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2014年2月 9日 (日)

たね

マタイの福音書 13章8節

 長崎でパウロ牧師が若き献身者時代、多量の吐血と弱い脈動の中、生命の危険を感じたとき、「自分は(生きている中で)やるべきことをやったのだろうか?」と危惧したと語られた。私も船橋に派遣される直前、進行性の結腸ガンだと確信した時、同じ様に思い、まだ自分の使命を果たしてはいないとはっきり感じました。ただし、天に行ける喜びはあふれていた。神の時に与えられ、また取られるのだから、何の不服があるだろうか。
 クリスチャンにとって死は怖いことではありません。ほんの一瞬だけ、産みの苦しみ、肉体の苦痛があったとしても、そんなことより天へ帰れる喜びの方がはるかに大きいのです。それは単にそう思いこんでいるのではなく、事実なのです。

 さて殉教聖会の次の日は雨でした。レンタカーを借りておりましたので、何となく車を大村湾と外海との間、東彼杵を北上させ続けておりました。途中オランダ村という大きな風車のある所で休憩し、看板を見ると、西海市の外海の方に「中浦ジュリアン記念公園」があることに気づきました。有名な四人の天正遣欧少年使節の一人であり、すぐにそこにいくことを決めました。
 行ってからでないとわからないことがあります。五島灘に面しての今の西海市に中浦という地区があり、彼はこの出身地名を生涯にわたって語ったのですが、この地域一帯と水軍を率いて繁栄した小佐々氏の領主となるべき出でした。

 しかし世界を回り、ローマ法王との謁見を果たし、8年にわたる大旅行を終えて無事帰国してみれば、まだ緩やかではありましたが、キリスト教はすでに迫害の時期に入っていました。ですから秀吉との会見も、外交官として肩書きをつけて実現したのです。

 帰国した彼らを待っていたのは、ある意味で過酷な運命でした。四人の一人、千々石ミゲルは帰国後、棄教しました。後の三人はそろって上級神学校に入り、41歳になって司祭に叙階されました。伊東マンショはその後病死、原マルチノは幕府の禁教令禁のため、マカオへ追放されました。ところがジュリアンだけは日本に残って19年にわたって潜伏し、ついに捕らえられ、西坂で殉教したのです。50代半ばでした。

 私が一番興味を惹かれたのは、四人の中で彼一人だけが殉教したということ、しかも一緒に殉教した四人の外国人司祭の中で、イエズス会の責任者であって小説「沈黙」に出てくるフェレイラ一人が転んだ中で、ということでした。

 私たちが公園内の記念館の隅で祈ると、次のような示しがきました。このクリスチャンのおびただしい死の、血の一滴も無駄に落ちることはないと。確かに偶像崇拝をしている国で、繁栄している国は世界で日本だけです。この国をきよめ続けているのです。
 またキリシタンの殉教は「種」とも示されました。種とは不思議なもので、千年経っても命がある。水と土と温度と日光だけで、つまり死んだように見えていても、条件が満たされる時が来さえすれば、発芽し成長します。また種とは己が死ぬことで何十倍、何百倍、時には千倍にもなるものなのです。

 それで私は「神様、種はいったいどこにあるのでしょうか」と聞きながら長崎から帰ってきました。昨日気付いたのですが、種とは実は私たち自身なのではないかと。もし種のままであれば、それは命を守っているようで、それは死んでいるのも同然なのです。しかし自分に死んで実を結べば良いのです。ただその時は、神自らが整えてくださるのだと。
 自分は本当にやるべきことをやったのか?という問いから始まった問いなのですが、やるべきこととは死ぬことであり、死ぬこと、すなわち生きることではないでしょうか?死にきれていない人、自分の力では無理ですから、神によって発芽(自分は死んで)できるように祈ってください。

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