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2014年1月 5日 (日)

主は陶器師

イザヤ 64章8節 

 ここに集われる皆さんの中には、自分の本当の親を知られない方がおられるかも知れません。人は父母がいて自分が存在していると思っているのですが、極論すればそれは、神の創造のお手伝いをしていただいただけで、実は天の父なる神が本当の父です。
 聖書では神と人とをたとえて、「陶器師」とその「器」と言い表しています。皆さんの中には「自分はできそこない」思っておられる方がいらっしゃるかもしれません。その方に申し上げます。自分の無力さを知り、自分に希望が持てなくなって、この上はただ神様により頼んで生きる、そう導かれているのであれば、これは祝福であり恵みです。
 しかしそうではなく、自分を「欠陥の多い不出来」だと思って責めておられるなら、それは神を責めることであり、自分の高慢さを悔い改めなければなりません。天の父を悲しませる放蕩息子なのです。本日の聖書箇所でイザヤが「私たちはみな、あなたの手で造られたものです」と告白しているではありませんか。エレミヤ(18章)では、わざわざ陶器師の仕事場に行けと命じられ、陶器師が「気に入った」器になるまで何度も作り替えられることを見せられました。全能の神は陶器師以上なのですが、気に入らない作品を世に送り出すことはなさいません。欠陥品はあり得ません。
 人と器、これはすばらしい比喩です。確かに両方とも土から造られ、土に還ります。陶器師は不出来の作品を残すことはなく、気に入った作品のみを残し、釉薬をかけ、燃えさかる炎で焼きます。焼かれた陶器は、形は似ていますが、依然とまったく異なるものになります。新生したクリスチャンも同様であるように。
 また同じ土から作られても、コップや皿に、また花瓶にと、形も働きも様々です。それはあたかも、み体の働きと呼ばれる教会の働きのようです。花瓶は実際の生活の役に立たなくても、存在するだけでその役目を果たすのです。教会と信徒の関係も同じです。働きは異なっていても、全体としては調和のとれた欠くことのできない一つのものです。
 最後に「私たちは神の作品(エペソ2:10)」ですから、神さまが意図を持ってつくられたものです。別な言葉で言えば「使命」があります。その使命を果たすためでも、タラントの違いはあることでしょう。しかし自分のタラントを不足に思ったり、うらやましく思ってはなりません。それは世の見方に毒されているのです。人の能力や権力、地位財産で自分を見てはなりません。自分の使命を忠実に果たす、その信仰が見られているのです。
 天ではいかなるタラントの人であろうとも、全く同じ酬いです(マタイ25章)。神が私たちを愛して造ってくださったことを心から喜び、そのままのあなたご自身を神にきよい捧げ物として、世での短い間、それぞれの使命を果たしましょう。

 

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