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2013年10月20日 (日)

神の愛 Part2~神の言葉を行う

ピリピ 2章8節
 キリストの愛は、行いの伴った真実の愛でした。最もキリストを知っていたヨハネは、この行いの極地ともいえる十字架の愛を伝えてくれているのです。
 1ヨハネ3:16において「キリストは私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために命を捨てるべきです」、同18「私たちはことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」と述べました。
 大事な点は、これがキリストの最も重要なご命令であって、これに比べれば大宣教命令すらも、この愛のご命令の具体的な指示の一つに過ぎないことです。罪人に過ぎない私たちは、ほんとうの愛がありません。しかしキリストの愛が私に注がれて満たされ、そのあふれ出る愛でなら愛することができます。
 ですから自分のことだけでアップアップしており、まだ他に流せるほど愛が満たされていないクリスチャンは、宣教にはまだ立ってはならないのです。また宣教だけでなく、牧師とか伝道師もそうですが、家業のようにして立ってはなりません。資格も資質も、その他世的に考えられる必要なものが無くとも、キリストが弟子を召されたように、ただ神の召命に応答して立つのが正しいのです。

 1ヨハネ3:18に今一度戻りますが、ここで言う「兄弟」とはなにも教会内のクリスチャンを指すだけではありません。まさか教会内だけで愛し合い、教会を一歩離れたら別人になってもよいと言っている(笑い)のではないでしょう。ただ身近なところから、という意味なのです。家庭において先ず以て伴侶であり、子であり、親です。また職場の同僚であり、上司でもあります。このような身近な兄弟のために私たちは「いのちを捨ててまで愛する」のではないでしょうか?その愛は自分の愛の力では無く、ただキリストの愛の力です。
 自分はクリスチャンである、と周囲に明らかにすることはすばらしいことですが、それはスタートに過ぎないことでしょう。その上で、ことばを持って百の伝道をするより、一つの「愛」の行いをすることの方がはるかに優るものです。具体的に見るなら、自分を憎み、迫害する者のために怒る自分に死ななければなりません。自分を守るのではなく、その相手のために祈り、執り成しをするのです。それこそキリストが歩まれた道であり、神が喜んでくださることです。御心の祈りなのです。
 これは余計なことかも知れませんが、続く22節に「求めるものは何でも神からいただくことができます」とあります。しかし、「祈り求めても与えられない」と祈りに不信感を持たれる方がたいへん多いのです。それは御心の祈りをしていないからです。御心の祈りとは、愛の祈りなのです。自分を無くし、ほんとうに愛して祈っておられるのでしょうか?そうならば必ず応えられるのです。御心の祈りなのですから。

 みなさん、私たちは血を流すほどの「行いと真実をもって愛そうと」しているでしょうか?自分のことばっかり、良かれと祈り願ってはいませんか。神は、ごく最初は確かに応えてくださったと思いますが、いつまでも赤ちゃんのまま、やわらかい食べ物だけを求めているのでは、これは成長を拒否し、わがままを言い放題のだだっ子のようなものです。神に愛されるとは、深い悔い改めから神の愛を受け、愛に満たされ、しもべとしてただ父の御心だけを切に行おうとする者です。神の愛はそのような人を通して、聖霊の実、賜物を用いて広く流されていくのです。まず神の愛を知り、満たされましょう。あふれるほどに。すべてはそれからです。

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