証明済みのクリスチャン
† 1ペテロ4章12~13節
神を信じる私たちの使命とは何でしょう。神を証しすることです。ですから、ヤベツのように祝福された人生だと思われたことでしょう。ところが試練に次ぐ試練、いつまで続くのかこの試練、当てが外れて今日のみ言葉の通り、「驚きあやしむ」ことはなかったでしょうか。
確かに信仰が与えられた頃は、喜びで次のように思うものです。「神様の守りがあるので私は大丈夫。サタンは十字架で敗北しており、私に手出しができない。試練も恐れることはなく、天国が私を待っている」と。
しかし、一つだけ大事なことを見落としています。それは悔い改めて生まれ変わったのはその方だけであって、サタンの方はまったく回心していないということを。それどころか、かえって彼らは取り返そうと激しくファイトを燃やしているのかもしれません。サタンの攻撃が以前より激しくなるかどうかは、信仰の土台がはっきりしていないためなのか、その人に神のご計画があるからなのです。
さてここで試練について整理しておきましょう。第一に神に従う者に来る試練とは、すでに神に捧げた私たちに関しては、持ち主である神の赦しなしにはあり得ません。ですから、必ずこの背後に神の最善のご計画があります。試練なしには、私たちが達し得ない神の恵みの世界、信仰の階段というものがあり、人を造られた神はそのことをよくご存じなのです。
第二に、私たちが耐えられないほどの試練というものはないことです。(1コリ10:13)
このように見ていきますと、試練とは神に愛されている印なのです。「えーっ、愛されているのに試練というのは考えられない」と受け取られる方は、神の愛を人間のレベルで見ておられるのです。虎はわが子を千尋の谷に落とすと申しますが、千尋の谷に降りれない人間の親にはできないことです。ですから子どもに試練を与えられる親というのは、まずいません。安全に気をつけ、転ばぬよう真っ直ぐ育つようにします。しかし悲しいかな、それが真に子どものためになっているとは限りません。温室育ちの若者はあまりにもひ弱で、折れやすいのです。
ところが神様は全能であって、人間の親と異なって、どんなことがあっても救い出すことができるのです。千尋の谷からでも私たちをチョイチョイと助け出せるのです。
なぜ試練が許されるのか、それは罪深い私たちの心の内にある肉を取り去り、御心のものへと変えるためです。試練なしには不可能です。ですから試練とは神の愛なのです。神に愛された者は必ず試練を受けます。サタンすら操って私たちの肉を削り、永遠の命に至らせる神の計画があります。それはサタンの勝利に終わったように見えた十字架が、実は神の大逆転、大勝利となったのと同じなのです。
ですから試練にあった時は「この上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)と聖書が説いているのです。試練にあう人、あなたは神の愛の証明済みのクリスチャンなのです。試練によって正真正銘のクリスチャンに、神が引き上げてくださることを感謝しましょう。あなたに試練は必要なのです。他の道はありません。今この瞬間から、心を変え、試練を心から喜び踊りましょう。
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