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2014年3月

2014年3月30日 (日)

試練は祝福の源

 マタイ 10章34節  

 クリスチャンとして歩んでいて疑問に感じたことに、なぜ熱心というか、篤実というか、神の前に忠実な模範的な方々に、どうしてこうも試練が大きいのかということでした。ある人は一人娘の結婚式の三日後、婿がはじめて仕事に出かけたその朝、トラック同士の正面衝突の事故で召されました。別なある人の長男は、小さな子が生まれたばかりの日、自宅前、自分の車から降り立った直後、ドアと追い越し車に挟まれて召されました。ある神学生の妻は、生まれたばかりの初子を残し、神学生宿舎から飛び降りて召されました。感謝の器マーリンさんも息子さんが天に召されました。

 どうしてこうもみ心の人に、取り返しのつかないような試練が多いのでしょうか?そしてまた私にもそのような試練がふりかかってきた時、その渦中では「神よ、この私がいったい何をしたというのですか!」という自分の叫びが止むことはなかったのです。

 皆さんにお聞きします。あなたは神からの祝福を何と思っていらっしゃるでしょうか?ヤベツは確かに地境を拡げていただく祝福を受けました。しかし私は彼はその祝福を永遠の天に持って行くことはできなかったと思っています。神が与えてくださる真の祝福とは何でしょうか?自分がこの世において成功し、出世し、良い妻と子どもたちに恵まれ、安楽を得ることでしょうか?
 もちろんそれを否定するわけではありません。 クリスチャンでありながら試練もなく、世で成功し、地位と富と力を得ているとしたら、その人は本当に神に愛されているのか、少し疑っても良いでしょう。実子ならば、父からの懲らしめを受けるはずだからです。

 鉄の原料である鉄鉱石は、普通に見ればただの石にしか見えません。しかしこれをコークスと一緒に溶鉱炉の高い火で炙りますと、中の鉄分だけが溶け出して溶鉱炉の底に溜まります。こうして溶岩のように鉄を取り出せるのです。これと同じように本来神の作品である私たちの内側に、分かちがたく肉と罪が混ざっており、それは試練という溶鉱炉の火で溶かされなければ、分別できないものです。肉のまま、つまり鉄鉱石のままでは役に立たないのですから、火の苦しみではあっても、試練なしには私たちは神のものになれないのです。そしてこれはすばらしい天での祝福なのです。神が私たちを真実愛してくださっている証印なのです。

 ですから心から、本当に喜んでください。マリヤに天使が伝えた言葉(ルカ1:28)「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」は、今試練の中にあるあなたのものであります。マリヤもはじめ戸惑ったのですが、あなたも今戸惑っておられるかも知れません。マリヤにとってもそれは、不義密通として石打ちの刑にあっても仕方のない祝福でした。試練にあっている方よ、恐れることはありません、必ず守られ、子とされる喜びが待っているのです。ハレルヤ。

2014年3月23日 (日)

HateからLoveへ

マタイ 5章43-45節  

 本日はHateという、日本語では厭う、憎むというものについて確かな決心を持ちたいと思います。なぜならHateの反対語はLoveであり、誰にでもあるHateをから、神の愛が私達にあぶり出されて来るからです。
 皆さんにお聞きします。あなたにはHate感情というものが、ご自身の心に一切ありませんか?嫌いな人、苦手な人がいませんか?心の底に今も、痛んだ過去の傷がありはしないですか?また憎い人を愛せますか?

 Hateと反対にLoveについて、主は次のように語っておられます。コロサイ3:13では「互いに忍び会い、互いをゆるしなさい」と言っています。コロサイ3:14では「愛を着けなさい」 愛は服みたいに着るものです。なぜなら愛は神からのものであり、まず神が愛してくださった、神からのプレゼントあって、自分の力ではないのです。この愛は結びの帯としては完全なものであり、すべての罪を覆う(ヤコブ5:20)のです。

 若かりし時、新入社員の時代のことです。私は隣室で仕事をしながらですが、自分に対する全くの誹謗中傷の話を聞きました。根も葉もない、ただ悪意だけがある話でした。その結果私がどうしたかは後回しにして、みなさんが同じような目に遭ったとして、どのような対応をされますでしょうか。① 気にしないようにし、相手が間違いに気づくまで待つ。② 出て行って相手を謝まらせる。③ その人が天国に行けるように願う。

 この時私は、本日の聖書箇所を思い出し、「どうか憎いと思っている相手を愛せるよう、神さま助けてください」と祈りました。憎んで、嫌ってしまうと、その炎で私自身も焼かれてしまうと思いました。ですからこう祈りました。結果は劇的でした。どういうわけか彼はその後、二度と悪いことを言わなりました。また一緒に卓球をしたり、その後まったく普通の関係になりました。不思議な神の力を感じました。

 キリストは間違いなく弟子だけでなく、信じる者すべてに「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と命令されたのです。この最後には「それで(=それができて)こそ天の父の子どもになれる」と結んでおられます。ですからはっきりしていることは、クリスチャンがHate感情に支配されてはならないのです。悪口を言われ、迫害されても、「憎い相手を滅ぼしてください」と主に願うことは、御心でありません。天に宝を積む機会を逃しているだけでなく、天を受け継ぐ資格まで失いかねません。この類いのクリスチャンを実際見ましたし、それは重大な結果を招くのです。

 みなさん、天国には憎しみの心を持ったままでは行けません。それは天にとって異物であります。あなたにはそれができません。しかし私達を愛し十字架に架かってくださった神の愛によって、神の力によってそれは可能となるのです。

2014年3月16日 (日)

死んだら終わりですか

ヨハネ 14章6節

 東日本大震災からまる三年が経ちました。震災の12月はじめ、被災地の閖上地区を訪れた時のことです。家々が軒並み押しつぶされ流された廃墟の中、ひときわ目立って閖上中学校だけがポツンと立っておりました。校門から入って玄関に向かうと、そこに生徒机が三つ並んでいて、その一つに次のような言葉がマジックで書かれてありました。Yurityu

「死んだら終わりですか?」 この問いかけが私の心に響いたのです。そんなことは決してないのです。
 聖書は「イエス・キリストを信じるならば、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがない(ヨハネ5:24)」と言っています。つまり死んだら終わりなのではなく、死ぬまでに信じたことによって、その人は永遠に生き続けると言っているのです。
 何が生き続けるのでしょうか?私達には肉体の命があり、魂や霊の命があるのです。この世で肉体の命がなくなったとしても、霊魂はその後も生き続けます。平均80年、長くて100年程度しかない肉体の命のある間の、一人一人の選択によって、霊魂が住む永遠の行き先を決めてしまうのです。

 聖書は口で言うことの出来る体の命のある間に、十字架は自分の罪の為だと信じ告白しなければ
神の国に入ることは出来ないと言っています。そういう意味で「生き残った私達に出来る事」とは、信じる事なのです。生き残った人達が信じてこそ、先に亡くなられた方たちの死も、大きな意義を持ってくるのです。

 神は御子イエス・キリストをこの世に送ってくださり、私達全人類の罪の身代わりとして十字架で処刑されました。ここに神の愛があり、福音があります。ただイエス・キリストが自分の罪の身代わりとして死んでくださったと信じるだけで良いのです。多くの人は、十字架によって救われなければならないほど、自分に罪があることに気づきません。神を求めようとせず、必要としないのです。必要とするのは人生の落語者、弱い者、罪深い者、希望を失った者です。世での成功者、誇るものがある人は、かえってこの絶大な神の祝福から遠く、神の国に入れる人は、ラクダが針の穴を通るより困難だと言われるほどです。

 私達は罪深い者ですが、十字架を信じる事ですべての罪が赦され、あたかも最初から全く罪を犯さなかった者のようになります。神の国とは罪のない、聖く義しい人の行くところですから、人間にとって、十字架以外の道は決してありえないのです。信じ告白した人は、確かに神の国に入るのです。
 このことは「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、誰ひとり父なる神のみもとに来ることはありません(ヨハネ14:6)」とある通りです。誰が天国に行けるのでしょうか?自分の罪を告白し、主イエス・キリストを主であると告白した人です。生きている間に、これを為さなければなりません。

2014年3月 9日 (日)

渇く者よ飲め

ヨハネ 7章37~38節

 3年前に起こった東日本大震災のことが先週からずっと報じられています。そして最大最高の問題と言うものが明らかになってきました。原発問題です。未だに、これからも自分たちの土地に帰れない、経済も何もかものその犠牲の上に今の私達があることを忘れてはいけないと思わされます。

 今日の聖書個所は、仮庵の祭りと呼ばれています。ユダヤ三大祭と言うものがあります。過ぎ越しの祭りと言われるペサハ、五旬節(シャブオット)、それから仮庵の祭り(スコット)です。この三つの祭りはエルサレム神殿に上って神を礼拝するよう律法が命じている者です。この仮庵の祭りは秋に祝われる収穫祭のようなものでした。

 仮庵の祭りの中でイエス様が大声を上げられたこの日はシロアムの池からくみ上げた水を神殿から流す最高潮の日でした。黙示録にある聖所から流れ出る水、それがまさに成就して行っているような日でした。このタイミングでイエス様は大声を上げてお叫びになったのです。「だれでも渇く者は、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われたのです。確かにイエス様ご自身が聖所からの水でした。生ける水の川。聖霊のあふれ出る所なのです。

 東日本大震災では、多くの家族がバラバラになってしまいました。まさに一瞬のことでそうなってしまったのです。TV朝ドラの「ごちそうさん」でも今家族が離ればなれになってしまっています。
 何が一番大切か、多くの人は家族だと思っていたのですが、東日本大震災はその家族を奪ってしまいました。家族もまた、一定のものではなく、こわれるものであり、かえって家族だからこそ、傷つけ合うことがあるのです。家族は大切に思えたものなのですが、空しいものなのです。
 私個人も病気によって家族がバラバラになってしまった経験をしました。その時、どんなにか家族が大切かを骨身に沁みました。しかし二度と家族は回復することなく、かえって傷つけ合うつらいものになりました。家族を失うことを通して、家族すらまた、幸せの絶対的なものではないことを知らされました。絶望し、心が完全に飢え渇いてしまいました。

 聖書にその答えが有ります。本日の聖書箇所です。飢え渇く人、そのような人こそ神が選ばれた器なのです。神があなたを渇かせ呼び求めておられるのです。この水を飲めば渇くことがありません。死すらこれを奪うことが出来ない、いのちに優るものなのです。聖書にある通り、「その人の心の奥底から」喜びが、愛があふれ出てくるのです。どうかイエス・キリストの元に来て、生ける水を飲んでください。教会はあなたを待っています。

2014年3月 2日 (日)

私たちは主のもの、教会も主のもの

エペソ1章23節
今週は「私たちだけでなく、教会も主のもの」であることが主題です。
 どんなに福音が伝えられ、救われても、教会につながらなければ空しいものです。教会はキリストのからだであり、キリストの霊が満ちている所です。こ植物にとって芽を出し、根を張る大地のような存在です。

 さてこの世の中にはいろいろな教会があります。私たちの群れでは大きく会衆制・長老制監督制と分けています。私自身は30年近くバプテスト教会に属し、長年執事を務めたので特に会衆制について熟知しています。
 会衆制では教会の権威は、日本国憲法における国民主権のように教会員(エクレシア)にあります。しかしながら実質は長老・執事・役員と各種呼ばれる、教会員によって選ばれた人たちの合議で進められていきます。牧師は期間限定の雇用関係にあり、メッセージや個別の指導を除いて、合議を通さなければ何も決めることができません。選挙でどのような人が選ばれるのかは、人の目に良かれと思われる人物です。家庭があって社会的な地位のある人、成功した人です。世の中に貢献できている人なら、教会にもきっと同じように貢献してくれる、そう思ってのことでしょう。教会はいったい、誰のものなのでしょうか?

 しかしこのような人たちこそ、世的な献身できていない、ある意味で霊的には最悪な人が多いのです。私は嫌というほどこれらのことを体験しました。考えてもみてください。牧師は世の論理で考える役員会の承認を受けなければ、重要なことは何一つ決められないのです。そんな牧師に力ある神の働きがどうしてできるでしょうか?牧師は契約関係という、期間限定の「雇われ牧者」に落とされています。教会は単なる助け合いの互助組合のようです。

 私はこう考えます。牧師とは神から直接、牧師としての召命を受けた人であって、神に導くその地に召命者である牧師が立つ時、神のご意思であり、たとえたった一人でもそこに教会は存するのです。教会は神の意志とご計画によって立ち、御言葉にある通り、キリストの体としてあるのです。教会は神のもの、神が牧される所です。

 そこに遣わされる牧者とはお雇いでなく、羊のために命を捨てることができる牧者でなければなりません。それが誰かは、神がまずお決めになります。逆に言えば、自分を神に捧げた者が選ばれ遣わされるのです。私たちの群れはこの形に近いのです。聖書にある使徒時代と同じように、教会において、霊的な権威と実質的な権威にずれがありません。後の雨の時代、神が私たちを用いて働かれる証拠でもあります。また信徒も同様です。世においては力なく、弱くされた者、まさにそのような人を通して神はご自身の栄光をあらわされるのです。

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