新しいぶどう酒は新しい皮袋へ
† マタイ 9章17節
ここ数年でウィーンやチューリヒ、あるいはテサロニケで、それぞれ名のある教会を見て回る機会がありました。かつては輝かしい熱気にあふれた時代もあったのですが、しかし今となっては過去の記念物、蝉の抜け殻のように感じられるのです。ヨーロッパはもちろん、キリスト教国のアメリカでさえ、同性婚をめぐって聖書の原則に立つクリスチャンが迫害される時代になっています。どの国でも占いや魔女の儀式が今やブームになっています。
このように信仰を後の時代に世代に伝えるということは、非常に困難なのです。初代はともかく、数代経ると遺物のような形式だけが残り、型だけが伝統芸能のように、継承されては行きます。カトリックなど、伝統ある主要教会がサクラメント(秘蹟)中心に維持されるのも自然の理です。
聖書を見ても、アブラハムやダビデの信仰は、神のあわれみと助けなしには、その継承はまったく困難でした。イスラエルの民はエジプトで単に奴隷となっただけでなく、金の子牛をつくったように骨の髄まで偶像崇拝者になっていました。ダビデの子ソロモンはエルサレム神殿を造営する栄誉を得ましたが、その後半には堕落し、その結果王国は分裂しました。結局イスラエルの歴史とは、信仰の継承というものがどれほど困難なものかを物語る歴史となりました。ついには約束されたメシアすらわからず、十字架にかけた結果、神の祝福は異邦の民に接ぎ木されることになったのです。
ではこのように継承が困難な信仰とはどういうものでしょうか?新約の民にとってそれは、聖霊なる神に己を明け渡し、そのしもべとも、子ともなることです。聖霊による支配のことであり、信仰とは風のごとく、個々人への聖霊なる神の主権なのです。リバイバル、信仰復興とは、このような状態に新たな霊の吹き興しとして起こるものです。ただしこの日本は、一度もキリスト教国になっておりません。この国にたくさんのクリスチャンが起こされる時が来たとしたら、それは「全世界を覆う後の雨、聖霊の油注ぎがこの国に来た」というべきでしょう。つまりこの日本が福音化される時、その時は世の終わりの直前なのです。つまりほとんどが初代の、いわば旬のクリスチャン国の日本、これが終末の大いなる聖霊の油注ぎ、後の雨が始まったことを全世界に告げ知らせる役目を担うのです。このことは「新しき酒は新しき皮袋に盛れ」の通り、後の雨という聖霊の大波は日本という新しい皮袋に盛られて始まるのです。使い古した古い皮袋を、神は用いられないのです。ハレルヤ!
このように見れば、今は試しの時です。神の言葉を信じ、疑わないでその時を待ち望みましょう。今こそ、信仰を働かせる時です。ヤコブの手紙のように「ただ少しも疑わず信じて」確信して待ち望みましょう。山をも動かす信仰が与えられるように祈り求めましょう。これから未曾有の事柄が、旬の私たちを通して起こって行くのです。
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