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2014年2月

2014年2月23日 (日)

私たちは主のもの

ローマ人への手紙  14章8節
 つい火曜日のことですが、わたしが歯無しになった時のお話をします。その日奥歯を抜歯する日でしたが、なぜか待合室がいっぱいでして、早めに診察台に乗せられ、そこでずいぶん長く待たされてしまいました。

 そのはじめに馴染みの歯科衛生士から「お覚悟はできていますか?」とやや冗談めかして聞かれたのですが、心は揺れていました。なぜならかつて奥歯を三本抜いた時のトラウマがよぎっていたからです。最初の一本を抜いた夜、痛み止めがまったく効かず、余りの痛さに一晩中床を転げ回っていました。二本目は大丈夫だろうと思ったのですが、結果は同じでした。三本目を抜く頃には繰り返される痛さに、私の心は震え上がって萎えてしまい、治療を続ける気力を失くしていました。
 その時私は、「地獄とはこういう所だ」とわかったよな気がしたのです。繰り返される責め苦の世界、それが永遠に続く所こそ地獄であり、心が恐怖で震え、萎え、滅んでしまう所。みなさん、決して、決してそんな所に行ってはなりません。

 診察台の上で、私は痛みのトラウマだけでなく、体の大切な一部を失ってしまうという「申し訳なさ、無念」に、心が苦しめられました。しかし神を信じる者は幸いです。祈ることができます。神さまに一生懸命祈りました。必死に祈る時、あわれみ深い神様は応えてくださいます。
 こんな示しでした「あなたの歯はぼろぼろなので、枯れ木を抜くように歯は簡単に抜け、痛くはありません」、「あなたは歯を自分のもののように思っていますが、それは違います」というものでした。「えーっ」と思いましたが、確かに私は神さまに心も体も霊もすべてを捧げているので、この体、歯はもちろん髪の毛一本に至るまで、すでに神様の所有物です。「確かにそうだ」と我に返りました。体のことに関しては最終的には神様のものですから、管理責任はともかく、最終的には自分の責任として苦しむことはないのです。
 気分がすーっと楽になりました。痛みも無いということなので「矢でも鉄砲でも来い」と大胆というか、平安で眠気さえ来ました。神からのものは平安と希望、喜びです。私は解放されたのです。そして実際にも、歯は確かにぼろぼろであって、まったく痛くありませんでした。

 神を信じ、永遠のいのちの故に自分を捧げた人、その人はすでに神様のものです。ですからその人の体、残りのこの世のいのちも、所有権は神様という大家さんに移転し、その人は店子になりました。もう髪の毛一本も自分のものではありません、管理者なのです。このことをはっきりと意識すると生き方が変わります。自分に許されている問題や現在や将来への恐れとか不安、そのようなものは以前のものであり、もし何か生じたとしても、家の建て替えまで含めてそれは大家さんが解決してくれるのです。私たちは忠実にみ心に従い、良き管理者として歩むのみです。
 もう一度言います。私たちは忠実に主人に聞き従うしもべです。平安であり、もはや不安や恐れの支配下にはいないのです。

2014年2月16日 (日)

十字架の愛

コリント 1章18節
 金曜日のTV「ごちそうさん」で、地下室にたくわえた闇物資を前に、夫婦で語り合うシーンがありました。
「(闇物資を隠匿する)こんなこと、やったらあかんのでしょうかねえ?ふるまうべきなんですかねえ」と。それに対して夫はこう言います。
「自分の命を捨ててまで、他人を助けようという気持ちがないのにやっても続かないし、もらう人だって、他人の命までもらおうとは思ってないでしょう」と。

 私は十代のころから、似たような究極の選択を考えていました。乗っていた船が難破して、タイタニック号のようにみな海に放り出されました。そして自分一人だけの浮き輪を見つけた時、今にも沈みそうな人を見つけた。自分はその人を助けて自分が死ねるか?という選択です。そしてその答えはいつも、理想などと言ってはいても、本当の自分とは何と浅ましいものかという結論でした。

 しかしこのような一皮むけば自己保存本能そのままの浅ましいというか、本当の人間の姿、こんな人間に対して驚くべき愛が示されました。それは十字架です。このような私たちをあわれんでくださった神は、私たちのために身代わりの犠牲になってくださったのです。
 「誰も頼んでもいないのに・・・・」という声が聞こえるかも知れませんが、天の国は聖いのです。もし今の罪深いままで行ける国があるとすれば、それは間違いなく地獄でしょう。しかしその閉ざされた扉を十字架は開けるのです。なぜなら神が身代わりになってくださったからです。これ以上の身代わりがあるでしょうか?

 考えてもみてください。私たちは神の被造物です。もともとは清く造られたのですが、堕落してしまい、このようになりました。そして自分の力では不可能なのですが、神があわれんでくださり、神と等しい独り子イエス・キリストを身代わりにしてくださいました。これは天皇陛下と一介の国民の差をはるかに超える違いです。私の罪をカバーして十分などころか、ゆうに全人類をカバーしているのです。十字架を信じることで、私の罪が完全に赦されるのです。

「十字架のことばは、滅びに至る人には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」という聖書の言葉がありますが、昨日までこの意味がよくわかっておりませんでした。なにかこう、「十字架のことば」という深遠な神学があるかのように思っていたのです。しかしみなさん、これは単純に<私の罪のためにキリストが十字架にかかってくださった>という意味なのです。これ以上でも、これ以下でもありません。信じる者には神の力であり、信じない者には無用な、愚かに思えることなのです。
 それでは皆さんで十字架、その恵みを心から感謝しましょう!

2014年2月 9日 (日)

たね

マタイの福音書 13章8節

 長崎でパウロ牧師が若き献身者時代、多量の吐血と弱い脈動の中、生命の危険を感じたとき、「自分は(生きている中で)やるべきことをやったのだろうか?」と危惧したと語られた。私も船橋に派遣される直前、進行性の結腸ガンだと確信した時、同じ様に思い、まだ自分の使命を果たしてはいないとはっきり感じました。ただし、天に行ける喜びはあふれていた。神の時に与えられ、また取られるのだから、何の不服があるだろうか。
 クリスチャンにとって死は怖いことではありません。ほんの一瞬だけ、産みの苦しみ、肉体の苦痛があったとしても、そんなことより天へ帰れる喜びの方がはるかに大きいのです。それは単にそう思いこんでいるのではなく、事実なのです。

 さて殉教聖会の次の日は雨でした。レンタカーを借りておりましたので、何となく車を大村湾と外海との間、東彼杵を北上させ続けておりました。途中オランダ村という大きな風車のある所で休憩し、看板を見ると、西海市の外海の方に「中浦ジュリアン記念公園」があることに気づきました。有名な四人の天正遣欧少年使節の一人であり、すぐにそこにいくことを決めました。
 行ってからでないとわからないことがあります。五島灘に面しての今の西海市に中浦という地区があり、彼はこの出身地名を生涯にわたって語ったのですが、この地域一帯と水軍を率いて繁栄した小佐々氏の領主となるべき出でした。

 しかし世界を回り、ローマ法王との謁見を果たし、8年にわたる大旅行を終えて無事帰国してみれば、まだ緩やかではありましたが、キリスト教はすでに迫害の時期に入っていました。ですから秀吉との会見も、外交官として肩書きをつけて実現したのです。

 帰国した彼らを待っていたのは、ある意味で過酷な運命でした。四人の一人、千々石ミゲルは帰国後、棄教しました。後の三人はそろって上級神学校に入り、41歳になって司祭に叙階されました。伊東マンショはその後病死、原マルチノは幕府の禁教令禁のため、マカオへ追放されました。ところがジュリアンだけは日本に残って19年にわたって潜伏し、ついに捕らえられ、西坂で殉教したのです。50代半ばでした。

 私が一番興味を惹かれたのは、四人の中で彼一人だけが殉教したということ、しかも一緒に殉教した四人の外国人司祭の中で、イエズス会の責任者であって小説「沈黙」に出てくるフェレイラ一人が転んだ中で、ということでした。

 私たちが公園内の記念館の隅で祈ると、次のような示しがきました。このクリスチャンのおびただしい死の、血の一滴も無駄に落ちることはないと。確かに偶像崇拝をしている国で、繁栄している国は世界で日本だけです。この国をきよめ続けているのです。
 またキリシタンの殉教は「種」とも示されました。種とは不思議なもので、千年経っても命がある。水と土と温度と日光だけで、つまり死んだように見えていても、条件が満たされる時が来さえすれば、発芽し成長します。また種とは己が死ぬことで何十倍、何百倍、時には千倍にもなるものなのです。

 それで私は「神様、種はいったいどこにあるのでしょうか」と聞きながら長崎から帰ってきました。昨日気付いたのですが、種とは実は私たち自身なのではないかと。もし種のままであれば、それは命を守っているようで、それは死んでいるのも同然なのです。しかし自分に死んで実を結べば良いのです。ただその時は、神自らが整えてくださるのだと。
 自分は本当にやるべきことをやったのか?という問いから始まった問いなのですが、やるべきこととは死ぬことであり、死ぬこと、すなわち生きることではないでしょうか?死にきれていない人、自分の力では無理ですから、神によって発芽(自分は死んで)できるように祈ってください。

2014年2月 2日 (日)

生きている者のための神

 ローマ人への手紙 14章9節

 昨日、妻がおもしろいことを言いました。かなり前、葬式で来た住職が「キリスト教は良い。(袈裟姿で)病院へお見舞いに行けないから」と言ったそうです。それを聞いて、自分が信じ始めたキリスト教の神さまは、死んだ者の神ではなく、生きている者の神であることをうれしく思ったと。
 これを聞くまで私は、今日は日本二十六聖人の殉教について語ろうとしていました。しかしキリスト教とは確かに生きている者の神であって、生きることも死ぬことも実は同じことであることに気づきました。実はクリスチャンにとって、生も死もあまり違いはないのです。

 それでは私たちはなぜ、今を生かされているのでありましょうか?見える肉体がこの世にあるということ、そこに果たさなければならない一つの使命があるからです。

 クリスチャンになっても、天国へ行けるという確信というか、確証がない人が多いのです。そのような方にとって神は自分のお守りのような存在で、人生の中心は相変わらず自分です。自分で考え、良かれと思うことを判断して歩みます。ヤベツの祈りのように、神は自分を祝福するためにありますが、神様に自分自身を委ね、差し出そうということは願っていてもできません。日曜日に礼拝に行き、献金をする、それで十分務めは果たしたと思っておられます。

 十字架が何のためかということが、今でははっきりわかっています。それは罪赦され、聖められたところに聖なる霊が住まうためなのです。聖霊は神であり、聖なる存在ですから、罪ある汚れた人間に入ることがおできになれないのです。
 聖霊の内住、それが身を小さくしてかろうじておられるようなものであってはなりません。その人の主としておられなければ、どうして力を表してくださるのでしょうか。聖霊なる神が主であれば、私たちは罪から買い取られた奴隷であり、しもべです。奴隷やしもべとは、自分の意思ではなく主人の意思を常に行おうとする存在です。ですから主人のことばが聞こえない方(聖書にあるように、いろいろな聞こえがあります)、その方は神である主にいくら従おうとされても、聞き従いができていません。聞けない限りは従いようがないのですから。そしてそのことは、せっかくの十字架を無にしているといえるのです。

 十字架を信じても、主の声が聞こえないからと、好き勝手な振る舞いをし続けるのであれば、それは審きにおいて重大な結果を招くことでしょう。天国に行けるという確信がないのは当然です。逆に神に聞き従っているならば、すでに、殉教者と同じく世に死んでいるのであり、ただローソクの炎のように、いのちある間、神の証人、その光として歩まされているのです。これが生きる者の使命です。もはや死は、何の力も私たちには持っていないのです。

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