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2014年2月16日 (日)

十字架の愛

コリント 1章18節
 金曜日のTV「ごちそうさん」で、地下室にたくわえた闇物資を前に、夫婦で語り合うシーンがありました。
「(闇物資を隠匿する)こんなこと、やったらあかんのでしょうかねえ?ふるまうべきなんですかねえ」と。それに対して夫はこう言います。
「自分の命を捨ててまで、他人を助けようという気持ちがないのにやっても続かないし、もらう人だって、他人の命までもらおうとは思ってないでしょう」と。

 私は十代のころから、似たような究極の選択を考えていました。乗っていた船が難破して、タイタニック号のようにみな海に放り出されました。そして自分一人だけの浮き輪を見つけた時、今にも沈みそうな人を見つけた。自分はその人を助けて自分が死ねるか?という選択です。そしてその答えはいつも、理想などと言ってはいても、本当の自分とは何と浅ましいものかという結論でした。

 しかしこのような一皮むけば自己保存本能そのままの浅ましいというか、本当の人間の姿、こんな人間に対して驚くべき愛が示されました。それは十字架です。このような私たちをあわれんでくださった神は、私たちのために身代わりの犠牲になってくださったのです。
 「誰も頼んでもいないのに・・・・」という声が聞こえるかも知れませんが、天の国は聖いのです。もし今の罪深いままで行ける国があるとすれば、それは間違いなく地獄でしょう。しかしその閉ざされた扉を十字架は開けるのです。なぜなら神が身代わりになってくださったからです。これ以上の身代わりがあるでしょうか?

 考えてもみてください。私たちは神の被造物です。もともとは清く造られたのですが、堕落してしまい、このようになりました。そして自分の力では不可能なのですが、神があわれんでくださり、神と等しい独り子イエス・キリストを身代わりにしてくださいました。これは天皇陛下と一介の国民の差をはるかに超える違いです。私の罪をカバーして十分などころか、ゆうに全人類をカバーしているのです。十字架を信じることで、私の罪が完全に赦されるのです。

「十字架のことばは、滅びに至る人には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」という聖書の言葉がありますが、昨日までこの意味がよくわかっておりませんでした。なにかこう、「十字架のことば」という深遠な神学があるかのように思っていたのです。しかしみなさん、これは単純に<私の罪のためにキリストが十字架にかかってくださった>という意味なのです。これ以上でも、これ以下でもありません。信じる者には神の力であり、信じない者には無用な、愚かに思えることなのです。
 それでは皆さんで十字架、その恵みを心から感謝しましょう!

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