なぜ疑うのか
† マタイ14章21節
五千人の給食の奇蹟後のことです。ここでまだまだかなり明るい内に、おそらく午後4時頃かと思われますが、イエス様は「強いて」、つまりご自分がお一人で神様とお祈りをされたいがために、弟子たちをタブハから対岸のゲルゲサ地方に行かされます。
ガリラヤ湖は南北で23キロ、東西で最長13キロある湖です。タブハからですとちょうど真横の東西に近く、およそ10キロ程度の距離です。プロの漁師たちであったペテロたちがいるのですから、普通なら日が暮れるまでに着ける距離でしょう。しかし夜になり、真夜中から朝の三時になっても沖から数キロの地点に留まっていたというのは、12時間かかっても湖の半分にすら届かなかったということになります。
弟子たちが風に苦闘しているさ中、イエス様は湖上を歩かれて弟子たちの舟に近づかれました。イエス様だとわかると、弟子たちに大いなる喜びが走ったことでしょう。その上にペテロが水の上を歩く奇蹟が起こりました。これはペテロの願いと、イエス様の「来なさい」ということばに従った結果でした。この一連の出来事こそ、弟子たちを舟で行かせられたもう一つの目的であり、この出来事が終わると向かい風はすぐに止んだのです。
水の上を歩く、沈む、これは何を目的としたものでしょうか?もうすぐキリストの所に着く、その寸前のところでペテロは「風を見てこわくなった」のです。自分が願い、まさにそれが実現している事実であるにも関わらず、疑いがわき、キリストを見るのではなく、荒れている湖という世の常識に足を置いたのです。その瞬間に「怖れ」が生じて神の力は彼から消え失せ、普通の人となり、沈むという当然の結果になりました。
怖れというのはサタンの得意な道具の一つです。サタンの本質は罪と高慢であり、得意技が嘘とだましです。人間の不安や恐れという感情は自然なものですが、時にサタンによって利用され、増幅され、制御不能となって理性を失っての自己保身に突っ走らせます。暴力とか戦争とかの破壊はそうです。その様子を見られたイエス様はペテロを助けながら、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と言われたのです。
デボーションは大切です。この日まで私は「どうして教会はあなたが約束されているように伸びないのでしょうか」と神に祈り、その言葉を疑いはじめていたのです。答えは明確でした。この日のデボーションの聖書「疑わないで待ちなさい」と、年間主題の「(困難を感謝し、必ず成就することを信じて)喜びなさい」でした。私は自分が少しでも疑ったことを、神に悔い改めるほかありませんでした。
「疑うこと」はペテロのように避けられないとしても、特効薬があります。神がこれまでにしてくださったことを思い出すのです。私もこれまで導かれ語られたことの一切は、見事に成就しています。そしてこの船橋での牧会は、結腸ガンの癒やしと「マケドニアの叫び」から始まったばかりの現在進行形なのです。すぐに結果を求め、表れないからと語られた言葉を疑う。こういう自分の信仰の乏しさに対し、「信仰の薄い人だな」と神に諭されたのです。ですので、もう二度と私は疑わないことにしました。からし種の信仰を実践します。またもし疑ったとしても、ペテロのように「主よ、助けてください」と叫べば良いのです。主は必ず助けてくださり、舟に連れ帰ってくださるのですから。
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