝えてくれているのです。
 1ヨハネ3:16において「キリストは私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために命を捨てるべきです」、同18「私たちはことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」と述べました。
 大事な点は、これがキリストの最も重要なご命令であって、これに比べれば大宣教命令すらも、この愛のご命令の具体的な指示の一つに過ぎないことです。罪人に過ぎない私たちは、ほんとうの愛がありません。しかしキリストの愛が私に注がれて満たされ、そのあふれ出る愛でなら愛することができます。
 ですから自分のことだけでアップアップしており、まだ他に流せるほど愛が満たされていないクリスチャンは、宣教にはまだ立ってはならないのです。また宣教だけでなく、牧師とか伝道師もそうですが、家業のようにして立ってはなりません。資格も資質も、その他世的に考えられる必要なものが無くとも、キリストが弟子を召されたように、ただ神の召命に応答して立つのが正しいのです。

 1ヨハネ3:18に今一度戻りますが、ここで言う「兄弟」とはなにも教会内のクリスチャンを指すだけではありません。まさか教会内だけで愛し合い、教会を一歩離れたら別人になってもよいと言っている(笑い)のではないでしょう。ただ身近なところから、という意味なのです。家庭において先ず以て伴侶であり、子であり、親です。また職場の同僚であり、上司でもあります。このような身近な兄弟のために私たちは「いのちを捨ててまで愛する」のではないでしょうか?その愛は自分の愛の力では無く、ただキリストの愛の力です。
 自分はクリスチャンである、と周囲に明らかにすることはすばらしいことですが、それはスタートに過ぎないことでしょう。その上で、ことばを持って百の伝道をするより、一つの「愛」の行いをすることの方がはるかに優るものです。具体的に見るなら、自分を憎み、迫害する者のために怒る自分に死ななければなりません。自分を守るのではなく、その相手のために祈り、執り成しをするのです。それこそキリストが歩まれた道であり、神が喜んでくださることです。御心の祈りなのです。
 これは余計なことかも知れませんが、続く22節に「求めるものは何でも神からいただくことができます」とあります。しかし、「祈り求めても与えられない」と祈りに不信感を持たれる方がたいへん多いのです。それは御心の祈りをしていないからです。御心の祈りとは、愛の祈りなのです。自分を無くし、ほんとうに愛して祈っておられるのでしょうか?そうならば必ず応えられるのです。御心の祈りなのですから。

 みなさん、私たちは血を流すほどの「行いと真実をもって愛そうと」しているでしょうか?自分のことばっかり、良かれと祈り願ってはいませんか。神は、ごく最初は確かに応えてくださったと思いますが、いつまでも赤ちゃんのまま、やわらかい食べ物だけを求めているのでは、これは成長を拒否し、わがままを言い放題のだだっ子のようなものです。神に愛されるとは、深い悔い改めから神の愛を受け、愛に満たされ、しもべとしてただ父の御心だけを切に行おうとする者です。神の愛はそのような人を通して、聖霊の実、賜物を用いて広く流されていくのです。まず神の愛を知り、満たされましょう。あふれるほどに。すべてはそれからです。

2013年10月 6日 (日)

神は愛です

1ヨハネ4章16節
   先週のメッセージで、私たちはキリストにならい、神の言葉でサタンに対抗しようと申し上げました。その戦いのためには、聖書をサタンのようにでなく、イエス様のように用いるため、神の言葉として学び、己の肉とする必要があります。
 先週のメッセ−ジの後になってのことですが、以前、異端の人々の聖書理解やキリスト教カルトの指導者のメッセージを聞いた時のことを思い出しました。彼らの聖書理解は、聖書の言葉の表面だけを継ぎ合わせたもので、まったくつじつまが合わないものでした。それはそうでしょう、彼らは自分の都合に合わせて、聖書の言葉の上っ面だけをあちこちから引用しているのですから。荒野の誘惑でサタンが「あなたが神の子なら、飛び降りてみなさい」とキリストに言っていますが、まさに同じパターンです。
 私たちがそうであってはなりません。サタンになくて私たちにあるもの。それは神が私たちを愛していてくださっていることであり、それを知っているだけでなく体験できることです。聖霊のバプテスマも、その飢え乾きから、与えられたものです。さらに熱心に聖書を学び、神の言葉によって神様の本質、愛を知っていくならば、その人の信仰は偏りのない強固な土台となっていくのです。
 聖書は尊く聖にして全能なる神が、なんと土に還る被造物に過ぎない私たちを、どれほど愛していてくださっているかという、偉大な愛の告白の物語です。これほどまでに私たちを愛してくださっている方、神の御心を、聖書によって確かに知り、御心だけを行なって行きたい願いが私たちの力であり、サタンに打ち勝つものです。

 ですからみなさん、どうかお願いします。神の言葉を体験してください。サタンのように、自分のために、何か自分の益になるかも知れないと聖書に接しては絶対に不可能です。イエス様の最大の命令は先ず「愛し合いなさい」でした。勘違いしてはいけません。自分の愛でできません。神の愛にまず満たされて、愛が自分からあふれ出て、それで愛し合えるようになるのです。愛の源泉は聖書です。霊的な体験を求め、振り回されている者にならないで、聖書の神の愛を先ず体験して、正しく霊を吟味できるようになってからにしてください。また聖書を読んでも神の愛がわからない人は、金持ちのように(ルカ16:31)救われがたいのです。
 よい忠実なしもべは、自分のしたいことを考えません。何とかして主人の意向を知り、主人の思いを成就しようと主人にだけ、絶えず目を注ぐ者です。そのように「しもべはここにおります。主よ、お語りください」と悔い改めと献身の祈りを先ず捧げて、主の御心を聖書からお聞きになっていただきたいと思うのです。聖霊のバプテスマを受け、聖霊様に導いていただいて読んでいただきたい。そうすれば著者である聖霊様が解き明かしてくださるので、まるで大パノラマのように、文字が立ち上がって聖書の情景を映し出すことでしょう。聖書があなたの心を震えさせ、立ち上がらせることでしょう。神の言葉によって天地万物は造られましたが、同じように私たち一人一人の心も、聖書を通し神は愛で満たしてくださいます。それは、神を知る恵みと喜びの体験ですし、御心にそっての新しい心を創造してくださる力あるものです。神は愛です。神の言葉は、私たちにとって生きる力でありいのちそのものです。

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