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2014年2月 2日 (日)

生きている者のための神

 ローマ人への手紙 14章9節

 昨日、妻がおもしろいことを言いました。かなり前、葬式で来た住職が「キリスト教は良い。(袈裟姿で)病院へお見舞いに行けないから」と言ったそうです。それを聞いて、自分が信じ始めたキリスト教の神さまは、死んだ者の神ではなく、生きている者の神であることをうれしく思ったと。
 これを聞くまで私は、今日は日本二十六聖人の殉教について語ろうとしていました。しかしキリスト教とは確かに生きている者の神であって、生きることも死ぬことも実は同じことであることに気づきました。実はクリスチャンにとって、生も死もあまり違いはないのです。

 それでは私たちはなぜ、今を生かされているのでありましょうか?見える肉体がこの世にあるということ、そこに果たさなければならない一つの使命があるからです。

 クリスチャンになっても、天国へ行けるという確信というか、確証がない人が多いのです。そのような方にとって神は自分のお守りのような存在で、人生の中心は相変わらず自分です。自分で考え、良かれと思うことを判断して歩みます。ヤベツの祈りのように、神は自分を祝福するためにありますが、神様に自分自身を委ね、差し出そうということは願っていてもできません。日曜日に礼拝に行き、献金をする、それで十分務めは果たしたと思っておられます。

 十字架が何のためかということが、今でははっきりわかっています。それは罪赦され、聖められたところに聖なる霊が住まうためなのです。聖霊は神であり、聖なる存在ですから、罪ある汚れた人間に入ることがおできになれないのです。
 聖霊の内住、それが身を小さくしてかろうじておられるようなものであってはなりません。その人の主としておられなければ、どうして力を表してくださるのでしょうか。聖霊なる神が主であれば、私たちは罪から買い取られた奴隷であり、しもべです。奴隷やしもべとは、自分の意思ではなく主人の意思を常に行おうとする存在です。ですから主人のことばが聞こえない方(聖書にあるように、いろいろな聞こえがあります)、その方は神である主にいくら従おうとされても、聞き従いができていません。聞けない限りは従いようがないのですから。そしてそのことは、せっかくの十字架を無にしているといえるのです。

 十字架を信じても、主の声が聞こえないからと、好き勝手な振る舞いをし続けるのであれば、それは審きにおいて重大な結果を招くことでしょう。天国に行けるという確信がないのは当然です。逆に神に聞き従っているならば、すでに、殉教者と同じく世に死んでいるのであり、ただローソクの炎のように、いのちある間、神の証人、その光として歩まされているのです。これが生きる者の使命です。もはや死は、何の力も私たちには持っていないのです。

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