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2014年1月12日 (日)

その御心をおこなう

ヨハネ 9章31節

 聖書の時代には当たり前のことだったことが、すぐに欠落してしまっていることがあります。本日の聖書箇所「神は罪人の言うことをお聞きになりません」、これは当たり前のことでした。元盲人(罪の中に生まれ育っていたと見なされていた)からこれを聞いたパリサイ人達は、立場をあべこべにするこの発言に、さぞかし激怒したことでしょう。パリサイ人は民を教え導く、敬われるべき立場のはずでした。ところがこの盲人は、そのパリサイ人達に向かって要約すればこう言ったのです。「安息日につまずいて、盲人である自分の眼を開けたこの癒しが、神からのものとわからないあなた方こそ盲人であり、罪人です」。元盲人のこのことばこそ、真に驚くべき神のわざ、奇蹟ではなかったでしょうか。
「神は罪人の言うことをお聞きになりません」これを現在に適用すると、祈りが聞かれない場合、時が来ていないかさもなくば、その人に何らかの罪が遮っている可能性があります。聞かれる祈りのポイントは、祈る人に「罪がない」ということです。具体的には己の肉の願いではなく、み心を求め祈っているかと言うことでもあります。

 これは悔い改めと大いに関係あります。悔い改めるならば、罪が赦されるのです。悔い改めとみ心を求める祈り、これらは一つのものです。預言者ダニエルは徹底した悔い改めの祈りをまず捧げて、あのような神の言葉を受けたのです。聖霊のバプテスマも同様です。
 悔い改めた新しき人、聖霊によって支配されている人の祈りは、神に聞かれ、答えられていきます。新生していないクリスチャンの祈りは、自分という罪、障害物があって聞かれないのです。しかしもし、悔い改め新生して祈るならば、驚くべき世界を体験するでしょう。
 私はバプテスマを受けて31年間もの間、祈りが聞かれていると実感できませんでした。肉の思いで祈る、新生していないクリスチャンだったのです。ですから家族の重い病を「癒やしてください」と祈っていても、それがどうして聞かれないのかわかりませんでした。
 どんなに祈り、聞こうとしても、返答がないため、一人芝居をしているような、空しさがこみ上げてきたものです。家族の癒やしのような、人間的には当然だと思えることですら神の計画は深く高く、人の思いをはるかに超えた、すばらしい祝福だったのです。

 よいしもべは主人に忠実に仕え、注意を怠りませんので、主人の望むことが何なのか、言われる前にわかります。そのように自分に死に、神のみ心を求めて日々祈りましょう。私たちにとって神のみ心だけが最善であり、喜びなのです。たとえそうでなくても熱心に神に求め続けるならば、あわれみ深い神はしばらくして叶えてくださいます。それを信じるのです。神様との深い祈りの関係とは、世に生きる私たちの生きる力であり、命そのものです。

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