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2014年1月

2014年1月26日 (日)

祈りの秘訣

エペソ 6章18節

 ずばり、祈りの秘訣とは数時間も「長く祈る」ことです。しかし教会の礼拝などの公で祈る時、基本は「短く・要点だけ・・・しかし時には溢れ出てよい・・・とにかく聖霊に導かれて(自由に)祈る」のがよいでしょう。
 これに対し個人が神様に祈る時には、意外に思われるかも知れませんが、<とにかく長ーく祈る>ことです。聖書では人通りの多いような目立つところで、いかにも・・・と祈るのではなく、隠れたところでただ独り祈るよう勧めています。イエスさまはいつもそうされていました。

 長く祈るには理由があります。たとえば大好きなお父さんが帰宅したら、「お帰んなさーい」と喜んで迎えに出るでしょう。食卓では、お父さんとその日の話がはずむことでしょう。時間があればお父さんの腕にぶらさがったり、キャッチボールをしようとするでしょう。
 しかし逆に、お父さんとほとんど話をしない。たまに向き合う時は短い時間だけで、それも自分の要求だけを言う。こういう子にお父さんは、自分のことをなかなか伝えることはできません。子も父のことを表面的にだけで、深く知ってはいないのです。
 時間が関係のポイントになっているのです。一日24時間、時間は平等にあります。それを主にどこにかけるか、かけるところにその人の心があります。

 臨在があれば長く祈れます。その臨在の得る一例を紹介しましょう。まず、自分の中に聖霊様の内住を確信することです。どんなに自己否定的になっていようとも、居られることを疑わないのです。そして内なる神に向かって「イエスさま、聖霊様」と語りかけます。続いて自分の罪を、これでもかというほど暴いて、残さず告白しましょう。自分の罪は大きく赦されがたいと感じても、残さずに。その上で止まらぬ涙を流して悔い改めます。次に一切の希望はもう自分にはなく、ただ神さまだけにしかないことを告白します。それが真実である時、神は「主」として入って来られます。神は聖い方ですから、罪が少しでも残っていれば入って来られないのです。ですからまったくの悔い改めが前提ですし、臨在の恵みの土台なのです。

 長く祈ろうとしても、サタンというのはこれを何とかして妨害しようとします。はじめは「祈っても何にも変わらない。これは単なる自己満足?」とか「独り芝居?」とか、いろいろと疑いを入れて来ます。これらの霊はすべてサタンからのものです。疑いに耳を傾けてはいけません。祈り続けることに決めてください。しつこければ時にはイエスの御名によって縛ることもあるでしょう。
 臨在ある祈りを通し、毎日長い時間祈ることができれば、ハレルヤ!必ず祈りの勝利を得、祈りによる霊的な恵みと祝福を受けます。み心を知る喜びに心が引き揚げられ、あなたは神の子とも、友とも遇されるでしょう。

2014年1月19日 (日)

三つの和解

Ⅱコリント 5章17-19節

 私たちはかつては世のものであった私自身から、十字架のキリストによってまったく新しく創造されました。すべての罪が赦されたのは、単に赦すためというより、その次の段階である、神と交われる存在、新しきものにするためでした。そのことは何よりもその人自身が違いをはっきりと認識しておられることでしょう。これが第一の和解です。

 さて上述のことがキリストとの和解であるならば、神は私たちに「和解の務め」を与えてくださいました。勤めでも努めでもなく、務めです。つまりこれは、義務でも、ただ努力するというようなものでもなく、為すべきこと、使命であるという意味でしょう。

 この務めは次の19節、20節に詳しく述べられています。世に対してキリストの使節として委ねられたものです。こうして私たちは他の人に和解を勧めるのですが、その前に「和解」が自分との間にできているのかを点検してみる必要があります。自分にできていないことを人に勧めることはできないのです。これが第二の和解です。そして他の人に勧めるのが第三の和解です。

 第二の和解には次のようなしるしが伴います。その人はキリストによって徹底して砕かれていることです。希望は自分にではなく、神にあります。ですから失われることも奪われることもありません。自分がないので高慢がなく、真にへりくだることができます。自分は愚かで、神のみが崇められることが喜びです。どんな失敗をしても、そのような自分に対して、十字架にかかってまで愛してくださった神に感謝が湧きあふれることでしょう。自分を卑下したりはしません。ありのままの自分を直視し、受け入れています。神に愛された自分の愚かさを愛してもいます。それは愛をゲットした勲章のようなものだからです。熱心に求めることは、もっと祈りをする時間が欲しいということであり、何とかしてさらに自分を神に捧げたいという願いです。
 自分と和解をするならば、落ち込むとか羨むとかいうことがらと無縁です。感謝と喜びがその人にあふれ、誰でもがすぐに気がつくことでしょう。ことばで人々に和解を勧めるよりも、この方がはるかに説得力を持っており、人々を言われてではなく、すすんで求めたい気持ちにもさせることでしょう。こうして和解の務めは、まず自分自身においてまっとうされ、それは同時に他の人にも「使節」として用いられるのです。あなたは自分と和解ができておられるでしょうか?

2014年1月12日 (日)

その御心をおこなう

ヨハネ 9章31節

 聖書の時代には当たり前のことだったことが、すぐに欠落してしまっていることがあります。本日の聖書箇所「神は罪人の言うことをお聞きになりません」、これは当たり前のことでした。元盲人(罪の中に生まれ育っていたと見なされていた)からこれを聞いたパリサイ人達は、立場をあべこべにするこの発言に、さぞかし激怒したことでしょう。パリサイ人は民を教え導く、敬われるべき立場のはずでした。ところがこの盲人は、そのパリサイ人達に向かって要約すればこう言ったのです。「安息日につまずいて、盲人である自分の眼を開けたこの癒しが、神からのものとわからないあなた方こそ盲人であり、罪人です」。元盲人のこのことばこそ、真に驚くべき神のわざ、奇蹟ではなかったでしょうか。
「神は罪人の言うことをお聞きになりません」これを現在に適用すると、祈りが聞かれない場合、時が来ていないかさもなくば、その人に何らかの罪が遮っている可能性があります。聞かれる祈りのポイントは、祈る人に「罪がない」ということです。具体的には己の肉の願いではなく、み心を求め祈っているかと言うことでもあります。

 これは悔い改めと大いに関係あります。悔い改めるならば、罪が赦されるのです。悔い改めとみ心を求める祈り、これらは一つのものです。預言者ダニエルは徹底した悔い改めの祈りをまず捧げて、あのような神の言葉を受けたのです。聖霊のバプテスマも同様です。
 悔い改めた新しき人、聖霊によって支配されている人の祈りは、神に聞かれ、答えられていきます。新生していないクリスチャンの祈りは、自分という罪、障害物があって聞かれないのです。しかしもし、悔い改め新生して祈るならば、驚くべき世界を体験するでしょう。
 私はバプテスマを受けて31年間もの間、祈りが聞かれていると実感できませんでした。肉の思いで祈る、新生していないクリスチャンだったのです。ですから家族の重い病を「癒やしてください」と祈っていても、それがどうして聞かれないのかわかりませんでした。
 どんなに祈り、聞こうとしても、返答がないため、一人芝居をしているような、空しさがこみ上げてきたものです。家族の癒やしのような、人間的には当然だと思えることですら神の計画は深く高く、人の思いをはるかに超えた、すばらしい祝福だったのです。

 よいしもべは主人に忠実に仕え、注意を怠りませんので、主人の望むことが何なのか、言われる前にわかります。そのように自分に死に、神のみ心を求めて日々祈りましょう。私たちにとって神のみ心だけが最善であり、喜びなのです。たとえそうでなくても熱心に神に求め続けるならば、あわれみ深い神はしばらくして叶えてくださいます。それを信じるのです。神様との深い祈りの関係とは、世に生きる私たちの生きる力であり、命そのものです。

2014年1月 5日 (日)

主は陶器師

イザヤ 64章8節 

 ここに集われる皆さんの中には、自分の本当の親を知られない方がおられるかも知れません。人は父母がいて自分が存在していると思っているのですが、極論すればそれは、神の創造のお手伝いをしていただいただけで、実は天の父なる神が本当の父です。
 聖書では神と人とをたとえて、「陶器師」とその「器」と言い表しています。皆さんの中には「自分はできそこない」思っておられる方がいらっしゃるかもしれません。その方に申し上げます。自分の無力さを知り、自分に希望が持てなくなって、この上はただ神様により頼んで生きる、そう導かれているのであれば、これは祝福であり恵みです。
 しかしそうではなく、自分を「欠陥の多い不出来」だと思って責めておられるなら、それは神を責めることであり、自分の高慢さを悔い改めなければなりません。天の父を悲しませる放蕩息子なのです。本日の聖書箇所でイザヤが「私たちはみな、あなたの手で造られたものです」と告白しているではありませんか。エレミヤ(18章)では、わざわざ陶器師の仕事場に行けと命じられ、陶器師が「気に入った」器になるまで何度も作り替えられることを見せられました。全能の神は陶器師以上なのですが、気に入らない作品を世に送り出すことはなさいません。欠陥品はあり得ません。
 人と器、これはすばらしい比喩です。確かに両方とも土から造られ、土に還ります。陶器師は不出来の作品を残すことはなく、気に入った作品のみを残し、釉薬をかけ、燃えさかる炎で焼きます。焼かれた陶器は、形は似ていますが、依然とまったく異なるものになります。新生したクリスチャンも同様であるように。
 また同じ土から作られても、コップや皿に、また花瓶にと、形も働きも様々です。それはあたかも、み体の働きと呼ばれる教会の働きのようです。花瓶は実際の生活の役に立たなくても、存在するだけでその役目を果たすのです。教会と信徒の関係も同じです。働きは異なっていても、全体としては調和のとれた欠くことのできない一つのものです。
 最後に「私たちは神の作品(エペソ2:10)」ですから、神さまが意図を持ってつくられたものです。別な言葉で言えば「使命」があります。その使命を果たすためでも、タラントの違いはあることでしょう。しかし自分のタラントを不足に思ったり、うらやましく思ってはなりません。それは世の見方に毒されているのです。人の能力や権力、地位財産で自分を見てはなりません。自分の使命を忠実に果たす、その信仰が見られているのです。
 天ではいかなるタラントの人であろうとも、全く同じ酬いです(マタイ25章)。神が私たちを愛して造ってくださったことを心から喜び、そのままのあなたご自身を神にきよい捧げ物として、世での短い間、それぞれの使命を果たしましょう。

 

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