動かない高級車
† ローマ8章22節
一昨日は義母の法事に参加した。私の身内はほとんどが浄土真宗です。今回はそれとかなり異なる臨済宗なので、どのような教えを説くのだろうか、これから戦う相手を深く知るまたとない機会でした。ところが熱心に聞いている私のそばで、正座とかの窮屈な姿勢も相まってか「長~いっ」と舌打ちする声も聞こえ、多くの人はせっかくの話にも飽き飽きの様子で聞いていた。
仏式の葬儀の場に、これまでかなりの数、参加してきた。今回は「長命の故に尊からず、如何に生き、生きたかが大切である」と立派なことを聞き、その点はキリスト教とは同じ真理だ思いました。しかし仏の教えの根本である輪廻転生とか解脱の教えが説かれることはまずありません。葬儀に際して、亡くなった人が仏になれなかった場合、次にはどんな生き物になって生まれるかもと、口が裂けても言えるはずがありません。戒名をつけますが実に形式であって、果たして「解脱して仏になった」ことはどうしてわかるのでしょうか?そこで決まって持ち出すのが先祖崇拝です。先祖の数を数字のトリックをつかって膨大なものにし、それ故今ある命の尊さと先祖へのご恩返しの重要性を説きました。
みなさん仏教には十字架がありません。罪が許されるとしたら仏の大慈大悲でしょう。でもそれに頼るのは人間側の一方的な思い込みですので、実際に罪が帳消しにされた感覚は無いはずです。考えてもみてください。もし失敗すれば、やり直しのきかない永遠なのです。これは恐ろしいことです。
また仏教とは「エンジンの無い高級車」みたいです。一面の真理はありますが、それなら、と良いことを行おうとしても、やり続ける力がないのです。これではキャデラックとかリムジンのようなどんなに立派な車であったとしても、だれもが狭い車内に居続けることができるはずがありません。この良い業を行う力は、人間には無いのですから当然です。
キリスト教では人間の罪の身代わりとなって、なんと神ご自身が十字架にかかってくださった。人間はこれを信じれば、すべての罪が赦されるのです。罪が無くなった人にはじめて、聖霊なる神が住まわれます。さらに自分を全面的に神の支配に委ねるならば、その人に聖霊の働きが現れ、良い業、良い働きが連続して行われるようになります。その上、神との深い交わりが培われ、人生の目的、使命が明らかにされるのです。ハレルヤ!
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