私たちは主のもの
† ローマ人への手紙 14章8節
つい火曜日のことですが、わたしが歯無しになった時のお話をします。その日奥歯を抜歯する日でしたが、なぜか待合室がいっぱいでして、早めに診察台に乗せられ、そこでずいぶん長く待たされてしまいました。
そのはじめに馴染みの歯科衛生士から「お覚悟はできていますか?」とやや冗談めかして聞かれたのですが、心は揺れていました。なぜならかつて奥歯を三本抜いた時のトラウマがよぎっていたからです。最初の一本を抜いた夜、痛み止めがまったく効かず、余りの痛さに一晩中床を転げ回っていました。二本目は大丈夫だろうと思ったのですが、結果は同じでした。三本目を抜く頃には繰り返される痛さに、私の心は震え上がって萎えてしまい、治療を続ける気力を失くしていました。
その時私は、「地獄とはこういう所だ」とわかったよな気がしたのです。繰り返される責め苦の世界、それが永遠に続く所こそ地獄であり、心が恐怖で震え、萎え、滅んでしまう所。みなさん、決して、決してそんな所に行ってはなりません。
診察台の上で、私は痛みのトラウマだけでなく、体の大切な一部を失ってしまうという「申し訳なさ、無念」に、心が苦しめられました。しかし神を信じる者は幸いです。祈ることができます。神さまに一生懸命祈りました。必死に祈る時、あわれみ深い神様は応えてくださいます。
こんな示しでした「あなたの歯はぼろぼろなので、枯れ木を抜くように歯は簡単に抜け、痛くはありません」、「あなたは歯を自分のもののように思っていますが、それは違います」というものでした。「えーっ」と思いましたが、確かに私は神さまに心も体も霊もすべてを捧げているので、この体、歯はもちろん髪の毛一本に至るまで、すでに神様の所有物です。「確かにそうだ」と我に返りました。体のことに関しては最終的には神様のものですから、管理責任はともかく、最終的には自分の責任として苦しむことはないのです。
気分がすーっと楽になりました。痛みも無いということなので「矢でも鉄砲でも来い」と大胆というか、平安で眠気さえ来ました。神からのものは平安と希望、喜びです。私は解放されたのです。そして実際にも、歯は確かにぼろぼろであって、まったく痛くありませんでした。
神を信じ、永遠のいのちの故に自分を捧げた人、その人はすでに神様のものです。ですからその人の体、残りのこの世のいのちも、所有権は神様という大家さんに移転し、その人は店子になりました。もう髪の毛一本も自分のものではありません、管理者なのです。このことをはっきりと意識すると生き方が変わります。自分に許されている問題や現在や将来への恐れとか不安、そのようなものは以前のものであり、もし何か生じたとしても、家の建て替えまで含めてそれは大家さんが解決してくれるのです。私たちは忠実にみ心に従い、良き管理者として歩むのみです。
もう一度言います。私たちは忠実に主人に聞き従うしもべです。平安であり、もはや不安や恐れの支配下にはいないのです。