私たちは主のもの、教会も主のもの
✝ エペソ1章23節
今週は「私たちだけでなく、教会も主のもの」であることが主題です。
どんなに福音が伝えられ、救われても、教会につながらなければ空しいものです。教会はキリストのからだであり、キリストの霊が満ちている所です。こ植物にとって芽を出し、根を張る大地のような存在です。
さてこの世の中にはいろいろな教会があります。私たちの群れでは大きく会衆制・長老制監督制と分けています。私自身は30年近くバプテスト教会に属し、長年執事を務めたので特に会衆制について熟知しています。
会衆制では教会の権威は、日本国憲法における国民主権のように教会員(エクレシア)にあります。しかしながら実質は長老・執事・役員と各種呼ばれる、教会員によって選ばれた人たちの合議で進められていきます。牧師は期間限定の雇用関係にあり、メッセージや個別の指導を除いて、合議を通さなければ何も決めることができません。選挙でどのような人が選ばれるのかは、人の目に良かれと思われる人物です。家庭があって社会的な地位のある人、成功した人です。世の中に貢献できている人なら、教会にもきっと同じように貢献してくれる、そう思ってのことでしょう。教会はいったい、誰のものなのでしょうか?
しかしこのような人たちこそ、世的な献身できていない、ある意味で霊的には最悪な人が多いのです。私は嫌というほどこれらのことを体験しました。考えてもみてください。牧師は世の論理で考える役員会の承認を受けなければ、重要なことは何一つ決められないのです。そんな牧師に力ある神の働きがどうしてできるでしょうか?牧師は契約関係という、期間限定の「雇われ牧者」に落とされています。教会は単なる助け合いの互助組合のようです。
私はこう考えます。牧師とは神から直接、牧師としての召命を受けた人であって、神に導くその地に召命者である牧師が立つ時、神のご意思であり、たとえたった一人でもそこに教会は存するのです。教会は神の意志とご計画によって立ち、御言葉にある通り、キリストの体としてあるのです。教会は神のもの、神が牧される所です。
そこに遣わされる牧者とはお雇いでなく、羊のために命を捨てることができる牧者でなければなりません。それが誰かは、神がまずお決めになります。逆に言えば、自分を神に捧げた者が選ばれ遣わされるのです。私たちの群れはこの形に近いのです。聖書にある使徒時代と同じように、教会において、霊的な権威と実質的な権威にずれがありません。後の雨の時代、神が私たちを用いて働かれる証拠でもあります。また信徒も同様です。世においては力なく、弱くされた者、まさにそのような人を通して神はご自身の栄光をあらわされるのです。
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