父なる神の愛(死んでいたのに生き返り)
✝ ルカ15章11〜32節
この「放蕩息子の話」に登場する三人の親子、イエス様が直接お語りになったこの話に、多くの人は自分の姿を弟として、あるいは兄として受けとるのではないでしょうか。ところがこのお話の本当の主人公は父であり、天の父である神の愛と天上の喜びが主題なのです。
[天の父から見れば]
このお話に出てくる兄弟とは、父に対しその息子と言うからには、クリスチャンのことを言っていると思います。クリスチャンであっても弟のような、兄のような者がいるのです。表面的にはお利口に父に従っている兄に対して、何かにつけて比べられ、弟は息がつまりそうなほどに感じている。そんな彼には、この家から脱出しさえすれば、まだ見たことのないすばらしい世界が広がっていると思っているのです。
このように思っている弟息子に対して、どのような説得も効果がないでしょう。家を出たい気持ちを抑え続けるのも限界があります。弟息子は、すでに心が離れた子、いわば父にとってたとえ生きていても、その心は死んだも同然だったのです。
その心を生きたものにするにはどうしたらよいのでしょうか?それは息子が願っていた旅に出すことでした。生前贈与という高い旅支度でしたが。しかしそれで父が安閑としておれるはずがありません。手の届かぬ異国の、悪の巣のような所に送り出すのですから、どれほどの心配をするでしょうか?毎日地境の端まで行っては、息子の帰りをずっと待ち続ける生活になりました。
父の父なる神には不可能はないのですが、ただ一つ、心の回心だけは、本人に委ねられているのです。我に気づかず、サタンにだまされたまま野にうずもれ、朽ち果てるケースだってあることでしょう。百万の富を積んでも、何を持ってしてもこれを成功させる確実な保証はありません。だからこそ弟息子の回心に、天の父と御使いたちの喜びは、ここに極まるのです。死んでいたのに生き返ったからです。父が我を忘れて走り寄り、抱きしめ、接吻するのは当然なのです。
ですからみなさんは例外なく、かつて天の父をこれほどまで心配させた放蕩息子なのです。神の子と呼ばれる資格もない罪深い者であったのですが、ただ神の愛とあわれみによって今日ここに、神の国を受け継ぐ子として立っているのです。父の愛に応えるのは、父を愛し、御心を行おうとする心であり、それを今、新たにしましょう。