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2013年12月 8日 (日)

二人のラザロ

 ルカ16章31節 
このルカ書にたとえで個人名が出てくるのは、このラザロのことだけです。ラザロとはエルアザルの短縮形で、「神は私の恵み」の意味があります。二人のラザロとしたのは、貧しい人であったラザロとマルタとマリヤの兄弟でベタニヤのラザロのことです。前者のラザロはたとえ話での架空の人物ですが、後者のラザロは実在の人物であって、イエス様から「愛された」人物です。この二人は、イエス様の殉教が近くなった時期に時を同じくして登場しています。

Photo  貧しかったラザロは金持ちの門前に寝ていたとありますが、これは明らかに金持ちによって養われるためにそこまで運ばれ、置かれたのでした。イエス様や律法学者が確認した大切な戒めの第二条、「隣人を愛する」が遵守されることを期待してのことです。しかし全身おできのラザロがアブラハムのふところに行ったということは、どうもそれが実行されなかったのでしょう。ラザロはそれを特に恨んだりする風も無く、名前の通り死に至るまで神の助けを信じていたことでしょう。人には葬ってもらえませんでしたが、天使たちによってアブラハムのふところにまで運ばれました。「ふところ」とは安息の場所を表しています。

 対するに金持ちは、これは明らかに直前のたとえ話「不正な管理人」でイエス様をあざ笑ったパリサイ人のことを指してのことだと思われますが、ハデスに落とされた理由は明白です。自ら説いていた最重要の律法「隣人愛」欠如のためです。ハデスには深い淵があって、そこに落とされたら決して這い上がれないばかりか、永遠の炎の苦しみを受け続けます。ラザロとは完全に逆転しています。
 そこで金持ちが最後に願うことは、ラザロを生き返らせて世に送り、同じようにここへ落とされるであろう兄弟を悔い改めさせることですが、これは「(旧約)聖書」があって、これを説く立場にありながら行わない無い者(偽善者)にはもはや無用であると宣告されるのです。なんともこれは、厳しい言葉だとされる方がいるかも知れません。しかし、後になってこれはほんとうに証明されるのです。

 さて次にベタニヤのラザロを詳しく見ていきましょう。イエス様の活動には拠点があり、ガリラヤではカペナウム、エルサレム周辺においてはベタニヤでした。マルタとマリヤ、そしてラザロの家です。イエス様はこの兄弟姉妹を愛しておられておりましたし、ラザロが病気で危篤状態に陥った時、イエス様にレスキュー要請をしたのは当然です。それまでにあった二人のよみがえりの奇蹟、会堂司ヤイロの娘、ナインの息子のことを知っていました。これらはいずれも亡くなった直後のできごとでした。ですから癒やし、悪くてもよみがえりを期待し、即刻かけつけてくださると期待していたはずなのです。
 知らせがイエス様に届くのに一日、おそらくはその日にはラザロは死んでいます。イエス様は知らせを聞いてさらに二日を待たれます。そして四日目にようやくベタニヤ行かれたのです。死んで四日目に行くということに大きな意味があります。ユダヤの慣習では三日間を泣く日とし、丸三日が過ぎることで完全な死とするからです。実際に遺体は腐乱をし始めており、マルタが「主よ、もうくさくなっておりましょう」と言ったほど、そこには何をもってしても疑う余地のない死が四日目にはあったのです。死後直後のことでしたら、仮死状態だったとか、蘇生術でと、イエス様の業を疑うことができました。しかし実の、見事な信仰告白をした姉妹ですらなかなか信じられない完全な死からのよみがえり、これこそがイエス様の目的でした。
 ベタニヤのラザロのよみがえり、これは「わたしは、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は信じる者は死んでも生きる」と、言われたイエス様が人間には超えられないと思い込んでいる死を克服されることを予表しているのです。ここでの「霊の憤り」「涙を流され」という言葉は誤解しないでください。死に対する人間の絶望と、これから表される神の栄光、そしてそれがご自身の十字架へと一直線につながっていく、そのスタートの踏み出しをされたからなのです。
 事実、ラザロの復活という業は、その場に居合わせた者からエルサレムの都中に広まり、多くの信じる者を出しただけでなく、権力を握っていた祭司長やパリサイ人たちを危急存続の岐路に立たせました。もはやイエス様は公然とは姿を現されなくなり、後は十字架への道をまっすぐに歩まれました。この奇蹟があったからこそ、ロバに乗ってのエルサレム入城は、熱狂的な催しとなってしゅろや人々の上着が道に敷かれたのです。
 そしてまた、ヨハネ12:10にあるように、彼らはよみがえったラザロをも殺そうとしたのです。ここに、金持ちに対してアブラハムが言った、「聖書に耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」(ルカ10:31)が実証されることになりました。

 さてみなさん、ここにいる私たちは、たまたま業を見ずに信じた者です。神の御心は「見ないで信じる」ことにあります。しかし同時にまた、業を見て多くの人が救われるのも確かなことなのです。聖霊の九つの賜物を信じ用いようとする私たちの群れは、終末にあたって多くの人が信じるようになる「後の雨」のために召されている群れであり、私たちを通して神の業がなされ、「見ないと信じない」多くの同胞が救われて行くのです。二人のラザロから、今一度その使命に立ち、日本の救いのために祈ってまいりましょう。神には不可能なことはないのです。 アーメン   

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