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2013年11月

2013年11月24日 (日)

動かない高級車

ローマ8章22節          
 一昨日は義母の法事に参加した。私の身内はほとんどが浄土真宗です。今回はそれとかなり異なる臨済宗なので、どのような教えを説くのだろうか、これから戦う相手を深く知るまたとない機会でした。ところが熱心に聞いている私のそばで、正座とかの窮屈な姿勢も相まってか「長~いっ」と舌打ちする声も聞こえ、多くの人はせっかくの話にも飽き飽きの様子で聞いていた。

 仏式の葬儀の場に、これまでかなりの数、参加してきた。今回は「長命の故に尊からず、如何に生き、生きたかが大切である」と立派なことを聞き、その点はキリスト教とは同じ真理だ思いました。しかし仏の教えの根本である輪廻転生とか解脱の教えが説かれることはまずありません。葬儀に際して、亡くなった人が仏になれなかった場合、次にはどんな生き物になって生まれるかもと、口が裂けても言えるはずがありません。戒名をつけますが実に形式であって、果たして「解脱して仏になった」ことはどうしてわかるのでしょうか?そこで決まって持ち出すのが先祖崇拝です。先祖の数を数字のトリックをつかって膨大なものにし、それ故今ある命の尊さと先祖へのご恩返しの重要性を説きました。

 みなさん仏教には十字架がありません。罪が許されるとしたら仏の大慈大悲でしょう。でもそれに頼るのは人間側の一方的な思い込みですので、実際に罪が帳消しにされた感覚は無いはずです。考えてもみてください。もし失敗すれば、やり直しのきかない永遠なのです。これは恐ろしいことです。
 また仏教とは「エンジンの無い高級車」みたいです。一面の真理はありますが、それなら、と良いことを行おうとしても、やり続ける力がないのです。これではキャデラックとかリムジンのようなどんなに立派な車であったとしても、だれもが狭い車内に居続けることができるはずがありません。この良い業を行う力は、人間には無いのですから当然です。

 キリスト教では人間の罪の身代わりとなって、なんと神ご自身が十字架にかかってくださった。人間はこれを信じれば、すべての罪が赦されるのです。罪が無くなった人にはじめて、聖霊なる神が住まわれます。さらに自分を全面的に神の支配に委ねるならば、その人に聖霊の働きが現れ、良い業、良い働きが連続して行われるようになります。その上、神との深い交わりが培われ、人生の目的、使命が明らかにされるのです。ハレルヤ!

2013年11月17日 (日)

なぜ疑うのか

マタイ14章21節 
 五千人の給食の奇蹟後のことです。ここでまだまだかなり明るい内に、おそらく午後4時頃かと思われますが、イエス様は「強いて」、つまりご自分がお一人で神様とお祈りをされたいがために、弟子たちをタブハから対岸のゲルゲサ地方に行かされます。

 ガリラヤ湖は南北で23キロ、東西で最長13キロある湖です。タブハからですとちょうど真横の東西に近く、およそ10キロ程度の距離です。プロの漁師たちであったペテロたちがいるのですから、普通なら日が暮れるまでに着ける距離でしょう。しかし夜になり、真夜中から朝の三時になっても沖から数キロの地点に留まっていたというのは、12時間かかっても湖の半分にすら届かなかったということになります。
 弟子たちが風に苦闘しているさ中、イエス様は湖上を歩かれて弟子たちの舟に近づかれました。イエス様だとわかると、弟子たちに大いなる喜びが走ったことでしょう。その上にペテロが水の上を歩く奇蹟が起こりました。これはペテロの願いと、イエス様の「来なさい」ということばに従った結果でした。この一連の出来事こそ、弟子たちを舟で行かせられたもう一つの目的であり、この出来事が終わると向かい風はすぐに止んだのです。

 水の上を歩く、沈む、これは何を目的としたものでしょうか?もうすぐキリストの所に着く、その寸前のところでペテロは「風を見てこわくなった」のです。自分が願い、まさにそれが実現している事実であるにも関わらず、疑いがわき、キリストを見るのではなく、荒れている湖という世の常識に足を置いたのです。その瞬間に「怖れ」が生じて神の力は彼から消え失せ、普通の人となり、沈むという当然の結果になりました。

 怖れというのはサタンの得意な道具の一つです。サタンの本質は罪と高慢であり、得意技が嘘とだましです。人間の不安や恐れという感情は自然なものですが、時にサタンによって利用され、増幅され、制御不能となって理性を失っての自己保身に突っ走らせます。暴力とか戦争とかの破壊はそうです。その様子を見られたイエス様はペテロを助けながら、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と言われたのです。

 デボーションは大切です。この日まで私は「どうして教会はあなたが約束されているように伸びないのでしょうか」と神に祈り、その言葉を疑いはじめていたのです。答えは明確でした。この日のデボーションの聖書「疑わないで待ちなさい」と、年間主題の「(困難を感謝し、必ず成就することを信じて)喜びなさい」でした。私は自分が少しでも疑ったことを、神に悔い改めるほかありませんでした。

 「疑うこと」はペテロのように避けられないとしても、特効薬があります。神がこれまでにしてくださったことを思い出すのです。私もこれまで導かれ語られたことの一切は、見事に成就しています。そしてこの船橋での牧会は、結腸ガンの癒やしと「マケドニアの叫び」から始まったばかりの現在進行形なのです。すぐに結果を求め、表れないからと語られた言葉を疑う。こういう自分の信仰の乏しさに対し、「信仰の薄い人だな」と神に諭されたのです。ですので、もう二度と私は疑わないことにしました。からし種の信仰を実践します。またもし疑ったとしても、ペテロのように「主よ、助けてください」と叫べば良いのです。主は必ず助けてくださり、舟に連れ帰ってくださるのですから。

2013年11月10日 (日)

喜びなさい

ピリピ4章4節

 本年度の年間聖句「喜びなさい」を講解する。B

 「感謝」はリバイバルの「鍵」である。
しかしその土台としては「聞き従い」があった。私たちの群れがマーリンさんの感謝の継承者であり、これまで不思議とマーリンさんと一致していたことは、この「聞き従い」の土台が同じであった故であった。「すべては益となる」この御言葉は、聞き従った上での結果なのであって、「聞き従い」がなければそうはならない。私たちはマーリンさんの感謝を継承し、リバイバルの鍵を開いて行く。

 今年度の「喜び」とは、この聞き従いと感謝のさらなる段階、実をつけるべき段階である。我々は確かに感謝しているが、真実に、心からの感謝ができているだろうか。これは人の自然な感情に逆らうことであり、自分の力ではできないことである。
 しかしここでは、できるかどうかの個人の力を問われているのではない。問われているのは、信仰と同様、「喜ぶ」ことを選び、そのように決める意思とその決断である。なぜなら神が命じておられるからである。後は神が働いてくださるのであって、思い煩いは無用である。

 「喜ぶ」ことに決めるならば、神がその信仰を祝し、大地の作物のように豊かに実らせてくださるであろう。これはリバイバルを開いていく実質(実)である。  アーメン。

2013年11月 3日 (日)

ガリラヤ新年礼拝「いつも主にあって喜びなさい」

ピリピ 4章4節              (東京アンテオケ教会 パウロ秋元牧師)
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

 聞き従いが難しいと思っている人は多いようですが、実は簡単なことです。心の真実を神に語っていただき、心の底から神に聞き従いたいと思うこと。その聞き従いができないと思うなら、そのような願いをもって祈り求めればよいのです。ただし、これは真実な願いでなければなりません。すべては益となる、この事には聞き従いが土台となります。そしてもし感謝がなかったとしたら、私たちの問題はどこまでも問題のままであり続けて行き、祝福された人生への転換点とはなりません。繰り返しますが聞き従いができていて、感謝の教えが開かれていくことが重要なポイントです。感謝の教えを知っていて、信じていること。その土台の上に神様が大きなことを為してくださるのです。

 今回示されたのはピリピ4章4節「いつも主にあって喜びなさい」ですが、これが御心である傍証は、歌集「風のひびき」に喜びの曲が多いことです。先ほど賛美の3曲とも喜びの曲を歌ったことにお気づきでしょうか。感謝からさらに一歩踏み込んだ段階は「喜び」になります。たとえば地方の聖会を回る際に、運転している牧師はよく警察に捕まります。その瞬間、さすがに牧師だけあって感謝は徹底しているようです。
 「あぁ~あ・・・」と叫び、それから口先では「が、感謝しま…す」と感謝の対応を信仰でやっています。しかし、誰も喜んではいません。それどころか「これで白馬に行けなくなりました・・・」とか、恨みが混じったような感謝をしております。

 「喜び」とは、すでに受けたという信仰の具体的な現れであり、感謝が土台です。受けたと信じた時、喜ぶ者と喜ばない者とに大きな差が生じます。主は度重ねて「喜びなさい」と言っておられます。主はすべての問題に解決を持っておられるのです。問題や困難に出会っても、御言葉に従って対応するなら、問題からの逆転勝利を得るのです。

 クリスチャンには問題とは解決されるためにあります。だから信じて喜びなさい。もし喜んだり、感謝したりせずに、起こる時の不安やおそれは、その通りにならないのです。だから喜びなさいなのです。
 もう一つは主にあって・・・です。「不安になるようなことは、主の御心ではありませんし、従うならそのようなことは起こらない」のです。だから喜びなさなさい、なのです。

 一つ事件がありました。この一時間前にトイレで水が流れないという事件が起こりました。
「部屋替えかなと」喜んでいなかったのです。「喜ぶ」ことは、人間の自然な感情や力ではできないことなのだとわかりました。ということは、自分の思いを「喜ぶ」ことに決めるのです。喜ぶためには、人は基本的には喜べないのですから、この対応としては、とにかく「喜ぶ」ことに意志の力で決めるのです。 
 そうするならば、すばらしい神様の計画があらわにされていくのです。「喜ぶことに決める」、これが新年の重要なメッセージです。喜ぶことに決めると、「どうしても癒されなければ」とかそのような、御心の行いが行えないと焦ることはないのです。神様に任せればよいのです。せっぱ詰まっていくことはないのです。主はすべてわかってやっておられるのですから、すでに御手の内の中なのですから。
 Capha

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