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2013年12月

2013年12月29日 (日)

父なる神の愛(死んでいたのに生き返り)

ルカ15章11〜32節
 この「放蕩息子の話」に登場する三人の親子、イエス様が直接お語りになったこの話に、多くの人は自分の姿を弟として、あるいは兄として受けとるのではないでしょうか。ところがこのお話の本当の主人公は父であり、天の父である神の愛と天上の喜びが主題なのです。

[天の父から見れば]
 このお話に出てくる兄弟とは、父に対しその息子と言うからには、クリスチャンのことを言っていると思います。クリスチャンであっても弟のような、兄のような者がいるのです。表面的にはお利口に父に従っている兄に対して、何かにつけて比べられ、弟は息がつまりそうなほどに感じている。そんな彼には、この家から脱出しさえすれば、まだ見たことのないすばらしい世界が広がっていると思っているのです。

 このように思っている弟息子に対して、どのような説得も効果がないでしょう。家を出たい気持ちを抑え続けるのも限界があります。弟息子は、すでに心が離れた子、いわば父にとってたとえ生きていても、その心は死んだも同然だったのです。
 その心を生きたものにするにはどうしたらよいのでしょうか?それは息子が願っていた旅に出すことでした。生前贈与という高い旅支度でしたが。しかしそれで父が安閑としておれるはずがありません。手の届かぬ異国の、悪の巣のような所に送り出すのですから、どれほどの心配をするでしょうか?毎日地境の端まで行っては、息子の帰りをずっと待ち続ける生活になりました。

 父の父なる神には不可能はないのですが、ただ一つ、心の回心だけは、本人に委ねられているのです。我に気づかず、サタンにだまされたまま野にうずもれ、朽ち果てるケースだってあることでしょう。百万の富を積んでも、何を持ってしてもこれを成功させる確実な保証はありません。だからこそ弟息子の回心に、天の父と御使いたちの喜びは、ここに極まるのです。死んでいたのに生き返ったからです。父が我を忘れて走り寄り、抱きしめ、接吻するのは当然なのです。
 ですからみなさんは例外なく、かつて天の父をこれほどまで心配させた放蕩息子なのです。神の子と呼ばれる資格もない罪深い者であったのですが、ただ神の愛とあわれみによって今日ここに、神の国を受け継ぐ子として立っているのです。父の愛に応えるのは、父を愛し、御心を行おうとする心であり、それを今、新たにしましょう。

2013年12月22日 (日)

証明済みのクリスチャン

†  1ペテロ4章12~13節

 神を信じる私たちの使命とは何でしょう。神を証しすることです。ですから、ヤベツのように祝福された人生だと思われたことでしょう。ところが試練に次ぐ試練、いつまで続くのかこの試練、当てが外れて今日のみ言葉の通り、「驚きあやしむ」ことはなかったでしょうか。
 確かに信仰が与えられた頃は、喜びで次のように思うものです。「神様の守りがあるので私は大丈夫。サタンは十字架で敗北しており、私に手出しができない。試練も恐れることはなく、天国が私を待っている」と。

 しかし、一つだけ大事なことを見落としています。それは悔い改めて生まれ変わったのはその方だけであって、サタンの方はまったく回心していないということを。それどころか、かえって彼らは取り返そうと激しくファイトを燃やしているのかもしれません。サタンの攻撃が以前より激しくなるかどうかは、信仰の土台がはっきりしていないためなのか、その人に神のご計画があるからなのです。

 さてここで試練について整理しておきましょう。第一に神に従う者に来る試練とは、すでに神に捧げた私たちに関しては、持ち主である神の赦しなしにはあり得ません。ですから、必ずこの背後に神の最善のご計画があります。試練なしには、私たちが達し得ない神の恵みの世界、信仰の階段というものがあり、人を造られた神はそのことをよくご存じなのです。
 第二に、私たちが耐えられないほどの試練というものはないことです。(1コリ10:13)

 このように見ていきますと、試練とは神に愛されている印なのです。「えーっ、愛されているのに試練というのは考えられない」と受け取られる方は、神の愛を人間のレベルで見ておられるのです。虎はわが子を千尋の谷に落とすと申しますが、千尋の谷に降りれない人間の親にはできないことです。ですから子どもに試練を与えられる親というのは、まずいません。安全に気をつけ、転ばぬよう真っ直ぐ育つようにします。しかし悲しいかな、それが真に子どものためになっているとは限りません。温室育ちの若者はあまりにもひ弱で、折れやすいのです。
 ところが神様は全能であって、人間の親と異なって、どんなことがあっても救い出すことができるのです。千尋の谷からでも私たちをチョイチョイと助け出せるのです。
 なぜ試練が許されるのか、それは罪深い私たちの心の内にある肉を取り去り、御心のものへと変えるためです。試練なしには不可能です。ですから試練とは神の愛なのです。神に愛された者は必ず試練を受けます。サタンすら操って私たちの肉を削り、永遠の命に至らせる神の計画があります。それはサタンの勝利に終わったように見えた十字架が、実は神の大逆転、大勝利となったのと同じなのです。

 ですから試練にあった時は「この上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)と聖書が説いているのです。試練にあう人、あなたは神の愛の証明済みのクリスチャンなのです。試練によって正真正銘のクリスチャンに、神が引き上げてくださることを感謝しましょう。あなたに試練は必要なのです。他の道はありません。今この瞬間から、心を変え、試練を心から喜び踊りましょう。

2013年12月15日 (日)

信じ切った人

ルカ 1章44~45節
 イエス・キリストの母マリヤほど、祝福された人はいないのではないでしょうか。
 これはアブラハムやダビデよりも、身近な韓国ドラマ「トンイ」で、主人公が奴卑から王の生母になるような、およそあり得ない話よりも、はるかにまさる祝福です。
 今でも同じですが、王の外交訪問には必ずその先遣隊が送られ、根回しをしたり手はずを整えたりして事前の準備をします。イエス・キリストという王の中の王には、エリヤという旧約最大の預言者がその先駆けとして遣わされることが預言されていました。バプテスマのヨハネはそのエリヤよりもさらに優れた最大の預言者(イエス様がそのことを明言された→マタイ17:12)でした。メシヤであるイエスとヨハネという二人のタッグマッチによって、神は預言を成就させ、救いの御業を完成させられました。その始まりは、二人が共に母の胎にいる時からだったのです。
 Hymn_08
 基本的なことですが、神様はサタンのように人に勝手に入り、支配しようとはされません。祝福においても同様です。キリストの母にマリヤが選ばれたのですが、主はガブリエルを遣わして受諾を確認(ルカ1:38)されました。マリヤは貧しい大工の妻になる人でしたが、夫になるヨセフはダビデの家系であり、マリヤ自身は祭司の超エリート、アロンの家系エリサベツの親類でした。つまり神様のストーリーは、人智を超えて見事に整っていたのです。
 
 さてマリヤが「お言葉通りにこの身になりますように」と受諾した途端に、その胸に去来するものは何だったでしょう。マリヤは妊娠を完全に信じきったのです。しかし現実はまことに厳しいものでした。当時の厳しい律法社会におけるユダヤで、なんと結婚していないのに、夫ではない子が生まれる、これは明白な姦淫であって、石打ちによる死刑が相当でした。マリヤがどんなに「姦淫ではありません」と叫んでも、親からして信じる者はいないことでしょう。婚約者のヨセフには神様が御使いを送って誤解を解いてくれました(マタイ1:20)が、その他大勢の人々、つまり親族、近所の目からどうやって御子とわが身を守ったらよいのでしょうか?
 この点に関しても神様の計画は完全でした。律法によれば、無実の罪ならば、祭司の所に行って「苦い水」を飲み、腹がふくれなかったら証明できました(民5:19)。祭司なら親類のザカリヤが居ました。示しによってか、あるいはその証明のためか、マリヤは実家にいるよりは安全な、ザカリヤとエリサベツの所に出かけます。しかしここを本日最重要に申し上げたり所ですが、[苦い水]を飲む必要はなかったのです。

 何しろヨハネは母の胎内にいるときから聖霊に満たされていたのです。マリヤの挨拶の声を聞いた途端に、胎の中のヨハネが踊りました。続いてエリサベツが聖霊に満たされて叫びました。これ以上の何の証拠がいるでしょうか。祭司ザカリヤまで賛歌を歌ったのです。
 神の言葉を信じ、死と恥をも恐れず受け入れたマリヤには、こうして平安と無実の証明が備えられたのです。みなさん、信じきった者は、世的にはどんな困難が待ち構えているように見えても、神が守ってくださり、困難に打ち勝つ勝利を与えてくださるのです。ハレルヤ!

2013年12月 8日 (日)

二人のラザロ

 ルカ16章31節 
このルカ書にたとえで個人名が出てくるのは、このラザロのことだけです。ラザロとはエルアザルの短縮形で、「神は私の恵み」の意味があります。二人のラザロとしたのは、貧しい人であったラザロとマルタとマリヤの兄弟でベタニヤのラザロのことです。前者のラザロはたとえ話での架空の人物ですが、後者のラザロは実在の人物であって、イエス様から「愛された」人物です。この二人は、イエス様の殉教が近くなった時期に時を同じくして登場しています。

Photo  貧しかったラザロは金持ちの門前に寝ていたとありますが、これは明らかに金持ちによって養われるためにそこまで運ばれ、置かれたのでした。イエス様や律法学者が確認した大切な戒めの第二条、「隣人を愛する」が遵守されることを期待してのことです。しかし全身おできのラザロがアブラハムのふところに行ったということは、どうもそれが実行されなかったのでしょう。ラザロはそれを特に恨んだりする風も無く、名前の通り死に至るまで神の助けを信じていたことでしょう。人には葬ってもらえませんでしたが、天使たちによってアブラハムのふところにまで運ばれました。「ふところ」とは安息の場所を表しています。

 対するに金持ちは、これは明らかに直前のたとえ話「不正な管理人」でイエス様をあざ笑ったパリサイ人のことを指してのことだと思われますが、ハデスに落とされた理由は明白です。自ら説いていた最重要の律法「隣人愛」欠如のためです。ハデスには深い淵があって、そこに落とされたら決して這い上がれないばかりか、永遠の炎の苦しみを受け続けます。ラザロとは完全に逆転しています。
 そこで金持ちが最後に願うことは、ラザロを生き返らせて世に送り、同じようにここへ落とされるであろう兄弟を悔い改めさせることですが、これは「(旧約)聖書」があって、これを説く立場にありながら行わない無い者(偽善者)にはもはや無用であると宣告されるのです。なんともこれは、厳しい言葉だとされる方がいるかも知れません。しかし、後になってこれはほんとうに証明されるのです。

 さて次にベタニヤのラザロを詳しく見ていきましょう。イエス様の活動には拠点があり、ガリラヤではカペナウム、エルサレム周辺においてはベタニヤでした。マルタとマリヤ、そしてラザロの家です。イエス様はこの兄弟姉妹を愛しておられておりましたし、ラザロが病気で危篤状態に陥った時、イエス様にレスキュー要請をしたのは当然です。それまでにあった二人のよみがえりの奇蹟、会堂司ヤイロの娘、ナインの息子のことを知っていました。これらはいずれも亡くなった直後のできごとでした。ですから癒やし、悪くてもよみがえりを期待し、即刻かけつけてくださると期待していたはずなのです。
 知らせがイエス様に届くのに一日、おそらくはその日にはラザロは死んでいます。イエス様は知らせを聞いてさらに二日を待たれます。そして四日目にようやくベタニヤ行かれたのです。死んで四日目に行くということに大きな意味があります。ユダヤの慣習では三日間を泣く日とし、丸三日が過ぎることで完全な死とするからです。実際に遺体は腐乱をし始めており、マルタが「主よ、もうくさくなっておりましょう」と言ったほど、そこには何をもってしても疑う余地のない死が四日目にはあったのです。死後直後のことでしたら、仮死状態だったとか、蘇生術でと、イエス様の業を疑うことができました。しかし実の、見事な信仰告白をした姉妹ですらなかなか信じられない完全な死からのよみがえり、これこそがイエス様の目的でした。
 ベタニヤのラザロのよみがえり、これは「わたしは、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は信じる者は死んでも生きる」と、言われたイエス様が人間には超えられないと思い込んでいる死を克服されることを予表しているのです。ここでの「霊の憤り」「涙を流され」という言葉は誤解しないでください。死に対する人間の絶望と、これから表される神の栄光、そしてそれがご自身の十字架へと一直線につながっていく、そのスタートの踏み出しをされたからなのです。
 事実、ラザロの復活という業は、その場に居合わせた者からエルサレムの都中に広まり、多くの信じる者を出しただけでなく、権力を握っていた祭司長やパリサイ人たちを危急存続の岐路に立たせました。もはやイエス様は公然とは姿を現されなくなり、後は十字架への道をまっすぐに歩まれました。この奇蹟があったからこそ、ロバに乗ってのエルサレム入城は、熱狂的な催しとなってしゅろや人々の上着が道に敷かれたのです。
 そしてまた、ヨハネ12:10にあるように、彼らはよみがえったラザロをも殺そうとしたのです。ここに、金持ちに対してアブラハムが言った、「聖書に耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」(ルカ10:31)が実証されることになりました。

 さてみなさん、ここにいる私たちは、たまたま業を見ずに信じた者です。神の御心は「見ないで信じる」ことにあります。しかし同時にまた、業を見て多くの人が救われるのも確かなことなのです。聖霊の九つの賜物を信じ用いようとする私たちの群れは、終末にあたって多くの人が信じるようになる「後の雨」のために召されている群れであり、私たちを通して神の業がなされ、「見ないと信じない」多くの同胞が救われて行くのです。二人のラザロから、今一度その使命に立ち、日本の救いのために祈ってまいりましょう。神には不可能なことはないのです。 アーメン   

2013年12月 1日 (日)

新しいぶどう酒は新しい皮袋へ

マタイ 9章17節
  ここ数年でウィーンやチューリヒ、あるいはテサロニケで、それぞれ名のある教会を見て回る機会がありました。かつては輝かしい熱気にあふれた時代もあったのですが、しかし今となっては過去の記念物、蝉の抜け殻のように感じられるのです。ヨーロッパはもちろん、キリスト教国のアメリカでさえ、同性婚をめぐって聖書の原則に立つクリスチャンが迫害される時代になっています。どの国でも占いや魔女の儀式が今やブームになっています。

 このように信仰を後の時代に世代に伝えるということは、非常に困難なのです。初代はともかく、数代経ると遺物のような形式だけが残り、型だけが伝統芸能のように、継承されては行きます。カトリックなど、伝統ある主要教会がサクラメント(秘蹟)中心に維持されるのも自然の理です。 

 聖書を見ても、アブラハムやダビデの信仰は、神のあわれみと助けなしには、その継承はまったく困難でした。イスラエルの民はエジプトで単に奴隷となっただけでなく、金の子牛をつくったように骨の髄まで偶像崇拝者になっていました。ダビデの子ソロモンはエルサレム神殿を造営する栄誉を得ましたが、その後半には堕落し、その結果王国は分裂しました。結局イスラエルの歴史とは、信仰の継承というものがどれほど困難なものかを物語る歴史となりました。ついには約束されたメシアすらわからず、十字架にかけた結果、神の祝福は異邦の民に接ぎ木されることになったのです。

 ではこのように継承が困難な信仰とはどういうものでしょうか?新約の民にとってそれは、聖霊なる神に己を明け渡し、そのしもべとも、子ともなることです。聖霊による支配のことであり、信仰とは風のごとく、個々人への聖霊なる神の主権なのです。リバイバル、信仰復興とは、このような状態に新たな霊の吹き興しとして起こるものです。ただしこの日本は、一度もキリスト教国になっておりません。この国にたくさんのクリスチャンが起こされる時が来たとしたら、それは「全世界を覆う後の雨、聖霊の油注ぎがこの国に来た」というべきでしょう。つまりこの日本が福音化される時、その時は世の終わりの直前なのです。つまりほとんどが初代の、いわば旬のクリスチャン国の日本、これが終末の大いなる聖霊の油注ぎ、後の雨が始まったことを全世界に告げ知らせる役目を担うのです。このことは「新しき酒は新しき皮袋に盛れ」の通り、後の雨という聖霊の大波は日本という新しい皮袋に盛られて始まるのです。使い古した古い皮袋を、神は用いられないのです。ハレルヤ!

 このように見れば、今は試しの時です。神の言葉を信じ、疑わないでその時を待ち望みましょう。今こそ、信仰を働かせる時です。ヤコブの手紙のように「ただ少しも疑わず信じて」確信して待ち望みましょう。山をも動かす信仰が与えられるように祈り求めましょう。これから未曾有の事柄が、旬の私たちを通して起こって行くのです。

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