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2014年4月

2014年4月27日 (日)

神の奥義・・・キリスト、栄光の望み

コロサイ 1章25−27節

「神の国の奥義」とは何でしょう。奥義という言葉は日本語では最も奥深い大切な事柄、英語ではMysteryと言っています。ミステリー小説のミステリ−で「隠された」という点は同じです。何が隠されているのでしょう。神の真理が隠されているのです。クリスチャンでありながら「神の国の奥義、Mysteryを知らない」でいるのは、よほど関心が無いのでしょうか。この世のすべてに優る宝ものなのですが、実に勿体ない話です。

 この「奥義」とは具体的には携挙の際に与えられる「み霊の体」です。1コリント15:51−52に、奥義を告げるとして「ラッパが鳴ると(一瞬のうちに)、死者は朽ちない者によみがえり、私たちは変えられる」とあります。これは黙示録10:7における第七のラッパの音と同じものです。
 み霊の体は、携挙の際、天井や屋根を通り抜けるためなどと理解されていますが、実は雲の上で主とお会いするための神から賜る栄光の体です。なぜなら「血肉のからだは神の国を相続できない(同15:8)」からです。神の国を相続する私たちは、み霊の体に変えられる必要があるのです。

 この奥義をより正しく言うならば、私たちが神の民となり、神ご自身と共に永遠にいることです。それは神の国における新しい聖なる都エルサレムが、夫のために着飾られた花嫁のように整えられて、神の御許を出て、天から下って来ます(黙21:1−3)が、まさにそこに住まうことを意味します。これこそ神が秘められていた(Mysterious)神の計画=奥義です。神の栄光がこのエルサレムの光となり、み霊のからだを与えられた者は光の子としてエルサレムに住まうのです。

 では具体的には私たちが携挙されうるような、新生したクリスチャンになれるのでしょうか?この類いのことは徹頭徹尾、神の主権に属するものです。が、時に閃光のように直接神を体験した事例を通し、私たちは新生の一端を知ることができるのです。
 岡村ケン牧師は、140キロの自殺的スピードの中、「Go to the Church!」の大きな声を聞きました。車を止め、直前に通り過ぎた教会の祈祷室に入りました。やがて祈祷室から出てきた彼は、入った時の彼とは全くの別人、神への献身者となりました。パウロもダマスコへの途上で光に打たれ、「あなたが迫害しているイエスである」と神の声を聞いた時、全くの別人、サウロからパウロになりました。これらに共通しているのは、神に敵するものであったのに、神に触れられ、驚き、悔い改めて180°方向を転換し献身者となりました。
 これらは分かり易い例ですが、劇的かどうかというより、大切なのは神を体験し、新しい人として生まれ変わって主のしもべとして生きるようになったという実であり、実質です。「聖霊の証印」とも聖書では言われています。その人生こそ、神の栄光であり、奥義なのです  ケパ

2014年4月20日 (日)

人となられた神

ピリピ 2章6節〜8節  

 今日の聖書箇所は昨日のデボーションの箇所ですが、「ご自分を無にして、仕える者の姿を取り、人間と同じようになられました」とあります。ここは重要な所なのに、わかりにくい表現になっていますがそれも当然なのです。  
これは人間の理解を超えた実に驚くべき、あり得ない出来事です。永遠にしてあまりにも高く尊く、誉むべき神の霊が、滅ぶべき卑しい人間の体となられて、この世で生涯を全うされた・・・‥まさに驚天動地、あり得ないことを述べているからです。これを信じることは、常識ある人や、堅実に物事を把握し考えようとしている賢明な方々には理解不可能なことでありましょう。

 それゆえ神は先ず己を信じるのか、それとも福音を信じるのか、そのことを、福音を聞くすべての人にチャレンジしておられるのです。己を信じるか、それともたとえ理解できなかったとしても、福音によって「確かにこの方は確かに神だと信じるのか」をです。

 天地万物を創造されたいと高き神は、人間を愛するがために人の姿になられたのは、罪は犯されませんでしたが、人間としてのあらゆる苦しみ、痛み、絶望を味わってくださるためあり、その原因である全人類の罪を背負って十字架に架かってくださるためでした。これは神でなければできない、愛の究極的なかたちであります。

 神は人間が物質とか形とか(いわゆる偶像)で見ることができないものです。しかし唯一の例外は人となってこられた神、イエス・キリストです。イエス・キリストの中に神の御性質や本質がすべてあると聖書は言っているのです。キリストはへりくだって弟子たちの足を洗い、貧しい人や虐げられている人々の友でした。その代わり権力ある者や高慢な者、偽善者には毅然としてその罪を指摘しつづけました。
 パウロは自分を見習って欲しい(ピリピ3:17)と言いましたが、それはパウロのようにキリストに従い、キリストの苦しみにあずかる道でした。私たちクリスチャンは世にあっては茨の道、絶えず困難があります。それは私たちの国籍がこの国ではなく、天にある(ピリピ3:20)からです。私たちははるかに天を仰ぎ見て、たとえ日曜日に教会に行くことを迫害されようとも、教会がなかなか成長できなくとも、キリストが歩まれたようにこのことを心から感謝して、喜んで歩むのです。アーメンでしょうか?

2014年4月13日 (日)

Walk in the Spirit

ガラテヤ 5章16節

 この言葉はクリスチャンである私たちへの命令形です。すでに当時にもその兆候が現れ、使徒時代の終焉とともにそれは、今に至までほとんどのクリスチャンに適用される命令となりました。しかし20世紀はじめから再び聖霊の注ぎが起こり、今現在「聖霊によって歩」んでいるはずのクリスチャンですら、これは重要な命令なのです。お一人お一人の良心にお聞きしますが、みなさんの心の中に「不品行」「汚れ」「好色」「偶像(個人)礼拝」「占い(魔術)」「敵意」「争い」「そねみ」「怒り(憤り)」「党派心」「分派」「ねたみ」「泥酔(酩酊)」「遊興」が、いっさい存在していないと言い切れるでしょうか?少なくともこの私にとっては、過去私を支配し、その縄目を解かれた今現在も、不断に戦っている相手であります。

 そんな私は二十歳でバプテスマを受け、それから30年以上、表向きには熱心に教会生活と奉仕を続け、天国に行く切符をゲットしていると思っていました。40才を過ぎて長い長い試練に、塗炭の苦しみにもがきました。50を過ぎて、神のあわれみによってそれまで可としていた自分の罪深さを、突然気づかされ、それから生涯でもっとも心に残る、深い悔い改めを三日間しました。三日目の朝、日曜日でしたが、教会に行こうとして神様が私に触れてくださったのです。
 

 誤解を恐れずに言いますと、聖霊様とは、私とはっきりと異なる人格です。その出会いは、心の中の異物的に存在する言葉への、晴天の霹靂的な気づきだと申し上げても良いでしょう。「この言葉は何!誰がこのような思いもしないことを言っているんだ?どうして私のことがぜーんぶわかってるんだ!」そんな感じです。逆に聖霊様が「自分とはまったく異なるものでない・・・違和感がない」なら、それはひょっとして聖霊様ではないのかも知れません。それはあなた自身の、単なる思いではないのか?と。それなら聖霊ではなく、自らの肉の思いかも知れません。
 

 どうすれば聖霊によって歩むことができるのでしょうか?私にもそうであったように、徹底的な悔い改めです。自分に何一つ善が無いことを知ることです。この点について私は妥協できません。肉なる自分のいっさいが空しく、ただ神のあわれみだけが私たちの希望なのです。よく信仰・信仰と言われますが、具体的には信仰とは神様と自分との間柄(関係)なのです。私は神様を何よりも愛しています。それは神様を知り、その愛がわかりました。そのすばらしい十字架の愛は、世の何ものを持っても代えることができないものです。ですから私は神様を信頼し、惜しみなく自分のすべてを捧げることに同意するのです。
 

 何事でもそうであるように信頼とは、実際によく知り、わかっていなければ無理です。聖霊のバプテスマに代表されるような実際の体験が不可欠です。英語のfaith=信仰とは信頼・誠実・忠実とも指す言葉です。個人的な関係なくしてその堅い信仰はあり得ません。この関係そのものが本日の「Walk in the Spirit」の意味であります。

2014年4月 6日 (日)

しるしと不思議と力あるわざ

Ⅱコリント 12章12節

 パウロが1年半もかけて伝道し確立したコリント教会を去ると、知的な賜物にすぐれ、イエスがメシヤであると論理的に説得できるアポロが来ました。ただしアポロは聖霊のバプテスマが伴わない不十分なものでした。最も影響力があって教会に混乱をもたらしたのは、「割礼を受けなければ救われない」と言うエルサレム教会の使徒による教えでした。
 大使徒と称されている人物はおそらくペテロ、またはそのような使徒のリーダー的な存在の人物だったのでしょう。コリントに実際に来た可能性もあります。割礼についてペテロは、日和見主義というか迎合的態度をとっており、パウロから叱責を受けたことすらありました。

 割礼に代表されるエルサレム教会の律法主義とは、神殿礼拝を中心とするユダヤ教の一派としてその枠内に留まる教えでした。つまり十字架によって律法から解放された新しいイスラエルの民を、再び律法のくびきの下に隷属させるものでした。これに対しパウロたちが厳しく対応するのは当然でしたが、逆に彼らにとってパウロの正当性、つまり使徒を自称し、ユダヤ教から逸脱した新宗教=キリスト教を宣教するパウロこそが、自分たちの了解を得ない偽使徒でした。こうして激しい教えの違い、その根拠として使徒としての証明をめぐる争いが起こっていたのです。コリント教会はパウロ派、アポロ派、割礼のエルサレム派に分裂していたのです。

 もともとコリント教会は土地柄でしょうか、信者間に不道徳や訴訟沙汰、聖霊の賜物において混乱がありました。これらを解決するための権威ある中心的な指導者が不在であったようです。「見事にこらえている」とパウロによって皮肉な言葉で評されたことにもそれはうかがわれます。異なる福音の持ち込みにも、見分けることなく、安易に受け入れたことの代償は大きかったのです。聖霊がわからない多くの信者は見分けがつかず、異なった福音に流れ、教会には大きな混乱が生じました。

 私たちのこの船橋はコリントとよく似た状況にあります。昔から有名な遊興の地であり、天皇杯の中央競馬場、地方競馬場、競輪競艇までそろっている所です。コリント教会はその多くが船橋に適用できるものです。指導者の権威の確立、異なる霊の見分け、聖霊の賜物の適切な運用が為されなければなりません。本日の聖書箇所、「しるしと不思議と力あるわざ」、つまり徹頭徹尾、聖霊の働きを土台としてこの教会は立って行かねばならないのです。

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